奈良の古社、坐神社、御県神社

December 2018 編集されました カテゴリ: 神社
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県神社は『延喜式祝詞』の「御県に坐す皇神等の前に曰さく、高市、葛木、十市、志貴、山辺、曽布と御名は曰して、この…

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コメント

  • 十市《トホイチ》 
    耳成村大字十市に十市森あり、謂ゆる御県神此なり。中世十市氏和州の豪族にして南朝に属し足利氏に抗す、平城坊目遺考に「十市氏中原姓、或曰県主、長谷川党なり、十市山の城に住し春日大宿所隔年勤番」とありて、城址は弓月岳《ユヅキタケ》と云へり。

     氏族志云、中原氏、初曰十市首、曰安寧皇子磯城津彦後、然未詳也、旧事紀天降五部人中、有十市首祖富々侶、是或其先也。朱雀帝時、有左少史十市部宿禰春宗〔九条殿年中行事記〕春宗子大学博士有象、及同姓助教以忠等、円融帝時改賜姓中原宿禰、尋為朝臣、子孫世任文職、〔中原系図〕按三代実録、陽成光孝朝有助教中原朝臣月雄、蓋是族也」と、此文職中原と土豪十市の関係知れず。

     又県主は、古事記云、黒田宮(孝霊)天皇、娶十市県主之祖大目之女、名細比売、生御子大倭根子日子国玖瑠命(孝元)。又旧事紀云、伊香色雄命児十市根命、纏向珠城宮御宇垂仁天皇御世、賜物部連公姓。

     十市御県坐神社は十市森に在り、十三社と称す。〔大和志〕天平二年正倉院文書十市御県神稲一千余束と見え、新抄格勅符三代実録に封戸授位あり、延喜大社に列し大和六県坐神の随一とす、坂門《サカト》神社は延喜式に列し今耳成村大字中村に在り。
  • 高市御縣坐鴨事代主神社
    現在の奈良県橿原市雲梯町宮ノ脇の河俣神社といわれている



    和州五郡神社神名帳大略注解

     「雲梯神社 神名帳に云う 大和国高市郡高市御県鴨事代主神社 雲梯村神森に在り。 社家 長柄首曰く 旧記に曰く 神代、積葉八重事代主命が経津主神の教 えに依り 水鳥と化して雲天に昇る。是に於いて鴨事代主命の号を得、八十万神を集めて天の高市に昇り、其の誠の至りを陳す。時に、高皇産霊尊、天之事代主命に、宜しく八万四千の邪鬼 を統率する大将軍となり、皇孫の為に之を護り奉れと命じて、之を還降せしむ。 是により、天之事代主命は雲梯此をクモノカケハシと云うを降 り高市県に到り、其所を号して雲梯(宇奈提)と云う。然る後に此処に霊畤(神社)を立て之を奉斎す。 出雲国造神賀詞に謂う所の、事代主命の御魂を宇奈提の神奈備に坐させとは是也。 又天武天皇紀に云う所の事代主命が坐す高市社とは即ちこの地なり」
     との伝承があり、そこでは、天の高市に昇って恭順の意を表した事代主命が(書紀・国譲り段に同意の記述あり)、高皇産霊神から諸々の国つ神を率いて皇孫を守護せよと命じられて降ったのが高市郡の雲梯で、後になって、其処に神社を造って奉斎した、という。
  • 和爾坐赤阪比古神社の祭神が阿田賀田須命と市杵嶋比賣命となっており、これ宗像神社の神々に見えます。『新選姓氏抄録』大和国神別に和仁古と言うのがあり、大国主六世孫阿太賀須命之後也とあります。また吾田片隅命は大神朝臣と同じく宗像朝臣の祖とあります。和爾さんは天孫系から国津神系まで幅広い氏族集団だったようです。
  • 多神社

