葛城、剣根命、

November 2018 編集されました カテゴリ: 古代氏族
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『神武紀』:高尾張を葛城といい、剣根を葛城国造とした 高尾張邑に土蜘蛛がいて、身の丈が短く、手足が長かった。侏…

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コメント

  • 竜山石製長持型石棺の多くは大王の古墳から出てくると間壁氏は言っている。
    奈良県御所市室宮山古墳 238M
    奈良県北葛城郡新庄町屋敷山古墳 145M
    大阪府堺市大仙町大仙古墳(伝仁徳陵)486M
    大阪府堺市乳の岡古墳  150M
    大阪府羽曳野市誉田墓山古墳 220M
    大阪府藤井寺市津堂城山古墳 200M
    大阪府天王寺区茶臼山古墳? 200M
    京都府城陽市久津川車塚古墳 156M 
    など(間壁忠彦『石宝殿 古代史の謎を解く』1996)
  •  天日鷲命とは、何者なのか? 

    『続・阿波国風土記』には、
    天津國玉神ノ御子 天日鷲命ハ 即日向皇子ニテ 是天石門別神 其御霊ヲ倭大國玉神トイフ
    天石門別神 櫛磐竃神ノ后神ヲ 天石門別八倉姫トイフ 
    次妃豊玉姫ハ 椎根津彦ノ祖ナリ 

    とあります。

    古事記の大国主による国譲り

    故、天鳥船神を遣はし、找重事代主神を徴し来たらしめ、問ひたまふ時、其の父の大神に語りて曰く、
     「恐し、此の国は、天つ神の御子に立奉りたまへ」と、いひて、
     即ちに其の焙を踏み傾け天の逆手を青柴垣に打ち成して隠りましき。

    大国主はこう続けます。
     亦僕が子等、百找十神は、即ち 找重事代神、
     神の御尾前となりて仕へ奉らば、違ふ神はあらじ。

    大国主は、「事代主が先頭に立って天孫に仕へ奉るならば、葦原中国の神々は皆それに従う」と言っているのです。逆を言えば、事代主がそうしなければ、葦原中国の者たちは国譲りに納得せず反乱する。
  • May 2016 編集されました
    高御魂命の孫。山背久我直の祖。役直、葛城直の祖。

    『先代旧事本紀』第三巻天神本紀の山背久我直等祖の天神立命に関して、 『先代旧事本紀訓註』(大野七三著)の本文には天背男命とあるが、 巻末の概説では天神立命とある。
    国史大系登載の『先代旧事本紀』では天神立命とあるので、本文中の天背男命は誤記かもしれない。

    ただし、天背男命の父神の名が天壁立命なので、似た名前の天神立命は天背男命の別名という可能性もある。

    また、天世手命は久我直等の祖とあり、天世乎命を書かれている場合もあるが、天世乎命が正しい字なら、 「あめのせお」と読め、天背男命と同神と考えると、山背久我直等祖の天神立命は天背男命で良いのかもしれない。


    天神立命は久我神社の境内社である歯神社(はがみのやしろ)の祭神でした。
    天神立命は山背久我氏の祖神ともされ、歯神社が本来の久我神社との説もあります。
    天神立命は饒速日命の天孫降臨に随伴された32神の1神で、船長の役割を務めました。
  • 天活玉命は葛城氏の祖となっている。

    二人の子がいるが1人は天神立命で、この子孫が葛城氏・賀茂氏となっている。今一人の天三降命の子が宇佐津彦である。宇佐津彦は神武天皇が東遷時宇佐にやってきた時に天皇を歓待している。饒速日尊のマレビトとなる前に宇佐地方を統治していたとおもわれる。

    葛城氏は葛城山の高天彦神社を始原とし、この神社は高皇産霊神を祀っている。この神社周辺は高天原と呼ばれている。天活玉命は饒速日尊と共にマレビトとして大和国にやってきた。天活玉命の任地は葛城地方だったのであろう。
  • 高千那毘売。
    オウチの妹。
    オシマコトの妻。ウマシウチの母。 
      
    『古事記』意富那毘(オオナビ) の妹。葛城之高千那毘売(タカチナ姫)。味師内(ウマシウチ)宿禰の母
  • ウマシタケヰココロ
    屋主忍男武雄心 (ヤヌシオシオタケオゴコロ)。屋主忍雄武猪心命 (ヤヌシオシオタケイゴコロ)。
    オシマコト(ヒコフト)とタカチの子。 =ウマシウチ 
    紀の国造の祖ウツ (宇豆比古) の妹、ヤマトカゲ姫を娶ってタケウチを生む。 
    景行天皇の三年春、紀の国に神 (ムカツ姫) を祭ろうとするが、占に御幸は良くないと出たので、ヰココロを九年間アビカシハラに遣って祭らせる。

