尾張、海部郡、中島郡、宮簀媛、東谷山

2»

コメント

  • 熱田神宮の縁起である『尾張国熱田太神宮縁記』(鎌倉時代初期頃の成立)の伝承によれば、日本武尊は東征の途中で尾張国愛智郡氷上邑にある建稲種公の館に寄り、建稲種公の妹の宮酢媛(宮簀媛)を知って契りを結んだ。建稲種公は日本武尊の東征に従い、日本武尊とは別の道を行ったが帰途で亡くなったため、それを知った日本武尊は宮酢媛のもとへ急いで向かい、そこにしばらく留まった。その後、日本武尊は神剣を宮酢媛のもとに置いて大和へと出発したが、伊吹山で病にかかり、ついに伊勢国能褒野で亡くなった。宮酢媛はその後も神剣を守っていたが、年老いたため祠に祀ることとし、占地して社地を定め熱田社と名付けたという(熱田神宮の創祀)。また宮酢媛が亡くなった時には祠が建てられたが、これが尾張国愛智郡氷上邑にある氷上姉子天神であるという[6][5][3]。氷上姉子神社の社伝ではより具体的に、仲哀天皇4年に宮酢媛の館跡(現在の元宮の地)に宮簀媛命の神霊を祀ったのが氷上姉子神社の創祀になるとし、その後持統天皇4年(690年)に東方の現社地に遷座したとする。
  • September 2018 編集されました
    高牟神社御由緒略記です。
    成務天皇の時代に創建ですから、物部神社同様長い歴史を持った神社と理解できます。
    鎮座地は名古屋市千種区今池1‐4‐18(旧住所:千種区元古井1‐18)とあります。
    祭神は高皇産霊神、神皇産霊神、応神天皇とのこと。
    物部系の神は鎮座していません。しかし、この地には物部氏の武器庫があったとされ、武器庫跡が神社となったようです。
    名古屋市教育委員会の解説板。

    この場所は常世の草香島(くさかじま)と呼ばれ、あちこちから清泉が湧き出ていたそうです。
    だから境内に応神天皇に水を献上した古井があるのです。よって以前の地名は元古井(もとごい)であったのです。

    武器庫があった場所が草香島だとしたら、尾張連草香との関連が疑われます。

    目子媛が被葬者とされる二子山古墳は物部神社の鎮座地でした。
    断夫山古墳の被葬者とされる尾張連草香が物部氏の武器庫である草香島の地からやって来た人物とすれば、やはり彼は物部氏となってしまいます。つまり目子媛側の二子山古墳、尾張連草香側の断夫山古墳のどちら側から見ても、この両者は物部氏の可能性が高くなってしまうのです。

    尾張連草香と目子媛は尾張氏なのでしょうか、或いは物部氏なのでしょうか?結論は出せそうにありません。

  • September 2018 編集されました
    建稲種命は邇波県君(にはのあがたのきみ)の祖である大荒田命の娘・玉姫と婚姻しました。うんと大ざっぱですが、尾張氏は尾張の南部を支配していたとして、丹羽氏は小牧から犬山にかけての尾張北部の支配者でした。その両者に挟まれた位置にあるのが物部氏の支配地域です。

    尾張連草香は娘の目子媛を即位前の男大迹王(後の継体天皇)に嫁がせています。一方継体天皇の擁立に尽力したのは他ならぬ物部氏で、継体天皇の22年には筑紫国造磐井の乱を鎮圧するため物部麁鹿火(もののべのあらかひ)が大将軍として出陣、磐井を斬ったとされます。

    尾張連草香の娘である目子媛に関して、「古事記」では尾張連の祖、凡連(おほしのむらじ)の妹、目子郎女が嫁ぎ云々となっていて、「日本書記」とは異なった記述になっています。

