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tokyoblog
June 2019
June 2019 編集されました
阿波の大麻比古神社付近の古墳
吉野川の北側
2106年に徳島県鳴門市の阿讃山脈の麓に沿う東西7kmにある古墳群が「鳴門板野古墳群」として国指定史跡として指定された。この地域には指定された「大代古墳」「萩原墳墓群」「天河別神社古墳群」「宝幢寺古墳」の他にも多くの古墳が点在する。
そのうちの一つである,
阿波一の宮「大麻比古神社」がある板東谷川扇状地にある古墳群
萩原古墳群
・萩原墳墓群,鳴門市大麻町にある。1号墳は昭和50年代に,2号墳は平成16年~19年にかけて発掘調査がなされた。1号墳は取り壊され,県道になっている。直径約18mの円丘部から,写真の空き地方向に約8.5mの突出部を備えていた。阿波・讃岐地方独特の積石墳丘墓であり,円丘部の高さは80cm,突出部の高さは20cm程であったという。今は面影もない。
2号墳は,小山の上にあり,直径21mの円丘部に5.6mの突出部を持つ。高さ約80cmの積石墳丘墓である。両者に特徴的なのは「石囲い木槨」という埋葬構造である。同じ構造を持つ墳丘墓に,奈良県桜井市の纒向古墳群の中にあるホケノ山古墳がある。大和地方では唯一の「石囲い木槨」構造を持ち,3世紀中頃の築造とされている。構造からして,萩原2号墳の方がその前身とされ,出土物からも,萩原2号墳は,3世紀前半の築造と考えられている。
天河別神社古墳群
天河別神社古墳群では10基の古墳が確認されており、そのうちの5期が前期古墳である。築造された時期が古い順に、4・5号墳→1・2号→3号墳と考えられている。
1号墳は、直径25m高さ2.7mの2段築成の円墳。2段ともに直径約30cmの砂岩礫を基底石とし葺石を施す。東阿波型土器を供献土器として墳丘に配置。埋葬施設は「墓壙+外周帯+竪穴式石室+木棺」構造。竪穴式石室は、南北主軸の長さ5.08mの竪穴式石室。木棺の側壁に沿って、吉野川南岸産の結晶片岩を長手積みして形成。木で蓋をしたと考えられる。副葬品は、鉄剣2、鉄斧1、鉄製柄1、鏡1、朱を施した土器片。直径約7cmの仿製珠文鏡の破片。中国産辰砂の朱。築造年代は、古墳時代前期前半(3世紀後半~4世紀前半)
tokyoblog
June 2019
卑弥呼が死亡したのは、『魏志倭人伝』などの文献によって、3世紀中ごろの247年か、248年とわかっています。それに対して、古墳時代の始まりは、 これまで3世紀末(大体280年ごろ)とするのが、考古学者の一般的な見方でし た。つまり、邪馬台国も卑弥呼も、これまでは古墳時代とはあまり関係ない、と 思われていたのです。
箸墓 ところが、池上曽根遺跡で年輪年代法の結果が出て以来、これまでの近畿の弥生中期、後期を年代的に見直す動きが進み、今では、古墳時代の開始を3世紀中ごろとするのがむしろ大勢となっています。卑弥呼の死亡時期とピタリと重なってきます。邪馬台国の時代と、古墳時代が時間的につながってきたのです。
卑弥呼が死んで葬られた墓は、じつは日本で最初に造られた巨大な前方後円墳ではないか、という見方が現実となってきます。
もっと具体的にいえば、考古学者の間では、奈良県纏向(まきむく)遺跡にある全長約280メートルの日本で最初の巨大な前方後円墳、箸墓(箸中山古墳)をもって、卑弥呼の墓とする見方が、にわかに注目され始めました。
邪馬台国論争はここにきて、九州か畿内かという次元を越え、思わぬ展開を見せ始めたのです。
纏向遺跡の古墳群
日本で最初に巨大な前方後円墳群が出現するのは、大和盆地東南部の三輪山山麓です。それらは日本で最初の統一政権、大和朝廷の有力者の墓として築かれたものですが、山の辺の道に沿って行燈山古墳(崇神天皇陵)、渋谷向山古墳(景行天皇陵)、箸墓などが1~2キロの間隔で並んでいます。
これらの古墳群のなかでも最古の前方後円墳とされる箸墓のある纏向遺跡には、さらに古い古墳群があります。石塚や矢塚など弥生の墳丘墓と呼ばれるものですが、これらの墳墓群もすでに前方後円形をしています。「ホタテ貝型」と呼ばれる墳墓です。
また、箸墓のすぐそばには、箸墓と同時期に作られたとされるホケノ山古墳もあります。これはすでに前方後円墳の形をしています。つまり、纏向遺跡では、いくつかの大きな弥生の墳丘墓が築造されたあと、箸墓という最初の巨大な墓が出現します。
