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小野神社は、滋賀県大津市小野にある神社である。祭神は米餅搗大使主命であり、日本の餅作りの祖と言われていることか…
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小野氏 はこの秦氏の調整のため、叡山の山麓・小野の里に追われた。叡山・日枝の使い番の「猿」は猿女の君 の末裔・小野をあらわし、この地に「赤山禅院」を造ったのも秦氏ではなく小野の一族であったろうと推測 される(日枝の使い番の「猿」は丑寅と正反対の方角にあたる未申に関係あるともいわれている)。
天下が徳川の手に落ちたことを確認するようにして家康はこの世を去った。神号東照大権現は奇妙な 埋葬のされ方をする。まず久能山に立ったままで埋葬、一年後これは掘り返され今度は日光に埋葬され る。この日光、もとは補陀落山という。「ふだらく」がなまり二荒山(ふたらさん)と呼ばれていたが、天海は 「荒れる」という文字を嫌い、この二荒山を音読みして「にこう」、さらに嘉字を用いて「日光」としたらしい。 そしてこの地に東照宮を建て、関八州の鎮護としようとしたのだがまたしても社が邪魔をしていた。この 社の名は「宇都宮大権現」。この世にあったときの名を小野猿麻呂という。
ある日、男体山の神と赤城山の神がそれぞれ蛇とムカデの姿となって争っていた。この勝負は男体山 の神に分が悪く、どうしても勝てないので、鹿島の神に相談をすると、「腕のいい小野猿丸という猟師を頼 むとよい」と教えられる。男体山の神は猿丸に助勢を頼むとこれを快く引き受けてくれた。再び二柱が争 ったが、やはり蛇が負けそうになる。そこへ猿丸が現れムカデの目を射てこれを退けた。実は猿丸は男 体山の神の孫であり、ムカデを「撃った」ので後に「宇都宮大権現」となった。
小野氏は、和邇氏の後裔である。式内社・和尓下神社に比定されている古社。通称、上治道天皇社。大和郡山にも同名神社があり、そちらは下治道天皇社。
この故郷の奉斎する神社を移し、下春神、上春神としたのではなかろうか。私の説である。
近江 毛野(おうみ の けぬ、生年不詳 – 継体天皇24年(530年))は、継体天皇朝の豪族、将軍。姓(カバネ)は臣(おみ)。日本書紀では「近江毛野臣」の名で記される。
(継体)二十一年、近江毛野臣は衆六萬を率いて任那へ往き、新羅に破られ. た南加羅・ 味己呑を復興しようとした。筑紫君磐井は ...
継体21年(527年)、新羅によって奪われた南加羅・喙己呑などの諸国を奪還すべく任那への赴任を命じられる。しかし、その途中に筑紫国造の磐井が新羅と組んで毛野の進軍を妨害しようとしたため、渡海できなかった。このとき、磐井は毛野に対して、「昔は吾が伴として、肩摩り肘触りつつ、共器にして同食ひき」(かつて同じ飯を食った仲間がなぜ命令するか)と詰問したとされるが、近江の豪族・毛野と筑紫の豪族・磐井との間に、それ以前に交流があったかどうかは不明である
結局、物部麁鹿火によって磐井の乱が平定された後、翌年の528年に、毛野はようやく任那の安羅に赴任し、新羅との間で領土交渉を行った。しかし、毛野は驕慢な振る舞いが多く、新羅・百済両国王を召し出そうとしたが、両者が応じず失敗。逆に両国から攻撃される始末であった。事態を重く見た朝廷から帰還の命令が出されたが、これを無視。530年、再び召還されて応じるも、その帰途対馬で病死した。故郷の近江国野洲郡小篠原村(滋賀県野洲市字小篠原)に葬られたという。
732年(天平9年)あの陸奥按擦使大野東人が多賀城から出羽雄勝へ直接抜ける道を開拓した現中羽前街道と東山道とが交差しているところである。
玉造の柵 色麻の柵は其の拠点である。
そこを流れる玉造郡鳴子町の荒雄岳(984m)山中に源を発し北上川に注ぐ江合川は、別名荒雄川(荒らしい男 勇敢な男 丈夫である)と呼ばれるが、古代地名をとった玉造川であり玉造の江の名も情緒がある。
