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泉州地方での石工集団の活動を示す最古の例としては古墳時代前期末の堺市二本木山古墳の刳抜式石棺と中期初頭に属する…
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河内国, 神別, 天孫, 五百木部連, 連, 火明命之後也, 267.
「新撰姓氏録」では、
左京|神別|天孫|石作連|連|火明命六世孫建真利根命之後也|垂仁天皇御世。奉為皇后日葉酢媛命。作石棺献之。仍賜姓石作大連公也|とあり、
石工の元祖は石作連と言わんばかりのお説だ。もっとも、これに対しては「『古事記』の垂仁段、日葉酢媛命の<石祝作>伝承を石作連に関わるとする根拠はなにもない
したらしいことは、和銅発見から四年後、秩父に近い上野国で六郷三百戸の多
胡郡の建郡を記した多胡碑に「左中弁正五位下多治比真人」の名があることで
判る。同日の『続日本紀』にも多胡建郡の記事があって、建碑の内容が裏づけ
られる。
多胡郡の建郡はその後に続く高麗郡や新羅郡に渡来人を集めて建郡されたもの
の先がけであり、おそらく秩父の採銅や鋳銭に関わるのではないか。仏教とそ
れに伴う新技術を持った渡来人が要請されたのであろう。
三宅麻呂は催鋳銭司として秩父黒谷の採銅所に聖明神を建立、日神・金山彦命
を祭神とし、和銅鋳製の二体のムカデを神体として祭った。今の聖神社である。
多治比真人氏は宣化帝の上殖葉皇子の孫の多治比古王の子孫である。王の養い
親の多治比連(宿禰)氏の名を負い、真人を賜姓して多治比真人を称した。後の
臣籍降下のような一族であった。
多治比古王の誕生の際、湯沐の釜に多治比の花が浮かんだことから名付けられ
たとするが、『新撰姓氏録』の多治比宿禰の条に、反正の生誕にまつわる同じ
話があり、反正(多遅比瑞歯別)の名代である丹比部の伴造であった多治比宿禰
氏の言い伝えである。
多治比真人氏が掌握した丹比部とは丹沙をあつかう丹生族である。お伽草紙の
『竹取物語』には、かぐや姫から求婚の引き出物に天竺の釈迦の使った石鉢を
求められる石作皇子がいて、多治比古王の子の多治比真人嶋と解釈されている。
石作部は石棺を作っていた部族で、丹生族ともども、採鉱とそこから製造する
技術を持っていた。多治比真人氏はこうした工人を中央政庁で掌握していたと
みなせる。
それが秩父の和銅発見によって、元秩父国造の秩父郡司の上に君臨したのだ。
その後この多治比真人氏の一族から、長い期間にわたって武蔵国司を次々と輩
出した。」
参考「大鹿石別」追跡