尾張、海部郡、中島郡、宮簀媛、東谷山

December 2018 編集されました カテゴリ: 神社
image尾張、海部郡、中島郡

尾張の海部郡に於ける式内社 海部郡は、愛知県西南部、木曽川下流域の東側であり、南には伊勢湾を望む地域であり、甚…

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  • May 2016 編集されました
    宮簀媛命は松炬島で日本武尊と初めて顔合わせします。
    この時点で彼女はまだ独身。
    父親は初代の尾張国造とされる乎止與命(おとよのみこと)で、母親は真敷刀俾命(ましきとべのみこと)とされます。
    乎止與命は熱田神宮摂社の上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)の御祭神で真敷刀俾命は下知我麻神社の御祭神となります。そして真敷刀俾命は尾張大印岐(おわりのおおいみき)の娘でした。

    尾張国一宮の真清田神社社伝に

    高尾張邑 から尾張に移住したのは 天火明命の子である天香山命とされますが、乎止與命以前の系図は後になって接合されたものと思われ、乎止與命の時代近辺に移住したと想定されます。

    天香山坐櫛真智命 神社
    あまのかぐやまにいますくしまちのみこと神社
    鎮座地 奈良県橿原市南浦町608
    ご祭神 櫛真智命神(くしまちのみことのかみ)

    本来、櫛眞知命とするのが正しいと考えられているようで元の名は大麻等乃知神で占いの神)卜事占兆をつかさどる神

    『書紀』に一書として、天火明命の子で、尾張連らの遠祖とある。
    『旧事』天香久山、天香語山、天香山、などと書かれる。 
    母は天道日女で、物部氏の祖・宇摩志麻治は異母弟にあたる。異母妹・穂屋姫を妻として、天村雲を生んだとある。

    籠神社の古伝にも
    「天香語山命」は亦名 手栗彦命 亦名 高志神。彦火明彦命が天上にて生む神也。母天道姫命 亦名 祖母命也。
  • 愛知県最古級の古墳である「東の宮古墳」

    これは犬山市にある古墳で4世紀初めの築造の由である。巨大な前方後円墳に気を取られていたため、重大な見落としを犯した。墳形は前方後方墳だが、前方部の幅が43m(全長78m)に及ぶ大古墳。この古順から11面に及ぶ鏡が出土。三角縁神獣鏡5面、濃尾平野にしか分布しない人物禽獣文鏡4面,鳥頭の最古四面形鏡なども出土。加えて、竪穴式石室の中の割竹形木棺等の埋葬施設に,当時入手困難だった水銀朱を豊富に使用。最高権力者の墓だったことが確実視されている。
  • May 2016 編集されました
    白鳥塚古墳
    墳丘 前方後円墳(墳長約115m・後円部径約75m・前方部長約43m)
    葺石 あり(角礫と円礫)
    周濠 あり
    出土遺物 土師器・須恵器(古墳築造後のもの)
    築造時期 4世紀前半
    愛知県下において、名古屋市断夫山古墳、犬山市青塚古墳に次いで第3位の規模を誇り、東海地方で最初に造られた大型前方後円墳です。墳丘の平面形は、後円部に比べて前方部が細くかつ短いのが特徴で、大王墓の奈良県柳本行燈山古墳に類似します。墳丘の装飾として、後円部頂部に石英が敷かれ、斜面の葺石の上には多量の石英が撒かれていました。石英で白く輝いていた外観が、白鳥塚の名称の由来となったと言われています。
    所在地
     名古屋市守山区大字上志段味字東谷2107
    白鳥塚古墳は、名古屋市守山区上志段味字東谷にある前方後円墳で、志段味古墳群のひとつ。築造時期は4世紀前半と推定され、同時期の尾張では最大規模で、熱田の断夫山古墳、犬山の青塚古墳に次ぐ愛知県下で3番目の大きさの古墳である。形状は行燈山古墳(伝崇神天皇陵)と酷似している。
  • May 2016 編集されました
    国造

    尾張氏。姓は連。天武天皇13年(684年)に宿禰を賜った。ヤマト政権との関わりは古く、孝昭天皇妃世襲足媛・崇神天皇妃大海媛・日本武尊妃宮簀媛・継体天皇妃目子媛などを后妃を輩出し、全国の国造家の中でも屈指の勢力を誇った。断夫山古墳や白鳥古墳などは一族の墓と推定されている。

    尾張国造一族の古墳
    尾張国造の領域で最古の古墳は愛西市(旧海部郡佐織町)の奥地社古墳(径25メートルの円墳)とされている。墳頂に奥津神社が所在し、神社所蔵の3面の三角縁神獣鏡が椿井大塚山古墳出土の銅鏡と同笵鏡関係にあることが判った。このことから4世紀前期の古墳であると推定できる。また、北部の犬山市の白山平(標高142メートル)の頂上に築造された前方後方墳の東之宮古墳(墳丘長78メートル、国の史跡)が所在し、副葬品の中に11面の銅鏡があり、そのうちに三角縁神獣鏡があった。前者は海部郡を支配する首長墓であり、後者は山麓地帯一帯を束ねる地域首長であったと考えられる。

