安曇、綿津見、志賀海神社

December 2018 編集されました カテゴリ: 九州
image安曇、綿津見、志賀海神社

わあ海神社の総本社、志賀海神社(しかうみじんじゃ) 福岡県福岡市東区志賀島にある神社。式内社(名神大社)。旧社…

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  • 志賀海神社の「志賀海大明神」
    『八幡愚童訓』に記されるのが安曇磯武良(あずみのいそたけら)。

    安曇磯武良は安曇磯良(あずみのいそら)ともいいますが、『太平記』でもやはり
    神として描かれています。伝承では、神功皇后が三韓に出兵する時に、対馬の琴崎(きんざき)の海辺で軍船の碇が沈んで上がらなくなったのを、安曇磯武良が潜って引き上げたといい
    ます。神功皇后の朝鮮遠征に関わるところなどから、安曇磯武良は磯鹿の海人名草と重なります。

    大阪府茨木市の磯良神社
    磯良は磯良大神として祀られています。
    礒良神社は別名を疣水神社(いぼみず神社)といい、やはり神功皇后にまつわる伝承が残されています。
    神功皇后が三韓に出兵する時にこの神社から湧く「玉の井」で顔を洗うと、疣や吹き出物ができて、醜く男のような顔になったが、無事に出兵を終えて再びここの玉の井で顔を洗うと元の美しい顔に戻った、という。

    『播磨国風土記』の揖保郡の項には、安曇連百足が難波から揖保郡浦上の里に移って来たという記事がありますが、谷川健一(『青銅の神の足跡』)は、疣は播磨国の揖保郡(いぼ郡)に通じる、とします。

    同じ三島郡の高槻市には三島鴨神社が鎮座します。
    「伊予国風土記逸文」によれば、大山祇神社の祭神、大山祇(大山積)は、摂津三島より遷ってきた、といいます。
    『播磨国風土記』の揖保郡の興味深い説話
     それが大田の里の伝承で、
    「大田というのは、昔、呉の勝(すぐり)が韓国より渡来して来て、最初は紀伊の名草郡大田の村にいたが、その後枝分かれして摂津の三島の賀美郡大田の村に移ってきた。vそれが、今度は揖保郡の大田の村に移って来た。大田というのは元は紀伊の大田の地名が由来である」
    と、あります。摂津の三島の大田とは、茨木市太田とされています
  • May 2016 編集されました
    綿積豊玉彦─振魂─武位起─椎根津彦─志麻津見─武速持─邇支倍─飯手─御物─市磯長尾市

    ウツヒコと同一人物なのかもしれない。『記・紀』などでホノススミのことを「隼人等が始祖なり」、「吾田君小椅等の本祖なり」、「隼人阿多君の祖」、「大角(大隅)隼人、出自火闌降命後也」などと記されていることや、海幸彦と言う別名から、九州南部の海洋民族と親密な関係であったことが伺われる。ホノススミの子のウツヒコが九州南部に住みつき、海神等と同化していても不思議はない。

    椎根津彦神社
    大分県北海部郡佐賀関町大字関。 
    祭神:椎根津彦命、武位起命、稻飯命、祥持姫命、稚草根命

    合祀の武位起命は彦火々出見命の御子、鵜草葦不合尊の御昆弟で椎根津彦命の御父。稻飯命は鵜草葦不合尊の御子で神武天皇の御兄。祥持姫命は椎根津彦命の御姉で稻飯命の御妃。稚草根命は稻飯命、祥持姫命の御子と伝えられ合祀の年代は詳らかでない。
  • 綿津見
    市磯長尾市(いちしのながおち)は生没年不詳。「日本書紀」に伝わる古代日本の人物です。

    倭直(倭氏)の遠祖で倭大国魂神の起源譚で知られ、「日本書紀」崇神天皇7年 8月 7日条によると、倭迹速神浅茅原目妙姫(倭迹迹日百襲姫命)・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君ら3人は同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にすると必ず天下太平になると夢告があったと天皇に奏上し、崇神天皇7年 11月 8日、夢告の通りに大田田根子と長尾市とに祀らせると、疫病は収まって国内は鎮まったとされます。

    「日本書紀」によれば、元々倭大国魂神は天照大神とともに大殿に祀られていたが、世の中が乱れ謀反を起こすなどするのは両神の勢いだと畏れられた。
    そのため崇神天皇6年、倭大国魂神を皇女渟名城入姫を斎主として祀らせたが、淳名城入姫は髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなった。
    崇神天皇7年、倭迹迹日百襲媛命が夢で「市磯長尾市をもって、倭大国魂神を祭る主とせば、必ず天下太平ぎなむ」との神託を受けた。
    また同年11月にも同じようなことが起こり、大倭直の祖・市磯長尾市(いちしのながおち)を祭主として、神地が定められ鎮座・創建された。
  • 崇神天皇七年に倭大国魂神社の神主とされ、祭祀を行った市磯長尾市(いちしのながをち)の旧跡は讃岐の長尾寺であると伝わります。
    天長2年(825年)、唐より帰朝した弘法大師によって霊場と定められ、幾度かの兵火により堂宇は失われましたが、その都度歴代藩主によって再建されています
  • 市磯長尾市は崇神紀七年条に「長尾市宿禰」として出てくる。同様の記事が垂仁紀二六年条にあり、これは「市磯長尾市」と書く。この二ヶ所の記事は事実上同一記事とみられ、長尾市宿禰と市磯長尾市も同一人物である。

