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3世紀末ー4世紀の古墳、関東の古墳の出現を整理します。 関東最古の古墳は、出現期(3世紀中葉)古墳として注目さ…
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推定系譜
武雛(武ヒナ鳥)ー出雲健子(伊勢津彦)ー神狭ー身狭耳ー五十根彦ー美都呂岐ー忍立化多比命(上海上国造)ー兄多毛比(氷川神)ー伊佐知直(胸刺国造)
忍立化多比命(上海上国造)の子は、忍立毛比命(上海上国造)である。
无邪志国造、13成務, 出雲臣祖二井之宇迦諸忍之神狭10世孫, 兄多毛比命 (えたもひのみこと),
海上
『古事記』では天穂日命の子の建比良鳥命を上海上国造の祖としている。『国造本紀』によると成務天皇の時代に天穂日命の八世孫の忍立化多比命を国造に定めたとされ、その孫久都伎直が応神天皇の時代に下海上国造になったという
海上五十狭茅(うながみのいさち)とは、生田神社社家の先祖。
上総国海上郡の海上氏との関係も考えられるが、不明。神功皇后から、稚日女尊を祀る事を命ぜられ、初代生田神社祭主となったという。麛坂皇子、忍熊皇子側について神功皇后、応神天皇と戦った将軍である五十狭茅宿禰(いさちのすくね、吉師の祖:阿倍氏と共に吉志舞を舞った配下の難波吉師と同じ氏かは不詳)の子であるともいう
(表)
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比
(裏)
其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也
書かれている文字を解釈すると、
「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(表) 其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(ワク(カク)カタキ(シ)ル(ロ))の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(裏)」
景行40年7月紀では、大伴武日連をヤマトタケルの東征に随行させます。
同10月紀では、靫部(ゆけいのとものお)を大伴の遠祖である武日に賜った、とあります。
先代旧事本紀に
「天忍日命 大伴連等祖 亦云 神狭日命」
とあるではありませんか。(巻1・神代本紀)「天忍日命」が大伴連等の祖ということは古事記にも日本書紀(第4の一書)にも天孫降臨の段に出ていることで、先代旧事本紀がその異名をも伝えていたわけです。神狭日となっているので、神狭命=エタモヒとは違うのでしょうか?
孝昭天皇3年が西暦何年かは不明で、社伝では景行天皇の御代、日本武尊は東夷鎮圧の祈願をし、成務天皇の御代、出雲族(兄多毛比命)が当地に入植し、素戔嗚尊を祀ったという。聖武天皇の御代、武蔵一宮になったという。
倭姫命世記に記される系譜には、大水神の子に櫛玉命(伊勢津彦)、その子に大歳神
その子に、朝熊水神などをあげ、出雲臣の系譜との同一性を示している。
出雲の八束水臣津野命(又、淤美豆奴神、大水主神(おみずぬ))は移住先の伊勢に
おいては大水神と呼ばれ、その子孫は伊勢を含む東国で繁栄したのでしょう。
武夷鳥命、母水戸神女天甕津日売命の部分については、尾張国風土記や
出雲国風土記、日下部伝承を含めて考えると、大変示唆深いものがあります。
勝部臣の系譜は東国の国造の系譜から導かれると考える方が妥当という記事があった。
以下より
http://blogs.yahoo.co.jp/tsubame7_bio_titech/16696843.html
兎命(長谷朝倉朝[雄略朝]為勝部供奉 勝部臣祖)-多伎古命-石足命-千野命-白猪命-小山麻呂命-虫麻呂命
雄略朝の前代の允恭朝に、武蔵国造の系譜において忍敷命という名が見られ、忍敷(允恭御宇為 勝部・刑部 負 刑部直祖)と記載されています。
勝部氏が諏訪神の末裔であるならば、兎命の前代は武蔵国造の系譜に現れかつ、勝部・刑部の職を負った忍敷命と考えるのが自然です。
忍敷命は、勝部と刑部の職掌を負ったわけですが、兄多毛比命の次の代に現れる大鹿国直命が国造となった菊麻国の末裔は、刑部直を名乗っていました。
上総国市原郡誌の中に含まれる明治村誌の奉免と明香の集落に関する記述に、
大鹿国直の子には、小鹿直命という名の人がいると記載があります。
上海上国造は兄多毛比命の親であり、勝部氏の祖である。
この阿倍氏の波多武日子命の妹、御間城姫命が産んだ11代垂仁天皇の和風謚号は、なんと「活目入彦五十狭茅命」という。当時の皇子は、母方の乳部の名をもらうことが多く、垂仁天皇は「五十狭茅」という名を阿倍氏から貰った可能性が高い。五十狭茅宿禰と阿倍氏の波多武日子命の関係は?
