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武貝児王、武養蚕王 武殻王は、鵜足郡井上郷玉井村(現在の綾歌郡飯山町下法軍寺)の讃留霊王神社に讃留王大明神とし…
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コメント
讃岐国鵜足郡に讃留霊王と言う祠あり。
それは彼の国に讃留霊記と言ふ古き書ありて、記せるは、
景行二十三年、南海の悪しき魚の大なるが住みて、往来の船を悩ましけるを、倭建命の御子、此の国に下り来て、討ち平らげ賜ひて、やがて留まりて国主となり賜へる故に、讃留霊王と申し奉る。
それを綾氏和気氏等の祖なりと云ことを記したり。
或いは此を景行天皇の御子神櫛王なりとも、又は大碓命なりとも云ひ伝へたり。
讃岐の国主の始めは倭建命の御子、武卵王の由、古書に見えたれば、武卵王にてもあらむか。
今とても国内に変事あらむとては、此の讃留霊王の祠、必ず鳴動するなりと、近きころ、彼の国の事ども記せる物に云へり。
今思ふに、讃岐の国造の始めならば、神櫛王なるべし。
然れども倭建命の御子と云、又綾君和気君の祖と云るは武卵王と聞ゆるなり。
さてさるれいと云は、いかなる由の称にかあらむ。讃留霊と書くは、後人の当てたる文字なるべし。
「讃留霊王」の「讃留」とは「讃岐」に「留まった」という意味だが、「霊王」の「霊」についても分からないといいます。
しかし、讃留霊記ほか、関連古書を見ると、15歳の武殻王を「霊子」と記してあり、幼名であったのかもしれません。
讃岐公 右京皇別 大足彦忍代別天皇(景行)の皇子 五十香足彦(亦の名、神櫛別命)の後なり。
酒部公 右京皇別 同皇子(五十香足彦) 三世孫の足彦大兄王(タラシヒコオオエ)の後なり。
酒部公 和泉国皇別 讃岐公と同祖、神櫛別命の後なり。
奈良県北葛城郡広陵町大塚667
祭神
天兒屋根命 配祀 天照皇大神、品陀和氣命
由緒 広瀬郡の式内社の於神社に比定されている。
川合の広瀬神社の摂社の水分神社を式内於神社とする説もある。
讃岐国苅田郡には於神社、同じく鵜足郡には宇閇神社(ウヘ)が鎮座、ここ広瀬郡には讃岐神社が鎮座、葛城の地域と讃岐、どのような関係があったのだろうか。
讃岐については、他に御歳神社の神封、また大和の寺院の寺封も讃岐にある。小治田寺、橘寺、薬師寺など。
讃岐の酒部
宇閇神社(丸亀市・旧綾歌町)
宇閇神社は、延喜式内24社の一つと言われている神社。
鳥居の横に「宇閇神社古墳」があることから、古い神社ということは想像できる。
道路側からぐるりと回り込むように、参道を進み、少し薄暗い鳥居をくぐり境内へ。お参りをすませた後、境内端にある公園のような場所で昼食。
由緒を読むと、西側の敷地を役所に売却したようで、社叢は今よりもっと大きかったようだ。
丸亀市からまんのう町にかけて、酒部黒麿の伝説を伝える神社は、多い。
酒部黒麿は、讃岐國の始祖神櫛王の末裔。酒造りが上手で「酒部」の姓を名のることを許された。
宇閇神社建築神苑整備記念碑より写す
祭神は鵜羽葺不合命。由緒は日本武尊の子武殻王の六代目にあたる酒部益甲黒丸の創祀と伝えられ延喜神名式に列している。神域に泉がなく栗の大樹があった。
ある朝鵜のむれが栗の下をほると清水がわき出た。夜は星影が水に映って王の井と言われた。
鵜足郡・栗隈・隈玉の名もあり。その後幾星霜鎮守の神として祭られた。
平成二年綾歌町が西谷・定連線改良のため神社用地一五九〇平方米を町に売却した。
豊川市小坂井町宮脇2
菟上足尼命(うなかみすくねのみこと)が祀られています。
稲の豊作を願った「田まつり」、風に対する信仰を寄せた「風まつり」が行われます。
風まつりの際に販売される「風車」は郷土玩具として多くの人が買い求めに来ます。また、弁慶の書と伝えられている「大般若経」585巻は国の重要文化財に,梵鐘(ぼんしょう)は県の有形文化財に指定されています。
郡域
