天皇、和風諡号、イミナ、諱

December 2018 編集されました カテゴリ: 大和王朝
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和風諡号(国風諡号)を奉る制度は、記録に残る限り、持統天皇が最初であり、それ以前にはない(『続日本紀』の大宝三…

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  • May 2016 編集されました
    「葛城王朝」には、神武以下、綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化と9代の天皇がいる。上記の名称は漢風諡号(しごう)といわれ、天皇の死後に奉った「おくりな」である。また、「おくりな」は、生前の事績に対する評価に基づくと考えられている。
    誰でもが気付くように、孝昭、孝安、孝霊、孝元の4天皇は「孝」で始まるが、なぜなのか。
    「おくりな」の作者、淡海三船(722~785年)は、日本書記撰上の後に生まれたので編纂には関係していない。しかし日本書記撰上から五十年後には大学頭兼文章博士になっているから、日本書紀の記載内容および裏事情に通じていたと思われる。
    その淡海三船が上記のような「おくりな」を付けたということは、神武~懿徳の4天皇と孝昭~孝元の4天皇とは、例えば何らかの相違点があることを暗示していると捉える。
  • 神武天皇
    即位元年は日本書紀によれば紀元前660年1月1日です。「辛酉しんゆう年の春正月の庚こう辰しんの朔ついたちに天皇、橿かし原はらの宮みやに帝位す」とあります。

    日本書紀は西暦720年に完成されたものです。その後901昌しょう泰たい4年に「革命勘かん文もん」が三み善よし清きよ行つら55歳により上奏されました。神武天皇の即位年は古代中国の易えき緯いなどにみえる讖しん緯い説で説明できるとしたのです。神武天皇の即位年、紀元前660年は一蔀ぼう(1320年)ごとに訪れる革命の年とされる辛しん酉ゆう年に当たると唱えたのです。当時この論は相当に評価されたようで、年号が7月15日に「延喜」と改元されたほどです

    日本書紀は、辛酉601推古9年を基準にして、これより一蔀21元(1260年)前の辛酉年を神武即位元年と意図的に設定されたと考えました。
              1蔀=干支1周60年×21元=1260年

    本稿でも、讖しん緯い思想の日本最古の記録といわれる三み善よし清きよ行つらの「革命勘かん文もん」に大きな興味を覚えました。
    しかし、この意見書「勘かん文もん」は読んでみると、間違いや誤解、さらには思い込み、見当たらぬ古書引用と、乱用が多く見られることがわかりました。那珂通世氏でさえ、肝心の一蔀ぼう21元が1320年ではなく1260年の計算違いだと断じています。当時の三善清行自身も、最終的にこの書を「秘文」扱いにして、隠していたこともわかっています。

  • August 2017 編集されました
    神武天皇
    庚午BC711年生 ~ 丙子BC585
    神武76年崩御 
    127歳 日本書紀 他史書多数

    辛酉BC660神武 1年1月 1日 畝傍の橿原宮において即位
    丙子BC585神武76年3月11日 神武天皇が橿原宮にて崩御。時に127歳
    丁丑BC584空位 1年9月12日 畝傍山東北陵に葬る。

    綏靖天皇
    己丑BC632神武29年生~壬子BC549綏靖33年崩御 84歳 日本書紀 他すべて
    神武42年 1月 3日 綏靖を皇太子  (計算上 14歳)
    神武76年 3月11日 神武天皇崩御。この時、綏靖48歳。
    空位 1年 9月12日 畝傍山の東北陵に葬る。
       2年
       3年11月    綏靖が庶兄手た研ぎし耳みみ命を殺す。
    綏靖 1年 1月 8日 綏靖天皇即位。
                葛城の地に都を造らせた。これを高丘宮という。
                先の皇后を皇太后とした。この年太歳庚辰。
    綏靖 2年 1月    系譜記事
    綏靖 4年 4月    神八井耳命が薨去。畝傍山の北に葬る。
    綏靖25年 1月 7日 一人息子の磯城津彦玉手看尊を皇太子とする。
    綏靖33年 5月    天皇は病になり、10日に崩御。84歳。
    安寧 1年10月11日 綏靖天皇を倭やまと桃花鳥つき田だの丘おかの上うえ陵に葬る。

