丹波、建田勢命、和邇氏、大春日臣

May 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image丹波、建田勢命、和邇氏、大春日臣

建田勢命は男六人、女一人の七人兄妹の長男である。彦火明命六世孫に建田勢命(たけだせのみこと)という人物が登場す…

Read the full story here


コメント

  • 和邇氏の本拠が奈良市北部とする説の根拠は、上記のタケハニヤスヒコ王の謀反で、日子国夫玖命が奈良市北部から京都府南部を戦場にして戦ったことや、その際に大和国と山城国の境界
    辺りの地名に丸邇坂(わに坂)が登場することなどからなどで、天理市周辺とする説は天理市に和爾町という地名があるからです。

     その天理市和爾町には和邇坐赤坂比古神社が鎮座します。この神社は『延喜式』神名帳にも記されており、いわゆる式内社なのですが、『延喜式』には同時に和爾下神社の名も見ることができます。

     現在、和爾下神社の名を持つ神社が天理市櫟本町と大和郡山市横田町に存在します。式内社に比定される神社が複数存在することは珍しくはないことなのですが、この二つの和爾下神社についてはどちらも「式内社和爾下神社」に認定されています。
     ともに治道(はる道)沿いに鎮座することから、天理市櫟本町の和爾下神社は上治道宮、大和郡山市横田町の和爾下神社は下治道宮と呼ばれています。ちなみに治道とは竜田道のことです。
  • 天表春命(あめのうわはるのみこと)は信乃阿智祝部(しなののあちのほうりべ)等の先祖とされ、天下春命(あめのしたはるのみこと)は天表春命の弟神と見られ、知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)の先祖とされる。また大伴部氏の祖ともいわれる。

    なお『高橋氏文』に「知々夫(秩父)国造の上祖、天上腹、天下腹人」と見える人名は、この両神に関係があると見られている。

    「天神本紀」には「八意思兼神の児、表春命(中略)次に下春命」とある。
  • 相模の小野神社

    小野神社 

    御祭神 下春命 ( したはるのみこと )
         日本武尊( やまとたけるのみこと )
    ---
    この神社は、延長五年 ( 927年 ) の「 延喜式 」 巻九に
    「 相模国式内社の愛甲郡一座小野神社 」 と書かれています。

    「 新編相模国風土記稿 」 に
    「 閑香明神社 ( かんかみょうじんやしろ ) 、村の鎮守なり。延喜式に載りし小野神社、
     当国十三社の一にて祭神下春命 ( さいじんしたはるのみこと ) という。」
    とあります。

    明治時代になってから、この神社の祭神には日本武尊 ( やまとたけるのみこと ) も
    加えられました。それは日本武尊が東国の賊の征伐に向かった際、野火焼きうちの苦難にあうという「古事記」の記述の地が「小野」と関係するとして祭神に加えたもののようです。

    小野神社 府中市住吉町

    人皇三代安寧天皇ノ御代、御鎮座。祭ル所天下春命大神也・・・出雲臣祖二井諸忍野神狭命ノ十世兄武日命、始テ此懸ノ国造ト成玉フ時、御祖神タル故、此地ニ勧請鎮守トナシ給フ(式内社小野神社由緒、正和二年(1313)秋七月神主澤井佐衞門助藤原直久)
  • 恩智神社圭田八十三束三字田所祭手力雄神也雄略天皇三年奉 ニ 圭田 一 行 ニ 神事 一 云々」と記されています。(総国風土記)

    奈良時代(天平宝字)に藤原氏により再建されてより、藤原氏の祖神である『天児屋根命』を常陸国「現香取神宮」より御分霊を奉還し、摂社として社を建立したその後、宝亀年間に枚岡(枚岡神社)を経て奈良(春日大社)に祀られました。従って当社は元春日と呼ばれる所以であります。

     神功皇后が三韓征伐の際、当社の神が住吉大神と共に海路、陸路を安全に道案内し、先鋒或は後衛となり神功皇后に加勢したその功により神社創建時に朝廷から七郷を賜りました。

     以来、朝廷からの崇敬厚く、持統天皇の元年(689)冬10月に行幸されて以来、称徳天皇(第48代)天平神護景雲二年(768)には、河内、丹後、播磨、美作、若狭の地三七戸を神封に充てられ、文徳天皇(第55代)嘉祥3年(850)10月に正三位、清和天皇(第56代)貞観元年(859)正月に従二位、更に正一位に叙せられ、恩智大明神の称号を賜り、名神大社として、延喜式、名神帳に登載されました。以後醍醐天皇、村上天皇の御字(延喜及び応和3年)の大旱ばつに勅使参向して祈雨をされ、その霊験があり、それぞれ蘇生したと伝わっています。

     また、一條天皇正暦五年(994)4月中臣氏を宣命使として幣帛を奉り、疫病等の災難除けを祈願されました。これが当神社の大祓神事(夏祭・御祓い祭)の始まりとされています。

     尚、三代実録によれば神社は下水分社といわれています。これは建水分神社(千早赤阪村)上水分社、美具久留御魂神社を中水分社といわれ、三社とも、楠一族が崇拝した神社であります。

