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長門国 長門は、古くは「穴門(あなと)」と呼ばれた。 『日本書紀』によれば、大化6年(650年)穴戸の国司(草…
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阿岐(あき)国造 天湯津彦命の5世孫 飽速玉命 第13代成務天皇の御代 広島県安芸郡(安芸国安芸)~天湯津彦命系統の本流。後裔は田所明神社宮司田所恒之輔氏、同氏は安芸国造関係の文書(広島県重要文化財)を所蔵、研究されている。三ツ城古墳は阿岐国造が被葬者か。
波久岐(はくき)国造 阿岐国造の同祖 金波佐彦命の孫 豊玉根命(とよたまねのみこと) 第10代崇神天皇の御代 山口県山口市と宇部市・防府市の一部、または倉吉市と東伯郡(周防国吉敷)
由緒書き
等神社は成務帝(=成務天皇・人皇13代 西暦135年)の御世に阿伎国造として奉命された飽速玉命を主祭神として7柱の神を守護神として祀られている。命の子孫●後500年、広島市佐伯区五日市町三宅に住む。朝廷より田所職を置かれ、大化の改新の後、府中に国庁が置かれた。田所家は代々その職に任じ、故に屋号として。往古田所職は厳島明神、速谷明神、多家神に永代勅使代として、神祭に挑み政務を司った。
田所総判官代信職をはじめ歴代国府上卿職は厳島明神の定勅使を勤めた。中古より国庁神社の神事を中心に氏子の農耕養蚕商業によって生活の基礎が進められてきた。大正5年11月多家神社社司田所元善(竹槌)が、国庁神社・槻瀬明神・大黒社三社の御祭神を合祀し田所明神社と改め、氏子万民とともに盛大な御遷座祭が斉行され国家安泰、家内安全、五穀豊穣等、神明に加護を祈った田所明神社は万民崇敬者の家内安全・農耕安産生育・厄除け・学業成就・商業繁栄等において霊験あらたかで神威明照御神徳高く尊崇篤き神社である。
甲立古墳
広島県安芸高田市甲田町上甲立菊山
形状 前方後円墳
規模 全長75m、高さ13m 築造年代 4世紀後期
特記事項 広島県第3位の規模
4世紀後半頃に築造された前方後円墳で、安芸高田市教育委員会が広島大学考古学研究室に依頼した測量調査によって、2009年11月に確定に至った。この菊山付近には、安芸国の国人領主・宍戸氏の城であった柳ヶ城があり、古墳はその一部と見なされており、上記調査までは古墳として認識されていなかった。柳ヶ城の調査を担当した東広島市教育文化振興事業団の指摘などによって、2008年2月に調査が開始され、古墳と確認された。
調査古墳は菊山中腹斜面に築かれており、前方部分が南、後円部分が北に配置されている。広島県内では最古の時期のものとされ、推定されるその規模は全長75m、高さは約13m。三ツ城古墳(5世紀、全長92m、東広島市、国の史跡)、辰の口古墳(4世紀後半、全長77m、神石高原町、県史跡)に次ぐものである。また、古墳側面の斜面部分には川石を使った葺石が施され、埴輪が配置されていたことも判明した。
県北部の山間地に築造された備後地方最大の前方後円墳である。ほぼ南から北に向かって延びる低丘陵上に位置し,墳長は77mで,後円部を北側の谷平野に向けている。
埋葬施設は,後円部頂部竪穴式石室があり,西側くびれ部からは埴輪棺が確認されている。竪穴式石室は,約2000枚の厚さ5cm程度の板石を積み上げて造られている。発見された当初から北側の小口が開口しており,石室の外にかき出された土砂の中から碧玉製管玉が出土している。
