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吉備津彦命 古代日本の皇族。孝霊天皇の第3皇子で、生母は妃倭国香媛(やまとのくにかひめ)とも(『日本書紀』)、…
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コメント
∥―――――――― 孝元天皇
①「細比売」(十市県主の娘)
∥――――――――┌『百襲媛命』)
②「意富夜麻登玖迩阿礼比売」 ├日子刺肩別命
├大吉備津日子(五十狹芹彦命)
└倭飛羽矢若屋比賣
∥――――――――┌日子寤間命(彦狹嶋命)
③「蠅伊呂杼」 └若日子建吉備津日子命(『稚武彦命』)
栗田寛博士の神祇志料附考下卷(四〇八頁)に
己さきには播磨風上記賀古郡日岡、此岡有2比禮墓1。坐神大御津齒命(ノ)子伊波都比古(ノ)命とあるに因て伊佐佐比古神は此伊波都比古命ならんと思ひしかどよく按ふにそは比禮墓に坐す神にて日岡|坐《イマス》神とは別神なり。然らばいかなる神ぞと云ふに古事記孝靈天皇皇子に比古伊勢埋毘古(ノ)命、亦名大吉備津日子命云々、次若日子建吉備津日子命とみえたる伊佐勢理毘古(ノ)命(書紀に彦|五十狹芹《イサセリ》彦命とあり)にはあらじ歟。そは同書に大吉備津日子命與2若建吉備津日子命1二柱相副而於2針間(ノ)氷《ヒ》河之|前《サキ》1居2忌瓮《イハヒベ》1而針間(ヲ)爲2道口1以|言2向和《コトムケヤハシキ》吉備國1也とあるに由ありて聞え伊佐佐と伊佐勢理と言の近く通ひて聞ゆればなり。若し然らずば氣比神を伊奢沙和氣(24)大神と云をもて考ふるに天(ノ)日槍《ヒホコ》命を祭れるにやあらむ。……此二つの考いづれよしとも決めがたし。後人なほよく考へてよ
と云へり。風土記のイハツヒコノ命を比禮墓に坐す神とせるは誤解に基づけるなり。前に云へる如く風土記の坐神云々は此岡の註にて比禮墓の註にあらず。比禮墓は印南別孃の陵にあらずや。神名帳のイササヒコノ命を記紀のイサセリビコノ命即大吉備津日子(ノ)命の事としたるは此皇子が吉備國を平げむとして神を祭り給ひし針間(ノ)氷川が本書の印南川即今の加古川なる事、吉備氏の子孫が賀古郡に蕃衍せし事、古典に見えたる神又は上代人の名に往々少異ある事などを思へば一理無きにあらねど神名帳のイササ比古神はやがて風土記のイハツ比古(ノ)命なるにそのイハツ比古(ノ)命は風土記に大御津齒命(ノ)子とあればもし日岡神社の祭神を大吉備津比古命とせば大御津齒命を孝靈天皇の御事とせざるべからず。然も孝靈天皇にオホミツハノ命といふ御名なし。此難を免れむ爲にこそ栗田博士はまづイハツ比古命を日岡神社の祭神にあらずとしたるなれ。所詮日岡神社の祭神はイハツ比古命又イササ比古神と傳へて、出自不明なる神とすべし○日岡の東に古墳群あり。その中の王塚といふ前方後圓墳即日岡神社の祭神の墓なりと云傳へたり
『日本書紀』 『古事記』
吉備津彦の命 西道(にしのみち) (吉備の国)
大彦の命 北陸(くぬぎのみち) 高志国(こしのくに)
丹波の道主の命 丹波(たには)
武渟川別の命 東海(うみつみち) 東の方十二(ひがしかた)道
そして、遣わされた地域に四道将軍が比定できる古墳がある。
吉備津彦の命 中山茶臼山古墳
大彦の命 川柳将軍塚古墳、御墓山古墳
丹波の道主の命 黒部銚子山古墳、 細野銚子山古墳
武渟川別の命 会津大塚山古墳