    白鳥塚古墳、尾張戸神社古墳、中社古墳、南社古墳築造後当地の古墳時代前期そして前期中葉の古墳勢力は衰退しその後しばらく古墳の築造は停止したと言い、この事は雄略天皇期の大和王権の勢力拡大など畿内、大和地方の新しい勢力の台頭が何らかの関係があるやも知れぬと研究者は言う。

    尾張戸神社古墳(国史跡)、中社古墳(国史跡)、南社古墳(国史跡)
    尾張戸神社古墳
    2009年度名古屋市教育委員会の社殿周辺の発掘調査により4世紀前半白鳥塚古墳と同時期の径27.5mの円墳と確認された。二段築造の墳頂、テラス部分には通常の葺き石に混じり多量の白石珪石(石英)が見られ、昭和初期社殿裏が盗掘された際大きな石に突き当たったと伝えられる事から竪穴式石槨の存在が想像されると言う。しかし社殿下主体部の発掘を行うことはできず副葬品、埴輪等は確認されておらず不明な部分も多い。
    中社古墳
    同神社の有る山頂を南西へ下ると小祠のある尾根を分断し成形(下段部を平坦に成形しその上部に後円部を盛土する)した中社古墳が有る。
    全長63.5m、後円部3段、前方部2段、4世紀古墳時代前期中葉の前方後円墳。江戸時代の記録には割石小口積みの竪穴式石室から銅製品の出土記録が有り、現在墳頂には小社が祀られ周囲に川原石の葺き石が散在している。
    平成21(2009)年、名古屋市教育委員会による発掘調査では高さ70cm、直径30~40cm、三角穴のある畿内大王墓、前期古墳に用いられた円筒埴輪に類似した埴輪列が直立した状態で発掘され、5列並列で並べられている事から古墳全体ではかなりの数に上ると思われ、また平成25(2013)年度の発掘では愛知・岐阜を含めた東日本では最古級の家形埴輪片が出土、畿内との何らかの関係が想像されると言う。また白鳥塚古墳を覆っていた白石珪石(石英)と同様の物が採取されその同系の被葬者も想像される。

    南社古墳
    この中社古墳をさらに尾根づたいに南西へ下ると自然地形を成形した小丘陵に南社古墳がある。
    同古墳も墳頂に小祠が祀られており、平成22(2010)年、名古屋市教育委員会による発掘調査によれば直径約30mの円墳とされ、下段は近くの山石、上段はこれも近くの庄内川の川原石が敷き詰められ、上下で異なる葺石が使用された二段築造、同様の例は福井県に一例在るのみで特異な形態であり中社古墳とやや異にしおる。
    出土品においては近畿以東では最古級に当たる家型埴輪の一部と中社古墳同様愛知県下では珍しい畿内前期古墳の特長を備えた三角形透かし穴のある円筒埴輪の一部、他盾型埴輪が出土。中社・南社両古墳埴輪の鉱物含有組成は非常に近い物であると言う。家型埴輪を含む形象埴輪と透かし穴のある円筒埴輪が同じに祀られる例は大和王権の祭りの様式に似ており何らかの関連が考えられ、出土物などから4世紀古墳時代前期中葉の築造が考えられるという。
  • May 2016 編集されました
    「東谷山(とうごくさん)は熱田の奥の院」
    言い伝えられてきたように、古くから、衆人に篤く崇拝されてきた。山頂にある尾張戸神社は、尾張氏の祖神である天火明命(あめのほあかりのみこと)、天香語山命(あものかぐやまのみこと)、建稲種命(たけいなだのみこと)を御祭神とする。延長五年(923年)には延喜式に記されており、近隣でも稀な古社である。また近世には名古屋城の鬼門の守護神として徳川藩主より崇敬された。

    尾張戸神社
    所在地 愛知県瀬戸市十軒町845

    社伝(「東谷大明神草創本紀」)によると、第13代成務天皇5年に宮簀媛命の勧請によって創建されたという。宮簀媛命は日本武尊の妃で、建稲種命の妹にあたる。

    また、江戸時代末期から明治時代初期にかけて刊行された地誌『尾張名所図会』では、尾張戸神社が鎮座する「東谷山」の由来について、「尾張戸の神を鎮まります山」なので古くは「尾張山」と呼ばれていたが、尾張の国名を表す「当国(當国、とうごく)」から「当国山(當国山、とうごくやま)」と称されるようなり、のちこれが転じて「東谷山」と書き表す様になったと伝える。
  • May 2016 編集されました
    白鳥御陵がヤマトタケルの墓で、断夫山古墳はミヤズヒメの墓でいいじゃないかとも思うのだけど、実際のところそうもいかないようだ。
    断夫山古墳が造られたのは6世紀初頭ではないかとされている。前方後円墳としては後期のものだ。

    やはり、東谷山の方が、四世紀なので尾張氏の始まりに近く、この地域に宮簀媛も祀られているのでしょう。

    白鳥塚古墳こそ、尾張国造の墓かもしれない。そして、鏡の出土した東の宮古墳が宮簀媛の墓かもしれない。

    白鳥塚古墳は崇神天皇陵とされる行燈山古墳と古墳の形状などが類似しており、これは既に各研究者により議論され確認されています。また白鳥塚古墳には行燈山古墳と同様に、祭壇と考えられている造出(つくりだし)が存在します。造出に関しては以下Wikipediaより引用します。