本古墳の築造時期は,円筒埴輪や墳丘の形態,石室の構造などから,古墳時代前期後半,すなわち西暦4世紀後半頃に比定される。
この地域は,弥生時代後期以来,吉備・出雲地方の影響を受けた地域であり,畿内勢力が両勢力を牽制するための要衝の地と評価したため,この地方の首長に大型の前方後円墳の築造が認められたものと考えられる。
辰の口古墳
神石郡神石高原町
構造形式 前方後円墳,竪穴式石室
法量 墳丘/全長77m
後円部/径南北41m,東西36m,高さ7.3m
前方部/長さ36m,前端幅24m,高さ4.9m,くびれ部幅16m
石室/内法長6.7m,幅0.8m,高さ1.1m
○神石高原町役場神石支所から北東へ約500m
○JR福山駅前から中国バス「呉ヶ峠」バス停下車北東へ約700m
同市内にある同名の神社3社、および大阪府八尾市にある玉祖神社は当社から勧請を受けたもの。
物証はないが、勾玉や管玉を作る集団である玉造部が祖神玉祖命を祀るために創建したと考えられている。
日本書紀によれば、景行天皇が熊襲征伐のために西行する途中、この地の神夏磯媛(かみかしひめ)を長とする一族が神器を捧げ恭順を示し、このとき天皇は玉祖神社で戦勝祈願したという。
社伝によれば、祭神の玉祖命がこの地で亡くなったため、社殿を造営して祀ったのに始まるとされ、附近には玉祖命の墳墓と伝えられる「玉の石屋」がある。平安時代には周防国一宮として崇敬を受け、中世以降も歴代領主から崇敬された。神階は康保元年(964年)に従一位まで昇っ
[波久岐国造 (周防)]
波久岐国造は波久岐国(現・山口県山口市と宇部市・防府市の一部)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると崇神天皇(10代)の時代、阿岐国造と同祖の金波佐彦(かなはさひこ)の孫である豊玉根命(とよたまねのみこと)を国造に定めたことに始まるとされる。一説には阿波国造との混同とも言われており、関連の古墳や出土品が無いために実在したかどうか不明である
周防娑婆に至るとき富海防府の地一帯に多くの部衆を有する女酋神夏磯姫なる物が居て勅使に帰順の意を表したが、なお、残賊として佐波川上流あたりに皇命に反する者があったので、それらを速やかに平定し復命した。
玉祖神社 防府市大字大崎1690
通称霞山。糘山(すくもやま・神社北北西600m)。景行天皇宮城森(神社北方300m)に行宮を設けられた際、この山に八神(神皇産霊神・高皇産霊神/生産霊神/足産霊神/魂留産霊神大宮売神/御膳都神/事代主神)を祭られ、その時の祭器を埋められたところ。
景行12年8月景行天皇は周防国富海に着いた。この地の女酋夏磯姫は、天皇を歓迎し、周辺の賊の情報を伝えた。佐波川上流に賊がいるという情報を得た景行天皇は大崎の宮城森に行宮を設け、そこを拠点として賊退治をし
神功皇后が秋月の羽白熊襲(はじろくまそ)を征伐せられ、次いで筑後国、大和県(あがた)の田油津姫(たふらつひめ)を滅ぼそうと、津古から舟にて得川(とくがわ:宝満川)を下られ、この神磐戸にお着きになった。
「肥前風土記」には、17人中6人は女酋(女首長)であったと記されていますし、「豊後風土記」には、速見郡に速津媛、日田郡に久津媛、五馬に五馬媛(いつまひめ)といった女酋の活躍が記されています。
この中の速津媛は、天智天皇の御代に瀬織津姫と共に祓戸神として習合される、速吸瀬戸の海の女神、速秋津姫である可能性が高い思われます。
「日本書紀」には、この八女津媛の他に、九州の女酋では八女市に隣接するみやま市山門(やまと)にいた田油津媛(たぶらつひめ)を、神功皇后が討ったと書かれています。