    奈良県桜井市大字谷字西浦、若櫻神社摂社、 高屋安倍 (タカヤアベ) 神社。
  • 神功皇后摂政前紀三月一日条の中にある。かつて自分にのりうつって新羅(しらぎ)遠征を勧告した神に、その御名(みな)を問う場面。神は七日七夜にいたってようやくその重い口を開く。
    「神風の伊勢国の百伝う(ももづたう)度逢県(わたらいのあがた)の拆鈴(さくすず)五十鈴宮( いすずのみや)に所居(ま)す神、名は撞賢木厳之御魂(つきさかきいづのみたま)天疎(あまさかる)向津姫(むかつひめ)」と。
     すなわち、ここに伊勢神宮のアマテラスのもう一つの異名が堂々と天疎(あまさかる)向津姫(むかつひめ)として記されている。
  • 大分県日田市大字日高74番地。會所神社
    祭神は久津媛(比佐津媛)とある。
    熊襲征伐の帰りの景行天皇を、ここ日田で出迎えた。

    仲哀天皇九年三月、神功皇后は新羅征伐の時、杵島県石崎に来御あり、諸賊を誅滅され、その礼奠として、天疎向津姫神、天之事代神、地之事代神、表筒男命、中筒男命、底筒男命を勧請された。
       
  • 奈良県御所(ごせ)市の秋津遺跡
    古墳時代前期(4世紀前半)の大型建物群跡が見つかり、県立橿原考古学研究所が24日、発表した。
    珍しい構造の塀で囲まれた国内最大規模の区画の中に、4棟が規則的に並んでいた。
    同研究所は、ヤマト王権の大王か有力豪族が重要な祭祀(さいし)を行う施設だった可能性があるとみて、文献の少ない「空白の4世紀」を考える上で重要な成果だとしている。
    ◎現地説明会
    1.「馬歯」の出土品があった。この時期にすでに馬がいた。
    唐古・鍵の団栗山古墳からも、馬具(蛇状鉄器)が出土しているから、馬は弥生時代からいたと推測できる。(唐古・鍵ミュージアム)

    2.「鉄滓とふいご」も出土していた。
    一般には製鉄は古墳時代後期より遡らないと言われている。(⇒日本における鉄の歴史)
    また、塀があったということは、木を加工するのに鉄器は必要であり鉄器を生産又はどこかから手に入れていた。
  • 纒向の発生と消滅
    古墳時代前期(3世紀初頭~4世紀)になって急激に発展し、凡そ150年後の4世紀中頃には大集落が消滅している。
     2009年、纒向遺跡または纏向遺跡(まきむくいせき)が脚光を浴びつつある。纒向遺跡は、奈良県桜井市の北部に位置し、御諸山(みもろやま)とも三室山(みむろやま)とも呼ばれる三輪山の北西麓一帯に広がる田(からすだ)川と纒向川に挟まれた扇状地につくられた弥生時代末期〜古墳時代前期の大集落遺跡群を指す。

     記紀では、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)、纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)、纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)が存在した伝えられ、さらに雄略の長谷(泊瀬)朝倉宮、欽明の師木(磯城)島大宮(金刺宮)なども存在した。万葉集にも纒向の地名がみられる歌が数多く詠まれている。

    纒向遺跡全体は、当時としては最大級の都市集落跡である。興味深いことは、纒向遺跡にはムラを構成する住居址や倉庫址が発見されておらず、遺跡を囲む環濠がない。これは明らかに平和的都市国家を表象しており、高天原王朝系のそれとは違う。
  • June 2016 編集されました
    竜山石製の長持形石棺が出土した古墳

    室宮山古墳 - 奈良県御所市、238メートル、蓋に格子状彫刻
    屋敷山古墳 - 奈良県葛城市、145メートル
    狐井城山古墳 - 奈良県香芝市、140メートル
    前塚古墳 - 大阪府高槻市、95メートル
    墓山古墳 - 大阪府羽曳野市、225メートル
    心合寺山古墳 - 大阪府八尾市、160メートル
    (津堂城山古墳(藤井寺陵墓参考地) - 大阪府藤井寺市、208メートル、蓋に格子状彫刻。竜山石と確認されていない、、)
    久津川車塚古墳 - 京都府城陽市、156メートル
    朱千駄古墳 - 岡山県赤磐市、80メートル