海上五十狭茅(うなかみいさち)が吉師氏の五十狭茅宿禰の子である。この人を祖とする生田神社社家は、海上(うなかみ)氏を名乗った。兵庫区に生田神社の祭主家・海上五十狭茅の子孫が住んでいたという。
大彦命の子に、波多武日子命(はたたけひこのみこと)という人がいて、この方が難波吉士(なにわきし)三宅人の祖となっている。
吹田市に現在も吉志部神社があり、境内からは陶器を焼く登り窯などが出土している。ここで造られた器や瓦が、水路を利用して、平城京などに運ばれていたらしい。
吉士は海上交通の要路を管掌し、対外交渉に専従した船頭、水手集団であり、さらに屯倉の管理、史(フミヒト)をつとめている。
吉士を名乗った氏族では難波吉士、草香部吉士、日鷹吉士、大国吉士など多くの名前が見える。
『雄略紀十四年四月』に、大草香皇子(仁徳天皇の皇子)の名にちなみ、難波吉士日香香の子孫を大草香部吉士と言う姓を与えた記事がある。 日鷹吉士は紀の国日高郡に在住していた一族、大国吉士は河内国石川郡にいたようである。
『雄略紀九年二月』に、胸方神(宗像大社の神)を祀る為に凡河内直香賜と采女を遣わしたが、壇所に至りてその采女を犯し、難波日鷹吉士を遣わして凡河内直香賜を殺そうとした記事が見える。難波吉士が吉士の頭領のように思える。
上総国海上郡の海上氏(祖 天穂日命)との関係も考えられるが、不明。神功皇后から、稚日女尊を祀る事を命ぜられ、初代生田神社祭主となったという。麛坂皇子、忍熊皇子側について神功皇后、応神天皇と戦った将軍である五十狭茅宿禰(いさちのすくね、吉師の祖:阿倍氏と共に吉志舞を舞った配下の難波吉師と同じ氏かは不詳)の子であるともいう。
五宮神社
明治時代、湊川神社の氏子社になりかけたが、生田神社社家先祖である海上五十狭茅の子孫の家が近隣にあったため、住民の申し出により、取り止めとなった。現在は、8社中一番標高の高い場所に鎮座しており、元は宇治川の氾濫原にあったため、現在地に移ったのではとの説がある。
所在地 : 神戸市兵庫区五宮町
祭神 : 天穂日命
一宮神社(三宮)
伊久波神社
御祭神:伊久波戸田宿祢命
布敷首とか生田首とかがきになるところです。
古代(3~4世紀頃)この辺りに栄えた一族の布敷首によりこの土地が開発された事等を敬いその子孫により当社に祭られたと伝えられている。
伊久波(的)は、世暦324年に仁徳天皇の12年7月高麗より鉄的と鉄盾を献上した時、武内宿禰の子孫の葛城氏の一族の盾宿禰が献上の的を射通したので的(伊久波)戸田宿禰の名を賜った。
布敷首、生田首は武内宿禰の子孫であり、的(伊久波)戸田宿禰の子孫がいたので一宮神社境内に伊久波神社を祭ったのであろう。1699(元禄12)年の記録にいくは神社のあることを記している。「国際港都の生いたち」より転書
『国際港都の生い立ち』より、として境内掲示がある。
的臣祖は『日本書紀』の仁徳紀に登場する。仁徳紀はその12年の条に、高麗國が鉄製の盾と的をもたらしたことを伝え、高麗国の客人を朝廷に迎えて宴を催したこととを記している。その席上、その盾と的を射通すべく多くの諸臣が射掛けたが、誰一人として成功しなかった。ただ、的臣祖盾人宿禰(いくはのおみのおやたたひとのすくね)のみが的を射通すことに成功した、とある。もとより祭神的臣祖はここから来ているのだが、的は古代では「いくは」と読まれている。そこで、「いくは」の音をとって「伊久波」となっているのだが、注目すべきは「伊久波」は近年になってからの当て字ではないことである。
祭神は的(いくわ)臣祖、菊理姫命
新撰姓氏録山城国皇別の条的臣。石川朝臣と同じき祖。彦太忍信命の三世孫、葛城襲津彦命の後なり。
的の古語をイクハと呼ぶ。古代に三宅の地で百手神事が行われ豊作の豊凶を占ったといわれる
志賀剛「式内社の研究」より
神社の前の三宅川。白鷺が遊ぶ。この神社の北の道路を西に行くと屯倉社がある。
尾張(海部郡、中嶋郡)
本庄市は、埼玉県の北西部に位置する市である。
