古墳の石棺、讃岐の鷲ノ山石と火山石

May 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image古墳の石棺、讃岐の鷲ノ山石と火山石

舟形石棺 4世紀中頃になると讃岐地方では、刳抜式石棺が多く採用される。 四国地方ではでは瀬戸内側の愛媛県と香川…

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コメント

  • 凝灰岩の舟形石棺以外にも、石材の異なる砂岩で作製された舟形石棺が知られている。
    北部九州の砂岩製舟形石棺

    長須隈古墳(福岡県)、画像2:沖出古墳(福岡県)、松浦砂岩で造られた舟形石棺で、唐津湾岸に多く分布する、舟形石棺以外にも谷口古墳(佐賀県)の長持型石棺にも採用されている。

    赤妻古墳(山口県)、1、2同様松浦砂岩製の可能性が考えられるが、確定はされていない。
  • 香川県坂出市西庄町八十八
    形 式 積石墳の前方後円墳
    規 模 全 長 49.2 m
    後円部 直 径 25.4 m
    高 さ 3 m
    前方部 先端幅 18 m
    高 さ 1.7 m
    築 造 4世紀前半

    爺ケ松古墳と呼ばれ香川県坂出市西庄町八十八の丘陵尾根上にあります。
     墳丘は鍵穴のような形をした日本独特な形式で前方後円墳と呼ばれています。
     また墳丘は盛り土ではなく石を積み上げられて作られていることから特に積石墳と呼ばれる形式にも分類されています。
     墳丘の規模は、二段構築された後円部の径25.4m、高さ3mで、前方部の最大幅は18m、高さ1.7mを測り、墳丘全長は49.2mとなっています。
     明確な形での造り出し部は設置は行われていません。
     埴輪の出土がなく埴輪の配列はなかったものとされています。
     葺石が墳丘に施されていたとみられています。
     測量調査が1975年に、発掘調査が1987年に行われています。
     後円部頂中央にある埋葬施設は竪穴式石室で木棺が収められていました。
     竪穴式石室は安山岩でつくられ全長5.7m幅0.9~1.0m高さ1.3mと測られています。
     出土したものとしてガラス製小玉、土師器、鉄器などが知られています。

    古代においてこの讃岐地域は双方中円墳が数多く作られた特異な文化圏が営まれていました。
     この古墳の築造は古墳時代の前期にあたる4世紀前半ごろと推定されています。
  • 讃岐最古の古墳
    古墳時代前期前半(三世紀後半)(古墳編年1期)
    丸井古墳 前方後円墳
    全長29m
    石室主軸東西 竪穴石室2(大5.5m)
    丸井古墳前方部の先端から出土した広口壺、丸井古墳前方部の先端から出土
    三木町方面の平野を見下ろす丸井古墳は、高松の鶴尾神社4号墳とともに、県下最古の前方後円墳です。
    さぬきの初期の前方後円墳の特徴といわれるように、竪穴式石室は2つあり、その主軸は東西を向いています。
    前方部の先端(写真の手前側)からは埴輪のルーツとも言われる広口壺が出土しました。
    ちなみに弥生時代の壺は底が平で、古墳時代になるにつれだんだんと丸くなります(土師器)。
    この丸井のものは弥生土器と土師器の中間の土器になります。
    お墓に供えるときは底に穴を開けて供えていました。
    弥生時代の石田高校校庭森広遺跡から出土した広口壺とよく似ていますね。このことからも、弥生土器を使っていた人が丸井古墳に供えたものと言えるでしょう。
    この壺は1個しかありませんでしたが、これを古墳の周りに置いたとすると壷形埴輪となります。善通寺の野田院古墳にはこの状態が復元されています。


    画文帯環状乳神獣鏡(後漢鏡)

    丸井古墳第2石室出土、径14.2cm
    銅境は鋳型で作ります。銅と錫と鉛でできた合金で、混ぜると溶ける温度が低くなり、作りやすくなります。
    同じ鋳型で複数の鏡(同氾境)を作ります。ちなみにこの鏡から焼かれた鋳型で作られた鏡は同型鏡といいます。
    画文帯神獣鏡は縁の部分が、厚く平らになっている平縁部分に、画文帯と呼ぶ絵画的な文様帯をもちます。
    内区と縁との境界に、半円形と方形とを交互に配置した半円方形帯をもつものや、乳(円錐形の小突起)が神獣文の一部として環状に表現された環状乳神獣鏡があります。
    日本、中国でも多数出土します。中国で3世紀、(後漢の中頃から)に製作されたと思われるが、日本からは約60面?しか出土していません。

