山背根子

May 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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山背国造と山背根子 摂津の山氏の祖。神功(じんぐう)皇后摂政元年,皇后が新羅(しらぎ)(朝鮮)遠征からの帰途,…

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コメント

  • 六人部連の祖・建手和邇命とは、天孫本紀に兄弟にあげる建宇那比命(伊福部連等の祖)と同人の可能性が考えられる。天孫本紀等に掲載の系図でも、建宇那比命の孫・倭得玉彦命(意富那毘命)の子として、玉勝山代根子命(山代ノ水主直・雀部連・三富部等の祖)、若都保命(伊福部連の祖)、彦与曽命(斐陀国造の祖)があげられる。
  • 勘注系図および旧事本紀(天孫本紀)には
     「水主氏・雀部氏・軽部氏・蘇冝部氏・三富部氏は玉勝山代根子命(タマカツヤマシロネコ、ホアカリ9世の孫)の裔」
    との注記があり、ここでいうタマカツヤマシロネコ命とは、由緒にいう山背大国魂命(ヤマシロオオクニタマ)と同一神という(由緒に10世孫とあるが、系図では9世孫)。
     また、同系図の建田勢命(タケタセ、ヤマシロネコの曾祖父、旧事本紀には海部直の祖とある)の脚注には
     「孝霊天皇の御宇、丹波国丹波郷で宰(ミコトモチ・地方長官)と為って奉仕、その後、山背国久世郡水主村(当地)に移り座す。云々」
    とあるという。

    山代の水主神社
    京都府城陽市水主宮馬場
    主祭神--天照御魂神以下10柱
    相殿神--大縫命・小縫命

    ホアカリ(あるいはタマカツヤマシロネコ)を祖とする氏族(尾張氏系)が関与する神社として、水度神社(三富部氏・城陽市寺田水度坂)・荒見神社(三富部氏・城陽市富野荒見田)・室城神社(榎室氏・久御山町下津屋)があり、唯一式内大社である当社が、その中心的存在だったと思われ
  • 仲哀帝の皇后、気長帯姫命(オキナガタラシヒメ)は、海外遠征を終えた後、筑紫で生まれたばかりの誉田別皇子(ホムタワケ)を連れて大和に凱旋すべく難波の港を目指して瀬戸内海を東上したのですが、皇后親子たちが乗り組んでいた船が「海中を廻る」ばかりで前に進まなくなってしまいます。不思議な現象に神意を感得した皇后は船を務古水門(むこのみなと、西宮市)に回航させて占いを試みますが、その模様を日本書紀は次のように伝えています。

      ここに、天照大神、誨えまつりて曰わく「我が荒魂をば、皇后に近づくべからず。まさに御心を広田国(西宮市)に居らしむべし」とのたまう。
      即ち山背根子が女、葉山媛を以て祭わしむ。また稚日女尊、誨えまつりて曰わく「吾は活田長狭国(神戸市)に居らんとす」とのたまう。
      因りて海上五十狭茅を以て祭わしむ。また事代主尊、誨えまつりて曰わく「吾をば御心の長田国(神戸市)に祀れ」とのたまう。即ち葉山媛の弟、長媛を以て祭わしむ。

    これは仲哀帝の遺児である忍熊王との対決を目前に控えた極めて緊張度の高い状況の中で、皇祖アマテラスが応神帝母子を無事に大和入りさせるために「敢えて」回り道をさせてまで、今、祀るべき神々の存在を再確認させた場面だと考えられる。

    祭主の父親として書紀が記録している「山背根子」が新撰姓氏録に云う摂津国神別氏族の山直(天御影命十一世孫、山代根子の後裔)であるとするなら、それは紛れもなく天孫一族の天津彦根命の子孫ですから、アマテラスの御魂を祀るのに最適の人選であったと言えるのです


  • 天孫饒速日尊の第十世、山脊大國魂命は山脊(やましろ) の國造として国土経営に功あり。其子孫代々此地に廟食して国土を統治す。この故に山脊大國魂命または山代根古命とも尊称す。大國魂とは国土経営を賛称し、根古とは其民統治の謂なり。
    人皇十代崇神天皇の御代、豊鋤入姫命をして大殿裏に奉祀の天照大神を倭笠縫邑に遷祀せしめ給ひしが、また別に淳名城入姫命をして、日本大国魂命ならびに山脊大國魂命を倭、山脊の二国に神籬を建て、齊き祭らしめ給う。水主神社はその一社なり。
    天照御魂神は即ち火明命にて氏の高祖なり。第十世山背大国魂命にいたり山背に移り大に其の国に功烈あり。之を尊みて山背大国魂命という
  • 水主神社(みずし)
    城陽市水主宮馬場 近鉄京都線富野駅北西1km

