椿井大塚山、神獣鏡、

May 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image椿井大塚山、神獣鏡、

椿井大塚山古墳 30数面の三角縁神獣鏡のほかに、後漢鏡や画文帯神獣鏡など4面の中国鏡 が出土し、素環頭大刀や甲…

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コメント

  •  物部氏族の主居住地についてもふれておくと、穂積の遺称地・保津(奈良県磯城郡田原本町保津)は弥生期の大遺跡たる唐古・鍵遺跡の南西近隣に位置するし、河内国の哮ヶ峰(現在の生駒山)への降臨伝承が残る石切劔箭命神社(河内国河内郡の式内社で、東大阪市東石切町に鎮座。穂積堂と呼ばれた摂末社もある)の社家は、地域的に見て物部の初期分岐とみられるが、初め穂積と称し、いま転訛して「木積(コツミ)」を名乗る事情もある。鈴木真年翁も『史略名称訓義』で、可美真手命が大和国十市郡穂積里に居たとして、穂積臣氏本宗説を記している。

    唐古・鍵遺跡の主体たる物部氏が布留遺跡などに移り、纏向遺跡は別途、王都として大王家により造成され、崇神がその主となったとみ られる。物部の祖の伊香色雄や十市根は石上神宮に関与し、穂積から分かれて神宮の周辺から南方にかけての地域に本拠を移したのであろう。物部嫡宗家は代々 山辺郡の天理市中央部辺りを本拠(山辺郡に穂積郷をあげる『和名抄』もあり、これが妥当ならその郷域か)としてきて、西山古墳など同市杣之内町・勾田町・守目堂町一帯の古墳群(杣之内古墳群)は物部一族築造の可能性が大きい。

    一族の矢田部氏は添下郡矢田郷を中心に大和郡山市・奈良市辺りに勢力を持ち、穂積氏は摂津国島下郡穂積郷(現茨木市穂積)を中心に西方の豊島郡穂積村(現豊中市の穂積・服部)にかけての地域に居住した。大和郡山市矢田には名神大社の矢田坐久志玉比古神社があり、茨木市穂積の北方近隣の福井に三島郡唯一の名神大社・新屋坐天照御魂神社があって、ともに饒速日命を祀るから、各々矢田部氏、穂積氏が奉斎したものとみられる。
  • 越智氏族略系図
    饒速日命──宇摩志麻治命──彦湯支命──出石心大臣──大矢口宿禰──大綜杵命──伊香色雄命──大新川命──大小千連──乎致命〔越智氏族之祖〕──天狭介──粟鹿──三並──熊武──伊但島──喜多守──高縄〔現大濱八幡大神社創建者〕

    『先代旧事本紀』天孫本紀では、出石心大臣は出雲醜大臣命、大矢口宿禰は大水口宿禰命と記されていますが、こういった小さな差異にこだわる必要はないでしょう。ここで再確認できるのは、越智氏の正統系図に、大山祇神社がいうところの祖神としての大山積大神の名がみられないということです。
     では、大山祇神社の主張がでたらめかとなりますが、そうではないという仮定のもとにいうことがあるとすれば、それは、越智氏にとって饒速日命が父系祖神であるとき、大山積大神は母系祖神ではなかったかということがあります。これは改めてふれますが、天孫降臨→瓊々杵尊婚姻神話における『日本書紀』の記述は、大山積大神「男神」説を語る複数の別伝・異伝を配するも、その本文においては、大山積大神は「女神」とされていたことを添えておきます。越智氏の母系祖神Xは、オオヤマツミの名で語られている可能性があります。
  • 大濱八幡大神社は「天智天皇の祖神門島神を遷座し饒速日命・天道日女命を合祀」と明記し、天照大神の名を自社祭祀から削除・不表示としています。記紀神話を盲信するかぎり、天皇の祖神は天照大神となりますが、大濱八幡大神社は、その祖神を「饒速日命・天道日女命」と語っています

