倭迹迹日百襲媛命と倭姫命

December 2018 編集されました カテゴリ: 神武ー開化
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倭迹迹日百襲媛命 「古事記」には書かれていない。 「日本書紀」 崇神7年2月条 崇神天皇の御代になって災害が多…

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コメント

  • 吉備国 名方浜宮

    倭姫命世紀によれば崇神天皇五十四年【豊鍬入姫命】

    倭姫命世記には「吉備ノ名方浜宮に遷る」と書かれてますが、日本書紀・儀式帳には記載がなく、比定地が定まらず、諸説様々に論じられている。

    有力な比定地
    ☆岡山市番町の伊勢神社
     社号は吉備名方浜宮、通称伊勢神社という。
    ☆岡山市浜野町の内宮
    ☆吉備郡真備町
     穴門山神社
    ☆川上郡川上町
     穴門山神社(名方浜宮、赤浜宮ともいう)。
    ☆広島県松永市
     今伊勢内宮外宮
    ☆海南市日方
     伊勢部柿本神社
    ☆有田郡吉備町
     田殿丹生神社 
    と、広範囲にわたって比定地とされている場所がある。

    定かにはされていないこの地を最後に、豊鍬入姫命は最終地である倭国 御室嶺上宮に向かい、倭姫命とバトンタッチする。
    倭姫命御巡幸が始まります。
  • May 2016 編集されました
    皇大神、御遷幸の御社 (元伊勢)
    吉備国内宮
    通称 : 内宮様 (ないくうさま)
    古名 : 吉備国名方浜宮
    元伊勢(もといせ):伊勢神宮が現在地(三重県伊勢市)へ鎮座される以前に、 皇大神宮(内宮)、 豊受大神宮(外宮)
    の御祭神が祀られた神社。
    内宮:当地、外宮:現、岡山市北区番町、伊勢神社

    岡山市の伊勢神社
    伊勢神社略記
    伊勢神社(通称伊勢宮)は、第十代崇神天皇の御代皇女豊鋤入姫命の御創建になり、二千有余年の歴史をもち、式内社として栄え、室町時代の頃迄は備前岡山の氏神として崇敬篤く、境内地も現在の弘西学区全域に及んでいた。その後、他の神社も御創建され、人々も移住し、城下町が形成され、現在の氏子地域が出来上ったと思われる。安土桃山時代以後は、宇喜多、池田両藩主の崇敬殊に篤く、池田光政公以後明治維新迄備前藩寺社領としては最高の三百石を賜わり、伊勢宮神官を以って備前国神職総頭の職を拝命され、備前藩又は池田家の祭事いっさいが伊勢宮神官の手によって執り行われ、現在も続いている備前の国で最も由緒のあるお社である。又、伊勢宮には、三百年前から「御神事」という祭事が執り行われている。この御神事は、文禄元年宇喜多秀家が秀吉の命を受け、「征韓の役」の出陣に先立ち具足甲胄に身を固め、藩主以下総勢行列を整え、藩旗、弓、槍、鉄砲等を持ち、伊勢宮に戦勝祈願に詣でた形を後世神事として祭儀のなかにとり入れて行われたのが起源である。明治初年の頃迄は神馬、弓、槍、具足甲胄を身につけ執り行われていた。伊勢宮の氏子は、武士と町人が半々であったため、御神事は主に商家である小畑町、上出石町、中出石町、下出石町(下出石町は現在岡山神社の氏子である)の四町内が順番に奉仕していた。

    第十代崇神天皇の御代皇女豊鋤入姫命により創建。
    天照大神は、崇神天皇六年までは、天皇の大殿に祀られていたが、その神勢を畏れ、天照大神および草薙剣を豊鋤入姫命に託して、大和国笠縫の邑に祀った。
    その後、丹波国吉佐宮、大和国伊豆加志本宮、紀伊国奈久佐濱宮を経て、五十四年、当社(吉備国名方宮)へと遷り、当地に四年鎮座した後、大和国三輪の御諸の嶺の上の宮へと移された。境内社として、境内右手に稲荷神社など。
    本殿後方に十五末社(御門神・風神・多賀宮・荒神宮・熱田神宮・
    春日神社・五元神社・斎宮・興玉神社・鈿女・
    伊雑宮・荒神社・戸隠神社・今村神社・會魂神社)と
    幸延神社や稲荷神社などがあり、
  • May 2016 編集されました
    和歌山県海南市の伊勢部柿本神社

    徳川時代の学者、伴信反や『紀伊続風土記』によると、この吉備の名方の濱の宮は現在の海南市名高の井引の森跡であり、JR海南駅の東に大神宮遺跡という石碑が建っている所であるという。
    しかるに其処はその頃海浜で、高潮や津波の被害の恐れがあったので、いつの頃からか、近くで安全な日方の東山、即ち現在の社地に御遷座なされ、社殿は壮麗を極めたと伝えられているが、天正13(1585)年豊臣秀吉の紀州征伐の際消失し、その後慶長9年に再興され、爾来当町の産土神、氏神として氏子の安泰と地方の繁栄のため御神徳を発揚されている。
    尚当神社は日方浦の海運業が盛んであった徳川時代に海路安全と商売繁昌を祈願して奉納された千石船の模型並びに廻船絵馬8面及び基部に多数の船名が刻まれた燈篭2対は全国的にも希少なもので、県文化財に指定されている。

    吉備国名方濱宮とは、すなわち、この海南市日方にあった藺引ノ森いびきのもりであると古くから言い伝えられています。4年が経ち、八咫鏡は再び豊鍬入姫尊が奉じて倭の弥和乃御室嶺上宮みわのみむろのみやというところに遷りました。そして垂仁天皇即位二十五年に豊鍬入姫命の意志を継いだ皇女倭姫命やまとひめのみことが、各地を巡幸した末、伊勢の地に至り伊勢の神宮が鎮座したのです。
     一方、藺引ノ森では、豊鍬入姫尊が去った後も、大神宮御鎮座の大宮処として天照大神をおまつりしつづけていましたが、その地は高波や津波の恐れがあることから、いつの頃からか この日方ひかたの東山の中腹、すなわち現在の地に遷座され、従四位伊勢部柿本大神と讃えまつられ、社殿壮麗を極めたと伝えられます。
     しかし天正十三年、豊臣秀吉の紀州攻めにより、社殿を焼失してしまい、15年間、仮宮でおまつりする時期がつづきましたが、江戸時代の初めの慶長九年、(1605年)、今から約400年前に近くにあった妙見社と熊野社を遷し、三社殿がこの地に再興され「里神社(さとじんじゃ)」として呼ばれ崇敬されてきました。 