その平定後に、出雲を地域的に取り巻く形で同朝に国造配置がなされたと私はみているが、この動向に関係ある者とみている。具体的には、出雲を東から伯耆(波久岐=波伯)・吉備中県・石見と取り囲み、それが雉-伯耆国造での天孫族(少彦名神後裔か。武蔵国造同族という所伝は疑問大)で倭文神社奉斎、犬-吉備中県国造で久米氏族、石見国造も犬系統の紀伊国造同族、猿は天孫系の鏡作造同族で美作一宮の中山神社奉斎氏族と、みていた。吉備津彦の配下と伝える犬飼武が「犬飼部(犬養部)」、中山彦(楽々森彦)が「猿」(「猿飼部」はない)、留玉臣が「鳥飼部(鳥養部)」という役目を果たしたとみる説があるが、この三種の動物は各氏族のトーテミズムを反映したものとみられる。伯耆の倭文神社では、雉だけは絶対に献饌しないという禁忌があるというのも、同社奉斎氏族の系譜を示唆するし、物部氏族には鳥部連も見える
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/monobekz/monobek1.htm
出土遺物
中国製内行花文精白鏡(漢式の正式鏡)
中国製蝙蝠座鈕内行花文鏡(典型的魏の鏡)
中国製獣帯鏡、
中国製四獣鏡、
倭製三神三獣々帯鏡、
碧玉製石釧、
鉄剣、
鉄刀、
柳葉式鉄鏃、
柳葉式銅鏃、
銅剣、
筒形銅器、(この古墳が四世紀中ごろと推定される所以)
斧、鑿、ヤリガンナ、土師器
◆重要性
吉備楯築型の古墳である。白銅鏡が出ている。
魏鏡も同時に出ている。
しかし吉備型の特殊器台が出ていない。
代わりに筒型銅器。
岡山県教委では最近ここを四世紀とする考え方から、もっと早い時期のものかと言いはじめている。まず気になるのは、吉備盾築型である双方墳が、なぜ前方後円墳全盛時代の四世紀にわざわざ造られたかである。
ご祭神・・・言代主命(事代主神)
ご由緒・・・寛永の国図には、飯田郷に所属の村名が飯田・檀紙・公文・鶴市の四村となっている。その後、飯田・檀紙・鶴市・郷東の四村となった。公文は、廃って檀紙の大将軍と飯田の半田とに跨った小地名となっている。(松岡調翁風土記)
これは、大将軍地区の住民が大将軍神社をお祀りして以来、これを信仰し氏子となったために、氏子の家のある区域を大将軍と呼んで公文村から独立したものと考えられる。(檀紙村誌)
七十二坪あった境内には、七本松の大木や榎をはじめ雑木が生い茂り、昼なお暗く森厳な神域であったという。
西暦七百年半ば頃、西北の方位から鬼(疫病等)が侵入するのを防ぐ為の道饗祭が斉行されていました。大将軍神は、金星・星辰信仰とそこから派生した疫神の平癒を祈願する神となったようです。
中央政府の影響を強く受けていた讃岐でも、国司の祭礼の中心であった讃岐一宮田村神社の守護のため、天門の方位(西北)に当社を配したと考えられ、お祀りしてきた氏子の地域が大将軍地区と呼ばれるようになった。
一般には恵比寿神としても知られている、ご祭神の言代主命は、御巫八神として宮中三殿の『神殿』にもお祀りされており、大国主命の国譲りにも登場する神様です。
ご祭神・・・経津主神
合祀・・・大山祇神・猿田彦神・八衝彦神・八衝比売神・久那斗神・事代主神
ご由緒・・・村社 八幡神社境外末社。西讃府志に『大将軍祠、祭神磐長姫命 世俗子安神と称す、安胎を祈るもの多し 社僧円明院』と見ゆ。
境内坪数・・・二百十六坪
大将軍神社(さぬき市志度大将軍)
ご祭神・・・素盞嗚命
ご由緒・・・讃岐三宮 多和神社 境外末社
五十狭芹彦命は倭迹迹日百襲姫命の弟に当たり、四道将軍の一人で西海を鎮定し吉備国の祖神となった。
素婆倶羅社「少名毘古那神 (配祀)大年神 塞神 大水上神 菅原神」とある
加麻良神社では
神社誌料には、山の名を御神室と云う、大己貴神・少彦名神、 四国御経営の時、此の山に御座まりまして、「地方 を御治め在らせられし御霊跡なり」とある。
宇都伎社「大地主神 倉稻魂神」とある。
倉稲魂命 うかのみたまのみこと