    奈良県天理市にある黒塚古墳からは、三角縁神獣鏡33面と画文帯神獣鏡1面が、副葬当時に近い状態で発見されました。棺内の被葬者の頭のところに画文帯神獣鏡1面と両側に刀1・剣1を置き、棺外には東壁側15面、西壁側17面の三角縁神獣鏡を内側に向けて木棺と壁のわずかな間に立てられていました。
  • May 2016 編集されました
    石清尾山古墳群は香川県の代表的な古墳で、全国的にも広く知られています。香川県の古墳といえば、積石塚が特徴ですが、まさに積石塚の一番集中する古墳群ということで、香川の古墳の特徴の最もよく表れた古墳群といえるでしょう。前方後円墳は讃岐で最古の鶴尾神社4号墳を皮切りに連綿と造立され、前期後半の石船塚古墳を最後に終焉します。それは、さぬき市津田湾で鵜の部山古墳が出現し、岩崎山4号墳やけぼ山古墳で終焉する流れとよく似ています。しかし、古墳の特徴は石清尾山古墳群が香川で特徴的な積石塚であるのに対して、津田湾は鵜の部山古墳以外は盛土墳で香川というよりは畿内と似た特徴が多い点で対比して考えると興味深いです。なお、石清尾山古墳群は高いところに古墳が造られていますが、海から古墳が見えるという点では津田湾の古墳と共通しています

    鶴尾神社4号墳

    丸井古墳と並び、讃岐で一番古い古墳です。古墳は高松平野が見渡せる尾根上にあります。全長40mの前方後円墳ですが、後円部の一部は採石によって一部崩壊しています。この古墳は讃岐最古にふさわしく、様々な点で古い要素と讃岐独特の要素が見られます。前方部が低くて細く、しゃもじのように開く形は鵜の部山古墳や丸井古墳と同様に古い古墳の特徴が表れています。竪穴式石室の軸が東西に向き、古墳の主軸とは斜めになる点も讃岐の前期前方後円墳の特徴といえます。また、後円部は、鉢巻状に取巻く外周段築があり、鵜の部山古墳と共通する要素です。土器は広口壷が弥生時代以来の伝統的な製作技法が見られます。竪穴式石室内からは方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)と呼ばれる鏡の破片が出土しましたが、模様のある部分が著しく磨耗しており、世代を超えて伝えられた鏡の可能性が指摘されています。これを伝世鏡(でんせいきょう)といいます。  
  • May 2016 編集されました
    猫塚古墳

    真ん中が円墳、両端が方墳という変わった形をした古墳です。こうした墳形を双方中円墳といいます。中円墳の頂上は現在、明治時代の大盗掘によって大きなくぼみになっています。京都大学の調査では中央に大きな竪穴式石室があり、周囲に小さな竪穴式石室が8基あったとあります。出土遺物は盗掘にあったものが幸運にも東京国立博物で買い上げられ、現在は東京国立博物館に収蔵されています。非常にたくさんの遺物があります。特に筒形銅器の3点は国内2位、鏡5面は県内最多の量になります。また、銅剣17個も古墳からの出土としては全国で1位を誇ります。
     古墳の大きさは96mで県内では富田茶臼山、快天山古墳に次ぐ大きさです。時代は出土遺物に時期差がありますが、古墳時代前期後半の古い時期と考えられています。

    鏡塚古墳

      猫塚古墳と同様に双方中円墳という珍しい形です。猫塚古墳と比べて方墳部分が柄鏡の形になっており、猫塚古墳よりは新しいと考えられています。形は両方の方墳部分は同じ大きさで均整がとれています。全長は70mで大型です。明治時代、現地を訪れた笠井新也氏は方墳部分にそれぞれ1個、中円部の四方に4個の計6個の竪穴式石室があったと指摘されていますが詳細は不明です。  石清尾山の北東は北大塚古墳から石船塚古墳まで積石塚の前方後円墳が連なっていますが、鏡塚古墳はその中で一番高い場所に造られ、かつ大きいです。出土遺物がなく細かな時代は不明ですが、被葬者の権力の大きさが想像されます。
  • May 2016 編集されました
     吉野川上流域での代表的な前期古墳は、阿讃地域に特徴的な積石塚である丹田古墳で、標高260mの高所に単独で立地しています。埋葬施設は竪穴式石室ですが、その天井の構造が、合掌式であり讃岐で発達したそれとは形式に異なっています。その後中・上流域では目立つ古墳の造営は全くみられませんが、後期になると先に紹介したこの地方独特の横穴式石室墳が爆発的に造営されました