鷺山古墳は大久保山丘陵と生野山丘陵の間の低丘陵上に位置する前方後方墳です。以前は前方後円墳か円墳と考えられていましたが、昭和60年に埼玉県県史編さん室が確認調査を実施したところ、全長60メートル、後方部幅37メートル、後方部高5.4メートル、前方部幅30メートルの規模を有する前方後方墳であることが明らかになりました。古墳の周囲には堀を巡らせ、堀の中からは底部に穿孔をもつ壺形土器や椀形土器などが出土しました。
墳丘部分は未調査であるため、埋葬施設の形状や副葬品の内容は明らかではありません。葺石(ふきいし)はなく、埴輪も配置されていなかったようです。
古墳の築造時期は、出土した土器の型式などから古墳時代前期中頃、西暦4世紀前半頃まで遡ることが推定され、埼玉県内では最古級の前方後方墳と考えられています。
この地域は武蔵野台地の南端部に位置し、多摩川によって作られた標高30~40mの河岸段丘上にある。そしてここが武蔵国荏原郡に属していたことから荏原台と呼ばれ、古墳群名もそれにちなんで付けられている。
時期的にはまず4世紀には前半に田園調布古墳群の宝莱山古墳が、後半に亀甲山古墳の大型前方後円墳が造られ、末には中型の円墳もつくられた。そして5世紀にはいると代わって野毛地域に大型の帆立貝形古墳である野毛大塚古墳がつくられ、続いて八幡塚古墳、御嶽山古墳など多数の中型の円墳ないし帆立貝形古墳が造られるが、この時期には田園調布地域には古墳の築造は見られない。さらに時代が下って5世紀末になると田園調布地域に古墳築造がもどり、まず前方後円墳の浅間神社古墳が造られ、6世紀から7世紀にかけて多摩川台古墳群の8基の古墳を始めとする数多くの中型の円墳、前方後円墳が造られた。そして7世紀中頃から後になると田園調布周辺では古墳の築造は見られなくなり、代わって舌状台地の東・南などに面した斜面に横穴墓が群集して造営されるようになった。
秋葉山古墳群は、千葉県市原市にあった神門古墳群などと並び、東日本における最古級の古墳群のひとつであり、南関東における出現期古墳、そして当時の社会を知る上での重要な遺跡と評価され、2005年7月14日に国の史跡に指定された。
発掘調査の中で秋葉山古墳群は、3世紀から4世紀にかけての古墳出現期から前期にかけての古墳群であることが明らかになった。特に第三号墳は纏向型の前方後円墳とも呼ばれる、ややいびつな後円部に小さな前方部がついた形をした古墳であり、東日本の中でも最古の前方後円形をした古墳の一つで、3世紀に造営されたと考えられている。当時、古墳群の周辺である相模湾周辺の地域では弥生式の方形周溝墓が造られていたが、第三号墳の規模は方形周溝墓の規模を遥かに凌駕する大きなもので、また発掘された土器などから考えて、第三号墳は相模川流域の在地の勢力から、いち早くヤマト王権との連携を進め、周辺地域を統合することとなった首長の墓であると見られている。
長柄桜山古墳群:神奈川県逗子市桜山と三浦郡葉山町長柄の境界
長柄桜山古墳群は約90メートルという墳長、そして壷型埴輪、円筒埴輪が備わり、さらに一号墳には段築があることが確認され、二号墳には葺石が存在するなど、神奈川県の他の前期古墳、例えば埴輪、段築、葺石がない秋葉山古墳群の古墳と比べると、古墳としての完成度が高い。これは長柄桜山古墳群の被葬者は、他の神奈川県内の前期古墳の被葬者よりもヤマト王権中枢との関係性が深かったからと見られる。
長柄桜山古墳群は、出土品などから4世紀に造られた前期の古墳であることは間違いないが、第一号墳と第二号墳のどちらが先に築造されたかは、墳形、出土品などから検討がなされているが、まだはっきりしていない。