    垂仁紀二六年条、市磯長尾市を大国魂神の祭司とした由緒は

    「倭大神」が「穂積臣の遠祖大水口宿禰に著って」こういったという。
    「太初之時、期(ちぎ)りて曰く『天照大神は悉に天原を治さむ。皇御孫尊(大王)は葦原中国の八十魂神を治さむ。我は親(みずか)ら大地司を治さむ』とのたまふ。言すでに訖(おわ)りぬ。然るに先皇御間城天皇、神祇を祭祀りたまふと雖も、微細しくは未だ其の源根を探りたまはずして、粗に枝葉に留めたまへり。故、其の天皇命短し。ここを以って、今汝御孫尊、先皇の不及を悔いて慎み祭ひまつりたまはば、汝尊の寿命延長く、また天下太平がむ」

    「葦原中国」は大国主が天孫に譲った国である。大和にあっては当然、大国主の幸魂・奇魂という大物主の主宰地をいうであろう。磯城の地である。その支配地があればそれをもいうかも知れない。一方「大地(おおつち)」はその範疇以外の国をいうのであるから、磯城と磯城の版図はこれを除くのである。「司」はむろん「八十魂神」と同義であろう。
     実に意味深長である。誰かが大王氏と最初にある種の契約を行なったかのように読める。契約の内容も領有地についての相互の約束事であるらしい。そして崇神はその約束を破棄してその土地を奪い、そのために命を縮めるにいたった。垂仁はこれをもって改めて契約の施行を求められている。さもないと垂仁の命も永くはないと脅されている。

     文脈からすれば契約した大王は神武である。そして神武とのあいだで交わしたこの契約が、後の大倭氏市磯長尾市にとって祖たる人物の時代にあったというのだから、契約した氏族の首長は椎根津彦にほかならない。
     椎根津彦以外の氏族がありえるかどうかは、一応考えてみるべきであるが、契約の内容からしてこの候補は、当時の大族とみられる磯城葉江宗家氏・長髓彦氏・椎根津彦氏くらいの三者しかない。
  • May 2016 編集されました
     椎根津彦は速吸門から神武に従った「海導人」であった。
    神武が椎根津彦に出あったとき、
     古事記は「亀の甲に乗り、釣りしつつ羽挙き来る人、速吸門に偶いき」と語っている。 

    「汝は誰ぞ」と問ひたまえば、「僕は国つ神ぞ」と答へ曰しき。
    また「汝は海道を知れりや」と問ひたまへば、「能く知れり」と答へ曰しき。
    また「従に仕へ奉らむや」と問ひたまえば、「仕へ奉らむ」と答へ曰しき。

    椎根津彦は、熊野に上陸してからも軍将の一人として活躍している。磐余の兄磯城を攻めるときも、神武の命で弟猾と敵軍中を潜入し香久山の土をとって奉じた。神武はこの土で平瓮をつくり、これを祀って軍を進めたのである。この進軍も椎根津彦の参謀によったという。

    神武の論功行賞
    椎根津彦を倭国造とした。
    同時に国造となった葛城の剣根
    そして弟猾が宇陀の県主になり
    大伴氏と久米氏がいずれも畝傍の周辺に領地をもらったという。
  • May 2016 編集されました
    新撰姓氏録

     大和宿禰。神知津彦命より出る也。神日本磐余彦天皇日向国より大和国に向い、速吸門に到るとき時・・・・・即ちひきて皇船に入れて海導と為し給う。仍って神知津彦(一名椎根津彦)と号く。能く軍機の策を宣しければ、天皇之を嘉し給い、大倭国造に任じ給う。是れ大倭(宿禰)の始祖也。

     神知津彦というのである

     書紀・古事記をみると「安寧第三子磯城津彦に二柱ありて、一柱は伊賀・三野の稲置の祖、一柱は和知都美といい淡路宮に坐す。その子二柱ありて蝿某姉・蝿某弟という」とある。この「和知都美」の名こそ倭知津美すなわち知津彦に違いないと思う。中原氏系図がその元十市氏の祖を安寧第三子磯城津彦の後というのは、すなわち書紀のこの記事に符合するのである。
     これが安寧第三子という一点を除いて、かつ磯城津彦の表示も含めて正確と思うのは、ほかならぬ蝿某姉・蝿某弟の姉妹の亦名を、書紀が「倭国香とその弟」といい、古事記も「意富夜痲登玖邇阿禮比売」と記録するためである。大倭は大倭氏すなわち椎根津彦氏にほかならない。
     ちなみに蝿某姉・蝿某弟の名は葉江に由来する。そもそも子の諱はその産土に由来する。すなわちこの姉妹は椎根津彦が磯城の宗家葉江の妹を娶ってこれを生んだのである。
     珍彦・椎根津彦・槁根津日子・神知津彦・和知都美が同一人物であり、倭国造であるという
  • 志貴御県坐神社
     奈良県桜井市金屋896
    【祭神】大己貴命
       『神道大辞典』天津饒速日命
       『大和志料』「御県の霊」
    【社格】旧村社 大和国の六つの御県の一つ
    【由緒】天平2年(730)神戸の租を神祭料とした『正倉院文書』
           大同元年(806)神封二戸『新抄格勅符抄』
           貞観元年(859)従五位上『三代実録』
           明治40年(1907)村社
    【関係氏族】志貴県主
    【境内社】春日神社・琴平神社・嚴島神社

    後世の磯城の地には、三輪氏と磯城県主家が残っていたが、三輪氏は河内出自の大田田根子の後裔、磯城県主家もまた後述するように磯城の葉江宗家の後ではなく饒速日氏の後裔であった。

