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記紀にない。しかし、神社や氏族の系譜に有名。 籠神社の『海部氏本系図』からも、アメノムラクモは削除されている。…
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コメント
天牟羅雲命 を祀る神社
天村雲神社 徳島県吉野川市山川町村雲133
天村雲神社 徳島県吉野川市山川町流32
伊笠神社 徳島県阿波市市場町犬墓字白水伊笠山上194
大麻神社 香川県善通寺市大麻町上ノ村山241
厳島神社 広島県廿日市市宮島町1-1
河原淵神社 東殿 三重県伊勢市船江上社東隣
熊野速玉大社 境内 新宮神社 和歌山県新宮市新宮1
日前國懸神宮 境内 日前宮末社 和歌山県和歌山市秋月365
伊富岐神社 境内社 岐阜県不破郡垂井町岩手字伊吹1484-1
式内社 阿波國麻殖郡 天村雲神伊自波夜比賣神社二座
御祭神 天村雲命 伊自波夜比賣命
延喜式神名帳の記載様式では、忌部神社の名から改行され、数段下げて、天村雲神伊自波夜比賣神社二座と書かれていることから、昔は、忌部山にある忌部神社の摂社だったようだ。
そこで、天牟羅雲命が高天原へ上って伝えたところ、 天照大御神は天忍石長井之水を八杯玉鋺に入れ「この水をもって食国に降り、 八盛を皇大神の御饌料とし、八盛を皇孫の御飯の材とし、残りを天忍石水といって 食国の水の上に注入し混和して朝夕の御膳の料とせよ。また従って降りた神々にも飲ませよ」と云った。 天牟羅雲命はこれを以って降り皇孫に奉告した。
この時、皇孫は天牟羅雲命にどの道を上って行ったのかお聞きになり、 天牟羅雲命は、大橋は皇孫の道なので、私は後の小橋を上りましたと答えた。 皇孫は天牟羅雲命に天二上命(あめのふたのぼりのみこと)、後小橋命と二つの別名を授けた。
同様の話は天忍雲根神にもある。同神か。
天璽瑞寶十種類(あまつしるしのみづのたからとぐさ)
嬴都鏡(おきつかがみ)、 邊都鏡(へつかがみ)、 八握劔(やつかのつるぎ)、 生玉(いくたま)、 死反玉(よみかへしのたま)、 足玉(たるたま)、 道反玉(みちかへしのたま)、 蛇布禮(へびのひれ)、 蜂布禮(はちのひれ)、 品物布禮(くさぐさのもののひれ)。
三十二人の防衛(ふさぎもり)
天香語山命 尾張連等祖
天鈿賣命 猨女君等祖
天太玉命 忌部首等祖
天兒屋命 中臣連等祖
天櫛玉命 鴨縣主等祖(大己貴神の前に出現した奇魂神と同神か)
天道根命 川瀬造等祖(神魂命五世孫)
天神玉命 三嶋縣主等祖(神魂命、あるいは後裔)
天椹野命 中跡直等祖(伊勢河曲郡中跡郷に関係する神か)
天糠戸命 鏡作連等祖(石凝姥命の父神)
天明玉命 玉作連等祖
天牟良雲命 度會神主等祖(明日名門命三世孫、額田部宿禰の祖) 他
左京, 神別, 天孫, 尾張連, 連, 尾張宿祢同祖, 火明命之男天賀吾山命之後也, 右京, 神別, 天神, 額田部宿祢, 宿祢, 明日名門命三世孫天村雲命之後也
『新撰姓氏録』
■ 摂津国 神別 天神 額田部宿祢 角凝命 男・五十狭経魂命之後也
■ 摂津国 神別 天神 額田部 額田部宿祢同祖 明日名門命之後也
■ 摂津国 神別 天神 委文連 角凝魂命男伊佐布魂命(いさふたま)之後也
■ 河内国 神別 天神 委文宿祢 角凝魂命之後也
■ 河内国 神別 天神 美努連 同神四世孫天湯川田奈命之後也
■ 摂津国 神別 天孫 凡河内忌寸(おほしこうちの・いみき) 額田部湯坐連同祖
■ 河内国 神別 天神 鳥取 角凝命三世孫天湯河桁命之後也
●ここには額田部宿禰は角凝(魂)命の末裔で、同じ神から出るのが委文・美努・凡河内・額田部湯坐・鳥取氏などだと書いている。
額田とは糠(=ヌカは砂鉄や砂金の鉱山師隠語)から来ている。
額田部一族の祖神である角凝(魂)命とよく似た神名で石凝姥(いしごりどめ)命というのがあるが、この神は神話の天の岩戸で鏡を作っており精銅者であり、その子供は天糠戸(あめのぬかど)とされる。つまりヌカは鍛冶屋を指している。この親子神は「鏡作祖」である。
したがって糠田と額田は同義でどちらも鍛治氏族であることになるから、鳥取や美努や凡河内もおそらく鍛治関連氏族だろう。
鍛治、製鉄関連氏族が天皇の乳母になっていることを覚えておくと便利。
「みかげ」とは文字通り御影石=花崗岩がさらに圧縮されたもの=大理石・マーブル=大量の砂鉄を含む。ちなみに古墳石室に御影石(花崗岩)を使う氏族は豊前秦氏などがあって、おそらく製鉄関連である。別名を天目一箇命・天津麻羅命(あまのまひとつ・あまつまらのみこと)
祭神
大若彦命、櫛玉姫命、須佐之男命、熊野大神 ほか
由緒
社頭石碑から
第十一代垂仁天皇の二十二年、皇女倭姫命が皇祖天照大神御鎮座の地を求められて、当地にお成りの節、御案内役として顕著なお働きをされた大若子命を当地の守護神としてお祀りするよう御下命になりました。
之が櫛田神社の起源で、中略、当社の社格は高く皇太神宮の所管で宮七院社十二社の巻頭三位に位置し櫛田の西方に櫛田大社として鎮座されました。
伊勢国風土記逸文(大神宮儀式解)
天照大神は美濃の国から廻って安濃の藤方の片樋の宮においでになった。 その時安佐賀山に荒ぶる神がいた。百人行けば五十人殺し、四十人行けば二十人を殺した。 これがため倭姫命は度会の郡の宇治の村の五十鈴の川上の宮に入り給わず、藤方の片樋の宮に奉斎した。 そのころ、荒ぶる神の所業を、倭姫命は中臣の大鹿島命と伊勢の大若子命と忌部の玉櫛命を遣わして天皇に申し上げさせた。 天皇が仰せられるには「その国は大若子命の先祖の天日別命が平定した国である。大若子命よ、お前がその神を祭り鎮めて倭姫命を五十鈴の宮にお入れ申し上げなさい」といって、すなわち種々さまざまな神への捧げ物を賜って返し遣わされた。 大若子命はその神を祭ってすっかり安全に鎮め、そこで社を安佐賀に建てて祭った。
