安曇、綿津見、志賀海神社

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  • January 2018 編集されました
    『新撰姓氏録』右京神別下
    海犬養 海神綿積命之後也。
    凡海連 同神男穂高見命之後也

    『同』摂津国神別
    凡海連 安曇宿禰同祖。綿積命六世孫小栲梨命之後也。
    阿曇犬養連 海神大和多羅命三世孫穂己都久命之後也


    阿曇氏の祖名としては、「大栲成吹」(オホタクノナリフキ)が一般的な解釈である。
    「新撰姓氏録」の佐伯氏は、「大栲」が人名であって、「成吹」は「吹き成し」と読み、火を吹いて
    「御食を炊く」ことを意味し、延喜式「安曇宿禰吹、火」と安曇氏の職掌であると推察されている。
    安曇氏は、神今食の祭事にも同様の職務に従事している。

    「新撰姓氏録」によれば、安曇宿禰と同祖関係にある「凡海氏」は、「綿積命六世孫小栲梨命之後也」と
    あるが、「栲」とは、海人が海に潜る時の命綱を「栲縄」(タクナワ)と言い、これに因む言葉である。

    しかし、「本朝月令」によれば、「乙等遠祖大栲成吹始奉、御膳」とあり、安曇氏の祖名は「大栲成」と
    思われ「乙等が遠祖大栲成、火を吹き、始めて御膳を奉る」と訳すべきではないだろうか。

    万葉集巻十六には、「梨」の訓仮名に「成」の字を当てている。
    「大栲成」は、「大栲梨」と同じ意にとることができ、凡海氏の祖名「小栲梨」と完全に対をなすことになる。 
    応神記に「海人の宰」に任ぜられた「大浜宿禰」に対し、凡海氏の「小浜」も相対していたのかもしれない。

    「栲縄」に由来する名が、海人を管掌した安曇氏や凡海部などの祖名に、まことに相応しいと思う。

    「大栲成」の話は、持統天皇五年八月の十八氏に「墓記」を上進させた中に記されていた伝承であった
    可能性が非常に高いと思われる。
  • January 2018 編集されました
    阿曇宿禰氏が、高橋朝臣氏(膳臣氏)と並んで内膳司の奉膳に任じられたことの起源譚であるが、これによれば、阿曇連氏は、大王の食膳に奉仕したウヂとい うことになる。なお、ここに阿曇連氏の遠祖とある「大栲成」は、『新撰姓氏録』摂津国神別 の凡海連条の「小栲梨命」と対応した名と考えられる。
  • 穂高見命(ほたかみのみこと)
    ①父:綿津見豊玉彦命 母:不明
    ②子供:多久置 弟:振魂命(倭氏・尾張氏の祖説)
     別名:宇都志日金柝命(うつしひがねさくのみこと)
    ③穂高神社の主祭神 信州穂高岳に降臨した安曇族の祖 安曇野はその後裔氏族が開拓。
    ④古事記:「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命(穂高見命)の子孫なり」
    「新撰姓氏録」:「阿曇連、宇都斯奈賀(うつしなが)命の後也」

    ・豊玉毘売
    ①父:綿津見豊玉彦命 母:不明
    ②子供:鵜葺草葺不合尊 夫:彦火火出見尊(山幸彦)
    ③記紀神話:天孫ニニギの尊の子供である彦火火出見尊は塩土老翁神の勧めで海神の宮に行った。豊玉毘売はその妃となった。山幸彦が帰国したのち、あとを追って来て、山幸彦の国で御子を産みたいと告げる。そして海辺に産屋を建て、山幸彦に中を覗かないように禁じて産屋に籠った。しかし、山幸彦は、覗き見してしまう。出産中の豊玉毘売は八尋鰐と化していた。毘売は正体を見られたのを恥じ、御子・鵜葺草葺不合尊を置いて、父の海神のもとへ帰ってしまう。
     
    ・玉依毘売命
    ①父:綿津見豊玉彦命 母:不明
    ②子供:五瀬命・稲飯命・御毛沼命・神武天皇  夫:鵜葺草葺不合尊 姉:豊玉毘売
    ③記紀:天孫降臨・鵜葺草葺不合尊の段に登場。姉豊玉毘売の子供 鵜葺草葺不合尊を養育し、後にその妻となり、五瀬命・稲飯命・御毛沼命・神武天皇らの母となった。
    ④吉野水分神社、子守明神の祭神。
     