     当社は、皇祖 天照皇大神あまてらすおおみかみをおまつりし、元伊勢の伝承をもつ神社です。古くより、商売繁盛、交通安全の守護神として崇敬されており、主祭神、相殿神を総称して伊勢部柿本大神いせべかきもとのおおかみとしておまつりしています。
     境内には、末社として若宮八幡宮わかみやはちまんぐう、妙見神社みょうけんじんじゃ、金毘羅神社ことひらじんじゃ、秋葉神社あきばじんじゃ、住吉神社すみよしじんじゃ、山王神社さんのうじんじゃ、戎神社えびすじんじゃをおまつりしています。特に戎神社の十日戎は多くの参拝者で賑わいます。
  • 「倭姫命世記」は、五十鈴宮が創祀された背景となる元伊勢の御巡幸について記載されている大切な史書です
    元伊勢の御巡幸は、その後、34年という長い年月をかけて垂仁天皇26年、神宝の御鎮座地となる五十鈴河上に到達し、そこに五十鈴宮と呼ばれる伊勢神宮の内宮が造営されます。御巡幸の目的とは「大神の教に随ひて、国々処々に大宮処を求め給へり」と倭姫命世記(世記)に記載されているとおり、神宝の御鎮座地を大神の導きに従って捜し求めることでした。

    その内容は天孫降臨から始まり、高天原についての簡単な記述が最初に見られます。その後すぐに、経津主尊と健雷命(武甕槌神)が大国主神より広矛を受け取り、国を平定したことや、天照大神に纏わる八尺瓊の曲玉、八咫鏡、草薙剣と呼ばれる三種の神器に関する内容に移ります。特に八咫鏡については、記紀に記されている「この宝の鏡を視ることまさに吾を視るが如くすべし、ともに同床共殿する斎鏡とすべし。」という天照大神の宣託が詳細まで引用されていることから、「世記」の根底にある重大なテーマが天照大神と神宝であることを察することができます。
    元年、神武天皇は日本国に向かって諸皇子の船を率いて東征され、8年の正月には橿原にて都の帝宅を経営し、天つ璽の剣と鏡を捧げ持ち賜いて祀りました。それ故、天皇家にとって「剣」と「鏡」は最も大切な神宝となったのです。
    「世記」によると神武天皇より開化天皇までに9帝あり、その「630余年の間、帝と神の際(境)は未だ遠からず、同殿共床を以て常と為す。」と記されています。また、導入部分を締めくくる最後の文章として、「故に神物と官物ともまた、未だ分別されず。」と書かれていることにも注目です。短い導入部分の中でも、神宝の存在が重要視されていたことがわかります。
  • 吉備の建日方

    桑名野代宮では、「神風の伊勢国」から来られた国造建日方命や、天日別命の子孫で渡会氏の祖神、後に伊勢神宮の初代神主となられた国造との出会いについても記載されている。

    吉備津神社
    本宮社

     元々、本宮社には吉備津彦の父・天倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)と母・大倭玖邇阿禮比賣命、それに孝元天皇の母(孝霊天皇の妃)・細比売命を祀っていた。吉備津彦の妃・百田弓矢姫命は内宮社に、吉備武彦は新宮社に祀られていたが、明治の時代に新宮社と内宮社は本宮社に合祀された。御崎宮(祭神は犬養健神,温羅神,眞布留神,宇慈香比古神)も本宮社に合祀されている。
     吉備武彦は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と共に蝦夷遠征を行い、日本武尊の実母は吉備武彦の妹で、妃は吉備武彦の娘。吉備津彦の弟・稚武吉備津彦が吉備武彦の父(祖父とも云う)。吉備武彦は吉備津神社において重要な祭神。

    岩山宮
     岩山宮の祭神は「建日方別命(たけひかたわけのみこと)」。古事記によると、伊邪那岐・伊邪那美が8神(大八島(おおやしま))を産み、次に続けて産んだのが、建日方別(瀬戸内海の吉備児島)。


     吉備津彦と建日方別は記紀上では全く関わりないが、吉備津神社に祀られていることから、吉備津彦(or温羅)が瀬戸内海の制海権(児島が拠点)に深く関わっていたことが伺われる。吉備津彦神社にも、建日方別命を祀る岩山神社(石祠)が遺っている。
  • 「建日方別」(たけひかたわけ)とは、吉備児島(岡山県)の古事記における神名です。建日方別命が祀られている神社を調べましたが、主祭神として祀られている神社は、岡山市の国津神社一社のみ、末社に祀られている神社もわずかで、有名な所では、吉備津神社の岩山宮に祀られている。
    吉備津神社の資料
    岩山宮(建日方別)に関する部分に、住吉太神之荒御魂神也とありました。住吉太神は表筒男神、中筒男神、底筒男神の三神を表しますが、資料にはその荒御魂とあります。
    住吉太神の荒御魂とは、塩土老翁(しおつちのおぢ)と呼ばれる神様で、海の神様であり、名前の通り塩業の神様ともされております。児島はかつて塩業の盛んな土地でありましたので、土地神として相応しい神様です。
  • 吉備の国津神社

    國魂建日方別命(くにたまたけひかたわけ)
    [相殿]大国主命(おおくにぬしのみこと)
    [相殿]事代主神(ことしろぬし)
    ※[通称]恵比寿神
    [相殿]少彦名命/少毘古那神(すくなびこな)
    ご祭神について 國魂建日方別命:イザナギ・イザナミの国生みの時に生まれ た吉備の児島を神格化したもの
    大国主命:大地を司る神、国造りの神、農業神、商業神、医療神
    事代主神:海の神、商業の神、釣りの神
    少彦名命:醸造の神、高皇産霊神の子、協力神、常世の神、医薬・石・穀物霊

