牛頭天王と兵主神、蚩尤と武器作り、天日槍

June 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image牛頭天王と兵主神、蚩尤と武器作り、天日槍

『史記』の封禅書にあった。その中で兵主神は、山東八神―天主・地主・兵主・陽主・陰主・月主・日主・四時主―の一つ…

Read the full story here


コメント

  •  弥勒菩薩について述べられた経典は、総称して「弥勒経」と呼ばれています。

    弥勒経は、 竺法護(じくほうご)訳の『弥勒下生経』、 鳩摩羅什(くまらじゅう)訳の『弥勒下生成仏経』、 義浄(ぎじょう)訳の『弥勒下生成仏経』、鳩摩羅什(くまらじゅう)訳の『弥勒大成仏経』、訳者不明の『弥勒来時経』、 沮渠京声(そきょきょうしょう)訳の『観弥勒菩薩兜率天経(かんみろくぼさつとそつてんきょう)という六経典の総称であり、これは弥勒六部経とも呼ばれています。ただし、浄土三部経に対抗して弥勒三部経というときには、『観弥勒菩薩兜率天経』、『弥勒下生仏経』、『弥勒大成仏経』のことをいいます。

    そこで、次にこの弥勒三部経とは、どのような経典なのかを簡単に追ってみることにします。  

    (一)弥勒三部経・観弥勒菩薩兜率天経とは
     

     三部経のうち、最も有名なのは『観弥勒菩薩兜率天経』とされています。この経では、釈迦が祇園精舎に滞在していたあるとき、初夜(夜を三分割したその初め)を突然金色の光が染め、その光明中にいる化仏(けぶつ:つくりだされた仏)の演説にその多くの弟子たちが集まってきます。

     その中に弥勒菩薩もいました。集会にいた阿羅漢(あらかん)のひとり優波離(ゆばり)が、「弥勒は成仏するといわれているが、まだ凡夫の身である。いったい彼は何処の国に生まれ変わるのか。」と釈迦に問うのです。すると釈迦は、「十二年後に命尽きると兜率天(とそつてん)に生まれ変わり、五十六億年もの間諸天を教化し、再び閻浮提(えんうだい:人間世界のこと)にその姿を現す。」と説きます。

     そして、聴衆に「仏教的な善行を積み、兜率天を観じることによって弥勒に会い、彼と共に下生して成仏の預言を受けるべきである。」と勧めるのです。これを聞いた聴衆は歓喜し、釈迦に拝礼したとされています。

       ちなみに、ここで登場する「兜率天」とは、一切衆生が、生まれ、また死んで往来する三界(欲界・色界・無色界)の内の欲界に属すとされ、その俗界は、四王天・忉利天(とうりてん)・夜摩天・兜率天・楽変化天・他化自在天という六俗天に分けられ、兜率天はその中の第四天とされています。

     さらに、この第四天には、内院と外院があり、内院は将来仏となるべき弥勒菩薩が住するとされ、外院は天衆(帝釈天などの天の諸神のこと)の住む所とされています。

       本来、天宮への昇天は十善を行なうことが不可欠であるようですが、「仏の形像を念じ、弥勒の名を唱えるだけでも往生することができ、九六億劫の生死の罪を越えることができる」というのが、この『観弥勒菩薩兜率天経』の教義であるといわれます。

     また、十善とは、十悪を犯さないことであり、具体的には、不殺生・不偸盗(ふちゅうとう:人のものを盗まぬこと)・不邪淫・不妄語・不両舌・不悪口(ふあくつ)・不綺語(ふきご:真実に反して言葉を飾りたてぬこと)・不貪欲(ふとんよく)・不瞋恚(ふしんに:自分の心に逆らうものを怒り恨まぬこと。)・不邪見、の事を示します。  

    (二)弥勒三部経・弥勒下生仏経とは
     

     この経は竺法護(じくほうご)と義浄(ぎじょう)によって伝えられたとされます。竺法護は、(二三一―三〇八頃)中国、西晋時代の僧であり、月氏の出身で西域諸国を巡遊して経典を収集し、般若(はんにゃ)思想の仏典を中心に漢訳した人物で、月氏菩薩、敦煌菩薩とも呼ばれているようです。