    多久置
    ①父:穂高見命 母:不明
    ②子供:穂己都久
     
    穂己都久
    ①父:多久置 母:不明
    ②子供:摩幣区利
    ③安曇犬養氏祖
     
    摩幣区利
    ①父:穂己都久 母:不明
    ②子供:意伎布利根
     
    意伎布利根
    ①父:摩幣区利 母:不明
    ②子供:小栲梨
     
    小栲梨
    ①父:意伎布利根 母:不明
    ②子供:麻曽杵
    ③凡海連祖 説(新撰姓氏録)
     
    大栲成吹
    ①父:小栲梨 母:不明
    ②子供:百足足尼
     
    百足足尼
    ①父:大栲成吹 母:不明
    ②子供:大海宿禰・小浜宿禰 別名:阿曇連百足(あずみのむらじももたり)
    ③異系図:子供:勝海宿禰が子供とある。勝海の子供が大海宿禰・小浜宿禰とある。
    ④肥前風土記:12景行天皇西国鎮撫記事に「御付人」として活躍記事あり。
    ⑤播磨風土記:36孝徳朝の記事に百足関係記事あるが、これは時代が異なり阿曇連頬垂(つらたり)の間違いであろうとの説。
    ⑥貞観6年(864)三代実録の記事
    「播磨国風土記~揖保の郡・石海の里~」にも、36代孝徳天皇朝に、「阿曇連百足がこの里に生えた百枝の稲を天皇に献上し、天皇が、それならばその里に田を作るがよいと、石見の人夫達を召して開墾させたので、この野の名を百便(ももたり)、村の名を石海(いわみ)という。」とあるが、時代的に、斉明~天智朝に、我が国と新羅・百済間をたびたび往復したという、阿曇連頬垂(つらたり)の誤記であろう。とされている。
    参考)肥前風土記(和銅6年=713年)  
    「値嘉の郷(肥前国松浦郡値嘉郷)、郡の西南の方の海に中に烽(とびひ)が3カ所あり。
     同じき天皇(景行天皇)巡幸し時は志弐嶋の行宮(かりみや)に在わして、西の海を 御覧するに海の中に嶋あり。姻気(はぶりき)多に覆へりき。 
    阿従(あともびと)、阿曇連百足(あずみのむらじももたり)におほせて 察(めさ)しめたまひき。ここに八十餘りあり。その中二つの嶋には嶋別に人あり。第一の嶋の名は小近(おちか)、土蜘蛛大耳すみ、第二の嶋の名は大近、土蜘蛛(穴居した先住民族)垂耳すめりその他の嶋は朋<(とも)に人あらざりき。
    ここに百足(ももたり)、大耳など獲りて奉聞しき。天皇勅(みことのり)して誅(みみな)い殺さしめんとしたまひき。 時々大耳等叩頭(のみ)て陳聞(まお)しく。《大耳等が罪は、実に極刑(しぬるづみ)に当たれり、万たび殺戮(さつりく)するとも罪を塞(ふさ)に足らじ、若し思情を降ろしたまひて、再生きることを得ば御覧(みにえ)をつくり奉りて、恒に御膳(みけ) に貢(たてまつ)らむ》 とまおして、即て木の皮を取りて長蚫 (あわび)、鞭蚫、短蚫、陰蚫、羽割蚫等のを様 (ためし)を作りて御所(みもと) に献(たてまつ)りきに、天皇恩を垂れて赦し放りたまひき。
    更に勅したまひしく(この嶋は遠けどもなお近きが如く見ゆ。近嶋と謂うべし)とのりたまひき。因りて値嘉(ちか)という。 嶋には則ち檳榔(あぢまさ)、木欄(もくらに)、枝子(くちなし)、 木蘭子(いたび)、黒葛(つづら)、茸(なよたけ)、篠(しの)、木綿(ゆう)、荷(はちす)、ひめゆりあり。
     海には則ち蚫螺(あわびにし)、鯛(たい)、鯖(さば)、雑(くさぐさ)の魚、海藻(め)、海松(みる)、雑の海藻あり。
     彼の白水郎(あま)は牛馬に富めり。或は一百(もも)餘りの近き嶋あり。或いは八十餘りの近き嶋あり。西に船を泊つる停二処あり。
     一処の名は相子田の停といひ、二十餘りの船を泊つべし。
     一処の名は川原の浦(岐宿町川原)といひ十餘りの船を泊つべし。遣唐の使はこの停より発ちて、美弥良久(みみらく)の埼に到りここより発船して西を指して渡る。
     この嶋の白水郎は容貌(かたち)、隼人に似てつねに騎射(うまゆみ)を好み、その言葉は俗人に異なれり。」
  • 凡海麁鎌(おおあまのあらかま)
    ①父:不明 小浜宿禰の後裔説(小栲梨命の後裔説もある) 母:不明
    ②子供:足人   別名:大海蒭蒲 大海宿禰菖蒲(おおしあまのすくねあらかま)
    ③飛鳥時代の人物。凡海・大海は「おほあま」、「おほしあま」、あるいは「おほさま」
    姓は連姓。
    ④日本書紀天武13年(684)紀:凡海連姓から凡海宿禰姓となる。
    ⑤大海人皇子(天武天皇)の壬生(養育係)
    ⑥大宝元年(701年)に陸奥国の冶金に遣わされた?位階は701年当時で追大肆。
    ⑦阿曇氏の系図では、浜子の父となっているものもあるが、時代が会わない。浜子の弟の小浜宿禰が、凡海(おおしあま)宿禰祖とあるので、この子孫か。それとも大海部直祖の多与志を出した尾張氏か、賀陽采女を出した吉備氏か。また、凡海郷のあった大浦半島の付け根の舞鶴市には、息長の転訛である「行永(ゆきなが)」があり、息長氏系の丹波道主命の本拠地であることから、息長氏の可能性もあるともいわれている。
     