    由緒 創建年代は不詳である。本国総社神名帳に国津神社。山本氏本に従五位下国津明神と記してあり、備前国内式外百五社の内の一社である。古事記に「然後還座之時生吉備児島亦名謂建日方別」とある。古伝のまま国魂建日方別命と称して斎き祭っている。往古は神嶺の絶頂に御鎮座であったが、現在はこの山麓の陸という所に御鎮座になっている。
    所在地 (〒702-8011)岡山県岡山市南区郡616
    最寄り駅 ●JR宇野線「八浜」駅より徒歩約106分
  • May 2016 編集されました
    日子坐王の孫娘が、倭姫命
    丹波の河上の麻須郎女を娶って、比婆須比売命、真砥野比売命、弟比売命、朝廷別王を生んだ。比婆須比売命(氷羽州比売・日葉酢姫)は垂仁天皇の后となり、景行天皇や倭姫命などを生んだ。

    ミカドワケ王
    古事記開化天皇条に「朝廷別王者三川之穂別の祖」
    古事記」の第9代開化天皇の条には「次に朝廷別王。四柱 この朝廷別王は、三川の穂別の祖」と記載あります。朝廷別王は第9代開化天皇のひ孫に当たることからも、東三河が持つ歴史の古さが窺われます。(注:朝廷別王は丹波道主王の子となります)
    草鹿砥姓を検索すると愛知県で1人しかおらず、豊川市となっています。砥鹿神社社家の草鹿砥氏がその1人に当たるのですが、この名前には深い意味がありそうです。そう、日下部氏(くさかべし)は草壁(くさかべ)皇子に通じている名前なのです

    そして草鹿砥氏は穂別命の後裔氏族ともされているのです。だとすれば、穂別命=日下部氏となり、随分複雑で頭が混乱しそうになってしまいます。また記紀によれば日下部連の祖は狭穂彦王で丹波道主王と狭穂彦王は兄弟となっています。説明書きはややこしいので、系図的に書いてみます。

    開化天皇―彦坐王―丹波道主王―朝廷別王(三河の穂別の祖)
                ―狭穂彦王(日下部連、甲斐国造の祖)

    『日本書紀』によれば宮中に奉斎されていた天照大神・大和大国魂神を崇神天皇の御代、 同殿共床の神威を畏み天照大神を皇女豊鍬入姫命に勅して倭の笠縫の邑に、 大和大国魂神を皇女渟名城入姫命に勅して大市の長岡岬に奉遷した。

    皇女豊鍬入姫命はさらに大宮地を求めて丹波、大和、紀伊、吉備などの各地を巡り、 ついで第十一代・垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が代わって大御神さまにお仕えし、 大御神の永遠にお鎮まりになるべき大宮地を求めて、各地を苦心してご巡幸されたのち、 「この地は、朝日夕日の来向ふ国、浪音の聞えざる国、風音の聞えざる国、弓矢・鞆の音 聞えざる国、大御神の鎮まります国ぞ」 と申されて、垂仁天皇二十六年九月、伊勢の五十鈴川上の現在の地にお鎮まりなった。
    その後、代々皇女が神宮の司祭に選任されている。

    景行天皇の妹で、日本武尊の叔母にあたる。 日本武尊西征の折りには自分の衣裳を与え、東征の折りには草那芸の剣と、火打ちの入った袋を授け、各遠征の成功を助けたという。
  • May 2016 編集されました
    宮路山と本宮山のいずれにおいても天忍穂耳命が祀られている。草壁皇子の墓は宮路山の白山神社にありますが、本宮山の東側尾根は白山と称されています。

    これらの相似を考慮すると、宮路山における草壁皇子の存在は日下部氏(草鹿砥氏)の手配による可能性が高まり、両者の深い関係が想定されます。本宮山山頂に鎮座する砥鹿神社奥宮の末社にも、宮路山南麓東側に鎮座する八柱神社と同じ八柱神社があり祭神も同じです。

    トガノ
    灘区の六甲八幡神社、春日神社の辺りは、都賀野庄(菟餓野)と呼ばれ古くから開けた所。春日神社(写真)の巨大な楠木には、歴史の重みを感じさせる。
    二皇子は戦の吉凶を占う「うけひ狩」を兎餓野(とがの、神戸説と大阪説がある)で行う

    犬上の君の祖、倉見別(くらみわけ)と吉師の祖のイサチの宿禰は共に香坂王に付きました。そして将軍として東国の兵を興させました。

    一方、香坂王と忍熊王は一緒にトガノに出て、ウケヒ狩り(占いの狩)をして
    「もし、事が成就するならば、必ず良い獲物が手に入る」
    と言いました。

  • 物部十市根命(といちねのみこと)は垂仁天皇の御世に物部連公の姓を賜り、次に大連となったとあり、その子の物部膽咋宿禰(もののべのいぐいのすくね)は三川穂国造(みかわのほのくにのみやつこ)である美己止直(みことのあたい)の妹・伊佐姫を妾とし、一児を生む。とあります。

    時代を考えると、渥美神戸を献じた国造とは三川穂国造の美己止直となりそうです。また名前から判断して、美己止直は「古事記」に記載ある三川穂別(みかわのほのわけ)の祖とされる朝廷別王(みかどわけのみこ)と同一人物かもしれません。
  • 倭姫命世記では、崇神天皇五十八年、豊鍬入姫命は吉備から倭の“彌和(みわ)の御室嶺上宮(みむろのみねかみのみや)”へ還り、此処で天照大神を二年間奉斎される。

    御室嶺上宮と笠縫邑は同所か?、としていると述べた。笠縫邑に就いては諸説ある。笠縫邑の比定地で最も有力なのが三輪山麓の“三輪の檜原”、大神神社の摂社・檜原神社である。

     世記は書紀や古語拾遺、皇大神宮儀式帳、止由気宮儀式帳などからの引き写しが多い。前回触れたが、倭笠縫邑には大神の御霊代だけではなく草薙剣をも遷し祀ったとする。

     「倭の笠縫邑に就きて、殊(こと)に磯城(しき)の神籬(ひもろぎ)を立てて、天照太神及び草薙剣を遷し奉り、皇女(ひめみこ)豊鍬入姫命をして斎(いつ)き奉らしめ給ふ」と世紀にある。これも、「倭の笠縫邑に就きて、殊に磯城の神籬を立てて、天照大神、及(また)、草薙剣を遷し奉りて、皇女(ひめみこ)豊鍬入姫命をして斎(いは)ひ奉らしむ」と古語拾遺を引き写したものだ。
  • 和の御室嶺上宮の比定地とされる処は

    弥和の御室嶺上宮(世記に記述。儀式帳には美和乃御諸宮)