    大和地域では10期区分の1期~3期の古墳から、墳丘裾周りに方形区画(プレ造出)を設け、後の造出につながるような祭祀を行っていた例がいくつか知られている。奈良県天理市の中山大塚古墳・燈籠山古墳・赤土山古墳では後円部背後に壇状施設が確認され、東殿塚古墳では前方部左(後円部を上にしたときの左)の突出部で祭祀用と思われる土器群が確認されている。また行燈山古墳・渋谷向山古墳では後円部右側くびれ部付近に壇状の地形が実測図から確認でき、四世紀半ばごろまでのプレ造出は設置位置が一定していない。造出は納棺後の祭祀(追善供養)を行うための場であったと考えられている。
    白鳥山古墳、
    大阪府柏原市、玉手山古墳群(古墳時代前期の古墳群)の全長110m玉手山7号墳と酷似し、また奈良県天理市柳本町、全長242m行燈山(あんどんやま)古墳(伝崇神天皇陵)に周濠部に二ヶ所の陸橋を持つなど縮尺は異なるものの類似しており、埴輪を持たない畿内的特徴を持つこの地方では最古級4世紀前半の前方後円墳であり大和王権との何らかの繋がり、また尾張南部の首長的人物が被葬者ではないかと思われます。また後円部北西、前方部先端北、前方部先端中央の三カ所に突出部(造出し)が見られ、後円部三段、前方部二段築造と判明。
  • 朝宮神社は、『延喜式神名帳』の尾張国山田郡和爾良神社に比定されているが、和爾良神社の後裔社とされる神社は春日井市上条町に鎮座する和爾良神社など複数存在し、定かではない。

    朝宮神社も上条町の和爾良神社も主祭神は、「阿太賀田須命(あたかたすのみこと)」で建手和尓命(たけたかにのみこと)という神様も併せてお祀りされているようです。

    朝宮神社がある場所は、春日井市ですがその「春日」という言葉は「大春日朝臣」から由来しているのでしょう。また、春日井は、書の達人として有名な「小野道風」生誕の地として有名ですが、それも小野朝臣と関係があるのかもしれません。

    祭神 -建手和尓命
    『先代旧事本紀』尾張氏系譜によると、建斗米には七人の子があった《建田背(たけだせ)命、建宇那比(たけうなび)命、建多乎利(たけたおり)命、建彌阿久良(たけみあくら)命、建麻利尼(たけまりね)命、建手和邇(たけたわに)命、宇那比姫(うなびひめ)命》とされますが、その中に建手和邇として名前が登場します。
    建手和邇は、尾張氏の本流です。ただ、名前に「和爾」と入っているので、和爾氏と何かの血縁があるのでしょう。

    一方、日本書紀では和珥臣の始祖は孝昭天皇の長男の天足彦国押人命(アメノタラシヒコクニオシヒト)―古事記では天押帯日子命―であるとされます。この天足彦国押人命の母は、世襲足媛(よそたらしひめ)で彼女は、尾張連の娘ですから、まんざら関係ないわけではないのかもしれません。
    しかし、和爾氏は始祖を阿田賀田須命とするものと始祖を天足彦国押人命とするものの二つの系譜があったのか?
  • 『出雲国風土記』楯縫郡
    神名樋山頂の西に石神あり。古老伝えて言う。阿遅須枳高日子の后、天御梶日女命、多久の村に来て、多伎都比古命をお産みになった。
  • 一宮の中心の若栗神社

    一宮市北端部、木曽川沿いに、式内社が密集している。すなわち、石刀(黒岩)神社、大野神社、浅井神社、小塞神社と4社もが、同じ浅井町内にあり、さらに、大毛神社、若栗神社、高田波蘇神社、宇夫須邦神社、石刀(馬寄)神社の5社が近在に所在する。そして、当若栗神社を中心に、これらの神社はすべて2キロ弱の圏内に集中しているのである。中でも若栗神社、高田波蘇神社、宇夫須邦神社の3社は、すべて1平方キロ内に密集している。

    当社の祭神は天押帶日子命(あめおしたらしひこのみこと)。

    第五代孝昭天皇の御子とされている。孝昭天皇は欠史八代として強くその実在が疑われてきた天皇の時代の、真っ只中に位置する天皇である。『古事記』に「尾張連之祖である奧津余曾(おきつよそ)の娘、余曾多本毘賣命(よそたほびめのみこと)の娘を妃として生んだ御子」と記されている人物である。その他に、十五代応神天皇も祀られている。これは、慶長10年(1605年)に織田信長の家臣、兼松又四郎正吉が武運長久を願って、応神天皇を祀る京都府八幡市の石清水八幡宮を当社に配祀した経緯があるから、とされる。五代孝昭天皇の御子とされている。孝昭天皇は欠史八代として強くその実在が疑われてきた天皇の時代の、真っ只中に位置する天皇である。『古事記』に「尾張連之祖である奧津余曾(おきつよそ)の娘、余曾多本毘賣命(よそたほびめのみこと)の娘を妃として生んだ御子」と記されている人物である。その他に、十五代応神天皇も祀られている。これは、慶長10年(1605年)に織田信長の家臣、兼松又四郎正吉が武運長久を願って、応神天皇を祀る京都府八幡市の石清水八幡宮を当社に配祀した経緯があるから、とされる。
  •  『日本書紀』に美濃国造神骨(カムホネ)とあるのがそれで、『古事記』では神大根王(カムオオネノミコ)と記されています。