     一方、義浄(六三五―七一三)は、中国、唐代の僧で、斉州(山東省)の人であり、玄奘を慕ってインドに行き、帰国後「華厳経」などを漢訳し、三蔵の号を賜り「大唐西域求法高僧伝」「大唐南海寄帰内法伝」などを著したとされています。

       『弥勒下生仏経』では、釈迦の弟子大迦葉についての話しが中心となっています。兜率天に住した弥勒は、転生の地を翅頭(しとう)という美しい都市に定め、修梵摩(しょうぼんま)とその妻である梵摩越(ぼんまおつ)を両親と決めて下降し、その晩に成道します。

     そのころ、大迦葉(だいかしょう)は山中にて涅槃(ねはん)することなく、釈迦の命を受けて、禅定し続けた状態でこの山中の石窟(せっくつ)で弥勒を待ちつづけていました。

     やがて、弥勒は弟子たちを伴い、頭蛇行(あらゆる煩悩を払い去って仏道を求めること。)をつづける大迦葉と会うのです。このとき、弥勒が大迦葉の僧迦梨(そうぎゃり:僧の着る三種の衣のうち、最も大きな袈裟のこと)を取って自ら身にまとうと、大迦葉の身体は砕け散って消えてしまうという内容です。  
  • June 2016 編集されました
    最古の銅鐸群発見 (2015.05.21). 兵庫県の淡路島で、弥生時代中期(紀元前2世紀頃)の物と思われる銅鐸7個が発見された。

    謎に包まれた弥生時代の青銅器・銅鐸が、兵庫県南あわじ市で7個まとめて見つかりました。銅鐸の保存状態は極めて良く、調査に協力している奈良文化財研究所は「数十年に一度の第一級の発見」としています。毎日新聞が報じています。画像は南あわじ市で江戸時代に出土した銅鐸(出典:南あわじ市)。南あわじ市では他にも複数の銅鐸が出土しており、もともと「銅鐸の里」でもありました。

    銅鐸の一度の出土しては、

    ・加茂岩倉遺跡(島根県雲南市、1996年)39個
    ・大岩山(滋賀県野洲市、1881年と1962年)24個
    ・桜ケ丘(兵庫県神戸市灘区、1964年)14個

    今回の発見はこれらの「歴史的発見」に比肩するものとなりそうです。

    銅鐸は全くの謎です。祭祀で用いられていたのだろうと考えられていること、弥生時代前期から中期にかけては「聞く」ために、中期から後期にかけては「見る」ために制作されたと考えられていること。そして、「見る」銅鐸の出現と同時に、「聞く」銅鐸は埋められ、「見る」銅鐸も弥生時代の終焉、古墳時代の突入、つまり古墳の出現によって、これもまた一斉に埋められたようです。銅鏡とも微妙に交差しています。

    今回の銅鐸は「聞く」銅鐸。つまりかなり古い時期、もしかしたら最古級のものかもしれないとの指摘があるほど。舌(ばち)も一緒に出土しており、当時どのように銅鐸が叩かれたのか、分かる可能性がある、と言います。どのような音色が出、それを当時の人はどう聞き感じ取っていたのか、興味が尽きません。

    淡路島は『古事記』などの国生み神話で、日本列島の中で真っ先に生まれますが、それ以上に、というか、連動して認識されなければならないのが、古代日本においては、「ど真ん中」だった、ということ。これは人口数など国力を意味するものではなく、文字通り、国土の真ん中、神聖な場所、ととらえられて来たと思われます。
  • 淡路 島 に は 約 2 万 3 千 ヵ 所 の た め 池 が あ りま す 。
    こ れ は 、全 国 に あ る 約 2 0 万 ヵ 所 の 1 割 、兵 庫 県 に あ る 約 3 万 8 千ヵ所の6割を占めています。
    ま た 、た め 池 の 密 度( 1 k m² 当 た り の た め 池 数 )は 3 8 ヵ 所 で 、 全国で最も密集した地域となっています
  • 淡路島の北部(北淡インター近く)の山中で、国内最古級の鍛冶工房跡が見つかった。垣内(かいと)遺跡と呼ばれ、ここでは、鏃(やじり)やその未完成品、鉄片など計75点、砥石(といし)などの製作道具がまとまって出土し、生産の様子を復元できるとのこと。