    御祭神の姫皇子命は、多神社に祀られる神八井耳命(かむやいみみのみこと)の四皇子神の内の姫皇子で、天照大神若魂(あまてらすおおみかみわかみたま)とされます


    延喜式内社 旧城下郡 多 姫皇子命神社
    旧村社 祭神 多姫皇子命

    多坐彌志理都比古神社の摂社で、「大和志」十市郡新廟の項に「姫皇子命神社 在ニ多社東一今称ニ鎮守」と比定され、延長五年(927)成立の延喜式神名帳に記載された古社である。
    神名帳十市郡大社の四皇子神の一「姫皇子命神社」とされ、「大和志」に俗に鎮守と称し、現在大字多の氏神である。
    「五郡神社記」は本社二座と四皇子神を意富(おう)六所神社ともいった。

    多神社には五社の境外摂社が存在しており、その内の四社が「延喜式神名帳」において式内小社に比定されています。

    多神社の周りに散在する境外摂社。

    多神社の東方に若宮の姫皇子命神社が鎮座し、南方左手には小社神社、右手に皇子神命神社が鎮まります。さらに西方には屋就神命神社が鎮座し、西南方向の橿原市飯高に祀られる子部神社二座も多神社の若宮とされます。
  • 葛木御県神社(葛木・葛城市)については『奈良県史5 神社』に、こんな記述があった。《天津日高日子番能瓊々杵命(あまつひこひこほのににぎのみこと)を祀っていたが、明治年間天剣根命(あめのつるぎねのみこと)を追祀した。『姓氏録』神別の条に、葛木忌寸(いみき)は高御魂命(たかみむすびのみこと)5世の孫、剣根命の後とあり、高木氏の祖神とみられる》。
  • 高市御県神社(コケの宮)については『今井町史』(P454〜455)に記載が。

    《コケの宮 式内大社御県社であるが、高木一統によってまつられる祖先神であるということから、高木(コーギ)社とも呼ばれている。現在、高木正次郎・高木由太郎・上田健三・上田正雄・高木嘉蔵の5家によって祀られているが、高木家の2代目惣領忠右衛門が上田姓を名乗り、壺屋の名義を相続したため、その末裔である現在の上田長之助家が中心になって祭祀をおこなっている》
  • 式内社調査報告(1982)によれば、

    「現在、大己貴神(オオナムチ)を祀る(志貴御県坐神社明細帳)」とあるが、境内に案内表示が見えず、真偽不明。一方、大和岩雄氏(日本の神々4・収録・志貴御県坐神社−2000)は、饒速日・弟磯城の2説を挙げている。饒速日命(ニギハヤヒ)新撰姓氏禄(815)に「大和国神別(天神)志貴連(シキノムラジ)神饒速日命孫日子湯支(ヒコユキ)命之後也」また先代旧事本紀(9世紀後半・物部氏系史書)にも、「ニギハヤヒ七世の孫・建新川命(タケニイカワ)および八世の孫・物部印岐美石連公(モノノベノイキミノムラジキミ)は、志貴県主(シキアガタヌシ)の祖である」とあることから、物部氏系の志貴連(県主)が、その遠祖・ニギハヤヒを祀った(志貴県主は、天武朝の御代、連の姓を賜っている)。
  • 高鴨神社の説明によれば、「カモ」は「カミ」であるとのことです。
      神社の由緒には、

    「弥生中期、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社をまつって水稲生活をはじめました。また東持田の地に移った一派も葛木御歳神社を中心に、同じく水稲耕作に入りました。そのため一般に本社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになりましたが、ともに鴨一族の神社であります。」