    なぜならば、天照大神が天皇の祖神となるのは、天智天皇のあと、つまり壬申の乱(六七二年)のあと、天武・持統天皇以降、伊勢神宮の創祀と連動するもので、天智天皇の時代までは、天照大神は饒速日命のことだったといえるからです。饒速日命を、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊という最大賛辞の神名で語っていたのは、越智氏同族物部氏の文書(『先代旧事本紀』)でした
  • 椿井大塚山古墳は、全長約190メートルで、山城の国最大の古墳である。当時の天皇の后妃陵(平均約200メートル)なみの大きさである。
    京都大学の考古学者、小林行雄氏は、大塚山古墳と武埴安彦との関係について、つぎのようにのべている。
    「山城大塚山古墳の被葬者は、あるいは武埴安彦のように、大和の最高統治者の地位を争う資格のあったほどの人であったかも知れない。あるいはまた山背(やましろ)の大国不遅(おおくにふち)[「垂仁紀」34年)のような重々しい名を負うた外戚の一人であったかも知れない。それはなお明らかにすべくもないことであるが、この一族が全国的な(三角縁神獣鏡の)同笵鏡の分配にはたした重要な役割は、かならずや大和政権の統治力の伸長に役立つものであったろう。初期の大和政権の構成に、南山城のこのような一勢力が、かくも大きな比率を占めて加わっていたことは、従来の政治史的考察の上にはあまり考えられていなかったことではあるまいか。初期の大和政権の構成の問題もまた、これらの面からさらに考えて見る必要があろう。」(「古墳発生の歴史的意義」『論集日本文化の起源1 考古学』所収 平凡社)

    邪馬台国大和説の立場にたつ徳島文理大学教授の、石野博信氏は、つぎのようにのべる。
    「前方後円墳の中で有名な京都の椿井大塚山古墳では、三角縁神獣鏡を三十数面持っている。これは、大和政権が服属の証(あか)しに政権側から各地域の王に渡したが、その渡す役割をやった人の古墳だといわれている。この古墳は非常に古いといわれているが、ここからは土器が出ていて、土器からすると、どう見ても四世紀の中ごろから四世紀後半ぐらいのものではないかと思われる。
    三角縁神獣鏡は女王卑弥呼がもらった鏡で、それを隠しておいて、ある時期になってからお墓に入れるようになったという三角縁神獣鏡の伝世論というのがあるが、そういう難しいことを考えなくても、素直に、この鏡は新しくて、その中枢を握ったといわれている椿井大塚山古墳も、土器が示すように新しい時代であると考えることができる。
    そのように考えると、椿井大塚山古墳の三角縁神獣鏡と同じ型でつくった鏡を、Aの古墳からB、C、Dなどの古墳まで、それぞれ分有していることは事実だと思うが、そういう事実ができあがった段階は四世紀中葉であると考えると、前方後円墳が、東北から九州まで全国的に広まった段階と一致してくるのではないか」(『邪馬台国研究』朝日新聞社、1996年刊)
  • 椿井大塚山古墳(京都府・木津川市) - 3世紀末の巨大前方後円墳
    京都府木津川市山城町

    【概要】
    築造期は3世紀末、山城地方最大の前方後円墳。破壊が進んでいて、本来の規模については未だよく分かっていない。後円部はJR奈良線によって分断されている。国の史跡指定を受けている。

    墳丘は全長約175メートル、後円部は直径約110メートル・高さ20メートル、前方部は長さ約80メートル・高さ約10メートルと推定される。前方部が撥(ばち)形に開き、濠が認められていない。水をたたえていない古墳は畿内では稀。

    古墳は山塊のなかに造営され、盛土も部分的におこなっている。墳丘の大部分は自然地形の高まり、つまり、自然の山を利用しているので、一見、丘陵の一部のよう。このような造り方は、最古級の古墳に多いという。

    埋葬施設は、定型化した南北長6.9メートル、幅1メートル、高さ3メートルの竪穴式石室に板石・割石を積んで壁を立ち上げ、天井も板石を置き粘土で厚く覆っている。床には板石・礫・砂を敷き、その上に粘土を施し、長大なコウヤマキの割竹形木棺を安置。石室内には朱が塗られ、粘土床には10キログラムを超える水銀朱がまかれていた。