吉野裕『風土記』から
二十六年[丁巳]冬十月[甲子]、天照太神を奉遷し、度会の五十鈴の河上に留る。
倭姫命は、御送駅使安部武渟河別命、和珥彦国茸命、中臣国摩大鹿嶋命、物部十千根命、大伴武日命、度会大幡主命等に、夢の状を教へ知らせた。大幡主命は悦び、「神風の伊勢国、百船 度会県、さこくしろ宇治の五十鈴の河上に鎮り定まり坐す皇太神」と国寿き申し上げ、終夜ら宴楽舞歌し、日小宮の儀の如く祭った。…中略… 送駅使が朝廷に還り上り、倭姫命の夢の状を返事申上げると、天皇はこれを聞こし食して、大鹿嶋命を祭官に定め、大幡主命を神の国造兼大神主に定められた。
豊宇気大神
泊瀬朝倉宮大泊瀬稚武天皇(=雄略天皇)即位二十一年[丁巳]冬十月、倭姫命、夢に教へ覚し給はく、「皇太神、吾一所耳坐さば、御饌も安く聞こし食さず、丹波国与佐の小見比治の魚井原に坐す道主の子八乎止女の斎奉る御饌都神止由居太神(みけつかみとゆけのおほかみ)を、我が坐す国に欲し」と、誨へ覚し給ひき。時に大若子命を差し使ひ、朝廷に参り上らしめて、御夢の状を申させ給ひき。即ち天皇勅して、「汝、大若子、使とて罷り往きて、布理奉れ」と宣ひき。
額田部(ぬかたべ)氏
・ 応神天皇の皇子の額田大中彦皇子にちなむ名代部に由来すると言われる。
・ 大和国平群郡額田郷を本拠とした。
「日本の古代遺跡5・奈良北部」
伊達宗泰先生や河上邦彦先生の意見をみると、古代の平群郡の範囲は現在の平群町はもちろん斑鳩町やその東の安堵町、さらに大和郡山市の南部も古代の平群郡・額田郷でかなり広範なエリアであることがわかる。
こうした平群郡と平群氏の関係から、伊達宗泰先生は平群氏と大和川南部の河合町の大塚山古墳との関連を指摘している。
川合大塚山古墳(197m)大塚山古墳 (おおつかやまこふん、川合大塚山古墳)は、奈良県河合町川合にある前方後円墳。馬見古墳群を構成する古墳の1つ。平群木菟宿禰の説あり。
全長215m、後円部径108m、高さ15.8、前方部幅123m、高さ16.9m
河合町川合に所在する、前方部を南に向けた三段築成の前方後円墳である。墳丘の保存状態は良好で、周濠跡は水田になっているが、盾形の周堀の痕跡を明瞭に残している。
馬見古墳群の中ではその北部に立地する大塚山古墳群に含まれる。大塚山古墳群は前方後円墳、方墳、円墳など8基の古墳から構成されるが、本古墳はその規模の上からも中心的な位置を占めている。
調査が行われていないため埋葬施設は不明である。墳丘には葺石および円筒埴輪の囲繞が確認されている。 遺物は、円筒埴輪・朝顔形埴輪・家形埴輪の円柱部分に小型の盾を付けたもの・盾形埴輪・蓋形埴輪・須恵器模倣土師器などが確認されている 。 須恵質土器が含まれていることから、5世紀中頃~後半の築造と推定され、同時期では奈良盆地内で最大級の古墳である。
島の山古墳(しまのやまこふん)は、奈良県川西町唐院に所在する4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳であり、馬見古墳群の北群に属する。
川合大塚山古墳の西方約1キロの寺川左岸上の微高地に築造された。別名島根山古墳。三宅古墳群を形成する。 盾型の周濠を含めた長さは265メートル、幅175メートルである。東西くびれ部には造り出しがある。墳丘からは葺石と埴輪列(朝顔形円筒、家形、盾型、靫形)が検出された。また平成17年度に行われた調査において、西側くびれ部から祭祀に用いられたと考えられる植物製の籠が出土した。
川合いの交通の要所を押さえた場にあることが大塚山古墳群と共通している。
川合大塚山古墳と島の山古墳の墳形規格が同じであるという点からも、この二つの古墳は関係が深いとみられる。
ナガレ山古墳
普通の古墳は立入禁止となっているものですが、ここは発掘調査と整備工事が行われ、巨大な墳丘が復活。周囲をズラリと円筒形埴輪が取り囲むように並んでいます。
全長105mの巨大な前方後円墳ですが、1975年からの土砂採取によって一部が破壊されたため、1976年に国指定の史跡となり、発掘調査と整備工事が行われました。
公園(うまみきゅうりょうこうえん)として整備が進んでいる
4世紀末から6世紀にかけて造営されたと見られる。古代豪族・葛城氏の墓域とみる説もある。この葛城地域には、古墳時代前期の中頃から有力な古墳の造営が始まり、前期中葉から中期には、墳丘長200メートルを超える規模の古墳が造営されている。
北群には、大塚山古墳、島の山古墳、高山塚1-4号古墳、九僧塚古墳、丸山古墳などがある。
中央群には、領家山古墳、巣山古墳、ナガレ山古墳、佐味田宝塚古墳、新木山古墳、乙女山古墳などがある。
南群には、新山古墳、狐井城山古墳、築山古墳、狐井塚古墳など築山古墳群を含む古墳がある。
讃岐神社、大和国廣瀬郡の式内社。
讃岐からの移住民が故郷の神を勧請して来たものと推測されている。 讃岐国苅田郡の式内社である於神社、粟井神社が観音寺市粟井町に鎮座、一方、大和国廣瀬郡には於神社や讃岐神社が鎮座、これらが故郷の神々だったと思われる。
広瀬郡には広瀬神社が鎮座、物部系。また讃岐神社の北には馬見古墳群があり、馬見物部の拠点であったと思われ、南の疋相とあわせて、讃岐の物部との関連が注目される。
新木山古墳
南北走向の低位丘陵から東へ派生する小支丘を利用して築造されている。墳丘の主軸はおおむね東西にあり、両くびれ部に造り出しが存在する。その形態は巣山古墳のものに似ている。濠の幅は後円部で18メートル、前方部で22メートルほどである。外堤は水田、畑の畦畔として残っており、幅約20メートル前後、高さは3メートル以上あったと考えられる