    鴨都波神社の祭神はと言うと、これが「鴨都八重事代主命」と「下照姫命」である。

    コトシロヌシもアジシキタカヒコネも、「大国主命」の息子です。



    高照姫命
    御歳神社の主祭神は、その名の通り「御歳神」であり、相殿に「高照姫命」を祀っています。
     神社の説明に

    「古事記には須佐之男命(スサノヲノミコト)と神大市比売命の御子が大年神で、大年神と香用比売命の御子が御歳神であると記されています。」

    「相殿の高照姫命は大国主神の娘神で八重事代主神の妹神であります。一説には高照姫命は下照姫命(拠-古事記に高比売命=高照姫、別名下照姫命とある)、加夜奈留美命(拠-五郡神社記)、阿加流姫命と同一神とも云われています。」
  • 高照姫は下照比売と同神と言われています。『古事記』には下照比売の別名として高比売、
    『日本書紀』にも高姫とあります。
     ただ、『古事記』も『日本書紀』もともに高比売=下照比売をアヂシキタカヒコネの妹と
    しています。
  • 三輪山南東(初瀬の西方)には出雲という地名が残り、出雲国に出自をもつ野見宿禰(ノミノスクネ)の伝承地でもある。また狭井川北方にも「出雲屋敷」という地名が伝承され、さらに三輪山北西にはかつて「出雲荘」という荘園があった

    三輪の大物主
    大物主櫛甕魂命(ヤマトオオモノヌシクシミカタマノミコト)、大物主櫛甕玉命、意富美和之大神(オオミワノオオカミ)、大三輪之神
    ※大物主神は大国主のもう一つの姿であるということから大黒天として祀られることもある

    【伝承地】三輪山(奈良県桜井市)
    【継続】
    勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ/妻)、倭迹迹日百襲姫(ヤマトモモソヒメ/妻)、活玉依比売(イクタマヨリヒメ/妻)、櫛御方命(クシミカタノミコト/子)、比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ/子・後に神武天皇の皇后)、意富多多泥子(子孫)
  • 鏡作坐天照御魂神社 (かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)

    祭神 天照国照彦天火明命 石凝姥命 天糠戸命

    一説には天照大神・天糠戸神・石凝姥命とも
    一説には天照国照彦天火明命・石凝姥命・天児屋命とも


    崇神天皇は、皇居に三種の神器の一つ、八咫鏡を置くのは、
    畏れ多いとして、笠縫邑に祀らせた。
    その代わりの神鏡を鋳造した像鏡が御神体という。

    唐子・鍵遺跡の近くにあり、
    4~5世紀の鏡作工房があったとされ、
    三角縁神獣鏡は、この地で作られたという説がある
  • 書紀・孝徳天皇大化元年(645)8月5日条に、
      「倭の国の六つの県(高市・葛木・十市・志貴・山辺・曾布)に遣わされる使者は、戸籍を造り同時に田畑を検知せよ」

    書紀・天武天皇即位前記(678)に
      「高市郡の大領・高市県主(タカイチノアガタヌシ)許梅(コメ)が神懸かりして云々」
    とあることから、この当時、即ち7世紀中頃にはあったのではないかと思われるが、確証はな
  • 大化改新(西暦646年)の前代に置かれていた宮廷直轄領である六御県(むつのみあがた)は、倭六県(やまとのむつのあがた)ともいい、天皇に献上するための蔬菜を栽培する菜園の霊を祀り、添(そふ)・山辺(やまのべ)・磯城(しき)・十市(といち)・高市(たけち)・葛城(かつらぎ)の6つの県(あがた)は、特別視された。県内には、御県神社が式内大社として存在している
  • 『出雲国造神賀詞』に皇室を守護する神として「事代主命の御魂を宇奈提の神奈備に坐せ」とあり、この「宇奈提(うなせ)」は「雲梯(うなて)」のことであるとして、延喜式神名帳に記載される式内大社「大和国高市郡 高市御坐鴨事代主神社」に比定されている(延喜式神名帳には「川俣神社三座」という社名が見えるが、これは近くの木葉神社に比定されている)。
    『日本書紀』によれば、壬申の乱の際、高市郡大領高市縣主許梅に「高市社に居る事代主神」が神懸りし、大海人皇子(後の天武天皇)を守護すると神託した。大海人皇子の即位後、この霊験により、高市御坐鴨事代主神に、史上初となる神位が授けられている。万葉集にも当社のことを詠んだ歌がある