    八幡神社古墳の天井石
    阿波地方での古墳分布の中心地域である阿讃山麓地域では、萩原1号墓など積石塚の造営に始まりますが、その後は宝憧寺1号墳等の盛土による前方後円墳が続き、5世紀初頭には竪穴式石室を埋葬施設とする前方後円墳である愛宕山古墳や、平地に単独で立地し周濠を有す円墳である土成丸山古墳など畿内的な古墳が造営されました。この地域では6世紀後期に横穴式石室が登場し、その代表である、ぬか塚古墳は方袖型横穴式石室を埋葬施設として持つ円墳で畿内色の強いものになっています。もう一方の古墳造営の中心地である鮎喰川流域では、銅鐸が大量埋納された矢野遺跡などの大集落を基盤に古墳が造営されます
  •  吉野川上流域での代表的な前期古墳は、阿讃地域に特徴的な積石塚である丹田古墳で、標高260mの高所に単独で立地しています。埋葬施設は竪穴式石室ですが、その天井の構造が、合掌式であり讃岐で発達したそれとは形式に異なっています。その後中・上流域では目立つ古墳の造営は全くみられませんが、後期になると先に紹介したこの地方独特の横穴式石室墳が爆発的に造営されました。
    八幡神社古墳の天井石
    阿波地方での古墳分布の中心地域である阿讃山麓地域では、萩原1号墓など積石塚の造営に始まりますが、その後は宝憧寺1号墳等の盛土による前方後円墳が続き、5世紀初頭には竪穴式石室を埋葬施設とする前方後円墳である愛宕山古墳や、平地に単独で立地し周濠を有す円墳である土成丸山古墳など畿内的な古墳が造営されました。この地域では6世紀後期に横穴式石室が登場し、その代表である、ぬか塚古墳は方袖型横穴式石室を埋葬施設として持つ円墳で畿内色の強いものになっています。もう一方の古墳造営の中心地である鮎喰川流域では、銅鐸が大量埋納された矢野遺跡などの大集落を基盤に古墳が造営されます。この地域では布留式古段階で県下最古の前方後円墳である宮谷古墳を初現に、円墳に突出部を有す積石塚の奥谷2号墳、県下唯一の前方後方墳である奥谷1号墳と、5世紀中期まで断続的に古墳の造営がみられますが、それ以後6世紀前期までの古墳は明確ではありません。
     徳島県下の大型横穴式石室では、美馬町太鼓塚・棚塚・小松島市弁慶の岩窟古墳などが知られていますが、ここでは先行する大型古墳は見受けられていません。一方、後に阿波国府が置かれる気延山山麓には、ひびき岩古墳群など巨石を使用した横穴式石室墳が山麓一帯に造営されます。そして7世紀に入ると矢野古墳や穴不動古墳など極めて畿内色の強い古墳が出現します。穴不動古墳は徳島で最も前期古墳の集中する地域に築造されていて、玄門立柱の構造は香川県の大型横穴式石室と共通性を持ち、巨石を用いた石室は角塚古墳に類似していることが知られています。徳島県でも地域による横穴式石室の構造的差異が確認されていて、穹窿式の天井を持つ段の塚穴型が美馬郡を中心に、また天井部が特別に高くなく、玄室の奥壁コーナーを隅丸に作る忌部山型が麻植郡に分布しています。前者は佐伯氏との、そして後者は忌部氏との関連が指摘されています。また徳島県の吉野川流域では石棚が付設された横穴式石室が、吉野川中流域の北岸に密集していることも四国の古墳文化を語る上で見逃せません。石棚付きの石室はこの地域以外にも香川県高松市の久本古墳、愛媛県北条市の新城3号墳など、四国地方全域で散見されますが、特に吉野川中流域に顕著に分布することは興味ある事実といえます。

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    讃岐の古墳
     讃岐の古墳文化の特徴としてまず上げられるのは積石塚と舟形石棺です。積石塚古墳では石清尾山古墳が代表的ですが、その他にも爺ヶ松古墳(香川県高松市)、また讃岐以外でも萩原1号墓(徳島県鳴門市)、丹田古墳(徳島県加茂町)、また大分県と対峙する愛媛県の津島町高田にも30数基の積石塚があり、四国全域に分布しています。讃岐地方における古墳の分布を調べてみますと、とりわけ西讃岐に多く分布しています。それらはいずれも水利の良い、平野を見おろす台地上が多いことが特徴です。讃岐地方を代表する古墳としては高松市の石清尾山山塊に築造された積石塚群、石清尾山古墳群がまず上げられます。この古墳群は4世紀前期から5世紀初頭にかけて築造されたと思われる古墳群ですが、通常の盛土墳とは異なり、人頭大の板石を積み上げて墳丘を構築するもので、非常に地域性に富んだ古墳といえます。この様な形態の墳墓は朝鮮半島の北部、鴨緑江周辺に多く認められますが、それらは紀元前1世紀から紀元2世紀のものと言われていて、石清尾山古墳群との直接的な関連は薄いと考えられています。また日本列島でも長野県などに古墳後期の積石塚が存在しますが、それらも築造年代が異なり石清尾山古墳群との関係は希薄であると思われています。石清尾山古墳群と同時代のものでは中山大塚古墳(奈良県天理市)など、墳丘に葺石が厚く積み上げられた古墳も存在することが知られています。これらは積石塚ではありませんが埋葬主体部なども竪穴式石室と共通である事などから、もしかしたら石材の入手が困難である地方では盛土の古墳の上に葺石を厚く敷いて積石塚風に築いたことも想定され興味深いものです。積石塚の様に割石を積み上げて築造された墳墓形態は、中国東北地方から朝鮮半島北部の騎馬民族文化圏に多く分布しますので、この石清尾山古墳群を築いた勢力は彼の地からの渡来者であった蓋然性は高いといえます。