    祭神 天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊、天香語山命、天村雲命、天忍男命、建額赤命、建筒草命、建田背命、建諸隅命、倭得玉彦命、山脊大國魂命
    配祀 大縫命、小縫命

    摂社 樺井月神社 月讀命
     水主直がその祖玉勝山代根子命を山背大国魂命神、始祖火明命を天照御魂神として祀ったとされる。 これに旧事本紀の天孫本紀の系譜の神々を加えたのが祭神となっている

    山城国久世郡の式内社十座である。
     山脊大國魂命は山代根古命とも言う。大國魂とは国土経営を意味し、根古とは其民統治を表すと言う。 崇神天皇の時代、豊鋤入姫命をして天照大神を倭笠縫邑に遷し、また淳名城入姫命をして、倭大国魂命ならびに山脊大國魂命を倭、山脊の二国に祭らしめたとする。


     水主神社はその一社で、我国の神社は数多いが国土経営の功徳をもって上古以来子孫永くその土地に住み、祖神祭祀を継続した当社の如きは稀な存在と社では言う。
     加茂両神社、松尾神社、住吉神社とともに天災除疫五穀豊饒祈年祈雨等に就き朝廷より奉幣祈願があった。


     大縫命、小縫命の二柱の比売神は、天香語山命の子天村雲命九世の孫にして、成務天皇の時代、志賀高穴穂宮に仕え、糸縫針の職についたが故に子孫に衣縫の氏を与えられたと言う。(新撰姓氏録)
     これにより此神を衣縫の祖大神、衣縫の宮、衣縫大神として祀る。
  • 椿井大塚古墳は、海部の墓との説がある
    『勘注系図』は始祖彦火明から数えて七代目、すなわち六世孫建田勢命が、七代孝霊の時、丹波の宰(みこともち)となり、その後山背(山城)久世郡水主村(くせのこうりみずしむら)に移り、さらにその後大和に移ったとする。注目されるのはこの、山背久世郡水主である。久世の地名は、現在京都府久世郡(ぐん)と城陽市久世に、その地名を残す。この城陽市に、水主(みずし)神社という古い神社がある。京奈和自動車道が木津川を渡る高架の、東たもとあたりである。祭神を始祖彦天火明として以下、天香語山命、天村雲命、天忍男命、建額赤命、建筒草命、建田背命、建諸隅命、倭得玉彦命、山背大国魂命とする。まさに『勘注系図』が示す始祖彦天火明から九世孫までを祭神とする。山背大国魂命(やましろおおくにみたま)とは、九世孫とされる玉勝山背根子(たまかつやましろねこ)のことである。この人をこの地域の祖とするのである。 木津川中流域は建田背命以降、天の香語山の後裔で、後に海部(あまべ)あるいは和邇・和珥を名乗る一族の根拠地である。椿井大塚古墳はこの水主神社から木津川を南に10kmほど遡った、木津川の東側に位置する。この一族の墓と推測できる。 そしてこの椿井大塚古墳の被葬者として可能性が高いのは、丹波の大県主、由碁理(建諸隅命)の娘、竹野媛と九代開化の間に生まれた、彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)である
  • 椿井大塚山古墳は、淀川を遡り木津川の右岸にある。縄文時代からの漁具である銛、ヤス、釣針が揃っている。南西に船戸という地名がある。以上のことから当古墳の被葬者は船舶の管理者であり、津(港)の管掌者ではなかったかと推測されている

    「同笵鏡」:兄弟の鏡 前方後円墳に代表される前期の古墳に副葬された鏡の多くは三角縁神獣鏡です。この鏡を詳細
    に観察すると文様や図柄の配置が同じだけではなく表面の傷の位置までが同じものがあります。 これは同じ鋳型から作られたものと考えられることから同笵鏡と呼ばれています。近年の鏡の製 作技法の研究から必ずしも同じ鋳型から作るのではないことが分かってきたため、同型鏡とも呼 ばれています。この出土した三角縁神獣鏡の同笵関係を調べますと、京都府・椿井大塚山古墳と 奈良県・黒塚古墳が分有関係の中心になっていることが分かります。これはヤマト王権から委嘱 された椿井大塚山古墳と黒塚古墳の被葬者がヤマト王権と政治的同盟・協調関係を結んだ印とし てヤマト王権から分与されたものと考えるのです。
    讃岐地方では三角縁神獣鏡は奥 3 号墳、川津茶臼山古墳、西山古墳から出土しており、このうち奥3 号墳のものは椿井大塚山古墳のものと、西山古墳のものは椿井大塚山古墳と黒塚古墳のものと同笵関係 にある三角縁神獣鏡です。この3古墳は讃岐地方の東部・中央部・西部の海岸に近い場所にあり、この 地域の首長と同盟関係を結ぶことは、中国大陸との主要ルートである瀬戸内海航路を掌握するというヤ マト王権にとって重要な意味があったと考えられます。倣製三角縁神獣鏡が出土した猫塚古墳も同様に 海岸に近い場所です。中国大陸で魏の後の西晋が滅亡した混乱状態と政情不安により三角縁神獣鏡を入 手しにくくなったため、中国製の代替として倭国で製作したものが倣製三角縁神獣鏡です。
  • 石塚山古墳

