宮地嶽神社、古墳

May 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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宮地嶽古墳と宝物 宮地嶽中腹の不動神社を祀る日本最大級の巨石古墳が発見された(260年以上まえ)。この石室は、…

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コメント

  • 藤高麿(勝村大明神)藤助麿(勝頼大明神)とは神楽「塵輪」に登場する八幡宮縁起の「安倍高丸」「安倍助丸」であるという。
     「塵輪」とは軍術にたけた悪鬼が異国より攻めてきたとき、第14代天皇「仲哀天皇」が安倍高丸、安倍助丸を従えて、神変不測の弓矢をもって退治するという物語である
     塵輪には翼があり、天空を自在に駆けめぐることができたという。羽白熊鷲のこととも。

     津屋崎の北部に「勝浦」がある。ここには「勝部氏」が在したと伝わる。勝部氏は秦氏の一族で宇佐の辛嶋勝氏に繋がる。
     阿部の勝村、勝頼の両神とはこの勝部氏に拘わるという。

     勝浦の南、奴山に織物媛神を祀る「縫殿神社」が在る。応神天皇の頃、呉の国から兄媛(えひめ)弟媛(おとひめ)呉織(くれはとり)穴織(あなはとり)の4人の媛が、織物の技術を伝える為にこの地に招かれた。兄媛はこの地に残り、呉の織物を伝えたという。「呉服」の由来である。縫殿神社は日本最初の織物神。

     神功皇后が新羅より凱旋して大嘗会を行なった時、阿部氏の祖先が「吉志舞」を奏したという。吉志舞の吉志は「吉師」で、阿部氏は吉師部を統率したという。
     大彦命の子に「波多武日子命」があり、その子孫が「難波吉師三宅」を名乗る。「吉師」は外交を職務とした渡来人。
     応神期に東漢氏の祖、「阿智吉師(あちきし)」と西文氏の祖、「王仁(和邇)吉師(わにきし)」が半島から渡来している。
     日本書紀の応神天皇37年に天皇は「阿智吉師」を呉に遣わして、縫女(ぬいめ)を求めさせた。呉の王は兄媛、弟媛、呉織、穴織の4人の媛を与えたとある。
     そして雄略天皇の頃、秦氏の秦酒公が「勝部」を率領して絹を貢進したとある。
  • 神功皇后に従った阿部氏族に、崗県主熊鰐と吾瓮海人烏摩呂がいる。
     崗県主熊鰐は仲哀天皇が筑紫に行幸した際、周芳に迎えた。「崗」とは「遠賀」。遠賀郡に子孫が残り、八幡の豊山八幡神社を奉祭するという。
     吾瓮海人烏摩呂(あへのあまおまろ)は、半島への中継地、阿閉島を本拠とする。熊鰐が仲哀天皇に献上した津屋崎沖の「相島」である。三韓遠征の際、吾瓮海人烏摩呂は志賀島の阿曇氏に先立って、西の海に偵察に派遣される。

    少彦男心命は古事記では「少名日子建猪心命」。武内宿禰の父は「屋主忍男武雄心命」。孝元天皇の二人の皇子の名がここで重なる。古事記では「屋主忍男武雄心命」は登場しない。
     そして、少彦男心命と重なる神霊、「少彦名命」を津屋崎の阿部氏が氏神として祀る。
     阿部氏族と肥前の武内宿禰氏族の多くが重なる。

    大彦命の子、波多武日子命は武内宿禰氏族、松浦の波多氏。阿部の「吉師」も松浦の岸、鬼子の海人。
     阿部氏が武内宿禰氏族である可能性も考えられる。
  • 宗像、鐘崎の名神大社「織幡神社」に、武内宿禰が秦氏や宗像神に拘わる興味深い伝承が残る。
     神功皇后の三韓征伐に際し、宗像神が「御手長」という旗竿に、武内宿禰が織った紅白2本の旗をつけ、この旗を振って敵を翻弄して最後には沖ノ島に旗を立てたという。武内宿禰が旗を織ったのがこの織幡神社。
     そして武内宿禰は「我死なば神霊は必ずやこの地に安ずべし。」と伝え、境内に沓を残して昇天したと伝えられる。その「沓塚」が境内に残る。

