伊香色謎命、孝元天皇、開化天皇、伊香色雄命

December 2018 編集されました カテゴリ: 神武ー開化
image伊香色謎命、孝元天皇、開化天皇、伊香色雄命

伊香色謎命(いかがしこめのみこと、生年不詳 – 崇神天皇元年1月13日(前97年2月17日)以降)は、孝元天皇…

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  • May 2016 編集されました
    欝色謎命

    孝元天皇の皇后。古事記には内色許売命(読み方同じ)とある。

    父は大矢口宿禰命(大水口宿禰命とも)で、母は坂戸由良都姫。同母兄に欝色雄命(穂積氏祖)がいる。大綜麻杵命(伊香色雄命・伊香色謎命の父)の同母姉(妹)。大彦命・開化天皇の母

    出石心大臣命(饒速日命の3世孫乃至4世孫)ー大矢口宿禰命(妃は坂戸由良都姫)ー鬱色謎命、欝色雄命、大綜麻杵命

    孝元天皇と鬱色謎ー大彦命・開化天皇・少彦男心命・倭迹迹姫命
    孫:御間城姫(大彦命の女。崇神天皇の皇后。垂仁天皇の母)・崇神天皇・彦坐王(以上、開化天皇の皇子)
  • 秀真伝では

    天足彦国押人命(妃 世襲足媛)ーー春日千千速(春日県主、押姫と兄弟)ーー彦姥津命。(春日県主)ーー意祁都比売命(姥津媛のこと)ーー彦坐王(父は開化天皇)

    天足彦国押人命(妃 世襲足媛)ーー押姫(孝安天皇の妃)ーー孝霊天皇

    孝霊天皇の妃に、山香媛(千々速比売命とも、春日県主千千速の娘)

    『日本書紀』では天足彦国押人命について、和珥臣(和珥氏)の祖とする。
    『古事記』では、春日臣・大宅臣・粟田臣・小野臣・柿本臣・壱比韋臣・大坂臣・阿那臣・多紀臣・羽栗臣・知多臣・牟邪臣・都怒山臣・伊勢飯高君・壱師君・近淡海国造ら諸氏族の祖としている。

    『新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
    左京皇別 – 大春日朝臣・吉田連・丈部
    右京皇別 – 栗田朝臣・山上朝臣・真野臣・和邇部・安那公・野中
    山城国皇別 – 小野朝臣・粟田朝臣・小野臣・和邇部・大宅・村公・度守首
    大和国皇別 – 柿下朝臣・布留宿禰・久米臣
    摂津国皇別 – 和邇部・羽束首
    河内国皇別 – 大宅臣・壬生臣・物部
    和泉国皇別 – 葦占臣・物部・網部物部・根連・櫛代造
    右京未定雑姓 – 中臣臣
    和泉国未定雑姓 – 猪甘首


    和珥氏族(春日臣)

    孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命を祖とする和珥氏(和珥臣)の支族。和珥氏一族の一部が大和国添上郡の春日に移住し、その地名を姓として名乗る。春日姓を称し始めた時期は明らかでないが、雄略朝以降と考えられている。
  • May 2016 編集されました
     大倭帯日子国押人命(おおやまとたらしひこくにおしのみこと)は、葛城の室(むろ)の秋津嶋宮にいらっしゃり、天下を治められました。
     この天皇は姪の忍鹿比売命を娶り、皇子(みこ)大吉備(おおきび)の諸進命(もろすのみこと)、次に大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにのみこと)の二柱を生みなされました。