    昭和28(1953年)、国鉄奈良線の拡幅工事の際に竪穴式石室が偶然発見され、32面もの三角縁神獣鏡が出土。内行花文鏡2面、方格規矩鏡1面、画文帯神獣鏡1面など計36面以上の鏡と武具が出土した。

    寺戸大塚古墳(京都市・向日市)から出土した三角縁神獣鏡が、椿井大塚山古墳のものと同氾関係にあると見られ、椿井大塚山古墳の被葬者の支配下にあった者の墓ではないかと言われている。
  • さぬき市の古墳
    奥3号墳(前方後円墳)からは卑弥呼に関係するといわれている三角縁三神五獣鏡(魏鏡)が出土しました。
    鏡の周囲(縁)の断面が△形状になった大型神獣鏡です。
    京都椿井大塚山古墳出土のものと同范鏡であります。
    表面は鏡面といい、凸面となっています。模様のある方が裏面で鏡背といいます。央にひもを通す紐(ちゅう)があります。
  • 九州最古級の古墳

    赤塚古墳 前方後円墳 宇佐市高森

    宇佐市, 前方後円墳, 箱式石棺, 三角縁神獣鏡, 国指定史跡,
    宇佐風土記の丘
    紹介文
    全長約57.5mの前方後円墳。
    後円部径約36m、前方部幅約21m、葺石・埴輪は確認されていない。周濠部から土師器壺が見つかっている。1921(大正10)年、後円部中央付近で箱式石棺が見つかり、銅鏡5面(三角縁神獣鏡など)や玉類、鉄製品などが出土した。3世紀末頃の築造と推定されており、県内でも最古級の前方後円墳とされている。国指定史跡(川部・高森古墳群)、1980(昭和55)年指定。
    椿井大塚山出土の鏡と同じ鋳型という
  •  伊予市上三谷客の客池の南西方向約二〇〇メートルの広田神社裏山(旧嶺昌寺境内)は現在柑橘園として開発されこの墳型などは不詳であるが、この開発に当り(昭和三九年―一九六四)破砕された鏡片が多数拾集された。これらの鏡片の検証から三角縁神獣鏡が二面もしくは三面が存していたと考えられている。その内一面から銘帯の方格内に「日月天王」の鋳刻がみられた。この種の漢式鏡を出土したものには大分県宇佐郡宇佐町高森の赤塚古墳(低台地の丘頂に全長約四〇メートル後円部径二三メートル、前方部幅約一五メートルの前方後円墳で内部主体は、安山岩の板石による箱形石棺である。副葬品に管玉・刀・斧頭などの他に、波文帯龍虎鏡一面と三角縁神獣鏡四面出土)がある。しかし伊予市のこの鏡と全く同笵(同じ鋳型による)の鏡が京都府相楽郡山城町椿井大塚山古墳(全長一八五メートル、後円部径八〇メートル、前方部幅六〇メートルの前方後円墳で内部主体は竪穴式石室で、鏡・短甲・刀剣・槍・鉄鏃・銅鏃・刀子・斧・鎌等の出土品の内、鏡三六面はすべて舶載鏡であり内三二面が三角縁神獣鏡)の第十七号鏡として発見されている。このことは伊予市が四世紀ごろ幾内勢力との関係があったことを推察せしめる。もちろん伊予市の当遺跡では、古墳の確実な跡方も今日では認め難いが、おそらく鏡片の出土地近くに古墳の存していたことが察せられ、この墳の主はさきの京都の大塚山の墳主によってその地位を認められ、当時特に重視された三角縁神獣鏡を少くも二面以上も受けたと見られる。その勢威のほどは墳丘を失っているのでわからないが、当所とほぼ同形の鏡をえた前記大分の赤塚古墳の全長約四〇メートルの規模から、また県内で当所と同様に三角縁神獣鏡二面を出土した今治の国分前方後円墳の全長四四メートルなどから対比してほぼ同様の規模だったかと思われる。今は当所の嶺昌寺の境内に近いので嶺昌寺古墳と幻の名も付されている。いずれにしても愛媛県における古墳の最初期を代表するものとして、墳形不詳のまま、さきの今治の国分古墳と共に四世紀中葉ころ愛媛県最有力首長の存在拠点を示すものとし、重要視さるべきものであろう。
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