    野田院古墳(香川県善通寺市)

    磨臼山古墳刳抜式割竹型石棺

     次に舟形石棺ですが4世紀中頃になると讃岐地方では、刳抜式石棺が多く採用される様になります。四国地方ではでは瀬戸内側の愛媛県と香川県に刳抜式石棺が分布していますが、そのほとんどは香川県下に存在しています。これら讃岐の刳抜式石棺は、形態上舟形石棺に分類されていますが、通常舟形石棺はその断面が扁平な円形をしているのに対して、讃岐地方の舟形石棺の断面は四角形に近く、形態的に多少異なる特徴を有しています。ただ全国的に見ても讃岐の刳抜式石棺の成立が最も早く、初現期の舟形石棺は断面が四角形であったものが、時代が下るに従い楕円形に変化したとも考えられています。四国地方の刳抜式石棺ではは、国分寺町鷲ノ山産出の鷲ノ山石(石英安山岩質凝灰岩)と津田町火山の火山石(非晶質凝灰岩)石材の2種類が採用されていますが、九州の阿蘇熔結凝灰岩製の刳抜式石棺も4例知られています。これらの刳抜式石棺は割竹形木棺を原型に創出されたといわれ、その典型が先の石清尾山積石塚群に存在する石船塚古墳の割竹形石棺です。積石塚群に刳抜式石棺の初期のものが採用されていることは、その成立に積石塚を築いた石材加工技術に長けた技術者集団が関与していたことが十分考えられます。鷲ノ山や火山石は、四国以外にも運ばれており、鷲ノ山では大阪府柏原市の松岳山古墳の長持型石棺材や、勝福寺に保存されている割竹型石棺で用いられています。ここで注目されるのは松岳山古墳の周辺に積石塚古墳が分布することで、この石材と積石塚古墳との関連性を強く示唆するものとして注目されます。また火山石製の刳抜式石棺は四国の東部に分布中心を持ち、最近は徳島県鳴門市の大代古墳から出土し注目されました。この火山石も四国以外の地に搬出されていて、岡山県鶴山丸山古墳、大阪府和泉市の乳の岡古墳で確認されています。また奈良県奈良市の佐紀陵山古墳で過去に確認された石棺の蓋石状石材もこの火山石製であるとの見解も示されていて、巨大古墳の造営と火山石との関係もまた非常に興味あることです。一方、九州より運ばれた阿蘇熔結凝灰岩製の石棺4例は、愛媛県松山市の石棺、香川県観音寺市丸山古墳および青山古墳の石棺、そしてもう一つの例は香川県高松市長崎古墳で確認されたものです。香川県観音寺市を含んだ愛媛県川之江市を中心とする東予地域と、愛媛県松山市から北条市を含んだ中予地域で、共通する固有の古墳文化が認められることは非常に注目されます。
  • 九州より運ばれた阿蘇熔結凝灰岩製の石棺4例は、愛媛県松山市の石棺、香川県観音寺市丸山古墳および青山古墳の石棺、そしてもう一つの例は香川県高松市長崎古墳で確認されたものです。香川県観音寺市を含んだ愛媛県川之江市を中心とする東予地域と、愛媛県松山市から北条市を含んだ中予地域で、共通する固有の古墳文化が認められることは非常に注目されます
  • 舟形石棺
    4世紀中頃になると讃岐地方では、刳抜式石棺が多く採用される様になります。四国地方ではでは瀬戸内側の愛媛県と香川県に刳抜式石棺が分布していますが、そのほとんどは香川県下に存在しています。これら讃岐の刳抜式石棺は、形態上舟形石棺に分類されていますが、通常舟形石棺はその断面が扁平な円形をしているのに対して、讃岐地方の舟形石棺の断面は四角形に近く、形態的に多少異なる特徴を有しています。ただ全国的に見ても讃岐の刳抜式石棺の成立が最も早く、初現期の舟形石棺は断面が四角形であったものが、時代が下るに従い楕円形に変化したとも考えられています。四国地方の刳抜式石棺ではは、国分寺町鷲ノ山産出の鷲ノ山石(石英安山岩質凝灰岩)と津田町火山の火山石(非晶質凝灰岩)石材の2種類が採用されていますが、九州の阿蘇熔結凝灰岩製の刳抜式石棺も4例知られています。これらの刳抜式石棺は割竹形木棺を原型に創出されたといわれ、その典型が先の石清尾山積石塚群に存在する石船塚古墳の割竹形石棺です。積石塚群に刳抜式石棺の初期のものが採用されていることは、その成立に積石塚を築いた石材加工技術に長けた技術者集団が関与していたことが十分考えられます。鷲ノ山や火山石は、四国以外にも運ばれており、鷲ノ山では大阪府柏原市の松岳山古墳の長持型石棺材や、勝福寺に保存されている割竹型石棺で用いられています。ここで注目されるのは松岳山古墳の周辺に積石塚古墳が分布することで、この石材と積石塚古墳との関連性を強く示唆するものとして注目されます。また火山石製の刳抜式石棺は四国の東部に分布中心を持ち、最近は徳島県鳴門市の大代古墳から出土し注目されました。この火山石も四国以外の地に搬出されていて、岡山県鶴山丸山古墳、大阪府和泉市の乳の岡古墳で確認されています。また奈良県奈良市の佐紀陵山古墳で過去に確認された石棺の蓋石状石材もこの火山石製であるとの見解も示されていて、巨大古墳の造営と火山石との関係もまた非常に興味あることです。一方、九州より運ばれた阿蘇熔結凝灰岩製の石棺4例は、愛媛県松山市の石棺、香川県観音寺市丸山古墳および青山古墳の石棺、そしてもう一つの例は香川県高松市長崎古墳で確認されたものです。香川県観音寺市を含んだ愛媛県川之江市を中心とする東予地域と、愛媛県松山市から北条市を含んだ中予地域で、共通する固有の古墳文化が認められることは非常に注目されます。
  • 船形石棺出土地一覧
    船形石棺の出土古墳

