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佐伯直は、佐伯部民の管掌者。河内皇別の佐伯直も稲背入彦命の後と『姓氏録』に記されます 皇別 景行天皇の皇子、稲…
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「蝦夷の叛乱」が告げられて『日本武尊の東国遠征』
『則(すなは)ち俘(とりこ)にさえる蝦夷等を以て、神宮に献(たてまつ)る。因(よ)りて吉備武彦を遣(まだ)して、天皇に奏(まう)して曰(まう)したまはく』云々(紀上 310頁)
と、『日本武尊』は『蝦夷』を「伊勢神宮」に奉献しながら、この後すぐに「30才」の若さで死んで(死なせて)、後を『吉備武彦』に任せてあるのである。
ここで注意すべきは『蝦夷等を以て、神宮に献(たてまつ)る』ことをしたと書かれた意味である。
景行天皇51年8月」
「伊勢での蝦夷の蛮行が目にあまり、余所に移して欲しい」とのことで、
『其の情(こころ)の願(ねがひ)の随に、邦畿之外(とつくに)に班(はべ)らしめよ」とのたまふ。
是今、播磨・讃岐・伊勢・安芸・阿波、凡(すべ)て五國の佐伯部の祖なり』(紀上 312頁)
とある『瀬戸内周辺の佐伯部』こそは、あとで挙げる『吉備武彦=御スキ友耳建日子=吉備臣建日子』の末裔と称した『吉備海部』の人々
「雄略天皇23年」条の『五百(いほ)の蝦夷等を率いた征新羅将軍吉備臣尾代』(紀上 500頁)
『毛野氏』
日本書紀の「景行天皇55年2月」条
そこでは「古事記」にはない『東山道』も「初見」となっている。
『彦狭島王を以て、東山道の十五國の都督(かみ)に拝(ま)けたまふ。是豊城命(とよきのみこと)の孫なり。
然して春日の穴咋邑(あなくひのむら)に到りて、病に臥して薨(みまか)りぬ。
是の時に、東國の百姓、其の王の至らざることを悲びて、窃(ひそか)に王の尸(かばね)を盗みて、上野(かみつけの)國に葬りまつる』(紀上 314頁)
と載せる。翌年の「景行天皇56年8月」条には、死亡した『彦狭島王』の後継者として、
『御諸別王に詔して曰はく、「汝が父彦狭嶋王、任(ことよ)さす所に向(まか)ることを得ずして早く薨(みまか)るぬ。故、汝専(たうめ)東国を領(をさ)めよ」とのたまふ』(紀上 314頁)
とあって、『則ち行きて治めて、早(すみやか)に善き政(まつりごと)を得ち。時に蝦夷騒ぎ動(とよ)む。即ち兵(いくさ)を挙げて撃つ』と、
『足振邊、大羽振邊、遠津闇男邊』などの『蝦夷の首帥(ひとごのかみ)、あるいは神官』の名まで挙げて、
『降(したが)ふ者は免(ゆる)して、服(まつろ)はざるを誅(つみな)ふ。是を以て、東(ひむがしのかた)久しく事無し。是に由りて、其の子孫、今に東國に有り』(紀上 315頁)
白国の佐伯神社
第四十六代考謙天皇の時、始祖稲背入彦命(景行天皇の孫で讃岐の国造・神櫛皇子の弟で播磨別の先祖)から二十四佐伯神社由緒書代目の子孫佐伯芸胡多が 天皇の命によって、初代の国造であった阿良津命(始祖より四代目の祖)を祀って佐伯神社を建てた時に、新羅訓の字を白国に改められたといわれ、それが今日に至っておるのである」としている
佐伯氏系図
天押日命 ━ 天津彦日中咋命 ━ 天津日命 ━ 道臣命 ━ 味日命 ━ 稚日臣命 ━ 大日命 ⇒
⇒ 角日命 ━ 豊日命 ━ 武日 ━ 武以 ━ 室屋 ⇒
⇒ ┳ 談 ┳ 金村
┃ ┗ 歌連 ━ 平曽古連 ━ 平彦連 ━ 伊能直 ━ 大人直 ━ 枳都直 ⇒
┗ 御物(林宿禰)
⇒ 男足 ━ 田公 ━ 道長 ┳ 空海
┗ 女子 ━ 円珍
祭神
神吾田津比賣、稲背入彦命、阿曽武命
由緒
景行天皇の皇子稲背入彦命が大和から播磨へ下向、この白国の地に宮殿を構え、統治をした。その孫の阿曽武命の妃高富媛が出産時、大いに苦しんだ。命は倉谷山の峰に白幣を立てて神吾田津比賣(木花咲耶媛)を祀り、安産を祈願した。女神が忽然とあらわれ、汝の祈りは天に通じている。とお告げになり、白幣と共に天高く舞い上がりお隠れになった。
妃は無事に出産、神徳に感謝し、倉谷山に社殿を設けて祀ったのが創始である。以上『神社の栞』
『式内社調査報告』では、応神天皇が当地を巡幸の時、三韓征伐の折りの阿曽武命の軍功を賞してこれをも合祀し「新羅国国主大明神」の神号を与えられ、当社を「日の宮」とも称したと云う。
佐伯神社由来・御祭神・阿良津命・当佐伯神社の御祭神・阿良津命はこの地の遠い御先祖であらせられ、佐伯直の姓を応神天皇より御受けになられました。