     織幡神社は宗像郡では宗像大社に次ぐ名社。半島に至る「海北道」の基点、鐘崎の港の先にある鐘ノ岬の佐屋形山の頂きに鎮座する。武内宿禰を主祭神として、神官は武内宿禰の臣、壱岐真根子臣の子孫であるという。
  • ●校定石見神楽台本
    この曲は八幡宮縁起(那賀軍雲城村八幡宮蔵、元禄己巳貝原好古の著)からとったものである。同書巻之一、
    仲哀天皇紀九年の條に、

    「今按ずるに誉田ノ宮ノ縁起、石清水ノ宮ノ縁起、八幡愚蒙訓などにしるし侍るは、仲哀天皇の御宇に当りて、新羅国より数万の軍兵せめ来りて、日本を討とらんとす。
    是により天皇みづから五万余人の官軍を相したがえ、長門ノ国豊浦ノ宮にして異国の凶賊を禦がしめ玉う。この時異国より塵輪というふしぎのもの、色はあかく、頭八ありてかたち鬼神のごとくなるが、黒雲に乗て日本に来り、人民をとりころすこと数を知らず。天皇、安倍高丸、同助丸に仰て、惣門をかためさせ、塵輪来らば、いそぎ奏すべし。人民の身にてたやすく打事あるべからず。我十善の身を以て彼ものを誅伏せしめんと命じ玉う。則かの二人弓剣を帯して、門の左右を守護しけるに、第六日にあたりて、塵輪黒雲に乗じて出来る。高丸、武内大臣を以て此よしを奉しけるに、天皇御弓を取、矢をはげて、塵輪を射させ給えば、塵輪が頭たちまちに射きられて、頭と身と二つになりて落ぬ。かかる処に何にかしたりけん、流矢来りて玉体につつがあり。(中略)此事日本紀の本説にたがい、ことに頭八ある人黒雲に乗じて来るなどいえる事ほ、妄誕不経論ずるに足らず。」 
    とある
  • 葛子の子「勝村・勝頼」が宮地嶽古墳に埋葬されていると
    伝えているのが、宮地嶽神社です。

    磐井の三兄弟「大名麻呂、須多田麻呂、津丸磐麻呂」
    磐井の君は、他に粕屋郡の豪族の姫を娶って葛子が生まれた
    三兄弟を宮地嶽神社を守るように南北に配置。
  • May 2016 編集されました
    磐井の敗北 528年 6世紀前半
    宮地嶽神社では、「磐井の子の葛子は安曇族だ」と伝えている。

    磐井の子の時代の古墳
    船原古墳 6世紀末~7世紀初頭 被葬者は安曇
    宮地嶽古墳 7世紀前半 被葬者は安曇族で葛子の子

    古賀市の船原古墳から出土した漆塗りの馬具は宮地嶽古墳と同じものだった、
    この辺りも安曇族
  • May 2016 編集されました
    宮地嶽神社の伝承

    古代は、安曇族

    神功皇后のご功績をたたえ主祭神として奉斎し、随従の勝村・勝頼大神を併せ、「宮地嶽三柱大神」としてお祀りしている。
    津屋崎に勝浦や勝島の地名があるのは、勝村・勝頼大神の縁である。
    中世から戦国末期まで、宗像氏が宗像郡を支配し、宗像大社の末社のような風評が定着してしまった。
    この古墳は胸肩君の墓であろうといわれていたが、その後古墳の年代がさらに古いことがわかり、最近元九大の西谷先生はこの説を否定された。
    このことから、磐井族の葛子の後裔説が強くなり、古賀の船原古墳の馬具出土と関連付けて、津屋崎や糟屋の出土品の再調査がはじまっている。
    磐井族は有明海に近い八女を本拠地にしているが、有明の大川市の風浪宮の宮司は阿曇姓で、安曇族と磐井族の縁は有明海沿岸でも絆があったようだ。

    宮地嶽神社は地区としては宗像郡だが、津屋崎古墳の石の玄武岩は、宗像地区と異なり、相島や志賀島のものと同質だから、志賀島や大岳を発祥の地とする安曇族が宮地嶽まで勢力を広げていたと考えられる。

    宮地嶽神社につたわる筑紫舞の始祖は阿曇磯良翁で、志賀海神社の御祭神を祖にされる方である。その縁で、宮地岳神社宮司の一族から,いまの志賀海神社宮司に養子にはいられた。
  • 宮地嶽神社の関係者は磐井氏の関係の墓だと言っている。宮地嶽古墳の石室を造っている巨石は近くの恋の浦海岸から運ばれた事が分かっているという。昔は神社のすぐ下まで海で、そこまでは船で運べたという。考古学も科学的調査方法が導入され、かなり色々なことが分かるようになったという。それらの調査から年代的に宗像徳善の時代とは100年位差があり、宗像徳善の墓とするのは無理があるというのが宮地嶽神社の関係者の主張だ。更に、この宮地嶽神社の御祭神の藤氏が磐井の君の三代目にあたるという。