  • 古事記が撰上された712年頃に、出雲氏が祭政の拠点を意宇郡から杵築に移しますが、出雲国果安(708-721)の時でありました。

    出雲果安が出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)を奏上したのが716年で、息子の広嶋に国造を譲ったのが721年。

    出雲国造神賀詞とは、新任の出雲国造が天皇に対して奏上する寿詞であります
  • 神武朝の県主
    大倭 大和国 神武朝 椎根津彦命
    葛城 大和国 神武朝 剣根命
    凡河内 河内国 神武朝 彦己曽保理命
    山城 山城国 神武朝 阿多振命
    伊勢 伊勢国 神武朝 天日鷲命 天降る神・天牟久努命
    素賀 神武朝 美志印命
    紀伊 紀伊国 神武朝 天道根命 神皇産霊命の五世孫
    宇佐 宇佐国 神武朝 宇佐都彦命 高魂尊の孫
    津嶋県直 対馬 神武朝 建弥己己命 高魂尊の五世孫
  • 飛鳥
    延喜式神名帳には「飛鳥坐神社四座」とある。現在の祭神は事代主神、高皇産靈神、飛鳥神奈備三日女神(賀夜奈流美乃御魂)、大物主神の四座であるが、多くの異説がある。

    『大神分身類社鈔』 -- 事代主命・高照光姫命・木俣命・建御名方命
    『五郡神社記』 -- 大己貴命・飛鳥三日女神・味鋤高彦神・事代主神
    『社家縁起』 -- 事代主命・高照光姫命・建御名方命・下照姫命
    『出雲國造神賀詞』 -- 「賀夜奈流美乃御魂乃飛鳥乃神奈備爾坐天(賀夜奈流美の御魂の飛鳥の神奈備に坐て)」との記述がある。
    また、当社地が天照大神を初めて宮中の外で祀った地「倭笠縫邑」であるとする伝承もあり(有力な説は大神神社摂社の檜原神社である)、近世には元伊勢とも称していた。
  • 甘樫坐神社(あまかしにますじんじゃ)
    奈良県高市郡明日香村の甘樫丘にある神社である。式内社で、旧社格は村社。
    推古天皇を主祭神とし、相殿に八幡宮・春日大明神・天照皇大神・八咫烏神・住吉大明神・熊野権現を祀る。『五郡神社記』には八十禍津日神・大禍津日神・神直日神・大直日神とあり、これが元々の祭神であった。推古天皇を主祭神とするようになったのは江戸時代以降のことである。
    武内宿禰による創建と伝えられる。『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条に従五位下甘樫神に従五位上の神階を授けるという記述がある。延喜式神名帳には「大和国高市郡 甘樫坐神社四座」と記載され、大社に列格、月次・相嘗・新嘗の奉幣に預ると記されてる
    甘樫丘は古代、盟神探湯が行われたという地であり、中世の『五郡神社記』にも当社のことが「湯起請の神」と記されている。これらのことに因んで、戦後、盟神探湯神事が行われるようになった。
  • 笠山坐神社(かさやまにますじんじゃ)の社名で神社庁には登録されているが、神社前の社号標には「笠山荒神社(かさやまこうじんじゃ)」の社名が記されている。古来より、この地の荒神を祀る神社としての性格が後者にあらわれている。
    【所在】
     当社は、奈良県桜井市笠ニ四一五に鎮座している。古来より神奈備と仰がれた鷲峯山の頂にあり、倭笠縫邑と称される元伊勢の伝承地である。
    【御祭神】
          土祖神(つちのみおやのかみ)
          奥津彦神(おきつひこのかみ)
          奥津比賣神(おきつひめのかみ)
    【由緒】
     当社は荒神出自の源とされ、鎮座する鷲峯山は笠の如く峻嶺で、往古より信仰の山として仰がれている。その昔、笠山鷲峯山に須佐之男命の神孫で竈の神である「奥津彦神・奥津比賣神」と大地の神「土祖神」を奉斎したとされるが、更に古くは土着の信仰が強かったといわれる。『笠荒神鷲峯山竹林寺來由記』(延宝六年)には「持統天皇亥年(六八七)、役小角のために荒神その神姿を鷲峯山地中より湧出し、我は世の中に荒神とする者なり。常に善を作ものを助け、悪を造る者を罰す。我を敬ふ者には我九万八千八百八躰の眷属と倶にまもりをなし、一切の願ひを満足せしむべし。我が真躰見んと思はば即此七岫七谷の山これなりと言終わりて忽ちに地に没しみえ給はず。」とあり、役小角によって笠山に荒神が鄭重に奉祀されたことが記されている。以来、当社を中心とする笠山の地は、高僧・修験者・陰陽師などの修行の場となり、神仏習合の霊地として信仰を集めた。明治初年には、神仏分離により笠山荒神社となるが、現在も修験者などからの信仰は続いている。また当社の荒神は『笠荒神鷲峯山竹林寺來由記』に見えるように善を助け悪を罰する神で「麁亂神」(そらんしん)とも呼ばれる
  • 河俣神社
    奈良県橿原市雲梯町689
     曾我川東畔に鎮座。旧村社。祭神鴨八重事代主神。 大阪市住吉区の住吉大社から畝傍山の埴 土を取りにくる行事(畝火山口神社の神事)に際し、 当社で装束を整えたことから装束の宮ともよば れた(西国三十三所名所図会)。祭神・鎮座地から 「延喜式」神名帳高市郡の「高市御県坐鴨事代主 神社大、月次新嘗」に比定。高市御県坐鴨事代主 神社は「延喜式」出雲国造神賀詞に「事代主の命 の御魂を宇奈堤に坐せ」とみえるウナテの杜に 鎮座した神。皇室の守神として宮都近くに鎮座 した神で、「万葉集」に「真鳥住む卯名手の神社(もり) の管の根を衣に書きつけ着せむ子もがも」(巻七)、 「思はぬを思ふといはば真鳥住む卯名手の社の 神し知らさむ」(巻一二)と詠まれた。
    -『大和・紀伊 寺院神社事典』-