    室秋津嶋宮趾碑
     そして、大倭根子日子賦斗邇命は、天下を治められました。
     天皇は御年百二十三歳にて、御陵は玉手(たまて)の岡の上にあります。

    【大倭帯日子国押人命】
    書紀では日本足彦国押人天皇。
    孝安天皇。
    《""おほ"やまと"》
    6孝安 7孝霊 8孝元 9開化
    古事記 大倭 大倭 大倭 若倭
    日本書紀 日本 大日本 大日本 稚日本
    5~9代の天皇名の冠称を比較したものである。
    「やまとの国」は『倭名類聚抄』では「大和【於保夜萬止】」とあるように、「おほやまと」である。 さらに次の段、孝霊天皇には「意富夜麻登玖邇阿礼比売」(おほやまとくにあれひめ)が出てくること、 及び、孝霊・孝元両天皇は「大日本」と書くことから、「大倭」は「おほやまと」と訓まれた。ただ、「やまと」を「大倭」と記すこともあったと思われる。
     問題は、孝安天皇だけ「日本」から「大」を外したことである。日本足彦国押人天皇の名は複数回出てくるので、筆写ミスによる脱落ではない。 この不統一は気まぐれではなく、何らかの意味があると思われる。
     「おほやまと」は地名であるが、その用法は、①大和の国の一部地域、②いわゆる大和の国(後の律令国)、③葦原中国の三通りがある。 天皇名につける場合は①~③のどれにも解釈が可能である。書紀では「日本」が使われるが、国号「日本」の開始は、書紀の編纂が最初に命じられた天武天皇10年(681年)ごろ※とされる。 書紀では、「やまと」の表記は「日本」に統一されている。 何れにしても、天皇名に冠せた「おほやまと」は形式的な美称である。

    【葛城室之秋津嶋宮】
     宮山古墳の後円部の縁の、八幡神社内に石碑がある。孝安天皇自体が伝説であるから、その場所に宮殿があったとするのは、空想に過ぎない。 しかし前回孝昭天皇の段で、古墳時代の初期にこの地に独立勢力がいたと考えた。 宮山古墳は大王級の前方後円墳で、背後の巨勢丘陵には有数の古墳群があるから、恐らく弥生時代から、ことによるとそれ以前から信仰の地であったと思われる。 その伝統は、独立氏族の時期も、天孫族に統合された後も変わることはなかったであろう。
     従って、神殿あるいは氏族の長の邸宅がこの辺りにあり、 その伝承によって「秋津嶋宮」が葛城国の室の地にあったと、記に書かれ
    たのかも知れない。

    宮山古墳(むろみややまこふん)は、奈良県御所市大字室にある前方後円墳。別称を「室大墓(むろのおおはか/むろのおおばか)」とも。国の史跡に指定されている。

    葛城地方では最大、ひいては全国でも第18位の規模の古墳で5世紀初頭の築造と推定される。

    年代が合わない。

    馬見古墳群の域内にある宮山古墳の被葬者は、第12代景行天皇(在位:71〜130年)から第16代仁徳天皇(在位:313〜399年)まで5朝に仕え、偉功があった「武内宿禰」そして川合大塚山古墳は新羅遠征で活躍した武内宿禰の子「葛城襲津彦」と推定されている
  • 孝元天皇は宮を軽(かる)の地に定め、境原宮(さかいはらのみや)という。軽は奈良県橿原市大軽(おおかる)町付近で、古代には交通の要衝で「軽の市」がありました。境原宮跡に牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)が建てられたという伝承があります。

    孝元天皇は7代孝霊天皇を片丘馬坂陵(かたおかうまさかのみささぎ、奈良県王寺町)に葬った。この頃には天皇家は大和盆地だけではなく、畿内周辺から吉備国東部までを治めていたと考えられます。

  • 八綱田(八ツ並)と考えられ、この八綱田が垂仁天皇時に『狭穂彦王(嘉穂彦)の乱』を鎮めます。

    その子が『彦狭嶋命』とされており、日本武尊の没(景行43年)後、近畿纏向日代宮に居られた景行天皇から東山道15国の支配を命じられて、中津宇佐から本州に赴く途中の春日の穴咋邑(あなくひむら)にて病死(景行55年)をしています。(春日の穴咋邑の場所が不明であります。)

    このお方が中津宇佐(由布院を含む)にて『宇佐都臣命(宇佐稚屋)』・『御諸別命』を生んでいると考えられます。(宇佐公康さまの伝承では弥山にて生まれた事になっています。この弥山は『母なる山』と呼ばれています『箭山ややま』別名『八面山』とも考えられます。)