この纏向遺跡の数キロ西には、弥生時代の「近畿の首都」ともいうべき唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡があります。おもしろいことに、纏向遺跡は、ちょうど唐古・鍵遺跡と入れ代わるように出現します。紀元180年ごろに突如として姿を現し、大いに栄えたあと、紀元340年ごろ、急速に衰退するとされています。
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June 2019
June 2019 編集されました
纏向遺跡の河跡から出土した7世紀の土器には、「大市」と推定できる墨の文字(墨書)が書かれていました。
『日本書紀』には、百襲姫が葬られた場所を「大市」とする記述があり、これとも符合し、まさにこの土地の名を記しているようです。古代には、このあたりは「纏向」と呼ばれ、磯城郡大市郷でした。「大市」にしろ、「纏向」にしろ、相当古い地名に違いありません。
この「大市」という名については、「大きな市」という意味がすぐに浮かびます。交易の盛んな町というイメージで、纏向遺跡の都市的な性格を反映しているとされています。
倭人伝には、「国々市あり、有無を交易し」とあり、邪馬台国ではいろいろな物品の交易が盛んに行われていたことを記しています。
———
崇神天皇は、当時流行していた疫病を納める為、大おばである、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトビモモソヒメノミコト)の占いに頼った。
百襲姫の占いによって、それまで王家で一緒にまつっていた、王家の神「天照大神」と
地の神「大国魂神」を王家の館の外にそれぞけ別に分けてまつるようになった。
その時、王家の神には、王女「豊鍬入姫命 トヨスキイリヒメノミコト」をつけ、
地の神にも、王女「ぬ名城入命 姫ヌナキイリヒメノミコト」をつけた。
が、それでも国内の荒廃は収まらず、ヌナキイリ姫命が病気になり、世に不吉さが増した。
そんな折、崇神天皇の枕元に、三輪山に住む大物主神(おおものぬしのかみ)が
立ち、次のようなお告げを述べた。
1、大田田根子命(オオタタネコノミコト)を、大物主神の神主とすること。
2、市磯長尾市(イチシノナガオチ)を、大国魂神(おおくにたまのかみ)の神主とする。
さすれば、国は安定するだろう。
宮中では、国の神である「天照大神」と、大和の神である「倭大国魂神=大物主神」
を当初同時に祭っていた。が、それぞれの祟りを恐れ、「天照大神」を娘の豊鍬入姫命に託して宮外に祀らせ、「大物主神」をそのお告げに従って、子孫の太田田根子に祀らせている。
内政では、農業発展の為に、池を掘るなどに尽力し、叔母「百襲姫」の予言の力を借りて大和を統治し、さらに大和を中心に地方制定するため、地方要所に『四道将軍』を配置し、積極的な、全国統一を行っている。
tokyoblog
July 2019
萩原墳墓群
積石の弥生時代から古墳時代にかけての墳墓群(ふんぼぐん)です。弥生時代のお墓があることから、古墳ではな く、墳墓という言葉が使用されています。 萩原1号墓は昭和55・56年に県道工事にともなって調査されました。前方後円墳の原型ともいえる突出部をも ったお墓です。
萩原1号墓の墳丘基底部
列石の構築状況
残存部の長さ26.5m
萩原1号墓の石室上面の供献土器
埋葬施設は結晶片岩を使用し竪穴式石室です。上面に白色の小さな石がばらまかれており、それに混ざって讃岐 の小型の土器が発見されています。さぬき市津田町のけぼ山古墳や赤山古墳でも後円墳の頂上に白色の小さな石 が見られることから、同じような風習があった可能性があります。 2号墓は近年(平成18年度など)発掘調査されています。板を使った墓室と木槨を積石で囲んだ3重構造の埋葬施 設が発見されました。同じような構造の埋葬施設は奈良県ホケノ山古墳にあります。ホケノ山古墳は箸墓古墳の 近くにある古墳で、箸墓古墳よりも古いといわれています。萩原2号墓はそのホケノ山と同じ時期かやや古い時 期といわれており、萩原2号墓がホケノ山古墳に影響を与えたと評価しています。前方後円墳の成立に阿波地域 が大きく関わっていることが明らかとなりました。 萩原1・2号墓は2世紀末~3世紀前半に築造されたと考えられています。積石であることから、讃岐、阿波に 見られる積石塚の原型の可能性があり、また、埋葬施設の特徴からは大和の古墳に影響与えた原型であった可能 性も指摘されています。徳島という地域史のみならず、古墳の成立を考える上でも重要な墳墓群といえます。