     宮地嶽神社の現在の祭神は、神功皇后(息長帯比売命)と勝村大神、勝頼大神となっている。神功皇后は分かるが、勝村大神、勝頼大神は聞き慣れない祭神だ。
     神功皇后に従っていた勇将に、藤高麻呂と藤助麻呂という人がいて、新羅で大功をたて、帰還後、この土地を領して開発殖産をしたという。そこで土地の人々は、両将を祖神と仰いで、藤高麻呂を勝村大神、藤助麻呂を勝頼大神として崇め、神功皇后の神霊とあわせて当社を創建したという。また、既に神功皇后の遙拝祠があって、両将が帰国後その祠掌となり、後、神功皇后を合祀して当社を建立したともいう。当社の境内は5万坪もあり、神社の周囲に御供田、九拝田など、かっての神田の名称が残っていて、往時から盛大な神社であったことは間違いない。
  • 『宗像宮社記』によると、宮地嶽明神内の二社は宗像三女神と勝村大明神だという。神功皇后が宮地嶽の山上に祀ったのは宗像三女神であり、勝村大明神は神功皇后のことで、新羅から勝って帰ったので勝村大明神と呼んだという。
     更に次のような異説がある。中殿に阿部函相(宮地嶽大明神)、左に藤高麿(勝村大明神)、右に藤助麿(勝頼大明神)三座であるという。この三神は神功皇后が韓国を討った時に功績があった神だという。
  • 宮地嶽古墳の被葬者は

    一般的には宗像徳善の君と言われる。その理由は副葬品の豪華さにある。天皇家と同レベルの副葬品を持っている人なら、天皇家に関係する人に違いない。そして、日本書紀に娘を天皇に嫁がせたのが宗像徳善だと書いてある。だから、この人の可能性があるというのだ。天武天皇の長男は高市皇子で壬申の乱で活躍した。この高市皇子の母が宗像徳善の娘・宗像尼子娘である。

     宮地嶽古墳の出土品は奈良の正倉院と同じタイプのものがあるそうだ。銅の鎖、壺鐙のデザインはササン朝ペルシャのものだという。金メッキの頭椎(かぶつち)の太刀はササン朝ペルシアの様式だという。長方形のガラス板(ガラスのインゴット)も鉛系のものでペルシャ系だという。考古学のことはよく分からないが、ガラスには鉛系とソーダ系があり、作られた場所や時代がある程度分かるようだ。

    考古学も科学的調査方法が導入され、かなり色々なことが分かるようになったという。それらの調査から年代的に宗像徳善の時代とは100年位差があり、宗像徳善の墓とするのは無理があるというのが宮地嶽神社の関係者の主張だ。更に、この宮地嶽神社の御祭神の藤氏が磐井の君の三代目にあたるという
  • December 2016 編集されました
    宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ)は、福岡県福津市に所在する神社。神功皇后を主祭神とし、勝村大神・勝頼大神を配祀する。

    天草の宮地岳神社
    〒863-1161 熊本県天草市宮地岳町5316

    熊本の宮地嶽神社
    熊本県南関町宮地嶽神社碑文・・・「○火明命安座」とあり、この神社は火明命を祭神とする。南関町は「南関石工」がいたところ。この神社そのものが阿蘇灰石の上に建っており、かつては石切場であったと言われている。宮地嶽神社の起源そのもがこうした石工による切石に発するとさえ言われている。
    以上参考文献 『南関町史』及び『阿蘇の灰石展解説図録』

    兵庫県高砂市教育委員会2005によれば、竜山で石棺を制作していた石作部の祭神は天火明命である。(「阿蘇の灰石解説図録」)
    物部守屋(弓削大連)の名前が竜山石石切場の石宝殿の伝聞に現れる理由はここにある。

    謎の七支刀を持つ人形が収 められた瀬高町のこうやの宮(石上物部神社)。

    筑紫平野最南部の玉垂宮
    l七支刀で著名な大神地区(西鉄南瀬高駅付近)の辺りとのことだっただが、西鉄大牟田線、国道209号線の西の河内地区にあったため、また、地図にも荒仁神社と記載されていたためこれまで分らなかった(ここは国道に隣接する吉里の天満宮からも入られるが、少し北の南瀬高の交差点から入る方が早い)ものだった。
    玉垂宮が鎮座しており、樹齢千年の大楠の奥には、こんな僻陬の地に、何故これほどの大社があるのかと思うほどの立派な社殿が鎮座していた。
  • December 2016 編集されました
    道君首、スクナヒコナと球磨地方の天子宮