福岡県の九州歴史資料館は16日、祭祀(さいし)で使った「導水施設」の一部とみられる木樋(もくひ)が平成23年に同県行橋市の延永(のぶなが)ヤヨミ園遺跡で見つかり、その後の調査で古墳時代前期(3世紀中ごろ~4世紀中ごろ)の国内最古級と判明したと発表した。同種の木樋は近畿を中心に約10件見つかっており、最古とされた奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の木樋とほぼ同時期とみられる
番塚古墳は、福岡県京都郡苅田町大字尾倉に所在する前方後円墳である。苅田町は北部九州の東北、瀬戸内海の周防灘に面しており、現在では大阪と結ぶ航路が開かれ 九州の西の玄関口となっている。番塚古墳は海岸線に沿って南から北にのびる細い丘陵の先端近くに位置し、前方後円墳の主軸を丘陵にあわせて造営を行っている。
番塚古墳が所在する京都郡周辺は、早くから北部九州と瀬戸内沿岸地域の交流を示す土器文化の様相が見られる地域である。特に行橋市の長井遺跡では、弥生時代最古の板付Ⅰ式土器が出土しており、朝鮮系無文土器とともに注目される。その後、弥生前期末から中期にかけてこの地域の遺跡数は急増し、なかでも下稗田遺跡・前田山遺跡(行橋市)は、本格的な発掘調査が行われた大規模な集落・墳墓として著名である。また、この地域では弥生時代において大型の首長墓は出現せず、政治的結集度はさして大きくなかったことが窺われる。この地域が注目を集めるのはその後の古墳時代の到来期である。すなわちそれは三角縁神獣鏡7面をはじめとする遺物が出土した石塚山古墳(全長110m、苅田町)に代表されるように畿内型前方後円墳の出現である
番塚古墳は墳丘こそ失われているものの、石室内からは豊富な遺物が出土している。出土須恵器の型式学的な編年に照らしあわせてみれば、それらは田辺編年のTK47型式とMT15型式に相当するものであり、実年代でいえば5世紀末から6世紀初頭にわたるものであると考えられている。この年代は他の出土遺物(鏡・馬具・埴輪など)の年代観とも矛盾しないものである。この番塚古墳の被葬者の性格について考えてみると、被葬者は豊前の京都平野における首長系譜に属すると考えられるが、その豪華な副葬品からみて畿内の大和政権や百済など古代の朝鮮半島との直接・間接の関連性がみとめられる
墳丘長120m前後
築造年代 3世紀中頃~4世紀初頭
埋葬施設 竪穴式石室
出土品 三角縁神獣鏡7面以上 銅鏃 素環頭大刀
石塚山古墳は京都府椿井大塚古墳、岡山県備前車塚古墳などと同じく墳丘に円筒埴輪列が見られない。また、出土遺物に石釧や車輪石、鍬形石などの石製腕飾類を含まず、出土鏡がすべて舶載鏡(中国鏡)と考えられる共通の要素を持っている。これらの共通の特徴を持つ古墳は従来から、古墳時代でもきわめて早い時期にあたる4世紀初めごろの年代が推定されてきた。
しかし、最近はさらに年代を遡らせて、これらの古墳の築造時期を3世紀の中頃から後半を想定する考えも広がりつつある
出土遺物は石塚山古墳より少し離れた宇原神社に所蔵されている舶載三角縁神獣鏡6種7面、素環頭大刀、銅鏃があるが、小倉藩主「小笠原家文書」によると銅鏡は11面(「宇原神社由来記」によると14面)と金具が出土したと伝えられる。現存する鏡は岡山県備前車塚古墳、京都府椿井大塚山古墳などの出土鏡と同笵である。鏡7面を含む出土品は1953年に国の重要文化財に指定されている。1987年に再発掘が実施され、後円部の石室は大破していることがわかった。この時の発掘では細線式獣帯鏡片、琥珀製勾玉、碧玉製管玉、小札革綴冑片などが出土した。