    木葉神社
     曾我川堤北側に鎮座。祭神木花開耶姫命。富 士権現とも称した(西国三十三所名所図会)。「大 和志」に川俣神社三座(中略)在雲梯村今称川俣王子」 とあり、「延喜式」神名帳高市郡の「川俣神社三 座並大、月次新嘗」に比定。
    -『大和・紀伊 寺院神社事典』-
    奈良県橿原市にある。
    曽我川西岸、24号線から少し南。河俣神社の対岸の住宅地の中。創祀年代は不詳。
    式内社・川俣神社に比定されている古社。
    本来は川俣公の租・彦坐命を祀った神社だと考えられている。

  • 市御縣★ 奈良県橿原市四条町宮坪761

    ・延喜式内社、大和國市郡、市御縣社、名大、月次新嘗。
    ・舊社格は無格社。
    ・祭は津日子根命。高皇産靈命を配祀。津日子根命は市縣主の祖という。
    ・創建年代由等不詳。

    ・近世には、「縣宮」「こけのみや」と呼ばれていた。「縣(こうけ)」は市御縣の畧とされ、舊社名を傳えるものと考えられる。

    ・市御縣の所在地や範圍は明確になっていないが、市御縣坐鴨事代主社、天市社の鎭座地や小字の「宮毛」「竹市」などの存在より、市郡七(巨勢、波多、遊部、檜前、久米、雲梯、賀美)のうちの遊部、雲梯の二の地域に當たると推定され、『大和志』には「市御縣社在四條村北今稱縣宮所謂遊岡即此」「遊部井在今井村」とある。また、『三箇院家抄』卷四にみえる「市郡西二十五條一里三十五坪二反宮坪」は、條里制の復元から「西二十六條一里三十三坪」と考えられ、現鎭座地のすぐ南の坪に相當する。ゆえに當社が「こけの宮」であったとすれば、同書の延慶三年(1310)の證文によって書寫した」との書入れから、少なくとも鎭座について、鎌倉時代まで遡り、確認できる。