記・紀にみえる神。稲の精霊が神格化されたもので,五穀,食物をつかさどる。「日本書紀」では伊奘諾尊(いざなぎのみこと)と伊奘冉(いざなみの)尊の子。「古事記」では須佐之男命と神大市比売(かみおおいちひめ)の子で,宇迦之御魂神とかく。
『先代旧事本紀』第三巻天神本紀の山背久我直等祖の天神立命に関して、 『先代旧事本紀訓註』(大野七三著)の本文には天背男命とあるが、 巻末の概説では天神立命とある。
国史大系登載の『先代旧事本紀』では天神立命とあるので、本文中の天背男命は誤記かもしれない。
ただし、天背男命の父神の名が天壁立命なので、似た名前の天神立命は天背男命の別名という可能性もある。
また、天世手命は久我直等の祖とあり、天世乎命を書かれている場合もあるが、天世乎命が正しい字なら、 「あめのせお」と読め、天背男命と同神と考えると、山背久我直等祖の天神立命は天背男命で良いのかもしれない。
御祭神は尾張大國霊神
尾張人の心の故郷であり、尾張国の総鎮守に外なりませぬ。
ところが大国主命の別名を大国玉神とも申しますので、後世になって大国主命を祀る神社であると広く信仰されましたが、昭和十五年国幣小社に列格の時、本来の真面目に還して、尾張大国霊神を祀ると改められました。
今日、農商業守護の神、厄除けの神と広く信仰されていますのも、そうした有難い由緒からであります。 別宮として大歳神の御子を祀る大御霊神社と、田心姫の命を祀る宗像神社(昔は角玉大明神ともいい、又、文徳実録にはオガミの神とある)とが御鎮座になっています
御本社と併せて昔から国府宮三社と申して居ります。
即ち、国土の神、五穀の神、水の神という三社による構想であって、これをひそかに拝察する時、尾張総鎮守として創祀した遠い遠い我々の祖先の、遥かなる代の日常生活が偲ばれるではありますまいか。その他、末社として稲荷神社をはじめ司宮神社、神明社、居森社、白山社、三女神社が鎮座になって居ります。
国府宮とは今から少なくとも千三百余年前、既で此処に国衙が置れていて、尾張国司が来任して尾張の国政を執っていました。この国府に在る宮の意から国府宮とか府中宮などというに至ったのであります。 総社というのは、一宮、二宮等と同様に、制度上一種の社格に類するものであって、一国中の神社を国衙附近に総合併祀して、国司が自ら祭祀をする神社をいうのでありますが、尾張国としてはその根源である尾張大国霊神を祀る社柄であり、古くからの名社、且は、国衙に隣接して御鎮座である処から、当神社を尾張国総社と定めて、手篤くお祭りしたのであります。
神階は、光仁天皇の宝亀二年二月の(約1190年前)従四位下に始り、順次昇叙されて土御門天皇の建仁元年二月(約760年前)には正一位に進まれました。
別宮の大御霊神社が従一位に、宗像神社が従二位に叙せられましたのは、文治二年三月(約770年前)のことであります。 社格も、文徳天皇の仁寿三年六月(約1100年前)に御本社はじめ二別宮が共に官社に列せられ、延喜式(約1060年前)には三社共に小社に列して祈年祭の国幣に預られ、崇徳天皇の永治元年(約820年前)には大社に列せられました。明治維新後は、明治六年に郷社、同九年県社に、昭和十五年十一月一日国幣小社に列格になりました。
古く崇神天皇七年(約1870年前)に神地を定めて封戸を賜り、天背男命(尾張族の祖先)の子孫である中島直(後に久田氏、野々部氏を称して明治維新まで奉仕しました)をして奉仕せしめられたという。爾来朝廷は勿論、武家では源頼朝をはじめ各時代の将軍から、下は庶民に至るまで篤く崇敬し、報賽寄進の実例は枚挙に暇がありませぬ。特に織田信長は永禄七年社殿を修理し、豊臣秀吉は文禄四年に百五石の地を、又、尾張藩祖徳川義直は元和七年百五十石の地を寄進したが、以後、代々の藩主はこれを安堵し、御社殿の御造営等を援助して明治維新に至ったのであります。 社殿は尾張地方特有の構造様式をもった所謂、尾張式といわれるもので、御本殿、渡殿、祭文殿、東西の廻廊、拝殿、楼門と建並んでいます。殊に楼門は足利初期(約550年前)に建てられ、正保三年(310年前)に解体大修理を加えましたが、その際、上層を全く改造したので珍しく両期の手法様式を備えて居りますし、又、拝殿は徳川初期(約350年前)に建った切妻造で内に柱が並立する稀有な建物(舞楽を奏した名残か)である処から両者共に昭和三十年重要文化財に指定されました。