    周防灘を望む緩斜面に築造された前方後円墳である。周囲はやや削られており、推定全長120m、後円部高さ10m以上と思われる。前方部は墳丘上にある神社建立時に上面が削平されている。墳丘には葺石が見られるが、埴輪の存在は確認されていない。1796年(寛政8年)に長さ5.5m、幅・高さとも1mの竪穴式石室が発掘されているが現在は実見できない。

    出土遺物

    出土遺物は石塚山古墳より少し離れた宇原神社に所蔵されている舶載三角縁神獣鏡6種7面、素環頭大刀、銅鏃があるが、小倉藩主「小笠原家文書」によると銅鏡は11面(「宇原神社由来記」によると14面)と金具が出土したと伝えられる。現存する鏡は岡山県備前車塚古墳、京都府椿井大塚山古墳などの出土鏡と同笵である。鏡7面を含む出土品は1953年に国の重要文化財に指定されている。1987年に再発掘が実施され、後円部の石室は大破していることがわかった。この時の発掘では細線式獣帯鏡片、琥珀製勾玉、碧玉製管玉、小札革綴冑片などが出土した。

    石塚山古墳から出土したと伝えられ、現存する三角縁神獣鏡の種類の内訳と小林行雄らが明らかにした他の古墳との同笵鏡の分有関係は以下の通りである。
    吾作銘四神四獣鏡(複像式)  京都府椿井大塚山古墳、岡山県備前車塚古墳、大阪府万年山古墳出土鏡と同笵
    天王・日月・獣文帯四神四獣鏡(単像式)  福岡県御陵古墳出土鏡と同笵
    天王・日月・獣文帯四神四獣鏡(単像式)  岡山県備前車塚古墳、奈良県新山古墳出土鏡と同笵
    天王・日月・獣文帯三神三獣鏡一種2面   京都府椿井大塚山古墳、福岡県原口古墳、大分県赤塚古墳出土鏡と同笵
    日月・獣文帯六神四獣鏡
    日日日全・獣文帯三神三獣鏡
      以上6種7面である
  • May 2016 編集されました
    備前 車塚古墳

    龍ノ口山から南東に延びた標高180mの尾根上にある。全長は48.3m、前方部の長さ21.8m・高さ3.0m、後方部の一辺は23m~24.5m・高さ3.8m。前方部は三味線の撥型に前面に向かって大きく開いている最古の形式の前方後方墳である。法面には葺石が見られるが埴輪は発見されていない。

    昭和31年(1956年)地元・湯迫在住の男性3人による探索で三角縁神獣鏡11面・内行花文鏡1面・画文帯神獣鏡1面の計13面の後漢時代の中国鏡が出土した。同時に鉄刀・鉄剣・鉄鉾・鉄鏃・鉄斧なども出土した。
    出土した三角縁神獣鏡11面のうち9面は同じ鋳型で作られた同笵鏡で、京都府木津川市にある椿井大塚山古墳などから出土したものと同笵関係にある。このことから被葬者は畿内との関わりの強い人物であり、古事記に記された「吉備上道臣之祖」大吉備津日子命であるとされている。

    福岡県内における畿内型古墳最古の一つは、京都郡苅田町の「石塚山古墳」である。
    復原全長120mの前方後円墳で、前方部は狭長で撥形に開く。
    内部主体は竪穴式石室で、出土した鏡は、全て舶載の三角縁神獣鏡である。
    同笵鏡は、京都府「椿井大塚山古墳」をはじめ、県内でも大野城市「御陵古墳」、筑紫野市「原口古墳」等にみられる。
    「石塚山古墳」の被葬者は、瀬戸内を通って周防灘沿岸の豊前地方に上陸を果たし、幾内政権の橋頭堡を築いた先躯的人物と考えられている。小郡市の三国丘陵に立地すろ津古古墳群の「津古生掛古墳」は、全長32mの前方部が低平な小型の前方後円墳である。
    木棺直葬で棺内から方格規矩鏡一面と庄内(新)式から布留式にかけての土器が出土している。
    また、奈良県「纏向石塚古墳」は全長88mの前方後円墳と推定され、内部主体は不明であるが庄内式土 器を出土している。
    大和においては、庄内式土器に後出する布留式土器の成立と定型化した大形前方後円墳の出現時期とはほぼ一致している。
    畿内型古墳の典型とされる福岡県「石塚山古墳」の近年における調査でも布留式前半期の土器を出土しており,定形化する以前の「津古生掛古墳」、「纏向石塚古墳」等は発生期の古墳を考える上で重要な問題を提起している。
    ところで、古墳に葬られた人物やその年代を知ることは一般的には困難である。