    遺跡は標高約200メートルの丘陵にあり、約1・8ヘクタール。2007年度からの調査で見つかった竪穴建物跡計17棟のうち、10棟が工房跡と判明。うち直径10メートル前後の大型の建物も3棟ある。材料として使われた可能性がある大型鉄板(縦約5センチ、横約20センチ、厚さ3センチ)も見つかった。

    弥生時代後期(1世紀~3世紀初め)に淡路島で10棟の鉄工房が営まれていた。その工房は170年間稼動し、畿内・中国地方へ鉄を供給していたものと思われる。しかし古墳時代に入る3世紀前半には工房の役割りを終えている。

    九州の鉄は有名であるが、国内最大級の鉄の遺跡が、これほど大和に近い海上交通の要衝で見つかったことは画期的でしょう。弥生時代後期(100-220年ごろ)の鉄器工房であり、卑弥呼の時代以前に、鉄で大量の鏃(矢じり)を生産したことになる。

    淡路島は古代史を解く鍵になる地域である。

    1.神話の国生みで、何故か最初に作られた島である。

    2.遺跡の近くに伊弉諾神宮がある。

    3.神武天皇の東征に水先案内として功のあった国津神の槁根津彦(ウズ日子)が初代の倭直。珍彦は速吸之門の曲浦で神武を待ちうけた国神である。海筋の案内人として“乃特賜名、為椎根津彦。此即倭直部始祖也”と神武紀其年十月条に載る。4.北淡路の御井(おい)の清水は、古事記にも登場する名水で、仁徳天皇が「朝夕、淡路島の寒水を汲みて大御水奉りき」記されている、天皇の御料水として運ばれた『淡路の寒泉』。

    そして、淡路には、古代に多くの天皇が、狩りに立ち寄っている。

    『日本書紀』応神紀 「妃の皇后の妹の弟姫は、阿部皇女・淡路御原皇女・紀之莵野皇女・を生んだ。 秋、九月六日、天皇は淡路島に狩りをされた。この島は難波の西にあり、巖や岸が入りまじり、陵や谷が続いている。芳草が盛んに茂り、水は勢よく流れている。大鹿・鳧・雁など沢山いる。それで天皇は度々遊びにおいでになった」とある。

    また淡道国造は、国造本紀(先代旧事本紀)によると仁徳天皇の時代に神魂命(かみむすびのみこと、神皇産霊命)の9世孫である矢口足尼(矢口宿禰)を国造に定めたことに始まるとされる。
  • June 2016 編集されました
    磐梨別と和気清麻呂

    和気清麻呂(磐梨別乎麻呂の子)は、交通安全の神・学問の神・建築の神として信仰されています。和気清麻呂を祀る護王神社(京都市上京区烏丸通下長者町下ル桜鶴円町)では、神使として一対の猪像が拝殿の前にあります。1899年発行の拾圓札の表には和気清麻呂像と護王神社、裏にはこの神社の猪の像が印刷されています。
     和気神社(岡山県和気郡和気町藤野1130)の随神門にも一対の猪像がありますが、これは新しいものです。
     足立山妙見宮(福岡県北九州市小倉北区妙見町17-1、足の神様、足が立つ→足立山)の参道にも一対の猪像があります。清麻呂が宇佐神宮の神告にしたがって、石川村(北九州市小倉区足立山の麓の湯川町)の霊泉に入ると傷ついた足は数日で治りました。清麻呂は足立山へ登り、造化三神(北辰尊妙見菩薩)に皇統安泰を祈ります。
     この後、宇佐神宮への勅使を宇佐使(うさづかい)または和気使(わけづかい)といい、和気氏が派遣されるのが常となりました。清麻呂公は宇佐神宮末社護皇(ごおう)神社に祀られています。
     和気朝臣の元の氏姓は磐梨別公(いわなしわけのきみ)です。足立山妙見宮の宮司さんは磐梨文孝氏ですが、和気清麻呂の子孫だと推測します。神社にメールで問い合わせましたところ、磐梨宮司様からご返事をいただきました。私の推測通りご子孫でした。和気清麻呂公の四男・磐梨為綱(妙運)を初代として、代々ご奉仕されているそうです。今の宮司さんで磐梨為綱から41代目だそうです。
     岡山県赤磐市熊山町のあたりが備前国磐梨郡で、磐梨別公はここの出自ではないでしょうか。赤磐市は赤坂郡と磐梨郡を合わせた新しい地名で、現在岡山には磐梨姓はなく、北九州市に脈々と受け継がれています。
  • June 2016 編集されました
    櫛梨神社
    満濃池を源流とする金倉川は金毘羅宮のある象頭山の東側を通り備讃瀬戸へと流れ込んでいる
    讃岐の名山飯野山と象頭山を直線で結んだほぼ直線上
    金倉川東岸に標高158mの如意山(与北山)があり
    その南麓に讃岐開闢の祖といわれる神櫛王を祭神とする櫛梨神社がある
    社は古来山頂にあったといわれているが火災により南麓に移された
    延喜神名式讃岐國那珂郡小櫛梨神社とあり讃岐に二十四社ある式内社の一社である
    社伝によれば
    「景行天皇の二十三年、神櫛皇子、勅を受けて大魚を討たむとして讃岐国に来り
    御船ほを櫛梨山に泊し給い、祓戸神を祀り、船磐大明神という
    船磐の地名は今も尚残り、舟形の大岩あり、付近の稍西、
    此ノ山麓に船の苫を干したる苫干場、櫂屋敷、船頭屋敷の地名も今に残れり
    悪魚征討後、城山に城を築きて留り給い、当国の国造に任ぜられる
    仲哀天皇の八年九月十五日、御年百二十歳にて薨じ給う
    国人、その遺命を奉じ、櫛梨山に葬り、廟を建てて奉斎し、皇宮大明神という
    社殿は壮麗、境内は三十六町の社領
    御旅所は仲南町塩入八町谷七曲(直線距離およそ15km)に在り」
    とある