     ① 笠縫邑と同じか 奈良県桜井市三輪
     ② 大神神社 奈良県桜井市三輪
     ③ 高宮神社・神坐日向神社(大神神社摂社)
     ④小夫天神社 奈良県桜井市小夫

    神坐日向神社 みわにますひむかいじんじゃ
    奈良県桜井市大字三輪字御子宮  
    創祀年代は不詳。
    俗に王子宮とも称し、
    式内社・神坐日向神社の論社で、大神神社の境外摂社。
    ただし、本来は三輪山山頂の神峯鎮座の高宮社が神坐日向神社であり、
    当社は高宮社であると考えられており、
    明治維新後に、両社の名前が誤って入れ替わったとされている。

    祭神は、大物主神と、陶津耳命の娘・活玉依毘売の子である、櫛御方命。
    その子が、飯肩巣見命。その子が、建甕槌命。その子が大田田根子。
    ということで、大神神社初代神主の祖。
  • May 2016 編集されました
    三輪山 高宮神社
    ご祭神 日向御子神(日向王子)

     第5代大物主の蕗根命で語られる「海原の光り」という場面は、日に向かうことから、日向神という名が、第5代大物主の蕗根命に与えられていたかもしれない。
     大三輪神社の摂社神坐日向社(みわにいますひむかい)周辺が「第6代大物主の櫛甕玉命」が住まわれた土地だとすると、住所の「奈良県櫻井市三輪字御子ノ森」の「御子」とは、日向神の「御子」という意味を持ち合わせてくるだろう。
     三輪山山頂の高宮神社(こうのみや)の祭神が「日向御子神」である点から、「第6代大物主の櫛甕玉命」は、「櫻井市三輪字御子ノ森」にお住まいになられてのち、山頂において「日向御子神」として祭られた可能性がある。


    ◇司馬遼太郎は「街道をゆく」で、この地域の古代信仰は大和を拠点に活躍していた出雲族が行なったとしており、その出雲族である「ミワ」という種族が「大物主」を最大の神として祀ったことから三輪山の信仰が始まったとしています
  • 古事記にはスクナヒコナの神が常世国に行ってしまったので、オオクニヌシは愁いました。
    大國主(オホクニヌシ)神は悲しんで、「私一人でどのようにしてこの国を作ることができるだろうか。どの神と私とで、この国を共に作るのか」と告げた。この時、海を照らして寄って来る神がいた。その神は、「私の御魂(みたま)をよく治めるならば、私が共に作り上げよう。もしそうでなければ、国は出来上がらないだろう」と言った。そこで大國主(オホクニヌシ)神が、「それならば、どのようにして治(おさ)め祀(まつ)ればよいでしょうか」と言うと、「そういう汝はだれだ。」「吾は汝の幸御魂奇御魂なり」
    、「それならば、どのようにして治(おさ)め祀(まつ)ればよいでしょうか」と言うと、「私を倭之青垣(やまとのあをがき)の東の山の上に祭祀(さいし)しなさい」と答えた。これが坐御諸山上神(みもろやまのへのかみ)である。 
  • 天照大神(アマテラスオホミカミ)(太陽の女神であり、一族の祖神の一柱)と倭大國魂(ヤマトノオホクニタマ)(大和国(やまとのくに)の国土の神)とを屋敷内で一緒に祀っていたが、その不安定な状態が神の怒りを買った。そこで天照大神(アマテラスオホミカミ)の霊威を豊鍬入姫(トヨスキイリビメ)命の身に憑(つ)け、倭(やまと)の笠縫邑(かさぬひのむら)(諸説ある)に移し祀ることにした。、そのための神籬(ひもろき)(神が降臨する場所。後の神社)をたてた。

    箸墓伝説 
    大物主大神と結婚したヤマトトトビモモソヒメが、夜だけ通ってくる夫に「あなたのお姿を見たい」と言うと、「もっともなことだ。明朝、あなたの櫛筥に入っていよう。どうか私の姿に驚かないように」とお答えになりました。翌朝、姫が櫛筥を開けてみると、そこには衣紐ほどの麗しい小さな蛇が現れました。姫は驚いて叫んでしまいます。すると、大神は恥じてたちまち人の形となり、自分に恥をかかせたと言って大空を踏んで三諸山に帰ってしまわれます。残された姫は仰ぎみて悔い、どすんと座り込みました。その時、箸で陰部を突いて亡くなってしまわれます。この姫の墓を箸墓と言い、その墓は昼は人が造り夜は神が造ったと伝えられています。

    そのため、天皇(すめらみこと)は身を清め、屋敷を清めて、「私の神への崇敬が足りないのでしょうか。神意をお教えください」と祈った。すると、その夜の夢に大物主(オホモノヌシ)神と名乗る神が自ら現れ、「案ずるな。すべては私が与えた試練である。もし私の子孫の大田田根子(オホタタネコ)に私を祀らせたなら、自然に安定するだろう。また、国外の者たちも従うことになるだろう」と告げた。

    秋八月。天皇(すめらみこと)の近しい者三人が、夢のお告げを報告した。どの夢も、「大田田根子(オホタタネコ)命に大物主(オホモノヌシ)大神を祀らせ、また、市磯(いちし)の長尾市(ナガヲチ)に倭大國魂(ヤマトノオホクニタマ)神を祀らせたならば、きっと天下は安定するだろう」というものであった。
  • 日本書記・雄略天皇条にこんな記事がある。