    その点福岡県内最大の前方後円墳(墳丘の全長132m)である八女市「岩戸山古墳」は被葬者の実年代を知ることができる数少ない古墳の一つであろう。それは、「日本書紀」や「筑紫国風土記」逸文により、継体天皇21年(五二七)に反乱を起こした筑紫君磐井の墳墓に比定されている。
  • 大阪府枚方市枚方町三矢に所在する万年山古墳は、淀川を臨む天野川の河口に立地する前方後円墳と考えられ、意賀美神社の境内にあり、明治37年(1904)の枚方小学校の運動拡張工事中に偶然発見された。埋葬施設は、石材が認められず、木船状の上より遺物が発見され、粘土槨の舟形木棺か割竹形木棺と考えられる。副葬された八面の鏡のうち六面の三角縁神獣鏡があり、早くから小林行雄氏によりで同笵鏡の存在が指摘されていた。その分布範囲から淀川水系の水上交通を掌握した有力な首長と考えられる。意賀美神社付近は伊加賀といわれ、片野物部の祖とされる伊加色男命の居住地との伝承があり、天野川の上流の磐船神社は饒速日命の降臨伝承地とされている。

     吾作銘 三角縁四神四獣鏡は、面径20.1センチメートルで、内区外側の乳座により神と獣像を四分割し、神像4体と獣像4匹を、神像を復像式に、獣像は笠松文を挟んで相対峙するように配置する。銘帯内に反時計廻りに「吾作明竟甚大工 上有王喬□赤松 獅子天鹿其義龍 天下名好世無雙」と七言の句が鋳られる。銘帯は鋸歯文帯と櫛歯文帯に挟まれ、外区は外向きで鋸歯文帯・鋸歯文帯・複線波文帯・鋸歯文帯の順になる。
    福岡県京都郡苅田町石塚山古墳・ 広島県広島市中小田一号墳・兵庫県神戸市西求女塚古墳・奈良県天理市黒塚古墳・京都府山城町椿井大塚山古墳に2面の計7面の同笵鏡が認められる。初期の作品に位置づけられる。

    近年、多くの三角縁神獣鏡が盗掘を免れた畿内中枢の大型前方後円墳で確認されている。奈良県黒塚古墳で7組み15面の同笵鏡が検出され、京都府椿井大塚山古墳に4組9面の同笵鏡が共存している例は、両古墳の被葬者が分配元の近くに位置し、しかも他の三角縁神獣鏡の共有者と差別化する為に、より多くの三角縁神獣鏡を所有する必要があったことの現れと考えられる。
  • 平成10年3月に天理市の黒塚古墳から、三角縁神獣鏡が33面(1面は三角縁盤龍鏡)が発見された。その中には、同型鏡が5組11面も含まれていた。椿井大塚山古墳と同じく全てがいわゆる舶載鏡であり、これを加味すると舶載鏡と称するものは、圧倒的に奈良県近傍でまとまりを持っている。しかも椿井大塚山古墳の出土鏡と同型鏡の関係にあるものが10種も含まれていた。合計すると、66面の内、同型鏡が15種34面になる。このことは椿井大塚山古墳と黒塚古墳に係わる地域が、舶載鏡の集荷地あるいは製作地であったことを物語っている。
  • 黒塚古墳は日本最古の歴史の道「山辺の道」の道沿いにあり、近くに崇神天皇陵に指定された行燈山古墳(あんどんやまこふん)や景行天皇陵に指定された渋谷向山古墳(しぶたにむかいやまこふん)がある柳本古墳群に属する古墳です。
    3世紀後半~4世紀前半に築造されたと推定される美しい前方後円墳です。生前墓として墳丘自体が事前に作られた事が判明しています。

    黒塚古墳の埋葬者は誰なのか?正直に言うとまだはっきり判っていません。遺骸も棺も腐敗して残っていなかった事も原因です。
    色々な説があり、例えば9代開化天皇の后でイガシコメ(伊香色謎命)の弟イガシコオ(倭人伝に出てくる倭載斯烏越か?)の墓という説。このイガシコオの子で垂仁天皇の5大夫の1人、物部連の祖の十千根(とおちね又はといちね)の墓説。倭の五王の宰相クラスの墓説などがあります。
  • 椿井大塚山古墳(4世紀)