    「日本書記」の雄略天皇14年の条には、仁徳天皇の皇子である大草香皇子の名にちなみ、難波吉士日香香の子孫を求め、姓を賜いて大草香部吉士とすると言う記事があります。

    またWikipediaには以下の記事があります。

    草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ、生没年不詳)は雄略天皇の皇后。古事記には若日下(部)王(わかくさかべのみこと)或は波多毘能若郎女(はたびのわきいらつめ)とある。父は仁徳天皇、母は日向髪長媛(日向諸県君牛諸井の女)。大草香皇子の同母妹。子女は無し。
    安康天皇元年(454年)2月以降、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の妃となった。雄略天皇元年3月3日(457年4月12日)、雄略天皇の皇后に立后された。古代の部民である日下部氏は、この皇后の生活の資用に充てられた料地等の管理に従事した人々とする説があり、各地に配置された屯田兵のような軍事集団でもあったとされる。古来より、履中天皇の皇后である草香幡梭皇女と同一人物であるとする説もある。

    難波吉士の流れに連なる大草香部吉士も、名前からして尾張連草香との関係が疑われます。さらに、難波吉士には赤目子と言う人物までいます。「日本書紀」の雄略天皇8年には、高句麗に攻められた新羅の王が、倭国へ援軍の派遣を求めてきたので、難波吉士赤目子などを新羅の救援に向かわせたとの記述も見られます
  • 断夫山古墳と二子山古墳の被葬者は尾張氏(尾張連草香と目子媛)なのか、物部氏なのか、難波吉士の流れをくむ草香部吉士なのか
  • 続紀巻八「養老五年(721)」正月の項に、元正帝から、

      百官の中から学業を深く修め、他の模範となるべき者に褒賞が与えられた

    とあり、「武芸に秀でた」従七位下の凡海連興志も、明経博士・文章(もんじょう)などと共にその名を末席に連ねてはいます…(上中央の画像)。しかし、一目見てお分かりのように「姓」は「凡連」ではなく「凡海(おおしあま)連」であり、名も「男事志」ではなく「興志」となってます。名を表した文字については孝徳朝の蘇我臣興志、あるいは元明朝の大神朝臣興志なども「興志」と記されていますから、熊楠が述べているように「乎古之」の呼び名を「男事志」に作る資料が馬琴の手元にあったのだとも考えられるのですが、姓の方は、どう見ても「別物」だとしか言いようがありません。実は、今回「凡連」に焦点を合わせたのには理由があります。この姓は「古事記」にのみ一度だけ登場し「日本書紀」にも「新撰姓氏録」にも採録されていない摩訶不思議な存在なのです。そして、皆さんご想像の通り、サイトの中心人物・継体帝に関わる人物の名前に他なりません。

    通説や教科書の記述にある通り、ヤマトに勢力を持つ豪族たちの「要請」を受けた大々杼王は、大王家の皇女と結ばれ帝の位を「引き継ぐ」ことになったのですが、それ以前、既に結婚しており、子供にも恵まれていました。元々の正妃であった女性について「古事記」は、

      天皇、また尾張連等の祖、凡連の妹、目子郎女を娶して生みませる御子広国押建金日命(安閑)、次に建小広国押建楯命(宣化)

    と東海に強い地盤を有する尾張氏(等)の「祖」である「凡連の妹」が二人の大王の母親であるとしているのですが、日本書紀は、

      元の妃、尾張連草香が女を目子媛という。またの名を色部。二の子を生めり。皆天下を有らす。

    と別の系譜を記しています。同じように見えて決定的に異なる部分が「尾張連」「等」の祖が『凡連』であって、その「妹の嫁ぎ先の家」が大王家であったとする古事記に対して、書紀は「尾張連」「草香」という特定人物の娘である「目子媛」あるいは「色部」という名の女性が二人の大王の実母であったと主張している点です。更に、書紀が具体名を挙げた「草香」という豪族は、この段に登場するだけで、孫二人が大王に「出世」したにもかかわらず正史に再び記録されることもありませんでした。つまり古事記が「等」の一字を入れる事で「尾張氏」と「凡(海)氏」の関係を極めて曖昧に示唆したのに対し、書紀は伝承の裏付けを全く持たない正に「幽霊」のような人物が大王たちの祖父だと主張している訳です。堂々巡りとは正に、このような状況を云うのでしょう。ただ、管理人の見方が偏っている性なのかも分かりませんが、記述の内容は古事記の方が「何か」を遠まわしに伝えようとしている風にも思えます。若し、この憶測が当たっているのなら、謎解きの鍵は「凡連」と云う「存在しなかった?」姓そのものにあるでしょう。(但し、古事記の伝承でも元妃は『凡連』の「娘」ではなく「妹」に位置づけられ、凡連には外戚としての資格も無いのだと言いたげです)
  • 西暦701年、大宝元年三月十五日、文武天皇は追大肆・凡海宿禰麁鎌(おおしあまのすくね・あらかま)に『陸奥に赴き、冶金(金の精錬)を行え』との命を与えます。この珍しい名前の持ち主は「日本書紀」に只一度だけ姿を現し、大切な役目を果たしているのです。諸王臣たちが観世音菩薩像を造り、大官大寺で観世音経を説いたにもかかわらず朱鳥元年(686)九月九日、天武帝が亡くなります。その殯庭において、