    七年の秋七月。天皇〔すめらみこと〕は少子部連〔ちひさこべのむらじ〕のスガルを呼び、「三諸岳〔みもろのをか〕の神の姿とやらを見てみたい。おまえはおもいきったことをする男だ。行って捕えて来い」と命じた。<この山の神は大物主〔オホモノヌシ〕神のことであるという。あるいは、菟田墨坂神〔うだのすみさかのかみ〕であるともいう>。スガルは、「ためしてみましょう」と答え、三諸岳〔みもろのをか〕に登って大蛇を捕えて戻った。ところが天皇〔すめらみこと〕が身を清めていなかったため、大蛇は轟音〔ごうおん〕を鳴らして目を光らせた。天皇〔すめらみこと〕はびびり、目を合わせることもできず御殿の奥に隠れ、山に戻させた。そしてその名を改めて雷〔イカヅチ〕とした。
    「御諸〔みもろ〕」は神霊の宿る山の意。大物主〔オホモノヌシ〕神は三輪山〔みわやま〕(桜井市)の神で、第10代崇神〔すじん〕天皇の時代からしばらくの間、大和〔やまと〕政権による祭祀の最大の対象であった。
  • May 2016 編集されました
     倭迹迹日百襲姫は、父の第七代考霊の時代に始まり、第十代宗神の時代まで生き、活躍した女傑である。纏向に最初に都した第十代宗神天皇の時代には、倭迹迹日襲姫が、崇神が神浅芽原 ( カンアサシハラ ) に八十万の神々を召集した時、第七代考霊天皇の皇女倭迹迹日百襲姫が突然、神がかりとなって、武道安彦の命の謀反や、吾田姫の呪言について、崇神天皇に注意を促した。たぐい稀なる霊力の持ち主との記述の記録があり、崇神天皇が、北陸、東海、西海、丹波の四方面に向けて、四道将軍を派遣した時、あるいは、疫病の流行に際しても、倭迹迹日襲姫が関与したとするなら、卑弥呼の最有力候補が、箸墓の王倭迹迹日百姫であるとするのもやむをえぬことである。

    第七代考霊天皇は父、都は、黒田盧戸宮 ( くろだのいおとのみや ) は現在の田原本町黒田。第八代孝元天皇は兄、都は、軽境原宮 ( かるのさかいはらのみや ) 現在の奈良県橿原市大軽。第九代開花天皇は 孝元天皇の子)、都は、春日率川宮 ( かすがいざかわのみや ) 、現在の奈良市本子守町の率川神社附近。第十代宗神天皇は開花天皇の子、纏向の地、磯城端離宮 ( しきのみずかみのみや )。

    倭姫の時代は、崇仁、景行の時代で、纏向に最初に都した第十代宗神天皇の時代には、倭迹迹日百襲姫が、崇神が神浅芽原(カンアサシハラ)に八十万の神々を召集した時、第七代考霊天皇の皇女倭迹迹日百襲姫が突然、神がかりとなって、武埴安彦命の謀反や、吾田姫の呪言について崇神天皇に注意を促した

    纒向の発生と消滅
    古墳時代前期(3世紀初頭~4世紀)になって急激に発展し、凡そ150年後の4世紀中頃には大集落が消滅している。

     纒向遺跡は古墳時代の始まりを告げる遺跡であり、今日、邪馬台国畿内説を立証する遺跡ではないかとして注目を浴びている。3世紀前半の遺構は少数である。遺跡の最盛期は3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてである。農業用の大型水路や無数の土抗の中に三輪山祭祀に関する遺物のセットが多数投げ捨てられていた。石塚古墳周濠から吉備系の祭祀遺物弧文円板(こもんえんばん)が出土している。ピークが過ぎた4世紀末には埴輪が出土する。

     2009年、纒向遺跡または纏向遺跡(まきむくいせき)が脚光を浴びつつある。纒向遺跡は、奈良県桜井市の北部に位置し、御諸山(みもろやま)とも三室山(みむろやま)とも呼ばれる三輪山の北西麓一帯に広がる田(からすだ)川と纒向川に挟まれた扇状地につくられた弥生時代末期〜古墳時代前期の大集落遺跡群を指す。

     記紀では、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)、纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)、纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)が存在した伝えられ、さらに雄略の長谷(泊瀬)朝倉宮、欽明の師木(磯城)島大宮(金刺宮)なども存在した。万葉集にも纒向の地名がみられる歌が数多く詠まれている。

    纒向遺跡全体は、当時としては最大級の都市集落跡である。興味深いことは、纒向遺跡にはムラを構成する住居址や倉庫址が発見されておらず、遺跡を囲む環濠がない。これは明らかに平和的都市国家を表象しており、高天原王朝系のそれとは違う。
  • 纒向遺跡
    規模
    纒向遺跡は唐古・鍵遺跡の約10倍の規模を持ち、藤原宮に匹敵する巨大な遺跡で多賀城跡よりも大規模である。
    都市計画のなされていた痕跡と考えられる遺構が随所で確認されている。矢板で護岸した幅5メートル、深さ1メートル、総延長200メートル以上にわたる巨大水路の発見。底からは湧水がみられ、内部は大きく分けて3層に分かれている。径約3メートル・深さ約1.5メートルの一方が突出する不整形な円の土抗が約150基発見された。掘立柱建物跡と、これに附随する建物跡(古墳時代前期前半の2×3間で床面積約23平方メートルの建物、家屋倒壊遺構と黒漆塗りの弧文を持つ木製品、1×1間の小家屋と2×2間の総柱建物と弧文黒漆塗木製品、纏向玉城宮跡の石碑、宮殿居館の存在が疑われる。その他に掘立建物17棟検出)。竪穴式住居、弧文板・土塁と柵列を伴ったV字形の区画溝、導水施設跡(宮殿の排水施設か)、遺跡内に点在する古墳(纏向古墳群)、祭祀遺跡(穴師ドヨド地区の景行天皇纏向日代宮の伝承地から碧玉製勾玉・石釧・管玉・ガラス小玉、4世紀後半の土器など出土)。

    主な遺物として、朱色に塗った鶏形木製品、吉備地方にルーツを持つとされる直線と曲線を組合わせて文様を施した弧文円板(こもねんばん)と呼ばれる木の埴輪。絹製の巾着袋、瓦質土器(1996年に土器片の発見。胎土成分組成の分析により、2001年に国内で類例のない事が確認され、朝鮮半島内の技術で作られたものと判明した)、ミニチュアの舟、木製鏃、搬入土器、石見型楯形(いわみがたたてがた)木製品。 日本全国で作られたと見なされる遺物が出土しているが、中でも東海地方の物が多い。
  • 弥生時代の「近畿の首都」ともいうべき唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡があります。おもしろいことに、纏向遺跡は、ちょうど唐古・鍵遺跡と入れ代わるように出現します。紀元180年ごろに突如として姿を現し、大いに栄えたあと、紀元340年ごろ、急速に衰退するとされています。卑弥呼が女王になったのが紀元180年ごろですから、まさに、邪馬台国から初期大和朝廷の時代に重なります。しかも、邪馬台国から大和朝廷へのちょうど境目に箸墓は位置するわけです。