長柄桜山古墳群のそばには大きな平野はないが、一号墳から東京湾、二号墳から相模湾の眺望が開けるという点や、ヤマトタケルの伝説にもあるように、古代、三浦半島から房総半島方面への海上交通路が開けていたと考えられることからも、三浦半島の長柄桜山古墳群は畿内方面から相模を通り、上総など房総方面へ向かう道筋を望む場所であり、そのような場所に古墳群が造営されたことに大きな意味があると見られている。また同じ神奈川県内の相模川河口近くの砂丘地帯という、生産の拠点としてはふさわしくないものの、交通の要衝に長柄桜山古墳群の少し前に造営されたと見られる平塚市の真土大塚山古墳との類似性が注目される。
下海上国造
後の令制国の下総国東部、現在の千葉県旭市、銚子市および香取郡一帯を支配した国造。下菟上国造とも。
『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、応神天皇の御世に上海上国造祖の孫久都伎直を国造に定められたとされる。
常陸の久自国造
久慈郡を領域とした久自国造は、物部氏族で伊香色雄命の三世孫船瀬足尼が任命されたと「国造本紀」に伝え、常陸太田市天神林町に鎮座の式内社稲村神社は同国造が奉斎して大祖饒速日命を祀つたといわれる。この地は、もとは物部の一派・狭竹物部がおり、その居住によつて佐竹郷の起因となったが、佐竹氏の起源の地でもあった。こうしてみると、これら物部の同族が久慈郡密筑里(のち多賀郡水木)に居て泉神社を奉斎していたことが考えられる。
茨城県の
古墳時代前期の4世紀代に築造された可能性が高い古墳
星神社古墳(大田市)は、古墳時代前期の4世紀代に築造された可能性が高く、伊勢山古墳(鹿嶋市)、王塚古墳(土浦市)、佐自塚古墳(石岡市)、長辺寺山古墳(桜川市)等とともに県内最古級の前方後円墳のひとつに数えられ、かつ、久慈川流域では梵天山古墳とともに最古の前方後円墳である。
梵天山古墳(ぼんてんやまこふん)は、梵天山古墳群の主墳。
茨城県内第2位の大きさを誇る前方後円墳で、前方部を西方に向けている。前方部が未発達で後円部が前方部に比べて高いという墳形等から、5世紀中頃の築造と見られている。葺石・埴輪・周溝はない。発掘はされていない。その規模から久慈川流域を支配した主張の墳墓と見られ、初代久自国造の船瀬足尼(ふなせのすくね)の墓と伝えられている。
年代で見ると、梵天山の西側の星神社古墳が、初期の国造の古墳にふさわしい。
星神社古墳(諏訪山古墳)
拝領山諏訪山古墳
所在地 茨城県常陸太田市小島町清水
形 式 柄鏡式の前方後円墳
周囲を水田に囲まれた全長100mの前方後円墳で、後円部の頂上には星宮神社が祀られていることからこの名がついた。江戸時代に鴨志田家が水戸藩から拝領したことから拝領山といわれ、諏訪山古墳とも呼ばれている。
後円部に比べ前方部が未発達であることから、古墳時代前期に造られたものと考えられており、墳丘からは、特殊器台型埴輪という吉備(岡山)地方で見られる埴輪の破片が見つかっている。
約650m南東に離れた全長160mの前方後円墳の梵天山古墳(県指定史跡)とほぼ同時期の古墳と考えられており、その関係が注目されている。
星神社古墳の概要
全長100m 主軸N80°E
後円部 直径54m 高さ8.6m
前方部 長さ46m 高さ2.6m 先端幅39m
常陸太田市教育委員会
『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、応神天皇の御世に上海上国造祖の孫久都伎直を国造に定められたとされる。
領域には日本全体の40パーセントに相当する80例もの丸木舟を出土した栗山川/椿海水系があり、香取海の水上交通を制した有力勢力だったと考えられている。4世紀から5世紀にはしゃくし塚古墳や三之分目大塚山古墳が造営され、上海上国造と合わせ千葉県中部から茨城県、埼玉県、東京都にかけての一帯を支配した「大海上国」ともいうべき勢力圏があったとする説もある。
当国造の領域と上海上国造の領域の間に武社国造の領域がはいっていることから、房総の国造制の展開には少なくとも2段階があったとされ、
6世紀に中央から進出した勢力の建てた武社国によって「大海上国」は上・下に分割され、香取海上流に印波国造が進出、さらに千葉国造に続き匝瑳郡が建てられ領域を割かれたとされている