     『延喜式』にある、備前国の式内社を見ると、大根神社の名があります。
     岡山県備前市に大根神社がこれに比定されています。。
     祭神は木花開耶姫命ですが、一説には神大根王であると言います。
     岡山県に神大根王を祀ると伝えられる神社があるのは、吉備氏と美濃とのつながりを感じさせるわけです

     その理由として考えられるのは、鴨県主との関係が下敷きにある、ということですが、ヤマトタケルの兄大碓命(オオウスノミコト)との関係があります。
     オオウスの命は、神大根王のふたりの娘、兄比売と弟比売を妃にしているのです。
     このうち、弟比売が生んだのが押黒弟日子王(オシグロノオトヒコノミコ)なのですが、『日本書紀』には、ヤマトタケルの東征に、美濃の弟彦公(オトヒコノキミ)という人物が従軍した、と記されています。
     オトヒコノキミはおそらくオシグロノオトヒコノキミと同一人物と考えられるのですが、吉備氏が従軍したヤマトタケルの東征に、神大根王の孫も参加していたことは、吉備氏との関係を考察するうえで非常に興味深い点ではあります。
  • 参河國碧海郡 和志取神社
    御祭神
    天日鷲命 合祀 伊弉諾命
    愛知県安城市にある。宇頭駅の北1Kmの柿崎に鎮座。当社の東2Kmほどに矢作川が南北に流れている
    社殿の瓦には、梶の紋が付けられていた。祭神・天日鷲命を祀る、阿波の忌部氏の神社の神紋と同じ紋だ。
    麻の葉の紋である。
    和志取神社社記
    五十狭城入彦皇子は気入彦命とも申し景行天皇の皇子で勅命によりこの地方の逆臣大 王主等を捕らえ、これより国内治まり庶民大いに安堵するという。
    御墓は当町字和志山にあり前方後円墳で前後三十五間、面積七百七十六坪、周辺に六 基の円墳即ち倍塚がある。明治29年11月28日御陵墓伝説地と指定。その後更に 調査の結果、昭和16年4月18日御陵墓と御勅定、同年5月26日勅使御参行報告 祭が行われた。
    本神社は和名抄にゆえん鷲取郷の総社で延喜式国内115座の筆頭たる旧官社で文政 13年神祇伯より正一位の神階を授けられ正一位本郷大明神の額を下賜された。古来 上手の尊崇厚く累代の領主より毎年祭典費を献進があり祈年新嘗祭には幣帛を奉り宝 作無窮、稔穀豊饒を祈る例であった。
  • 伊佐具神社 尼崎市上坂部
    伊佐具神社 兵庫県尼崎市上坂部3-25-18
    祭神 伊狹城入彦皇子
    由緒
     伊狹城入彦皇子は三河国碧海郡の式内社である和志取神社の祭神でもある。その神社の由緒では「五十狭城入彦皇子は気入彦命とも申し景行天皇の皇子で勅命によりこの地方(三河)の逆臣大王主等を捕らえ、平定した。」とある。 この皇子が当地とどのような関係があっての祭神なのか。
    当地名は坂部で大彦命の子孫の坂合部が住んでいた土地であるとか、神酒を醸造したので酒部と言ったと伝わる。
    神社創建の時代はわからないが、川辺郡では特筆すべき式内社である。 『延喜式玄蕃寮』に「凡新羅客人朝者、給神酒、其醸酒料稲」とし大和と摂河泉から十二社が選ばれているが、その内の一社。摂津の住道神社(現在の大阪市東住吉区住道矢田の中臣須牟地神社)に運ばれていたようである。
  • May 2016 編集されました
    三河長谷部直の祖。別名は気入彦命。

    五十狭城入彦(イサギイリヒコ)とは、景行紀によれば景行天皇の第十皇子でヤマトタケル(小碓尊)の異母弟、成務天皇(ワカタラシヒコ)の同母弟に当たる(古事記では“若木之入日子-ワカキノイリヒコ”という)。
     当社略記には、
     「武勇すぐれた御兄日本武尊(ヤマトタケル)と共に諸国を平定された、兄宮に勝るとも劣らざる英知の大神にして、庶民その偉功に景仰し社殿を営み当地に奉祀された。・・・」
    とあるが、記紀ともにイサギイリヒコの事蹟・後継氏族などの記載はない。
     ただ先代旧事本紀(9世紀後半)によれば、古事記にいうワカキノイリヒコは“三河長谷部直の祖”という(地方豪族だからか、新撰姓氏禄には見えない)。
  • 田光神社と守部宿禰
    第十二代景行天皇には双生子の男の子があり兄君を大碓命と申し上げ弟君を小碓命と申し上げます。小碓命はのちに熊襲征伐や東夷を討ち平げた古代武勇の人、日本武尊であります。大碓命はやや温和な性格であったようで父天皇からうとまれていたようであります。大碓命の御子押黒之弟日子王(オシグロノオトヒキノキミ)その子牟宜都守(ムギツノカミ)と続き守部氏の祖で、初代は守部宿禰孫谷(ヒコヤ)は熱田神宮の社職として朱鳥元年西一海士郡司兼祭主正祝詞司大内人に任命されその子孫は代々正六位大内人として熱田神宮に社職として明治四年迄奉仕した。また草薙剱の御受取の奉迎使としてお出迎えしたと熱田神宮縁起にみえており、延久年間第十九代彦正が、八幡社を勧請し社を建てたのが始まりと傳えられています。
    境内由緒書き より