    箸墓の名称は、宮内庁によると「倭迹迹日百襲姫命の大市墓」となっています。この箸墓のある纏向遺跡こそ、今では邪馬台国の候補地としてきわめて有力になっているわけですが、このあたりの発掘で、ちょっと気になる出土品が出ています。 纏向遺跡の河跡から出土した7世紀の土器には、「大市」と推定できる墨の文字(墨書)が書かれていました。『日本書紀』には、百襲姫が葬られた場所を「大市」とする記述があり、これとも符合し、まさにこの土地の名を記しているようです。古代には、このあたりは「纏向」と呼ばれ、磯城郡大市郷でした
  • 唐古・鍵遺跡が「弥生時代の近畿の首都」(都出比呂志氏)と言われる程のものならば、そこから6kmという至近距離にある大和朝廷の大王家として栄えることになる巻向(まきむく)地域との交流はどのようなものだったのだろうか?各地から集まった同じような土器が両地域で見つかると思われる。
    唐古・鍵遺跡の西へ僅か1km程にある第7代孝霊天皇の黒田廬戸宮とはどのように関連しているのだろうか?
    ◎同遺跡のほぼ区域内に崇神天皇6年9月3日に鏡を鋳造したとされる式内社の鏡作神社(かがみつくりじんじゃ、鏡作坐天照御魂神社)が鎮座しているが唐古・鍵の青銅器生産と関連づけられるものであろうか。

    第6代孝安天皇暦102年(紀元前291年)に、第7代孝霊天皇により現在の奈良県磯城郡田原本町黒田周辺の地に遷都されたと伝えられる。そのため、黒田庵戸宮ともいわれる。ただし、正確な所在地については諸説ある(奈良県史料『大和志料』によると黒田ではなく同町字宮古であるとか、「いおと」という読みから同字伊与戸に置かれたとする説がある)

    奈良県磯城郡田原本町黒田には、庵戸神社(廬戸神社、孝霊神社)があり、これが庵戸宮の伝承地とされている。ただし、もともとは鎮守社として同町の法楽寺(真言宗、聖徳太子開基)の境内にあったものが、明治時代初期の神仏分離令により現社地へ遷座し黒田村の氏神として引き継がれたという経緯(旧地より移した「明和7年(1770年)」の紀年銘をもつ石燈籠1対により確認できる)の為、現在の庵戸神社は厳密には宮跡とはいえない。これに対して法楽寺には、庵戸宮跡であったことを示す石碑が建立されている。かつてはここに25宇もの堂塔伽藍が建ち並んでいたが、承元元年(1207年)に全て消失し、現在はわずかに1宇(貞応元年(1222年)に再建)が残るのみである。

    庵戸神社には、祭神として孝霊天皇の他、倭迹迹日百襲媛命、彦五十狭芹彦命、稚武彦命をはじめとする皇子皇女を含めた計7神が祭られており、毎年10月9日に大祭式例祭が行われる。庵戸宮は、後述する伝説のように桃太郎と卑弥呼ゆかりの地とされているが、伝説を鵜呑みに捉えた場合、 桃太郎と卑弥呼は共に孝霊天皇の皇子皇女として兄妹であったということになり、それら兄妹の生誕の地としても伝えられている
  • 宇治、三室戸、御室山
    宇治のある山城盆地は、太古に瀬戸内海の断層によって出来た陥没の入り江であり、大阪湾の一部であった。この入り江の名残が戦前に埋められた巨椋(おぐら)池である。宇治市を含む京都盆地からは、旧石器時代や縄文時代の遺跡が発見されているが山城地方には弥生時代の遺跡が多い。
     北九州から瀬戸内海を通り、河内、紀伊を経由して大和に入った農耕文化が、山城国には、淀川や木津川を溯って伝わった。これは、一、二世紀の頃と考えられているが、この農耕文化の伝播の経路を示す伝承として天日槍とその渡来文化がある。『紀』によれば、垂仁天皇三年の条に「是に天日槍、宇治河より泝(さかのぼ)リて、北近江の吾名村に入りて暫く住む」とあり、この吾名邑については、諸説ある。古北陸道の穴多(太)であれば、岡谷津から山科を経て小関越をし、三井寺の南に出て、大津京域を通り東北の穴太に行き、古北陸道を若狭に至ったであろう。天日槍が琵琶湖の東岸を通ったという説もある。私は穴太であろうと思う。

    更に当地方には宇治宿禰の一族が住んでいたといわれている。宇治宿禰は饒速日命(にぎはやひのみこと)六世の孫とされており、出雲族との繋がりを示している。更に三室戸寺の十八神社の由来に「初め三輪御諸山明神(大物主命)を祀った」とあることから、当地方には古く縄文時代から弥生時代にかけて渡来系の出雲族が進出していたようである。

    新羅神社
    鎮座地は宇治市菟道滋賀谷。祭神は素盞鳴命と五十猛命である。三室村の辺りは古来、神在ますところとして信仰されてきた。御室の里と言われ、三室戸寺も御室、御室堂といわれた。三室戸の戸の文字は堂の転化したものか、または場所・入り口を指し、神座を意味するといわれる。その神座は「みむろ山」と呼ばれた明星山を指している(『宇治市史』)。井上香都羅『みむろ物語』によれば、「みむろ」の意味は三室山にある岩室からきており、弥生時代に一族の長など首長級の者が死んだ場合、山の岩室に葬った。この死者の霊の宿る岩室を「み室」と呼び、子孫たちは祖霊の宿る山の正面を祭祀の場に定め、年に一度か二度祖霊の祭りを行った、という。現在この山の山頂付近には盤境らしい露岩の点在が見られ、この山を神の降臨する所として古代の住民の信仰の跡がうかがえる。またそこには康和年間(1099―1104)に三室戸寺を中興したと伝えられる三井寺の僧隆明の墓があるとされ、聖域となっている。
  • 宇陀の元伊勢