    亦、第7代孝霊天皇の皇子としても、伊予・越智氏の祖として『彦狭嶋命』は記入されており、この二人の『彦狭嶋命』をどの様に解釈するかも考えさせられます。
  •    和氣姫は北九州玄海灘に浮かぶ沖ノ島の海童の娘
           ┌伊豆・・・・・・・・・・・・・・┐三艘の船に乗せれ
       和氣姫 ├吉備・・・・・・・・・・・・・・┤ 海に流される
         ‖──└伊予国和氣郡(越智氏のルーツ)・┘
    ┌弟 彦狭島命       
    └孝元天皇ー彦太忍信命ー屋主忍男命ー武雄心命
                      ‖
                      ‖──武内宿禰(神功皇后の側近として有名)
                      ‖
           紀国造の祖(紀直)菟道彦の娘 影媛(山下影日売) 
       
       ┌ 波多八代宿禰(波多臣、林臣、波美臣、星川臣、長谷部君の祖)
       ├ 許勢小柄宿禰(許勢臣、雀部臣、軽部臣)
       ├ 蘇我石川宿禰(蘇我臣、川辺臣,田中臣,高向臣,小治田臣,桜井臣,岸田臣)
      ─├ 平群都久(木莵)宿禰(平群臣、佐和良臣)
       ├ 木(紀)角宿禰(母:紀氏宇乃媛)(木臣、都奴臣、坂本臣) 
       ├ 久米之麻伊刀比売
       ├ 怒能伊呂比売
       ├ 葛城長江曾都田比古=葛城襲津彦?(玉手臣、的臣、生江臣、阿芸那臣)
       └ 若子宿禰(江野財臣)   ※古事記孝元巻
  • June 2016 編集されました

    三輪山の磯城氏最後の孝元(大倭根子日子国玖琉命)は欝色雄命の妹の欝色謎命の間に大彦命・開化(若倭根子日子大毘毘命)をもうけた。また一方で大綜麻杵の女の伊香色謎命に彦太忍信命が生まれた。

    ところが欝色謎命の子の開化は、継母の伊香色謎命に祟神(御真木入日子印恵命)を生ませた。この継母の伊香色謎命の一族は物部氏という氏名をもつ以前の前身である。

    祟神は物部遠祖大綜麻杵の物部一族に生まれた。そして祟神は父開化の出た欝色謎命一族の御間城姫との間に垂仁をもうけて跡継ぎとしたのである。
    祟神の母の伊香色謎命は『古事記』では内色許男命の女の伊迦賀色許売命と記す。また天孫本紀の物部氏系譜では、大綜麻杵を欝色雄命の弟としており、祟神の両親は極めて近しい関係にあったことがわかる。 
  • June 2016 編集されました
    (8)孝元天皇
                :
      
    (9)開化天皇([208]-  )                        
       |皇后伊香色謎命        燕王(238年)公孫淵が滅ぶ                  |           
       +―――――――――――――――――――――+     
       |⑩ミマキイリヒコ・イニエ               |ヒコ・イマス
    (10)崇神天皇([232]-[306])           彦坐王        
       |辛酉年(AD301)即位?            |  
       |                    
       |⑪イクメイリヒコ・イサチ          
    (11)垂仁天皇([256]-  )          山代大筒城眞若王
       |伊久牟尼利比古大王            |    
       |                     |
    (12)景行天皇([281]-  )            迦邇米雷王
       |                     |
       +――――――――――+          |
       |          |⑬         |
    (13)日本武尊([306]-  )  成務天皇       息長宿禰王
       |                     |
       |                     |
       |⑭                    |⑮
    (14)仲哀天皇([331]-364)             神功皇后([336]-[405])
       |                     |母葛城高額媛    泰和4年(369)近肖古王七支刀
       +――――――――――+――――――――――+  
                  |⑯品陀和気命
               應神天皇(364-[394])
               
  • August 2016 編集されました
    矢田八幡神社

     祭神「應神天皇、神功皇后、武諸隅命 配 孝元天皇、内色姫命」
    「崇神天皇10年。四道将軍の一人丹波道主命は勅命により山陰地方平定のため丹波国(今の丹後国)に至り、比治の真名井に館を構えられたが無事平定を祈願のため矢田部の部民を して祖神を祭らしめられ、熊野郡では矢田神社を祭祀せられた。当初の祭神は饒速日命、孝元天皇、その奥后内色姫命であったが、奈良朝に至り、当時の物部氏と蘇我氏の争いからついに物部氏亡び蘇我氏の探索は当地にまでおよび矢田部一族はそれを恐れ、宇左八幡宮を勤請して社名を矢田八幡と改めた。」
    豊岡県神社神主書状一巻。(式内社調査報告による)
    京都府熊野郡久美浜町大字佐野字地シワ38