      第一に「壬生の事」を誄(しのびことたてまつ)った

    つまり天皇の「幼少期の思い出」を葬儀の始まりと共に述べて故人を偲んだのが凡海宿禰荒蒲(麁鎌)だったのです。話が少し繋がってきましたね。壬申の乱を制して、天智の子・大友皇子を実力で排除して大王の位を獲得した天武の諡(いみな)は「大海人皇子(おおしあまのみこ)」ですから、幼い頃、彼の養育に当たった一家が大海氏(凡海氏)だったことが分かります。王家の伝統と共に、自己の業績を後世に伝えようとした天武は、

    於是天皇詔之 朕聞諸家之所 帝紀及本辭 既違正實 多加虚僞 當今之時 不改其失 未經幾年 其旨欲滅
      斯乃邦家經緯 王化之鴻基焉 故惟撰 録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉

    との思いを込めて稗田阿礼に『勅語』して『皇帝日継および先代旧辞を誦み習わさせた』のですが、何故か帝の意思は実現されませんでした。ところが持統、文武を経て元明の世に至ってから唐突に、

      此処に、旧辞の誤り忤へるを惜しみ、先紀の謬り錯れるを正さむとして、和銅四年九月十八日を以ちて
      臣安萬侶に詔りして、稗田阿礼の誦む所の勅語の旧辞を撰録して献上せよ

    とのお達しが示されたのです。「続日本紀」は例によって、この帝室にとっての重大事を記録していませんが、元明朝の右大臣が藤原不比等であることに思いを致すなら、持統帝が691年、主要豪族十八氏に『祖等の墓記』を提出させた「狙い」が鮮明となります。天武の意図した「帝記と本辞」の編集方針は、持統・不比等のコンビによって大きく軌道修正されたに違いなく、古事記の「献上」時には未だ、

      天武帝の「育ての親」としての凡海氏(海人族)=尾張氏

    と言う「事実」そのままでは無かったにしても、それを窺わせる「凡連」という暗号めいた姓の記述が許されていたものの、正史・日本紀の編纂に至っては、藤原氏主導による「天智還り」が加速、二人の大王の実母の存在そのものは否定できないため、わざわざ「尾張連草香」という架空の人物を創作して、天武帝と大変強い絆で結ばれていた「尾張氏」の実像を、出来る限り不透明にしようと試みたのではないかと推理されるのです。だとすれば、文武の名の元に出された「陸奥で金を探して来い」という命令も、嫌がらせに近い性格のものだったように思えてきます。(言わずもがなの事ですが、文武の夫人が藤原不比等の娘・宮子であり、二人の間に産まれた子が聖武帝その人に他なりません)天武は晩年に当たる天武十年(681)三月、川嶋皇子・忍壁皇子ら十二人に対して、

      帝紀および上古の諸事を記し定めるよう

    詔(みことのり)したのですが、実際に『親ら筆を執りて以って録(しる)』したのは藤原一族の中臣連大嶋たちだったのです。
  • September 2018 編集されました
    新撰姓氏録は摂津国神別の項において大海連を取り上げ『安曇宿禰と祖を同じくし、綿積命六世孫、小栲梨命の後なり』と伝えており、その名の通り「海の人」であった様です。一般に尾張連は「天火明命(アメノホアカリ)、天香語山命(高倉下命」の後裔と理解されているのですが、丹後・籠神社の海部氏とも同族が云々される古代きっての旧家????