    櫛梨。
    ツミハとタマクシ姫の第2子。 
    斎名:ナカヒコ。クシミカタマの弟。
      香川県仲多度郡琴平町下櫛梨、櫛梨 (クシナシ) 神社
      

    ★琴平町には上櫛梨・下櫛梨と言う地名まで残っています。更に、こんぴら参りの歌に「讃州那珂の郡」とあるように江戸時代までは金刀比羅宮は那珂郡に位置しており、これも「ナカヒコ」と言う名に関係していると思います。また徳島県の島津彦神社を祀る「長氏」がツミハヤヱ事代主の子孫と言われているのも同じくナカヒコと深く関係していると思われます。
    ■この人に関してこれといった事蹟は書かれていないのだが、臣の身分で斎名が記載されているということは相当な重要人物だったことを物語る。父のツミハ(コトシロヌシ)ですら、斎名は記載されていない。クシナシもオホナムチに現れた先神霊・奇厳業霊が顕現した人ということだろうか。
  • June 2016 編集されました
    播磨
    五十狭芹彦命。
    フルネームはヤマトヰサセリヒコ。「ヤマト」は母の名から。
    オオヤマトフトニ(7代孝霊天皇) と 内侍ヤマトクニカ姫の生んだ三つ子のひとり。 
    孝霊53年、情勢不穏になった西国安定のため、斎部主の添えとしてチノクチと播磨のヒカワに派遣される。 
    ミマキイリヒコ(10代崇神天皇) の頃、タケハニヤスが謀反を起こし、ハニヤスの妻アダ姫が大坂から攻め上るを、討ち破る。

    神武の頃から俄に斎瓮を神に奉って祈願する、あるいは斎瓮の水で禊する、という事が行われるようになる。考えてみるとそれ以前には陶器に関する記述は見られない。神武の頃から興隆したと考えるべきか。
  • June 2016 編集されました
    阿多根命。阿多振命。 
    カンミムスビの孫であるアメマヒ (アマメヒトツ) の曾孫。 
    神武東征中、丹生川端に別雷山の御祖神 (ニニキネ) を写して、これを三日間祭り(奈良県宇陀郡榛原町大字高井字神定、伊豆神社)、その後に敵を討伐する。 
    神武の即位式では、月の使い(月の臣)として、ヤタ鏡をタネコ(鏡臣)に渡す役を務める。 
    大和平定の功で、山城の賀茂の県主になる。 
    タケヒトは御祖神 (ニニキネとウガヤ) を大和でも祭るため、アメトミをして賀茂の社を、ハリハラ(榛原)の鳥見山に写させる。同時にアタネを山背の国造にして、カモタケズミの政を継がせた。