    太平洋側
    不動山(ふどうやま)古墳       群馬県高崎市綿貫町金掘
    保渡田(ほどた)薬師塚古墳     群馬県群馬郡群馬町大字保渡田
    保渡田八幡塚古墳・          群馬県群馬郡群馬町大字保渡田
    臼塚(うすづか)古墳          大分県臼杵市大字稲田字林西平
    下山(しもやま)古墳          大分県臼杵市大字諏訪
    石舟塚(いしふねづか)古墳     宮崎県児湯郡 高鍋町大字持田持田古墳群

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    瀬戸内海沿岸
    唐櫃山(からびつやま)古墳     大阪府羽曳野市誉田古市古墳群(菊池川産阿蘇凝灰岩・長持型)
    石船塚古墳               香川県高松市峰山町
    船岡山古墳               香川県高松市香川町浅野
    三谷石舟(みたにいしふな)古墳 ・ 香川県高松市三谷町
    快天山(かいてんやま)古墳     香川県 丸亀市綾歌町栗熊東・富熊
    赤山(あかやま)古墳         香川県さぬき市津田町鶴羽相地 津田湾古墳群
    磨臼山(すりうすやま)古墳    ・ 香川県 善通寺市生野町
    蓮華寺石棺               愛媛県松山市谷町 (菊池川産阿蘇凝灰岩・長持型) 

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    日本海側
    蛭子山(えびすやま)古墳       京都府 与謝郡加悦町
    宝石山(ほうせきざん)古墳      福井県福井市足羽山(あすわやま)古墳群   
    玉造築山(たまつくりつきやま)古墳 島根県松江市玉湯町玉造大門(旧八束郡)
    竹矢岩船(ちくやいわふね)古墳   島根県松江市竹矢町手間
    徳蓮場(とくれんば)古墳       島根県松江市玉湯町玉造 徳連場
    神庭岩船(かんばいわふね)古墳  島根県簸川郡斐川町荘原町神庭
    石神山(せきじんざん)古墳      福岡県みやま市 高田町上楠田
    沖出(おきで)古墳           福岡県嘉穂郡稲築町大字漆生字才木78

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    東シナ海側
    小路(しょうじ)古墳                熊本県玉名市玉名小路
    楢崎(ならさき)古墳               熊本県宇土市花園町字楢崎
    慈恩寺経塚(じおんじきょうづか)古墳     熊本県鹿本郡植木町米塚井川平
    馬見塚辻古墳                   熊本県山鹿市方保田辻(墳丘なし)
  • 春日山古墳 附 泰遠寺山古墳 福井県吉田郡永平寺町松岡室