    前塚古墳(まえづかこふん)は、大阪府高槻市岡本33に所在する前方後円墳。今城塚古墳のすぐ北西に位置し、長持形石棺が発掘されたことで知られている。古墳時代中期の古墳である。
    石棺の形状は、古墳時代中期の5世紀に属するもので、前塚古墳は今城塚古墳(古墳時代後期の6世紀前半)より先行する時期の築造が考えられる。

    関東の長持形石棺 (竜山石ではない)
    太田天神山古墳 - 群馬県太田市、210メートル
    お富士山古墳 - 群馬県伊勢崎市、125メートル
    *このほか高柳銚子塚古墳と三之分目大塚山古墳からは長持形石棺に類似する組合式石棺が出土している。


    大阪府羽曳野市の墓山古墳

    古市古墳群の中で第5位の規模をもつ大型の前方後円墳で、5世紀初め(約1,600年前)に造られたと推定される。全長約225m・後円部の直径135m・高さ21m・前方部の幅153m・高さ19mほどで、盛り土は3段に積まれている、宮内庁が伝応神陵・誉田山古墳の陪塚として、伝応神天皇陵古墳の名で管理していると云う。
    陪塚というには余りに巨大であり、周囲に中・小規模の古墳が配されている、堂々とした王陵と見なしてもおかしくない。
    後円部と前方部のつなぎ目には造り出しがあり、周囲には濠が掘られ、その外側には幅約25mの堤がめぐっている。墳丘の斜面は石でおおわれ、平坦部には埴輪が列になって並べられている。中心部には竪穴式の石室が造られ、長持形石棺が納められていたらしい。
    墓山古墳のすぐ北にある野中古墳は、墓山古墳に付属する陪塚と考えられているが、この古墳には鉄で作った多量の武器や農工具が納められており、墓山古墳の被葬者が貴重な鉄を多量に所有していた実力者であったことが推定できる墓山古墳の周囲には野中古墳とは別に、向墓山のほか、浄元寺山・西墓山という3基の陪塚が配されており、典型的な中期大型古墳の様相をみせている。
    墓山古墳は、3段構成で墳丘が築かれ、くびれ部の両側に造出しを設けているが、さらに、一重の周濠と外堤を巡らし、外部施設として河原石が葺かれ、円筒埴輪や人物埴輪などが立てられていたことも分かっている。
    後円部の頂には格子状に彫られた長持形石棺の蓋が露出しており、津堂山古墳の石棺との類似性が指摘されている。多量の滑石製勾玉も見つかっている。 前方部の幅と後円部の直径の関係を見ると、前方部の幅が後円部の直径を若干上回っている。こうした形態は、古墳時代中期に典型的なものらしい。
    興味深いのは、その規模から判断して、市野山古墳(允恭天皇陵)や茨木市太田にある継体天皇陵と同一築造企画で構築されたと考えられていること。
    出土した円筒埴輪は、野焼きと考えられる黒斑のある埴輪と窖窯(あながま)焼成による黒斑のない埴輪の2種類が存在したと云う。ということは、この古墳に並べられていた円筒埴輪は、埴輪焼成法の変換期のものであると推察できる。
    形象埴輪には、楯・衣蓋・靱(“うつぼ”と読み、矢を入れる道具)・家形・人物・短甲などが見られる。

    久津川車塚古墳
    久津川車塚古墳は、5世紀前半に築造された山城地域最大の前方後円墳です。外濠(がいごう)を含めた全長は272mで、墳丘長は180mあります。埋葬施設は長持形石棺(ながもちがたせっかん)を直接埋めたもので、石棺の内外からは鏡や甲冑(かっちゅう)など多くの副葬品が出土しています。南山城地域を支配した有力者の墓と考えられます。
     丸塚古墳は、5世紀前半に築造された前方部が短い帆立貝形の前方後円墳です。周濠(しゅうごう)を含めた全長は104mで、墳丘長は80mあります。前方部から大型の家形埴輪(いえがたはにわ)が出土しています。久津川車塚古墳の被葬者の地域支配を支えた有力者の墓と考えられます。家形埴輪は城陽市歴史民俗資料館で展示しています。


  • June 2016 編集されました
    難波田使首の系図
    高魂命--伊久魂命--天押立命(又名、神櫛玉命)--陶津耳命--玉依彦命--剱根命--夜麻都俾命--久多美命--加豆良支根命--垂見宿禰--伊牟久足尼--宮戸彦宿禰(景行御宇)
  • 鴨県主の系譜
      賀茂建角身命(少彦名命)--玉依彦--五十手美命(生玉兄彦命)--麻都躬乃命--弥加伊支命--津久足尼命--鴨部刀支命