    阿紀神社では天照大神が本殿に、相殿には秋姫命、八重思兼命、天手刀男命が祀られています。天照大神社殿は神明造りであり、堅魚木を10本用いて伊勢神宮と同じ建て方を踏襲しています。阿紀神社が古くから重要視されたのは、単にその場所が三輪山に近く、交通の要所であったからだけでなく、倭姫命が到来する以前、そこに神武天皇も訪れ、宇陀の一角に瓊瓊杵尊の母にあたる秋津姫命と天照大神を祀ったからではないでしょうか。阿紀神社の裏を流れる本郷川の支流
    阿紀神社の裏を流れる本郷川の支流「阿紀神社御鎮座口訣之事」には、神武天皇が天の香山の土を用いて器を作らせ、酒を注いで供え、天神地祇を祀ったことが記載されています。また、「皇大神宮はじめて天降り坐す本所なり」と明記されていることからしても、阿紀神社は伊勢神宮と同様に、天照大神と秋津姫命を祀る重要な場所として古代から認知されたいたことがわかります。
     阿紀神社の周辺は、元来、宇陀の中心であり、そこは皇大神宮の神戸でもありました。太神宮緒雑事記には、「時に国造り、神戸等を進る」とも記され、境内の石燈籠には「神戸大神宮」と刻まれています。1,000戸以上にも及ぶ神宮の神戸は、そのほとんどが伊勢周辺に散在し、畿内の大和国においては「宇陀神戸」の15戸が、唯一の神戸だったのです。
  • May 2016 編集されました
    宇多佐佐波多宮(篠畑神社)

    佐佐波多宮の祭神は天照大神です。そして宇陀秋宮(阿紀神社)と同様に大倭国造が神田と神戸を奉ったことが皇大神宮儀式帳に記されており、宇陀では古代、神戸村があった阿紀神社の周辺と共に地域一帯が伊勢との深い関わり合いを持っていたのです。

    御由緒
    当社は、宇陀市榛原山辺三に鎮座しており、天照皇大神、市杵島姫命をお祀りしている。 国史現在社とし明治6年4月村社に昭和10年県社に列せられる。 創立 垂仁天皇25年春3月倭姫命、鎮座の処を求め、菟田の篠畑に至るとあり、 他 類聚国史3倭姫世記、日本書記通證10、日本紀標註巻7、造伊勢二所大神宮宝基本紀、大和誌(篠畑神祠)倭漢三才図会、神器考證等古文書に篠畑の記載あり、 往古は栄えしも明治24年頃氏子27にて氏神となす。秋の例祭に倭姫命に供奉せる童女に因み、稚児7人の奉仕あり、鱠(えそ)を供える事から「鱠祭り」とも言う。

    大和国宇多秋宮(宇太阿貴宮)に遷り、四年間奉斎。この時、倭国造は、采女 香刀比売(かとひめ)、地口・御田を進った。大神が倭姫命の夢に現はれ「高天の原に坐して吾が見し国に、吾を坐せ奉れ」と諭し教へた。倭姫命はここより東に向って乞ひ、うけひして言ふに、「我が心ざして往く処、吉きこと有れば、未嫁夫童女に相(逢)へ」と祈祷して幸行した。
     すると佐々波多が門(菟田筏幡)に、童女が現はれ参上したので、「汝は誰そ」と問ふと、「やつかれは天見通命の孫、八佐加支刀部(やさかきとめ)〔一名は伊己呂比命(いころひのみこと)〕が児、宇太乃大称奈(うだのおほねな)」と申上げた。また「御共に従ひて仕へ奉らむや」と問へば「仕へ奉らむ」と申上げた。そして御共に従って仕へ奉る童女を大物忌(おほものいみ)と定めて、天の磐戸の鑰(かぎ)を領け賜はって、黒き心を無くして、丹き心を以ちて、清潔く斎慎み、左の物を右に移さず、右の物を左に移さずして、左を左とし、右を右とし、左に帰り右に廻る事も万事違ふ事なくして、太神に仕へ奉った。元(はじめ)を元とし、本を本にする所縁である。また弟大荒命も同じく仕へ奉った。宇多秋宮より幸行して、佐々波多宮に坐した。
  • 元伊勢「敢都美恵宮」

    垂仁天皇4年[乙未]、ヤマトヒメは近江国の甲賀の日雲宮に遷り、4年間奉斎。
    いわゆる元伊勢「甲可日雲宮」である。この時、近江国造は、地口・御田を進呈した。
    さらに垂仁天皇8年[己亥]、同国の坂田宮に遷幸し、2年間奉斎。
    いわゆる元伊勢「坂田宮」である。この時、坂田君などは、地口・御田を進呈した。
    またヤマトヒメは、垂仁天皇10年[辛丑]、近江国の坂田宮から、美濃国の伊久良河宮に遷幸し、4年間奉斎。
    いわゆる元伊勢「伊久良河宮」である

    次に、尾張国の中嶋宮に遷座し、ヤマトヒメは国寿きした。
    k
    いわゆる元伊勢「中島宮」である。
  • 坂田神社由緒   
    御由緒
    垂仁天皇8年の御代、天照皇大臣を淡海甲可日雲宮より、此地に2ヶ年の間奉斎され、御分霊の旧社として、古より坂田宮又は坂田大神宮とも称し、坂田郡の総社として信仰が厚かった。 又、天皇の命をうけて、大御神鎮座の地を求めた倭姫命の御神徳を偲び、命を祀ったのが坂田神明宮の起源である。当社は、彦根藩井伊家の崇敬厚く、 享保18年、藩主直惟は社殿を造営し、神殿を寄進、以来社殿の修復等に費用を献じた。 又奥方より鏡、絵馬、家老以下神田の米、石燈籠を奉献された。明治14年郷社に列し、昭和20年県社となる。
    御祭神
    天照皇大神 豊受昆賣命

    →式内社調査報告(昭和52年発行)  皇學館大学出版部
  • 龍神社
    ご由緒・創祀・創祀者

    籠神社の創建は奈良時代の養老三年(719)ですが、奈良時代に初めて祭祀が行われるようになったという意味ではありません。と云いますのは、籠神社は奥宮真名井神社の地から現在の籠神社の地に遷宮され、創建されたからです。籠神社が創建されるまで奥宮真名井神社は吉佐宮(匏宮・與謝宮・与謝宮・与佐宮などと表記していずれも「よさのみや」と訓みます)と呼ばれておりました。神代の時代から天照大神の孫神であり、邇邇芸命の兄神である当社海部家の始祖彦火明命が豊受大神をお祀りしていました。そのご縁故によって崇神天皇の御代に天照大神が倭の笠縫邑からお遷りになり、天照大神と豊受大神を「吉佐宮(よさのみや)」という宮号で四年間お祀り申し上げました。その後天照大神は第十一代垂仁天皇の御代に、又豊受大神は第二十一代雄略天皇の御代にそれぞれ伊勢にお遷りになりました。