墳丘内に埴輪列が存在することが確かめられている。またこの古墳の出土遺物として宮内庁に勾玉、管玉、棗玉などが所蔵されている。採集された方形透かしと有黒斑の円筒埴輪から、5世紀前半の築造と考えられる。馬見古墳群中央群では最後の大型前方後円墳である。
後円部西側には、主軸を同じくする帆立貝形古墳の三吉石塚古墳(県指定史跡)が、外提に接して造られている。
第九代開化天皇の妃に丹後の姫があがっており、「旦波(たには)の大縣主(おおあがたぬし)、名は由碁理(ゆごり)の女(むすめ)、竹野比賣(たかぬひめ)を娶(めと)りて、生みませる御子(みこ)、比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)」とある。
また崇神天皇の次の第十一代垂仁(すいにん)天皇の条には、丹後半島の西の付け根にある久美浜を根拠にした河上摩須郎女(かわかみのますのいらつめ)と丹波道主命(たにはのみちぬしのみこと)が結婚して、名前、人数は諸伝によりさまざまだが、比婆須比売命(ひばすひめのみこと)、真砥野比売命(まとのひめのみこと)、弟比売命(おとひめのみこと)、朝廷別王(みかどわけのみこ)などが生まれるが、その姉妹はみな垂仁妃となり、そのうち比婆須比売命は皇后となり、後の景行天皇を生んでいる。
『日本書紀』の一伝として比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)の子に丹波道主命とあるが、それを考慮に入れると、この丹後の地に「由碁理―竹野比売の兄弟―比古由牟須美命―丹波道主命―比婆須比売の兄弟朝廷別王」と五代にわたる男系タテ系図が復元できる
高皇産霊尊ー天太玉(忌部首の祖)
神皇産霊尊ー櫛真乳玉尊ー1代略ー天村雲命ー1代略ー大若子、乙若子(大神主の祖)
興味深い記述として、天香語山(あめのかごやま)命は天火明命と大己貴神(おおなむちかみ)の女、天道日女(あめのみちひめ)命との間に生まれた子とする。出雲との関係がうかがわれる。
またこ の人の別名を、高志(こし)神彦火明命とする。高志は越(こし)で現在の新潟あたりの古い呼名である。
新潟県西蒲原郡弥彦村(かんばらぐんやひこむら)に弥彦神社という越後国一宮がある。祭神は天香語山命で、越後開拓の祖神とされる。天香語山命の伝承は新潟県に多い。
高倉下命
『勘注系図』に熊野高倉下(たかくらじ)命という人物が登場する。『日本書紀』によれば神武東征の際、熊野で神武にフツノミタマという神剣を献上する人物として登場する。
『勘注系図』では、高倉下命を天村雲(あめのむらくも)の弟とする。一方『先代旧事本紀』は天香語山命と高倉下は同一人物とする。
世代数的には天村雲命の弟くらいの方が、整合性がありそうである。
可美眞手命(うましまで・宇摩志麻治命)
『勘注系図』に物部氏の人物である可美眞手命が登場する。
可美眞手命の父親、天火明命と、海部氏や尾張氏の祖である彦火明命とを同一とすることによる。
しかし私は、『勘注系図』の彦火明命と、物部氏の天火明命すなわち櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこお)とは世代の異なる別人と考える。
可美眞手命は神武が奈良盆地に侵攻した際、抗戦するが、最後は叔父の長髄彦(ながすねひこ)を斬って神武に帰順したとされる。物部氏は初期大和王権にあって有力な豪族の一つである。 『勘注系図』に可美眞手命以降の物部氏系図は記されない
国造大若子命(一名大幡主命)が参上し倭姫命にお仕えした。
大若子命は弟の乙若子命を進上した。
「安佐賀(阿坂)山の神(松阪市)」
倭姫命は中臣大鹿島命・伊勢の大若子命・忌部玉櫛命を遣わし天皇に奏上させた。
天皇が言われるには「その国は、大若子命の祖の天日別命が平定したので、その神を大若子命に祀らせよ」
天皇は大若子命を返し遣わされた。
飯野高宮・櫛田(松阪市)」
大若子命は倭姫命に「汝の国の名は何か」と問われたので「百張蘇我の国」と答えた。
「佐佐牟江(伊勢市)」
大若子命は白鳥の真野の国と申し上げた。
「伊蘇の宮(伊勢市)」
倭姫命は大若子命に国の名を問われた。
大宮所を求めて大若子命を遣わした。
「御船向田の国(伊勢市)」
大若子命は船を率いてお迎えに上がった。
大若子命は「五十鈴川の河上に良い宮処があります」と答えた。
「二見(伊勢市)」
大若子命は速雨二見の国と答えた。
「家田の田上宮(伊勢市)」
度会の大幡主命(大若子)は御田を定めた。
「天照大神の夢告」
倭姫命は夢の中で天照大神が宮処を指定されたことを大幡主命(大若子)に話した。
大幡主命(大若子)は「神風の伊勢の国」と言った。
「斎宮」
天皇は大幡主命(大若子)を神国の国造・大神主に任じた。
「伊雑宮」
大幡主命(大若子)を島国の伊雑に遣わした。
大幡主命(大若子)の娘が酒を造った。
「外宮」
21代雄略天皇は大幡主命(大若子)に「丹波に行き、豊受大神をお連れせよ」と言われた。
大幡主命(大若子)は豊受大神をお迎えした。
「大間国生神社(伊勢市常磐町1-5)」
大若子命の社を建てた。
大若子命は、大間国生神社(伊勢)・大幡神社(佐渡)・御馬神社(金沢)・梅宮大社(京都)
栄野神社(伊勢)・高城神社(伊勢)・櫛田神社(博多)・太宰府天満宮末社(太宰府)に祀られています。
改ざん
前4社は式内社です。梅宮大社は名神大社ですが、大若子をニニギ命だとしています。
木花咲耶姫がホホデミ・火明を生むとき、ニニギは「わが子ではない」と言っています。では誰の子か?
