総社、近畿の古社

December 2018 編集されました カテゴリ: 神社
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大和国 坂上田村麻呂の祖父である坂上犬養が大和守(やまとのかみ知事)に任命され、この大和国府に赴任し、故郷の高…

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コメント

  • May 2016 編集されました
    岡田鴨神社旧跡地

    岡田鴨神社は山城国・相楽郡・月次新甞と記される式内大社です。

    本殿は2殿あり向かって右が岡田鴨神社、左が天満宮でそれぞれ建角身命、菅原道真を祀っています。

    祭神:建角身命、菅原道真

    神武天皇の東征の先導役を務めた賀茂建角身命は大和の葛城に住みましたが、
    その後、山代の国の岡田の賀茂に移ります。
    つぎに木津川に沿って北上して賀茂川と桂川の合流点に出て(伏見久我神社)
    更に賀茂川を北上して「久我の国の北の山基」(北区久我神社)に鎮座したとされます。

    大和の葛城を発った賀茂一族は奈良盆地を北上して現在の京都に入り木津川を下って鴨川と桂川の合流する地点で上陸しました。
    その後、鴨川を遡り上賀茂神社に程近い久我神社付近に住み着きました。


    岡田国神社の国は恭仁で、聖武天皇憧れて遷都した恭仁京の地です。
    元明天皇の岡田離宮は岡田鴨神社の境内が伝承地です。
    岡田国、岡田鴨、岡田離宮の岡田は恭仁大橋を渡った木津川右岸の岡田山です。

    それらは瓶原(みかのはら)という古来多くの歌に詠み込まれた地にありました。
    岡田恭仁神社も風光明媚な瓶原に創建されたものと思います。
  • May 2016 編集されました
    仁徳天皇を祀る最初の神社は難波神社

    仁徳天皇が初めて大阪に都を置かれた。それまでは河内が中心で、本拠地は河内だったので、河内王朝と言っているのではないか?。こ の王朝の痕跡は、河内地域に分布する巨大な前方後円墳である。
    主祭神は、16 代仁徳(ニントク)天皇(313-399)である。天皇は日本最初の大規模土木事業を実施した。祭神は、配 祀:素戔嗚尊/須佐之男命(スサノオ)・宇迦之御魂神/倉稲魂命(ウカノミタマ)/素戔嗚尊の子。素盞鳴尊:嵐/暴風雨 の神、厄除けの神、縁結びの神、安産の守護神。宇迦之御魂神:生産の神/五穀豊穣の神である。神社創建は、反 正天皇元年(406 年)である。旧社格は、府社である。主な祭は、1歳旦祭、2玉の緒祭、3博労稲荷春祭、4由加 大祭、5菖蒲神事、6氷室祭(夏祭)、7例祭(秋祭)、8博労稲荷・火焚祭、9新穀祭である。本殿は、先の大戦の 空襲で全焼し、1948年仮宮を、1974年に再建され、本殿様式:流造、拝殿様式:流造である。境内摂社は、博労 稲荷神社は本社の西側にある。浪速の町が栄えるに従って、船場は商家の中心で、稲荷への信仰があつく、主祭神の名を奪い、難波神社のことを「稲荷社」「稲荷宮」と誤用された。(正式名は仁徳天皇社だった) 鳥居は5基(東西南 北の四方側にある鳥居と境内の西側に稲荷神社前鳥居)。高さは最高 7.58mである。
    かって、当社は上本町に在り難波神社は摂津国総社として「難波大宮」または「平野神社」(正式名)と呼ばれてい た。ご利益は生活安寧、厄除、除災招福、五穀豊穣、商売繁盛等である

    http://www.cave-ens.com/pdf/CENS6_005.pdf

    末社
    稲荷神社、金刀比羅神社、14 柱相殿神社である。

    境内社 金比羅神社
    金刀比羅宮を総本宮(主祭神:大物主神を祀る神社)で日本全国に存在する。大物主大神(オオモノヌシ-ノ-オ オカミ)は、日本神話に登場する神の蛇神であり、水神または雷神としての性格をもつ。さらに、稲作豊穣、疫病除け、 酒造り(醸造)などの神として篤い信仰。また、国の守護神である一方で、祟りなす強力な神ともされている。なお、大 国主の分霊であるため大黒天と称される金刀比羅神社の御祭神は西門付近に鎮座している。元来、堀江のお旅所 の東南隅にお祭りしていた。由緒は不詳ですが、江戸時代の旅所創建当初に祭られたものと思われる。1908 年(明 治 41 年)9 月 3 日、旅所から当社に移転しましたが事情は不明です。
    金比羅神社(コンピラ-ジンジャ)は、香川県仲多度郡琴平