    大神神社(境内?)から東南
    日向神社・志貴御県坐神社は神社というよりは崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)があったであろう場所としての方がわかりやすい

    ご祭神は一応現在はオオナムチとありますが諸説あります

    磯城郡史などでは天津饒速日命(アマツニギハヤヒノミコト)とあったりします

    大和志料には御県(ミアガタ)の霊とあります
    神武天皇が東征したときに出てくる大和の豪族に兄磯城(エシキ)・弟磯城(オトシキ)がいてまして日本書紀(神武紀)に「弟磯城・名は黒速(クロハヤ)を磯城県主とす」
    旧事本紀(国造本紀)に「志貴県主の兄磯城を誅(つみな)ふ 弟磯城を以て志貴県主と為(な)す」

    旧事本紀天孫本紀には、物部祖伊香色雄が磯城の女真鳥媛を娶って一子を生んだとある。それがその後を伝世した磯城県主家である。後世の磯城県主家も饒速日の後裔を標榜している。
     さらに河内にも志紀県主があった。志紀郡にて志貴御県坐神社を祀る。これもしかしその祖を磯城県主とするのではない。大田田根子とするのでもない。祖を多氏とおなじく神八井とする。
  • May 2016 編集されました
    安曇族の発祥地は、筑前国糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東部)とされる。

    安曇族(阿曇族)の存在を示すアズミの地名は、九州から山形縣まで、16ヶ所ほどある。
    金印が奴国の王墓でなく、安曇族の拠点といわれる志賀島で出土したことから、安曇族は奴国の有力な氏族だったことがうかがわれる。
    志賀島の志賀海神社には阿曇磯良が祀られており、筑紫舞の祖といわれている。
    日本書紀によると、安曇族の始祖、安曇大浜宿禰が273年海人の宰に任命され、海人たちの統率者となった。この時期は安曇族の初期全盛期であったといえる。
    {大浜宿禰は応神天皇3年各地の海人(あま)がさわいで命にしたがわなかったのをしずめた­という。以後海人の統率者となった。福岡市の海の中道北端に大岳丘陵があり, ここには、筑前風土記逸文に出てくる大浜宿禰を祀る大嶽神社が鎮座している。)
    海の中道の先端の志賀島の志賀海神社には、阿曇磯良宿根が祀られており、筑紫舞の祖といわれている。その境内から海の中道塩屋崎・新宮・津屋崎方面の海がみえる。

    日本書紀によると、その後401年に履中天皇の即位問題にからみ、阿曇連浜子が住吉仲皇子のクーデタに加担して捕らえられ、罰せられた。この事件以後の約200年間は中央政治の舞台からは姿をけして、安曇族の衰退期となる。
    推古天皇の時代になると、蘇我氏との結びつきが強くなり、日本書紀でも、多くの安曇族人が登場して膳部や法頭として活躍する。第2の全盛期で、特に阿曇比羅夫が外交官として大活躍する時代である。この頃の安曇族の活躍拠点は北部九州から近畿地方にうつっている。
    {安曇 比羅夫(あずみ の ひらふ)は、7世紀中頃の外交官・武将。舒明天皇在任中に百済に使者として派遣されていたが、641年舒明天皇の崩御に際し、翌642年百済の弔使をともなって帰国し、その接待役を務めている。またこのとき百済の王子翹岐を自分の家に迎えている。
    661年高句麗が唐の攻撃を受けると、百済を救援するための軍の将軍となり、百済に渡っている。翌662年日本へ渡来した百済の王子豊璋に王位を継がせようと水軍170隻を率いて王子とともに百済に渡り、大錦中に任じられた。
    663年8月27-28日の白村江の戦いで戦死したとされる。
    長野県安曇野市の穂高神社に安曇連比羅夫命として祀られる。同神社のお船祭りは毎年9月27日に行われるが、これは安曇比羅夫の命日であるとされる。

    安曇族の活躍はその後も続くが、桓武天皇の792年に安曇宿禰継成が佐渡に流罪となり、以後は中央政界から姿をけしてしまう。

    宗像大社との縁は古くから深い。
    『日本書紀』天武天皇二年(673)に「次に胸形君徳善が女尼子娘を納して、高市皇子命を生しませり」とあって、この古墳に埋葬されているのは徳善だろうという説が有力であった。これが安曇族と宗像族の縁を示す一例であろう。
    宗像族は朝臣、安曇族は宿禰の冠位だったが、日本書紀には安曇族のほうが多く記載されている。

    磐井の乱の敗戦で九州を追われ、ヒスイのルートを経て信州に定住した。信州での安曇の名前は650年頃の大和の文献ではじめてみられるという。
  • May 2016 編集されました
    安曇族

    477 右京 神別 地祇 安曇宿祢 宿祢   海神綿積豊玉彦神子穂高見命之後也
    478 右京 神別 地祇 海犬養     海神綿積命之後也     236
    479 右京 神別 地祇 凡海連 連   同神男穂高見命之後也     236
    678 河内国 神別 地祇 安曇連 連   綿積神命児穂高見命之後也
    611 摂津国 神別 地祇 阿曇犬養連 連   海神大和多羅命三世孫穂己都久命之後也  
    610 摂津国 神別 地祇 凡海連 連 安曇宿祢同祖 綿積命六世孫小栲梨命之後也

    宗像族

    476 右京 神別 地祇 宗形朝臣 朝臣 大神朝臣同祖 吾田片隅命之後也     235
    677 河内国 神別 地祇 宗形君     大国主命六世孫吾田片隅命之後也