     この神社の記事には饒速日尊を祭神とする神社に蘇我氏の追求が来て祭神を変更しなければならない状況が伝えられている。これが饒速日尊が抹殺された実態であろう。
  • 崇神天皇は、出雲大神の宮にある神宝を見たいと望み、出雲の神宝を管理する出雲臣の祖出雲振根の元に矢田部造の遠祖武諸隅(タケモロスミ)を派遣します。
     ところがフルネはこの時筑紫に出向いており不在だったために、フルネの弟飯入根(イイイリネ)が代わりに勅命を承り、弟のウマシカラヒサとその子のウカヅクネに神宝を献上させたのでした。

     その後、筑紫から戻ってきたフルネは、このことを聞き、
     「なぜ神宝を渡したのか!」
    と、激怒し、その怒りは収まることなく、ついには弟のイイイリネを殺害してしまいます。
     そこで天皇は、吉備津彦と武渟川別(タケヌナカワワケ)を遣わしてフルネを討たせたのです。

     『日本書紀』のこの記事には続きがあり、「この一件以来、出雲臣たちが大神を祭祀することをやめてしまった期間が生じた」と、あります。 それが、丹波国氷上郡の氷香刀辺(ヒカトベ)が、自分の子に神託が降った、と、皇太子活目命(後の11代垂仁天皇)に、訴えたので、天皇は出雲の大神の祭祀を復活させるよう勅命を出した、と記されています。
  • 皇別氏族の多く(三分の一)が孝元天皇を出自としている。

    宮地嶽神社の宮司家が阿部(阿部氏は現櫛田神社宮司)であった。

    「四道将軍」として北陸を制圧したのが、大彦命(実は第9代開化の腹違いの兄)で、連動して東山道、東北南部を征服したのも大彦命の子である武渟川別(?)であり、実はその武渟川別から東北の阿倍氏が出自しているのです。
    また、前九年の役 で敗れた安倍宗任 が太宰府に流されるのですが(「平家物語」)、なぜか宗像氏の配下として筑前大島の統領となり、後の松浦党の一派を形成することになったという話があるのです。
  • 第9代開化天皇の腹違いの兄である大彦命の長男が阿倍氏の祖となる

    三男の布都押優信(佐賀県武雄市の武雄神社主祭神)と山下影姫(佐賀県武雄市朝日町河上の黒尾神社主祭神)の間に生まれたのが武内宿禰(後の葛城一族)。
  • 大神神社の言い伝えでは,ホケノ山古墳には,第10代崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命が葬られているとされている。仮に,箸墓古墳が通説通り,第10代崇神天皇の2世代前の倭迹迹日百襲姫命の墓だとすれば,箸墓古墳よりも古いホケノ山古墳の被葬者が豊鍬入姫命であるのは年代が合わない。

    第10代崇神天皇の母は,伊香色謎命(いかがしこめのみこと)という。伊香色謎命の父は,物部氏の祖大綜杵命(おおへそきのみこと)で,母は高屋阿波良姫である。伊香色謎命は,徳島県吉野川市の伊加加志神社に祀られている。延喜式内社で「いかがし」の名がつく神社は全国でこの一社のみである。ルーツはここにある。ホケノ山古墳の被葬者は,第10代崇神天皇の母・伊香色謎命ではないか?伊香色謎命は,第8代孝元天皇の妃でもあり,第9代開化天皇の皇后でもある。伊香色謎命が絶世の美女であったとすれば叙情的であるが,こういった場合,政略結婚であることが多い。
    物部氏は,神武天皇よりも前に大和入りをした饒速日命を祖とする。大綜杵命もその父・出石心命も大臣を務めていることから,神武派と饒速日派の政治的連携と考えられる。

