出雲國造神賀詞、出雲国造、系図

May 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかんよごと) 新任の出雲国造が天皇に対して奏上する寿詞。 出雲国造は都…

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  • May 2016 編集されました
    北島国造家文書の出雲国造世系譜にある系譜

    始  祖 天穂日命
    第 2世 武夷鳥命(たけひなどり)
    第 3世 伊佐我命
    第 4世 津狭命
    第 5世 櫛瓺前命(くしみかさき)
    第 6世 櫛月命
    第 7世 櫛瓺鳥海命(くしみかとりみ)
    第 8世 櫛田命
    第 9世 知理命
    第10世 世毛呂須命
    第11世 阿多命  別名 出雲振根
    第12世 氏祖命(おほし)—初代出雲国造  別名 鵜濡渟(宇迦都久怒)
    第13世 襲髄命(そつね)—野見宿禰・・・相撲の元祖 
    第14世 來日田維命(きひたすみ) 別名 岐比佐都美
    第15世 三島足奴命(みしまそまぬ)
    第16世 意宇足奴命(おうそまぬ) 別命:游宇宿禰
    第17世 国造出雲臣宮向  出雲姓を賜わる
    第18世 国造出雲臣布奈
    第19世 国造出雲臣布禰
    第20世 国造出雲臣意波久
    第21世 国造出雲臣美許
    第22世 国造出雲臣叡屋
    第23世 国造出雲臣帯許
    第24世 国造出雲臣千国
    第25世 国造出雲臣兼連
    第26世 国造出雲臣果安  松江市大庭町より杵築の地(出雲大社のある地域)に移る
    第27世 国造出雲臣広島  出雲風土記

    斎木雲州著『出雲と蘇我王国』
    出雲神族の末裔の富當雄氏の子が著者

    出雲は、西出雲の王と東出雲の王が交代で、主王(オオナムチという役職名)と副王(スクナヒコという役職名)を決めており八代目のオオナムチが、「大国主命」で、スクナヒコが「事代主命」(正しくは八重波津身)であったそうです。

    11世の出雲振根は神門臣の人物、飯入根は弟ではなく向家の人物、甘美韓日狹(うましからひさ)と子の鸕濡渟(うかづくぬ)は天穂日命の子孫とある。

    出雲振根は崇神天皇の時代の話ではなく、垂仁天皇の時代、物部十千根(とおちね)を将軍とする物部軍に討死にしてしまいその時、西出雲も東出雲も滅ぼされてしまったといいます。

    しかし、斎木雲州著『出雲と蘇我王国』によれば、出雲振根は、西出雲の王家ー神門臣家であり、さらには。野見宿禰と淤宇宿禰は、東出雲の王家ー向家(富家)の先祖だそうです。
    つまりは、この系譜は少なくとも3家(神門臣家・向家・天穂日命家)習合した系譜であるということです。
  • 山代神社 
    祭神の山代彦命が向家の先祖の豪族で、山代二子塚古墳は、山代彦命の古墳であるという。
    向山1号墳のある向山 北側に山代神社があり、南側に向山古墳群があります。

    出雲国造は、出雲国庁のあった松江市東部に居て
    出雲大社のできる前、往古より、出雲族は、出雲大社ではなく、熊野大社を奉斎していたといいます。

    出雲風土記(733年)の楯縫郡(たてぬいぐん)に
    楯縫(たてぬい)の地名由来として、神魂命が 大国主命が住む天日栖宮の建設を命令し
    天御鳥命(あめのみとりのみこと)を「楯部」として遣されたとのことが書かれています。それで、今(奈良時代)に至るまで、楯や桙を造っていると書かれています。

    健部郷(たてるべごう)。

     ー前略ー 後に改めて健部と名づけたわけは、纏向檜代宮御宇天皇(景行天皇)がおっしゃられたことには、
     「わたしの御子、倭健(やまとたける)命の御名を忘れまい」と健部をお定めになった。
     そのとき神門臣古禰(かんどのおみ こみ)を健部とお定めになった。
     健部臣たちが古から今までずっとここに住んでいる。だから、健部という。” 
                                  解説 出雲風土記 島根県古代文化センター[編 ]今井出版
  • 大国主命が天孫への国譲りに際し、自分の和魂(にぎたま)を三輪山に鎮め置き、自分の子どもたちの御魂もそれぞれ大和を囲むような位置に鎮め置いて、皇孫の守り神とすることを誓い、自分は出雲杵築宮に退去した、という内容である。
     大物主が祀られたのは桜井市の三輪山、大神神社
     阿遅須岐高孫根神は葛城の高鴨神社
     事代主神は橿原市の河俣神社
    とそれぞれ比定されているが、飛鳥に祀られたという賀夜奈流美神の社だけがどこなのか、わからないのである。かやなるみ神については、男神とみる説、事代主神の妹の高照姫神とする説がある。
     奧飛鳥の栢森には賀夜奈留美神社がある。ここは石上神社宮司であった富岡鉄斎が復興したという。飛鳥ではかやなるみを祭神とする神社は、栢森と鳥形山の麓の飛鳥坐(あすかにいます)神社の二箇所のみといい、飛鳥坐神社では、かやなるみ神は飛鳥神奈備三日女神と表記されているという。
     栢森は飛鳥の最も南に位置しており、当時の都のあった場所からは見えないので、神奈備とするには離れすぎているとする説もある。今でも栢森はほとんど人が歩いておらず、清らかに飛鳥川が流れゆき、四季の自然が美しい地である。
    「日本紀略」によれば、八二九年、飛鳥神奈備山の社は、神託により鳥形山山麓の飛鳥坐(あすかにいます)神社に遷坐したとある。どこから遷座したかについても、雷丘から、甘樫丘、栢森、ミハ山、と諸説あって判然としない。栢森の伝承によれば、社殿は鳥形山に遷っても、かやなるみ神の神霊は、旧社地の栢森になおとどまったとされる。
     飛鳥神奈備を巡っては従来、甘樫丘、雷丘が有力であったらしいが、近年になってミハ山説が注目されているという。
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