  • 仁徳元
    313
    16 代仁徳天皇(313~399)、応神天皇と仲姫之命(なかつひめ)の子。高句麗、楽浪・帯方二郡 を滅亡、その地を併合。神明造(神社建築)。ミラノの刺令(キリスト教の布教を許す)


    仁徳元
    313 -399
    大伴金村、任那は古代に存在した朝鮮半島の南部地域」の四県(任那の上多利・下多利・娑 陀・牟婁)を百済に割譲。日本では任那を伽耶諸国全域と現在の全羅南道を含む地域とみなし てきたが、今日では伽耶諸国の中の金官伽耶を主とする外交機関を後世「任那日本府」と呼ん だと主張し、百済に割譲した四県は倭人が移住した地域。銘のある七支刀が百済から倭にもた される。
  • May 2016 編集されました
    丹波国 総社
    宗神社(そうじんじゃ)は、京都府南丹市八木町にある神社。旧称は宗社大明神または宗社。『延喜式神名帳』にある「三縣神社 三県神社(丹波国・桑田郡)」に比定される式内社(小社)の参考地で、丹波国総社推定地。御朱印の有無は不明。

    御祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)。鎮座地の南丹市八木町屋賀は、丹波国府推定地の一つ。この説の中で、当社は丹波国の総社(惣社)であったと考えられている。

    また、『延喜式神名帳』に記載された「三縣神社」の比定地がなく、当社のことではないかと推測されている。積極的な比定というよりは、消去法に近いため、参考社。

    境内は屋賀の集落の南部に位置する。集落に向かって本殿が北面する北面神社である。現在の本殿は寛永15年(1638年)の建立。当社の南東ほど近くに丹波国一宮である出雲大神宮が鎮座する。

    境内社に昭和33年(1958年)に創建された三輪大神神社(御祭神:大物主命)がある。

    丹波一之宮は出雲大神宮と称する。延喜式で神宮号を許されたのは、伊勢は別格として関東の鹿島、香取、九州の筥崎、宇佐の四宮に限られ、明治になってもその格式は変わらなかった。
    戦後それがフリーになったので、この宮も神宮号を称するようになった。

    それというのも、島根県の出雲大社に祀られる大国主命が最初に鎮座したのがこの宮であり、和銅年間に出雲国へ遷座したという。従ってこの宮を元出雲と呼ぶというのだ。出雲大社の源なら神宮号を自称するのもうなずける。

    祭神は、その大国主命と后神三穂津姫であるが、不思議なことに三殿あるうちの左右は、その二柱の夫婦神だが、中央に祀られる神が不明である。背後の御影山がそもそものご神体とされ、国常立神だという説もあるが、とにかく中央神が明確に伝わっていないのだ。

    いずれにしても一之宮を出雲神としていることは、この地に出雲からの移住民が数多く住み着いた証拠でもあろう。

    現在の本殿は足利尊氏造営による三間流造、国の重要文化財である。
  • 椋橋総社(椋橋神社)

    椋橋総社略記  (神社で頂いた略記です)

    御祭神 素盞鳴之尊・神功皇后(邪悪と災厄を除く神)

