山城国、山背、京田辺、宇治

2»

コメント

  • 羽束師坐高産日神社(大 月次/新甞) 山城国 乙訓郡鎮座

       【現社名】羽束師坐高産日神社
       【住所】京都市伏見区羽束師志水町219-1
           北緯34度55分45秒,東経135度43分23秒
       【祭神】高皇産靈神 神皇産靈神
       【例祭】10月18日
       【社格】旧郷社
       【由緒】雄略天皇21年創建
     欽明天皇28年(567)封戸を賜わる
     天智天皇4年(665)中臣鎌足に勅あつて再建
     大宝元年(701)4月3日続日本紀に記載(正史初見)
     大同3年(808)摂社十一社が勧請
     明治6年村社
     明治15年郷社

    羽束師略記

    御鎮座と由緒

    当社の御鎮座は、雄略天皇21年丁己(477)です。「続日本紀」大宝元年(701)4月3日条に「波都賀志神等の御神稲を今より以後中臣氏に給へ」とあって、羽束師神社についてみえる最も古い記録ですが、「三代実録」貞観元年(859)9月8日条には、「羽束志神、遣使奉幣、為風雨祈焉」とあり、風を鎮め、潤雨を祈願する神さまとして崇敬されていたことがうかがえます。近年当社西方の長岡京四条四坊に当る旧址から、祈願の際献じる土馬が発掘され、話題を呼んだのは興味深いことです。
    この地は桂川及び旧小畑川等諸河川の合流点に位置し、低湿地ですが、古くから農耕が行われ且、水上交通の要地という条件と相まって、「乙訓・羽束郷」(和名抄)と称し開けてきた土地です。
    因に、日本書紀垂仁天皇39年「冬10月(中略)泊橿部等并せて十箇の品部(とものみやつこ)もて五十瓊敷皇子に賜う」と記され又、「令集解」の職員令の中には「泥部=泊橿部とは古の波都加此の伴造を云う」とあります。何れにしても、「はつかし」と名乗る職業をもった人々の集団が、大宝令制に組み入れられる以前から、この地域に生活していたということが分かります。更に御所の野菜を供給する羽束師薗もあった処で、これらのことが、神社の発展をもたらした理由になったと考えられます。
    平安初期延喜の制がととのえられるや当社は、式内大社に列せられ、月次・新嘗の幣に預かって、名実共に式内第一の社となり、「むすび」の御神威を愈々顕現され、天下豊平の加護を垂れ給うたのです。
    中世・近世において、周辺地域の産土神として崇敬を集めたことは「都鄙祭事記」中の「久世、久我、古川羽束石祭四月中の巳日にて神輿二基あり。往古は、久世より下の村々は、羽束石社の産子なり。乱国の頃別れしも、上久世続堤より少し下れば往還の東に、羽束石社の御旅所と申す地あり。其所に小社並びに黄楊の古木あり」という記事からも推察できます。
    「大乗院寺社雑事記」文明14年(1482)9月1日条に「8月27日28日、西岡羽束石祭、守菊大夫楽頭、随分得分神事也、百貫計得云々、当座ニ六十貫計懸物在之云々、盛物等大儀講也云々」とあり、祭礼には宇治猿楽守菊大夫が、楽頭職となって神事能を演じた事、またこの神事は近郊に聞えた盛大なものであったらしく楽頭の得分は百貫と記されています。氏子圏の広さとその豊かさを物語っています。
    全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