    田光神社(たこうじんじゃ)は、名古屋市瑞穂区大喜新町にある神社。「田光八幡社」とも称する。
  • May 2016 編集されました
    ムゲツ氏は、『古事記』や『日本書紀』にみえるように、景行天皇の大碓皇子(日本武尊の兄)と美濃の豪族神大根王(開化天皇の皇子彦坐王の子)の娘との間に生まれた押黒之弟日子王を始祖とし、現在の関市・美濃市辺りを本拠地に、その周辺を支配していたと考えられている。その後、雄略天皇紀にみえる「身毛君大夫」は、おそらく天皇直属の武人として活躍していたのであろう。また、ムゲツ君広の後、『続日本紀』にみえる「立春の暁の醴泉」を汲み天皇に献進する役目を、後のムゲツ首がおこなっている。

    平成4年(1992)、この氏寺から指呼の地にある美濃市横越の観音寺山山頂から古墳が発見され、中国製の「方格規短鏡」や勾玉などが出土し、ムゲツ氏の墳墓の一つであると推定された。それから3年目の平成7年に、こんどは弥勒寺跡の東隣りから、郡衙(郡役所)跡とみられる大規模な倉庫群跡と役所で使用されていたとみられる「円面硯」なども出土した。こうした相次ぐ発見によって、ようやくムゲツ氏の実像らしい姿が現れてきたのである。

    平安時代(794-1185年)に美濃国の国衙(今の県庁にあたる)の近く、現在の垂井町辺りに美濃国の国営「紙屋」が置かれ、この紙屋を中心に紙の一大生産地が形成されていたとみられている。だが、律令体制の崩壊とともに、この地の紙生産は衰退し、その後、何時の間にか、現在の美濃市牧谷地域を中心に紙生産が行われていたのである。そして応仁の乱の頃には、美濃市大矢田に「紙の六斉市(市場)」がたつほどに盛んになり、美濃紙生産発展への基礎をつくったのである
  • 景行天皇の皇子で、母は播磨稲日大郎姫。同母兄に櫛角別王、双子の弟に小碓尊(日本武尊)がおり、異母兄弟に成務天皇がいる。
    大碓は美濃国の神大根王の娘、兄比賣を妃として押黒之兄日子王(兄彦命)を生み、弟比賣を妃として押黒弟日子王(弟別尊)を生んだと伝えられている。 押黒之兄日子王は三野之宇泥須和気之祖となり、押黒弟日子王は牟宜都君等之祖である。
    『古事記』によれば、大碓は小碓に殺されたとされるが、『日本書紀』では、景行天皇40年、蝦夷征伐の命を恐れて逃亡し、美濃国に封ぜられたという。
    愛知県豊田市猿投町の猿投神社は大碓命を主祭神とし、西宮後方にはその墓が伝えられる。なお同社の伝承によれば、大碓命は美濃に封じられて後、当地方の開拓に尽くしたが、景行天皇52年、猿投山に登る中途で蛇毒のために薨去、時に42歳という。
  • 五十狭芹彦─稚武吉備津彦ー御鋤友耳建彦─吉備武彦

    亀岡市の小幡神社の伝承では、
     彦坐王は開化天皇の御子であり、丹波道主命もやはり開化天皇の御子であった。すなわち開化天皇と和邇氏の遠祖意祁都比売との間に生まれたのが彦坐王であり、開化天皇と近江の三上祝がまつる天之御影神の娘息長水依比売との間に生まれたのが丹波道主命であると伝承する。
  • 岐阜県 日子坐王一族はこの地方に深い関係をもち農耕、治山、治水に貢献された。日子坐王の皇子丹波道主命は、崇神天皇の朝命を奉じて、丹波(山陰地方)に赴かれ四道将軍の御一人で、別名彦多都彦命(伊奈波神社)という。その奥方が当式内社方県津神社御祭神丹波之河上摩須郎女命、その御子日葉酢比売命又その御子五十瓊敷入彦命は(伊奈波神社)妃淳熨斗媛命(金神社)、その御子市隼雄命(橿森神社)及び擁烈根命(県神社)である、岐阜市内の総神社の親神様に当る
  • 尾張の、中島、海部直等の祖神が天背男である。尾張の祖神として、大国魂神社に祀られている。

    尾張大国霊神社
    所在地は、稲沢市国府宮1丁目、祭神は、尾張大国霊神。本殿の傍らには、七個の石による磐境(いわくら)があるという。この社の創始者は、海人族と言われる豪族、尾張氏の一族の祖、天背男命と伝えられると言う。この神社は、天下の奇祭、裸祭りで有名であり、国府宮と通称は呼ばれる事が多いようであります