    泰遠寺山古墳出土石棺(たいおんじやまこふん しゅつどせっかん)は、もと芝原にあったが、2015年4月現在は春日山古墳脇に展示されている。芝原で発見された時は、石室などの施設がなく単独で土中に安置されていたという。その付近からは葺石、埴輪片が出土している。全長約64mの前方後円墳と推測される。石棺は舟形凝灰岩製(笏谷石)で、長さ2.3m、身の幅92cm、高さ54cmである。外壁四周中央に、それぞれ径15cm、長さ30cm内外の突起がつけられている。築造年代は、古墳時代中期(5世紀)頃と考えられる。


    船形石棺 古墳中期 福井市宝永3丁目12-1(市立郷土歴史博物館)
    凝灰岩(笏谷石)製長さ206cm、幅71cm、高60cm、
    足羽山古墳群山頂古墳出土
    家形石棺及び副葬品 古墳中期 福井市宝永3丁目12-1
  • 刳抜式の石棺の一種であり、身と蓋を合わせた断面は扁円形をしており、同様の方法で作られた割竹形石棺より安定性があり、両端が斜めに切られている形状が船に似ていることからこの名称が付いている。
    割竹形石棺の変容形と目されており、縄架け突起が付けられていたり、石枕が作り出されていたりする。
    主に4世紀中葉~6世紀前葉に熊本・佐賀・宮崎・香川・島根・福井・群馬・茨城などの各地で在地の石材を用いて首長の棺として造られ、各地に普及した

    青塚古墳(香川県観音寺市に所在する古墳時代中期の帆立貝形古墳)阿蘇の溶結凝灰岩をしよう。また、洞石材を使った市内堂本町に所在する丸山古墳(円墳)でも確認されている。

    臼塚古墳(大分県臼杵市大字稲田にある前方後円墳)、大小2基の舟形石棺が発見され、全長2.85mと2.25mである。

    保渡田古墳群(群馬県群馬郡群馬町(現・高崎市)保渡田・井出に所在する古墳群)には二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳の三基の大型前方後円墳があり、それぞれに舟形石棺が使用されている。
  • May 2016 編集されました
    八幡市の茶臼山古墳の船形石棺
    八幡市内で最も古い4~5世紀古墳時代前期の茶臼山古墳(男山笹谷)から出土のこの石棺は、八幡市誌第一巻に“松花堂庭園の前に置かれていたが、現在は京都大学で保管されている”と記されており訪問前から、現在の保管状況について関心がありました。保管場所には大きな屋根が設けられていて崩れかけた石棺の蓋部は専門業者による補強と補修がされており、土台部は割石が敷かれて排水も考慮されておりました。流石は京都大学の専門家の管理であると感心すると同時にこの遺跡が大事にされていることを知りました。長さ300cmで幅110cmと大きな石棺です。
    この石棺は阿蘇熔結凝灰岩(阿蘇黒石)で作られていることから、既に前期古墳時代に九州との交流がありこのような大きな物資の運搬があったことがわかります。また、八幡美濃山丘陵に多くある横穴墳は九州北部から6世紀に伝わったこと言われている。

    備前の小山古墳(方円墳、全長54m、五世紀末頃)は両宮山古墳の倍塚或いは一族の物と考えることが出来るかも知れません。小山古墳には九州の阿蘇溶結凝灰岩製の家形石棺が埋納されていた。全長206mの規模を誇る両宮山古墳(方円墳、五世紀後半の築造、ただし葺石や埴輪無し)。

    阿蘇溶結凝灰岩の中でも阿蘇ピンク石と呼ばれる石材で造られた石棺から神人歌舞画像鏡が出土した珍しい例が大阪藤井寺に在った長持山古墳(円墳、墳径40m、五世紀後半頃)です。この古墳の墳丘は既に失われていますが、幸いなことに二つの石棺が保存されており、見学も自由に行えます(専門家によれば同墳は近接して造営された允恭陵[市野山]古墳の倍塚ではないかと見られています)。