     孝元・開化の二人の天皇の妃であり,初期ヤマト王権の礎を築いた崇神天皇の母である。80m級の墳墓に葬られたしても不思議ではない。阿波の古墳との共通点も伊香色謎命の母・高屋阿波良姫が阿波出身だとすれば辻褄が合う。
  • August 2017 編集されました
    御所(ごしょ)神社
    別名、「瑜伽(ゆうが)神社」とも呼ばれる。

    鎮座地 徳島県吉野川市鴨島町麻植塚字堂の本921
    御祭神 大麻綜杵命(おおへつきのみこと) 

    合祀 伊弉諾命 伊弉冉命 大山祇命 誉田別命 息長帯比売命

    大麻綜杵命は、10代崇神天皇の外祖父。母である伊加賀色許賣命延喜式式内社 伊加賀志神社の父君(『先代旧事本紀』による。『日本書紀』では母)にあたる。大綜杵命は、饒速日命五世の孫で、父は大矢口宿禰、母は坂戸由良都姫。孝元天皇の時代、大禰となり、ついで開化天皇の時代に大臣となった。
    高屋阿波良姫をめとり、伊香色謎(開化皇后)、伊香色雄を生んだ、とされている。

    「祭神大麻綜杵命を祀る」
    「阿波風土記曰く、天富命は、忌部太玉命の孫にして十代崇神天皇第二王子なり、母は伊香色謎命にして大麻綜杵命娘なり、大麻綜杵命(おおへつき)と呼びにくき故、麻植津賀(おえづか)、麻植塚と称するならんと云う」
    (「麻植塚」は古墳名。また、現在も残る地名・駅名 )

    「阿波風土記に曰く、大麻綜杵命の母は伊香色謎命なり按するに大麻綜杵命は阿波忌部族なるべし~」とある。


    高屋神社(讃岐苅田郡)

     祭神は邇々杵命・保食命・咲夜比女命で延喜式の神名帳(平 安時代)に「讃岐国刈田郡高屋神社」とあり、延喜式内社讃岐 二十四社の一社である。この社は当初稲積山頂にあったのを 一六〇〇年頃に、山の中腹に移し、さらに一七六〇年頃に山麓 に移したが、里人はその崇をおそれ、一八三一年に山頂の旧地 に再び本殿を造営した。山の名をとり稲積社とも呼んでいる。

    高屋神社 (羽曳野市)

    高屋神社(たかやじんじゃ)は、大阪府羽曳野市にある神社である。式内社

    饒速日命と広国押武金日命(安閑天皇)を祀る。当地は物部氏の系統で、『新撰姓氏録』に「饒速日命の十世の孫、伊己止尼大連の後」と記される「高屋連」の本貫地であり、祖神として饒速日命を祀ったものである。広国押武金日命は後に祀られたものである。

    社伝によれば、宣化天皇3年(538年)、勅命により創建された。延喜式神名帳に「河内国古市郡 高屋神社」と記載され小社に列格しているが、国史には現れない。

    江戸時代には八幡社と称していたが、明治初年に高屋神社に改称し、明治5年(1872年)に村社に列格した。明治41年(1904年)5月11日、白鳥神社(羽曳野市古市1-1)に合祀された。昭和29年(1964年)、高屋神社は白鳥神社から独立して旧社地に復興されたが、白鳥神社でも高屋神社の祭神が合祀神として祀られている。
  • November 2018 編集されました
    春日率川坂本陵

    「山陵考」春日率川坂上陵
    開化天皇の御陵なり、大和国添上郡奈良町のうち油坂町の
    南百萬辻子の北にあり、字を坂上山とよぶ、高さ三丈許めくり
    九拾六丈許あり、その廻りに今も堀の跡残りたり
    御陵に堀あること是を始とす、その 陵制、南面に、
    後円く前方に築てそのもと体制よく具りたる 御陵なるへきを、
    いと畏くも奸僧のために穢され給ひて、既く念佛寺の墓地となりて、
    諸人の石塔数多累立りしを、今度の御修理に皆他所に移葬られて
    御陵清まりたり、これ日本紀に、葬于春日率川坂本陵とミえ、
    古事記に、御陵在伊邪河之坂上也とミえ、延喜式に、春日率川坂上陵、
    春日率川宮御宇 開化天皇、在大和国添上郡、兆域東西五段南北五段
    以在京戸十烟、毎年差充令守とミえたる 御陵なり、
    さて、御陵号にかかれる率川、今ハこの 御陵より二町許南方を東より西へ流れ、
    その坂ハ御陵の北辺に今ハ油坂とよへる町西ハ低く東ハ高くてあり、
    是率川坂の名残なりとぞ、この 御陵のこと諸先達さらに異論なし、
    但しこの 御陵号、日本紀に 坂本陵とあるは誤にて、一云坂上陵といへるそ
    地理に相合ひたるなるへし