  • 《丹後風土記残欠》
    凡海郷 今依前用

    凡海郷。凡海郷は、往昔、此田造郷万代浜を去ること四拾三里。□□を去ること三拾五里二歩。四面皆海に属す壱之大島也。其凡海と称する所以は、古老伝えて曰く、往昔、天下治しめしし大穴持命と少彦名命が此地に致り坐せし時に当たり、海中所在之小島を引き集める時に、潮が凡く枯れて以て壱島に成る。故に凡海と云う。ときに大宝元年三月己亥、地震三日やまず、此里一夜にして蒼海と為る。漸くわずかに郷中の高山二峯と立神岩、海上に出たり、今号つけて常世嶋と云う。亦俗に男嶋女嶋と称す。嶋毎に祠有り。祭る所は、天火明神と日子郎女神也。是れは海部直並びに凡海連等が祖神と斎所以也。(以下八行虫食)


    《注進丹後国諸荘郷保惣田数帳目録》
    一 □□郷 四十八町九段二百九十二歩内 
       □□□四十五歩  和江村 岸九良左衛門
      廿五町三段百廿一歩     建福寺
      十八町八段八段五十九歩   本光院
       二町七段六十七歩     不足可有紀明之
    ※この□□郷は読めないのであるが、普通はこれを凡海郷と読んでいる。もしそうだとすれば和江村は凡海郷に含まれていたことになる。
  • 肥前風土記(和銅6年=713年)  
    「値嘉の郷(肥前国松浦郡値嘉郷)、郡の西南の方の海に中に烽(とびひ)が3カ所あり。
     同じき天皇(景行天皇)巡幸し時は志弐嶋の行宮(かりみや)に在わして、西の海を 御覧するに海の中に嶋あり。姻気(はぶりき)多に覆へりき。 
    阿従(あともびと)、阿曇連百足(あずみのむらじももたり)におほせて 察(めさ)しめたまひき。ここに八十餘りあり。その中二つの嶋には嶋別に人あり。第一の嶋の名は小近(おちか)、土蜘蛛大耳すみ、第二の嶋の名は大近、土蜘蛛(穴居した先住民族)垂耳すめりその他の嶋は朋<(とも)に人あらざりき。
    ここに百足(ももたり)、大耳など獲りて奉聞しき。天皇勅(みことのり)して誅(みみな)い殺さしめんとしたまひき。 時々大耳等叩頭(のみ)て陳聞(まお)しく。《大耳等が罪は、実に極刑(しぬるづみ)に当たれり、万たび殺戮(さつりく)するとも罪を塞(ふさ)に足らじ、若し思情を降ろしたまひて、再生きることを得ば御覧(みにえ)をつくり奉りて、恒に御膳(みけ) に貢(たてまつ)らむ》 とまおして、即て木の皮を取りて長蚫 (あわび)、鞭蚫、短蚫、陰蚫、羽割蚫等のを様 (ためし)を作りて御所(みもと) に献(たてまつ)りきに、天皇恩を垂れて赦し放りたまひき。
    更に勅したまひしく(この嶋は遠けどもなお近きが如く見ゆ。近嶋と謂うべし)とのりたまひき。因りて値嘉(ちか)という。 嶋には則ち檳榔(あぢまさ)、木欄(もくらに)、枝子(くちなし)、 木蘭子(いたび)、黒葛(つづら)、茸(なよたけ)、篠(しの)、木綿(ゆう)、荷(はちす)、ひめゆりあり。
     海には則ち蚫螺(あわびにし)、鯛(たい)、鯖(さば)、雑(くさぐさ)の魚、海藻(め)、海松(みる)、雑の海藻あり。
     彼の白水郎(あま)は牛馬に富めり。或は一百(もも)餘りの近き嶋あり。或いは八十餘りの近き嶋あり。西に船を泊つる停二処あり。
     一処の名は相子田の停といひ、二十餘りの船を泊つべし。
     一処の名は川原の浦(岐宿町川原)といひ十餘りの船を泊つべし。遣唐の使はこの停より発ちて、美弥良久(みみらく)の埼に到りここより発船して西を指して渡る。
     この嶋の白水郎は容貌(かたち)、隼人に似てつねに騎射(うまゆみ)を好み、その言葉は俗人に異なれり。」
     