    安寧天皇
    戊申BC553綏靖29年生~甲子BC477懿徳34年  57歳 日本書紀他すべて

    綏靖25年       皇太子、年21
    綏靖33年 5月    綏靖天皇崩御
          7月 3日 太子即天皇位  
    安寧 1年10月11日 前綏靖天皇を倭やまと桃花鳥つき田だの丘おかの上うえ陵に葬る。
                前皇后を皇太后とする。この年、太歳癸丑(紀元前548年)
    安寧 2年       片かた鹽しおに遷都。これを浮うき孔あな宮という。
    安寧 3年 1月 5日 系譜記事
    安寧11年 1月 1日 懿徳天皇を皇太子に立てた。
    安寧38年12月 6日 安寧天皇崩御。57歳。
    懿徳 1年 8月 1日 安寧天皇を畝うね傍び山やま南みなみ御のみ陰ほと井いの上へ陵に葬る。

    威徳天皇
    戊申BC553綏靖29年生~甲子BC477懿徳34年  77歳 日本書紀など主流
    安寧11年 1月1日 皇太子になる。時に16歳。
    安寧38年12月6日、安寧天皇崩
    懿徳 1年 2月4日 皇太子が懿徳天皇として即位
          8月1日 安寧天皇を葬る。畝うね傍び山やま南みなみ御のみ陰ほと井いの上へ陵。
          9月丙ひのえ子ね朔ついたち乙きのとの丑うしのひ、皇后を尊び皇太后という。この年、太歳辛しん卯ぼう。
    懿徳 2年 1月 5日 輕地に遷都。曲まがり峽を宮。
                系譜記事
    懿徳22年 2月12日 孝昭を皇太子に、時に18歳
    懿徳34年 9月 8日 懿徳天皇崩御。
    空位 1年10月13日 懿徳天皇を畝傍うねび山やまの南、纎まな沙ごの谿たにの上かみ陵に葬る。
    孝昭 1年1月  9日 孝昭天皇即位
    注:懿徳1年9月丙ひのえ子ね朔ついたち乙きのとの丑うしのひという日付干支は、理論上あり得ない、日付だといいます。確かに丙へい子しが月のはじめの乙いっ丑ちゅうの日は60日目で30日を超えてしまいます。異文がないので、原本上の間違いと思われます。30日に当たる乙いっ巳しの勘違いかもしれません。自分の勉強のため、つまらぬ横道に逸れました。

    孝昭天皇
    甲寅BC427孝昭49年生~戊子BC393孝昭83年 114歳 日本書紀など主流
    懿徳22年 2月12日 18歳で皇太子
    懿徳34年 9月 8日 懿徳天皇崩御
    空位 1年10月13日 懿徳天皇を畝傍うねび山やまの南、纎まな沙ごの谿たにの上かみ陵に葬る。
    孝昭 1年 1月 9日 孝昭天皇即位
          4月 5日 皇后を尊んで皇太后と呼ぶ
          7月    掖上わきのかみに遷都。池いけ心ごころ宮という。この年太歳丙寅。
    孝昭29年 1月 3日 系譜記事
    孝昭68年 1月14日 孝安(日本やまと足たらし彦ひこ國くに押おし人ひと尊)を皇太子。年20。
    孝昭83年 8月 5日 孝昭天皇崩御
    孝安38年 8月14日 孝昭天皇を掖上わきのかみの博多はかた山やま上陵に葬る。

    孝安天皇
    甲寅BC427孝昭49年生~庚午BC291孝安102年137歳 日本書紀、本朝後胤紹運録等
    甲寅BC427孝昭49年生~庚午BC291孝安102年127歳 如是院年代記、仁寿鏡一説
    甲子BC417孝昭59年生~庚午BC291孝安102年120歳 仁寿鏡、神皇正統記

    孝昭68年 1月 年20歳にして皇太子となる。
    孝昭83年 8月 孝昭天皇崩御
    孝安 1年 1月27日 孝安天皇即位
          8月 1日 先の皇后を皇太后といわれる。太歳己丑。
    孝安 2年10月 室むろの地に遷都。秋あき津嶋つしま宮。
    孝安26年 2月14日 系譜記事
    孝安38年 8月14日 孝昭天皇を掖上わきのかみの博多はかた山やま上陵に葬る。
    孝安76年 1月 5日 26歳の孝霊を皇太子に立てる。
    孝安102年1月 9日 孝安天皇崩御

  • 天皇号の成立時期は、二通りの説がある。
     一つ目は、天皇号がはじめて用いられた時代を推古朝(593年 - 628年)であるとする従来の通説。
     二つ目は、天皇号は皇后の称号とともに飛鳥浄御原令(あすかきよみがはらりょう)で規定され、公式に使用された、という説。
     近年では後者の方の説が有力である。