    と続く家系に見える「鴨部刀支命」の妹である鴨部美良姫命が三輪系統の飯肩巣命に嫁いで有名な大田田根子を産んだとされています
  • June 2016 編集されました
    賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)には建玉依比古命(たけたまよりひこのみこと)と建玉依比売命(建玉依姫命、たけたまよりひめのみこと)の二柱の御子神がいる。
    建玉依比古命(たけたまよりひこのみこと)は、後に賀茂県主となる。
    建玉依比売命は、丹塗矢(にぬりや)に化身した火雷神(ほのいかづちのかみ)を床の近くに置いていたところ、上賀茂神社の祭神・賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)を懐妊し出産したと伝えられる。

    「新撰姓氏録」によれば、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は神魂命(かみむすびのみこと)の孫である。

    神武東征の際、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)=高木神(たかぎのかみ)や天照大神(あまてらすおおみかみ)の命を受けて日向の曾の峰に天降(あまくだ)る。
    賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は、八咫烏(やたがらす)に化身して大和の葛木山に至る神武大王(おおきみ・天皇)を先導した。
    つまり賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)は、神武大王(おおきみ・天皇)が、宿敵・長髄彦(ながすねひこ)の裏を書き山城国に攻め込んで大和朝廷を開く助力をしたのだ。

    賀茂建角身命と伊賀古夜比売命の御子に、玉依比古命(賀茂県主となる)、玉依比売命の二子があり、 その玉依比売命については、『山城風土記』に、大山咋神(『古事記』では鳴鏑神)が丹塗矢と化して瀬見の小川を流れ下り、 玉依比売命と婚姻して、賀茂別雷命を生み奉ったと書かれている。
  •  『神武紀』  椎根津彦を倭国造とした。また剣根という者を葛城国造とした。

    土神剣根命の後裔氏族。

     剣根命の後裔として現れる氏族を『新撰姓氏録』から。
     大和国神別 葛木忌寸 高御魂命五世孫剣根命之後也
     河内国神別 葛木直  高御魂命五世孫剣根命之後也
     和泉国神別 荒田直  高御魂命五世孫剣根命之後也
     未定雑姓左京右京 大辛 天押立命四世孫劒根命之後也
     (未定雑姓摂津国 葛城直 天神立命之後也)   
  • June 2016 編集されました
    高魂命-伊久魂命-天押立命-陶津耳命-玉依彦命-剣根命-夜麻都俾命-久多美命(葛城直祖)

    陶津耳命の女に活玉依比売がいて、大物主命との間に鴨朝臣の祖である太田田根子をもうけるとある。

         +-玉依彦命---剣根命
     陶津耳命-活玉依比売
            |---太田田根子
          大物主神

    陶津耳命の二世孫に剣根命と太田田根子がいるのだが、『日本書紀』では、神武紀に剣根命が登場、かたや太田田根子は崇神紀に出てくる。神の子だから時代を超越しているのだ。八坂神社の氏子なら、何時の世でも素盞嗚尊の御子ということか。
    葛城の鴨の祖である太田田根子と剣根とはいとこ同士となる。剣根は鴨族の親戚。原葛城氏かも。

  •  天村雲命-天忍人命
       |    |-------天忍男命
       |    |         |----世襲足姫
       |--角屋姫(葛木出石姫)  |----澳津世襲命(尾張連祖)
       |--倭宿禰命(天御蔭命)  |
     伊加里姫             |
     土神剣根命----------賀奈良知姫

    葛木出石姫と云う名が見える。丹後の天火明命の家系と葛木の剣根命との間から尾張連が出ている。
  • 天村雲命と伊加里姫との間に葛木出石姫が誕生しています。この姫の名は日本海から葛城への流れを現す神と思われます。葛木出石姫の出石は但馬の出石でしょう。かの出石神社には天日矛命の将来した八前の神宝が祭られています。神主家は大和から神宝の検収におもむいた長尾市の子孫です。現在も長尾家です。 出石から葛城にやって来た長尾市の子孫が葛城の長尾氏となり、この家の娘が葛木出石姫といえそうです。

    『丹後風土記残欠』に紹介されていました。「伊加里姫社」の祭神だそうです。http://www.dai3gen.net/tango.htm
     現在は舞鶴市公文名の笠水神社となっているようです。