神職には古くから尾張族の遠祖、天背男命の子孫が代々奉仕して来ました。後に久田氏を名乗りましたが、暦応二年(約620年前)に久田弥四郎崇政が夜討ちに遭い、伝来の古記録宝器等皆な散逸したといいます。その子元政が神主となって世襲しますが、永正年間(約450年前)に久田氏を改めて野々部氏と称し、累代正神主として社家を統率しました。その下に権神主蜂須賀氏、中臈として広瀬氏、川口氏、水野氏、野々部氏、近藤氏、大津氏、加藤氏、服部氏の八家や、神子座、神楽座等十四家が、夫々所役をもって奉仕し、幕末に至りました。
宮司は神前於いて一宮真清田神社、二宮大県神社、三宮熱田神宮、総社尾張大国霊神社の御神名を認めて秘符をつくり、神殿に納めます。一方、儺負人は今日から儺追殿に入って参籠するのです。 同十二日夜七時から庁舎(ちょうや・当神社の東南に接した境外にある)に於いて庁舎神事が即ち、宮司が司宮神を奉して庁舎に移り、燈明のまたたく中に一宮、二宮、三宮、総社の各大神様を招神して国家安穏五穀豊饒を祈ります。所謂、前夜祭とでもいうものでありましょう。この日午後には、当祭典に奉献されます数十俵どりという大鏡餅が、威勢よく釣込まれて、拝殿の中央に飾付けられますのも名物の一つ。 同十三日は早朝から厄除けの祈祷者が列をなして社頭につめかけ、厄除けの護符の「なおいぎれ」やお守を受ける人で雑踏します。「なおいぎれ」とは、神男が厄を一身に引受けるのだと信じて、自ら裂いて祈祷をこめた信仰的な布ぎれであって、神社に於いてのみ授与しています。午後ともなれば裸男が群をなして威勢よく「なおい笹」を捧げて、拝殿へ駆け込みます。これは裸になれない老若男女が、氏名年齢等を書いて祈念を籠めた布を結付けました青竹で、裸男が身代りとしてかつぎ込み、厄除を祈願してやるのです。境内は何万という裸男と数十万の拝観者とで埋めつくされます。
尾張国衙があった所は、名鉄線路を西へ隔てた松下村だといわれ、弘文天皇元年(約一二九〇年前)に尾張国司守小子部連鋤釣(ちいさこべのむらじさひち)の名が日本書記に見えます。
尾張国司の名が史上に出るこれが最初ではありますが、成務天皇五年(約一八四〇年前)に国県の制が定められたと説かれますので、その頃から己にあったかとも思われます。
天背男命。
カンミの玄孫。タマクシのいとこ。 テルヒコと共にアスカへ下る。
愛知県稲沢市稲島町石畑、久多 (クタ) 神社
愛知県稲沢市国府宮、尾張大國靈 (オワリオオクニタマ) 神社
旧事に、尾張中島海部値(おわりのなかじまのあまべのあたい)等の先祖。
久多神社
愛知県稲沢市稲島町石畑。
祭神:天背男(アメノセオト)命
この地はアメノセオトを祖とする一族が居住したと伝えられる。中島直(本家)、海部直(分家)の尾張族と言われる。中島直の子孫は久田氏と称し、暦応二年一族の争いが生じ、久多神社は廃絶した。
ニギハヤヒの長男「ウマシマジ」から物部氏が始まり、次男「タカクラジ」から尾張氏が誕生し、王位を継承した末娘「イスケヨリヒメ」がイワレヒコと結婚した。
封印された天津甕星は、タカクラジの系統の尾張氏だった可能性が高い。神職は、中島姓―久田姓を名乗っていた。