    久多神社
    所在地は、稲沢市稲島石畑、祭神は、天背男命(あめのせおのみこと)で、この神は、尾張中島・海部直等祖とみえる。この地域には、天背男命を祖神とした一族が、居住していた。中島直(本家)、海部直(分家)の尾張族(海人族か)が、この辺りで繁栄していたのであろうか。
     
    中島直の子孫は、久田氏と称していたという。暦応2年に一族の間で、争いが起こり、同族の野々村氏が神主職を引き継いだという。が、この元の神社は、いつの頃か廃絶し、その後、天保13(1842)年に野々村氏が、再建したという。

  • 尾張は、名古屋南部を拠点していた乎止与命が、三河湾を支配していたの海洋民族の娘:真敷刀婢に生ませた建稻種命と、尾張北部の小針田の豪族:大荒田の娘、玉姫との婚姻を成立させた事によって統一された。
  • 尾張連のち尾張宿禰
    始祖 天忍人命
    種別 神別(天孫)
    本貫 尾張国愛知郡
    著名な人物 世襲足媛(孝昭天皇皇后)
    宮簀媛(日本武尊妃)
    尾張大隅
    建稲種命
    尾張草香
    尾張馬身
    後裔 熱田神宮家(社家)
  • June 2016 編集されました
    尾張氏
    第二の一書(第六第八)によると天火明命(あめのほあかりのみこと)を祖神とし天忍人命から始まるとされる。本貫地は諸説あり不明。

    美濃・飛騨などに居住の後、乎止与命のときに尾張国造となる。倭武の時代には、熱田の南に拠点を移し、その後裔は熱田神宮大宮司を代々務めた。また同族に住吉大社(大阪市住吉区)の社家の津守氏、そして籠神社(京都府宮津市)の社家海部氏(国宝『海部氏系図』による)がある。

    記紀ではしばしば后妃を出した氏族とされる。遠祖である奥津余曾の妹、余曾多本毘売命(世襲足媛)は孝昭天皇の皇后となり、子は孝安天皇となっている。崇神天皇の妃を尾張大海媛とする、など皇統譜の古い時期に尾張氏と天皇が結びついている。 継体天皇の大和入りするまでの正妃は尾張連草香の娘、目子媛。第一子の勾大兄皇子は安閑天皇として、檜隈高田皇子は宣化天皇として即位。

    敏達天皇と皇后額田部皇女(推古天皇)の子に尾張皇子がいる。

    第十代崇神天皇と意富阿麻比売の系統
    意富阿麻比売
    おおあまひめ
    ・尾張連の祖(尾張国海部郡)
    ・崇神天皇の二人目の妻
    大入杵命
    おおいりきのみこと
    ・崇神天皇と意富阿麻比売の子
    ・能登臣の祖
    八坂之入日子命
    やさかのいりひこのみこと
    沼名木之入比売命
    ぬなきのいりひめのみこと
    十市之入比売命
    とおちのいりひめのみこと
    ・崇神天皇と意富阿麻比売の子

    第十代崇神天皇と御真津比売の系統
    御真津比売命
    みまつひめのみこと
    ・孝元天皇(前述)皇子の大毘古の娘という
    ・崇神天皇の三人目の妻
    伊玖米入日子伊沙知命
    垂仁天皇
    いくめいりひこいさちのみこと
    すいにん
    ・崇神天皇と御真津比売の御子
    ・十一代垂仁天皇となり153歳で崩御という(書記140歳)
    伊邪能真若命
    いざのまわかのみこと
    国片比売命
    くにかたひめのみこと
    千千都久和比売命
    ちちつくわひめのみこと
    伊賀比売命
    いがひめのみこと
    倭日子命
    やまとひこのみこと
    ・崇神天皇と御真津比売の子
    ・倭日子命のとき殉死の一種として陵墓の周りに人柱を並べたという
  • 尾張氏
    天皇家 通婚先 出生子

    10代崇神 === 大海媛
    |---------|

    11代垂仁 大入杵
    ーーーーーーー 八坂入日子
    | 沼名木比売
    | 十市比売

    12代景行 === 八坂入日子娘
    八坂入日売ーーーーーーー

    ーーーーーーーーーーーーーーー若帯日子(成務天皇)
    | 五日木入日子==尾張氏建稲種の子
    | 五日木入日売 尾綱根妹 尾綱真若刀婢
    13代成務(若帯日子) |
    後嗣なし


    14代仲哀 品陀真若王==尾綱根娘
    | 金田屋姫


    15代応神===============高木入日売
    〃 ===============中日売(16代仁徳の母)
    〃 ===============弟日売