    素盞鳴尊八世孫、和邇君の租神。大国主神の六世の孫裔ともいう
    宗像三女神の七代孫とする説もあり、 「新撰姓氏録」では「宗形朝臣、大神朝臣同祖、吾田片隅命之後也」とあり、宗形朝臣の祖。大神朝臣の祖。
  • 天語歌
    阿波国の阿曇系の海人部によって伝承されたとされる「天(海人)語歌」は、「纏向の日代の宮は…」で始まるが、これは12代景行天皇の宮殿のことである
    安曇連百足 :穂高見命の9世孫
    「風土記」によれば、「肥前国~松浦郡・値嘉の郷~」に、息長氏系の12代景行天皇が西国を鎮撫巡行した時の「御付人」として登場し、値嘉島へ偵察に出るなど活躍を見せる。

    本来この歌の「纏向の日代の宮」は景行天皇の皇居であり景行天皇への讃歌であったのが、雄略天皇の物語に採用されたのである。
    そして本来この歌謡を伝承していたのは、阿波国の安曇系の海人部であろうと述べている。

    <古事記 下巻 雄略天皇 六より>
    纏向の日代の宮は 朝日の日照る宮 夕日の日がける宮
    竹の根の根垂る宮 木の根の根ばふ宮
    八百土よし い築きの宮
    真木さく桧の御門 新嘗屋に生ひ立てる 百足る槻が枝は
    上つ枝は天を覆へり 中つ枝は東を覆へり 下つ枝は鄙を覆へり
    上つ枝の枝の末葉は 中つ枝に落ち触らばへ
    中つ枝の枝の末葉は 下つ枝に落ち触らばへ
    下つ枝の枝の末葉は あり衣の三重の子が指挙がせる
    瑞玉盞に浮きし脂 落ちなづさひ 水こをろこをろに
    こしもあやかしこし 高光る日の御子
    事の語る言も 是をば
    (一〇〇・伊勢国の三重の采女)

    この歌は、服属儀礼歌という事だそうだ。
    雄略天皇の段に入っているが、景行天皇時に、阿雲百足が隼人討伐に加担した為、その頃から伝承されてきたのだろう、としている。

    阿雲氏の系図を見ると、<阿雲犬養氏>という苗字になるのは、百足から5代あとの倉海という人だ。
    阿雲犬養・倉海の息子は、穂高神社社家となっていて信州にいる。

    崇神天皇擁立に成功したのが350頃とすると(崇神没年は378年)、
    百足がこの頃の人と考えると、雄略天皇まで(雄略没489年)を1世代27.5で割るとちょうど5世代くらい。

    阿雲氏が雄略天皇に服属の歌を贈ったのは、本当の事で、九州の地を追われて長野に移住させられたのはまさにこの時ではないか、という仮説は????

    阿雲氏と天日矛の関係は、百足と景行天皇の時(380年頃)は一緒に隼人を討伐したりして良好だったが、雄略朝4(75頃)にいたってはそうではなくなく、服属する事になったのではないでしょうか。
    出典 http://ameblo.jp/oyasumipon/entry-11947907545.html
  • June 2017 編集されました
    志賀海(しかうみ)神社(福岡県福岡市東区志賀島877)

    祭神:伊邪那岐命の禊祓によって出生した底津綿津見神・仲津綿津見神、表津綿津見神の綿津見三神を祀るとありますが、海が見渡せる小高い山の上にある。

    摂社 今宮社
    祭神:綿津見神の子で阿雲連等の祖である宇都志日金拆命(うつしひかなさくのみこと)、住吉三神、天児屋根命

    「拆」は信濃の佐久郡を意味し、信濃国更級郡の氷銫斗賣(ひかなとめ、ひがのとめ)神社の氷銫と関連があるらしい。

    同じく綿津見神の御子で安曇宿禰の祖である穂高見命と同神とする説がある。

     現地説明板より
    『 摂社 今宮神社
     御祭神 宇都志日金拆命・住吉三神・天兒屋根命・阿曇磯良丸をはじめ神孫阿曇諸神
    御神徳 盗難除け・航海船舶の安全・出世開運・合格
    御由緒
     「古事記」に「此の三柱の綿津見の神は阿曇の連等が祖神と以ちいつく神なり。かれ、阿曇の連等は、その綿津見の神の子、宇都志日金拆命の子孫なり。」 と記され、綿津見三神を奉祭するのは宇都志日金拆命の子孫である阿曇家となっている。当社は代々阿曇家が宮司を奉職しており阿曇家の祖神である宇都志日金拆命は綿津見三神に仕える者の祖神として奉祀されている。
     また、神功皇后三韓出兵の際に出現された阿曇磯良丸命は当地龍宮にて干珠満珠を借り賜って海上指揮に仕えたと伝えられている。 
  • 大神神社末社
    金拆社  宇都志日金拆命
    天宮社  天日方奇日方命
    神室社  靇神
    大峯社  大山祇命

    對馬嶋上縣郡 胡簶神社
    對馬嶋上縣郡 胡簶御子神社
    對馬嶋上縣郡 和多都美御子神社 名神大
    旧村社

    古事記によれば
    此三柱綿津見神者、阿曇連等之祖神以伊都久神也。【伊以下三字以音。下效此。】 故阿曇連等者、其綿津見神之子宇都志日金拆命之子孫也。【宇都志三字以音。】 其底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命三柱神者、墨江之三前大神也。


    御祭神
    表津少童命 中津少童命 底津少童命 太田命
    宇都志日金折命 豊玉彦命 『大小神社帳』
    長崎県対馬市にある。上対馬の東側(日本海側)の琴に鎮座。琴の港から山を越えた場所にある琴崎の先に境内がある。
  • June 2017 編集されました
    宇豆貴神社
    【住所】京都府与謝郡与謝野町与謝510
    【祭神】伊邪那岐命 宇都志日金拆命