元伊勢の籠神社の社家・海部氏によると、「海部氏は鴨族(賀茂氏)」だというが、、、
久田氏は天津甕星の子孫を名乗る尾張氏で、海部氏と同族である。
御当社の主祭神は天甕津比女命と称奉る女神様で八束水臣津命の御子、赤衾伊農意保須美比古佐和気能命の御后神様であります。夫神様の佐和気能命が「出雲の国は狭布の如き稚国なり」と国土経営開発の大業をなされた際、その神業を補翼し、大功績をお挙げになられた神性勇剛で見目美わしい女神様であります。
岡山県阿哲郡大佐町大字上刑部2563 星神社「天加加背男命」
岡山県英田郡美作町楢原下383 楢澤神社「伊邪那美命 配 香香背男命ほか」
岡山県英田郡作東町竹田1826 竹田神社「譽田別命 配 瀬織津姫命、香香背男神」
岡山県久米郡久米町油木北1608 少彦名神社「少彦名命 配 天香香背男命ほか」
岡山県久米郡久米町里公文1514 高津神社「大日・貴尊 配 天香香背男命ほか」
岡山県久米郡旭町里1827 八幡神社(湯田神社)「譽田別命 配 天香香背男命ほか」
岡山県久米郡久米南町山之城557 天津神社「天香香背男命」
広島県庄原市七塚町362 八幡神社「仲哀天皇、仁徳天皇、應神天皇 配 天香香背男命ほか」
広島県豊田郡豊町 宇津神社摂社妙現神社「天香香背男神」摂社水分神社「天香香背男神」
広島県豊田郡豊町 篠原神社摂社妙現社「天香香背男神」
山口県萩市大字堀内285 春日神社「天兒屋根命ほか 合 星神」
徳島県阿南市大潟町62 諏訪神社摂社妙見神社「天香具背男命」
徳島県那賀郡上那賀町大戸字大戸13 明現神社「加賀背男命、天太玉命」
徳島県海部郡海部町奥浦字町内56 明現神社「可可瀬男命」
徳島県海部郡宍喰町久保字久保99 八幡神社摂社尾崎神社「天忍穗耳命 合 河可瀬男命」
愛媛県西条市千町 高智神社「可可背男命ほか」
愛媛県西条市荒川 明見神社「市杵嶋姫命 配 可可背男命、大己貴命」
愛媛県南宇和郡御荘町長月 朝星神社「加賀世男命」
高知県香美郡土佐山田町大後入 本宮星神社「加賀背男神」
高知県香美郡土佐山田町佐岡本村497 星神社「加賀背男命」
高知県香美郡土佐山田町 伏森神社「加賀背男命」
高知県南国市明見385 星神社「星神」
高知県南国市 星神社「星神」 高知県高知市 星神社「伊弉諾命、北斗星神」
高知県高岡郡窪川町東又 嶋神社「伊予都彦神、伊予都姫神ほか 合 天香香世男神ほか」
高知県高岡郡窪川町東又 はいたか神社「はいたか大神 合 天香香世男神」
高知県高岡郡窪川町793の1 六十余社「六十余州一宮所祭神 合 天津甕星、天乃香香背雄神ほか」
高知県高岡郡仁淀村別府 星神社「香香背男」
高知県幡多郡西土佐村 祓川五社神社「伊弉那冉命 合 星神ほか」
地元では椿神社、椿さんとも呼ばれている。
伊豫豆比古命(男神・いよずひこのみこと)
伊豫豆比売命(女神・いよずひめのみこと)
伊与主命(男神・いよぬしのみこと)
愛比売命(女神・えひめのみこと)
『先代旧事本紀』の「国造本紀」によれば、伊与主命は初代の久米国造であり、伊豫豆比古命と伊与主命は同一であるとする説と、伊豫豆比古命を祖神、伊与主命をその後継者とする説がある。また、愛媛県の県名は愛比売命から名づけられており、都道府県名で神名を使用しているのは愛媛のみである。
由緒
社伝では、孝霊天皇の御代に鎮座したとされ、昭和37年(1962年)には御鎮座2250年祭が、平成24年(2012年)には御鎮座2300年祭が行われた。
延喜式神名帳所載の伊豫豆比古命神社(小社)に比定されるが、名神大社の伊豫神社に当てる説もある。ただし、伊豫神社に比定される有力な論社は伊予郡松前町の伊予神社である。
天牟久努は、系図を遡るに、
天底立と同神???
山背の、天背男の父??