    継体天皇の目子郎女は、尾張連草香の娘とされているにしては、系図はその直系の男児の後裔は途切れ、別な系列が尾張連になっているからだ。(壬申の乱に貢献した尾張連大隅・稲置から)これは、尾張連という名称自体が、その頃からのものかもしれない事を意味する。(その前は治張?)
  • 海部を統括した凡直氏と讃岐公
    凡直(のべのあたい)氏が寒川郡山田郡三木郡を管轄し、後に敏達天皇より紗抜大押直(さぬきおおしのあたい)の姓を賜り讃岐公となったのである。讃岐公の遠祖は景行天皇の第十王子神櫛王とされ、後の国造橘の公成、公業らは平安末期讃岐東部を支配していたようであり、大川郡長尾町内の真鍋(真部)一族が今も神櫛王の墓のお祭りをしている。
    安岐・周防・淡道・伊余・都佐などの諸国造は凡直の姓を持つ。 讃岐も凡直を称することがあるが、大押直の意で、所部の地域を統率するいわゆる大国造であったことを示す。
    通常「国造」の姓は「直(あたい)」なのですが、これには例外があります。 「出雲」、「吉備」等は「臣」であり、「尾張」は「連」、「大分」や「諸県」は「君」です。 また「安芸」や、「伊与」、「美濃」等は「凡直(おおしのあたい)」を称しています。 これは彼等が通常の「国造」とは違う、ということを示しているのでしょう。 彼等は他の国造のように、豪族の分家ではなく、本家であることが多いのです。(略)
    伊予
    凡直は国造の系譜をもっており、また同郡にこれ以外の有力豪族を見出すことができないことからみて、郡司であった可能性が強い。
     桑村郡の初見は天平八年(七三六)の正税出挙帳である(正倉院文書・一)。これによれば、大領に凡直広田、主政に大伴首大山の名がみえる。ここには桑村郡と記されていないが、郡司の定員からみて小郡であることは明らかである。ともあれ、桑村郡の郡司は凡直であった。
    ともあれ、桑村郡の郡司は凡直であった。http://tokyox.matrix.jp/wordpress/海部氏、凡海氏と屯倉/
  • 「凡」のつく国造を抜き出してみると、

    凡河内国造 おおしこうち
    おおしかわち 彦己曾保理命
    (神武天皇期) 凡河内氏 (直) 河内国

    周防国造 すおう 加米乃意美
    (応神天皇期) 周防氏(凡直) 周防国東部

    淡道国造 あわじ 矢口足尼
    (成務天皇期) 淡道氏(凡直) 淡路国

    粟国造 あわ 千波足尼
    (応神天皇期) 粟氏(凡直) 阿波国北部

    都佐国造 とさ 小立足尼
    (成務天皇期) 都佐氏(土佐氏)(凡直)
  • 凡河内氏 兵庫県姫路市広嶺
    息長水依比売 を出した御上神社社家の三上氏は、水上だとも言われているし、京都府舞鶴市の息長の転訛といわれる「行永(ゆきなが)」には、同じ天之御影命 を祀る「彌加宜(みかげ)神社 」があることからも、三上氏とその同族の凡河内氏・山背氏を併記した。