    以上のように、

    大海媛が10代崇神天皇妃、

    八坂入日売が12代景行天皇妃、

    その生子が13代成務天皇、

    そして高木入日売ら三姉妹が15代応神天皇妃、

    そのひとり、中日売は16代仁徳天皇を生むという、

    崇神朝において、尾張氏は大和王権に大きな力を持つことになった。

    ところが、その一方孝元天皇に発する皇孫 武・内宿禰が崇神朝で大活躍して、

    次の応神朝設立に大きく寄与したため、

    武・内宿禰の子である葛城襲津彦から応神朝で葛城臣氏が大きな勢力を持つようになり、

    尾張氏は王朝から一歩退いた形になってしまった。
  • June 2016 編集されました
    青木宮跡、宇夫須奈神社旧跡
    一宮市木曽川町里小牧
    創立年月は詳かでない。當社は往古「青木宮」と称し青木の里に鎮座されていたが後木曽川堤沿いに移されたもので、現在木曽川中学校南西に 南青木 中青木 北青木の地名で残され、最近まで青木宮跡といわれる小高い丘があった。堤沿いの地域は砂塵が甚だしく吹き埋まるので正保二年(一六四五)に現在の神域に遷座されたものである。
    當社を「青木宮」と称したのは、初の祭神の名を取り、五百木宮と称えしを、「イオキ」を「アオキ」と唱え、且つ五百木を草書にて青木の如く書きしによるべしと云う言伝えがある。 明治四十一年、村社天神社(祭神伊奘諾命、伊弉冉命)を合祀された。社名「青木宮」は古くは宇夫須奈神社と称していたのを宇夫須奈大明神と称し大明神だけを取って社名としていたが昭和十七年に愛知県知事に申請し、現在の社名になった。

    石柱には青木宮跡だけでなく宇夫須奈神社旧跡とも書かれているそうです。宇夫須那神社で書いたように、「尾張国風土記逸文」によればこの地は廬入姫(いおきのいりひめ)の生誕地となります。廬入姫は「古事記」では五百木之入日売(いおきのいりひめ)と表記され、宇夫須奈神社の祭神・五百入姫大神と同じです。つまり、宇夫須奈神社と宇夫須那神社は 共に廬入姫の生誕地に関係する同じ神社だったと考えられます。

    この裏付けになりそうな話として、景行天皇が美濃国に行幸し、同国の美女として名高い八坂入彦命の娘弟媛を妃にしようとしたが、弟媛からはすげなく断られ、代わりに姉の八坂入媛(八坂之入日売命)を妃にしたと言う記事が「日本書紀」に見られます。二人の子が五百木之入日売(廬入姫)となるので、美濃のお隣の尾張で八坂之入日売命が五百木之入日売を生んでもさほど違和感はありません。

    ちなみに景行天皇は彦坐王の子である神骨(神大根王)の娘が美人だと聞き、大碓命に本当かどうか確かめに行かせますが、大碓命は此の娘と密通し復命しなかったので、天皇は大碓命を恨んだと「日本書紀」には書かれています。色々繋がりがありそうで面白いですね。
  • 葛城は、雄略天皇の時代まではかなり栄えていたと考えられますが、所謂「眉輪王の変」を境に没落します。そのあたりまでは、尾張氏は葛城を本拠に丹後を支配地として天皇と繋がりの深い大きな勢力だったのでしょう。この変の後、尾張に落ち延びていったという事なのでは
  • 真清田神社には伝正徹筆による由緒・「古縁起」(真清田神社縁起)が伝わっています。正徹(歌人で東福寺の僧)がこの由緒を書いたのは応永25年(1418年)のことらしいのですが、本当かどうかは不明です。「古縁起」によれば、崇神天皇の夢によって国之常立神を勧請し祭神としたそうです。完全に伝説の世界で具体的な根拠はなさそうです。

    卜部兼凞(1348年~1402年)の「大日本国一宮記」によれば、祭神は大己貴命となっています。ただ、この書は江戸時代に加筆されており、その時点で大己貴命となった可能性が高いようです。しかし、何らかの伝承が元になっている可能性も否定できません。

    祭神を天火明命とするのは、江戸時代の吉見幸和(神道家)が「宗廟社稷問答」、「大日本史」などで唱えた説です。また「真清」は真清鏡(ますのかがみ)に由来するとの説から鏡作に関係し、天火明命後裔の鏡作氏と関係が想定されます。岐阜県の各務原(かがみはら、一宮市の北東に位置する)の地名も、銅鏡などを作る鏡作部の存在と関わってきます。さらに尾張には尾張氏を祀る神社が多いことから明治政府は祭神を天火明命とすることで公式に認めました。
  • 一宮市の大神神社
    一宮市花池2-15-28。この神社に関してWikipediaより