     君主の公的な称号としての天皇号の採用は、天武朝であった可能性が強い。唐の則天武后が674年に「皇帝」を「天皇」と改称したのにならい、天武天皇も天皇号を採用したのではないか、と推測されている。「天皇(大帝)」は中国古代の宇宙の最高神天帝の名で、道教思想と深い関わりを持つが、天武の施政には道教的色彩が強く認められ、天武が天皇号を開始したとする説を補強している。

     飛鳥京跡から「大津皇」「津皇」「皇子」などの字のみえる木簡(もっかん)の削り屑が出土している。これらは天武天皇の皇子、大津皇子の名である。同時出土の他の木簡から天武10年(681年)と考えられている。皇子の称号が出てきたので、当然天皇の称号もこの時以前から使われていたであろうことは間違いない。
     これに加えて、『懐風藻』の序文では持統天皇以後についてのみ天皇号が用いられていることから考えて、天皇号は飛鳥浄御原令において公式に定められたと思われる。
  • 倭の五王の最後の王と考えられるワカタケル(雄略天皇)

    国内において「治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)」の称号を名乗っていたと推測されている。熊本県の江田船山古墳から出土した鉄剣の銘文には「治天下□□□□□(わかたける)大王」とあり、この頃(5世紀後期)には治天下大王の称号が生まれたことを示唆している。
     ただし、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣には「獲加多支鹵(わかたける)大王」とあり、大王号も併用されていたのではないかと考えられている。

     和歌山県の隅田八幡宮所蔵の人物画像鏡に以下の記述が見られる。
     「癸未年八月日十 大王年 男弟王 在意紫沙加宮時 斯麻 念長寿 遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱 作此鏡」
     「大王」や「男弟王」の言葉が使われている。癸未(きび)年は、383年、443年、503年、623年などの説がある。このうち443年(允恭、いんぎょう)と503年(武烈、ぶれつ)が有力である。443年を採ると5世紀の半ばには「大王」号が使われていたということになる。意紫沙加宮(おしさかのみや)(押坂宮)という宮号がみえる。しかし、釈読の定まらない文字が多く、銘文の内容についても説が多い。肝心の紀年銘が異体字であるので解釈が多様化している。「大王」号の使用時期ははっきりしない。

     第2回遣隋使(607年・推古15年)の上表文(国書)には、「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」(『隋書』倭国伝)と見え、対外的には「天子」の称号が使われている。しかし、一般的にはまだ「大王」という称号が使われていたらしい。
  • 応神 九州より攻め上る。忍熊、香坂皇子と戦って王位を奪う。
    仁徳 大鷦鷯(おほさざき)天皇。菟道稚郎子の自殺により即位。
    履中 去来穂別(いざほわけ)天皇。母、葛城襲津彦の娘・磐之媛。住江仲皇子の謀反。磐余の若桜宮に即位。平群・蘇我・物部が仕える。筑紫の三女神「どうして我が民を奪ったのか。わたしは今、お前をはじいらせよう」車持君が筑紫で罪を犯す(何故か、九州の神の話)
    反正 瑞歯別(みずはわけ)天皇。履中帝の同母弟。河内の丹比(たじひ)を都とする。柴籬宮(柴垣の宮)
    允恭 雄朝津間稚子宿禰(おあさつまわくごのすくね)天皇。反正天皇の同母弟。太子木梨軽皇子の逸話(同母妹との姦通罪により追い詰められ自殺)
    安康 穴穂天皇。木梨軽皇子の事件により即位。叔父の大草香皇子を殺し、その妻の中蒂姫(なかしひめ)を皇后に据え、その連れ子の眉輪王に殺される。
    雄略 大泊瀬幼武天皇。吉備上道臣田狭を任那にやり、その妻を奪う。皇位継承者を次々に殺害。
    清寧 白髪武広国押稚日本根子(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこの)天皇。母は、葛城韓媛。雄略帝の妃であった吉備の稚媛(もと吉備上道臣田狭の妻)が子(星川皇子)をそそのかし謀反を企てたが、共に焼き殺される。
    顕宗 弘計(をけ)天皇 父親を殺され兄(仁賢)と与謝郡に逃げる。
    仁賢 憶計(おけ)天皇。諱は大脚(おほし)、またの名は大爲(おほす)*旧本による。字名は島郎子(しまのいらつこ)、穴穂天皇(安康天皇)が崩御した時、丹波の余社郡(よさのこほり)に避難した。
    武烈 無道の限りを尽くした (断絶) 
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