    羽束師坐高産日神社御祭神

    高皇産霊神〔タカミムスヒノカミ)
    神皇産霊神(カミムスヒノカミ)
    【御鎮座】
    当神社は雄略天皇21年(477)に創祀され生成霊力の御神徳をおもちの皇産霊神二柱を奉斉しています。皇産霊を「ミムスヒ」と言い「ムス」はものの生成を意味し、成長するカを「ヒ=霊力」と言います。叉、高皇産霊神は高木神とも申し、神の依ります神体木(神墨)に縁の深い御名で明らかに田の神の降臨をあおぐ祭に関わりのある農耕神の信仰をになう天つ神であります。随って五穀豊穣を祈る人々の間に稲霊を崇めるムスピ信仰が育まれ、特に収穫時に新穀を神と共に新嘗(ニイナメ)する農耕行事は最も重要な祭儀として、高皇産霊神、神皇産霊神が祀られてきた。この行事は弥生時代から現在まで時代の変遷を超え種々の文化要素を習合しつつ新嘗祭となり勤労感謝の日となって今猶生活の中に伝承されています。続日本紀大宝元年(701)4月3日の条に「勅して山背国波都賀志の神等の神稻は自今以後中臣氏に給へ」とあるのは当社に属する斎田から抜穂して奉祭し祭人中臣氏が新嘗祭を行ったことを示唆する資料といえます。
    【十一社】
    本殿の左右に天照皇大神を始め十一神が祀られています。
    大同3年(808)に斎部廣成公が諸国騒擾の多さ様を憂い安穏を祈願する為、平城天皇の奏聞を得て勧請造営された神社です。
    廷喜の制では(967)大社に列格され四時祭には官幣に預り臨時祭は祈雨神に座して天下豊年の御加護を垂れ給いました。
  • November 2018 編集されました
    宗教法人 大酒神社
    【由緒】嘉祥2年(849)9月16日 「奉授山城國葛野郡大辞神從五位下」『続日本後紀』
    天慶4年辛丑(942)5月15日 正三位
    天喜3年乙来(1055)11月20日 正二位
    治暦4年戊申(1068)4月25日 正一位
    【関係氏族】秦氏
    【鎮座地】もとは広隆寺境内、少し北東の現社地へ遷座
    【祭祀対象】大石?
     旧社地に大酒神社があった頃、大石を御神体にしていたとの記録がある。
     明治時代、旧社地(広隆寺境内)から現社地に移った時、所在不明となり消失した。
    【社殿】本殿流造
    【境内社】三神の社・八幡社・稲積社・木枯社

    古墳時代、伝承として秦始皇帝子孫という功満王(こうまんおう)が戦乱を避け日本に渡来、始皇帝の神霊を勧請したことに始まるという。祭神は、秦始皇帝とされており、秦氏との関連が指摘されている、秦氏ゆかりの広隆寺の鎮守の一つでもある。
    延喜式神名帳には、「元名大辟神」とあり、オオサケの神、つまり、悪疫・悪霊を避けるためのものとされいる。
    もとは広隆寺内にある桂宮院の鎮守として御堂の背後にあったが明治時代の神仏分離政策に伴い、大酒神社は広隆寺境内から切り離され、少し北東の現社地へ遷座した。
    この太秦地区を中心に古代日本の一翼を担った古代氏族・秦氏の総鎮守として、秦氏の人々からこの上ない尊崇を受けていた。

    祭神 秦始皇帝、弓月王、秦酒公
    相殿 兄媛命、弟媛命(呉服女、漢織女)
    神階 正一位、治歴四年四月(1068年)
    当社は、延喜式神名帳葛野郡20座の中に大酒神社(元名)大辟神社とあり、大酒明神ともいう。
    「大辟」称するは秦始皇帝の神霊を仲哀天皇8年(356年)皇帝十四世の孫、功満王が漢土の兵乱を避け、日本朝の淳朴なる国風を尊信し始めて来朝し此地に勧請す。これが故に「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生れた。
     后の代に至り、功満王の子弓月王、応神天皇14年(372年)百済より127県の民衆18670余人統率して帰化し、金銀玉帛等の宝物を献上す。又、弓月王の孫酒公は、秦氏諸族を率て蚕を養い、呉服漢織に依って絹綾錦の類を夥しく織出し朝廷に奉る。絹布宮中に満積して山の如く丘の如し、天皇御悦の余り、埋益(うずまさ)と言う言葉で酒公に禹豆麻佐の姓を賜う。
    数多の絹綾を織出したる呉服漢織の神霊を祀りし社を大酒神社の側にありしが明暦年中破壊に及びしを以て、当社に合祭す。
     機織のみでなく、大陸及半島の先進文明を我が国に輸入するに力め、農耕、造酒、土木、管絋、工匠等産業発達に大いに功績ありし故に、其二神霊を伴せ祀り三柱となれり。今大酒の字を用いるは酒公を祀るによって此の字に改む。
    広隆寺建立后、寺内、桂宮院(国宝)境内に鎮守の社として祀られていたが、明治初年制令に依り神社仏閣が分離され、現在地に移し祀られる。現在広隆寺で10月10日に行われる、京都三大奇祭の一つである牛祭りは、以前広隆寺の伽藍神であった当社の祭礼である。
     尚、603年広隆寺建立者 秦河勝は酒公の六代目の孫。
     又、大宝元年(701年)子孫秦忌寸都理が松尾大社を創立、和銅4年(713年)秦伊呂具が伏見稲荷大社を建立した。古代の葛野一帯を根拠とし、畿内のみならず全国に文明文化の発展に貢献した。秦氏族の祖神である。
    社頭掲示板