    天子宮由緒書

    和銅六(七一三)年筑後・肥後に悪病が大流行し、おびたヾしい死者が出た。時 の国司、道君首名は万策つき果て、ひひらきの木、椎の木を立て、少彦名命、大国主命の神篭(神の宿る木)として七日七夜山海の珍味を供へ悪病退散を祈願した。しかし、その効も空しく死者が絶えなかった。首名は薪を高く積み重ね、七日七夜火を焚き続け『吾れ二国(筑後・肥後)の司として初めての任なるに、この災あるは、われ不徳の至すところか、神威ありて民の病苦を救い給う力あらば、火中を渡るに燃ゆることなし、われ祈ること叶わず、皇国に神明なければせんかたなし。

    眼前、民の死を見るに忍びず、この火中に死なん』・・・

    と、あります。また、伊倉町役場発行の『伊倉町史』(伊倉町制五十周年記念)によると、

    小天の天子宮は首名が殖産呪禁の神として勧請されたものであるが・・・(中略)・・・古伊倉川成牟田の田神等は皆首名を祀ったものであるが伊倉西北張の天子大神宮も肥後國司には其の縁起を伝えていないがアマツミコオホカミノミヤと読んで少名彦命を祀ったものとすれば小天の天子宮と同じく首名の勧請であろう。

    と、あります。
    さらに、熊本市中心部のいわゆる味噌天神も主神は少名彦命が祀られた天子宮ですが、これも道君首名によるものと思われます。

    人吉盆地の球磨川流域に天子地名が存在するということ、肥後を中心に、肥前(佐賀県の西部)、薩摩とある程度の天子宮などがある。

    人吉盆地の免田町久鹿の天子神社

    荒金卓也氏は天子宮に祀られている人物を九州王朝の大王、多利思北孤(八世紀)に比定されました。

    肥後でも、とりわけ阿蘇山の麓である大津周辺の天子宮の存在は重要か?

    http://hiborogi.sblo.jp/index-46.html
  • December 2016 編集されました
    久留米市

    長峰丘陵(ながみねきゅうりょう)(八女丘陵)の最西端(さいせいたん)に位置する八女古墳群のなかでも古い時期に属(ぞく)すると言われている十連寺古墳(じゅうれんじこふん)

    十連病院の玄関横にある宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ)の小さな鳥居(とりい)をくぐり竹林の中を通じている階段をのぼると古墳があります。
    正式に発掘調査(はっくつちょうさ)はされていない為、出土品(しゅつどひん)などは確認されていないようですが6世紀中ごろのものでなんと!直径30mの円墳(えんふん)だったと推定(すいてい)されています。
    かなり破壊(はかい)され十数m四方を残すのみになっていますが、県下でも有数の大型な古墳と言われていたようです。

    久留米市田主丸町益生田の宮地嶽神社
    三階松紋の神社

    久留米市北野町金島の宮地嶽神社
    筑後川右岸 宮地嶽神社の筑後川の対岸
    筑後川の用水路改修により地区が分断されたため分祀されたそうです。
    祭神は神功皇后 拝殿中央の飾り彫りに三階松
  • December 2016 編集されました
    朝倉市(旧朝倉町宮地)の宮地嶽神社

    宮地岳西面宮地岳東面西方と東方から見た宮地嶽、高い方の山頂には宮地嶽神社と宮地嶽前方後円墳、低い方の山頂には湯隈装飾古墳がある。

    宮地嶽は、筑紫平野の東端近く、平野と山地の境目近くに目立って聳える独立丘です。全体が柿山に開墾されており高低二つのピークを持つ特徴ある姿はチョット見ると前方後円墳と見間違えるような独特の整った姿をしています。

    最高部には、神功皇后が朝鮮半島に対する戦勝を祈願した神話に由来し、皇后自身を祭る宮地嶽神社が祭られております
  • 八代市坂本

    日羅(にちら、? - 583年12月)は、6世紀朝鮮半島にあった百済の王に仕えた日本人。
    父は火(肥後国)葦北(現在の葦北郡と八代市)国造刑部靭部阿利斯登(ゆげいべのありしと)。