石塚山古墳から出土したと伝えられ、現存する三角縁神獣鏡の種類の内訳と小林行雄らが明らかにした他の古墳との同笵鏡の分有関係は以下の通りである。
吾作銘四神四獣鏡(複像式) 京都府椿井大塚山古墳、岡山県備前車塚古墳、大阪府万年山古墳出土鏡と同笵
天王・日月・獣文帯四神四獣鏡(単像式) 福岡県御陵古墳出土鏡と同笵
天王・日月・獣文帯四神四獣鏡(単像式) 岡山県備前車塚古墳、奈良県新山古墳出土鏡と同笵
天王・日月・獣文帯三神三獣鏡一種2面 京都府椿井大塚山古墳、福岡県原口古墳、大分県赤塚古墳出土鏡と同笵
日月・獣文帯六神四獣鏡
日日日全・獣文帯三神三獣鏡
大原八幡神社の創建については、御祭神大原足尼命が神功皇后の御代(西暦二〇九年ごろ)豊前、豊後の国造として、民を安じ徳望あり、とくにこのころ新津に港を造り公私船舶往還の港となり大いに栄える。
命が亡くなれると住民は、この徳を慕い大字新津字祖父墓の地に命の塚を造り祭る。
其後六世紀後半(西暦五七〇年ごろ)この京都地方を治めていた物部氏が祖先を同じとする命を、港の正面に恩塚山に大いなる塚(廟所)を造り氏神として祭る。
その後、饒速日命・応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を御観請し現在に至る。
当社のご祭神は13代成務天皇の御代に安芸国造を賜った飽速玉男命(アキハヤタマオノミコト)であり、ご神体は本殿の下に埋まる巨石である。
広島といえば厳島神社が日本三景の一つにあげられ、有名すぎるため速谷神社の名前を全国で知る人は少ない。しかし、安芸の國の一の宮は速谷神社であり、この神社の歴史も、いつ祀られたのかは定かでない。しかし、当社の略記によれば嵯峨天皇(在位809年~823年)の弘仁2年(西暦810年)に名神に列せられ、その後の「延喜式神名帳」(延長五年・西暦927年編纂)のなかで安芸の國三社(速谷・厳島・多家)のうち唯一、名神大社(延喜式に記載された3,132座のうち創建年代も古く、とくに霊験の顕著な全国285座をいう)の殊遇を受けている、それほどの社格のある神社である。
天湯津彦命五世の孫。成務天皇の時、勅により初代安藝(安芸、阿岐)国造となった。
「飽」は借字で「明」、「速」は「映」、よって明るく映える玉を意味する。
速玉の神名から、速玉男命と同神とする場合もある。
速谷神社 広島県廿日市市上平良308-1
野間神社 愛媛県今治市神宮字杉ノ下甲699
『先代旧事本紀』「成務天皇の時代に飽速玉命(あきはやたまのみこと)が安芸国造に定められた」と記されています。この「飽速玉命」こそ、速谷神社のご祭神なのです。このことにより、古代の安芸国は飽速玉命を祖先神として仰ぐ一族によって統治されていたと考えられています。現在も速谷神社が『安芸国総鎮守』と呼ばれているのは、この一族が安芸国の基礎を固め、開拓発展させたからです。
速谷神社
ところで速谷神社が鎮座する廿日市市は昔、「佐伯郡」と呼ばれていました。今も広島市佐伯区など「佐伯」の地名が残っています。『日本書紀』景行天皇の条に、播磨や讃岐、伊予や安芸、阿波に「佐伯部」と呼ばれる部民集団がいたことが記されています。そして安芸国造の一族から佐伯部を統率するものが出て、のちに「佐伯氏」を名乗ります。佐伯氏は有力で、安芸国の各地を本拠地にして、それぞれ所領する地名を名字とします。また厳島神社神主家も世襲することになります。
平安時代の『延喜式神名帳』には、佐伯郡の神社として「速谷神社」と「厳島神社」の二社が載っています。佐伯氏にとって祖先神を祀る「速谷神社」と崇敬神を祀る「厳島神社」は、ともに朝廷からも篤く信仰され、相拮抗しながら社格を上げていきます。