『播磨風土記』は、伊和大神(大国主)の后をコノハナサクヤ姫、子を火明だと記しています(火明は外宮の故郷丹後の一宮祭神)
そして、梅宮大社は大若子はニニギ(木花咲耶姫の夫)だとしています。
父:彦久良為 母:不明
子供:一説賀具呂姫(健甕槌*の妻?)弟:乙若子 別名:大幡主命
垂仁朝大神伊勢に遷幸せられし際、御供に仕奉る。*健甕尻とも記され太田田禰子の祖
禰宜補任次第:垂仁25年皇太神宮伊勢国五十鈴の川上に鎮座時。御供仕り奉りて大神主となる也。
神宮雑例集・太神宮本紀:天牟羅雲7世孫度会神主が遠祖。倭姫が皇太神宮を奉載して
五十鈴宮に鎮め祭った時、大神主となった。
倭姫命世記:伊勢国造。神国造。
度会系図:越国に荒ぶる凶賊阿彦ありて皇化に従わず、(これを滅ぼす )天皇より大幡主の名を賜る。垂仁25年皇太神宮・伊勢国五十鈴河上宮に鎮座時、御供仕え奉りて大神主と為る。
乙若子
父:彦久良為 母:不明
子供:爾佐布・小爾佐布
補任次第:度会系図:景行天皇・成務天皇・仲哀天皇の3代大神主。
倭姫命世記:舎人。
大若子命。(一名大幡主命)
右命。天牟羅雲命 子天波與命 子天日別命第二子彦國見賀岐建與束命第一子彦楯津命第一子彦久良為命第一子也。
越國荒振凶賊 阿彦在(天)不従皇化。取平(仁)罷(止)詔(天)。標剣 賜遣(支)。即幡主罷行取平(天)返事白時。天皇歓給(天)。大幡主名加給(支)。
垂仁天皇即位二十五年(丙辰)。皇太神宮鎮座伊勢國五十鈴河上宮之時。御供仕奉為大神主也。
天牟羅雲命―天波與命―天日別命―彦國見賀岐建與束命―彦楯津命―彦久良為命―大若子命(大幡主命)。
新羅将軍正六位上神部直ねまろが謹んで申し上けます。神祇官からの認証を頂くことを。
天皇や命により、但馬国の鎮守、阿米美佐利命(あめみきりノみこと)と粟鹿大明神の由来を詳しく調べて申し上けます。
伊佐那伎命と妻 伊佐那美命の二神
↓
大日神(おほひるノかみ) (天照大神)、月神(つきノかみ) (月読神)、素佐乃乎命(すさのをノみこと) (須佐之男命)
素佐乃乎命が、天に登り天より出雲の樋の川の上流の鳥上山に降りて来たりて
↓
↓ 伊那多美夜奴斯(いなだのみやぬし)(稲田の富主)で、名は須佐能夜都美祢(すさのやつみみ)という者の娘、
久斯伊那多比祢(くしいなだひめ)と結婚して生まれた
児、蘇我能由夜麻奴斯祢那佐牟留比古夜斯麻斯奴(そがのゆやまぬしみなきむるひこやしましぬ)
↓ 大山都美の娘、木花知利比賣(このはなちりひめ)と結婚して生まれた。
児、布波能母知汗那須奴(ふはのもちちじなすね)
↓ 淤迦美(おかみ)の娘、日河比賣(ひかわひめ)と結婚して生まれた
児、深淵之水夜礼花(ふかぶちのみずやれはな)
↓ 阿麻乃都刀閇乃知尼(あめのつとへのちに)と結婚して生まれた。
児、意祢都奴(おみつぬ)
↓ 布努都祢美(ふどつつみ)の娘、布弓祢美と結婚して生まれた
児、天布由伎奴(あめのふゆぎね)
↓ 佐志久斯布刀比賣(さしくふとひめ)の娘、佐志久斯和可比賣(さしくわかひめ)と結婚して生まれた
児、大国主(おおくにぬし)命
↓
↓ 一名は大物主(おおものぬし)、亦の名は意富阿那母知(おふあなもじ)命、亦の名は葦原色表(あしはらしこを)命、亦の名は八千桙(やちほこ)命、亦の名は幸術魂辞代主(さちはけみたまことしろぬし)命、亦の名は八嶋(やしまを)男命、亦の名は大己貴(おほあなむち)命、亦の名は八千弟(やちほこ)命という。
この大国主命は、二人の子供の親になっているにもかかわらす、(妻に)その姿を見せていなかった。夜が明けるとともに去り、昼には来たことがなかった。そのため、(妻の)玉櫛姫(たまくしひめ)は心中疑いをいだくようになり、(大国主命の)衣に糸をつけ、明るくなってその糸を追い求めて行くと、その糸は茅(ちぬ)渟の陶村(すえむら)を経て真っ直に大倭の御諸山(みもろやま=三輪山)を指していた。これで玉櫛姫は(夫が)大国主神であることを知った。そして、その糸は元のところにただ三輪残っていた。そこから、意富美和君(おほみわのきみ)の姓(かばね)と言うになった。
天止牟移比賣(あめのとむいひめ)と結婚して生まれた
→ 児、阿米祢佐利(あめみきり)命、粟鹿大社に座す。
又、三嶋溝杭(みしまみぞくひ)の娘、玉櫛姫(たまくしひめ)と結婚して生れた
児、溝杭矢瀬姫(みぞくひノやせひめノ)たたら五十鈴姫(いすずひめ)命
神倭伊波毘古(かむやまといわれびこ=神武天皇)に嫁ぎ、神沼河耳(かむぬかはみみ=綏靖)天皇並に皇子を生む。
↓ → 五十鈴依姫(いすずよりひめ)命
↓
↓ 神沼河耳(綏靖)天皇に嫁ぎ、磯城津彦玉手看(しきつひこたまてみ=安寧)天皇を生む。
又、溝杭耳(みぞくいみみ)の孫娘、活玉依姫(いくたまよりひめ)と結婚して生れた
→ 児、久斯比賀多(くしひがた)命大神朝臣(おほみわノあそん)の祖先、神武天皇の御世から綏靖天皇の御世に至るまで内臣として国政を担当した。墓は、和泉国の知努乎曽(ちぬこそ)村に在る。
宇治夜須姫(うじやすひめ)命と結婚して生まれた
↓
児、阿麻能比賀大(あまのひがた)命
→ 妹、渟中底仲姫(ぬなそこノなかつひめ)命
↓
片塩浮穴宮御宇磯城津彦玉手看(かたしおノうきあなノみや しきつひこたまてみ=安寧)天皇に嫁ぎ、息石耳(おきそみみ)命、大日本彦須支侶(おほやまとひこすきとも=懿徳)天皇、常津彦某兄(とこつひこいろえ)命、磯城津(しきつひこ)命、を生む。