    凡河内国造の場合は港湾管理や外交など、王権の官僚的性格が強いのが特徴です。摂津地域が元来の本拠地であったかどうかはわかりません。この一族の本貫地(本籍地)が河内国志紀郡にあるという記録もあり(『日本三代実録』元慶7年6月条)、港湾管理などの職掌上この地に勢力を扶植したとも考えられます。
    凡河内氏は5世紀後半の雄略期頃より勢力を増したものと考えられます。
    凡河内直氏からは継体天皇の子である宣化天皇の妃となった大河内稚子媛〔おおしこうちのわくごひめ〕が出ました。6世紀前半のことです。その間に生まれた火焔〔ほのお〕皇子を祖とするのが椎田君〔しいだのきみ〕一族です(『日本書紀』宣化天皇巻)。『日本書紀』では宣化天皇の后、橘仲皇女〔たちばなのなかつめみこ〕のもとに生まれた上殖葉〔かみつえは〕皇子を祖とするものとして丹比公〔たじひのきみ〕・偉那公〔いなのきみ〕一族を挙げるのですが(『日本書紀』宣化天皇巻)、『古事記』では火焔皇子・上殖葉皇子両者を大河内稚子媛のもとに生まれた皇子としており、やはり丹比公・偉那公一族は、上殖葉皇子の子孫としてあります。『古事記』と『日本書紀』の系譜にくい違いがあるのですが、偉那公とは為奈〔いな〕・猪名とも表記する猪名地域ゆかりの氏族名です。椎田君も尼崎市内の地名・椎堂〔しどう〕と関連し、一族には川原公〔かわらのきみ〕(市内の瓦宮と関連)がいます(図1)。
     宣化天皇後裔の椎田君・偉那公・川原君一族が尼崎地域に集住したと見られることは、この地域に拠点を持った凡河内直氏の女性を母とし、母の一族によって養育され、この地を基盤とした王族であったことを示しています。宣化後裔王族の氏族名(猪名・椎田・川原)が、尼崎地域の地名(猪名・椎堂・瓦宮・河原)に符合することは、この地の開発・支配に関与した凡河内(大河内)氏が宣化の姻族となったことと関係があると考えられます。
    尼崎地域は6世紀に入る頃には、継体天皇の王権ゆかりの王族集住地として后妃一族が勢力を扶植し、あるいは王家の所領となっていったのです。摂津東部の淀川流域、現在の高槻市に今城塚〔いましろづか〕古墳(継体天皇の大王陵であることが有力視されている)が存在するのも、故なしとしないのです。
  • September 2018 編集されました
    尾張の弟彦公 ヤマトタケルの副将

    (即位27年)秋8月。熊襲が反抗して辺境(メグリホトリ)に侵入するのが止まらなくなりました。

    冬10月13日。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を派遣して熊襲を撃たせました。そのとき16歳。そこで日本武尊は言いました。
    「わたしは弓を射つのがうまい人を得て、一緒に行きたいと思っている。どこかに弓を射つのがうまい人はいないものか」
    ある人が言いました。
    「美濃国(ミノノクニ)に弓を射るのがうまい人が居ます。弟彦公(オトヒコキミ)といいます」
    そこで日本武尊は葛城(カヅラキ)の人の宮戸彦(ミヤトヒコ)を派遣して、弟彦公を呼び寄せました。弟彦公はついでに石占横立(イシウラノヨコタチ)と尾張の田子稻置(タゴノイナキ)・乳近稻置(チチカノイナキ)を連れてきました。すぐに日本武尊に従ってついて行きました。

    石占・田子・乳近
    石占は三重県桑名市。田子は現在の名古屋市瑞穂区。乳近は未詳だけどのも、弟彦公は美濃で木曽川の上流にあたる。木曽川は桑名市を流れます。名古屋には熱田神宮があり、熱田神宮というと草薙剣がある。と、考えると、美濃・尾張などのこの地域には鉄から武器を作り、また兵士を供給する土台があったんじゃないかと思われます。


      
    三野の弟彦。 
    オウスがクマソ征伐に連れていった射手。キビタケヒコの孫と思われる。
    オトヒコは臣下のイシウラノヨコタテとタゴノヰナギを連れて参上。
    このミノは吉備国の三野県で旭川流域の御野郡・津高郡にあたる。
      

    滋賀県大津市神領、建部神社末社、弓取 (ユミトリ) 神社
    岡山県和気郡和気町藤野、和氣 (ワケ) 神社
    岡山県岡山市吉備津、吉備津 (キビツ) 神社

     
    孝霊天皇┬兄ワカタケヒコ      ┌イナヒヲイラツ姫┬ヲウス
        │ (吉備上道) ─┐    │        │
        │        │融合  │        └オウス
        │        ↓    │          ┃
        └弟ワカタケヒコ─キビツヒコ┼キビタケヒコ┬アナトタケ姫
          (吉備下道)       │      │
                      │      └御友別命─オトヒコ
                      │
                      └ハリマタケヒコ
      