  • 日本書紀の神代紀に、「底津少童 命・中津少童命・表津少童命は、是阿曇連等が所 祭る神なり」
    新撰姓氏録では安曇連は綿津見命の児である穂高見命の末裔と記されている。
    また日本書紀に は「阿曇連の祖大浜宿禰」とある。
    安曇連は安曇氏族の本宗家と言える氏族であり、記紀に数多く登場 している。阿曇連浜子、阿曇連百足、阿曇連比羅夫等々がいる。
    弥生時代においては福岡市東区地域に居住していたが、大和王権が成立する400年代にはすでに畿 内地域に移動し定着しており、勢力を張っていたと考えられる。これは、日本書紀によると401年に 阿曇連浜子が淡路島の海人を率いて天皇暗殺クーデターに参加したとの記述があり、これから推測でき る。
    新撰姓氏録(平安時代、815年作成)には安曇宿禰は京都居住、安曇連は河内国居住と記されてい る。しかし7世紀頃には阿曇連百足は摂津国難波の浦上に住んでいたこと、また摂津国難波には安曇江 や阿曇寺があったことが分かっており、4~8世紀頃には安曇連は摂津国付近でも活躍していたと考え られる。
  • 安曇犬養連
    『新撰姓氏録』には阿曇犬養連と表記され、綿津見命の三世孫穂己都久命の末裔とされ、居住地は摂津国と記されている。 『古代氏族系譜集成』(同上)によると、海人の宰となった大浜宿禰の次男の末裔に阿曇犬養連がおり、信濃国安曇郡に定着し、穂高神社を奉斎したとある。


    安曇比羅夫(あずみのひらふ)-663年(天智2年)
    7世紀中頃の外交官・武将。舒明期在任中に百済に使者として派遣されていた。

    641年
    舒明天皇の崩御に際し、翌642年百済の弔使をともなって帰国し、その接待役を務めている。
    またこのとき百済の王子翹岐(ぎょうき)を自分の家に迎えている。