天牟久努命=天底立→天背男→比理刀咩
天日鷲神の祖は『斎部宿禰本系帳』から「神魂命--角凝魂命--伊佐布魂命--天底立命--天背男命--天日鷲命」である。
「国造本紀」には、神武朝に天牟久怒命の孫、天日鷲命を国造に定めるとあり、「天日別命=天日鷲命」で天日鷲命すなわち少彦名神の後裔に位置づけられそうにも見えます。
しかし、伊勢朝臣が伊勢直の後で、先に中臣伊勢連を賜っており、天牟久怒命(天椹野命)は天忍雲根命(天村雲命)と同神で、年代的にその子の天種子命(中臣連祖)の兄弟に天日別命が位置づけられるともある。
日鷲と天背男命も近いです。
天日鷲命は、平田篤胤の『古史伝』、『大日本神名辞書』では天手力男命の子ですが、『安房斎部系図』には、天背男命と八倉比売命の子、と書かれています。
天神本紀「天背男命、山背久我直等祖」とあり、左京天神に「宮部造、天壁立命子天背男之後也」
「久我神社」
史上の初見は『三代実録』貞観元年正月二十七日条で、山城国の正六位上久我神が従五位下の神階へ昇叙したとあります。
祭神は賀茂建角身命。
賀茂県主の祖神です。
『山城国風土記』は建角身命を日向の曽の峰に天降った後、神武天皇の先導として立ち、大和の葛木山に宿ったとします。
その後さらに移動して、山代国の岡田の賀茂から山代河を下り、葛野河と賀茂河の合流点を経て、賀茂川を上り「久我の国の北の山基」を居場所に定めたといいます。
この神社の一帯が、まさに「久我国の北の山の麓」にあたると考えられています。
『旧事本紀』天神本紀には、饒速日尊に供奉して天降った三十二防衛神のなかに、山背久我直の祖の天背男命と、久我直の祖の天世平命がみえます。
穴玉はや み谷 二渡らす 阿遅志貴高日子根神ぞ
(あめなるや おとたなばたの うながせる 玉のみすまる みすまるに
あなだまはや み谷 ふたわたらす あぢしき たかひこねの神ぞ)
天香香背男は、高天原が出雲平定(古事記では『国譲り』)に乗り出す前に、やつけておかないといけない神とされ
ている。“「天に悪い神がいます。名を天津甕星といいます。またの名を天香香背男です。どうかまずこの神を除
いて、それから降って、葦原中国を平げさせて頂きたい」と。”
(『日本書紀 一書 第二』 宇治谷 孟 現代語訳 講談社文庫より)
いて、また浮かぶのが、阿遅須枳高日子の祖父神 赤衾伊努意保須美彦佐倭気
(あかぶすまいぬおおすみひこさわけ)の妻神の天甕津日女(あめのみかつひめ)です。「天の…」と、いうからには、
出雲族ではなく高天原の系譜であろう。また、阿遅須枳高日子の妻神は、天御梶日女(あめのみかじひめ)でこれ
また、「天」と「みか」の名前がついている。(名前が似ているから、同じ神かはどうかわからないが、仮に同神であ
ったとしても弥生時代だと対偶婚なので、祖父神と孫神の妻が同じであっても問題はなかろう。)
もしや、天津甕星と天甕津日女命は同族であったのではないだろうか?
この天甕津日女命は、出雲風土記の出雲郡伊農郷や秋鹿郡伊農郷に登場してくる。また、天御梶日女命は、楯
縫郡神名樋山にて「阿遅須枳高日子の后、天御梶日女命、多宮の村に来て、多伎都比古命をお産みになった。」
との記載あり。
『出雲国風土記』楯縫郡に、阿遅須枳高日子根の后・天御梶日女の命が、多具の村においでになって、 多伎都比古の命をお産みになった。その時、胎児の御子に教えて仰せられたことには、 「おまえの御父上のように元気に泣きなさい。生きてゆこうと思うならば、ここがちょうどいい」とおっしゃった。とある。
多伎は、お生まれになった地・多具(あるいは多久)のことらしい。
多伎都比古の命の御霊代である石神は、日照り続きで雨乞いをした時は、かならず雨を降らせられたといい、 瀧に通じるのかもしれない。
田久氏が、星神のカカセオを祀る。尾張の総社
田寸神社 徳島県三好郡東みよし町加茂字山根
多伎神社 愛媛県今治市古谷乙47
多久神社 島根県出雲市多久町274
石部神社 兵庫県豊岡市出石町下谷62
田寸神社 徳島県三好郡東みよし町加茂字山根
阿遲鉏高日子根命の母多紀理(たきり)比賣命は、同じくこの地の阿波国美万郡の式内田寸(たき)神社で葬られ山裾に「鴨神社」があります♪