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July 2019
July 2019 編集されました
日本最古の古墳とされるホケノ山古墳であるが、
徳山県鳴門市の萩原墳墓群2号墓がその原型とされる。
同様のものが岡山県倉敷市の盾築(たてつき)墳丘墓にもある。
棺を納めた小部屋「木槨(もっかく)」を石積みで囲む竪穴式の構造が似ている。
三角縁神獣鏡の副葬が始まる前の時代の古墳、または、弥生墳丘墓。
全長80m、後円部直径60mの前方後円墳である。埋葬施設は、木槨と石槨からなる内外二重構造の槨に木棺
を納めたものであった。
槨:棺を収納し、保護保護するための埋葬用施設のことをいう。
ホケノ山古墳を築く労働力は延べ4万5千人と言われているが、箸墓古墳は135万人とケタの違う労働力を要した。
ホケノ山古墳の周囲には纏向遺跡がひろがっています。
纏向遺跡は東西約2km南北1.5kmの古墳時代前期の大きな集落遺跡であり、
初期ヤマト政権発祥の地として、あるいは北部九州の緒遺跡群に対する邪馬台国、東の候補地として著名な遺跡です。
この遺跡は3世紀初めに出現し、およそ150年後の4世紀中頃には消滅してしまいます。
遺跡の中には箸墓古墳を代表として、纏向型前方後円墳と呼ばれる石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳・
ホケノ山古墳の6基の古式の前方後円墳があります。これらの古墳は、
その築造時期が何れも3世紀に遡るものと考えられており、
前方後円墳で構成された日本最古の古墳群と言われています
埋葬施設
復元整備された前方部木棺直葬墓
墳頂部(後円部)の中央から「石囲い木槨」出土[1][3]。大きな土壙内に内側の長さ約7メートル、幅約2.7メートル、高さ推定1.5メートル(現在約1.1メートル)の石室状の「石囲い」施設[3]。その内部にコウヤマキ製の5メートルの刳抜式木棺を納めた大規模な木槨[3]。広義の割竹形木槨。天井は木材を渡し、その上に地元の川原石を積んでいる。棺内は水銀朱で覆われていたと思われる。
前方部裾葺石を一部除去して木棺を埋葬している[1][3]。くびれ部に簡単な埋葬施設1基あり。
上記2つとは別に、主体部西側に横穴式石室がある。すでにあった墳丘を利用して6世紀末頃に営まれたものと考えられる[3]。石室全長14メートル以上[3]。玄室に組合式家形石棺[3]。
副葬品・出土遺物
編集
大型壺(瀬戸内系、高さ77センチメートル・最大径65センチメートル)
中型壺(東海系、高さ26センチメートル・最大径24センチメートル)
銅鏃 約60本
鉄鏃 約60本
素環頭大刀 1口
鉄製刀剣類 10口
加飾壺
画紋帯同向式神獣鏡(がもんたいどうこうしきしんじゅうきょう)1面
画紋帯神獣鏡かと考えられる銅鏡片2個体分、内行花文鏡片
鉄製農工具
二重口縁壺20体(庄内式)
布留0式土器3点
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July 2019
July 2019 編集されました
城陽市北部、木津川右岸の丘陵地に築造された大型前方後円墳である[1]。丘陵一帯では、本古墳や丸塚古墳・芭蕉塚古墳の大型古墳3基を含む古墳100基以上からなる久津川古墳群の分布が知られる。調査は1894年(明治27年)の未盗掘石棺・副葬品の発見を契機とし、これまでに数次の発掘調査が実施されている。
墳形は前方後円形で、前方部を南方に向ける。墳丘は3段築成[3]。墳丘長は約180メートルを測るが、これは久津川古墳群中では最大規模で、南山城地方でも最大規模になる。くびれ部西側には造出が付される(くびれ部東側でも存在が推定)[4]。墳丘表面では葺石や、各段に埴輪列が検出されているほか、墳丘周囲には2重の周濠が巡らされる。主体部の埋葬施設は、後円部中央で長持形石棺直葬1基、西側造出で組合式木棺直葬1基が確認されており、それぞれ副葬品も検出されている。
この久津川車塚古墳は、古墳時代中期前半の5世紀前半の築造と推定される、久津川古墳群中では丸塚古墳と同時期の築造で、次いで梶塚古墳が築造される。その規模・内容から、南山城地方を治めた大首長の墓と推測される[3]。