    661年
    高句麗が唐の攻撃を受けると、百済を救援するための軍の将軍となり、百済へ派遣される

    662年
    日本へ渡来した百済の王子豊璋に王位を継がせようと水軍170隻を率いて王子とともに百済に渡った。大錦中に任じられた。

    663年
    3月 「白村江の戦い」阿倍比羅夫以下2万7千人を率いて新羅を討たせる。
    8月 阿曇比羅夫 白村江の戦いで戦死
    長野県安曇野市の穂高神社に安曇連比羅夫命として祀られる。
    同神社のお船祭りは毎年9月27日に行われるが、これは安曇比羅夫の命日であるとされる。
  • 日本書紀によると、「百済の使人(つかひ)大仁阿曇連比羅夫(だいにんあずみのむらじひら ふ)、筑紫国より、駅馬(はいま)に乗りて来(まうき)て言(まう)さく、「百済国、天皇 (すめらみこと)崩(かむあが)りましたり聞(うけたまは)りて、弔使(とぶらひ)を奉 遣(たてまだ)せり。臣(やつかれ)、弔使に随ひて、共に筑紫に到れり。而るに臣は葬(み はぶり)に仕(つかえまつ)らむことを望(おも)ふ。故、先ちて独り来り。然も其の国は、 今大きに乱れたり。」とまうす」とある。 続いて、「阿曇山背連比羅夫(あずみやましろのむらじひらふ)・草壁吉士磐金(くさかべの きしいわかね)・倭漢書直県(やまとのあやのふみのあたひあがた)をして百済の弔使の所(も と)に遣わして、彼(そ)の消息(あるかたち)を問はしむ。」とある。 またこの年、「翹岐(げうき)(百済の大使)を召して、阿曇山背連の家に安置(はべ)らしむ」
  • 645 年 大化元年 日本書紀によると、「東国等(あづまのくにぐに)の国司(くにのみこともち)を拝(め)す。 仍(よ)りて国司等に詔して曰(のたま)はく、・・・・」として、国司としての規律につい て指示している。
    その次の年(646 年)にはその規律に対して国司達を評価し、「其の阿曇連が犯せる所は、・・・」 とある。このときの東国国司は 8 人おり、安曇連が其の中の一人である。 なお、東国とはどこを指すのかは定かではないとのこと
  • 662 年(天智元年)
    5 月 「大将軍(おほきいくさのきみ)大錦中阿曇連比邏夫連等、船師(ふないくさ)一百七
    十艘を率て、豊璋等を百済国に送りて、宣勅(みことのり)して、豊璋等を以て其の位
    を継がしむ。」(すでに前年に送って行ったはず?) 663 年(天智 2 年)
    3 月
    6 月
    8 月
    「前将軍(まへのいくさのきみ)上毛野君稚子(かみつけのきみわかこ)・間人連大蓋 (はしひとのむらじおほふた)、中将軍(そひのいくさのきみ)巨勢神前臣訳語(こ せのかむさきのおみをさ)・三輪君根麻呂(みわのきみねまろ)、後将軍(しりへの いくさのきみ)阿部引田臣比邏夫(あへのひけたのおみひらぶ)・大宅臣鎌柄(おほ やけのおみかまつか)を遣わして、二万七千人を率いて、新羅を打たしむ。」
    「前将軍上毛野君稚子(かみつけのきみわかこ)等、新羅の沙鼻岐奴江(さびきぬえ) の二つの城(さし)を取る。」
    百済王豊璋、福信を疑って、斬首する。
    白水江の戦い
  • 笹川尚紀著「信濃の安曇」(『信濃 55(7)』p35-49 信濃史学会 2003.7)
     p527「おわりに」に「信濃国に何故に阿曇部が存在するのかという疑問に対し、阿曇氏と屯倉との繋がりを手掛かりとして、筑摩郡辛犬郷周辺に設置された屯倉の管理・運営に中央から派遣された阿曇氏の者が当たったと想定、その地域との結び付きが深まるに応じて阿曇部が設定されるに及んだとの憶測」が述べられている。

    『歴史を運んだ船 神話・伝説の実証』(茂在寅男著 東海大学出版会 1984)
     p83 「(前略)もともと穂高は南安曇郡にあり、安曇族の移り住んだ土地である。すなわち、海人族の移住の地なのである。日本書紀巻第一には「アワキガハラノミソギハライ」のことが出ている。ここにはツツノオの三神の誕生について記録されており、その三神が住吉大神(すみのえのおおかみ)であることは、そしてこれは阿曇連(あずみのむらじ)らが祭る神であるとして、すでに日本書紀のはじめの方にアズミのことが出ていることを知ることができる。(後略)」とあり。

    また、斉明天皇七年七月に始まった唐・新羅と百済の戦争に派遣された軍の前将軍が「阿曇比羅夫(あずみのひらふ)」との記述あり。「これが白村江(はくすきのえ)で完膚なきまでに大敗する。阿(安)曇連(あずみのむらじ)が一部信州へ移り住むのはその後のことである。そして信州穂高に穂高見神を祭るのであるが、それは延喜5年の延喜式の中にすでにその名が見えている。」
  • 犬の舞 
    玉垂宮、毎年正月十五日社人を集め、天神地祇を奉幣、祭事を奏す。又三韓征伐の神楽を奏す。降人百済氏は犬の面を被り、三韓の王は犬となって、本朝の御門を守る役を勤める。これを犬の舞と言う。新羅、高麗の降人は御帰陣の砌(みぎり)、舟中で死す。何れも三韓の王子也(高良山日記)。
    神功皇后の戦いは三韓攻撃と書かれていますが、
    この時、新羅・高麗・百済の三国の王子を人質として連れて帰ったと解釈できます。