    アメトミ 天富命 (斎瓮臣)。 
    フトダマの孫。 
    キサ姫 (綏靖天皇の下后) の父。 
    タケヒトの命によりカシハラ宮を完成させる。 
    神武の即位式では、星の使い(星の臣)として、八重垣剣をクシミカタマ(剣臣)に渡す役を務める。 
    タケヒトは、御祖神 (ウガヤとタマヨリ姫) を大和でも祭るため、アメトミをして賀茂の社を、ハリハラ(榛原)のトリミ山に写させた。


    道臣命。 
    大来目主ともいうらしい。神武東征に従軍。
    ヤタ烏を導きに皇軍を率いてウカチ村に達する。
    兄ウカシを責め殺す。
    神武の夢の告げにより、笠を持つ老翁に扮して、弟ウカシと共にに香具山の土を採ってくる。
    丹生川端にアサヒ原を写し、アマテルとトヨケを祀る際の斎主となる。
    神武の即位式では、日の使い(日の臣)として、璽の御筥をタケヒトに渡す役を務める。

    天目一箇神は『播磨国風土記』の託賀郡(多可郡)の条に天目一命の名で登場する。土地の女神・道主日女命(みちぬしひめのみこと)が父のわからない子を産んだが、子に盟酒(うけいざけ)をつぐ相手を諸神から選ばせたところ、天目一命についだことから天目一命が子の父であるとわかったというもので、この神話は農耕民と製銅者集団の融合を表していると考えられている。天目一箇神を祀る天目一神社(兵庫県西脇市大木町(旧多可郡日野村大木)現在のものは再興)では製鉄の神として信仰されていた。

    西脇市 最古の古墳
    岡ノ山古墳****子午線、東経135度、北緯35度が交差する地点「日本のへそ公園」の背後、独立丘陵上にある古墳。公園敷地内には、岡之山美術館、レストラン、子供遊園地、さらには整備された滝ノ上古墳群を見学することが出来る等、西脇市を代表するレジャー施設となっている。古墳に至る登山道も整備され、平日でも観光客でにぎわっている状況。この古墳は岡ノ山の山頂に築かれた西脇市唯一の前方後円墳(昭和60年現在)。築造当初の整美な姿を残す柄鏡式前方後円墳で、墳丘上の一部では葺石が確認され、さらには検証の結果、内部構造は竪穴式石室であることが判明している。全長51.6m、後円部径、35.5m、高さ7.7m、前方部幅12.9m、高さ3.7m。この古墳は4世紀代に築造されたものと推定され、加古川上流域、最古最大の前方後円墳。昭和62年に兵庫県の指定史跡となっている。播磨国風土記、託賀郡(現西脇市、多可郡)の条をみると、播磨刀賣と丹波刀賣の国堺い争いの話が綴られているが、岡ノ山古墳の規模及び立地条件等を考慮に入れれば、丹波市奥丸山古墳に象徴される勢力との国堺紛争の話の様にも思われ、興味深い。
  • ★『書紀』日臣命(ヒノオミ) が宇陀の穿村まで軍を導いた功により「道臣」の名を賜った。
      

    『老翁が穿つ あすか道 軍 率き行く ミチヲミが 峰 越え ウタの ウカチ村』29文
    『故にミチヲミ 探すれば 仇なす言を お猛びて "汝が造る 屋に居れ"と 剣よ弓と 攻められて 辞む処方なき 陽陰の潰 己が転に 罷るなり』29文
    『斎瓮を作り 丹生川の ウタに写せる アサヒハラ アマテル・トヨケ 二祭は ミチオミぞ』29文
    『ミチヲミが撃つ オシサカと ウツヒコが撃つ オンナ坂 兄シギの逃げる クロ坂に 挟みて撃てば』29文
    『"日の神使 ミチヲミと 月の使は アタネなり 星の使は アメトミ" と 斎瓮 賜わり 禊 なす』30文
    『君 高御座 褥 九重 アマノタネコは 褥 三重 クシミカタマは 褥 二重 日の臣 歌ふ 都鳥 三重 下りて聞く』30文
    『日の臣は 璽の御筥  奉る アタネは鏡 アメトミは 八重垣 持ちて アメタネコ クシミカタマに 授くなり』30文
    『十一月に 天ユキ・地スキの 宮 造り 元明 天地の 神祭 タネコ・クシタマ 左右にあり 御食供え 祭り 申す臣 ウマシ モノベと 門を守る ミチヲミ クメと 御垣守 神祝詞は 斎瓮臣』30文
    『思えば忠は ウマシマチ  代々 モノベ 継げ ミチヲミは 望みのままに ツキサカと クメの所を 賜うなり』30文
  • June 2016 編集されました
    播磨のヒカワ。 
    このヒカワは「卑郷 (穢れた区画)」の意か。
    孝霊天皇の時、西国の情勢が不穏となった為、インベ主とヤマトヰサセリヒコを、チノクチと播磨ヒカワに派遣して服わす。