    真名井神社は飛鳥時代の初め頃まで「与謝宮(吉佐宮)」と呼ばれていましたが、その後当社海部家二十六代目当主の海部直伍百道祝(いほじはふり)が宮号を「籠宮」と改め、真名井神社境内地であった真名井川の川辺に一旦遷宮し、その後奈良時代元正天皇の御代に、二十七代目当主海部直愛志(あまべのあたええし)が、現在の籠神社の地へと遷宮し、それを契機に主祭神を籠神社海部家の祖神である彦火明命とし、相殿に豊受大神・天照大神・海神・天水分神を併せ祀り創祀いたしました。
  • 三輪神社の本社は大和の三輪山の麓にある大和一宮、三輪神話でおなじみの「大蛇」を祀り、似たような神話は丹後も各地にあるし、また元伊勢とも関係してくる物語がある。
    崇神は天照大神と倭大国玉神の2神を祀っていたが、国内疫病災害が多く国が治まらないうえ外国も背く、大国玉神を大事にしなかったからの原因で大和を追い出されたのが皇祖神・天照大神で、のちに各地をさまよって元伊勢の伝承を残すことになった。
    穂積臣の遠祖などが夢見たように、太田田根子を祭主として大物主神を祀らせ物部連の祖・伊香色雄を班物者して祀ると治まったという。三輪神社はイカガ、物部、穂積などが斎祀る在地の神であった、穂積郷はこのあたりにある、この神域から追い出されたのが侵入者であった皇祖神の天照大神であった。
  • 木積神社(旧郷社)
    (鎮座地) 与謝郡岩滝町字弓木小字石田宮ヶ谷
    (祭 神) 五十猛神(天照大神の弟、素盞嗚尊の子
          大物主神「素盞嗚命尊の子、大国主神の別名)
    (由緒、沿革)
     当神社は「木積山王宮」とも云われる。創立は平安時代醍醐天皇の御代、延喜二年(九〇二年)の勅により全国各地における崇敬篤き神社を選び「延書式内社神名帳」が作られ当神社はその中で官幣小社として載せられており、よってその創立はそれ以前と考えられる。しかしその後の罹災等により建築物社記、古文書等を消失したため、その沿革等を詳しく知ることはできないが、現存する古文書「丹後国式内杜取調書」「山王宮社再建寄進帳」によると、天明六年丙午八月(一七八六年)に再建され、その後昭和一五年社殿改築がなされ現在の神域となっている。
     また「三輪神社・祭神大物主神」については、創立年代は不詳なれど、慶応四年四月の記録に「山王大神・祭神大物主神」とあり、明治二年六月一七日「三輪神社・祭神大物主神」と改号され「木積神社」に配祀されている。
     「木積神社」「三輪神社」共に、樹木、木材家屋・医薬治療、延命息災、国土経営、家運隆昌の祖神として、古くから氏子はもとより、歴代藩主を始め広く世人に崇敬されている。
    (社宝)
      中務卿有栖川宮殿下御筆「木積山王大神」神号
      狛犬(石造)  二体
      石灯籠    二基
      宝篋印塔   二基

    注意
    山王宮と呼ばれる神社が各地にあるが、一般には山王宮は近江の日枝(日吉)神社とされ、後に日吉神社などと改称されたりしている。しかしその日枝神社は、日枝山(比叡山)の神である「大山咋神」を祀っていたもので、後に近江京遷都の翌年に大津京鎮護のため大和国三輪山の大物主神を勧請し共に祀られ2神を同体としている。より古くは大物主神も山王神と呼ばれていたという。
    山王宮あるいは日吉神社と今は呼ばれているものも、あるいは本当はより古い三輪神社かも知れないことになる
  • June 2016 編集されました
    初瀬の山も神宿る山であったらしい。赤い橋を渡ったところに石碑が立てられており、「元伊勢・磯城伊豆加志(厳樫)本宮 伝承地域」とある。

    「元伊勢」である。元伊勢神社といえば、桧原神社もそうであった。伊勢神宮は、三輪山の桧原神社から初瀬山の磯城伊豆加志神社(しきいづかし)へ、さらに宇陀の山を越えて、伊勢に落ち着いたのか?

    三室のやま
      みつつゆけ
      吾が背子が
      い立たしけむ 
      厳樫(いつかし)の本(もと)

    由緒書きによれば、11代垂仁天皇の時代、磯城厳樫(しきいづかし)の地に8年間ほど天照大神を祭り、随神としてこの場所に手力男を祭り、北の山には豊秋津姫を祭った、とある。
  • 阿佐加国の阿佐加の峯に荒ぶる神・伊豆速布留(いつはやふる)神があり、行き来する人を取り殺していました。そこで、倭姫命に大若子が「種々の下賜品をその荒ぶる神に奉げてお鎮めください」と進上したので、倭姫命は阿佐加の山の峯に社を作り、その神を祀ると神は「うれし」と鎮まりました。
    一書には、同じ話(阿佐加の山の神)について次のように書かれています。
    {天照太神が美濃国より廻り阿濃の藤方片樋宮に至り鎮座された。この時、安佐賀の山に荒神がいて道行く人を取り殺していたので、倭姫命は度会郡の宇遅村五十鈴川上の宮に入られず、藤方片樋宮に神を祀られたのだった。
    そこで、倭姫命は中臣大鹿嶋命、伊勢大若子命、忌部玉櫛命を遣わして、天皇に相聞された。
    すると、天皇が『その国は、大若子の祖先の天日別命が平定した山であるから、大若子命がその神を祀りたいらげて、倭姫命を五十鈴宮に入れ奉らしめよ』と詔を出された。
    こうして、大若子は引き返し種々の幣によって荒神を祀り平らげ、社を安佐駕に定め祀った。この後、倭姫命はお入りになることができた。}

    上記の文は極めて意味深なのです。
    そこは、大若子命の祖神(天日別命)が平定した地だというのです。
    その地の「荒神を鎮めるために大若子命の力を借りよ」というのです。

    大若彦命は、下宮祀官の度会(わたらい)氏の祖神なのです。豊受太神宮禰宜補佐次第にその事績を記されているそうです。つまり、五十鈴川流域は、もともとは度会氏の祖先の地だったと云うことです。度会氏の聖域にヤマトヒメ命が入っていったと書いてあるのです。
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