    そして二人は死去。百済王子だけが高良山に連れて来られたということになります。
    そうすると、当時の都は高良山にあったのでしょうか。
  • 信濃の安曇

    仁科濫觴記考(仁科宗一郎著)
    安曇氏滅亡の有様八面大王としての民話の原型がここにある。

    「耳削ぎ終わり、戒めの縄をかけたままで、健夫らに引き立たせ、地頭の面々、警固して三郷村温あたりから梓川(真光寺あたり)を過ぎ、追放地八鬼山に至る。民衆は『これまでは公儀の罪なり、これからは我らが怨みを酬いぞ、天罰と思え』と穴へ突き落とし、石積みにした。民衆の恨みによる私刑であったと伝えている。この地を今は八景山と称する。

    安曇の民を苦しめてきたのは、蝦夷追討の命令が朝廷から下りて、東北地方への食料、馬の拠出、兵役など過酷な徴税に対し、安曇氏の指導者が朝廷の命令に従わず、紛争を助長するような立場に立ったため、朝廷寄りの支配者と入れ替える必要が生じた結末だったと思われる
  • 安曇比羅夫連、阿曇山背比羅夫連、阿倍引田比羅夫臣は同一人物で、北九州の志賀島を根拠地にする海人族安曇氏(阿部氏とも)の当時の長である。安曇磯良(武内宿禰)の子孫で、蘇我氏と同族である。

    皇極天皇(斉明天皇)の引き立てで百済再興に奔走するが、中大兄皇子(後の天智天皇)とは一線を画していた。661年以降、安曇比羅夫が白村江の戦いに大敗し戦死するが、中大兄皇子は大津宮に引きこもっている。
  • 津屋崎の南は綿津見神を奉祭する海人族、阿曇氏の地。筑前では阿部氏と阿曇氏が重なる。「阿部」は阿曇氏の部曲、「阿曇部」とも。

    阿曇氏は応神天皇の頃、海人の宗に任じられた。律令制の下では内膳司の長官を務める。この官は二人で、阿曇氏と高橋氏が任ぜられた。高橋氏は阿部氏の一族で、阿部は「饗(あへ)」から来ているともいわれる
  • October 2018 編集されました
    阿曇比羅夫を探すと、意外にもあの穂高神社の祭神になっていた。

    <御船祭
    例大祭は「御船祭」と呼ばれ、毎年9月26日・27日に行われる。
    高さ6m・長さ12mにもなる大きな船形の山車(だし)「御船(おふね)」を
    ぶつけ合う勇壮な祭で、長野県指定無形民俗文化財に指定されている。

    なお26日は神事のみで、本祭りは27日である。
    9月27日は天智天皇2年(663年)の白村江の戦いで戦死したという
    安曇比羅夫の命日と伝えられている。>


    阿曇=安曇 
    阿曇比羅夫はやはり百済に留まり、白村江の戦いで戦死していた。
    そして、その命日を穂高神社では御船祭として毎年祀っていたのだ。

    安曇野で祀られている阿曇比羅夫。
    死んだ後、彼がどのような経緯で長野に祀られるようになったのかは分からない。
    彼は日本を守って命を落とした武将だった。
  • 3~4世紀まで松本盆地は大きな湖でした。湖に住む諏訪大明神(タケミナカタ)の化身である犀龍(女の龍)と、東の高梨に住む白龍王が結ばれ泉小太郎が生まれます。この子は人間の子として育ってほしいと犀龍は息子を村の老夫婦に預け、自身は身を隠します。小太郎の脇腹には鱗紋があり、魚のようにスイスイ泳ぎます。成長した小太郎は自分が龍の子であることを知り、母を探す旅に出ます。旅の中で、この湖の水を引けば平地ができ、貧しい村人たちが田畑を作って豊かになることを知り、再開した母の犀龍に相談します。母はこの湖がなくなれば自分が住むところを失うことを承知で小太郎を背に乗せ、私の目となりなさいと言って自身の躰を湖岸に打ち付け、赤い血を流しながら何日もかけて岩盤を突き破り、湖水が日本海へと流れ出るようにします。その時できた川が犀川(さいがわ)です。水は犀川から千曲川へ流れ込み、越後の海へと注がれます。やがてすべての水が引くと豊かな平野が現れました。力尽きくずおれた犀龍の躰に小太郎の涙がぽろぽろとこぼれ落ちると、犀龍は人間の姿へと生まれ変わりました。