    父阿利斯登は宣化天皇の代に朝鮮半島に渡海した大伴金村に仕えた九州出身の武人で、日羅は百済王威徳王から二位達率(だっそつ)と極めて高い官位を与えられた倭系百済官僚であった。敏達天皇の要請により583年日本に帰国し、阿斗桑市(あとくわのいち)の地に館を与えられた。

    朝鮮半島に対する政策について朝廷に奏上した。その内容が 人民を安んじ富ましめ国力を充実したうえで船を連ねて威を示せば百済は帰服するであろうことや、百済が九州に領土拡大を謀っているので防御を固め欺かれぬようにすべきこと等の 百済に不利な内容であったため、同年12月に百済人によって難波で暗殺された。物部贄子と大伴糠手子により小郡の西畔丘に埋葬され、後に葦北に移葬されたたとされる。

    聖徳太子伝暦や今昔物語などでは、聖徳太子が師事した、百済の高僧であるとされている。

    墓は父阿利斯登の縁の地である熊本県八代市坂本町百済来下馬場の百済来地蔵堂前に現存する

    大分県大野川流域や宮崎県などに多くの密教系寺院を開基し、磨崖仏を建立し、坊津にその名称の起源となった龍厳寺(後の真言宗一乗院)3坊を創建したとされている。
  • 天忍穂耳神社

    小郡市の真ん中を大分自動車道が東西に走っていて、その小郡ICの近くに天忍穂耳神社はあります。
    天忍穂耳神社の参道を甘木鉄道が横切っている

    この神社の祭神についての資料がありません。
    福岡県神社誌にも載っていませんでした。
    主祭神は当然ながら天忍穂耳命でしょうが…。

    媛社神社からここに来た訳は、媛社神が万幡豊秋津師姫だとしたら、この天の忍穂耳命と夫婦になるからです。

    媛社神社(七夕神社)の本当の彦星は天忍穂耳神社じゃないかなという。

    媛社神社の現代の彦星は宝満川を挟んですぐ近くの稲吉老松神社です。
    (大正時代に圃場整備のために牽牛社が老松神社に合祀されています。)

    小郡市は物部の里。


    小郡市の高木の神ファミリー神社

    (父)高木の神 → 隼鷹神社
    (娘と子)万幡豊秋津師姫 饒速日尊 → 媛社神社
    (娘の夫)天の忍穂耳命 → 天忍穂耳神
  • 仲哀天皇と神功皇后と応神天皇の伝承

    http://ameblo.jp/indiaindia-27/entry-12046784120.html

    宇部の松郷八幡宮
    仲哀天皇が、三韓征伐のためご西下の際、穴門国(長門国厚狭郡)で伐採材木で軍船を整え、御神託によって住吉大神を祀り、海上平安を祈って幣を残して去られた。里の人々はこれを敬い祠を建てて幣を納めて奉斎した。その所が東須恵岡の原(厚南区岡田屋)である。
    また、山口県の神功皇后伝承によれば、神功皇后は三韓征伐の出港または帰港で、下関市山陰側の吉母(よしも)・吉見(よしみ)から出港・帰港している。

    宮地嶽神社御由緒
    ご創建は、約1600年前。当社のご祭神「息長足比売命(おきながたらしひめのみこと)」別名「神功皇后(じんぐうこうごう)」は第14代仲哀天皇の后で応神天皇の母君にあたられます。
    古事記、日本書紀等では渡韓の折、この地に滞在され、宮地嶽山頂より大海原を臨みて祭壇を設け、天神地祇(てんしんちぎ)を祀り「天命をほう奉じてかの地に渡らん。希(ねがわ)くば開運をた垂れ給え」と祈願され船出したとあります。その後、神功皇后のご功績をたたえ主祭神として奉斎し、随従の勝村・勝頼大神を併せ、「宮地嶽三柱大神(みやじだけみはしらおおかみ)」としてお祀りしました。


    この祭神の
    勝村大神と勝頼大神ですが 神功皇后に従っていた勇将に、藤高麻呂と藤助麻呂という人がいて、新羅で大功をたて、帰還後、この土地を領して開発殖産をしたという。そこで土地の人々は、両将を祖神と仰いで、藤高麻呂を勝村大神、藤助麻呂を勝頼大神として崇め、神功皇后の神霊とあわせて当社を創建したという。