……
天津彦根命の十四世孫。成務天皇の時、石城國造となった。
また、建許呂命の六人の子も各国の国造となった。
意富鷲意彌命(師長國造)、大布日意彌命(須惠國造)、深河意彌命(馬来田國造)、 屋主刀禰(道奥菊多國造)、宇佐比刀禰(道口岐閉國造)、建彌依米命(石背國造)。
また『先代旧事本紀』では「茨城國造の祖」とあり、筑紫刀禰(茨城國造)の父、あるいは祖と思われる。
『姓氏録』によれば、天津彦根命の14世の子孫にあたり、中央氏族の三枝部連と庵智造(以上大和国神別)、高市県主(和泉国神別)の祖とされる。
地方にあっては『常陸風土記』に茨城国造(後の常陸国茨城郡にあたる国の国造、現茨城県中部。以下これに准う)の祖で、神功皇后の朝廷に仕え、その子供が8人いたとされ(茨城郡条)、『旧事紀(国造本紀)』でも茨城国造の祖で、成務天皇の時代に初めて石城国造(陸奥国石城郡。現福島県いわき市)に任じられたとある。
また『国造本紀』では、その子供が成務天皇の時代にそれぞれ
師長国造(相模国西部。現神奈川県西部)
須恵国造(上総国周淮郡。現千葉県南西部)
馬来田国造(同国望陀郡。現千葉県南西部)
石背国造(陸奥国石背郡。現福島県岩瀬郡)
に任じられ、また、応神天皇の時代に別の子供が
茨城国造
道口岐閇国造(常陸国北端。現茨城県北端)
道奥菊多国造(陸奥国菊多郡。現福島県いわき市)
に任じられている。
小野崎及び那珂の両系統の元祖的な位置を占める人物が太田大夫通延といわれることに着目すれば、当時の久慈郡太田郷が起源の地と考えられます。しかも、当地の古社の奉斎からみて、それが古族の末裔ということであれば、古代長幡部とのつながりが重視され、他の地域の例も考え併せますと、長幡部末裔の宗家的存在であったのが問題の小野崎一族と推されます。
祭神は以下の2柱で、『常陸国風土記』に記される長幡部一族の祖神である
綺日女命 (かむはたひめのみこと)
多弖命 (たてのみこと)
社名にある「長幡」とは絹織物の一種・絁(あしぎぬ)を指す言葉で、「長幡部」とはそれを織る技術者集団を表す。文献上の長幡部氏には、皇別氏族と渡来系氏族が見られる。『新撰姓氏録』逸文の阿智王条では、長幡部の祖は帰化した「七姓漢人」のうち皀(こう)姓で、末裔に佐波多村主(さはたのすぐり)がいると記す[2]。また『古事記』開化天皇段によれば、日子坐王(開化天皇第3皇子)の子・神大根王(かむおおねのきみ)が長幡部の祖とし、美濃の本巣国造と同族であるという。
郡の東七里、太田郷に長幡部の社あり。古老の曰へらく、珠売美萬命、天より降りましし時、御服を織らむ為に、従ひて降りし神の 御名は、綺日女命、本は筑紫國の日向の二神の峰より、三野國の引津 根の丘に至りき、後、美麻貴天皇(崇神天皇 )の世に及び、長幡部の 遠祖多弖命、三野より避りて、久慈に遷り、機殿を造り立てて、初の て織りき、其の織れる服、自ら衣裳と成り、更に裁ち縫ふこと無し。 之を内幡と謂ふ、或は曰へらく、絁を織る時に当りて、輙く人の見 るが為に、故れ、屋の扉を閉ぢ、内を闇くして、織る、因りて烏織 と名づく。強兵、利剱も、裁ち断ることを得ず。今、年毎に、別に 神調として獻納れり
美濃の「引津根丘」とは、『美濃国神名帳』の不破郡引常明神の鎮座地とみられますが、現在遺称地がなく、一説に関ヶ原・垂井付近とされています。しかし、この比定地はやや疑問であり、私は大垣市(もと大柿)の西部の静里・綾野から垂井町東部の綾戸にかけての地ではないかと推しています。ここに「静里」という地名が残ることに注目され、倭文連・長幡部はかなり近い同族であったことが推されます。
前方後円墳
所在地 市原市姉崎2483、2489
JR内房線「姉ヶ崎駅」より徒歩
全長約130m、姉崎古墳群最大の前方後円墳。
後円部径約65m、高さ約14m、前方部幅約55m、高さ約8m、発掘調査は行われていないが、墳形などから4世紀の築造と推定されている。
都道府県 福島