     明治維新前迄は、奈良春日社の猿楽は当神社が受けもち、この猿楽座に対して、春日社より米七石五斗と金若干が奉納されていました。
  • 「古社記断簡」

    当社少神御在所

    一 御殿(辰巳角、刀辛雄明神、其北飛来天神、其北八龍神)
     同御殿(御後、梅本明神、所謂隼明神是也)
     四御殿(御後、榎本明神、所謂天夜叉神也、其北佐軍)

    一 中院
     御宝殿(戊亥方、脇戸ノキハ椿本明神、角振明神是也、其北、風ノ御子ノ明神、金ノ命是也、其西忠際金剛童子)
     同御殿(未申角、岩本明神、所謂住吉明神是也)
     舞殿東(北ノハシ、青榊明神、其次枯榊明神、其次穴栗明神、其次井栗明神)
    一 外院
     榎本(所謂巨勢姫明神)
     祓殿(祓戸明神、所謂瀬織姫明神、或熊野証誠殿、御本地阿弥陀)
     舟戸(道祖神也、或説清滝明神、御本地如意輪)
     水屋(三所、竃殿ノ内シマタノ明神)
     紀御社明神(四所)
  • 新撰姓氏録』左京皇別下に、次のように記されています。 
    「和安部朝臣 大春日朝臣同祖。続日本紀合。彦姥津(ひこおけつ)命三世孫難波宿祢之後也 
    和安部臣 和安部朝臣同祖. 彦姥津命五世孫米餅舂大使主(たがねつきのおおおみ)命之後也」