    天村雲命に娶られた伊加里姫は井氷鹿の名で『神武記』に登場します。
     「吉野河の河尻・・より幸行せば尾生ひたる人、井より出で来たりき。その井に光ありき。ここに「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕は国つ神、名は井氷鹿(ヰヒカ)と謂ふ」と答へ白しき。こは吉野首等の祖なり。」とあります。吉野には井光神社(イカリ)が鎮座しています
  • 『古事記』開化天皇記に「開化天皇は葛城の垂見宿禰の女、<<つちへんがない「壇」の右に「鳥」>比売(ワシヒメ)を娶して生みましし御子、建豊波豆羅和気。一柱。」「建豊波豆羅和気王は、道守臣・忍海部造・御名部造・稲羽の忍海部・丹波の竹野別・依網の阿毘古等の祖なり。」との記載があります。
     これについて、門脇禎二著『葛城と古代国家』によりますと、建豊波豆羅和気王が祖とされている葛城の忍海部、河内の依網の阿毘古、丹波の竹野別、稲羽の忍海部の諸氏は葛城から日本海側への一つのルートにのっていて、神戸の垂水から加古川沿いに北上、由良川を下って氷上から丹後へつながるルートを想定されています。初期の葛城に拠点を置いた豪族の勢力の動向を示していると云うことです。
  • 天活玉命について

     祭神として祀られている神社は富山県東砺波郡井波町高瀬の高瀬神社及び石川県羽咋市寺家町の気多神社ぐらいしか見当たらない。神社伝承を頼りにこの神の実態を探ることはできないので、子孫の行動をもとに推定してみることにする。

     二人の子がいるが1人は天神立命で、この子孫が葛城氏・賀茂氏となっている。今一人の天三降命の子が宇佐津彦である。宇佐津彦は神武天皇が東遷時宇佐にやってきた時に天皇を歓待している。饒速日尊のマレビトとなる前に宇佐地方を統治していたとおもわれる。

     天活玉命は葛城氏の祖となっている。葛城氏は葛城山の高天彦神社を始原とし、この神社は高皇産霊神を祀っている。この神社周辺は高天原と呼ばれている。天活玉命は饒速日尊と共にマレビトとして大和国にやってきた。天活玉命の任地は葛城地方だったのであろう。

     天活玉命の孫に鴨建角身命がいる。鴨建角身命は飛騨王家の系統の人物と推定している。天活玉命は飛騨王家の系統の人物ということになる。

     天活玉命の系図を示すと下のようになる。

               ┏━天神立命━━陶津耳命
           天活玉命┫      (鴨建角身命)
               ┗━天三降命━━宇佐津彦

     宇佐津彦は神武天皇と同世代であり、鴨建角身命は2世前であり、上の系図では世代が合わない。天神立命は別命天背男命とも呼ばれており、饒速日尊の天孫降臨時阿波に降臨した天日鷲命の父である。また、天活玉命は饒速日尊と共に天孫降臨に参加している。このように天活玉命関係の系図は年代が全く一致しないのである。
  • 剣根命 (蔓城主)。 
    カツテ神の孫。 
    カツラ姫・カツラヨリ姫の父。 
    神武の時、カツキ(葛城) の国造となる。 葛城氏の祖。
      

    奈良県北葛城郡新庄町大字葛木、葛木御縣 (カツラギミアガタ) 神社
    奈良県宇陀郡大宇陀町宮奥、劔主 (ツルギヌシ) 神社
      

    『旧事』天忍男命は、葛木の剣根命の娘の賀奈良知姫(かならちひめ) を妻とし二男一女を生む。即ち尾張連の祖の瀛津世襲命、建額赤命(たけぬかあかのみこと)、世襲足姫命。瀛津世襲命または葛木彦命(かつらぎひこのみこと) は、池心朝 (孝昭天皇) の御世に大連と成った。
    ソサノヲー葛城一言主-カツテ-?-ツルギネ。もともと葛城はツルギネの所領だった。ツルギネ以降の系譜がわからない。尾張に吸収されたのかもしれない。 剣根命-夜麻都俾命-久多美命(葛城直祖)
  • November 2018 編集されました
    日本書紀では、論功行賞で、「剣根を葛城の国造とした」と記すのみ。
    ・剣根は、三島溝杭耳の孫。
    ・三島溝杭耳には、玉櫛彦と玉櫛媛の二人の子があり、 玉櫛彦の子が剣根。
    ・おばの玉櫛媛は、ニギハヤヒ命(大物主)との間に、三人の子を生んだ。
    天日方奇日方命、五十鈴媛命(神武后)、五十鈴依媛
    (綏靖后)である。
    ・神武天皇は、皇后のいとこの剣根を葛城国造に任命した。
  • 古事記は、欠史八代の正妃に、磯城縣主の娘が繰り返し選ばれたことを、しつこいほどに記している。
    一方、日本書紀では、磯城縣主の娘を皇后にしたと本書に記すのは、孝霊天皇のみである。