    椿井大塚山古墳の築造時期がほぼ確定。

     前方部の祭紀に使われた一括土器資料から、庄内式土器と布留式士器が共存する時期(3世紀後半)の年代観を得ることができました。この時期は、いわゆる邪馬台国の時代に相当します。定型化した前方後円墳の最初期のものとすることができます。

    鏡の多さは群を抜く。総数37面の鏡を出土し、その中の33面は三角縁神獣鏡である。

    http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/7-4tubaiootuka.htm
    椿井大塚古墳は、海部の墓との説がある
    『勘注系図』は始祖彦火明から数えて七代目、すなわち六世孫建田勢命が、七代孝霊の時、丹波の宰(みこともち)となり、その後山背(山城)久世郡水主村(くせのこうりみずしむら)に移り、さらにその後大和に移ったとする。注目されるのはこの、山背久世郡水主である。久世の地名は、現在京都府久世郡(ぐん)と城陽市久世に、その地名を残す。この城陽市に、水主(みずし)神社という古い神社がある。京奈和自動車道が木津川を渡る高架の、東たもとあたりである。祭神を始祖彦天火明として以下、天香語山命、天村雲命、天忍男命、建額赤命、建筒草命、建田背命、建諸隅命、倭得玉彦命、山背大国魂命とする。まさに『勘注系図』が示す始祖彦天火明から九世孫までを祭神とする。山背大国魂命(やましろおおくにみたま)とは、九世孫とされる玉勝山背根子(たまかつやましろねこ)のことである。この人をこの地域の祖とするのである。 木津川中流域は建田背命以降、天の香語山の後裔で、後に海部(あまべ)あるいは和邇・和珥を名乗る一族の根拠地である。椿井大塚古墳はこの水主神社から木津川を南に10kmほど遡った、木津川の東側に位置する。この一族の墓と推測できる。 そしてこの椿井大塚古墳の被葬者として可能性が高いのは、丹波の大県主、由碁理(建諸隅命)の娘、竹野媛と九代開化の間に生まれた、彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)である。
  • 京都府の南部、旧くは乙訓郡の一部で、現在は向日市(むこうし)と呼ばれる地域を南北に貫く府道67号線が走っています。今回、皆さんにご紹介する古墳も、この通称・物集女街道沿いの一角にあって『天皇の柩を運ぶ車が納められている』との民間伝承をもとに車塚古墳の名称を与えられています。向日市で「唯一、東西方向を軸として築造」された古墳時代後期(6世紀中頃)と見られる物集女車塚古墳(上の画像参照)は、

      前方部2段、後円部2段(前方後円墳) 墳長約48メートル 高さ約7メートル 

    の小規模なものですが、副葬品として「玉類」「武器類」多数が馬具などと共に出土し「金銅製ガラス玉付冠」が合わせて見つかったことから、当初は旧乙訓郡在地の「実力者」のものではないかと考えられていました。ところが調査を進める過程で、

      1 古墳の平面設計が継体の今城塚古墳のものと同型であること(つまり応神陵とも同じ技術集団が造営した)
      1 より古い時代の石棺材を「破壊」した上で、己の石室の材料として再利用している(旧勢力を実力で駆逐した?)
      1 石棺は二上山産のものと播磨高室石を混用している(埋葬するため、急いで石材を集めた、上右の石棺の蓋に注目)
      1 出土した土器類には紀州的な淡輪技法による跡が認められる

    などの事実が判明したため、最近では、この古墳の主が継体大王と極めて近い関係にあった人物ではないかとする分析が成されています。つまり、車塚古墳で眠っている人は「元々から物集女を支配していた」のではなく、6世紀の前半に継体帝の淀川両岸支配と同時に「外部から」乙訓の地に入って地域を「新たに支配した(乙訓宮を運営した)」人物であった可能性が高いという判断です。若し、このような想像が許されるのであれば、これまでヤマト勢力への「入り婿」だったと考えられてきた男大迹王の実像を描き替える必要性に迫られそうです。

  • 城陽市はその位置は京都市内から20Km、奈良市内から20Kmに位置します。
    北を向きますと、左には木津川が流れ、右には低い山並みが見られます。北隣は、平等院で有名な宇治市があり、南となりは、井出町と恭仁京があった山城町です。
    城陽市は昔の久世郡になります。JR奈良線の久津川駅の東北に古墳が密集しています。北から芭蕉塚古墳、下大谷古墳、車塚古墳、丸塚古墳、上大谷古墳、芝ヶ原古墳などがあります。
    最も、注目されるものは、車塚古墳です。
    久津川車塚古墳は、前方後円墳で、二重の周濠を含めた全長は約272m、墳丘長は約180mあります。墳丘は3段に築かれ、葺石と埴輪列が施されています。後円部からは、長持形石棺と呼ばれる石棺が出土しました。
    この石棺は6枚の平たい石で囲まれた長持形(昔布団をいれるために使った木箱)をしています。石材は播磨の竜山の石であることが判っています。この形は、私は古い形ではないかと思っているのと、播磨の竜山の石であることが重要であると考えます。じうして、そんなに遠いところから持ってきたかです。
     石棺内からは、鏡7面や鉄剣類の他に多くの玉類が出土しました。