    『日本古代氏族辞典』には、「和珥氏系氏族。のちの大和国十市郡安倍の地を本拠とした。・・・彦姥津命は天帯彦国押人命の子孫であるが、小野朝臣・和邇部宿祢・櫟井臣・葉栗臣らの租とも伝えられる。・・・・」と記載があります。
  • 講演は、「海南中世史講座」 大野十番頭をめぐって 大阪堺市にお住まいの
    講師 中野 隆 氏  (近畿民俗学会、会員) 
    春日神社の祭神、天押帯日子命(アメオシタラシヒコノミコト)は
    「日本書紀」では考安天皇の兄で和珥臣の祖とし、
    「古事記」では春日臣、粟田臣、小野臣、柿本臣等16氏の始祖としている、
    海南市の春日神社の創建は731年とも768年とも史料にあり。
    奈良春日大社の創建は768年とされている。この事から
    奈良三笠山を以前から御神体山とする信仰があった事は、磐座や祭祀遺跡にも見出せるが、
    春日の神を藤原氏が奉斎する迄に、在地の氏族が神祭りをしていた史料がある。
    「万葉集巻3」ちはやぶる神の社しなかりせば春日の野辺に栗蒔かましを(404)
    春日野に栗蒔けりせば鹿待ちに継ぎて行かましを社し留むる(405)
    和珥臣や春日臣らが在地神を祭祀していたらしい事、
    八世紀に入って権勢をふるって台頭してきた藤原氏に世代交代により、何等かの理由で
    そこを追い出され、その人達の一部が後の大野十番頭となって
    紀伊の国に移住を余儀なくされたのではなかろうか。と考察されました。
    その後の大野十番頭は宮座として、中世に於て最も繁栄し、近世になって、
    在地の有力層の台頭と自らの勢力弱体化を見る。多くの宮座が辿る典型的なコースを歩む。
    注目に値するのは、奈良時代大和から紀州に移住した、その時代と地理的環境から、
    春日三笠山麓をめぐって、歴史のドラマが演じられていた事が解る、と講演されました。
  • June 2016 編集されました
    春日大明神の御由緒
    http://kasuga-kainan2.com/blog5/bct/492134
    大野荘には大野中村の春日大明神(上社)の外に、兄弟神社として井田村の粟田大明神(下社)がありましたが、明治時代の神社併合で春日神社に併合されました。
    両 神社の性格はいわゆる氏神で春日氏の祖先を祀り、祭神の春日大明神は天足彦国忍人を称しますが、『古事記』には天押帯彦とあります。粟田大明神はその「若宮」すなわち三世孫のひこ彦くにふく国葺です。両部神道時代の奥ノ院は、春日明神が幡川村の禅林寺、粟田神社 が鳥居浦の観音寺、歳越明神は山田村の菩提寺でした。
    『紀伊国続風土記』が、「十番頭の家伝に、神護景雲年間に南都から春日明神を奉じて十人が来住したとあるが、中村の春日社は大春日明神であって、奈良から来るはずがない」と論じているのは、明らかに早合点で失当です。
    同 業者として判ることですが、これは、『紀伊国続風土記』の編者が、社名だけを見て奈良春日大社と思い込んでいた当社の祭神が大春日明神であることを知り、 「春日大社とは無関係だから奈良から来るわけがない」と軽率にも判断したのでしょう。つまり編者は、藤原氏の権威を重く見過ぎて、奈良の春日山に春日大社 の先住者がいたとは思わなかったのですが、真相は真逆で、実際は藤原不比等に春日山麓を追われた春日神社が、当地に移ってきたのです。
    春日神社のHPも十番頭の先祖を、天平三(七三一)年に聖武天皇の命により大和国南都から春日大明神を勧請して来た由緒ある小豪族集団であるとしています。これだと、『南紀徳川史』の記載と三十七年のずれがありますが、何事にも計画と実行には時差が伴って当然です。
    和銅三(七一〇)年、不比等が鹿島の神を奈良の春日山麓に遷して藤原氏の氏神とし、地名を採って春日大社と称します。その後、神域を広めるために聖武天皇の詔勅をかざし、先住者の春日明神を春日山麓から紀州大野荘へ遷させたのです。
    春 日氏の祖神春日大明神の神名が、春日山麓に坐したゆえに春日明神なのか、それとも山麓に春日大明神が坐したから春日山と呼ぶようになったのか。先ほどアマ ベ氏と海部郷の所でも述べましたが、地名と人名の関係には、①まず、住んだ土地の地名を苗字とする場合があります。みょう苗はみょう名とも書きますが本来 は農園の意味で転じて地名を指します。例としては、「豊田の小次郎平将門」の「豊田」、「清水の次郎長本名山本長五郎」の「清水」が苗なのです。
    ②はその反対に、住人の姓や名を以て地名とする場合です。例えば井ノ口という地名は、橘姓井口氏が移り住んだ地域を和佐井ノ口、貴志井ノ口と呼び、それが地名になったものです。
    南 都から大野荘へ移住してきた春日氏が、当地の三上山を春日山と呼んだのは、明らかに②に当ります。春日氏が姓を大春日氏に改称し、神号を大春日明神と改め たのは、権勢盛んな藤原氏の氏神春日大社を意識したと推察されますが、それもいっとき一時のことで、やがて旧の春日神社に戻ってしまったようです。
    粟 田一族の出世頭は文武朝の中納言で、藤原不比等(六五九~七二〇)の右腕として知られる粟田真人朝臣(?~七一九)です。留学僧として唐で学び、帰朝した 後に再び遣唐使として渡唐しました。粟田真人が紀州日高郡の海女から探してきた美女を不比等が養女とし、文武天皇夫人藤原宮子となって七〇一年に聖武天皇 を産みます。宮子姫は髪長姫伝説のヒロインです。
    不比等の意を受けた粟田真人から説得されて渋々承知した春日氏は、一族の十人が春日明神を奉じて 替地の紀州大野荘に移りますが、同族の仲介とはいえ、氏神の土地を奪われてはハラが治まらず、姓を大春日臣と改称し、一時は春日明神に「大」を冠して春日 大社を見下すことで、秘かに快哉を叫んだのでしょう。
    当社はしかし、結局春日明神の神号を変えず、藤原氏に対する無言の抵抗を示しながら存続して きた強固な信念は日本史上では稀なことで、頭が下がります。しかも、その祭祀は天保年間に至ってもなお古式を守り、巷間の神社にしばしば見られるように稲 荷・八幡・金毘羅・弁天・白山のごときを一切祀っていません。
    主祭神を「正一位春日大神」すなわちあまたらしひこ天足彦くに国おし忍ひと人命(天おしたらしひこ押帯彦命)に限り、社殿は三扉で、合殿の末社「若宮」は、粟田明神すなわち春日明神の三世の孫のひこくにふく彦国葺命を祀ります。
    と ころで、合殿にはもう一座「歳越明神」があり、山田村菩提寺を奥ノ院としますが神名は不明で、『紀伊国続風土記』が、「いにしえ古はまた亦本社に配して著 しかりし社と見へたり」と謂うのは、タダモノとは見えないとの意味で、造営以来なか中どの殿を空殿としている理由を、元弘元年の大晦日をこの社殿で越した 大塔宮の故事に因み、宮を尊敬する後人が祀ったもの、と推定しています。


  • 娘子(をとめ)の、佐伯宿禰赤麿(さへきのすくねあかまろ)の贈(おく)れるに報(こた)へたる歌一首

    ちはやぶる神の社(やしろ)し無(な)かりせば春日(かすが)の野辺(のべ)に粟蒔(あはま)かましを

    巻三(四〇四)
    ----------------------------------------------
    おそろしい神さまの社がなかったなら春日の野辺に粟を蒔くのですが…
    ----------------------------------------------

    この歌は佐伯宿禰赤麿(さへきのすくねあかまろ)が娘子(をとめ)に贈った歌に、娘子が返した返歌。
    娘子の名は伝わっていません。
    また、佐伯赤麿が先に贈った歌も万葉集には集録されていません。
    佐伯赤麿についても詳しいことはなにも分かっていないようですね。

    佐伯宿禰赤麿のまた贈れる歌一首

    春日野に粟蒔(あはま)けりせば鹿待(ししま)ちに継(つ)ぎて行かましを社(やしろ)し怨(うら)む

    巻三(四〇五)
    ----------------------------------------------
    春日野に粟を蒔けば粟を食べにくる鹿を待つように何度でも逢いに行くのに、社を怨みます
    ----------------------------------------------