    五十鈴媛の生んだ綏靖天皇の名が、神渟名川耳尊と、
    「ヌナ」が付いていることも、祖母が磯城縣主家出身
    を裏付ける。

    「五十」が使われている天皇及び皇子で、注目するのは、
    ・崇神天皇  御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニエ)
    ・垂仁天皇  活目入彦五十狭茅(イクメイリヒコイサチ)
    ・孝霊皇子(大吉備津彦) 
             彦五十狭芹彦(ヒコイサセリ)
         (参考)同母妹 倭迹迹日百襲媛命
    ・垂仁皇子  五十瓊敷入彦(イニシキイリヒコ)
         (参考)同母妹 倭姫命(ヤマトヒメノミコト)
  • 竜山石は、成層構造を有したり、岩片と基質から成るつくりをしていますが、硬度などの物理的な性質が均質で節理が少ないという性質をもっています。また、軟質なため採石や加工が容易です。このため、古くから石材として切り出されていました。
     古墳時代には石棺として利用されました。古墳時代中期には、畿内の権力者のほとんどの石棺にこの竜山石が使われ、「大王の石」と称されました。この頃の石棺はほとんどが6枚の板石を組み合わせてつくられた「長持形石棺」です。
     古墳時代後期になると、この石から「家形石棺」がつくられました。「家形石棺」は加古川流域を中心にたくさん見つかっています。この頃は、地方の豪族や有力者の墓に利用されたと考えられています。
     鎌倉~室町時代には、五輪塔や宝篋印塔など、江戸時代の初期には姫路城の石垣などにも利用されました。明治以降には、旧造幣局鋳造所(1870年)や住友銀行本店ビル(1922年)、京都ホテル旧館(1928年)など、近代建築物などの壁材として利用されました。
     竜山石の採掘は今も続けられ、河川や公園などの石垣、モニュメントや花壇の縁取り石など、建築用や造園用に広く利用されています
  • 葛城の賀茂氏と山城の賀茂氏
    高魂命----伊久魂命-天押立命--陶津耳命-玉依彦命+生玉但日子命
    (高皇産霊尊) (生魂命) (神櫛玉命) (健角身命)    |(賀茂縣主祖)
                            +剣根(葛城直祖)

    陶津耳命こと健角身命が山城葛野縣主の祖とされる八咫烏。その孫の代で縣主と葛城直祖の剣根に別れる。同じ賀茂族として同族だったことが解る。
    『山城国風土記』逸文に、山城の賀茂社は賀茂建角身命が葛木山の峯から山代国に移り、その子の玉依姫の生んだ賀茂別雷命を奉るとある。
    剣根を祖とする葛城族
    葛城直祖つまり葛城国造の剣根を祖とする葛城族は大族で、多分その地名によって名乗ったと想われるそれぞれの氏名をもっていた。葛城氏をはじめ当麻・蘇我・賀茂・波田・巨勢・平群など皆葛城一族である。剣根のいた葛城山の高尾張邑から葛城直の一族が、紀伊国からきた武内宿禰の一族に追われて濃尾地方へ移り、後の尾張氏となった。
    『出雲国造神賀詞』に「倭の大物主櫛 玉命の御子阿遅須伎高孫根命の御魂を葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主命の御魂を雲梯(うなで)に坐せ、賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇孫命の近き守神と貢り置きて…」とあり、出雲系の諸神を、葛城・高市・飛鳥などの大和枢要地の神奈備に配祀した。特に葛木の鴨の神奈備の所在地については明確ではないが『古事記』には「迦毛大御神と謂ふぞ」とあり最高の敬語を用いている。大和の西北部、平群郡の神奈備(大字神南・神岳神社)に鎮祭(『延喜式』)、東北部の奈良に大神、狭井の神々を、狭岡・率川の両社(『延喜式』)に祭祀、大神信仰が大和全域に拡大した(『率川神社記』『大神分身類社抄』)。
    三輪氏は、『記紀』伝承によると、三輪君(みわのきみ)・大神(おおみわ)氏・大三輪氏といい、大国主命の和魂の大物主命の後裔とされ、大物主命と活玉依姫(いくたまよりひめ)との神婚によって生まれた太田田根子を祖としています。大和国城上郡大神(おおみわ)郷(現在の三輪)を本拠とした、大王家にとって大事な大物主神を祀る大神神社の祭祀をとりおこなってきた氏族として有名です。 この三輪氏が大和政権とかかわって、歴史のなかに登場してくるようすを、『日本書紀』から主なものをとりあげて見ると。 まず仲哀天皇9年天皇崩御のとき、中臣・物部・大伴の三氏とともに、大三輪大友主君が大夫(まえつきみ)に命じられ、百僚をひきいて宮中を守ったとあります。 三輪君甕穂は孝徳天皇へ白雉(はくち)を献上する際に、白雉を乗せた輿を担ぐ役をつとめるなど、大王家の側近としての性格が強い氏族と考えられます。 やがて壬申の乱においては、三輪君高市麻呂が大海人皇子方の有力な武将として乱を勝利に導き、天武・持統に三輪氏の地位を高め、684年には朝臣(あそみ)姓を賜っています。