    ★『書記』美濃國弟彦公。
      

    『オウス申さく "良き射手を あらば連れん" と 皆 申す "三野のオトヒコ 秀でたり"』38文
    『葛城ミヤト 遣わして 召せば オトヒコ イシウラの ヨコタテおよび タコヰナギ チチカイナギを 率き連れて』38文
    『言いつ終れば ヤマトタケ オトヒコ遣りて 朋族を みな討ち治め 筑紫より 船路を帰る』38文

      
  • ミノの弟彦 御諸別の子
    三男の弟彦は「三野県」(備前国御野郡:岡山市北半部)を領し、三野臣の始祖となった。(三野国造 15応神)

    応神紀22年条
    応神帝の妃兄媛(えひめ)が里心がついて吉備国の実家に帰京してしまう。
    兄媛を忘れられない帝は狩りを口実にして吉備国まで追いかけて行く。
    兄媛の兄の御友別は訪れてくれた帝をもてなす。
    もてなし方に満足した帝が感激して、吉備国を御友別の兄弟、子供たちに分け与える。

    御友別は孝霊帝の子の稚武彦(記では若日子建吉備津日子命)の次男。
    長男の稲速別は「川嶋県」(備中国浅口郡:現在の倉敷市西南部)を得て下道臣の始祖になった。(下道国造15応神)
    次男の仲彦は「上道県」(備前国上道郡:岡山市東半部など)、「香屋」(備中国賀夜郡:岡山市西部と総社市東部)を与えられて、上道臣、香屋臣の始祖となっている。(上道国造 15応神)
    三男の弟彦は「三野県」(備前国御野郡:岡山市北半部)を領し、三野臣の始祖となった。(三野国造 15応神)
    御友別の弟の鴨別は「波区芸(はくぎ)県」(笠岡市辺りか)を当てられて、笠臣の始祖となった。(笠臣国造15応神)
    御友別の兄浦擬(うらこり)別は「苑県」を任されて、苑臣の始祖となったという。
  • 工 匠の 猪名部族がい た。 猪名部族の一人, 猪名部真根 (韋那 部真根)とい う優れた木工の話しが 『日本書記』 雄略天皇十三年九月の 条に記されて
    い る。
    い な べ ま ね
    「天皇の御世に,木工に韋那部真根とい う人があっ た。 石を台とし, 斧をとっ て材
    を断るに,一日中,断っ ても誤っ て刃を傷めたことがない 一日 天皇がこれを見そ 。,
    わなし 大い にこれを奇としたまい 『汝は常に此くの ごとくして誤っ たこ とがない ,,
    のか』 とこ下問になっ た。 真根は直ちに 『然るよし』 とお答えした。 ,
    そこで,天皇が采女を集めこれを裸に して , 真根の仕事をしてい る前で相撲を取ら せられた。 さすがの真根もこれには面くらい, ちょっ との油断でつ い に刃を傷つ けた。 そこで天皇は 『何処の奴か。 朕を畏れないで不貞の心でみだりに放言したのか』 と仰 せられた。 よっ て物部氏をして真根を野で殺そうとされた。 ここに真根の木工の仲間 が作歌 して天皇に嘆願 した。 その 歌は 『ああもっ たい ない ,韋那部の工匠の 使っ た墨 縄よ。 彼がいなかっ たら誰が懸けよう。 もったいないあの墨縄よ。』 と詠んだ。 天皇 はこの歌をお聞きになっ て,翻然として軽挙を悔い,赦す使を甲斐の黒駒に騎らしめ,
    急ぎ刑場にいたっ て赦罪の聖旨を伝えしめた
  • 「和名類集抄』 (937年)によると,員弁郡に五郷が見られ, 岩波文庫『魏志『邪馬国』 をこの野摩郷としているほど古く からあっ たと推察される。 五郷が現在の東員・員弁・北勢・藤原・大安の五町となった。