http://blogs.yahoo.co.jp/seimeidouen/18145562.html
栃木県では、この神社群が最多で、県内128ヶ所以上。次に多いのが「稲荷」で、112ヶ所以上。3位は「八幡」で、95ヶ所以上であります。
この「星宮神社」は、関東・中部に多い「星神社」と同様、
星神(天香香背男命)を祀る神社であります。
ただし、場所によって星神は星神でも、
天香香背男以外の、他の神格を祭神とするところもあり、注意を要します。
天香香背男以外の他の神格(主祭神)を、以下に列挙します。
1、磐裂神・根裂神 佐野市朝日町「星宮神社」等
2、磐筒男命・磐筒女命 真岡市「星の宮神社」等
3、ニニギノミコト 足利市山川町「星宮神社」等
4、虚空蔵菩薩 鹿沼市戸張町「星宮神社」等
5、甕速日神・磐裂神・根裂神 芳賀郡芳賀町「星宮神社」等
また、栃木県以外では、主祭神が、天香香背男と同じく「星の神」である、「妙見菩薩」(天御中主大神)になっている所も少なくない。
※妙見(天御中主大神)が多い千葉県・茨城県では、神社名称「星宮神社」でも、祭神は「天御中主大神」である。
『大甕倭文神宮縁起』というものがあって、それには、「神甕星香々背男が久慈郡大甕山の巨石に化け、日ごとに成長し天に届こうとしている、この悪神に対し、香取の経津主(ふつぬし)命と鹿島の武甕槌(たけみかづち)命が、武神である武葉槌(たけはづち)命を遣わし、岩に姿を変えた甕星香々背男を金の沓で蹴り上げると、岩を砕け、一つは神磯として今に伝わる「おんねさま」になり、あとの石は石神(東海村)、石塚(城里町)、石井に飛んだ。」と書いてあるそうである。
本地は笠寺台地の南、天白川左岸にあり、本土・本国という意味がある。千竈の上・ 下知我麻神社があった所で、祭神は尾張連(むらじ)十一代目乎止与命(おとよ のみこと)・その妻真敷刀俾(ましきとべ)。尾張国に関係深い土地であったよ うだ。現在は両社とも熱田神宮に移されている。
星宮神社の創建は、舒明天皇(629~641年)の頃で飛鳥時代初期であり,こ の地域では最も古い神社に属する。
祭神は天津甕星(あまつみかぼし)で衆生を救 う妙見菩薩の仮の姿とも諏訪大社の祭神の建御名方神と言われている。
天津甕星は天香香背男の別名
葦原中国の平定を記述した部分にしか登場しない「天津甕星」ですが、建葉槌命によって平定され、茨城県の「大甕神社」に封じられています。
この神社の祭神自体は討伐した側の建葉槌命なのですが、裏手にある岩山が天津甕星を封じた「ご神体」であり岩山の上にある社が「本殿」であるようです。
出雲の東出雲町と松江市八雲町東岩坂にまたがるところに「星上山」という山があります。
現在は、「星上山スターパーク」などと呼んで展望台などを作って公園化されています。この星上山には、「那冨乃夜神社」という神社があり、「經津主命、武甕槌命、星神加加背尾命」などが祀られています。
まず、イヌのモデルとなった犬飼武が犬飼部と云われた部民の長であったことについては異論は差し挟まれていない。なぜ犬飼部が桃太郎(吉備津彦)の家来となったのか。
キジ=名方古世、または、留玉臣
次に、キジは鳥取部(ととりべ)。これを鳥飼部などと云う人がいるが、鳥飼部などと云う部民は吉備にはいない。また、鷹狩の記事の初出は雄略紀まで待たねばならない。鳥取部は弓矢をもって鳥を捕ることを職能とした部民であり、彼らは、その優れた弓矢の技能によって軍事集団たり得るのである。彼らは弓矢隊の鳥取部の長が名方古世(あるいは中田古名)とか、留玉臣である。
サル=楽楽森彦
サルは楽楽森彦と深く関わっており、その楽楽森彦は鯉喰いと不可分である
サルは山部(やまべ)のモデル化であろうと考えるのである。サルの第一の属性は樹木に登る事。樹木を管理し伐採するのは山林事業者、すなわち山部。もう一つ、キビの山部には鉄鉱石または砂鉄の採取という特性がある。鉄穴流し(かんなながし)と云う方法で、川の水流の中で比重差を利用して鉄分を分離選鉱する。
吉備津神社で犬飼武や名方古世が随神門に祀られているのに対し、楽楽森彦は本殿外陣の御崎宮の一つに祀られており、扱いが異なっているのもこのためであろう。