     丸塚古墳は、久津川車塚古墳の東約100mの所にある前方部が低く短い帆立貝形(ほたてがいがた)の前方後円墳です。墳丘長は約104mあり、葺石と埴輪列を施しています。西側クビレ部付近から出土した家形埴輪は、高さが約1mもある大型の埴輪です。
     出土した埴輪から、久津川車塚古墳より先に築造されたことがわかっており、平川地域に最初に築造された大首長墳と考えられます。
  • May 2016 編集されました
    久津川車塚古墳
    古墳は5世紀前半に築かれ、墳丘は全長が南北約180メートルの3段構造。造り出しは1段目の少し下にあり、南北約20メートル、東西約12メートルでほぼ長方形だった。周囲を円筒埴輪(はにわ)で囲まれていた。

     穴は造り出しの南側にあり、南北約7・7メートル、東西約3・5メートル。長方形で周辺から形象埴輪片が出土したため埋葬場所と推定した。北側は小石が敷きつめられ、祭祀空間とみられる。

     調査指導した岸本直文・大阪市立大准教授によると、くびれ部以外の造り出しでは埋葬施設の発見例はあるが、くびれ部では例がないという。「古墳の被葬者の親族を埋葬したのではないか」と推定する。

     また同古墳は、大王墓の誉田御廟山古墳(羽曳野市)と類似していることが分かり、大王とつながりの深い大豪族が被葬者とみられると

    年代が400年前後と確定された古墳の消滅する要素は「円筒埴輪Ⅲ式」と「三角縁神獣鏡」「石製腕飾品」「合子・琴柱形石製品」「筒型銅器」であり、新たに登場する要素が「鋲留短甲」「短甲」「馬具」である。宮崎の下那珂馬場古墳、兵庫の行者塚古墳、奈良の島の山古墳、京都の久津川車塚古墳がこれらにあたる
  • 三尾君の祖は、イワツクワケ命。
    垂仁天皇と山代国造の女との皇子。
    山代国造は、天津日子根命の子孫であり、出雲臣に
    近い関係。
    出雲においては、山代日子根命と呼ばれていた。
    神功皇后紀には、摂津国広田神社を、山背根子の娘、
    葉山媛に祀らせた記事と、長田神社を、葉山媛の妹の
    長媛に祀らせた記事がある。
    出雲の祀りを執り行う氏族とわかる。

    ホツマツタエには、垂仁天皇と山背国造の娘の結婚に
    まつわる話がある。
    オオタタネコ(三輪大社神主)が山背国造の館に来た
    ときに、「娘が三人から結婚を申し込まれている。
    誰にやっても二人は恨むので、決めてくれ」と頼んだ
    という。
  • 向日神 大歳神の御子、御歳神がこの峰に登られた時、これを向日山と称され、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことにより御歳神を向日神と申し上げることとなったのである。

    火雷神社は、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まれた時、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神を祭られたのが創立である。
  • June 2016 編集されました
    水主神社 城陽市
    近鉄富野荘駅(とのしょう)から西北西へ1㎞ほどの木津川のほとりに水主神社(みずし)がある。
    この神社は、水主直(みぬし)がその祖「玉勝山代根子命」を「山背大国魂命神」として祀ったとされており、これに旧事本紀の天孫本紀の系譜の神々を加えた次の神々、まさに『勘注系図』が示す九世孫までが祭神となっている。

     始祖「天火明命(あめのほあかり)」 
    天香語山命 天村雲命 天忍男命 建額赤命 建筒草命 建田背命 建諸隅命 倭得玉彦命 山背大国魂命

    一番最後に祀られている祭神「山背大国魂命(やましろおおくにみたま)」とは、玉勝山背根子命(たまかつやましろねこ)のことで、神功皇后が新羅征伐帰還の折り、廣田神社に天照大神を祀らせた葉山媛と長田神社に事代主命を祀らせた長媛の父なのである。

    水主氏は、木津川中流域を根拠地とした海部(あまべ)氏の系脈だったという。天火明命(あめのほあかり)から数えて七代目の建田勢命(たけだせ)が、孝霊天皇の時、丹波の※宰(みこともち)となり、その後、
    山背国久世郡水主村に移り住んで、山背直の祖となったとある。