    天のはしごが倒れたという伝説の天の橋立の西側の内海を阿蘇の海といい、東側の海を与謝の海という。
    『枕草子』を書いた清少納言は、「海は水うみ。与謝の海」と詠じているが、清少納言もまた丹後にきてこの海に感動したのであろう。
    かつて、与謝郡といえば、伊根町、野田川町、加悦町、岩滝町であったが、伊根町を除く三町が合併し、与謝野町となっている。与謝蕪村は、母が与謝村の出身だったことに由来する。また、与謝野礼厳の子が、与謝野鉄幹でその妻が与謝野晶子である。
    与謝の地名については、藤原宮出土木簡に「与射評」がある。
    旧加悦町旧野田川町のあたりは通称加悦谷といい、縄文、弥生の遺跡が集中するところである。旧与謝郡四町の全体で遺跡や古墳が一八〇ヶ所あるとしたら、この加悦谷に、その大半約一五〇ヶ所をしめるという。(『京都府の地名』)
    そこには、日吉ヶ丘遺跡、蛭子山古墳、明石須代遺跡などがある。また、この加悦谷の奥に与謝村があり、その小字宇豆貴(うずき)にある式内社宇豆貴神社には、海人族が祀られているという。こうしたところを見ると、古くから海人族がこの地に入り、栄えていたことがわかる。

    与謝という地名はどこからきたのであろうか。

    吉田東伍氏の『大日本地名辞書』には、「與謝は和名抄與佐と注し、七郷に分かつ雄略紀丹波国餘社郡、顕宗紀丹波国余社郡に作る、又吉佐に作る。
    倭姫命世記ならびに神皇正統記に、崇神帝の時、天照大神を吉佐(よさ)宮に遷幸なしし由見ゆ、惟ふに與謝はもと海湾の名にして、之を陸上に廣及し、今の丹後の域内皆與謝の名に總へられしごとし、國郡制定の際五郡に分ちぬ」とある。

    江戸時代には「臼木大明神」と称したという。もと「平ノ神社」と称し平に鎮座していたのを安政2年(1855)現在地に再建したと伝える。金屋のうつ山寺とか浮木山三縁寺とか、このあたりはこうした地名があったのではなかろうか。
    『丹後旧事記』

    したがって、元々は地神と思われる臼木大明神=宇都志日金拆命だったのであろう。
    古代の山陰道から宮津を通る支道の丹後道は、今の国道筋とは違っていて、赤石ヶ岳と大江山の鞍部を南北に越えたといい、勾金駅は小字山河、シノ町地区にあったと伝えている。
  • June 2017 編集されました
    『丹後史料叢書』の『丹後風土記』殘缼には、「與佐郡 本字 匏」とある。與佐のもとの字は「匏」、これは「ひさご」と読み、ひょうたんのことである。
    このようにみてみると、「よさ」とは、「あまのよさつら」というイザナミが最後に生んだ神の名前で、「天の良いひさごの神」ということになる。
    与謝の名は、イザナミノミコトが最後に生んだ神の名で、それは、「ひさご=ひょうたん」ということだ。

    『日本書紀』には次のようにある。

    「伊弉冉尊、火産霊を生む時に、子の為に焦かれて、神退りましぬ。その神退りまさむとする時に、則ち、水神罔象女、及び土神埴山姫を生み、又、天吉葛を生みたまふ。天吉葛、此れをば、阿摩能與佐圖羅(あまのよさづら)という。一に云はく、與會豆羅といふ」

    ここからは、イザナミノミコトが最後に生んだ神が、天吉葛(あめのよさつら)という神であることがわかる。吉葛とは、「吉シツラ」で、「美し国」のように、形容詞の終止形から体言に連なる語法である。「ツラ」とは、蔓類を表している。良い蔓類の植物とはなんだろうか。ーー> ひょうたんです
  • 神奈川
    子之神社
    綿津見命は当神社の摂社・龍神社の祭神です。このやしろには、相殿として、歴代宮司、氏子信徒の
    祖霊も併せて祭られています。由緒の中で、綿津見命、当神社の場合「海住神(わだずみのかみ)」が、氏子の祖霊と言うことではありません。ただ、当神社の始まりは、竜王、妃、 王子が、当地を開拓し、その霊地が、真鶴岬の三石であります(由緒)。
    祭神の 変遷は、いずこの神社でもありますことでして、当神社も長い歴史の中で、現在の祭神へと移り変わり、 本来の祭神は、摂社に祭祀されているわけです。
    安曇族の祖神である、安曇磯良は、太平記にのみその名が出 てくる神であり、神功皇后の三韓征伐の折に、皇后に、塩満珠、塩干珠を献上し、戦を勝利に導いたこ とから、志賀海大明神として祭祀され、また鹿島神宮、春日大社も、本来の祭神は、この安曇磯良であ ったことが、太平記の記述から判断されるわけです。