    ■日岡・氷丘なる地名は「ひかわ」の名残か。
    ★『古事記』大吉備津彦命と稚武吉備津彦命とは、二柱相副ひて、針間の氷河(ひかわ) の前(さき) に忌瓮(いわいべ) を居ゑて、針間を道の口として、吉備国を言向け和したまひき。

    兵庫県加古川市加古川町大野、日岡 (ヒオカ) 神社
      
  • 日岡陵古墳
    加古川市中部、加古川に面した日岡山山頂に位置する。日岡山には、日岡陵古墳・西大塚古墳・南大塚古墳・北大塚古墳・勅使塚古墳など前方後円墳5基・円墳3基があり、これらで日岡山古墳群(日岡古墳群)を形成する。この日岡山古墳群は、北東にある西条古墳群とともに兵庫県南部において最大の古墳群になる。本古墳に関しては、1928年(昭和3年)の旧宮内省による実測図が残るほ]、2011年(平成23年)には宮内庁書陵部により墳丘測量調査が実施されている。

    墳形は前方部を南西方に向けた前方後円形で、ほぼ完全に遺存する]。ただし、元々は円墳であって明治の修陵により前方後円形に改められたとする説、およびその一方で改変は受けていないとする説が挙げられていたが、2011年(平成23年)の測量調査によれば当初より前方後円墳としての築造と見られる。段築の有無は不明(無段または幅の狭いテラス面か)。墳丘上からは葺石・埴輪片・土師器片が採集されている]。

    この日岡陵古墳の築造年代は古墳時代前期の4世紀代と推定され、日岡山古墳群のうちでは最古とされる。被葬者は考古学的には明らかでないが、『播磨国風土記』では景行天皇妃の印南別嬢(いなみのわきいらつめ)の「褶墓(ひれはか)」に関する伝承が見えることから、現在では宮内庁により同天皇皇后の播磨稲日大郎姫命の陵に治定されている。日岡山古墳群の前方後円墳はいずれも加古川左岸の平野の方向に前方部を向けることから、その平野を支配した首長の墓と推定されている]。また古墳群からは他地域と同笵の三角縁神獣鏡の出土も知られ、畿内のヤマト王権勢力との密接な関係が指摘される。
  • June 2016 編集されました
    播磨の前期古墳―揖保川流域
    三角縁神獣鏡は魏から卑弥呼に与えられた鏡とも言われる。これを副葬した古墳は箸墓古墳。三世紀中頃の原初の前方後円墳の発生期である。
    三角縁神獣鏡が古墳から出土した数は、兵庫県が45面で全国第3位、全国計が約400面であるところ1割超を占める(第1位は奈良県74面、第2位は京都府55面。平成13年3月末時点の文化庁統計によるとされるが未確認)。

    播磨4河川のうち、揖保川と加古川の流域で多くの前期古墳が築かれた。本項では揖保川流域に点在するものを取り上げる。
    揖保川下流域の右岸にある養久古墳群に「養久山1号墳」(たつの市揖保川町養久)がある。養久山の最頂部(標高99.5m)から南に下った尾根筋(標高94.5m/比高83m)にあり、揖保川の沖積平野を一望する。墳長31.65m/後円部径18mを測る前方後円墳で、2段築成、葺石あり。墳形は箸墓とほぼ同形とされ、3世紀中ごろの築造であろう。小形四獣鏡を出土した。
    同じ下流域で、揖保川を挟んだ左岸には「丁瓢塚(よろひさごづか)古墳」(姫路市勝原区丁)が対峙する。海から3.5kmほど内陸へ入った平野部に立地するが、埋め立てのない築造時はもっと海に近かった。墳長104m/後円部径54.5mを測る大型の前方後円墳で、後円部3段・前方部2段の築成と推定され、葺石・埴輪を備える。古式の土師器や壺型土器が採取され、墳形が箸墓の3分の1の相似形という。埋葬部が未調査なので、箸墓とどちらが先に築造されたかは不明。
    なお丁瓢塚の東方に聳える、丁(よろ)山、京見山、山戸裏山が連なる山塊に90基余りの古墳があった。5世紀半ばから7世紀半ばにかけて造られたもので「丁古墳群」と総称されるが、多くが失われ、丁瓢塚に近い「丁古墳公園」に5基が保存されている。