    安曇平の歴史を平安初期から記録しているという仁科濫觴記によると、大昔に松本盆地を排水、開拓した功労者である白水光郎(あまひかるこ)の名前を、のちに書き誤って泉小太郎と伝わったようなのです。白水を泉、光を小太と読み間違えたのだとか。

    白水郎とは九州の海人(あま)のことです。そして志賀海神社は龍の都。白龍王とは安曇です。
  • 高橋氏と阿曇氏は神事の際の行立の前後を争ってしばしば対立し、ついに延暦十年(791)十一月新嘗の日に奉膳安曇宿禰継成は高橋氏を先と定められたことを不満として詔旨に従わず退出したため、翌年三月佐渡に流され、以後安曇氏は内膳司における地位を失った。私見では持統天皇五年(691)十八氏に「墓記」の上進を命ぜられたが、その中の膳部氏と阿曇氏は膳職で、「日本書紀」応神天皇三年十一月条の阿曇連の祖大浜宿禰や白村江の戦いに出撃し戦死した阿曇連比羅夫は九州の人で膳職の阿曇氏とは直接関係がないのではないか。もっとも、阿曇比羅夫は本邸も奈良にあったようで九州の人がどうして奈良に自宅を持つのだ、と言われれば弱いのであるが。膳職の膳部氏も阿曇氏も元々は摂津国の人で大伴氏の徴兵あるいは推薦で炊事担当者として従軍していたのではないか。但し、奈良県橿原市膳夫町があり、膳部氏は元々奈良県出身ではないかという意見が出るだろう。一方、安曇氏は奈良県桜井市阿部の阿部が安曇の転訛という人もいるが信じがたい。
  • 阿曇族の祭神には、
    綿津見神=海。 
    穂高見=農業。 
    宇都志日金拆命=鉱業。
    の三つがある。 
    名古屋は、綿津見神であり、漁業、海上交通の要所てして存在
    していたのだろう。海人族の活躍の記録は殆んどない。 
    近畿地区の天皇家に関わった氏族だけである。 
    その中では、阿曇氏が一番多い氏族である。
    それでも考察するのには少な過ぎる。

    天皇家の熱田神宮は志賀地の南であり、当時は海であっただろう。
    阿曇族の活躍時期に比べると、新しい歴史の場である。
    記録には全くないが、想像以上に大きな勢力として存在していたと思われる。

    「渥美半島」の語源は、間違いなく「阿曇半島」である。
    阿曇族としての、第三の故郷でもある。
  • 琵琶湖西岸の「安曇川」は、「アドガワ」と呼ばれ、近畿阿曇氏の氏寺とする
    大阪高麗橋付近の「安曇江」は、「アドエ」と発音されている
  • 安曇氏の「大栲」に対し、凡海氏の「小栲」は、互いに対応している。

    しかし、「本朝月令」によれば、「乙等遠祖大栲成吹始奉、御膳」とあり、安曇氏の祖名は「大栲成」と思われ「乙等が遠祖大栲成、火を吹き、始めて御膳を奉る」と訳すべきではないだろうか。

    万葉集巻十六には、「梨」の訓仮名に「成」の字を当てている。
    「大栲成」は、「大栲梨」と同じ意にとることができ、凡海氏の祖名「小栲梨」と完全に対をなす
    ことになる。 
    「栲縄」に由来する名が、海人を管掌した安曇氏や凡海部などの祖名に、相応しいと思う。
  • 履中の逃亡の話に戻ります。
     『古事記』にはありませんが、書紀では安曇氏が住吉仲皇子の味方として登場します。
    則更還之、發當縣兵令從身、自龍田山踰之、時有數十人執兵追來、太子遠望之曰「其彼來者誰人也、何步行急之、若賊人乎。」因隱山中而待之、近則遣一人問曰「曷人。且何處往矣。」對曰「淡路野嶋之海人也、阿曇連濱子一云阿曇連黑友。爲仲皇子、令追太子。」於是、出伏兵圍之、悉得捕。當是時、倭直吾子籠、素好仲皇子、預知其謀、密聚精兵數百於攪食栗林、爲仲皇子將拒太子。時太子、不知兵塞而出山行數里、兵衆多塞、不得進行。
    仁徳死去に伴い、住吉仲皇子は、同母の兄である太子の履中を殺そうとします。この記事によれば、その際に住吉仲皇子の行動に呼応して逃げる太子を追う者がいました。その人は「淡路野嶋の海人なり。阿曇連浜子(阿曇連黒友ともいう)」とあります。

