多氏、小子部連、太安万侶、壬申の乱、

May 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

image多氏、小子部連、太安万侶、壬申の乱、

小子部連は小子部(子部の一つで宮中の雑務を務めた品部)の伴造家であり、多氏(多臣)の一族を称した。天武朝におい…

Read the full story here


コメント

  • 大和岩雄氏は「日本古代試論」(大和書房)において、多神社の鎮座位置が三輪山の春分、秋分の日の出を拝する位置で、多神社を基点に南北に線を引き、三輪山の冬至、夏至の日の出を拝する位置が、神武天皇と神八井耳命陵のある畝傍山の北と、石見の鏡作神社になる。としています。
  • February 2017 編集されました
     持統天皇の幼名「鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)」は、「鵜野皇女」「娑羅々皇女」(「天智紀」七年二月条)の複合で、それは皇女を養育した河内国「更荒(さらら)郡」の「鵜野(うの)邑」に居住する渡来人(「欽明紀」二十三年七月条)の名を負うたものであった。
     この事実は、天武天皇崩御後の皇位継承に関して、持統天皇が藤原不比等と盟約を結ぶ素地ともなったと思われる。
    それは不比等も幼時、「田辺史(ふひと)」に養育されていたことと、深い関係があるであろう。
     藤原不比等の幼名「史」は、その養育者であった山科の「田辺史大隅」に基づくものであるが、この「田辺史」も河内国の飛鳥(安宿)を本郷とする百済系の渡来氏族「田辺史」の同族であった。これは既に述べた持統天皇の幼名「鵜野讃良皇女」が河内国の郡・郷名に基づくものであり、光明皇后の幼名「安宿(あすかべ)媛」も河内国の郡名に基づくものであったのと、全く同じ命名で、三人ともその養育者が河内国在住の百済系氏族であったことを物語るものである(孝徳天皇の白雉五年二月に派遣された遣唐使の中にも「田辺史鳥」の名が見え、『懐風藻』にも「大学博士田辺史百枝一首」がある)。
     不比等が山科の「田辺史大隅」に養育されていたのは壬申の乱(六七二)以前で、「天武紀」元年七月五日の条に見える壬申の乱の時の「近江の別将田辺小隅」が「田辺史大隅」と同一人物か兄弟だとすると、その時不比等は十五歳である(不比等の薨年養老四年八月、六十三歳から逆算して)。近江朝廷はこの乱によって減んだのであるから、壬申の乱の後、田辺史大隅はおそらく河内国の「田辺史」(皇極天皇の御代「田辺史」の氏姓を賜わる)が住む河内の飛鳥(安宿)に戻ったであろうと思われ、不比等もそれに従ったものと思われる。
     不比等が父鎌足の本貫の地である大和の飛鳥に戻ったのは、その長子武智麻呂が、天武天皇即位九(六八一)年四月十五日に、「大原之第」で誕生している(『家伝下』、武智麻呂伝)ことから逆算すると、その二~一年前の天武七~八年(六七九~六八〇)である。時に不比等の年齢は、二十二歳~二十三歳であった。
     天武七年といえぼ、天武天皇と鵜野皇后が草壁皇子、大津皇子たちを伴なって吉野の宮に行幸し、皇位継承に関する天皇の措置に従うことを誓わせた年であり、その二年後(六八一)に草壁皇子が皇太子に立てられた。そして、その五年後の朱鳥元(六八六)年九月に、天武天皇は崩御、十月には大津皇子が謀叛の罪によって処刑されるという大事件が起こった。
     そしてその翌年から持統天皇の称制時代に入るが、その二年後の持統三(六八九)年の二月、不比等は判事に任命されて、宮廷の中にその姿を現すことになる。第二章「持統天皇と藤原不比等の盟約」で述べたことは、この持統三年の出来事であった。
     吉野宮における盟約を経て、皇太子に定められた草壁皇子が二十八歳の若さで他界したのは、不比等が判事に任命された二ヶ月後のことであるが、持統天皇と不比等の盟約に基づく皇位継承の背景には、百済系渡来氏族につながる人間関係があったのであり、その実現を舞台裏で工作したのが橘三千代であった。これは日本の歴史には珍しい、女性の政治的能力が発揮された時代であり、それを育成したのが祖国を失った百済系の渡来人であるが、藤原不比等も、同じく百済系の渡来氏族田辺史に養育された人物だったのである。
  •  持統天皇と藤原不比等の盟約によって、十五歳の軽皇子が文武天皇として即位し、持統天皇が「太上天皇」としてこれを補佐するという体制を採ることになったが、この方式は大宝二(七〇二)年諸国に頒布された大宝律令によって制度化され、平安朝の摂関政治の源となった。もちろん大宝律令は施行に先立って、編纂の作業があったのであって、文武天皇四(七〇〇)年三月十五日、諸王臣に詔して「令文」の読習、「律条」の撰定が行われており、六月十七日には、刑部(おさかべ)親王、藤原不比等以下の編纂関係者に律令を撰定させ、禄を賜わっている(新日本古典文学大系『続日本紀一』参照)。
     この新律令撰定の作業に従事した関係者は、刑部親王、藤原不比等を長として、粟田朝臣真人以下十七名の氏名が挙げられているが、そのうちの九名の渡来系の人名の中に、「田辺史百枝」「田辺史首名」の二人の「田辺史」がいるのは、興味ふかい。この二人の「田辺史」が、不比等の養育者であった山科の「田辺史大隅」を含む、河内国安宿郡を本貫とする百済系の渡来氏族であることは、疑いないであろう。
  • 「田辺史(たなべのふひと)は百済系渡来氏族である」(「新世紀の古代史3」『蘇我氏の実像』)。