    ・縣は大化前代の地方行政上の單位とされるが、大和の縣は、「御」の敬稱を付していることからも知られるように、朝廷の料地、直轄地としての性格が强かった。大和には六所(市、葛木、十市、志貴、山邊、曾布)の御縣が設置され、御縣社はその御縣に鎭まるを祀る社であるのだが、當社は、その六社の中で筆頭として、唯一、名祭に預かった。
  • November 2016 編集されました
    桃原に祀られた蘇我馬子

    『日本書紀』推古天皇34年(626)5月22日条、蘇我馬子の死亡記事である。
    大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る。大臣は稲目宿祢の子なり。性、武略有りて、亦弁才有り。以て三宝を恭み敬ひて、飛鳥河の傍に家せり。乃ち庭の中に小さな池を開れり。仍りて小さな嶋を池の中に興く。故、時の人、嶋大臣と曰ふ。

    通説は石舞台古墳をそれと見做している。馬子の邸宅が飛鳥河の傍に造られ、嶋大臣と呼ばれることになる。
    邸宅が現在の島庄遺跡の場所と同じであるなら、その墓も石舞台古墳か???

    上桃原・下桃原がある。『日本書紀』雄略天皇7年条から引用する。

    是に由りて、天皇、大伴大連室屋に詔して、東漢直掬に命せて、新漢陶部高貴・鞍部堅貴・畫部因斯羅我・錦部 定安那錦・譯語卯安那等を、上桃原・下桃原・眞神原の三所に遷し居らしむ。

    「百済の貢れる今来の才伎」である上記の6人(高貴・堅貴・因斯羅我・定安那錦・卯安那)等を上桃原・下桃原・眞神原の3ヶ所に分住させた。

    この眞神原は、崇峻天皇元年(588)に法興寺が建立された場所である。
    飛鳥衣縫造が祖樹葉の家を壊ちて、始めて法興寺を作る。此の地を飛鳥の眞神原と名く。亦は飛鳥の苫田と名く。
    眞神原に飛鳥衣縫造が住む様になったのは雄略天皇14年以降である。

    十四年の春正月の丙寅の朔戊寅に、身狭村主靑等、呉国の使と共に、呉の献れる手末の才伎。漢織・呉織及び衣縫の兄媛・弟媛等を将て、住吉津に泊る。
    是の月に、呉の客の道を為りて、磯歯津路に通す。呉坂と名く。三月に、臣連に命せて呉の使を迎ふ。即ち呉人を檜隈野に安置らしむ。因りて呉原と名く。衣縫の兄媛を以て、大三輪神に奉る。弟媛を以て漢衣縫部とす。漢織・呉織の衣縫は、是飛鳥衣縫部・伊勢衣縫が先なり。

    この「呉の献れる手末の才伎」に深く関連する記事が『日本書紀』応神天皇の時代の事として書かれている。

    三十七年の春二月の戊午の朔に、阿知使主・都加使主を呉に遣して、縫工女を求めしむ。爰に阿知使主等、高
    麗国に渡りて、呉に達らむと欲ふ。則ち高麗に至れども、更に道路を知らず。道を知る人を高麗に乞ふ。高麗の王、乃ち久禮波・久禮志、二人を副へて、導者とす。是に由りて、呉に通ること得たり。呉の王、是に、工女兄媛・弟媛、呉織、穴織、四の婦女を与ふ。