     揖保川を河口から20kmほどさかのぼると、中流域の右岸に「吉島(よしま)古墳」(たつの市新宮町吉島)がある。南北に細長い新宮盆地の北端にあって、川に張り出す急峻な松山の山頂近く(標高250m)にある。墳長30m/後円部径16mを測る前方後円墳で、葺石・埴輪なし。(舶載)三角縁神獣鏡3面と内行花文鏡・龍虎獣帯鏡・波紋帯龍虎鏡の各1面を合わせ、銅鏡6面を出土した。三角縁神獣鏡が多量に副葬されていた「黒塚古墳」(奈良盆地・32面を出土)や「椿井大塚古墳」(京都府木津川市・33面を出土)などと同氾のものがあるので、畿内王権と密接な関わりを有した首長の墳墓であろう。3世紀末の築造と推定される。

     新宮盆地から揖保川に沿って15kmほど下ると、右岸に御津(みつ)山系の東端にあたる権現山(標高138m/比高133m)がある。
    山頂にある「権現山51号墳」(たつの市御津町中島)は眼下に揖保川を望み、樹木に遮られなければ瀬戸内海を観望する。
    墳長42.7m/後方部辺28mを測る前方後方墳で、後方部には貼り石状に葺石があった。主丘の墳形が異なるものの、箸墓の5分の1規模といい、(舶載)三角縁神獣鏡5面、鉄剣、鉄鏃などを出土した。吉備で生まれた特殊器台・特殊壺が埴輪に発達する途中段階の特殊器台型埴輪・特殊壺型埴輪が検出され、吉備系の土師質土器も出たことから、畿内と吉備の双方に密接な関係をもった被葬者の墳墓であろう。4世紀前半の築造と推定される。
  • June 2016 編集されました
    播磨風土記
    応神天皇の頃、「御蔭大神(みかげ)」という神が神尾山にいたそうです。この神は出雲の国の人で、ここを通り過ぎる者があると十人のうち五人を捕まえ、またそのうち三人を殺していました。
    そこで困った伯耆の小保弖(こほて)、因幡の布久漏(ふくろ)、出雲の都伎也(つきや)はそれを朝廷に訴え出ると額田部連久等々(ぬかたべのむらじくとと)が派遣され、佐比(さひ)を作って納めたり屋形や酒屋を造っては酒宴を催しましたがなかなか鎮まりません。そこで油断したすきに林田川を下って神尾山を襲い、鎮圧してしまったです。後でやって来た女神は、男神を立ち去らせたことを怨み、怒りました。
    <佐比とは鋤(すき)のこと>

    その後、河内国茨田郡の枚方里(大阪府枚方市)の漢人がこれを敬い祀ったので、ようやくそれらの恨みを鎮めることができ、仁徳天皇の頃には、この地である枚方里(太子町)を筑紫の人が開墾したと伝わっています。
    そこで酒屋をつくったところを佐々山(ささ)、神尾山の神を鎮めるときに鋤を作ったところが佐比岡(今の佐用岡)と呼んだそうです。
    (「播磨国風土記」より)

    揖保川の東にはその支流として雪彦山を源流とする林田川が流れている。
    その川の畔には「神功皇后」と「応神天皇」さらに「息長日子王(おきながひこのみこ)」を祀阿宗神社(あそう)があり、そこから東方へ目をやると、150mほどの小高い山が目に入る。地図では笹山(ささ)と書かれているが、南に広がる太子町の人々はその山を明神山(みょうじん)と呼び、その周辺を応神天皇の名「誉田別(ほむだわけ)」から由来したのか誉田町(ほんだ)福田というようだ。

コメントするにはサインインまたは登録して下さい。