    御社紋 祇園木瓜

    当杜は古来より東西椋橋荘の中央である荘本(庄本)に鎮座し、同荘の総産
    土神で・椋橋総杜又は椋橋荘神崎松原の社とも称する。
    遠き神代の御時、素盞鳴之尊が高天が原より鯉に乗り、神前(神崎)の水門
    (ミナト)を経て当荘に御降臨なされたことにより、崇神七年椋橋部連の祖、
    伊香我色乎命(イカガシコヲノミコト)が斎い定め祀ったと伝えられている。
    椋橘荘は正史にも明らかな地で、椋橋部連とその曲民の住む土地であっ
    た。(東寺古文 新撰姓氏録)この荘の区域は猪名川を境にして東西に別
    れ、東椋橘荘が石連寺、寺内、浜、長嶋、三津屋、野田、牛立、菰江、上津
    島、嶋田、今在家、州到止、荘本(庄本)、島江、以上十四カ村と西椋橋荘が
    高田、神崎、戸の内、推堂、穴田、富田,額田、高畑、善法寺、法界寺、以
    上十ヵ村と東西合わせて二十四力村からなっていた。(地理志料)
    また、当杜は昔、神功皇后が新羅へご出発の時、神々をこの神庭に集め、
    幸をお祈りになったという霊験著しい古杜である。(摂津風土記・南郷春日旧
    記、豊島郡史、神杜明細帳)

    かくして朝廷の御崇敬も一方ならず、天文八年四月、御奈良天皇の勅願所と
    定められ、東椋橋荘を社領として加えられた。(大阪府全誌、大阪府史蹟名
    勝天然記念物)又、武門の崇敬も取分けて深く、明徳二年七月、藤原秀安は
    金鼓を寄進し、天正年間 池田筑後守は嫡子誕生のため武運長久を祈り獅
    子頭を寄進した。獅子頭は社宝となっている。なお、その他の社宝には元和
    六年の天下一長久の神鏡がある。
    世の推移に従い、氏地の中には別の祠を建て産土神として祀るところも出て
    きて、加えて戦国時代には付近一帯に兵乱続き・杜前も次第に衰退し、天正
    六年織田信長の荒木村重伐の折りの兵火により、社殿、宝物、古文書等ほ
    とんど焼失した。同九年仮殿にて神霊を鎮座し、慶長四年六月十四日、社殿
    を再建したが旧時の如くに復する事が出来ず、天正の頃まで氏地であった
    東長嶋も別に祠を建て、氏地は庄本・戸の内・高田・神崎・の四
    ヵ村となり、その後高田、神崎、戸の内も一村限りの祠を建て氏地は今の如
    くになった。
    大正五年八月、常夜灯の倒壊によって火災を起こし、本殿、拝殿が焼失し
    た。現在の社殿は翌大正六年四月に再建されたものである。
  • 京都市内
    羽束師坐高御産日神社境内
    本神社は,高御産日(たかみむすび)神と神御産日(かんむすび)神の二神を祭神とし,桂川右岸の旧乙訓郡の平野部に位置している。社地は「羽束師の森」とも呼ばれ,もとは大きな森であったと思われる。神明造の本殿と,入母屋造の拝殿は嘉永3年(1850)の再建になる。『続日本紀』大宝元年(701)にその名がみえることから,大宝元年以前には奉斎され,『延喜式』では大社に列している。本神社は,市内最古の神社として,また桂川流域の歴史を考えるうえで貴重な史跡である。近年急速な都市化により激変している周辺環境にあって,本神社とその森は価値の高いものといえよう。
  • 巨勢寺は、天武天皇朱鳥元年八月の条に「巨勢寺封二百戸」とあるのが最初の記録であり、現存する塔跡や複雑な加工を施した塔心礎などの多数の礎石の存在から、かなり大規模な寺であったことが推測されていた。塔跡部分は昭和2年に国の史跡に指定されている。

     昭和62年(1987年)から翌年にかけて、国道309号線バイパス工事に伴い発掘調査と範囲確認調査が行われ、講堂・回廊・築地などが検出された。また、多量の瓦および土器・三彩などが出土した。この調査により、白鳳期に創建され奈良・平安と存在し、平安時代に焼失したこと、法隆寺式の伽藍配置と考えられること、寺域は南北50メートル、東西100メートル程度と推定できることなどがわかった。

     このほか、寺に関わる遺構としては創建時の瓦を焼いた登窯2基、平安時代の梵鐘鋳造遺構などが検出されている。

    ~いにしえの御所を尋ねて(改訂二版) 御所市教育委員会より
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