    員弁と猪名部
    猪名部の祖
    『日本書紀』 応神天皇31年の紀に,猪名部氏の起源が述べ られてい る 「応神天皇の時に, 伊豆の国から 『枯野』 とい う大きな船が献上された。 その船が,
    年を経て朽ちてしまっ たので,天皇はこれを記念しようとし,その船の材を薪として, い ほ ニ
    塩を焼かせて, 五百籠ほどできた。 これを諸国にお頒ちになって, 大いに造船を奨励
    された。 諸国では, 勅命をありがた く思っ て, 競っ て新しい 船を献上した。 その船五 む こ みなと みつき
    百艘がみんな武庫の水門に集まっ たが,たまたま新羅の 調の使が,武庫に宿泊して
    いたところ, 誤っ て火を出し,延焼して船を多く焼いてしまっ た。 よ たくみ
    新羅の王は, 謝した。 」

    注:1.枯野は当て字で,「早く走る」 の意、あるい は地名とも言われてい る。
    2.武庫の 水門は当時摂津の国武庫の郷 (現在の 兵庫県尼崎市)の 港。 3.匠者は木工技術者’の意。
    この能い匠者が 『猪名部』 族の祖先であるとされてい る。
    また, この猪名部が河村秀根の 『日本書紀集解』 の 「類聚名義抄」 に 「摂津国河辺 い な
    郡為奈は按ずるに,その 匠なる者を, 為奈に居らしむ。 故に,其子孫は,其地に在り て猪名部と称せ り。 」 とあり、 新羅からの帰化木工人が最初にこの 地に落ち着い たと
    思われる。
    注 :為 奈郷 は 現 在 の 猪 名 川 の 両 岸 に ま た が る 大 阪 府 豊 中 市 ,池 田 市 ,箕 面 市 と 兵 庫 県 尼 崎 市 ,伊 丹市,川襾11∫,川辺郡猪名川町にかけて の広い 地域である
  • 楼閣は二階建の家屋を言う。 猪名部のr:匠は専門の造船技術で高度な楼閣を建築したと思われる
    伊勢の 采女は三重郡 (現在の 四日市市采女町付近)少領 〔次官)から容姿端麗な女性を貢 ヒして宮仕えさせ たもの で ある 。

    雄略天皇十八年の 条に見える伝承による と,
    もののべ のうしろのすくね めの むらじ あさけの いらつニ
    「天皇は物部菟代宿祢と物部目連をつ かわして伊勢の 朝日郎を征伐せ しめ られ た。 当時猪名部の地の豪族物部菟代宿祢に初め鎮定を命じられたが,朝日郎の 放つ 矢 が二重の 甲を通すほどの 強弓に恐れをなして二日の間戦わなかっ た。 遅れて到着した 物部目連は勇敢に戦い ,朝日郎を捕らえて切り殺した。 戦わなかっ た菟代宿祢は天皇 の 怒りに触れその所有する猪名部の 地を取り上げて功の あっ
    とある
  • 雄略天皇は474年8月10日、物部宿禰菟代と物部連目を遣わし伊勢朝日郎を討たせた。

    朝日郎はそれらの官軍を伊賀の青墓[1]で迎えて戦った。

    朝日郎は弓の名手だった。相手に向かって「朝日郎の相手をするのは誰だ」と言い放った。朝日郎の打つ矢は二重に着込んだ鎧すら貫いたので官軍はひるんだ。菟代宿禰は進撃することができず一晩対峙した。明けて翌日、物部目連が自ら大刀を取り、筑紫の物部大斧手[2]に楯を持たせ、大声をあげて突き進んだ。遠目で見ていた朝日郎は矢を放ち、大斧手の盾と二重の鎧を貫き、さらに体にも負傷させたが、大斧手は楯で死ぬことはなく、ついに物部連目は朝日郎を捕らえ斬り殺した。

    一方の菟代宿禰は自分が倒せなかったことを恥じて七日間も命に背いた。天皇は侍臣に「菟代宿禰はなぜ命に背いているのか」と問うと、讃岐の田虫別が申し出て「菟代宿禰は一晩二日間も怯えていて朝日郎を捕えることが出来なかったのです。そのため物部目連が筑紫の聞の物部大斧手を連れ、朝日郎を捕えて斬ったのです」と告白した。天皇はこれを聞いて怒り、菟代宿禰が持っていた猪名部(工匠の部民、あるいは郡)を取り上げて物部目連に賜った。
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。