1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、現在の行政区画では概ね以下の区域に相当する。
丸亀市(土居町、土器町、飯野町各町、飯山町各町、綾歌町各町)
坂出市(川津町)
綾歌郡宇多津町(吉田地区除く)
仲多度郡まんのう町(川東を除く長尾、炭所東、造田以東)
丸亀市土居町は後に那珂郡に編入されている。また、まんのう町川東は後に当郡に編入されている。
古代の郷
最初は津野郷・二村郷・川津郷・坂本郷・小川郷・井上郷・栗隈郷・長尾郷から構成されていたが、井上郷から岡田の4村が分離して岡田郷が成立した。各郷は以下の村々で構成された。
津野郷 – 宇多津・東分・土器・土居
二村郷 – 東二(ひがしふた)・西二(にしふた)・西分
川津郷 – 川津
坂本郷 – 東坂元・西坂元・眞時・川原
小川郷 – 東小川・西小川
井上郷 – 上法軍寺(かみほうくんじ)・下法軍寺(しもほうくんじ)
岡田郷 – 岡田上・岡田下・岡田東・岡田西
栗隈郷 – 栗熊東・栗熊西・富熊
長尾郷 – 長尾・炭所東・炭所西・造田・中通・勝浦(川東は阿野郡山田郷に属す)
式内社
『延喜式』神名帳に記される郡内の式内社。
五代将軍綱吉の時代の元禄7年(1694)、丸亀藩二代目藩主の京極高豊のとき、その子の高通が1万石を与えられて分家したことにより多度津藩が成立します。その所領は、多度郡のうち、多度津郷(多度津・道福寺村)、庄村郷(庄村・三井村・堀江村・東白方村・青木村)、山階郷(山階村)、白方郷(奥白方村・西白方村)、鴨郷(南鴨村・北鴨村・新町村・葛原村)、吉原郷吉原村のうち(碑殿村)の15ヵ村と、三野郡のうち、大見郷(大見村・松崎村)、高瀬郷下高瀬村のうち(原村)、神田郷(神田村)財田郷(上之村)の5ヵ村の多度津町全域及び善通寺市と三豊市(三野・詫間・高瀬・財田)のそれぞれ一部です。それは、現在の多度津町と善通寺市の一部及び財田、三野、高瀬、詫間町の一部にあたります。
皇室では当時、宮に付属して「斎宮(いつきのみや)」を建てて神祇を祭るのだが、これが「忌宮(いみのみや)」の起こりである。
忌宮神社の南面の「壇ノ城」という所では神功皇后が三韓攻撃に際し、ここに祭壇を設け祭具を整え、忌籠り(いみごもり)して、ひたすら天神地祇の神助を祈願した。その祭壇と祭具を流した所を「壇具川」という。
奉射祭(ぶしゃさい)1月16日
朝鮮半島の塵輪が熊襲を扇動し、しばしば皇宮の付近を侵そうとしたので、仲哀天皇は筑紫の高麻呂、助麻呂という弓に秀でた兄弟を召して宮門の左右を守らせた。
塵輪は雲に乗って筑紫から長門に至り、衆賊を促して豊浦の海や陸を囲み、
空中から高麻呂、助麻呂を射殺したので、天皇はみずから弓矢を執って塵輪を射倒した。
奉射祭の「的」は塵輪の首を埋めた「鬼石」のそばに東に向けて置かれる。
「弓」は榊で作られて四王司山から刈り出す。
(四王司山は仲哀天皇2年に豊浦宮の守護神を祀った所。
筑紫にも四王寺山という重要な山がある…。)
「矢竹」は美祢市西厚保町の神功皇后神社の神苑より採る。
矢竹のまっすぐなものはほとんどない。試しに射ることなく神事に臨む。
「鋒」は昔は神功皇后の御神号を記した旗を付けていたが、今は紙垂(しで)を付ける。
この神事は秘められていたが、昭和56年から復元された。石見神楽の系統の友信神楽には「塵輪」という演目が伝わっている。
蚕種(さんしゅ)祭
仁和3年7月、采女(うねめ)時原宿禰春風が言った。
「先祖は秦の始皇帝11世の孫、功徳王(功満王-こまおう)です。
仲哀天皇4年に帰化入朝し、珍宝蚕種などを献上しました。」
(「三代実録」巻53)
豊浦宮にて蚕が献上された。ここがシルク・ロードの東の入口である。
創建は古く、紀元前より多郡津之郷に鎮座し、宇夫志奈大神と称え祀られていた。古くは宇多津はもとより土器・川津・飯野・坂元と相当広範囲にわたる産土神だったと伝わる。