    「不比等は、斉明天皇五年(659)、父鎌足が四十六歳の時生まれた。のちに、南北朝時代になって編纂された『尊卑分脈』によると、生まれるとすぐ「避くる所の事」あって、山科(京都市)の田辺史大隅の家に養われ、フヒトの名は、これによってつけられたという」(『日本史探訪』「藤原不比等」)。


    「避くる所の事」とは、命を狙われていたのだろう。父鎌足が、息子を田辺史大隅の家に置いたのにも、大きな生き延びるための理由があったのだろう。「田辺史(たなべのふひと)」を知り、不比等が教えられたであろう歴史の真実に辿り着かなければ、藤原不比等はみえてはこないだろう。



    『蘇我氏の実像』より転載。

    「雄略紀」9年(465)7月条には、あらまし、次のような伝承が載っている。


    河内国飛鳥戸郡(あすかべのこほり)の田辺史伯孫(はくそん)が、彼の娘がお産をしたので、婿の古市郡の書首(ふみのおびと)加竜(かりょう)の家に祝いに行き、月夜に帰宅する途中、蓬〇丘(いちびこのをか・〇は草冠に累)の誉田陵(ほむたのみささぎ・誉田山古墳・天皇陵)のもとで赤い駿馬(しゅんめ)に乗った人に出会った。

    自分の乗馬と交換してもらって帰ったが、翌朝その駿馬は埴輪(はにわ)の馬になっていた。伯孫が誉田陵に行ってみると、自分の馬が埴輪の馬の間にいたので、埴輪の馬を戻して自分の馬を連れて帰ったという。



    465年には、まだ誉田山古墳は存在していなかった。また、伯孫は6世紀後半~末の人とみられており、関晃は、『帰化人』(20頁)で、「雄略紀は田辺史の祖の伯孫と書くべきところであった」と指摘している。つまり、この伝承は、奈良時代初めに河内国飛鳥戸(安宿)郡を本拠としていた田辺史の伝承である。……………


    『新撰姓氏録』右京諸蕃には、「田辺史。漢王の後、知惣(ちそう)より出づ」とあり、知惣は百済の貴須(仇首)王の孫の辰孫(智宗)王、百済の辰斯王の子の知宗と同じ人物であるから、田辺史は百済系渡来氏族である。


    『記紀』(『古事記』と『日本書紀』のこと)によると、書首(文首・「伝承」の加竜)は、西文(かはちのふみ)とも呼ばれ、百済から渡来した王仁(わに)を始祖としており、文筆・外交・軍事に関与した有力氏族で、古市郡を本拠としていた。前述の田辺史の伝承は、百済から渡来した田辺史や西文の祖先が、誉田山古墳の被葬者と親密な関係にあったことを物語っている。


    また、誉田山古墳の近くには、船史(ふなのふひと)・津史(つのふひと)・白猪史(しらいのふひと)の3氏の本拠地があった。この3氏の祖先は、百済の貴須(仇首)王の孫の辰孫(智宗)王とされている。この3氏と田辺史・西文が渡来したのは、応神(昆支・武)時代から(子の)欽明時代にかけての時期とみられるが、誉田山古墳の近くにこれらの有力な百済系氏族が配置されているのは、誉田山古墳の被葬者が百済の大王の応神(昆支・武)であるためと考えられる。
  • February 2017 編集されました
    鐸比古鐸比賣神社

    大県郡の氏神で、背後にそびえる高尾山を神南備としています。
    もともとは鐸比古神社は高尾山の山頂に祀られていたが、
    中世には現在の地に遷されたと伝えられます。