又、大和氏文(やまとうじふみ)付、名は大祁知遅若(たけちじわか)命と在る。
↓
↓ 意富多幣良姫(おほたへらひめ)命と結婚して生まれた
↓ → 児、櫛(くし)ミカ戸忍栖浦浦稚日(とノおしすうらうらわかひ)命
→ 児、櫛(くし)ミカ戸忍勝速(とおしかつはやひ)日命
又、大和氏文、名を大祁弥賀乃保(たけみかのほ)命と在る。
↓
↓ → 児、多祁伊比賀都(たけひかつ)命
亦の名は武(たけ)みか曽々利(そそり)命と云う。母は日向賀牟度美良姫(ひむかノかむとみらひめ)命と曰う。
又、大和氏文、名は阿多賀多須(あたがたす)命在り。この者、和尓右(わに=和爾)並に石邊(いそべ)公らの祖先。
↓→ 伊比加太須(いひかたす)命
↓
児、耶美賀乃許理(やみかのゆり)命
↓ 亦の名は武(たけ)みか析(おり)命、母は出雲の臣の先祖、沙麻奈姫(さまなひめ)命と曰う。
児、宇麻志毛呂尼(うましけろに)命
↓
↓ 亦の名は櫛(くし)ミカ凝(こり)命、母は丹波の道主王の娘、夜加知彦大知彦(やかちひこノおおちひこ)命と曰う。
児、刀余美氣主(とよみけぬし)命
↓
↓ 亦の名を飯片隅(いひかたすみ)命と云う。母は伊勢の幡主の娘、賀具侶姫(かぐうひめ)命と曰う。
児、意保美氣主(おほみけぬし)命 亦の名を神田々根子(かんだたねこ)命と曰う。
↓ 母は木(紀伊)国、奈具佐姫(なぐさひめ)命の大神(おおみわ)の朝臣等の祖先である。
児、大田々祢古(おほたたねこ)命
母は賀毛都美良姫(かもつみらひめ)命と曰う。大神(おほみわ)朝臣(あそん)等の祖先である。
↓ → 大鴨積(おほかもつみ)命 これ、賀茂朝臣(かもノあそん)等の祖先。
↓ → 大友主(おほともぬし)命 これ、大神朝臣(おほみわノあそん)等の祖先。
↓ → 大多彦(たたひこ)命
↓
意富弥希毛知(おほみけもち)命 神人部の祖、淡路国三原郡幡多神人部川成の祖先。
↓以上四人は、大田々祢古命の子である。
↓
↓ → 児、大彦速(おほひこはや)命
母は穂積朝臣(ほづみノあそん)らの祖先、内醜男(うちしこを)命の娘玉降姫(たまふりひめ)命と曰う。
天村雲命(あめのむらくものみこと)は、海部家三代目の祖先です。この神の父神は、始祖である彦火明命と大己貴神の女(むすめ)である天道日女命との間に生まれた「天香語山命(あめのかごやまのみこと)」です。また母神は、始祖である彦火明命と市杵嶋姫命との間に生まれた「穂屋姫命」です。天村雲命は日向国にいた時に阿俾良依姫命(あひらよりひめのみこと)を后とし、丹波にいる時は伊加里姫命(いかりひめのみこと)を后とされました。 鎌倉時代に伊勢の外宮の神主によって書かれた書物によると、天村雲命は邇邇芸命が天照大神の籠もられた御神鏡を持って天降られた時、その前に立ってお仕え申し上げた神様です。天村雲命は邇邇芸命の命令によって天御中主神のもとに行くと、天忍石(あめのおしいわ)の長井の水(神々が高天原で使われている水)を汲んで琥珀の鉢に八盛りにし、天照大神の御饌(みけ)としてお供えするように、また残った水は人間界の水に注ぎ軟らかくして朝夕の御饌としてお供えするよう」命じられました。天村雲命はこの水を日向の高千穂の御井にお遷しになり、その後丹波の魚井(まない)の石井(当社奥宮の「天の真名井」の泉)にお遷しなった後、雄略天皇の御代、当社奥宮の「天の真名井」から伊勢外宮の豊受大神宮の御井にお遷しになったと伝えられています。
これらのことから、大物主神は正式には「大物主櫛瓶玉命」と呼ばれていたことがわかってくる。
次に饒速日尊であるが、『特選神名牒』に「饒速日」を含んだ神名のある神社は国津比古命神社だけで「櫛玉饒速日命」である。ところが原田常治氏の調べでは、その祭神は「天照国照彦火明櫛玉饒速日尊」とある。「天照国照彦火明」が付いている。当時の神社にはそう書かれていたと解釈するしかないが、現在はどうなのか、現地に行ってみないとわからない。ただ食い違いが存在していたことは事実である。
ところがこの「天照国照彦火明」と「櫛玉饒速日」が同一人物(神)であることを証明する史書がある。『先代旧事本紀』である。はじめに紹介した「天神本紀」に、饒速日は「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」であるとはっきりと書いている。
『先代旧事本紀』は偽書ではないかと言われているが、安本美典氏は「古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎」で、多くの史料をもとに、『先代旧事本紀』は820年代に編纂されたもので、偽書とは言えない、としている。私もそう思う。
饒速日は最高の名として「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」と呼ばれていたのである。
大物主神は「大物主櫛甕玉命」、饒速日は「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」と呼ばれていた。このことについては、私の調査も原田氏の調査と一致した。