    この三韓征伐で功のあった藤高麻呂と藤助麻呂ですが下関の忌宮神社の伝承では

    仲哀7年(198)7月7日 仲哀天皇が豊浦宮に滞在していた時に、熊襲(くまそ)の扇動により、新羅の軍が攻めてきました。
    新羅軍の首領塵輪は、雲に乗って空を飛び、空から矢を放って皇軍を苦しめ、
    宮守護の阿部高麿と弟の助麿が戦死してしまいました。
    それを聞いた仲哀天皇は激怒し、自ら弓と矢を取って、塵輪に放ちました。
    矢は見事 塵輪に命中し、地に落ちて息絶えました。
    首領を失った新羅軍は総崩れとなって逃げて行き、皇軍は勝利の歓声を上げて、塵輪輪の死体の周りを、刀や矛を振りかざしながら踊り回りました。
    死んだ塵輪の顔は鬼のようであったため、その首を埋めて大石で封印し、鬼石と名づけられました。
    そして仲哀天皇没後、神功皇后の朝鮮出兵の出陣、凱旋のさいに、この鬼石の周りで勇壮な舞伎を行ったというのが、起源とされています。鬼石というそうです

    忌宮神社の鬼石の伝承では、三韓征伐で功のあった二人は仲哀天皇より先に戦死してしまったとあります。

    下関の龍王神社の伝承では

    吉見の龍王神社の乳母屋社は古くは吉母にあって、吉母は鵜葺草葺不合命または応神天皇が誕生した場所との言い伝えがある。 乳母屋社は西日本で最古級の神社で、「乳母屋」 とは鵜葺草葺不合命に乳を与えていたことによる。
    そして日本書紀によると舟は追い風を受け一気に新羅に至り、潮浪が国の中までおよんだとする。川を遡上して内陸部へ侵攻したとあります。

    また津屋崎町の宮地嶽神社は、新羅侵攻にあたって、この神社の裏山で戦勝を祈願し、帰還の後この地に神社を安置したとする伝承があり。

    また新羅侵攻には、「松浦の君」と「胸肩の君」が軍団の長となったとする。唐津から壱岐を経由して対馬に至った軍団の他に、津屋崎から沖ノ島を経由して対馬に至った軍団と思われ後の世に「海北道」(うみのきたみち)と呼ばれる大陸への渡海ルートと同じルートである。

    つまり三韓征伐に際して唐津から進攻した「松浦の君」を軍団の長とした神功皇后のルートとは別に「胸肩の君」を軍団の長とした津屋崎から進攻した別のルートの船団があったということが伝わっているようです。

    これらの伝承から判断すると実は三韓征伐は、仲哀天皇の生前に行われ、その報復として新羅が忌宮に攻め込み阿部高麿と弟の助麿が戦死し、新羅は白熊鷲や油津媛に協力を求めたと考えられるような気がします。

    多分この時代の新羅の王は

    朝鮮最古の歴史書『三国史記』には、こう書かれている
    『脱解本多婆那国所生也 其国在倭国東北千里』
    「脱解が生まれた多婆那国は倭国の東北部、千里ほどにある。」

    脱解王は、倭国の北東部千里のところの多婆那国(但馬か丹波)の生まれの倭人と記載されており多分、素戔嗚の末裔であったのではないかと想像されます。

    すると仲哀天皇の息子を素戔嗚の後継者とすることが、新羅を抑える抑制力になると考え応神天皇を後継者として認めさせたのではないかとも考えられます。
  • 「筑紫君磐井」は『日本書紀』には「国造」と書かれているが、『古事記』には「竺紫君」と書かれている。

    『日本書紀』では磐井の乱は継体天皇との戦いのように書かれているが『古事記』では継体天皇は戦いの前に死んでいる。


    筑紫の各地の伝承

    磐井君は久留米市の高良山と明星山に居城を構えていた。
    磐井君の死後、その末裔たちは筑前と豊前で同時多発的に一斉蜂起したが、またもや敗北。

    磐井君の夫人は幼子を連れて現・福津市へ逃れた。葛子の夫人は福津市で何者かに暗殺された。
    しかし、葛子の子である鞍橋君は百済と共闘して新羅と戦った。そして、同様に葛子の子である勝村・勝頼は宮地嶽を守った。

    福津市では磐井の菩提寺が作られ、宮地嶽には巨大な古墳が作られた。勝村・勝頼が眠る宮地嶽古墳から出土した鉛ガラスは何を語るか。

    古墳内で舞われた筑紫舞にはもう一人の証言者がいた。いついに舞われた秘舞は宮地嶽神社が安曇族であったこと示した。
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