    旧鎮座地の地名は大和町宮地花池(現在の古宮公園の位置)であり、大和国から移り住んだ人々が創始したともされる。他に、天火明命(尾張氏の祖神)の十世の孫である大美和都禰命(オオミヤツネノミコト)が祭神であったとする説もある。神紋は桜井市の大神神社と同じ三杉である。
    当社が尾張国一宮であるとする説があり、近くには同じく尾張国一宮とされる真清田神社がある。大神神社の社伝では、大神神社と真清田神社を相殿として一宮としたと伝える。
  • March 2017 編集されました
    始祖から十三世の孫、尻綱根(しりつなね)命が品太(ほんだ)天皇(應神天皇)の御世に、尾治(おはり)連の姓を賜ったとある。【それで十四世の孫以降、世々の名をみな「尾治の~の連」と書いている。】それは倭建命の段に「尾張国造の祖、美夜受(みやず)比賣」とある国造が、この氏と思われるので、この氏の人はそれ以前から尾張に住んでいたところ、尻綱根に至って、この姓を賜ったのだろう。【このことはさらに軽嶋の宮(應神天皇)の段で言うことを考え合わせよ。書紀にこの美夜受比賣を尾張氏の娘としているから、当時すでにこの姓があったように思えるが、それは例によって後で起きたことを前のことに反映させたのである。ところでこの氏の本拠は大和国葛城である。というのは、境原宮の段で、この氏の人に葛城の高千那毘賣という人がある。また旧事紀には、この氏の三世の孫を「天忍人(あめのおしひと)命、異母妹角屋(つぬや?)姫、またの名は葛木出石(かつらぎのいずし)姫・・・次に天忍男命が葛木の土の神、劔根(つるぎね)命の娘を妻として云々」、「四世の孫瀛津世襲(おきつよそ)命、またの名は葛木彦命という」、「七世の孫建諸隅(たけもろすみ)命は、葛木直の祖、大諸見足尼(おおもろみのすくね)の娘を妻とした」などとあるからだ。書紀の神武の巻に「高尾張の邑、ある本には葛城の邑という。」また「高尾張の邑・・・よってその村の名を改めて葛城という」とあり、「高尾張」というのは「葛城」の元の名のように見えるので、国名の尾張はこの高尾張から出て、それはこの氏人が葛城から尾張に移り住んだため、元いた国の名を取って国名にしたように思われるだろうが、そうではない。神武の巻にある記事は一つの伝えで、実は天火明命の子孫が葛城に住んでいたが、尾張の国造になって下り住んだ人があったので、その国の名を取って、葛城を高尾張とも言ったのを、誤って元の名のように伝えたのだろう。ただしこれは今私が思いついたことで、確証はないけれども、いずれにしても葛城に「高尾張」という名があるのは、この氏の本拠だったためであるには違いない。三代実録九に「尾張国海部郡の人、其目連公宗氏、尾張の医師、其目連公冬雄ら、同族十六人に高尾張宿禰の姓を与えた。天孫天火明命の子孫である」とあるので、尾張と高尾張は別でないことが分かるだろう
  • 伊勢国一志郡に「甚目(はだめ)村」がある。尾張の海部郡に甚目寺がある。この氏の人が葛城から初めて尾張国に移り住んだのは、いつの時代だったか、定かでない。国造本紀に「尾張国造は、志賀高穴穂の朝(成務天皇)、天別天火明命の十世の孫、小止與(おとよ)命を国造とした」とあるが、倭建命が東国へ下ったとき、すでに尾張にはこの氏の人がいたから、志賀高穴穂の朝というのは間違っている。小止與命についてはそうだった可能性もあるだろう

  • 和名抄には備前国邑久郡に尾張郷があり、延喜式神名帳に同国御野(みの)郡に尾針(おはり)神社、尾治針名眞若比女(おはりはりなまわかひめ)神社が載っている。旧事紀に「十四世の孫、尾治針名根(おはりはりなね)連」、これを新撰姓氏録に「波利那乃連公(はりなのむらじきみ)」とある。ところが尾張国愛智郡にも針名神社があり、尾張国海部郡に伊福(いふく)郷がある。神鳳抄には尾張国伊部の御厨があって、備前国御野郡にも伊福郷がある。新撰姓氏録には、「伊福部宿禰は尾張連と同祖、火明命の子孫」とある。】

    書紀の天武の巻に、「十三年十二月戊寅朔己卯、尾張の連に姓を賜い、宿禰とした」とある。【「天平宝字二年三月庚申、初め尾張連馬身(まみ)は・・・まだ姓(かばね)を賜らないうちに死んだ。そこで馬身の子孫は、みな宿禰の姓を賜った」と続日本紀に見える。】新撰姓氏録の左京神別【天孫】に「尾張宿禰は火明命の二十世の孫、阿曾連の子孫である」、【「二十世」は、一本には「二十七世」とある。また「曾」の字は、一本には「魚」と書いてある。】「尾張連は尾張宿禰と同祖、火明命の子、天香語山命の子孫である」、右京神別【天孫】に「尾張連は、火明命の五世の孫、武礪目(たけとめ)命の子孫である」、【右京の尾張連は、天長十年に忠宗宿禰という姓を賜った。】山城国神別に「尾張連は火明命の子、天香山命の子孫である」、大和国神別に「尾張連は、天火明命の子、天香山命の子孫である」、河内国神別に「尾張連は、火明命の十四世の孫、小豊(おとよ)命の子孫である」とあって、この他にもこの氏から分かれた氏々がたいへん多く、同書【また旧事紀】に見える。○奧津余曾(おきつよそ)。旧事紀に「三世の孫天忍男命。この命は、葛木の土の神、劔根命の娘、賀奈良知(かならち?)姫を妻として、二男一女を生んだ」とある。【書紀の神武の巻に「劔根という者を葛城国造とした」とある。】「四世の孫瀛津世襲命、またの名葛木彦命は、尾張連らの祖である。天忍男命の子」とある。また「天忍男命は、天火明命の子、天香語山命、その子、天村雲命の子である」という
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