さらに原田氏は、出雲の須我神社の境内摂社の琴平神社の祭神が大歳であり、琴平は大物主櫛玉饒速日尊であるから(金刀比羅宮の祭神が大物主神であり、大物主神は饒速日尊であるという原田氏の見方による)、大歳は饒速日であることがはっきりしたという。私はすでに大歳は饒速日尊であるとしているので、重要なのはこのことではなく、須我神社の境内摂社の琴平神社の祭神が大歳である、と言っている点である。
「大物主は饒速日である」という証明方法を私は探しているのであり、「琴平は大歳である」というのはその一つである。それが証明されれば「大歳=琴平=大物主」となり、「大歳=饒速日」であるから、「大物主=饒速日」となる。したがって、琴平が大歳であるかどうかは非常に重要な問題なのである。
ところが、原田氏が琴平は大歳だと言っているにもかかわらず、インターネットで調べてもそこまではどうしてもわからなかった。現地で実際に自分の目で確認しなければならないようだ。
ということで、「大物主=饒速日」という確たる証拠は、現時点では見つからなかった。
伊勢神宮の神官家である度会氏の系図では天村雲命の孫は天日別命となっています
伊勢神宮の根本経典『 神道五部書 』によると天村雲命 伊勢大神主上祖也、神皇産霊神六世の孫也 阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也
つまり阿波國に座す二社が皇祖皇統の正統なる末裔であると記してあるのです。
『海部系図』によれば、始祖彦火明命の御子の天香語山命が穂屋姫命を娶り天村雲命を生む。彦火明命の孫にあたる天村雲命の亦名を天五十楯天香語山命と云う。『海部系図』によれば「彦火明命━建位起命━━宇豆彦命」との流れもあるようだ。
『先代旧事本紀』天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は天道日女命を妃として天香語山命を生むとある。
『先代旧事本紀』には天忍人命が二柱見える。天忍男命と兄弟に当たる天忍人命が尾張連の遠祖の一になっているようだ。
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サイモチの神・・・「古事記」では佐比持神。山幸彦が綿津見神の宮殿から地上へ帰る時に、一尋和邇に乗って帰った。山幸彦は身につけていた小刀の紐を解いて、和邇の首に結び着けて送り返した。その一尋和邇を佐比持神と言う。また「日本書紀」では鋤持神。神武天皇の兄・稲飯命(いなひのみこと)は神武東征に従うが、熊野に進んで行くときに暴風に遭い、我が先祖は天神、母は海神であるのに、どうして我を陸に苦しめ、また海に苦しめるのかと言って、剣を抜いて海に入り、鋤持の神になったとする
祭神は、天村雲命と伊自波夜比賣の二座。
天村雲命は、別名「天五多底命(あめのいだてのみこと)」とも呼び、射立の神。
鎮座地周囲は、湯立という字が残っているが、これは射立からの転訛。
素盞嗚尊は、ヤマタノオロチを退治し、その尾から天叢雲剣を手に入れている。
天叢雲(あめのむらくも)=天村雲と考えると、 五十猛命の父神であることの象徴とも思われる。
延喜式神名帳の記載様式では、忌部神社の名から改行され、数段下げて、天村雲神伊自波夜比賣神社二座と書かれていることから、現在は、違うようだが、昔は、忌部山にある忌部神社の摂社だったようだ。
志賀剛によると、天村雲命は雨神、伊自波夜比賣命は出水神。
天地の水神を祀っているとする。確かに、境内には旱魃にも枯れない泉があるようだし、境内は、吉野川・川田川にも近い場所にある
伊自波夜比売は建御名方の子出速雄命の娘。
「旧事記」→天香語山命、異味穂屋姫命を妻とし一男を生む。孫子天叢雲なり。此命、阿俾良依姫を妻とし二男一女を生む。
天村雲の妻が「吾平津姫」であり、神武の筑紫の妃ではない!神武は吾平津姫を妃としていない。
「大同本紀逸文」→天村雲はニニギ命の天孫降臨に随伴してニニギ命から「小椅」の号を賜ったと記される
さて、始祖ホアカリの孫に、「天村雲命」の名が見られます。
ホアカリと異なり、あまり重要視されていないようですが、本当にそうなのでしたら、それは、とんでもないことです。アメノムラクモの名は、『記紀』ではさっぱり見ることができません。唯一、『日本書紀』の注記で「草薙剣」の元の名として、「天叢雲剣」を知るにすぎません。ところが、『宋史、外国伝・日本』、通称『宋史日本伝』には、その名が列挙されているのです。それも、日本製(と言ったほうが良いでしょう)
の『王年代紀』の引用文の中にです。
『宋史日本伝』によれば、日本からの入貢は雍煕元年(984)で、僧
「奝然」(ちょうねん)と他に五、六人によるものだったらしく、『職員令』と『王年代紀』各一巻を献上したというのです。
「その年代記に記す所にいう、初めの主は天御中主と号す。次は天村雲尊といい、その後は皆尊を以て号となす。」
とあるのです。「奝然」は東大寺の僧であり、自ら「藤原」と名乗っているところから、そのような立場の僧が持参した書物が、偽物とは考えられません。逆に言えば、それこそ正史でなければならないでしょう。しかも984年と言えば、当然『日本書紀』は成立しています。
最近の研究により旧事紀は、記紀の編纂の基とされた資料と同等の資料に編纂されたものとされ、その資料的価値も認められるに至った。旧事紀が偽書とされたことから、祝詞を改めたのであれば、大伴神社の祭神は、三河大伴直の祖・倭宿祢であったと考えられる。 旧事紀の巻の五・天孫本紀は、天忍日を連想させる天忍人(アメノオシヒト)を火明命の三世孫とし、忍人の弟を忍男、妹を忍日女とする。