    四十一年春二月に、阿知使主等、呉より筑紫に至る。時に胸形大神、工女等を乞はすこと有り。故、兄媛を以て、胸形大神に奉る。是則ち、今筑紫国に在る、御使君の祖なり。既にして其の三の婦女を率て、津国に至り、武庫に及りて、天皇崩りましぬ。及はず。即ち大鷦鷯尊に献る。是の女人等の後は、今の呉衣縫・蚊屋衣縫、是な
       り。
    倭五王の讃が初めて南宋(呉国)に使いを出す。その讃が応神天皇であれば、この記事は大変参考になる。
    しかし内容は、雄略天皇14年の記事内容と非常に良く似ている。
    (応神朝の)兄媛・弟媛、穴織、呉織と(雄略朝の)兄媛・弟媛、漢織、呉織。
    (応神朝の)兄媛を胸形大神に奉ると(雄略朝の)兄媛を大三輪神に奉る。

    どちらかといえば、雄略天皇の時代であろうか

    出典
    http://unebiyama.blog.fc2.com/blog-entry-57.html?sp
  • November 2016 編集されました
    眞神原

    『万葉集』巻2-199の高市皇子挽歌の中に、やすみしし我が大君が「明日香の眞神の原に ひさかたの天の御門を 畏くも定めたまいて」とあり、天武天皇が飛鳥浄御原宮を眞神の原に造営したことが詠われている。
    眞神原は法興寺(飛鳥寺)が建立された場所だけではなく、飛鳥浄御原宮が設けられた場所をも含む飛鳥川右岸の広い領域であったことが判る。

    一方、石舞台古墳がある島庄は、もとは対岸の橘に含まれていた。
    明治21年の町村合併願に、「同郡橘村 本村往古ヨリ高市郡ニ属ス、素ハ同郡嶋庄村ト一村タリシカ、中古分離シテ一村トナレリ」とあり、往古には橘村一村であったことが判る。
    「島の宮」が在った場所が橘と呼ばれていたことが推測される。
    島庄にある石舞台古墳が馬子の「桃原墓」であるのなら、島庄は桃原の場所である。
    島庄と橘が往古に一村であったのなら、この一村は桃原である。

    つまり、
    飛鳥川右岸の島庄部分が「上桃原」であり、左岸の現在の橘部分が「下桃原」と考えられる。

    出典:http://unebiyama.blog.fc2.com/blog-entry-57.html?sp
  • November 2016 編集されました
    栗原の集落は、呉(くれ)の国(当時の南宋?)から連れてこられた渡来人が住み着いたのが、その始まりと考えられている。

    雄略天皇は倭の五王の一人で、当時の南朝政権・宋に遣使して上表文を奉ったことは有名だ。『日本書紀』の雄略紀によれば、天皇は史部(ふみひと、朝廷の書記官)の身狭村主青(むさのすぐりあお)と檜隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)を寵愛した。いずれも朝鮮系の渡来人である。以下に示すように、二人は何回も呉の国に派遣されている。
    雄略8年2月、身狭村主青、檜隈民使博徳を呉の国に派遣。
    雄略10年9月、身狭村主青、檜隈民使博徳、呉の国から鵞鳥(がちょう)を持って帰る。
    雄略12年4月、身狭村主青、檜隈民使博徳、再び呉の国へ使い。
    雄略14年1月、身狭村主青、檜隈民使博徳、呉の使者ととも帰国。呉王が献じた手伎、漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)、衣縫の兄媛(えひめ) ・弟媛(おとひめ)らを率いて住吉津に泊まる。呉人を檜隈野に住まわせた。それで呉原と名付けた。衣縫の兄媛を大三輪神社に奉った。弟媛を漢の衣縫部とした。漢織は飛鳥衣縫部の祖、呉織は伊勢衣縫の祖である