楽楽森彦については、鯉喰神社と云う独立した神社がある。
正宮(正殿、本殿)・本宮・新宮・内宮・岩山社に分れる。
〔正宮〕主神 大吉備津彦命
配祀 日子刺方別命 千々速比売命 御友別命 中津彦命 倭飛羽矢若屋比売命
倭迹々日百襲比売命 若日子建吉備津彦命 日子サメ間命
〔本宮社〕
大倭根子日子賦斗邇命 百田弓矢姫命 吉備武彦命 犬養健命 留霊臣 命 楽々森彦命 外に配祀六神
〔新宮社〕
境内外の岡山市川人東山にあって吉備武彦命を祭神としたが、明治末年本宮社に合祀した。その社址のみが残つている。
〔内宮社〕
本社から約四百メートル離れた「吉備の中山」の山上にあつて百田弓矢姫命を祀ったが、明治の末年に本宮社に合祀した。
〔岩山神社〕
建日方別命を祀る。 正宮の背後にある。
以上を吉備津五社大明神という。
日本書紀によれば、第十代崇神天皇のとき、即位十年、天皇は皇族の中から四人の将軍を選んで天下の四直に派遣して天下を鎮定せしめんとした。 北陸道には大彦命、東海道には武渟川別、西道には吉備津彦、丹波には丹波道主命を任命し、それぞれ将軍の印綬を授けた。
ただし、古事記には崇神朝に四道将軍が派遣されたという記事は見あたらない。
大吉備津日子命は吉備上道臣の祖、次に若日子建吉備津日子命は吉備下道臣と笠臣の祖、次に日子サメ間命は針間の牛鹿臣の祖、次に日子刺肩別命は高志之利波臣・豊国之国前臣・五百原君・角鹿海直の祖であると附記している。
社伝によると 「吉備の中山」 の麓に 「茅葺宮」 を作ってこれに住み、吉備国の統治にあたったが、二百八十歳の長寿を保って、ついにこの茅葺宮に薨じ、御墓は 「吉備の中山」 の頂の茶臼山に葬られたという。
若日子建吉備津彦命に一男二女がおり、姉妹ともに景行天皇の後宮に入り、姉は天皇の皇后に立ち櫛角別王・大碓命・小碓命を生んだ。 この小碓命は日本武尊である。 景行天皇即位四年、日本武尊の東征に従って大功があった。
本宮社には吉備津彦命の父君である天倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)を、内宮社には吉備津彦命の后である百田弓矢姫命(岩田姫命)を、新宮社には吉備武彦命を祀るという。 しかし、明治の末年、新宮社と内宮社は本宮社に合祀されたので、吉備武彦命は本宮社に祀られることとなった。 岩山神社は建日方別命を祀る。 社伝では岩山宮は吉備国の「国魂」を祀ると伝え、神体は自然の巨巌であるという。
吉備津宮の創立については確実な文献はない。 社伝に従うと、吉備津彦命の五代の孫、加夜臣奈留美命が 「吉備の中山」 の麓の 「茅葦宮」 という斎殿の跡に社屋を営み、はじめて祖神である吉備津彦命を祀り、相殿に八柱の神を祀ったのが吉備津宮の正宮(本殿)の起源であるという。 一説には、仁徳天皇が吉備海部直の娘黒媛を慕って難波から吉備國に行幸したとき、吉備津彦命の功を嘉して社殿を創建してこれを祀ったと伝えている。
本殿から本宮や御釜殿につながる廻廊の入口にある、入母屋造、本瓦葺、三間一戸の8脚門です。屋根以外は北随神門と構造・様式とも似ています。
社記・棟札などから、南北朝時代の1357(延文2)年の再建とされ、この神社の数多い社殿群の中では最古の建物です。
犬飼健命・留霊臣命(=中田古名命)の2柱(桃太郎伝説の犬と雉に相当)を随神としているのが特徴です。
確かに桃太郎伝説由来の神々を祀った南北の随神門で、温羅の怨霊を封印しているようにも窺えます。
吉備津彦神社に伝わる『鬼城縁起(きのじょうえんぎ)』に見られます。温羅成敗の際、吉備津彦が犬飼健(いぬかいたける)、留玉臣(とめたまおみ)、樂々森彦(ささもりひこ)と言う3人の家来を引き連れて来たと記されています。
犬に当たる人物は吉備津神社の南随神門に吉備津彦の随神として祀られている犬飼建です。後世、犬養毅はその後裔を称しています。また雉には同じく随神として祀られている、鳥飼部との関わりがあったとされる留玉臣が、猿には足守地域を開発した砂鉄生産集団の舎人だった樂々森彦が当てられています。娘の高田姫が吉備津彦に嫁いだとも言われています。