火明命を祖とする海部氏が、代々神職を務める丹後一宮・籠神社が所蔵する国宝の祝部氏系図は、火明命の三世孫を倭宿祢とする。また、籠神社が、所蔵する海部氏本紀は、天孫本紀と同様、天忍人を火明命の三世孫とするが、別伝として天忍人を倭宿祢とする。
海部氏本紀の別伝で倭宿祢とされる天忍人を天孫本紀は、第五代孝昭天皇の后・与曽足姫の伯父とする。さらに、天孫本紀は、天忍人の曽孫・建宇那比の娘・大海部姫を崇神の妃とする。天忍人(倭宿祢)は、崇神以前の人物となり、長髄彦との繋がりも出てくる。
天皇本紀が、倭宿祢を景行の子としたのは、記紀の景行の子を国造・郡造に分け地方に封じたとする記載及び成務の国・郡の造を制定したとする記載と整合性を保つためだと思われる。三河大伴直祖・倭宿祢は、崇神(神武)東征以前に遡る人物であり、成務の時代に、その裔が、八名国造の地位を追認されたと考えられる。そして、富永氏系図が幡豆・八名両郡司とする大伴常盛は、三河大伴直祖・倭宿祢の裔と考えられるのである。
高忍日賣神社(たかおしひめじんじゃ、高忍日売神社)とは愛媛県伊予郡松前町 (愛媛県)にある神社。『延喜式神名帳』の伊予国伊予郡にその名が記載されている。全国で唯一、高忍日賣大神を奉斎する神社であり、産婆・乳母の祖神として、特に全国の助産師や教育関係者等の崇敬を集めている。境内には村松志保子助産師顕彰会が建立した「母子と助産師の碑」があり、毎年3月8日にイベントが行われる。神紋は「十六弁の菊」と「五七の桐」とを用いている。例祭日は毎年10月13日・14日・15日である。
主祭神
高忍日賣大神(たかおしひめのおおかみ)
配祀
天忍男命(あめのおしおのみこと)
天忍女命(あめのおしひめのみこと)
天忍人命(あめのおしひとのみこと)
当社には固有の神話がいくつか残る。初代神武天皇の父君日子波限建鵜葺草葺不合命が生まれる際の伝承である。 日子穂穂手見命と豊玉毘売命とが仲睦まじく船で海を渡る際に、妻神が急に産気づき近くの海岸で産屋を建てて、出産することになった。 そこで、鵜茅(ウガヤ)で産屋を葺いてその中で出産するが、海から多くの蟹がはい上がり産屋まで入り大変な難産になった。豊玉毘売命が「高忍日賣大神」と一心に唱えると高忍日賣大神が顕現し、天忍日女命と天忍人命と天忍男命を遣わされ、天忍人命と天忍男命には箒を作って蟹を掃き飛し、天忍日女命には産屋に入って産婆の役目をした。 これにより始めは難産だったが安産し、産屋が葺きあがらないうちに無事男児を産むことができた。日子穂穂手見命は、男児を日子波限建鵜葺草葺不合命と命名した。 この神話から、当社の祭神は産婆・乳母の祖神、また、箒の神として多くの人々から崇敬されている。
天忍人=海部氏、尾張氏・・・祖・酒君(百済・直支王の後裔)
天忍男=津守氏・・・祖・住吉大神・天日矛
海部氏系図では
籠神社の祭神が彦火明命(ヒコホアカリノミコト)です。そして「新撰姓氏録」では彦火明命の子孫が大和国葛城の高尾張から尾張国に移り、その子の天香語山命(アメノカゴヤマノミコト)あるいは天香山命(アメノカグヤマノミコト)の時に尾張に定住したとされています。
3代目天忍人命の妻は異腹の妹の角屋姫(つぬやひめ)、またの名は葛木(かずらき)の出石姫(いずしひめ)で、その弟天忍男命の妻は、葛木の国つ神・剣根命(つるぎねのみこと)の娘・賀奈良知姫(がならちひめ)だとされています
別称 牟羅久毛神社
住所 徳島県吉野川市山川町流32
祭神 天村雲命、伊自波夜比売命
村雲神は水政の神であり、低地における農耕集落の祭神として信仰せられ、旱魃の際は村人が集まり雨乞いを祈願したことと思われる。
旧事紀には、村雲神の系統について天照太神天降りし代の随神として降臨した饒速日命の孫にあたると記され、尊い神として忌部の人々が、地主神または守護神として崇めこの地、阿波国忌部郷雲宮に祭ったと思われる。
また、この神社は、延喜式神名帳にも祭神天村雲神、伊自波夜比売神二座を祭る式内社であると記されている。
尚、当神社が忌部神社神域内におわします神社で、阿淡両国神社録にも忌部神社の摂社牟羅久毛神社と明記されている。
神社創建については定かでないが文献に天和四年(一六八四)に忌部常応が書いたと言われる紙幟に「天村雲神社」とありこの地に村雲神社があったことが記録されている。
また、山崎八幡神社に保存されていた棟札七十七枚の中に、村雲神社に関する一枚の棟札があり、それには、
奉再興天村雲神社御殿一宇遷宮
文政二己卯五月十二日 大工藤原浅吉
『阿波志』『阿府志』では当社を式内社に比定しているとのこと。
(所在地を阿波志は忌部山中、阿府志は山崎村としています)
しかし式内社調査報告では、「古代における麻植郡射立郷の村落としての字村雲が、天村雲神社の所在地であったことは疑問の余地はなく、当社を式内社に否定することは無理がある」とし、村雲の天村雲神社 を式内社に比定しています。現在は山崎忌部神社の境外摂社。
珍彦は倭国造の要職を子孫に譲ると、この菟原に戻り、吉野の宇陀で出会った土着の民の
弟猾(おとうかし)と共に故郷の開拓に尽くした…。
はたして、弟猾という人は、珍彦と同族だったのか。同族になったのか?