    河内の鴨:大和川の出口は河内 †
    鴨氏の拠点の葛城は河内と紀の国とに隣接しており、海への要衝の地
    物部の土地、河内にも鴨は進出。  河内国石川郡 鴨習太神社(河南町神山)  河内国高安郡 鴨神社(八尾市大竹)『古事記』で大田田根子が居た所の近所  河内国澁川郡 鴨高田神社(東大阪市高井田)  摂津国嶋下郡 三嶋鴨神社(高槻市三島江)

    太田田根子:河内の美努の村にいた。三輪・鴨の祖。 †
    崇神王権が大和を支配してから三輪山の神を無視した状態が続きました。この時代に、しばしば災害が起こることがありました。大神は「倭国の域(さかひ)の内に所居る神、大物主神」と名乗って、「国がうまく治まらないのは吾が意である。もし、吾が児、太田田根子を以て、吾を祭れば、たちどころに平安となり、海外の国も帰伏するだろう」との託宣をされました。
    太田田根子は『古事記』では河内の美努の村にいました。八尾市西高安町の鴨神社の西。『日本書紀』では茅渟県の陶邑にいました。堺市上之の陶荒田神社付近。いずれにしろ、河内にいた太田田根子を探し出し、大物主大神を祭る神主としました。
  • September 2018 編集されました
    神功皇后 摂政5年(205年または325年)年3月7日に新羅王の使者として、汗礼斯伐(うれしほつ)、毛麻利叱智(もまりしち)、富羅母智(ほらもち)らが派遣され、人質として倭国に渡った微叱旱岐(みしこち)の妻子が奴婢とされたので返還を求めるとしてきた。神功皇后はこの要求を受け入れ、見張りとして葛城襲津彦を新羅に使わすが、対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられた。怒った襲津彦は、毛麻利叱智ら三人の使者を焼き殺し、蹈鞴津(たたらつ。釜山南の多大浦)から上陸し、草羅城(くさわらのさし。慶尚南道梁山)を攻撃して捕虜を連れ帰った。このときの捕虜は、桑原、佐備、高宮、忍海の四つの村の漢人の祖先である。

    神功46年以降
    神功46年以降は『百済記』が構文されている。
    神功46年(246年または366年)3月1日、斯摩宿禰を卓淳国に遣す。卓淳王の末錦旱岐は、百済の久氐(くてい)、弥州流(みつる)、莫古(まくこ)らが日本に朝貢したいと斯摩宿禰に伝えた。斯摩宿禰は、爾波移(にはや)と卓淳人の過古(わこ)を百済に遣した。百済の肖古王(近肖古王)は喜んだ。王は財宝を贈り、また蔵をみせて、これらを朝貢したいと爾波移に告げ、のち志摩宿禰らは日本へ帰還した。翌年4月、百済は日本に朝貢した。

    神功皇后49年(249年または369年)3月には神功皇后が、将軍荒田別(あらたわけ)及び鹿我別(かがわけ)を卓淳国へ派遣し、新羅を襲撃しようとするが、兵の増強が進言され、百済の将軍木羅斤資と沙沙奴跪(ささなこ)と沙白(さはく)・蓋盧(かふろ)らに合流を命じて、新羅を破った。比自[火+保](ひじほ)、南加羅、喙国(とくのくに)、安羅(あら)、多羅(たら)、卓淳、加羅の七カ国を平定した。さら西方に軍を進めて、比利(ひり)、辟中(へちゅう)、布弥支(ほむき)、半古(はんこ)の四つの邑は抵抗もなく降伏した。

    神功51年(251年または371年)3月、百済は久氐を派遣し、日本に朝貢した。

    神功52年(252年または372年)9月10日、百済王は、百済と倭国の同盟(済倭同盟)を記念して神功皇后へ七子鏡と七枝刀を献上した。なお、七支刀に彫られた「泰■四年」を太和4年とする説がある。この場合、百済が朝貢していた東晋の年号太和4年とされるが、こちらの説の場合には秦の文字を太と書き換えねばならず疑問視する声もある。[6]。また西晋の泰始4(268)年だという説もあり。こちらは秦の文字が合致するのでこちらを主張する学者も存在する。
  • 「八幡愚童訓」も参照
    13世紀末から14世紀初頭に成立した八幡神の縁起書である八幡愚童訓[8甲本には、