    現在でも拝所の鳥居を建替える際に、江戸時代頃の甕棺や骨臓器などが出てくるそうですが、
    現在の後円部付近には、ご覧の様に墓地が営まれてましたので、骨臓器などが出土するのは、この為かと思われます。

    元禄の修陵以来「開化天皇陵」とされていたのは、
    上の拡大図で写っている、頂部に樹木が1本生えた、
    小丘の部分だけであり、丘陵全体では無かった模様。。。
    この小丘は陵墓地形図集成の開化天皇陵後円部頂部に、
    記載されていますが、修陵時に一回り大きくされた可能性が、
    有るかと。。。

    完全に前方後円墳として生まれ変わった?姿です。。。
    また、前方部近くに有る寺院(西照寺)の本堂が、「荒蕪」図に掲載されている時よりも、
    やや大きくなっているのが興味深い
    墳丘東側に見える堂は念仏寺の物ですが、「荒蕪」図と比べると、土塀が綺麗に造り直された上、
    鐘楼まで新しく造られている点にも注目です(^^
    これらは、修陵に伴う補償の意味が有ったとされています。
  • November 2018 編集されました
    開化天皇 を祀る神社

    小幡神社 京都府亀岡市曽我部町穴太宮垣内1
    吉備津彦神社 岡山県岡山市北区一宮1043

    宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では春日率川宮(かすがのいざかわのみや)、『古事記』では春日之伊邪河宮[

    また皇居では、宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに開化天皇の霊が祀られている

    皇子の彦坐王

    彦坐王 を祀る神社

    古麻志比古神社 石川県珠洲市若山町字経念12-32
    久佐加神社 島根県出雲市日下町上筋731-1
    石坐神社 滋賀県大津市西の庄15-16
    草岡神社 滋賀県長浜市余呉町国安52
    佐波加刀神社 滋賀県長浜市木之本町川合1277
    粟鹿神社 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152
    伊伎佐神社 兵庫県美方郡香美町香住区余部字宮内2746-2
    三野神社 兵庫県豊岡市日高町野々庄字下小屋782
    小幡神社 京都府亀岡市曽我部町穴太宮垣内1
    斎宮神社 京都府京丹後市丹後町宮宮ノ谷245
    廣田神社 境内 伊和志豆神社 兵庫県西宮市大社町7-7
  • November 2018 編集されました
    開化天皇の御子たちは合わせて五柱です。(男王四人。女王一人)
    御真木入日子印恵命が後を継ぎました。

    イカガシコメ命は孝元天皇と開化天皇の両人と結婚したということです。親子と結婚したんですね。
    しかも、血が濃く繋がっています。

    大毘毘命(開化天皇)から見たら、イカガシコメ命は義理の母で、血が繋がっている上に、父親の妻でもあります。結婚制度がどうとかは、分からないけど、系図が複雑になります。

    竹内宿禰との血縁を見ると、開化天皇はすごく近い血筋になるのが分かります。竹内宿禰が迷うことなく天皇家を守護する理由は一族だったという事が背景にある

    開化天皇妃のイカガシコメが竹内宿禰のおばあさんである。

    イカガシコメの方がずうっと年上です。二人の間に生まれたミマキイリヒコイニエ命が崇神天皇になるんですね。

    開化天皇は成務天皇と同い年とも言われている。
    開化天皇が二人いるのでしょうかね?
  • November 2018 編集されました
    開化天皇の系図
    https://lunabura.exblog.jp/21523730/
    葛城のワシ姫とのあいだに
    建豊波豆羅和気王を生んだ。