佐伯神社と大木 / 佐伯神社入口と社殿孝謙天皇の御代天平宝字二年(七五八)命の子孫の佐伯宿祢芸胡多というお方が出月岡という地に祖先の阿良津命をお祀りになられたのが、佐伯神社の創立であり、佐伯大明神として崇め奉りました。天皇の思し召しにより、佐伯姓を白国姓に改め、白国宿祢と申し上げる事になりました。阿良津命は白国の地を開かれた国造・稲背入彦命の曽孫にあたらせられる。今、境内に高くそびえる椋の大樹は長い歴史を物語っています」と記載されている。この由緒書によれば、この神社の祭神は白国宿禰である。「神社の由緒」については、白国郷土史愛好会「ふるさと白国」にも「第四十六代考謙天皇の時、始祖稲背入彦命(景行天皇の孫で讃岐の国造・神櫛皇子の弟で播磨別の先祖)から二十四佐伯神社由緒書代目の子孫佐伯芸胡多が 天皇の命によって、初代の国造であった阿良津命(始祖より四代目の祖)を祀って佐伯神社を建てた時に、新羅訓の字を白国に改められたといわれ、それが今日に至っておるのである」としている。
その御孫・阿曽武命の后・高富媛(たかとみひめ)
がご出産の際、大変な難産なので、阿曽武命は倉谷山に白弊を立て
一心に神吾田津日売命に祈願した。すると高富媛は無事男子を
出産された。そのご神徳に感謝して建てられたのが白国神社である。
「国造本紀」によると、第13代成務天皇の御代、稲背入彦命の孫・伊許自別命(いこじわけ)が針間国造に任じられたとある。
諸説あるが、この伊許自別命を阿曽武命とする説もある
で、佐伯宿禰今毛人(さえきすくねいまえみし)が怡土城専知官となり、3年後に完成した。建築には、当時他の作業に着かせる事が禁止されていた防人まで動員された。
出雲に皇子の介添えとして同行した曙立王も、実は丹波道主王の息子だったと推測出来ます。その曙立王(アケタツノミコ)の「あけたつ」自体が山代氏の祖先である「明立天御影命」の名前から採られた由緒あるものではないか、、、
垂仁が出雲への旅立ちを目前にした彼に「倭者師木登美豊朝倉曙立王」の特別な名を下賜したのも、王子自身が彦坐王を核とした帝室と天津彦根命系氏族そして息長氏さらには和邇氏を含めた、濃密な何重もの縁で繋がれた比類のない聖なる一族を体現していたからに他ならず、イリ王朝に代わって倭国のトップに立った応神天皇の基盤を支える「品遅部」を率いるのに最も相応しい存在であったのです。播磨風土記は地域と品太天皇の強い結び付きを様々な記述で語っていますが、隣国吉備の名称を冠した吉備品遅部雄鯽という武人が仁徳天皇の舎人として早くに登場している点から見ても、応神天皇が針間・吉備といった西国に強い影響力を持っていた事情が鮮明に浮かび上がります。また
「揖保郡太子町には阿曽の地名が残り当地付近で阿宗君が奉斎した揖保郡の阿宗神社がある。応神巡幸の伝承も『風土記』にみえるが、天皇一族として異例なほど応神が播磨の記事に頻出することに留意される。このように系譜を考え直した場合、息長帯比売と息長日子王の父である息長宿王とは、実態が稲背入彦命にあたるとみられ、これが息長田別命の子に位置づけられる。
針間国造一族(針間直、佐伯直)及び吉備品遅君・播磨阿宗君が稲背入彦命の後裔で、鍛冶氏族の「息長氏」の系統で、前王位を剥奪した。応神天皇はその息長氏の出であった。」
右京皇別下には景行皇子五十香彦命亦名神櫛別命の後とする吉 讃岐公と 景行皇子 稲瀬入彦皇 子の後の佐伯直が見える。
讃岐公祖五十香彦命と佐伯直祖御諸別命に注目したい。五十香彦命は五十河媛と対を成す.
針間国造の祖と毛野族の祖が同名でともに蝦夷と関わることは,針間国造が毛野族と同族か
子
八綱田 - 東国・朝鮮伝承は無し。
孫
彦狭島王 - 東山道十五国都督に任じられるが途中で病死。
三世孫
御諸別王(弥母里別命) - 都督として東国統治。
四世孫
荒田別 - 朝鮮伝承
鹿我別(巫別、賀我別王) - 朝鮮伝承。
五世孫
竹葉瀬(多奇波世、竹合) - 朝鮮伝承。
田道 - 朝鮮伝承。
現古
六世孫
奈良別
真若(賀表乃真稚命)
八世孫
射狭君
十世孫
佐太公[
上毛野君小熊 (6世紀前半?) - 『日本書紀』で初めて「上毛野」を冠する。武蔵国造の乱に関与
称徳天皇神護景雲二年(768)に至り麓の森に聖真大明神と建部大明神が設立され、建部郷17ヶ村の守護神として崇められ現在の建部神社となった。
「ふるさと伊野部のあゆみ」より
稲依別
創建は仁徳天皇の御宇四十年。これは『仁徳紀』四十年に、「播磨佐伯直阿餓能胡らに隼別皇子と雌鳥皇子を殺せと命じたが、皇女が身につけている足玉や手玉を取ってはいけないと云うことだった。所が、阿餓能胡は皇女の裳から玉を取り、妻に与えた。これが仁徳天皇の皇后の目にとまり、天皇は阿餓能胡を殺そうとしたが、阿餓能胡は自分の土地を差し出した。その土地は玉代と名付けられた。とある。
地名説話があることを以て、祭神もその頃には鎮座していたのであろうとの『播磨鑑』の推測である。 平安延喜の頃(900年頃)当地の領主大江千里が里人とともに崇敬してやまなかったとある。