    皇后、新羅・百済・高麗三箇ノ大国ヲ女人ノ為御身、纔以小勢不経日数不廻時尅責靡テ、御帰朝アリシ勇々シサハ、戒日大王ノ五竺ヲ随ヘ、秦ノ始皇帝ノ 六国ヲ滅シ、越王ノ夫差ヲ討ジテ会稽ノ恥ヲ雪シヨリモ勝タリ。異国ニ向シ士率ハ旧 里ニ帰ル悦アリ。此土ニ残ル人臣ハ本主ヲ得タル勇アリ。異国ノ合戦ニ討勝事ハ雖毎度事也、敵国帰伏シテ日本ノ犬ト成リ、奉備年貢事、皇后ノ外ハ御坐サズ
    とあり、新羅・百済・高麗の「三箇ノ大国」として記されている。
  •  剣根命の後裔として現れる氏族を『新撰姓氏録』から。
     大和国神別 葛木忌寸 高御魂命五世孫剣根命之後也
     河内国神別 葛木直  高御魂命五世孫剣根命之後也
     和泉国神別 荒田直  高御魂命五世孫剣根命之後也
     未定雑姓左京右京 大辛 天押立命四世孫劒根命之後也
     (未定雑姓摂津国 葛城直 天神立命之後也)   

     陶津耳命の二世孫に剣根命と太田田根子がいるのだが、『日本書紀』では、神武紀に剣根命が登場、かたや太田田根子は崇神紀に出てくる。神の子だから時代を超越しているのだ。八坂神社の氏子なら、何時の世でも素盞嗚尊の御子ということか。

     葛城の鴨の祖である太田田根子と剣根とはいとこ同士となる。剣根は鴨族の親戚。原葛城氏かも。
  • September 2018 編集されました
    葛城襲津彦は神として祀られています。『平成データ』では5社、その内高知県に2社あります。

    多気・坂本神社 高知県安芸郡奈半利町 
    http://www.genbu.net/data/tosa/takesakamoto_title.htm
    葛木男神社 高知県高知市 ここには妃神であろう葛城襲津妃神も合祀されています。http://www.genbu.net/data/tosa/katuragio_title.htm

     これらの神社は葛木直の末裔が土佐の地で祖神を祀ったものでしょうが、大和葛城から土佐へ流れた神としますと、『続日本紀』に
    「天平宝字八年(764)十一月七日、再び、高鴨の神を大和国葛上郡に祠った。」
    との記事があり、この高鴨の神とは、一言主神なのか、アジスキタカヒコネ神なのか、諸説がありますがこの葛城襲津彦の存在も不可思議な神のようです。

    葛城の最大の古墳である宮山古墳(室の大墓)は葛城襲津彦の墓ではないかとの説があります。ここには八幡神社が鎮座、祭神を古墳の主とすれば、この神も土佐から戻ってきた神と言えるのかも知れません。

     葛城襲津彦の年表
     神功皇后紀五年   新羅の草羅城を攻め落とす。
          六十二年 新羅を討たせるべく派遣されたが美女を納れて加羅国を攻めた。後、岩穴に入って死んだ。
     応神天皇十四年   弓月の民を連れ帰るべく加羅国に遣わされたが帰らなかった。
         十六年   本国からの応援を得て弓月の民を率いて帰国した。
     仁徳四十一年    百済王族酒君が無礼であったので、酒君を捕らえて襲津彦に従わせて進上した。
  • 葛城氏の故地は奈良盆地南西部(現御所市周辺)である。
    大王家の御諸・三輪山麓とは、盆地を介して東西ににらみ合うような位置にある。
    もう一つの「御諸」葛城山とは北嶺(現葛城山)と南嶺(現金剛山)から成るが、この山麓には『延喜式・神名帳』が定める最高の社格を持つ神社が五社ある。これと同格の神社は、「大和」全域でたった七社、うち大神(おおみわ)神社など四社が三輪山麓にあり、その他の地にあとの三社がある。この数は葛城の地の威容を示すものである。  

    葛城の五社とは、鴨都味波八重事代主命神社(主神・ツミハヤエ事代主命)、葛城坐一言主神社(事代主命)、高天彦神社(タカミムスビ神)、高鴨阿治須岐託彦根命神社(アジスキタカヒコネ命)、葛城坐火雷神社(火雷大神)である。  
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