日本武尊の御子である武皷王が阿野郡(現 綾歌郡)の国造となり、内海を舟で巡視している途中で暴風雨に遭い、宇夫志奈大神に祈念すると、小烏が飛来して風波をしのいだ。そのため、小烏大神とも。
武皷王の伝承は、東かがわ市の白鳥神社、三豊市高瀬町の大水上神社など、関連の伝承は丸亀市綾歌町栗熊西の宇閇神社、塩飽諸島本島の木烏神社などにも残る。
高天彦社の岡本家家系図では、賀茂氏と葛城氏が同族関係にあったと述べました。
賀茂氏や葛城氏そして尾張氏の祖先達は、この葛城の地に同居していたのです。
【鴨県主系図】「諸系譜」第十五冊より
この「鴨県主系図」は、国立国会図書館に所蔵されている「諸系譜」に収められており、古代賀茂氏を考察できる数少ない資料となっています。
そして、この系図では「玉依毘古命」から始まっています。
この系図では、玉依毘古から十一代を経て、「賀茂神官賀茂氏系図」及び「河合神職鴨県主系図」の冒頭の人物である「大伊乃伎命」に接続しています。
「賀茂神官賀茂氏系図」「続群書類従」より
そして注目すべきは、玉依毘古の子「五十手美命」の兄弟に「剣根命」と書かれていることです。
この剣根命とは、初代葛城国造に任じられた人物であり、葛城氏の始祖とされています。
つまり先祖を遡れば、賀茂氏と葛城氏とは兄弟の間柄だったのです。
ところで、剣根命の子孫には「難波田使首」となった一族がいます。
六代孝安(コウアン)天皇の御代、権力の座にあった高尾張奥津余曾(オキツヨ
ソ)の末裔である葛城垂水宿禰も娘の鷲媛を帝の妃に上げ権力の座を虎視眈々と
窺っていた。鷲媛は垂水宿禰の期待に応え建豊波豆羅和気(タケトヨハズラワケ)を
生み、垂水宿禰は皇子の成長を待ち望んでいた。
垂水宿禰も和邇臣と同様に帝が太子を定めず時が過ぎる事を願っていた。
垂水宿禰も和邇臣に負けず劣らず物部を倒す事に執念を燃やし時が至れば一族を
挙げて物部に対抗する考えを持っていた。
ー
葛城玉田宿禰の滅亡
このように、丹後地方とつながりを持つ伝承が残されているのは、葛城氏がある程度は
実際に他の地方勢力とつながりを有していたと見てもよいでしょう。
前回に登場した葛城の垂水宿禰ですが、門脇禎二(『葛城と古代国家』)は、垂水宿禰を伝承上の人物であろう、としながらも、名前の垂水を兵庫県の垂水(神戸市垂水区)のことだと考察しています。
「つまり、葛城から河内へ出て和泉の茅渟から海路で垂水に上がり、ふたたび陸路で
加古川沿いを氷上に出て丹波から丹後へとつながるルートである」
(門脇禎二『葛城と古代国家』より抜粋)
葛城の勢力が、大和の中にありながら、大和政権に対抗するほどの力を誇っていた、と考える研究者も少なくはありません。
前出の門脇禎二も、後に大和国に、倭国造と葛城国造が置かれたことから、倭国と葛城国があった、としますが、一国内に2人以上の国造が置かれた例は他にも存在しますので、それだけで葛城の独立性を認めることはできないでしょう。
鳥越憲三郎は代表的な著作『神々と天皇の間』などで葛城王朝の存在を主張します。
この説によれば、いわゆる欠史八代(2代綏靖天王から9代開化天皇までの8人の天皇)の中に、葛城に宮を置いた天皇が数名いることから、三輪王朝と葛城王朝の2つの王朝が並立したが崇神天皇によって葛城王朝は滅ぼされた、となります。
「海神社」は、海直(あまのあたい)の氏神にあたることから「アマ」とも呼ばれます。「海神社」の起こりは、神話の時代にさかのぼります。神功皇后が三韓征伐からの帰り道に、嵐で動けなくなりました。綿津見三神を祀ると嵐がおさまりました。その後、綿津見三神を祀る社を建てたのが「海神社」といわれています。
「海神社」は「日本書紀」には現れませんが、大同元年(806年)に書かれた「新抄格勅符抄」に播磨明石垂水神として登場します。「延喜式神名帳」には、播磨国明石郡 海神社三座として書かれています。須磨は海上交通の要所であり、古くから海での安全にご利益のある神様として大切にされてきました。