     淡路野嶋は、通説では淡路島(現・兵庫県淡路市野島常盤)とされます
  • 薄葬令発布
    『信濃古代史考 (大和岩雄)名著出版、平成 2 年』は、『播磨国風土記』のなかに孝徳天皇 のとき、「是の里の中に百便(ももたり)の野ありて、百枝の稲生ひき。即ち、阿曇連百足(も もたり)、仍りて其の稲を取りて献(たてまつ)りき。その時、天皇、勅(の)りたまひしく、 「此の野を墾(は)りて、田を作るべし」とののたまひき。乃(すなわ)ち、阿曇連太牟(た む)を遣(や)りて、石海の人夫(よぼろ)を召して、墾(は)らしめき。故、野を名づけ て百便といひ、村を石海と号(なづ)く」と記載されていると指摘している。 そして、「阿曇連百足は摂津から播磨国へ移住して浦上の地に居住し、揖保川下流域の石海を 開拓した。これは、日光泉小太郎や小泉小太郎が湖を干拓した伝承と関係があり、阿曇連百 足が伝説化して神の子小太郎になったといえる」と为張している。
    660 年 日本書紀によると、「淳足柵(ぬたりのき)、磐舟柵(いわふねのき)を造り、蝦夷に備(そ な)ふ」とある。
  • 阿波の名方郡に安曇氏の一族がいたこ
    その『日本三代実録』貞観六年八月八日の記事には、

     「阿波国名方郡の人安曇部正六位上安曇部粟麻呂、部の字を去りて宿禰を賜う。自ら言う、
    安曇百足の苗裔なり」

    と、あります。
     内容は前回にふれたように、名方郡の安曇部粟麻呂が宿禰の姓を賜わった、という記事で
    すが、それに続いて、安曇部粟麻呂が安曇百足の子孫を称していたというこも記されています。
    安曇百足は『播磨国風土記』揖保郡浦上の里の条に、

     「浦上と名づけられたのは、昔、安曇連百足らが、はじめ難波の浦上にいたものを、後に
    この浦上に移って来た時に、元いた土地の名を付けたものである」

    と、書かれています。
     そして、この記事によれば、安曇氏の本宗である安曇連が難波(なにわ)の地にいたことに
    なるのです。
     難波は言うまでもなく現在の大阪市のことですが、この当時の大阪市は、上町台地をのぞいて
    大阪湾の海の下にあり、それが徐々に陸地化していく時期にありました。
     『播磨国風土記』にある難波の浦上が現在のどの場所であるのかよくわかりませんが、大阪市
    の東横堀川沿いの旧地名に安曇江があり、それと、かつて難波には安曇寺が存在しました。
     安曇寺の所在地についても諸説ありますが、そのひとつが高麗橋です。
     東横堀川も高麗橋も大阪城の西側にあり、つまり、この周辺が難波における安曇氏の拠点に
    推定されることになります。

     ただし、『新撰姓氏録』では、摂津に安曇連と安曇宿禰の名は見えず、代わりに安曇犬飼連が
    載っているので、難波にいたのは安曇氏ではなく安曇犬飼氏だった可能性もあります。
     安曇犬飼は、安曇連ゆかりの穂高神社にも関係していた氏族で、このことは、中世の文献に犬飼
    の名が見えるからなのですが、安曇氏も綿津見系の氏族だから、安曇氏と安曇犬飼氏は同族ないし
    非常に近い間柄だったとも推測できなくもありません。
  • 『古事記』
    誕生した三神の底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神を「綿津見神」と総称し、「阿曇連(あずみのむらじ)らが祖神ともちいつく神なり」と記す。

    『日本書紀』
    「生めりし海神等を少童命と号す」と述べたのち、誕生した三神の底津少童命・中津少童命・表津少童命について「阿曇連らがいつきまつる神なり」と記す。

    ワタツミ三神は記紀においては阿曇氏(あずみうじ/あづみうじ、安曇氏・阿曇族・安曇族)の祖神または奉斎神とされている。阿曇氏の読み「アズミ/アヅミ」もまた「アマツミ(海津見)」の略とも見られるように、この神を奉斎する阿曇氏は海人集団を管掌する伴造氏族であった。

    『先代旧事本紀』では、同じく神産みの段で「少童三神、阿曇連等斎祀、筑紫斯香神」と記されており、「筑紫斯香神(つくしのしかのかみ)」の名で志賀海神社が氏神に挙げられている
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