    この歌は佐伯宿禰赤麿(さへきのすくねあかまろ)が娘子(をとめ)に贈った歌に、娘子が返した先の巻三(四〇四)の歌にさらに赤麿が返した一首。
    「おそろしい神さまの社がなかったなら春日の野辺に粟を蒔くのですが…」と、社があることを理由に「粟蒔(あわま)く」と「逢わまく」を掛けて赤麿の求婚を断った娘子ですが、それに対して赤麿は「春日野に粟を蒔けば粟を食べにくる鹿を待つように何度でも逢いに行くのに、社を怨みます」と未練を訴えながらも娘子への恋の諦めを伝えている訳ですね。

    娘子のまた報(こた)へたる歌一首

    わが祭る神にはあらず丈夫(ますらを)に着きたる神そよく祭るべき

    巻三(四〇六)
    ----------------------------------------------
    その神さまは私が祭る神さまではないのですよ。立派な男子のあなたに着いている神さまですからよく祭ってくださいね。
    ----------------------------------------------

    この歌は巻三(四〇四)の歌などと同じく佐伯宿禰赤麿(さへきのすくねあかまろ)と娘子(をとめ)が交わした相聞歌の一首。
    「おそろしい神さまの社がなかったなら春日の野辺に粟を蒔く(逢わまく)のですが…」と、巻三(四〇四)の歌で神の社があることを譬えにして娘子は赤麿の求婚を断わります。
    そんな娘子に対して、「春日野に粟を蒔けば粟を食べにくる鹿を待つように何度でも逢いに行くのに、社を怨みます」と赤麿は巻三(四〇五)の歌で娘子への恋を諦めるのですが…

    それに対する娘子の最後の返歌がこの歌となっています。
  • June 2016 編集されました
    佐伯 男(さえき の おとこ、生没年不詳)は、日本の飛鳥時代の人物である。姓は連のち宿禰。佐伯広足の子で、子に赤麻呂がいたとする系図がある。官位は従五位上・大倭守。

    672年の壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)のため筑紫国に遣わされたが任務に失敗した。
  • June 2016 編集されました
     四世紀、大和王権の鉄素材入手や加工は丹後の豪族に依存していたと考えられる。

    『記紀』は垂仁時代皇子の五十瓊敷命(いにしきみこと)が一千口の剣を作ったことを記す。この作刀に携わったのが川上部(かわかみのとも)である。この川上部は丹後の集団で、彼らこそ大和王権の鉄の入手と加工の担い手であった。

    『日本書紀』垂仁紀は次のように記す。
    三九年冬一〇月、五十瓊敷命(いにしきみこと)、茅淳(ちぬ)の菟砥(うと)川上宮(かわかみのみや)に坐(いまし)て、剣一千口を作る。よりて其の剣を 名づけて川上部(かわかみのとも)という。亦の名は裸伴(あかはだがとも)という。石上(いそのかみ)神宮に蔵(おさ)む。この後に、五十瓊敷命に命じ、 石上神宮の神宝を主(まつ)らしむ。
    また一に云うとして、
    五十瓊敷命は、茅渟の菟砥の川上に坐(いま)して、河上という名の鍛(冶)を呼び太刀一千口を作らしむ。後略・・・。

    『勘注系図』は古本系云うとして次のような伝承を記す。
    一に云う。倭宿禰、またの名大熊野命、またの名大振熊、またの名川上眞若命、またの名倭得玉彦命(やまとえたまのみこと)、五十瓊敷入彦の御子、大足彦 (おおたらしひこ)天皇(十二代景行)の御宇、茅淳菟砥川上宮に坐して、宝剣を作るを令す。是を石上神宮に献じ、以って奉仕いたす。川上部の祖なり伝伝。

    『記紀』と『勘注系図』の記述は若干異なる。前者が垂仁の時代で、後者は景行の時代とする。
    若干の違いはあるが、後に川上部と呼ばれる者たちが、垂仁の皇子、五十瓊敷命の命を受けて剣を作ったという伝承は一致する。
  • 古くからの鉄器の製造
    京都府与謝郡岩滝町、大風呂南1号墳墓は11本の鉄刀を副葬していた。墳墓の築造はおおよそ西暦200年前後で、同時代の鉄器の副葬量としては最大数を誇る。
  • June 2016 編集されました
    旧事本記

    孫, 天村雲命. 亦名, 天五多底. 此命, 阿俾良依姬為妻, 生 二男一女.

    ⑴三世孫- 天忍人命. 此命, 異妹- 角屋姬, 亦名 葛木出石姬為妻, 生 二男.
    ⑵次, 天忍男命. 此命, 葛木土神 劍根命女- 賀奈良知姬為妻, 生 二男一女. 姓氏錄云, 葛木劍根命, 高魂命五世孫也.
    ⑶妹, 忍日女命.
         
    四世孫- 瀛津世襲命. 亦云, 葛木彦命.尾張連等祖, 天忍男命之子. 此命, 池心朝御世, 孝昭為大連供奉.
    ⑵次, 建額赤命. 此命, 葛城尾治姬為妻, 生 一男.
    ⑶   妹, 世襲足姬命. 亦云, 日置姬命.
    此命, 腋上池心宮御宇 觀松彦香殖稻天皇, 孝昭立為皇后, 誕生 二皇子.
        則, 天足彦國押人命.
        次, 日本足彦國押人天皇 是也 孝安.