「勘注系図」によれば、珍彦の父は天村雲命、母は伊加里姫、そして吉野直の姫を娶った。その妃は白雲別神の女・豊水富命(とよみとみのみこと)。
この豊水富命が、吉野首(おびと)の祖と呼ばれる井光(いひか、『紀』)=井氷鹿(いひか、『記』)。
『日本書紀』では神武が大和へと軍を進めたとき、吉野の「井の中」から出て来た人物が井光である。おそらく丹(水銀)を採取する土着の民の女首長。
ならば、珍彦が、宇陀にいた弟猾を伴って摂津の菟原に帰郷した話も、そう不思議ではない。
倭宿禰は神武を先導できた。
逆に言えば、宇陀や吉野や吉野川流域の人々は、倭宿禰こと珍彦の臣民だったということになりますね
天隠山命は高倉下命とも言われ、神武天皇御東征の砌霊剣を奉って偉功を立て、後御子天五田根命と共に紀伊国より讃岐に渡らせられ山河を以って国郡の境界を分つなど開拓水利の基を定められた。
香取神宮
武甕槌について『古事記』と『先代旧事本紀』に興味深い系図が載っている。『先代旧事本紀』に素戔烏尊―大己貴神―都味歯八重事代主神―天日方奇方命―健飯勝命―健甕尻命亦名健甕槌命という系図が記されており、『古事記』にも意富多多泥古の祖先として大物主神―櫛御方命―飯肩巣見命―建甕槌命とある。
経津主・武甕槌両神は天太玉命の孫又は曾孫とする説もあるらしい
http://www.d3.dion.ne.jp/~stan/txt/tb2ktr.htm
孝霊天皇(大日本根子彦太瓊天皇、大倭根子日子國玖琉命とも)
母は押媛、天足彦國押人命の女なり。
子は、日本根子彦國牽天皇(孝元天皇)、倭跡跡日百襲姫命、彦五十狹芹彦命、倭跡跡稚屋姫命、彦狹島命、稚五彦命。
彦五十狹芹彦命(吉備津彦命)は、第7代孝霊天皇の皇子で第10代崇神天皇の御代に四道将軍の一人として吉備の国に下られこの国を平定された。その後、仁徳天皇が吉備地方に行幸になった時、吉備津神社を建立し命を祀った。
↑
天降神社由緒
祭神は瓊々杵尊であるといわれてゐるが、又天ノ隠山ノ命であるとの説もある。この神社は往古は一ノ宮田村神社の御旅所であった。故に祭神も田村神社と同様で天ノ隠山ノ命であって、田村神社の祭神が最初降下された地であろう。これは田村神社の方の傅説である。此の説によれば祭神は天ノ隠山ノ命の方が正しいことになる。
鹿島新宮(武甕槌命・天隱山命(あめのかぐやまのみこと))
京都市左京区にある。叡山電鉄終点、八瀬駅から高野川を越えて南の山の中に鎮座。
高野川沿いに西へ続く道の途中に赤い鳥居があり、参道の山道を歩くと、雪煙の中に社殿が鎮座。
この社地は、太古鴨の大神が降臨された所と伝えられているところ から御生山と呼ばれており、東山三十六峰第二の山である。
さらにまた、太陽のただ射す所、即ち、御蔭山とも呼ばれ それに因んで社名ともなった。
御祭神は、御本宮賀茂御祖神社の御祭神の玉依媛命、 賀茂建角身命、二柱の荒魂を奉祀されている。
現在の社殿は、元禄六年(一六九三)、御本宮式年遷宮の 際に造替された。
それまでは、現在の本殿北東の麓に鎮座されてきたが、地震等の 災害に依って殿舎が埋没したため現在の地に御動座になった。
天武天皇六年(六七七)、山背國司が造営したと伝えられる 賀茂神宮は、当神社であろうとの説があるとおり、この地は 古代から山背北部豪族の祭祀の中心地であり、近隣には 数々の遺跡が存在する。
毎年、賀茂祭(葵祭)に先だって、五月十二日には、御蔭祭(御生神事)が 当神社で行われる。当日は、神馬に錦蓋を飾り、神鈴を付け、鉾、太刀、 弓、槍などの御神宝を捧げ持ち、社殿には阿礼(あれ)を掛ける。 数多くの供奉者は葵桂をかざし、本宮を進発した行粧は、この社に 到着する。社前において、午の刻、御神霊は神馬に移御になり、御本宮に 遷御になる。途中、総社における路次祭、御本宮契の神事等が行われる。
朝廷からは、阿礼料や幣が奉献されるなど鴨社創祀の祭とされてきた。 また、神馬の御神前で行われる三台塩(三代詠)を中心とする神事 芸能は、わが国最古の祭儀式を伝えるものとされ、行粧もまた最古 の神事列と伝えられており、葵祭と並ぶ優雅な行粧として 名高く、室町時代に入ると数々の史料に登場する。
現今、道中は交通繁雑のため、やむなく自動車列 とはなったが、当神社、並びに御本宮糺の森での神事は 古儀に依って厳粛に行われている。
賀茂御祖神社
-鳥居横由緒書き-