    また安曇磯良は、古事記、日本書紀などには出ていずに、綿津見命が、磯良に当たるこ と、また住吉大神も、同じ性格を持つ神と言われています。
    安曇族は、全国にその勢力を持ち、当神社 の隣町であります、「熱海」も、安曇族と関連する土地です。私(穂積宮司)の推測もありますが、伊豆山神社は、 この関連のやしろであり、ここから、先程の三石が見えるわけで、平安の末に、ここの権律師であった、 阿多見聖範と言う人物は、この名前、また職掌からも、安曇族の末裔であり、当地における安曇族の長 の家系であったと思うのです。
    彼の孫が、あの北条時政です。北条家の三つ鱗の紋は、その神話に大蛇 伝説があり、また伊豆山から見る三石を意識したものと思うのです。
    古代海洋民族は、星を見ながら移 動しました。その星の中で、聖なる星座が、オリオン座であり、安曇族も、これを重んじたのが、新し いところでは、北条氏の紋、古いところでは、住吉三神、また春日大社の神奈日山である、「三笠山」 につながると思います。
  • 川会神社(安曇郡、現在の安曇野市)は式内社であり、673 年造営といわれる。地元では古来より安
    曇氏族が祀る神社とされ、当初は前科郷(現在の池田町地域)にあったとのこと。

    正八幡宮神社(安曇郡、現在の安曇野市明科七貴)神社の伝承に、川会神社が慶長時代の大洪水で社 地共に流失し、わずかに残った丸い上石と共に八幡宮へ合殿されたとのことである。そして大綿津見命
    が合祀されているとのことである。

    氷鉋斗賣神社(更級郡、現在の長野市)は式内社であるが、創建年代は不詳である。主祭神は宇都志日金拆命であり、氏子の伝承に「安曇氏が下ってきた」とある。安曇氏族との関連が深いと考えられる が、他に安曇氏族の痕跡はなく、あいまいである。

    新海神社(佐久市)は新開(にいさく)神社→新開(しんかい)神社→新海(しんかい)神社と変わ ってきたと言われ、新開(にいさく)のサクは、宇都志日金拆命のサクからきているとして、佐久にお ける安曇族の痕跡であるという説がある。しかし、新海神社の祭神は綿津見命と全く関係ない神であり、 安曇氏族との関連は見えない。また松本市安曇村は明治以降に改名したもので、全く関係ない
  • 渥美

    岡崎市には綿積神社がある。これは式内社ではないが 古くからの神社であり、綿積命が祀られており安曇氏との関連を思わせる。これらは、この地域が安曇 氏族と関わりの深いことを示している。

    和名類聚抄によると渥美半島付近は渥美郡渥美郷があった地域であり、安曇氏族ゆかりの地と考えら れるが、ここには綿津見神社は見当たらない。なお神島に八代神社がある。明治に地域の神社を合祀し たとのことである。主祭神が綿津見神であることは、神島地域では綿津見神社の影響が強く残っており、 安曇氏族のゆかりの地と思われる。
  • 琵琶湖西の安曇川町は町史によれば、安曇氏族が弥生時代に開拓した地域とのことであり、「安曇」、 「安曇川」、「安曇橋」(いずれもあどと読む)という地名が残っている。この地は伊香郡安曇郷の隣で あり、古くには高島郡と称していた。このようなことからこの地は安曇族ゆかりの地と言える。
    しかし安曇川町地域では綿津見神社は残っていない。そして安曇氏族は継体天皇以前の時代に三尾氏 に征服されて、安曇氏族は他の地域へ強制移住させられてしまったとのことである

    安曇川町地域では「安曇」を「あづみ」ではなくて「あど」と読んでいる。そして万葉集には安曇川 のことを読んだ歌が幾つもあるが、それには「安曇」という漢字は使われておらず、「阿渡」、「足速」、 「足利」、「吾跡」という漢字表記がなされている。これらは興味深い大きな謎であり、そしてこの地域 における安曇氏族の興亡と悲劇を象徴しているように思える。
  • 丹波

    矢田神社の現在の主祭神は建田背命であり、配神として和田津見命がいる。海部直は建田背命を祖神 としており、建田背命及其御子武諸隅命、和田津見命を祀ったと言われている。鎮座地は「久美浜町海 士」であり、海人と関わりの強い地域であることがわかる。また『古代海部氏の系図』(p103)による と祭神は元「綿積神」だったとのことである。安曇氏の存在を推測することができる。

    老人島(おいとしま)神社は冠島にあり、現在は天火明命・日子郎女命とのこと。しかし祭祀を行ってい るのは地元の凡海郷の人々である。するとかつては凡海連の祖神綿津見命を祀っていたが、安曇氏族の 衰退に伴い海部氏が祭祀するようになり、祭神を入れ替えたのではないだろうかと思える。

    笶原(のはら)神社はかつて凡海郷のあった野島、小橋、三浜村の総氏神として祭祀されていたが、そ の後舞鶴市紺屋町に遷座したと思われるらしい。いまは笶原(やはら)神社と呼ばれ、祭神は天照大神 豊 受大神 月夜見神である。しかし元来は冠島凡海息津嶋の神、綿津見命だったと推測できる。(参照:『日 本海と出雲世界』「現代に生きる冠島の古代信仰」高橋卓郎)延喜式には関連氏族として海部・凡海連 と記されている。

    宇豆貴(うづき)神社は式内社であり、主祭神は伊邪那岐命と 宇都志日金拆命 である。安曇氏の氏神 的存在だったと推測できる。

    大川神社は由良川の下流部にあり、冠島より遷し祀ったとの伝承がある。加佐郡では最高の神階をも ち、宮津の籠神社とともに正一位と記されている
  • 三重県の神社(神社数 14社)

    八代神社は伊良湖水道の中の神島にあり、主祭神は綿津見命である。ここは渥美半島との関わりも深
    く、安曇氏(渥美氏)との関連を推測させる。弥生人たちは東方進出にあたり、伊勢から伊勢湾を越え て伊良湖岬へ渡ったと考えられている。神島はその通り道である。そして渥美半島にある古墳の石室に 使われた石が神島産出であり、海人たちとの関わりが強いと言われている。