    孫, 四世. 天戶目命. 天忍人命之子. 此命, 葛木避姬為妻, 生 二男.
    次, 天忍男命. 天忍人命之子, 大大蝮壬部連等祖. 與三世孫 天忍男命 同名異神乎.
     
    五世孫- 孫 建筒草命. 建額赤命之子, 多治比連‧ 津守連‧ 若倭部連‧ 葛木廚直祖.
    ⑵孫, 五世. 建斗米命. 天戶目命之子. 此命, 紀伊國造 智名曾妹 -中名草姬為妻. 生 六男一女.
    ⑶  次, 妙斗米命. 天戶目命之子, 六人部連等祖.

    六世孫- 建田背命. 神眼連‧ 海部直‧ 丹波國造‧ 但馬國造等祖. 神名帳云, 但馬國 城崎郡 海神社. 姓氏錄云, 但馬 海直火明命後也.
    ⑵ 次, 建宇那比命. 此命, 磯城島連祖- 草名姬 為妻. 生 二男一女.
    ⑶  次, 建多乎利命. 笛連‧ 若犬甘連等祖. 神名帳云, 大和國笛吹神社. 姓氏錄, 笛吹火明命後也.
    ⑷ 次, 建彌阿久良命. 高屋大分國造等祖.
    ⑸ 次, 建麻利尼命. 石作連‧ 桑內連‧ 山邊縣主等祖. 神名帳云, 大和國乘上郡桑內神社‧ 山邊郡山邊御縣坐神社.
    ⑹ 次, 建手和邇命. 身人部連等祖. 姓氏錄云, 身人部連, 火明命之後也.
    ⑺ 妹, 宇那比姬命.
    以上 六男一女, 建斗米命子也.
          

    七世孫- 建諸隅命.
    此命, 腋上池心宮御宇天皇御世, 孝昭. 為大臣 供奉.
    葛木直祖 大諸見足尼女子 諸見己姬為妻, 生一男.
      
    妹, 大海姬命. 亦名, 葛木高名姬命. 古事記作- 意富阿麻比賣.
    建諸隅命 大海姬命者, 建宇那比命子也.
            
    此命, 磯城瑞籬宮御宇天皇, 崇神. 立為皇妃, 誕生 一男二女.
         即, 八坂入彥命.
         次, 渟中城入姬命.
         次, 十市瓊入姬命是.
     
    八世孫 - 倭得玉彥命. 亦云, 市大稻日命. 建諸隅命子也.
    此命, 淡海國谷上刀婢為妻,生一男一女.
    伊我臣祖 大伊賀彥女 - 大伊賀姬, 為妻. 生四男.

              
    九世孫 - 弟彥命.
        妹,日女命.
        次,玉勝山代根古命.山代水主雀部連‧輕部造‧蘇宜部首等
    神名帳云,山城國久世郡水主神社十座就中天照御魂神‧山背大國魂命神二座御相並祭.
    今按天照御魂者,天照國照彥天火明尊‧山背大國魂者,御勝山代根古命乎.
    又按姓氏錄,火明命之後‧榎室連祖-古麻呂,家在山城國久世郡水主村.
    次,若都保命.五百木邊連祖.
    次,置部與曾命.
    次,彥與曾命. 以上六柱, 倭得玉彥命子也.

    十世孫- 淡夜別命. 此命, 弟彥命子也.

    *大木食命,有子曰 大綜麻杵命
    彦狭嶋命。日子刺肩別命。日子寤間命
  • June 2016 編集されました
    旧事本記

    天村雲命. 亦名, 天五多底. 此命, 阿俾良依姬為妻, 生 二男一女.

    三世孫- 天忍人命. 次, 天忍男命. 妹, 忍日女命.
         
    四世孫- 瀛津世襲命. 亦云, 葛木彦命.尾張連等祖, 天忍男命之子. 次, 建額赤命. 妹, 世襲足姬命.
    (此命, 腋上池心宮御宇 觀松彦香殖稻天皇, 孝昭立為皇后, 誕生 二皇子.則, 天足彦國押人命.次, 日本足彦國押人天皇 是也 孝安.)
    孫, 四世. 天戶目命. 天忍人命之子. 此命, 葛木避姬為妻, 生 二男.
    次, 天忍男命. 天忍人命之子, 大大蝮壬部連等祖. 與三世孫 天忍男命 同名異神乎.
     
    五世孫- 孫 建筒草命. 建額赤命之子, 多治比連‧ 津守連‧ 若倭部連‧ 葛木廚直祖.

    孫, 五世. 建斗米命. 天戶目命之子. 此命, 紀伊國造 智名曾妹 -中名草姬為妻. 生 六男一女.
    次, 妙斗米命. 天戶目命之子, 六人部連等祖.