    現在の高尾山の頂上には巨大な磐座があります。

    祭神:鐸比古命、鐸比売命

    鐸比古鐸比賣神社は延喜式神名帳には、
    河内国・大県郡・鐸比古神社及び河内国・大県郡・鐸比売神社と
    別々に記載される式内社です。

    社伝によると創建は第13代成務天皇の時代とあります。成務天皇は影の薄い天皇ですが、景行天皇の子で、日本武尊より12歳下の義理の弟です。

    祭神の鐸比古は垂仁天皇と渟葉田瓊入媛(ぬはた・にいりひめ)の子であり、
    日本書記に記される鐸石別(ぬてしわけ)のことです。

    垂仁天皇の皇后である狭穂姫が兄狭穂彦の謀反に加担して自殺する時に,丹波道主の娘を妃にするよう進言しました。鐸石別の母・渟葉田瓊入媛は、その丹波道主の娘です。

    このとき丹波道主は5人の娘を全て垂仁天皇に贈りますが、渟葉田瓊入媛は第二妃として鐸石別(ぬて・しわけ),胆香足姫(いかたらし)の2児を産みました。

    因みに垂仁に贈った5人の娘とは、日葉酢媛・渟葉田瓊入媛・真砥野媛・薊瓊入媛・竹野媛です。日葉酢媛(ひばす)は後皇后となり景行天皇や倭姫命らを産んでいます。

    ーーーーー
    鐸比古鐸比賣神社の参道⑥伯太彦神社 (柏原市・玉手町)に関する記事です。

    伯太彦神社 は、かつて宮寺だった安福寺と隣接して
    玉手山の中腹に鎮座しています。

    玉手山の西側を石川が北流し高井田あたりで大和川に合流していますが、
    この石川は古く博多川或いは伯太川と称されていたそうです。

    伯太彦神社は河内国・安宿郡(あすかべ)鎮座・鍬と記される式内小社です。

    御祭神の伯太彦命は伯孫とも称される田辺史の祖で、
    その一族が田辺史一族として玉手・円明付近に
    広く居住していたとの伝承があります。

    祭神:伯太彦命・広国押武金日命(安閑天皇)
  • February 2017 編集されました
    延喜式内社「自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)
    養老元年(717)建立の棟札があることから奈良時代の創建とみられている。旧名を山埼杜といい、現在の離宮八幡宮の地に祀られていた。平安時代の延喜式神名帳には「山城国乙訓郡 自玉手祭来酒解神社 元名山埼杜」と記載され、官幣名神大社に列し、月次、新嘗の幣帛に預ると記されている。

    その後、自玉手祭來酒解神社の祭祀は途絶え、明治時代まで所在がわからなくなっていた。現在の自玉手祭来酒解神社は、天王山の頂上近くに中世ごろよりあった天神八王子神(牛頭天王)を祀る「山崎天王社」であった。天王山は元は山崎山と呼んでいたが、当社にちなんで天王山と呼ばれるようになった。明治10年6月、山崎天王社が式内・自玉手祭来酒解神社であるとされ、自玉手祭来酒解神社に改称した。現在の祭神・大山祇神はそのときに定められたものである。

    自玉手祭来酒解神社とは「たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ」は京都府乙訓群大山崎町にあり、通称酒解神社(さかとけじんじゃ、さかときじんじゃ)。天王山の頂上近くに鎮座する。・・・
    長々とした引用ですみません。それにしても難しい神社名になったものです。
    こうして天王社=牛頭天王が消去されました。
    それでも天王山の地名は余りにも有名で隠しようがなく、この難しい名前の神社が、実は元牛頭天王関係だったことが暴露されます。

    山崎駅下車で天王山へ向かう道の頂上近くにあり、通称酒解(さかとけ)神社

    酒解神には何ともフカーイ歴史があった。
    このテーマに関係する研究者が、今井啓一、小西瑞恵、栗田寛、伴信友、胡口靖夫、義江明子等々。
    時代をこえて議論に参加しています。

    神社は元々は山崎地域の産土社で山崎社と呼ばれていましたが、あるときに「玉手」から「酒解神」を勧請したと理解されているという。
    それでは、酒神とは何か。「酒の神」とする解釈は中世以降のもので、それ以前の酒解神はどういう神格だったか。
    「酒」という漢字表記にとらわれては意味が分からなくなる。酒は「サカ」でもありその神は道祖神と考えられる(上田正昭、義江明子)。「境」の意味もあり、「坂」自体が境界となる場合もある(赤坂憲雄)。
    「解(トケ)」は「タムケ」(手向)からの変化と解釈し、タムケノカミは境界で旅の安全を祈る神。従って、サカトケは二重に境界の神を意味する語となる。

    問題は「自玉手来祭」の「玉手」とはどこか。著者によれば相楽郡(そうらくぐん、さわらのこおり、京都府・山城国)井手町から勧請した。説得的かどうか、ここが決め手ですが、「玉井」「井手」の二つからなる合成地名と考えられるとします。

    この中央部を玉川が流れ、橘諸兄建立の井手寺(円堤寺)が酒解神を祭っていた。
    随分細かいことを議論することと感心していましたが、やがてかなり大きな問題の結論を導きます。
    単なる宅地の「サカの神」「タムケの神」であった境界神が、橘諸兄・奈良麻呂親子によって氏神として井手寺に勧請され、平城京・山城国府の疫神祭祀の境界神としての意味を付加された。

    これが「酒解」の漢字表記となったのは桓武天皇のときであり、橘嘉智子(奈良麻呂の孫)が生んだ仁明天皇(833~850)のときに天王山へ移動したとします。
    サントリー工場とマッサン、天王山の戦いetc.いくつもの意味がある山崎。
    「マッサン」
コメントするにはサインインまたは登録して下さい。