    鈴鹿市の小川神社には綿津見命が合祀されている。ここでは綿津見命は住吉さまとも呼ばれている。 そして境内の案内板では上津綿津見神(住吉さま):海の守護神、中津綿津見神(住吉さま):航海・漁 業の神、底津綿津見神(住吉さま):商売繁盛・こ授け・縁結びと説明されている。綿津見命と筒男命 とが混合しており、安曇氏族の祖神としての特性は消えてしまっている。
    三重県では神島以外では安曇氏族との関連は見えない。
  • 履中天皇即位のとき、阿曇連浜子が住吉仲皇子の反乱に加担したことが日本書紀に記載されている。
    この時代安曇氏族は摂津国で活躍していたと考えられる。そして難波地域は「安曇江」(続日本紀、聖武天皇紀)や「阿曇寺」(日本書紀孝徳天皇紀)が存在していた。安曇氏族のゆかりの地であることは 確かである。しかしこの地には綿津見神社が残っていない。隣接する播磨国には安曇氏の氏神と思われ る海(わたつみ)神社があることから、播磨国の方が本拠地だったと思われる。(兵庫県の項参照)

    現在大阪市中央区船場の安堂寺町地域は「渥美連合」と称している。かつて阿曇寺があった場所との ことで、阿曇寺が変遷して安堂寺になったと言われている。
    ここは難波宮跡の隣であり、かつて安曇氏 族が活躍していた地域と推測される。しかし阿曇寺や安曇江の位置は諸説あり確定していない。摂津国 については今後詳しく調査すべき地域である。


    河内国には安曇氏族の八木造がいたことが分かっている。八木造は新撰姓氏録によると「和多罪豊玉彦命の児の布留多摩乃命の後」とあり、安曇氏の一族とされている。八木氏は河内国和泉郡八木郷(現 在の岸和田市八木地区)を本拠地としていたとのことである。この地域に式内社である夜疑(やぎ)神社 があり、主祭神は布留多摩命である。布留多摩命は綿津見命の次男であり、八木氏は安曇氏の一族と考 えて良いと思われる。しかし八木氏と安曇氏の関係は詳細不明である。また淡路島の八木村が八木氏の 故地であるという説もある
  • 明石
    播磨国では神戸市垂水区に式内社海(わたつみ)神社があり、祭神は綿津見三神である。ここは、『古代
    氏族系譜集成』によると海神綿積豊玉彦命の本拠である。海神社の由緒書きでは豊玉姫命・彦火々出見 命と関連させて、航海安全、漁業繁栄の神として祀られていると記述している。さらに古代においてこ の地は「海事に従事していた人々を治め、この地域に勢力をもっていた豪族」が海大神を祭祀し神社を 創建したと考えられるとある。また神社の西方約 550m の所には兵庫県下最大の前方後円墳である五色 塚古墳がある
  • 神社の由緒書では、神功皇后、豊玉姫命、彦火々出見命等の天 皇家との関連を強調し、安曇氏族については「海事に従事していた人々を治め、この地域に勢力をもっ ていた豪族」という表現を使い過小評価している。

    日本書紀によると、応神天皇のとき海人がさばめいて反乱したのを大浜宿禰(安曇氏の祖)が鎮めて従 属させた。その功により海人の宰に任命された(272 年、ただしこれは機械的に年代換算したもので、 朝鮮の三国史記と比較すると 380 年となる)。この海人は淡路島の海人と思われる。その後、阿曇連浜 子が淡路島の「野嶋の海人」を動員して、住吉仲皇子の反乱に参加したと日本書紀にある。これらのこ とから淡路島は安曇氏族との関連が強かったと考えられる。しかし反乱に失敗したあと、野嶋の海人は 「倭の蔣代(こもしろ)屯倉」(場所は不明とのこと)に移住されたと記述されている。つまり、安曇氏族 に従属する野嶋の海人たちは他所へ移住させられ、淡路島にはいなくなったと考えられる。また日本書 紀の記述では「野嶋の海人」を動員したと言う表現であり、「安曇部」と言う表現ではない。この時代 (400 年頃)安曇部はまだ組織されていなかったようである。また淡路島では天皇と関わりのある「御 原の海人」たちの居住地であった。その後においても多くの海人たちが活動していたと考えられるが、 安曇氏族や安曇部の痕跡はない。そして淡路島には綿津見神社は残っていない。

    福岡市地域には、和名類聚抄によると糟屋郡安曇郷があった地である。また那津宮家があり、海犬養
    連が守衛役を務めていた(黛弘道「海人のウヂを探り東漸を追う」)とのことである。明らかに安曇氏 ゆかりの地といえる。
    福岡県では綿津見命を祀る神社は圧倒的に多い。神社名として綿津見神社(和多津美神社、海童神社、 志賀神社等含む)と称するものも非常に多い。しかし神社数は多いが神社名や祭神名はまちまちで整合 性に欠けている。安曇氏族の氏神としての綿津見神社であれば、神社名および祭神名について「綿津見 神社」、「綿津見命」として表示が統一されていないのはなぜなのか、不思議である。福岡県内ではそれ ほどに離れた地域ではないから、情報は伝わっていたと思え、神社名や祭神名は統一されているべきと 思う。福岡市の志賀海神社は代々阿曇氏が宮司を務めてきており、安曇氏族ゆかりの神社である。しか しなぜ綿津見神社と表記しないのか不思議であるが、その理由は不明である
  • June 2017 編集されました
    綿津見命(豊玉彦命、大綿津見命)・・・海神であり龍王とも考えられている。
    長男:宇都志日金拆命(穂高見命)
    次男:布留多摩命(振魂命)
    長女:豊玉姫命・・・神武天皇の祖母
    次女:玉依姫命・・・神武天皇の母