この辺りには玉造柵 玉造騫 色麻柵 新田柵 伊治城 中山柵 かくべつ城 桃生柵 営岡(栗原 田村麻呂陣立ての地)等天平五柵が目白押しに並んでいる。
ここ陸奥玉造は出雲玉造 河内玉造とともに日本三玉造としても有名です。
古代それぞれ水晶(石英)、瑪瑙、玉沙の産地だったからです。小野小町は玉造が余程好きだったらしく新勅撰和歌集にも
湊入りの 玉つくり江に こぐ舟の 音こそたてね 君をふれど
と河内玉造を詠んでいます。
更に陸奥玉造の地にも小野の小町伝説があり、玉造小町と小野小町が同人か別人かで21世紀の今日まで延々と議論されている。
花の色は うつりにけりな いたずらに 我が身世にふる ながめせしまに
で有名な絶世の美女が其の歌のとおり晩年老いさらばえて落魄して出羽雄勝の故郷え帰る途中この地に辿り着いたが空しく野垂れ死にしたという。嘗ての恋人業平が東下りで下向してこの地にさしっかた折「秋風の 吹くにつけても あなめあなめ(目が痛い目が痛い)」と語りかける風の声がきこえてきたので廻りを見渡すと目から薄の生えた髑髏が転がっていた。其の髑髏が小野小町と言う。そこで業平は「をのとはいはず 薄おひけり」と下の句をつけ薄を抜いてあげたところ風の音がやんだ と言うのである。
渋井と夜烏には小町塚がる。勿論業平は陸奥には来ていないし「あなめ伝説」も各種古典にあるも場所は不明である。
岩波文庫の玉造小町子壮衰書には彼女と思われる女性の盛衰が記されている
近江国滋賀郡小野村(現在の滋賀県大津市内)周辺を本拠とした。
滋賀県滋賀郡志賀町小野には
小野神社
小野神社境外社小野篁神社
小野神社境外社小野道風神社
なお、山城国愛宕郡小野郷(現在の京都市左京区内)も支配下にあったと考えられており、京都市左京区上高野西明寺山の崇導神社内には小野毛人の墓碑がある。
小野道風神社。小野神社の飛地境内社である。
小野篁の孫であり、平安時代の貴族・能書家である小野道風を祀っている。
背後の森は、道風神社古墳群。小野氏ゆかりの神社は、どこも古墳とセットになっている。
建武年間に神主の小野好行が南朝に加担したため、家職を奪われ神領も大半が没収されて、小野は衰滅したと伝わる
関蝉丸神社(せきせみまるじんじゃ)
社伝によれば、弘仁13年(822年)に小野 岑守(おの の みねもり)が旅人を守る神である猿田彦命と豊玉姫命を逢坂山の山上(上社)と麓(下社)に祀ったのに始まるという。
小野岑守は、小野毛野の後裔の小野 永見(おの の ながみ)の三男で、小野 篁の父である。
蝉丸神社は市内に3社あり、逢坂峠頂上付近を中心に旧東海道沿いに3社が並んでいる。
遣隋使 607年(推古15年)に大唐国に国書を持って派遣された小野妹子
倭王から隋皇帝煬帝に宛てた国書が、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々)と書き出されていたことは有名です。妹子は2度にわたる隋への渡海を果たして中国の政治制度を学んだ推古朝の第一級の外交官であるとともに、政治家でもあったといいます
石神古墳群 石神神社
小野神社と小野道風神社に挟まれた丘陵地にあり、4基の円墳からなり、横穴式石室を有する6世紀半ばから7世紀にかけて、4世代にわたって継続的に築造された有力家族の家父長の墓であったとされる。
随心院は真言宗善通寺派の大本山で弘法大師から8代目の弟子仁海が991年(正暦2年)に創建した古いお寺。仁海がある夜、夢を見た。亡き母が牛に生まれ変わってた。仁海は一生懸命世話をしたがすぐ死んでしまい、その皮に曼茶羅の像を描いて本尊としました。ですからこの寺の最初の名前は牛皮山曼茶羅寺(キュヒサンマンダラジ)と言ってたんです。