    六世孫- 建田背命. 神眼連‧ 海部直‧ 丹波國造‧ 但馬國造等祖.
      次, 建宇那比命. 次, 建多乎利命. 次, 建彌阿久良命. 次, 建麻利尼命. 石作連‧ 桑內連‧ 山邊縣主等祖. 次, 建手和邇命. 身人部連等祖.
    妹, 宇那比姬命.以上 六男一女, 建斗米命子也.
          
    七世孫- 建諸隅命.
    此命, 腋上池心宮御宇天皇御世, 孝昭. 為大臣 供奉.
    葛木直祖 大諸見足尼女子 諸見己姬為妻, 生一男.妹, 大海姬命. 亦名, 葛木高名姬命. 古事記作- 意富阿麻比賣.建諸隅命 大海姬命者, 建宇那比命子也.
    此命, 磯城瑞籬宮御宇天皇, 崇神. 立為皇妃, 誕生 一男二女. 即, 八坂入彥命.次, 渟中城入姬命.次, 十市瓊入姬命是.
     
    八世孫 - 倭得玉彥命. 亦云, 市大稻日命. 建諸隅命子也.
    此命, 淡海國谷上刀婢為妻,生一男一女.
    伊我臣祖 大伊賀彥女 - 大伊賀姬, 為妻. 生四男.
              
    九世孫 - 弟彥命.
    妹,日女命.
    次,玉勝山代根古命.山代水主雀部連‧輕部造‧蘇宜部首等
    今按天照御魂者,天照國照彥天火明尊‧山背大國魂者,御勝山代根古命乎.
    又按姓氏錄,火明命之後‧榎室連祖-古麻呂,家在山城國久世郡水主村.
    次,若都保命.五百木邊連祖.
    次,置部與曾命.
    次,彥與曾命. 以上六柱, 倭得玉彥命子也.

               
    十世孫- 淡夜別命. 此命, 弟彥命子也.
    次,大原足尼命. 此命,置部與曾命子也.
    次,大八椅子命.
    次,大縫命.
    次,小縫命.
    大八椅子命‧ 大縫命‧ 小縫命, 彥與曾命子也.
    *大木食命,有子曰 大綜麻杵命
    彦狭嶋命。日子刺肩別命。日子寤間命
  •  丹波の平定 丹波の地域が大和政権に服属するようになった経緯については、記紀によるしか手がかりはない。『古事記』によれば崇神天皇の条に、「日子坐の王をば 旦波(たにはの)国に遣して 玖賀耳之御笠を殺さしめたまひき」とあり、『日本書紀』には崇神天皇十年九月、「大彦命を以て北陸に遣し 武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海に遣し 吉備津彦を西海に遣し 丹波道主命を丹波に遺したまふ 因りて詔して日く 若し教(のり)を受けざる者あらば 乃ち兵を挙げて伐て」とある。いわゆる四道将軍の派遣記事である。記紀によって丹波へ遣わされた人名が異なっているが、日子坐王の子が丹波道主命であるから、父子並んで丹波方面の征服にあたったものと考えられる。
     玖賀耳(くがみみ)之御笠(みかさ)というのはどんな人物か、またどこに住んでいたのかわからない。『日本書紀』の仁徳天皇の条に桑田の玖賀媛の説話があるので、桑田郡に住んでいたものともいわれるが、『丹後風土記残欠本』に、「古老伝曰 当リ二于御間城入彦五十瓊殖天皇(祟神天皇)之御代一当国青葉山中 有リ二土蜘(つちぐも)一 曰二陸(くが)耳御笠一者而其状賊(そこなう)二人民一 故日子坐王奉レ勅而伐レ之」
    とあって、青葉山に住んでいたことになっている。ともかく丹波地方に玖賀耳之御笠に代表されるような大和朝廷に服従しない首長がいて、それが大和朝廷の遣わした将軍によって平定されたことが推察されるところである。
     このころの丹波はのちの丹後・但馬を含む地域であり、記紀の記事が東海・北陸という広い地域の表現でなく、丹波と限ってあるところに、丹波という地域の重要性が考えられる。のちに丹波道主命父子の子孫と称する丹波氏族が丹波・但馬で栄えており、丹後には彦坐王をまつる神社も多いから、父子は丹波を平定してそのままこの地に土着したものと思われる。
     綾部の伝承 綾部市内には日子坐王・丹波道主命に関係のある伝承をもつ神社が二つある。その一つは上杉町の八坂神社である。祭神は素戔鳴尊・大己貴尊・少彦名命・受持之神で、昔は飯宮(はんのみや)大明神と称した。社伝によると崇神天皇の十年秋、丹波国青葉山に玖賀耳という強賊がいて良民を苦しめるので、勅命を受けた日子坐王・丹波道主命が軍をひきいてきたところ、丹波国麻多之東において毒蛇にかまれ進むことができなくなった。時に天より声があったので、素戔鳴尊ほか三神をまつったところ験があって病がなおり、首尾よく賊を平げることができた。帰途、この地に素戔鳴尊と諸神をまつったのに由来するというのである。(飯宮由来記)前に記した『丹後風土記』の記事と符合する伝説である。八坂神社には、「永久五酉稔(一一一七)三月総社麻多波牟宮神」の銘のある神鏡が伝わっていたから、平安時代には八田郷の総社であったと思われる。
     もう一つは広瀬町の伊也神社である。ここには、「崇神天皇の御代丹波道主命本郡に来り 甲ケ峯の麓に宮を築き天照大神 素戔鳴尊 月読尊の三神を崇敬し神社にまつった」という伝承がある。
     これらの伝承からみて、この地方には古くから丹波道主命父子による丹波の平定が信じられていたと考えられる。
  • 春日県がやがて発展して、春日の国と称されるようになったと思われる
    この春日の地域に和珥氏の勢力が伸張していたことは『古事記』の雄略天皇の段で、