    才技(織姫)の漢織・呉織は飛鳥衣縫部・伊勢衣縫(『和名抄』に伊勢国壱志郡に呉部郷がみえる)の祖である
    伊勢衣縫は、天照大神に奉献された。
    *ちなみに、飛鳥寺は飛鳥衣縫造の家を壊して建てたと言われている。
  • 日本に来た身狭村主青(むさのすぐりあお、むさのすぐりおう)はどこに居住した
    のでしょうか。

    『延喜式』の大和国高市郡の項には牟佐坐神社(むさにます神社)があるので、ここが身狭村であったとされています。ここはかつて牟佐邑(むさ村)と呼ばれ、現在は奈良県橿原市見瀬町となって
    います。
     伝えるところによれば、牟佐神社は、安康天皇(雄略天皇の兄)の時代に牟佐村主青(身狭村主青)が生魂神を祀ったのが始まりとあります。
    身狭村主青と関連がうかがえる檜前村主の檜前も、奈良県明日香村にある地名です
  • 十市郡には豊受大神を祭神とする神社がある。
     十市御縣坐神社(とおちのみあがたにます神社)がそれで、ここの主祭神は豊受大神
    なのです。
     もっとも、だからと言って十市御縣坐神社こそが多神社の外宮である、ということには
    結びつきません。
     そもそも伊勢神宮における内宮と外宮の関係はこの時代よりも後のことであるとされる
    ので、太陽神と御食神の組み合わせに固執する必要はないと言えるでしょう。

     むしろ、ここで注意したいことは、十市郡に、古い太陽信仰がなされていたと考えられる
    多神社、高御産霊神(タカミムスヒ神)を祀る目原坐高御魂神社、豊受大神を祀る十市
    御縣坐神社が存在していることです。

     御食神が応神天皇や神武天皇の伝承に関係していることは前にお話ししたとおりなの
    ですが、宮中における祭祀にこれらの神々が関わっているのです。

     天皇の即位儀礼である樽俎大嘗祭において、新たに即位する新天皇は十神に御膳を
    捧げます。
     井上辰夫(『古代王権と語部』)は鎮魂祭の十神について、このうちの八神までは八神殿で
    祀られている神であろう、と考察していますが、その八神殿の神とは、

     御歳神、高御魂神(タカミムスビ神)、庭高日神、大御食神、大宮売神、事代主神、阿須波神、
    波比伎神

     ここに名を列ねる事代主については、井上辰夫は、大国主の御子神の事代主神ではなく
    天つ神の事代主神である、としていますが、ともかく事代主と並んで高御産霊神と大御食神が
    祀られているのです。

    さて践祚大嘗祭の前日には鎮魂祭が行われますが、この祭礼の時の八神は、

    神魂、高御魂、生魂、足魂、魂留魂、大宮女、御膳魂、辞代主

    となっています。
     これらの神々は、神祇官の西院において御巫が祀る神、

    神産日神、高御産日神(タカミムスビ神)、玉積産日神、生産日神、足産日神、大宮売神、
    御食津神、事代主神

    のことであろう、と思われるのですが、ここにも高御産霊神、御食津神、事代主神が祀られて
    いるのです。
     もうひとつ注意が必要なのは、並んで祀られている神の中に、生魂(生産日神)、足魂(足
    産日神)という神がいることです。
     この両神は難波の生國魂神社の生島神、足島神と同神と思われ、さらに生國魂神社の
    この両神は八十島祭で祭祀されていたと考えられる神なのです。
     八十島祭には宮中より生島巫が遣わされるのが習わしだったのですが、宮中には座摩巫も
    いました。
     この座摩巫が宮中で祭祀していたのが、

    生井神、福井神、綱長井神、波比砥神、阿須波神

    の五神で、これらの神々はそのまま難波の座摩神社の祭神でもあるのです。
     さらに注意しなければならないのが、座摩巫の祭祀する五神に含まれる波比砥神、阿須波神が
    八神殿の神々に含まれているということです。
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