原初の神 瀬織津姫神 、小野神社

December 2018 編集されました カテゴリ: 神社
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原初の神 瀬織津姫神 ホツマツタエでは、天照大神の正妃 瀬織津姫が封印されてきた理由は、女帝の持統天皇即位の正…

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  • November 2018 編集されました
    ホツマは、天照大神と瀬織津姫を対偶関係のもとに物語化していて、また、瀬織津姫を「向津姫」とも称していて、これは書紀いうところの撞賢木厳之御魂天疎向津媛命[つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと]の「向津媛」と重なります。
    『新撰姓氏録』河内神別地祗の条に「宗形君 大国主命六世孫阿田片隅命之後也」、また右京神別下地祗の条には「宗形朝臣 大神[おほみわ]朝臣同祖。阿田片隅命之後也」とあります。宗形君・宗形朝臣と大神朝臣は「阿田片隅命」を共通の祖とする同族というのが系図上からいえます。大和国神別の条では「大神朝臣 素佐能雄命六世孫、大国主命之後也」とも書かれますが、興味深いのは『先代旧事本紀』地神本紀の系図です(系図は『宗像神社史』下巻から孫引き)。

    素戔嗚命──大己貴神(大国主神)──都味歯八重事代主神──天日方奇日方命──健飯勝命──健甕尻命──豊御気主命──大御気主命──阿田賀田須命(胸肩君祖)

     阿田賀田須命は阿田片隅命のことですが、旧事紀は、この阿田賀田須命の兄弟に「健飯賀田須命」がいるとし、その子に「大田田禰古命」の名を記しています。つまり、ホツマの奉呈者(オオタタネコ)は、胸肩君と同族だという系譜になります。

  •  持統天皇六年(六九二)、女帝の謎の伊勢行幸を「職を賭して重ねて諫め」た重臣にオオタタネコの末孫「中納言大貮三輪朝臣高市麻呂[たけちまろ]」がいます。その二年前の四年(六九〇)は、持統が天皇に即位した年で、この年、神宮(正殿)の第一回遷宮が行われています。持統女帝は、新たな神宮の姿が気になっていたとも想像されますが、新神宮が誕生するというのは、背後の荒祭宮・多賀宮(高宮)の祭祀が改竄されたということを意味してもいますから、そのことと関連しての三輪朝臣高市麻呂の「諫め」だった可能性があります。オオタタネコにつながる三輪氏の末裔が、ホツマの真の作者だろうというのが私見です。
  • 天照大神が瀬織津姫を正后にする場面を読んでみます(第六章)。

    宮仕え その中一人
    素直なる 瀬織津姫の
    雅[みやび]には 君(天照大神)も階段[きざはし]
    踏み下りて 天離る日に
    向津姫 終に入れます
    中宮[うちみや]に
  • 瀬織津姫神は、皇祖・伊奘諾尊が日向の小戸の橘の檍(あわぎ)原に祓除(みそぎはらい)し給ふ時、左の眼を洗った時に生れた。故に「日の天子」の資格を継承した事となり、「大日孁貴」(おおひるめのむち)とも讃えられた。
  • 多摩市と府中市の小野神社の祭神に孝昭天皇の皇子・天押帯日子命があり、その子孫に春日臣・小野臣があり、そこからでた小野利春が武蔵守に任じられている。ただ、小野利春が国司になる以前から、武蔵の小野神社は存在していたという。厚木と多摩・府中の小野神社が同族の小野氏によって創建されたとすると、春日神は鹿島神でもあり、鹿島神は反体制的雷神でもあったから、小野神社は鹿島神につながる可能性があり、鹿島神をクナトノ大神とするなら、厚木の小野神社が阿羅波婆枳・春日の二座を相殿にしていたというのも、アラハバキ神とクナトノ大神を祀っていたということもありえるわけである
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