    大長谷若建命(雄略天皇)が丸邇(和珥)佐都紀臣の娘の袁桙杼比売を妻どいして「春日に幸行」した説話からも推察される。

    『日本書紀』継体天皇七年九月の条の古歌謡

    「八島国 妻まきかねて 春日の 春日の国に 麗し女を ありと聞き手 宜し女を ありと聴きて・・・・」

    この歌は勾大兄皇子(のちの安閑天皇)が春日皇女を妃に迎えた折の歌として位置付けられている。

    『日本書紀』の歌に「春日国」が読み込まれていることが注目される。

    『古事記』や『日本書紀』の伝承では、和珥氏出身とする娘が、開化、応神、反正、雄略、仁賢、継体の各王者の「后妃」になったことを述べているが、その和珥氏や和珥氏の娘の生んだ王子・王女に「春日」を称するものが少なくない。     

    『日本書紀』の雄略天皇元年三月の条には、大泊瀬幼武大王(雄略天皇)の「妃」として「春日和珥臣深目」の娘が春日大娘皇女を生むとの伝えがある。

    ここでは「春日和珥臣」と春日を冠する複氏姓となっており、生まれた王女も春日を名乗っている。

    春日臣は、添上郡春日郷のあたりを本拠とした氏族で、のちに和珥氏が春日郷周辺に勢力を伸張して、「春日臣」と「和珥臣」との間には同族的繋がりが生じ、「春日和珥臣」というような複氏姓が形づくられたのであろう。

    春日の地域には、和珥氏や春日臣の他、和珥氏から派生した小野氏の勢力も挙げられる。

    さらには、アベ(安部、安倍、阿倍、阿部)氏の存在を指摘し、春日の地が、アベ氏から中臣(藤原)氏に委譲されたとする説もある。
  • 『万葉集』の巻三のなかに収められている佐伯宿祢赤麻呂と、ある娘子との間に交わされた問答歌に

     ちはやぶる 神の社の無かりせば

        春日の野辺に 栗まかましを(四〇四)

      春日野に 栗蒔けりせば 鹿待ちに

         継ぎて行かましを 社し留むる(四〇五)

    この歌からも春日野にすでに神を祀る社があったことがうかがえる。このように古くから春日野に於いては神祀りが行われていたのは間違いないが、これが直ちに春日社と結びつくものではない。
  • ただ、春日野台地を中心とする地域を「春日」と限定している用例もある。
    『日本書紀』武烈天皇即位前紀の影媛の悲歌。

    石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り 玉盌に 水さへ盛り 泣き沾ち 行くも 影媛あわれ

    この歌では「春日」は春日山麓の春日野台地の狭義の春日を示す。

    春日の地に大和王権とかかわりのある春日県があったことは、『日本書紀』の綏靖天皇二年正月の条の別伝に、「春日県主大日諸女糸織媛也」と記されていることにも反映されている。
  • 五郡神社記所引の十市県主系図によると

    十市県主・五十坂彦の譜に、孝昭天皇の時代、春日県が十市県に改められたとあり、
    十市県主系図では春日県主につなげて十市県主と記している

    五郡神社記が引用する系図によれば、事代主命を始祖とする氏族で、

      事代主命--鴨主命(亦曰天日方命)--大日諸命(春日県主大社祝部)--大麻(大間)宿禰(春日県主)--春日日子(春日県主)
        --豊秋狭太彦--五十坂彦(孝昭天皇御世春日県を改め十市県と云う、五十坂彦を県主と為す)--大日彦(十市県主)
        --倭絙彦(中原連・山代石辺君等祖、十市県主)
    これによれば大神氏(ミワ)と同祖となるが、、、、、

    普通、春日県主の本拠は大和国添上郡と考えられているが、春日県が大和の六御県に加わっていないことから、十市県主系図に記されているように、春日県が十市県に改められたか、あるいは春日県主氏が磯城県主又は十市県主に併合されたかいずれかによって、かなり早く消滅したか