    長持山出土の一号棺(右側)「小口側」(棺の短い方の辺)に見られる縄掛け突起の形状は、小山古墳の物に良く似ています。そして何より、これらの石棺は何れもが九州の阿蘇溶結凝灰岩製であって、長持山2号棺は畿内で初めて使われた阿蘇ピンク石として様々な文献でも紹介されてきました。また、吉備では最大規模を誇る造山古墳(方円墳、全長360m、五世紀中頃)からも阿蘇溶結凝灰岩製の長持形石棺(身)が出土しています
  • 河内の玉手山古墳
    3号墳 発掘調査で確認できた前方部、測量図から推測できる後円部の墳端からすると、西殿塚古墳に類似する。とくに、ほぼ直線化しながらわずかに反りを見せる前方部の形状および3段の前方部の割り付けは、西殿塚古墳の墳丘が著しく左右非対称であるため比較がやや難しいが、おおむね共通している。墳丘規模は西殿塚221m160歩に対して、3号墳は97m70歩と推測する。後円部の墳端および各段の規模を発掘調査で確認できていないが、西殿塚型の相似墳である蓋然性が高い。3号墳の埴輪は、壺形埴輪と円筒埴輪、そして朝顔形埴輪がある。いずれも全容は不明であるが、底部穿孔がなされた壺形埴輪があり、一方で器台形埴輪の口縁部を表現した朝顔形埴輪があり、東殿塚古墳のものに共通する事例である〔加藤2001〕〔鐘方2001〕。巴形の透孔をもつ壺の胴部片もある。また1点のみであるが都月形線刻のあるものが存在する。また出土状況から、埴輪が据え置かれたのは墳頂部のみで、テラス部にはいまだ樹立されていないことが確認できた。
     埋葬施設は、竪穴式石室とみられるが盗掘大破しているらしい。なお、安福寺にある割竹形石棺は、この3号墳にあったものと伝えられている〔梅原1914〕。直弧文をもつ香川県鷲の山石の石棺である。しかし、これが3号墳の石室に内蔵されていたものかどうかは、検討の余地があると思われる。かつてのレーダー探査では、石棺に見合う幅のある石室とされたが、天理大学の実施した最新のレーダー探査では、石室は大きく破壊されて壁体がよく残存している様子はないとのことである。前期古墳に通有の狭長な竪穴式石槨とみるべきかもしれない。この石棺が3号墳の墳丘北側にあったのだとすると、すぐ北の2号墳では石棺があったことは確かなようであり〔岸本2002a〕、2号墳の石棺であった蓋然性も考えられる。
     3号墳は、西殿塚型の墳形、都月型線刻がほぼ消失し朝顔形埴輪が出現している埴輪の様相から、9号墳に後続するものと考えられるが、あまり時間差はないように思われる。西殿塚古墳が3世紀後半とすれば、3号墳は3世紀末頃から4世紀初頭に位置付けうる。
  • 玉手山墳群と松岳山古墳群の関係
     松岳山古墳は150m前後の規模を誇り、玉手山古墳の大型古墳よりもはるかに大きい。この松岳山古墳と玉手山古墳群との関係を考えてみたい。
     1960年代のひとつの理解は、玉手山古墳群に対して、新たに大和の勢力が進出してきて松岳山古墳を築いたとする理解があった。つまり被葬者像としては、河内の在地勢力というよりも、倭王権側の人物像を想定する理解である。しかし、柏原市教育委員会の1号墳や松岳山古墳の発掘調査の結果、楕円形埴輪の連続性、墳頂の高い石積土壇、板石の多用、白色円礫の使用などが共通し、玉手山1号墳との親縁性が明らかになってきた。また鷲の山石は、安福寺石棺と共通する讃岐からの搬入品であり、河内地域と讃岐地域との関係〔高橋1997〕のなかでもたらされたものとして共通の背景があろう。以上の点から、松岳山古墳の被葬者は、やはり玉手山古墳群の被葬者集団と共通する河内の在地勢力とみる。
    出典
    http://onepeace2054.blog.shinobi.jp/未選択/玉手山古墳群の消長と政権交替(2005年3月)
  • 石作神社について言えば、『延喜式』神名帳に記載される石作神社は、全国で六社あって、そのうち尾張国に四社も集中してあげられ、同国には石作郷も二郷が見えるから、尾張国造尾張連との同族性を称する事情も窺われる。石作神社の残り二社も、近江 (上記の長浜市)と山城国乙訓郡だから、分布は殆ど東側に偏っているが、史料に現れる主な石作連は播磨であった。
     『播磨国風土記』の印南郡大国里条には、帯中日子天皇(仲哀天皇)の崩御により、息長帯日女命(神功皇后)が陵墓造営のために石作連大来を連れてきて讃伎国の羽若(羽床)の地の石を求められたといい、この地の池之原の南に石の造作物があって、その形状は家屋のような大きさだという。この巨大な石造物が「石宝殿」とも呼ばれて、生石神社(兵庫県高砂市阿弥陀町生石)の神体となっている。同社は式外社であるが、著名な古社であり、祭神を大穴牟遅命、少毘古那命とされる。
     同風土記の飾磨郡安相里条にも石作連の記事があり、さらに宍禾郡石作里条にも石作首が居住し、これが『和名抄』の宍粟郡石作郷(現・宍粟市域)につながる。
     さらに、播磨国賀茂郡の既多寺の知識に石作連知麿・石勝も見えており(天平六年の「大智度論巻五十六跋語」)、賀茂郡には式内社の石部神社(兵庫県加西市上野町)もあった。当社の祭神は現在、宗像三女神とされるが、どこかで祭神が変わったものか。石作部の人々は美濃、尾張、近江などにも居たと史料から窺われるが、カバネを負う者で具体的な人名として史料に見えるのは播磨だけのようであるから、『姓氏録』に見える左京・摂津・和泉の神別の石作連の記事と併せて考えても、播磨あたりが起源の地とみられそうである。
  • August 2016 編集されました
    陶棺