小町の化粧井戸ですが、このあたりは小野一族が栄えた場所で、地下鉄も小野駅がありますね。小町というのは未婚の若き女性をいい、小野に住んでいる小町だから小野小町。本名は(小野良真=篁の子<以前、大善寺(六地蔵の井で紹介>の娘)。昔の女性は本名は夫にしか言わなかったんですね。紫式部、清少納言も官名。化粧の井戸は絶世の美女で柔軟艶麗な歌人出会ったことはよく知られています。小町を恋いこがれたの深草少将(墨染にある欣浄寺の涙の井)の百夜通(もももよかよ)いの悲恋伝説も以前紹介しましたね。少将は通うたびに随心院近くの榧(かや)の木の実を一個持って来たんですね。百日目に雪に埋まって凍死しますが手にはしっかりと100個目の実を握っていました。その榧の大木(今は朽ちていますが)今もあります
鎮座地 滋賀県滋賀郡志賀町小野
※和邇駅から南約1km徒歩10分
ご祭神 天足彦国押人命
あまたらしひこくにおしひとのみこと
米餅搗大使主命
しとぎつきおおかみぬしのみこと
琵琶湖の西岸、志賀町小野に鎮座する。国道161号線の旧道から少し西へ入ったところ。
旧郷社。推古天皇の時代(592~628)、小野妹子が先祖の天足彦国押人命と米餅搗大使主命を祀って創建したという。延喜式神名帳には名神大社として名を残している。
天足彦国押人命は、人皇五代孝昭天皇の第一皇子で、近江国造の祖と伝える。
米餅搗大使主命は、天足彦国押人命の七代目の孫で、応神天皇のころ(270~310)、餅のもとである粢(しとぎ)を初めて作ったので米餅搗(しとぎつき)の姓を賜ったという。餅造りの始祖とされ、現在ではお菓子の神様として、広く信仰を集めている。
米餅搗大使主命(たがねつきおほおみのみこと) :上記第一皇子から七代目
『日本書紀』を読むと、孝昭天皇の「29年春1月3日、世襲足媛(よそたらしひめ)を立てて皇后とした。后は天足彦国押人命と、日本足彦国押天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと孝安天皇)とを生まれた。68年春1月14日、日本足彦国押尊を立てて皇太子とされた。年20。天足彦国押人命は、和珥臣(わにのおみ)らの先祖である」(資料1)と記されています。和珥氏から小野氏が分かれているようですので、小野一族の祖となるのでしょう。
『古事記』を典拠とした内容も説明板に記されています。手許の本では、「兄のアメオシタラシヒコは、春日の臣、大宅の臣、粟田の臣、小野の臣、柿本の臣、壱比韋(いちひい)の臣、大坂の臣、阿那(あな)の臣、多紀(たき)の臣、羽栗の臣、知多の臣、牟耶(むざ)の臣、都怒(つぬ)の臣、伊勢の飯高(いいたか)の君、壱師(いちし)の君、近淡海(ちかつおうみ)の国造(くにのみやつこ)らの祖(おや)になったのじゃ」(資料2)と記されています。
和珥臣が出てこずに、同族とされる「春日、大宅、栗田、小野、柿本、飯高」と枝氏の列挙として出てくるところが興味深いところです。(資料3)
「祭神のうち米餅搗大使主命は、鏨着(たがねつき)大使主とも表記され、鍛冶の神とも考えられるが、『米餅搗』という用字から、いつの頃からか同神は餅や和菓子の神とされ、これにちなんだ祭が行われている」(資料4)のです。また、説明板に記された「小野道風が菓子業の功績者に匠、司の称号を授与する事を勅許されていた」という説明板の記述は、私には興味深くおもしろい発見でした。そういえば、京都には「匠・司」を関する老舗の和菓子屋さんがいくつもあります。
この祭が、毎年秋11月2日に行われる「しとぎ祭」だとか。お菓子の祖神の祭として、全国から菓子業者が集まるそうです。(資料4,5)
いぬがみのみたすき
推古,舒明天皇時代の外交官。三田耜とも書く。景行天皇庶皇子の子孫。小野妹子遣隋使のあとを引き継ぎ,対中国外交にたずさわる。推古 22 (614) 年矢田部造らとともに遣隋小使として中国に渡る。翌年百済使を伴って帰国。舒明2 (630) 年大仁薬師恵日とともに再び派遣され,最初の遣唐使となる。2年後唐太宗の使者高表仁に送られ,学問僧霊雲,僧旻,勝鳥養および新羅送使らとともに帰国した