野間神社が「野間天皇神」「濃満天皇神」などと呼ばれたことから祭神・牛頭天王とし、須佐之男命を主神とする説もあるが、『野間神社誌』では飽速玉命・若弥尾命・野間姫命を主祭神とし、須佐之男命は配祀であろうとする。ただし、中世、牛頭天王を祭神とした時期があったことは別当・乗禅寺に残る文書などから明らかである。
愛媛県今治市神宮に鎮座する野間神社は
飽速玉命(あきはやたま)、若弥尾命(わかみお)、
野間媛命(のまひめ)、そして須佐之男命(すさのお)
の四柱の神が祀られている。
若弥尾命(わかみお)はここら一帯の開拓神。
彼は若かりし頃、神功皇后の三韓征伐の折
大きな虎が神功皇后の軍船に近づいているのに
いち早く察知し、矢を放ってその虎を退治した功により、
怒麻国造(ぬまのくにのみやつこ)に任じられた。
飽速玉命(あきはやたま)は若弥尾命(わかみお)の祖父で
阿岐国造、野間媛命(のまひめ)は若弥尾命(わかみお)のお后である。
楽音寺蔵『安芸国神名帳』には平安末期の安芸国内の神社が列記されているが、現存する写本は巻首が欠失しており、おそらくは冒頭に記されていたであろう速谷神社の祭神すべてと伊都伎島神社の神階正一位の祭神が欠け、それに続く従二位の神々からが記されている。
これを補うのは、当初は『壱岐国神名帳』とみられていた『伊都伎島神社古神名帳』。
これは、大治五年(1130)の伊都伎島神社神名帳に『伊都伎島大明神縁起抄』の一部を加えたものを弘安七年(1284)に書写したもの。
平清盛が大改修を加える前の伊都伎島神社の「大宮」と「客宮」に祀られる神々を記しており、それぞれ現在の本殿と客人神社に相当する。
当時の祭神は以下の通り。
『伊都伎島神社古神名帳』を主にし、脱落や文字の異同を『安芸国神名帳』により補う。
大宮
南無伊都伎島大明神 正一位上
中宮 正一位
天磐別明神 従二位(*安芸国神名帳、天磐門別明神) 已上三所上
別若宮 正一位
宗形明神 従二位(*安芸国神名帳、天津宗方明神)
筑紫現主明神 従二位
禅師御子明神 従二位
今君御子明神 従二位
剣御子明神 従二位〔已上〕
[*若御子明神 正三位](安芸国神名帳により補う)
犬甘御子明神 正三位 俗
[*鷹甘御子明神 正三位](安芸国神名帳により補う)
[*宗方小専明神 正三位](安芸国神名帳により補う)
天光明神 正三位 女(*安芸国神名帳、天津光明神)
光雷明神 正三位 童(*安芸国神名帳、光電明神)
聖御子明神 正三位 僧
七郎御子明神 正三位 児
若君御子明神 正三位 小児(*安芸国神名帳、若宮明神)
三郎御子明神 正三位 児
昭電明神 正三位 童
光尊明神 正三位 俗(*安芸国神名帳、光君明神)
日照明神 正三位 女
客宮
南無大兄客人明神 従二位(*安芸国神名帳、大江客人明神)
今客人明神 従二位
隈岡客人明神 従二位
興雄客人明神 従二位
嗚電明神 正三位 童(*安芸国神名帳、鳴電明神)
大山彦姫明神 正三位 女(*安芸国神名帳、大山度姫明神)
門山姫明神 正四位 女
波時明神 正四位 俗
若君明神 正四位 児
今君明神 正四位 児
長原明神 正四位 俗(*安芸国神名帳、長屋明神)
現日明神 正四位 女
已上
正一位 上大宮 正一位 中宮 [*正一位 別若宮]
従二位 十所
正三位 十五所 正四位 六所
もともとの祭神は伊都伎島神のみだったのが、時代が下るにつれ仏法の影響も受ける中で様々な神々が増えていき、平安末期には合わせて三十四柱の神々を祀る大所帯となっていた。