    陶器でできた棺おけのことです。棺おけは、木で出来たものが、木棺。甕を二つ合わせたものが、甕棺です。石製は、石棺です。
    久米郡に限って陶器製の棺桶がたくさん出土しています。

    倉敷考古館長の間壁忠彦しと・葭子夫人共著 『吉備古代史の未知を解く』によりますと、

    「焼き物の棺は、全国的にみても、その7~8割に当るものが、岡山県下で発見されている。しかも、県下発見例の中の7割以上が、吉備の中でも、後の美作となる地域に集中していることは、あまりにも異常な事なのである。」

    と述べ、その後、異常であることを強調し、解明するために、162ページから196ページを費やされましたが、解明されていません。
     焼き物で出来た棺桶を陶棺といっていますが、岡山県下の陶棺は、土師質亀甲形陶棺と須恵質及び切妻家形陶棺とが多く、背が高く大きな棺桶です。(実物は見たことがありません)
    前者は、赤味がかった陶棺で、後者は、須恵質とありますから、土師質より高温で焼かれているのだと思います。久米町の糘山遺跡や佐良山に多いのが判ります。

    旭川と高梁川の間で、陶棺が多く見つかっています。特に旭川の両岸に分布します。

    赤磐郡山陽町にある小山古墳は、石棺に九州の阿蘇の石が使われています。備中の造山古墳も阿蘇の石が使われています。元は阿蘇に住んでいた漢人が葬られているのではないでしょうか? 総社市三輪の宮山遺跡からは、飛禽鏡が見つかっています。これも古い時代のものではないかと思います。岡山の古墳のことは勉強していませんが、車塚古墳というのがあります。ここからは三角縁神獣鏡が出ています。三角縁神獣鏡11面、平縁の画文帯神獣鏡1面、後漢時代の内行花文鏡1面計13面という鏡の多さから考えますと、この地の最後の漢人将軍だったと思われます。3世紀のことです
  • 石棺の形式変化探る重要な資料 – NHK香川県のニュース

    ことし3月に、東かがわ市で見つかった石の棺、石棺は発掘調査の結果、古墳時代中期の5世紀になって近畿などで広まった石棺の特徴を持つ最も早い時期のものとみられ、古墳時代前期からの石棺の形式の変化を探るうえで重要な資料であることがわかりました。
    この石棺は、ことし3月、東かがわ市湊の丘陵で一部が露出している状態で見つかったもので、東かがわ市教育委員会が発掘調査を行いました。
    その結果、埋まっていたのは、長さ183センチ幅90センチの石棺の蓋で、隣りのさぬき市にある火山の石で造ったものとわかりました。
    また、両側の端を斜めに切り落として斜面をもたせるなど、火山石の石棺にみられる特徴が確認されました。
    一方、側面に縄を掛けるための突起を2つずつ設けていることや石棺の長さと幅の割合がおよそ2対1で幅の割に長さが短いことなど、5世紀になって近畿を中心に広まった長持ちのような形をした石棺長持形石棺に共通する特徴も持っていました。
    古墳時代の石棺は、4世紀中頃に今の香川県で初めて造られ、その後、各地に広まったとされています。
    今回発見された石棺は、5世紀前後のもので長持形石棺の特徴を持った最も早い時期のものとみられています。
    調査を担当した大川広域行政組合埋蔵文化財係の松田朝由さんは、「長持形石棺が出現する背景には香川の石棺文化が大きく影響しているということが指摘されていたが、今回発見された石棺は、それを裏付ける重要な資料ではないかと思う」と話しています。
    また、周辺で埴輪が見つかっていることや測量調査の結果などから、この石棺が埋まっていたのは全長が90メートルクラスの前方後円墳とみられ、東かがわ市教育委員会では、確認のための発掘調査も行う予定です。
    東かがわ市教育委員会は、この発掘調査の成果を一般に紹介する現地説明会を今月25日に開きます。
    時間は午前10時からです。
    集合場所は東かがわ市湊の向良神社で、湊川橋北側の河川敷に車を止めることができます
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