所在地 会津若松市北会津町田村山字塚越
JR磐越西線「会津若松駅」
全長約25mの帆立貝式古墳。
出土した内行花文鏡や玉類、直刀などは1953(昭和28)年に県の重要文化財(考古資料)に指定されている。4世紀の築造。
市(旧北会津郡北会津村)指定史跡、1972(昭和47)年指定
自然丘を削り出して、その削り出された土を盛土として使用して築造されている。墳丘長は168メートルで、東北地方では最大であり、東北地方の第2位以下が120メートル以下であるのに比して突出する規模になる
発掘調査により出土した壺形埴輪や底部穿孔壺型土器などの分析結果や、古墳の築造方法などから、およそ4世紀末から5世紀前半の築造と推定される[3]。仙台平野・名取平野全域では突出する規模であり、被葬者はこれらの地域を支配した広域首長墓と見られる。雷神山古墳の北方では、雷神山古墳以前に名取平野を抑えた古墳時代前期の首長墓群として、前方後方墳からなる飯野坂古墳群の築造が知られる[2]。それら古墳群に次ぐ世代の首長が墳形を前方後方形から前方後円形に変え、さらに飯野坂古墳群とは異なる位置に築造したのが、この雷神山古墳に相当する[2]。仙台平野では雷神山古墳に次ぐ大規模古墳として同時期に遠見塚古墳(宮城県仙台市)の築造も知られるが、両古墳は仙台平野から大崎平野にも及ぶ支配を物語るものとして注目されている[2]。
神奈川県逗子市桜山と三浦郡葉山町長柄の境界にある、2基の前方後円墳で構成される古墳群である
全長90メートルの前方後円墳。後円部の直径は51メートル、前方部の長さは39メートル。神奈川県内で最大の前方後円墳である。丘陵を構成する岩盤を削って整形し、その上に盛土で墳丘を盛り上げて造成した。第二号墳と異なり、墳丘に葺石は用いられていない。出土品としては土器、壺型埴輪と円筒埴輪が出土している。発掘された土器や埴輪、さらには墳形から見て、4世紀、古墳時代前期に築造された古墳であると推定されている。
仲哀妃となった弟媛の叔父、五十狭茅宿禰(上海上国造の祖)は神功皇后征韓に供奉し、のちに仲哀天皇の子の香坂皇子・忍熊皇子兄弟に味方して応神(皇位簒奪者)と戦い、敗れて死んでいる(『書紀』神功元年二月・三月条)。
富加町夕田地区に所在します。丘陵の尾根の上に築かれた前方後円墳です。全長は39.5mで、出土土器や炭化物のAMS年代測定により築造年代が3世紀前半と判明しました。埋葬主体部の調査は行っていませんが、木棺直葬で保存状況は良好であると確認しました。築造方法は弥生時代の墳丘墓の伝統を引き継いでおり、美濃の前方後円墳の誕生を知る上で、非常に貴重な資料であるといえます。夕田地区には他に2基の前方後円墳(蓮野古墳、杉洞1号墳)があり、町内でも早くから開かれた地域であると考えられます
富加町では、現在51基(岐阜県遺跡地図より)の古墳が確認されており、主に町内の丘陵地に、前方後円墳・円墳・方墳・群集墳など、様々な古墳が点在しています。確認されている古墳の数で言えば、美濃地方でも有数の古墳密集地であるといえます。近年には平成21~24年度に夕田茶臼山古墳の確認調査が実施され、岐阜県最古の前方後円墳であることが判明しました。また、町内大平賀地区に所在する「後平茶臼古墳」発掘調査では、朝顔型埴輪や円筒埴輪、馬具などが出土し、当地の古墳時代の解明に大きな前進がありました。
白山神社古墳は、全長88mの前方後円墳で(『埋蔵文化財分布地図』には、76mとあった)、4世紀の築造という。
白山神社の祭神は、『君津郡誌』に、「大友皇子」と「菊理媛命」とあった。また、神仏習合の考えから、明治初年まで境内に神宮寺が置かれ、「白山大権現」と呼ばれ、毎年正月29日には、氏子より寄進された大般若経を神前で転読したともあった。
明治の神仏分離によって「白山大権現」が「白山神社」となった際に、「白山神社なのだから、菊理媛命を祀らなければならない」といった、宮司の単純な発想かららしい。歴史的な由来はまったくないそうだ