    書紀・綏靖から孝霊天皇までの皇妃記録の中に、一書に曰くとして、磯城・春日・十市県主出身の皇妃10名の名があり、その中に春日県主・十市県主の女として
     ・綏靖天皇--春日県主大日諸の女・糸織媛
     ・安寧天皇--春日県主大間宿禰の女・糸井媛
     ・孝安天皇--十市県主五十坂彦の女・五十坂媛
     ・孝霊天皇--十市県主倭絙彦の女・真舌媛
  • July 2017 編集されました
    綏靖天皇二年、神武天皇皇子神八井耳命が春日の地に住み朝政をみて、皇祖を祀るに磯城彦一族の春日県主遠祖大日諸に司どらせた。
    崇神天皇の七年神祠を改めて立て神霊を祀って、社地を太郷と名づけた。 そのため昔春日宮、今多神社という。
    日本書紀にも綏靖天皇の后妃の父としてこの春日県主大日諸が登場する。
    河内に勢力を誇り志貴縣主神社が祀られている。
    十市氏系図もこれに註して、十市県はもと春日県といったが考昭天皇の時代に変更になり、神八井が春日宮(多神社)の神官にあてたという春日県主大日諸命こと十市県主太(大)真稚彦こそ多氏の祖であるか。


    多坐弥志理都比古神社
    所在地 奈良県磯城郡田原本町大字多字宮ノ内569
    主祭神 神倭磐余彦尊(神武天皇)神八井耳命 神沼河耳命(綏靖天皇)姫御神(玉依姫命)太安万侶
    社格等 式内社(名神大)・県社
    創建 綏靖天皇2年(紀元前580年)
    本殿の様式 春日造 別名 多神社(おおじんじゃ)
    『延喜式神名帳』では「大和国十市郡 多坐彌志理都比古神社二座」と記され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預ると記されている。永治元年(1141年)の『多神宮注進状草案』では神階正一位となっており、「正一位勲一等多大明神」の扁額が一ノ鳥居に掲げられていた。明治時代に多村の郷社に列格し、大正12年(1923年)に県社に昇格した。

    「多神宮注進状」によると、八井耳命これを創斎し、その母 (ヰソスズ姫) 族の従兄弟にあたる春日県主遠祖の大日諸命を祭司とし、崇神朝に十市の太郷に神社を建て、此の社の旧名は春日宮といったが、後に多神社という、とあります。 
  • 山陰地方に四道将軍の一人、丹波道主命が遣わされたことは、丹後地方が早くから大和朝廷と政治的に密接に結びついていたことが考えられる。大和朝廷の全国統一の過程で、丹後地方をはじめ山陰地方に重点が置かれたことは、逆にこの地方に大和朝廷に対抗するほどの勢力を持った豪族が政治、経済に強大な権力を持って存在していたことを意味し、丹後地方に雄大な前方後円墳が残された所以を示すものである(『弥栄町史』)。

    『溝谷神社由緒記』に
    「当社は延喜式所載の古社にして、社説によれば、人皇第十代崇神天皇秋十月、将軍丹波道主命、当国へ派遣せられ、土形の里に国府を定め居住あり。或時、神夢の教あり、眞名井ノト(トはウラ又はキタとも云ふ)のヒツキ谷に山岐神(やまのかみ)あり、素盞鳴尊の孫、粟の御子を以って三寶荒神とし斎き奉らば、天下泰平ならんと。道主命、神教に従ひ丹波国眞名井ノトヒツキ山の麓の水口に粟の御子を以て三寶荒神と崇め奉る。其の御粟の御子は水口の下に新宮を建てて斎き奉る。因て、水の流るゝ所を溝谷庄と云ふ。溝谷村、字溝谷を旧名外(との)邑と云ひしは眞名井名ノトと云ふ字を外の字に誤りて云ひしものなりと。その後丹波道主命の子、大矢田ノ宿禰は、成務・仲哀・神功皇后の三朝に仕えて、神功皇后三韓征伐に従ひ、新羅に止まり、鎮守将軍となり、新羅より毎年八十艘の貢を献ず。

    其の後帰朝の時、風涛激浪山をなし航海の術無きに苦しみしに、素盞鳴尊の御神徳を仰ぎ奉り、吾今度無事帰朝せば、新羅大明神を奉崇せんと心中に祈願を結びければ、激浪忽ち変じて蒼々たる畳海となりて無恙帰朝しけれぱ、直ちに当社を改築せられ、新羅大明神と崇め奉る。因て今に至るも崇め奉して諸民の崇敬する所なり」

    「従って当社の創祀は丹波道主命の勧請によるもので、新羅(しらぎ)将軍大矢田宿禰の改築祭祀されたと伝えられ、今でも航海の神として海辺の崇敬篤く、現在絵馬堂にある模型船は間人漁師の寄進したものである」
  • October 2017 編集されました
    かんちゅうけいず
    十四世孫川上眞稚命のあたりに小さな字で次のような系譜を記す。
    「又一本云、彦国忍人五世孫大難波命、児大矢田彦命、児大使主命、伝伝、往古よりつたえるところ当氏子細有り、伝伝」

    この彦国忍人(ひこくにおしひと)は天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと)で和邇氏(わにし)の祖とされる人である。その五世孫が大難波命。その子供が大矢田彦命、そしてもう一人が日触大使主命(ひふれおおみのみこと)である。これはまぎれもなく和邇氏の系譜でる。

    『勘注系図』で十五世孫とする丹波大矢田彦命と、大矢田ノ宿禰は別人である。
    『勘注系図』は前者を川上麻須の子とする。後者は大難波根子という和邇氏。
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。