    それから三世後の崇神天皇の時代、天照大神を倭笠縫邑(やまとかさぬいむら)に遷し、倭大国魂命(やまとおおくにみたま)ならびに山脊大國魂命(やましろおおくにみたま)を倭、山脊の二国に祀らしめたとされる、そのまさに山脊の一社が水主神社だ。

    勘注系図および旧事本紀(天孫本紀)には
     「水主氏・雀部氏・軽部氏・蘇冝部氏・三富部氏は玉勝山代根子命(タマカツヤマシロネコ、ホアカリ9世の孫)の裔」
    との注記があり、ここでいうタマカツヤマシロネコ命とは、由緒にいう山背大国魂命(ヤマシロオオクニタマ)と同一神という(由緒に10世孫とあるが、系図では9世孫)。
     また、同系図の建田勢命(タケタセ、ヤマシロネコの曾祖父、旧事本紀には海部直の祖とある)の脚注には
     「孝霊天皇の御宇、丹波国丹波郷で宰(ミコトモチ・地方長官)と為って奉仕、その後、山背国久世郡水主村(当地)に移り座す。云々」
    とあるという。
  • June 2016 編集されました
    木津川、淀川水系において、大阪府高槻市・茨木市の三島野古墳群、乙訓地域の古墳群とともに三大古墳群の一つに数えられる久津川古墳群。その数は、城陽市から宇治市にまたがる宇治丘陵上及び平野部に約150基と大きな規模を誇っている。車塚、丸塚古墳は国の史跡に指定されており、車塚古墳は久津川古墳群中、最大のもの。


    久津川車塚古墳

    久津川車塚古墳(くつかわくるまづかこふん)は、京都府城陽市平川にある、山城地域周辺では最大級の前方後円墳
    全長約272メートル(二重の周濠を含める)、墳丘長は約180メートル。墳丘は3段築成となっている。5世紀前半に作られたと考えられており、南山城地域の首長の墓と見られている。周辺の久津川丸塚古墳などとともに久津川古墳群を成している。
    1894年に行われた奈良鉄道(現在のJR奈良線)の敷設工事の際、後円の部分から竜山石製の長持形石棺が出土した。
    1979年(昭和54年)に「久津川車塚・丸塚古墳」として国の史跡に指定された。

    久津川 丸塚古墳

    全長約80mの帆立貝式古墳。
    墳丘の周囲には濠がめぐらされている。墳丘は円丘部が2段に築かれているとみられ、葺石、埴輪列を備える。出土した埴輪には円筒埴輪、朝顔形埴輪、形象埴輪(家、蓋、甲冑)があり、なかでも家形埴輪は高さが1m以上と大型のものも確認されている。内部構造は未調査のため不明。5世紀初頭の築造。
    国指定史跡(久津川車塚・丸塚古墳)、1979(昭和54)年指定。
    ・久津川車塚古墳
    http://kofun.info/kofun/404
  • June 2016 編集されました
     芝ヶ原古墳は、南北21m、東西19mの方形の 墳丘に、これより小さな方形の出っ張り(突出部) がつく、前方後方形をしています。方形の墳丘の 中央部分に、長さ3m、幅0.7mの木棺(もっかん)が 直接埋められていました。木棺は腐ってなくなっていましたが、遺体と一緒に埋葬された銅釧(どうくしろ)(銅製の腕輪)・鏡・玉類などが出土しました。
    特に銅釧は、他に同じものがみられない非常に珍 しいものです。これらの出土品は、国の重要文化財に指定されています。
    一緒に出土した庄内式(しょうないしき)土器から、本格的に古墳の築造が始まる直前の3世紀中ごろに造られたものであることがわかりました。

    〈見学〉
    JR奈良線「城陽駅」から東へ徒歩約15分。
    出土品は、芝ケ原古墳出土遺物として一括して国指定重要文化財に指定され、城陽市歴史民俗資料館で展示しています。

    遺跡の概要

    前方後方形(ぜんぽうこうほうけい)の古墳で、後方部は東西約21m(北辺)×南北約23m(東辺)、前方部は前端部が開いた比較的短い形をしていたと推定されます。後方部の中心には組合式木棺(くみあわせしきもっかん)が納められており、銅釧(どうくしろ)や銅鏡(どうきょう)、玉類などが出土しています。築造時期は、墳丘の形態や出土した土器から3世紀前半と考えられ、古墳が造られるようになる古墳時代でも初期の墳墓として貴重な資料となっていま