現在、本殿と客人神社にはそれぞれ六基、五基の宝殿が格納されており、平安末期にはそれらの社殿が浜にむき出しで建っていたと推定されている。
つまり、大宮の六社殿に二十二柱の神々が、客宮の五社殿に十二柱の客人神が祀られていたということ。
*『日本三代実録』貞観元年(859)1月27日条
安芸国正五位下の伊都伎嶋神と従五位上の速谷神に従四位下を、従五位下の多家神に従五位上を授く。
*『日本三代実録』貞観元年(859)3月26日条
安芸国正六位上の大麻天神、伊都伎嶋中子天神、水分天神、天社天神に従五位下を授く。
*同貞観五年(863)10月29日条
安芸国正六位上の天磐門別神と在屋神に従五位下を授く。
*同貞観九年(867)10月13日条
安芸国従四位下の伊都伎嶋神と速谷神に従四位上を、従五位上の安芸都彦神に正五位下を、
正六位上の生石神に従五位上を、正六位上の伊都伎嶋宗形小専神と椙樌神に従五位下を授く。
「伊都伎嶋中子天神」は相殿の中宮、「天磐門別神」は相殿神の天磐別明神の可能性あり、
「伊都伎嶋宗形小専神」も相殿神。
当時は『延喜式』神名式にあるように「伊都伎嶋神」が主祭神であって朝廷の幣帛はこの一座にのみ頒布されており、
中宮や若宮がそれに次ぐ存在であって、
宗像明神は、その頃はまだ御子神筆頭の別若宮に次ぐ幾多の御子神たちと同列の神だった。
『平家物語』においては伊都伎嶋明神は「娑羯羅竜王の第三の姫宮」と記されて女神という認識になっており、
それと島の名の「いつきしま」と宗像三女神の一柱「市杵島姫命」の名の類似、
そして市杵島姫命と習合した弁才天信仰の広まりなどにより、鎌倉時代後期ごろに主祭神に昇格したとみられている。
中世の本地垂迹説における厳島の神々の本地は、『源平盛衰記』巻十三には、
御垂迹は、天照大神の孫、娑竭羅竜王の娘である。
本地を申し上げるに、大宮は大日、弥陀、普賢、弥勒、中宮は十一面観音。
客人宮は、仏法護持多聞天。眷族神等は、釈迦、薬師、不動、地蔵である。惣八幡別宮と申し上げる。
とあり、
戦国時代の厳島神社の棚守(宮司)房顕の語ったところを記した『厳島草創記』には、
大宮の本地を「大日・普賢・十一面・阿弥陀・弥勒・虚空蔵」とし、
客人宮の本地を「毘沙門・不動・釈迦・薬師・地蔵」としたうえで、
観音堂を「両者の御本地十一面」としている。
古代末期より、厳島明神の本地には「観音菩薩」と「胎蔵界大日如来」の二説が並立していた。
平清盛は観音菩薩説を採り、平家納経願文にその旨が記されているが、
大日如来説も根強く、『古事談』には、「日本国中大日如来は、伊勢大神宮と安芸厳島なり」とある。
*『日本三代実録』貞観元年(859)3月26日条
安芸国正六位上の大麻天神、伊都伎嶋中子天神、水分天神、天社天神に従五位下を授く。
讃岐の大麻神 従五位上
五十六代 清和天皇 「貞観七年冬十月九日丁巳讃岐国従五位下大麻神授 従五位上」(三代実録)
六十代 醍醐天皇 「延喜十年八月二十三日授 讃岐国大麻天神従四位下」(日本紀略)
ところで、広島県宮島町にある有名な厳島神社は、「旧官幣中社。祭神は市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命ほか。
平家の氏神として厚く崇敬された」とあり、寿永4(1185)年3月、壇ノ浦で行われた源平合戦で、源義経の源氏軍に滅びた4)後、生き残った平家の郎党、一族が全国各地に逃亡。桃山町内でも野田原谷や大原等、山中に深く移り住んだと伝えられることから、銚子ノ口にも一部が住み、往古、厳島神社を祀ったのかも知れない。