    牛祭り

    【特殊祭礼】京都三大奇祭の1つ「牛祭り」
    ①摩多羅神(またらしん)という詳細不明の神が、奇天烈な衣装・面を装着して、牛に乗りながら現れる。
    ②摩多羅神が広隆寺薬師堂前に設けられた祭壇へ行き、そこで意味難解な祭文を奇声をあげながら読む。
    ③摩多羅神が祭文を読む間、見物者など周りの人たちは、摩多羅神に向って様々な罵声を浴びせる。
    ④読み終わると、摩多羅神は急に祭壇から薬師堂の中に走り出してしまう。
    ⑤中に入ったら、祭り終了。
    大酒神社が境内にあった頃までは、大酒神社の執り行なう祭りだった。
  • November 2018 編集されました
    太秦

    仲哀天皇が豊浦宮(忌宮神社)で軍備を進めていた時の話です。
    軍船は主に下関、北九州、大分の沿岸で造らせていますが、「旗」は筑紫の北部で作らせています。
    具体的には、宗像市の織幡神社(祭神武内宿禰)が中心で、
    その浦は「はた浦」と言いました。

    船の帆を縫わせたのは隣町の福津市の縫殿神社。
    のちに呉から連れて来た四人の織姫たち、兄媛(えひめ)弟媛(おとひめ)
    呉織(くれはとり)穴織(あなはとり)のうち、兄媛だけ留めた地です。
    (以上の各社はガイドブックに詳細を書いています)

    これらは弥生時代から現地に織物文化が栄えていたことを示しています。

    玄界灘沿岸と秦氏?

    宗像~福津には秦氏のクニがあり、
    竹内宿禰はそこと通婚したのではないか、というものでした。
    そう考えるなら、竹内宿禰が神功皇后を連れて、
    旗や帆の制作現場を見せたのも合点がいきます。

    仲哀天皇4年には下関の忌宮神社に秦の始皇帝の十一代功満王が帰化しています。
    そして、今でも秦さんが福津にいる。

    秦姓は福岡県と大分県に集中しています。
    筑紫から豊にかけてです。
    そして、弥生時代の秦氏の本貫地は福津から宗像にかけての沿岸地?

    大業(たいぎょう)四年(608)、
    隋の煬帝(ようだい)が倭国に使者を派遣しています。
    この時の経路が次のように出てきます。

    「(略)東に航海して一支国(いきこく)に着き、さらに竹斯(ちくし)国に至り、
    また東に行って秦王国に着いた。秦王国の人々は中国人と同じである。
    それでそこが夷洲(いしゅう)とおもわれるが、はっきりしない。
    また、十余国を過ぎて海岸に到着する。竹斯国から東の諸国はみな倭国に属する」

    竹斯国の東に秦王国がある。
    これは羽田氏の居留地があって、その後散らばったのであろうか?
    福津市の縫殿神社では、神功皇后のお蔭で加羅と通えるようになったと喜んでいます。加羅に秦人が留まっていたんですね。新羅が邪魔をしていたんです。
    縫殿神社があるのは「奴山」(ぬやま)という所です。
    ここに加羅と連絡を取りたかった人たちが住んでいたということになります。
    3世紀ごろの話です。

    秦氏の上陸地は福津~宗像近辺ではないか

    秦氏の日本への渡来が3世紀。
    景教の中国流入が7世紀ですから「秦氏は景教徒のユダヤ人」という説は時代が逆転しています。

    【キリスト教】より
    …布教の経路は,北のクルディスターンからいわゆるシルクロードを通って中央アジア,トルキスタン,中国,モンゴル,シベリアに及ぶ陸路とアラビア半島からインドに達する海路の二つがあった。635年に長安(西安)に達したネストリウス派教会は景教の名で知られる。中国では勢力が伸びなかったが,のちこの教派を優遇したモンゴル人の元の時代に多少の拡大を見た
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。