    ■尼塚古墳群
     城陽市尼塚の住宅地の中に点在しています。尼塚古墳は尼塚第7幼児公園の中に一部保存されている四世紀終わり頃の40m×37mの方墳で、主体部は粘土槨に割竹型木棺が納められていました。1~5号墳は消滅。6、7号墳は尼塚の北東500mに現状保存されています。6号墳は径15mの円墳で、かつて石釧が出土しています。7号墳は径15mの円墳で、主体部は木棺直葬です。
  • June 2016 編集されました
    城陽町史(1969)に、
     「水主氏とは、栗隈の大溝の入口に設けられた水門(井堰)の管理を司った」
    とあり、栗隈大溝が、仁徳紀12年条にいう“南山城の栗隈県(クリクマノアガタ・現宇治市大久保付近という)に作られた大溝”とすれば、仁徳朝の頃に創建されたともとれるが、それを証する史料はなく、また古墳中期とされる仁徳期に常設の神社があったとは思えない。

     当社に関する国史上の初見は、文徳実録(879)に
     「天安2年(858・平安前期)7月12日--雨師・乙訓・水主・貴布祢神に宣命す、雨を祈る為也。夜に入って天陰り小雨」
    とある記述で、次いで、三代実録(901)には
     「貞観元年(859)正月27日--京畿七道の諸神の神階を進め、及び新に叙するもの、すべて267社なりき。・・・
                       山城国・・・従五位上水主神に従四位下を授け奉る」

    相殿神の大縫命(オオヌイ)・小縫命(オヌイ)とは、本殿に祀られている衣縫神社(キヌヌイ)の祭神で、上記由緒には
     「天地ひらけ豊組野尊(古事記の豊雲野尊トヨクモノ-神代七代の一柱か、神格不詳)のご神託にして、天照大神の時より衣類の女神の仕業として世に備れり。
     左右に座する二柱の神達は、神代天香語山命の御子・天村雲命より九世の孫にして、成務天皇の御宇、淡路国志賀の高穴穂の宮に仕え奉り、糸縫針の職業を主宰し給う。故に末代の今に至るまで、其職たる人達は此の大神を祖神として敬い奉り給う」
    とある。
     勘注系図(旧事本紀)には、ニギハヤヒ十世の孫(=アメノムラクモ八世の孫)に、この両神の名があり、
     新撰姓氏禄には、「左京神別(天神) 衣縫造(キヌヌイノミヤツコ) 石上同祖」(「石上朝臣 神饒速日尊之後也」)
    とあることから、同じ尾張氏(物部氏)系氏族の祖神として当社に祀られたのであろうが、その勧請時期など詳細は不明。
  • July 2016 編集されました
    山背大国魂命(玉勝山代根子命)を祖とする水主直が山背大国魂命神、始祖火明命を天照御魂神として祀ったとされるのが水主坐天照御魂神社(みぬしにますあまてるみたまじんじゃ)。


    束京・赤坂の山王日枝神社は、素佐之男尊の第五子「饒速日命」で、前に書いた大和王朝の初代です。徳川将軍が江戸の鎮守様としてお祀り申し上げましたが、おそらく奈良の三輪山から勧請したものと思います。

    京都の祇園・八坂神社は、素佐之男尊を牛頭天王と呼び、お子様方五男三女の計八人をお祀りしています
    主祭神
    中御座:素戔嗚尊 (すさのおのみこと)
    東御座:櫛稲田姫命 (くし(い)なだひめのみこと) - 素戔嗚尊の妻
    西御座:八柱御子神 (やはしらのみこがみ) - 素戔嗚尊の8人の子供(八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命)の総称
    配神
    (東御座に同座) 神大市比売命、佐美良比売命 - いずれも素戔嗚尊の妻
    (西御座に御座) 稲田宮主須賀之八耳神
  • 『国造本紀』によると、成務朝に彦坐王3世孫の大陀牟夜別が淡海国造に任じられたという。
    大陀牟夜別 …… 淡海国造。安国造の祖。彦坐王3世孫。娘の両道入姫命は日本武尊に嫁いで稲依別王を産んだ。

    水主神社 城陽市水主宮馬場
    水主直がその祖玉勝山代根子命を山背大国魂命神、始祖火明命を天照御魂神として祀ったとされる。

    天孫饒速日尊の第十世、山脊大國魂命は山脊(やましろ) の國造として国土経営に功あり。其子孫代々此地に廟食して国土を統治す。
    この故に山脊大國魂命または山代根古命とも尊称す。大國魂とは国土経営を賛称し、根古とは其民統治の謂なり。
    人皇十代崇神天皇の御代、豊鋤入姫命をして大殿裏に奉祀の天照大神を倭笠縫邑に遷祀せしめ給ひしが、また別に淳名城入姫命をして、日本大国魂命ならびに山脊大國魂命を倭、山脊の二国に神籬を建て、齊き祭らしめ給う。水主神社はその一社なり。
    天照御魂神は即ち火明命にて氏の高祖なり。第十世山背大国魂命にいたり山背に移り大に其の国に功烈あり。之を尊みて山背大国魂命という。
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