    相模国 湯河原町 子之神社/龍神社 海住神 わだつみ神

    住吉大社/志賀神 社
    少童命
    宮司の津守氏が氏神として祭祀 (摂津には阿曇寺、安曇江があった) (現在大阪市中央区には「渥美連合」がある)
  • 始祖 綿積豊玉彦命
    海神宮の主。初代神武天皇の外祖父。



    宇都志日金折命(穂高見命)
    --豊玉毘売命
    --玉依毘売命
    --振魂命
      ↓
      ↓

    2多久置命大倭国造へ
      ↓
    3.穂己都久命
      ↓
    4摩幣区利命
      ↓
    5意伎布利根命
      ↓
    6小栲梨命
      ↓
    7麻曽杵命
      ↓
    8大栲成吹命
      ↓
    9百足足尼命
    12代景行天皇が西国を鎮撫巡行した時の「御付人」として登場。
      ↓
    10 大浜宿禰--------小浜宿禰

    大浜宿禰 15代応神朝に各地の海人を平定し、海部の宰(みこともち)に任命された。

      ↓      ↓
    11安曇連浜子--前嶋子   凡海氏へ

    安曇連浜子
    17代履中天皇の即位前紀、淡路の野島の漁師を率いて、履中の同母弟、住吉仲皇子の叛乱に荷担。
      
  •  「天武紀」によると、朱鳥元年(686)9月に天武の殯宮(もがりのみや)で大海宿禰(おほしあまのすくね)アラ蒲(かま)が、「壬生(みぶ)の事」を誄(るい)しているが、この大海宿禰は、次に述べるように、阿曇氏と同じく、応神(昆支・武)系で、葛城の忍海を本拠としていた大海氏である。
     
     『続日本紀』大宝元年(701)3月15日条に、凡海宿禰麁鎌(おほしあまのすくねあらかま)を金の精錬のために陸奥に派遣したとあり、凡海宿禰麁鎌は大海宿禰アラ蒲と同一人とみられている(既述)。オホシ(大・凡)はオシ(忍)に通じるが、葛城(かづらき)の忍海(おしみ)の住人は探鉱・冶金(やきん)・兵器製造などの仕事に従事していた。

     例えば、「天武紀」3年(674)3月条には、「対馬国司守(国は追記。当時は島司)」の忍海造大国(おしみのみやつこおほくに)が銀鉱を発見したことを奏上したとある。そして、『続日本紀』大宝元年(701)3月21日条には、対馬嶋(つしまのしま)が金を貢献したので、元号を建てて大宝元年としたとあり、同8月7日条には、対馬嶋に派遣されてこの黄金の精錬に成功した大和国忍海(おしみ)郡の三田首五瀬(みたのおびといつせ)の名がみえる。

     また、『古事記』開化条には、「忍海部造(おしみべのみやつこ)」「忍海部(おしみべ)」がみえ、『肥前国風土記』三根郡漢部郷(みねぐんあやべごう)の条に、「久米の皇子(くめのみこ)」(用明天皇の王子)が新羅を征伐しようとして、忍海(おしぬみ)の漢人(あやひと)をこの村に移住させ、「兵器(つはもの)」を造らせたとあるが、次に述べるように忍海(おしうみ)の漢人(あやひと)は百済系移住民とみられる。
  •   忍海の漢人については、「神功紀」摂政5年(205)3月条には、今の桑原(くわはら)・佐糜(さび)・高宮(たかみや)・忍海(おしぬみ)の「四(よつ)の邑(むら)」の漢人の始祖は、葛城襲津彦(かづらきのそつひこ)が新羅で捕らえた「俘人等(とりこら)」であると書かれている。しかし、葛城襲津彦は、『古事記』に「葛城長江曾都毘古(かづらきのながえのそつびこ)」「葛城之曾都毘古」とあり、建内宿禰(たけしうちのすくね)の子とされている。300歳あまりも生きたという建内(武内)宿禰は応神(昆支・武)の分身であり、葛城襲津彦は架空の人物である。

     そして、「坂上系図」所引『新撰姓氏録』逸文には、高宮村主(たかみやのすぐり)・忍海村主(おしみのすぐり)・佐味村主(さみのすぐり)・桑原村主(くわはらのすぐり)などは、大〇鷯(おほさざき・仁徳)の世に阿智(あち)王にしたがってきた人々の子孫で、阿智王を祖とする漢氏(東漢(やまとのあや)氏)から分かれたとある。漢人(あやひと)を管理していた東漢()やまとのあや氏の祖阿智使主(あちのおみ・阿智王)は応神(昆支・武)の分身、仁徳は継体(男弟)の分身とみられるので、桑原(くわはら)・佐糜(さび・佐味(さみ))・高宮(たかみや)・忍海(おしぬみ)の漢人(あやひと)の先祖は、継体(男弟)時代(507~531)以降にこの地に移住し、応神(昆支・武)系の東漢(やまとのあや)氏の管理下にあった百済系部民とみられる。
  • 肥前国風土記
    松浦郡値嘉郷条には、景行天皇が阿曇連百足を供としてこの地を 巡幸したという伝承が載せられており、そのなかに、「此嶋白水郎、容貌似二隼人、一恒好二騎射、一 其言語、異二俗人一也」という記述がみえる。
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