    「武内宿禰大臣」の妻となって「葛城襲津比古」を生んだとされる「葛比売(カズヒメ)」その人です。帝室の系譜が伝えるところでは竹内宿禰は孝元帝の息子・彦太忍信命の子あるいは孫に当たり、鸇姫が後宮に入ったとされる開化帝と彦太忍信命は「兄弟」なのですから、上に掲げた田使首の系図は明らかに世代の混乱が見られます。では、この系図が全く出鱈目なものなのかと云うと、帝室の初期系図そのものが世代数を「水増し」した内容を含んでおり、細かな点では齟齬を生じていても、少彦名命を源とした天孫氏族である葛城国造家に、大王妃および葛城襲津彦の妻の「実家」だったとする根強い伝承があったと考えれば良いのではないかと思います。その意味で「ワシ姫」「カズ姫」の名称は、如何にも天日鷲翔矢命の血脈を受け継ぐ「加豆良支根」(葛城の根=源流)の子孫に相応しい名前だと感じられます。また、余り聞きなれない「建豊波豆羅和気王(タケトヨハズラワケ)」という名前も「建豊」を単なる美称とすれば「波豆羅和気、ハズラワケ」ではなく、本当は「カズラワケ」(葛城家の若)だったのが訛って伝えられた可能性がありそうです
  • 大依羅神社の創祀は、神功皇后の新羅 (現在の朝鮮半島) 征討の際に、依網我彦男垂見 (よさみのあびこをたるみ) が住吉三神を祀る祭主になったことがきっかけです。代々この神社の祭祀を司った依網阿毘古 (よさみあびこ) 一族は、天皇の直轄領である依網屯倉 (よさみ・みやけ) を管理する豪族でした。「阿毘古」は古代の姓 (かばね) の一種。一族は海にちなむ祭神である住吉三神を祀っていました

    祭神
    大己貴命、月讀命、垂仁天皇、五十師宮(五十猛命)の四座または住吉三神、建豊波豆羅和気王 合祀 草津大歳大神、奴能太比売大神、建速須佐男大神、奇稲田媛大神、八柱御子大神、大山大神、素盞嗚尊二座

    由緒
     延喜式神名帳には、摂津国住吉郡の大依羅神社四座とあるのが当社である。
     神皇皇后に、神告していわく 我荒魂は先鋒を成して兵船を導んとたくし給ふ。帰朝の後吾孫子の某をもって社を守らしむ。毘沙門の宮とも言う、と伝わる。
     祭神の建豊波豆羅別命は開化天皇と葛城垂見宿彌の女タカヒメとの間に生まれ、道守臣、忍海部造、御名部造、稲羽忍海部、丹波之竹野別、依羅阿毘古等の祖であると言う。 依羅安孫氏は住吉三神の祭の神主とされている。
     依羅連は日下部宿彌と同祖、彦坐命の後、百済人素彌志夜麻美乃君より出づる、また饒速日命十二世の孫懐大連の後とあり、 さまざまな系統があったようである。

    八十島祭りにも奉仕料を受け、住吉大社に次ぐ扱いを受けていた。
  • November 2018 編集されました
    開化天皇の御子
    建豊波豆羅和気王(タケトヨハヅラワケノミコ)

    道守臣(チモリノオミ)・忍海部造(オシヌミベノミヤツコ)・御名部造(ミナベノミヤツコ)・稲羽の忍海部(オシヌミベ)・丹波(タニハ)の竹野別(タケノワケ)・依網(ヨサミ)の阿毘古(アビコ)等の祖なり

    酒屋神社(松原市・三宅町)に関する記事です。

    酒屋神社は鉄大阪線・松原駅の北1.5kmにある屯倉神社の境内摂社です。

    鎮座地の三宅は依網屯倉(よさみ)の名前に因む地名で、
    酒屋神社はその屯倉で収穫された米の酒造を行った場所です。

    依網。 
    大阪市住吉区庭井町。 
    ここに崇神天皇は農業用の池を掘った。 
    今は無くなり、跡地に大依羅 (オオヨサミ) 神社がある。 
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