古墳域は1979年(昭和54年)に国の史跡に指定されている[1]。また出土鏡(泉屋博古館保管)・出土石棺(京都大学総合博物館保管)は、それぞれ1953年(昭和28年)・1991年(平成3年)に国の重要文化財に指定されている
京都府城陽市大字平川久津川車塚古墳出土 重要文化財
神獣鏡は、当時信仰されていた神仙像や神獣を表現した鏡で、2世紀から3世紀にかけて流行した。文様は中心の鈕をめぐるように環状に配置するものが多いが、本品は同じ方向を向いて上下3段に図像を配している。中央上段には伯牙弾琴の三像、鈕の左右に東王父と西王母、鈕下方には黄帝像がある。その外側には半円と方格とが交互に並び、半円内には動物や花文、方格内には富貴、子孫繁栄、官位栄達などの願いを込めた銘を入れる。
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July 2019
「久津川古墳群」は、木津川、淀川水系において、大阪府高槻市・茨木市の三島野古墳群・乙訓地域の古墳群とともに三大古墳群の一つに数えられています。その数は、城陽市から宇治市にまたがる宇治丘陵上及び平野部に約150基と大きな規模を誇っています。「久津川車塚古墳・丸塚古墳・芭蕉塚古墳・久世小学校古墳(芝ヶ原9号墳)」は国の史跡に指定されており、特に「久津川車塚古墳」は、「久津川古墳群」中、最大のものです。
「久津川車塚古墳・丸塚古墳・芭蕉塚古墳・久世小学校古墳(芝ヶ原9号墳)」は、京都府内最大の古墳群である「久津川古墳群」を代表する古墳4基です。
南山城地域を支配た有力者の墓と考えられ「丸塚古墳」は、5世紀前半に築造された前方部が短い帆立貝形の後円墳で、二段に築かれた墳丘には葺石と埴輪列が施され、周囲には周濠がめぐります。 周濠を含めた全長は104 mで、墳丘長は80 mあります。前方部から大型の家形埴輪が出土しています。「久津川車塚古墳」の被葬者地域支配をえた有力墓と考えられます。 家形埴輪は城陽市歴史民俗資料館で展示されています。
なんと、古墳の前には被葬者と思われるキャラクターの人物の絵があり驚きましたが、とてもユニークで面白いと思いました!
「久世小学校にある古墳「久世小学校古墳」(芝ヶ原 9号墳)は、5世紀中頃に築造された直径 27.5 mの円墳で 、二段に築かれた墳丘には葺石と埴輪 列が施されます。埋葬施設は粘土槨を簡略化したもので、上面から朝鮮半島の土器である陶質土器 が出土しています。芭蕉塚古墳の被葬者地域支配をえた有力者の墓と考られます。
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October 2019
古保利古墳群配置図 (説明板から)
琵琶湖の北端、塩津湾に面する細長い丘陵上に分布する。
古墳時代初頭(3世紀代)から終末期(7世紀代・飛鳥時代)の
築造と推定されている古墳が、現在132基確認されている。
丘陵陵線上に約3kmにわたって築造されている。
首長墓と考えられる前方後円墳8基・前方後方墳8基と、
円墳79基・方墳37基が確認されている。
小松古墳は3世紀代・全長60mの前方後方墳で、
中国製の銅鏡や銅鏃・鉄鏃・水銀朱などが発見されている。
群中最大規模の西野山古墳は全長90m前後の前方後円墳で、
築造時期は明らかではないが、立地・墳形から前期末葉の築造と考えられている。
(説明板から)
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吉野川の北側
2106年に徳島県鳴門市の阿讃山脈の麓に沿う東西7kmにある古墳群が「鳴門板野古墳群」として国指定史跡として指定された。この地域には指定された「大代古墳」「萩原墳墓群」「天河別神社古墳群」「宝幢寺古墳」の他にも多くの古墳が点在する。
そのうちの一つである,
阿波一の宮「大麻比古神社」がある板東谷川扇状地にある古墳群
萩原古墳群
・萩原墳墓群,鳴門市大麻町にある。1号墳は昭和50年代に,2号墳は平成16年~19年にかけて発掘調査がなされた。1号墳は取り壊され,県道になっている。直径約18mの円丘部から,写真の空き地方向に約8.5mの突出部を備えていた。阿波・讃岐地方独特の積石墳丘墓であり,円丘部の高さは80cm,突出部の高さは20cm程であったという。今は面影もない。
2号墳は,小山の上にあり,直径21mの円丘部に5.6mの突出部を持つ。高さ約80cmの積石墳丘墓である。両者に特徴的なのは「石囲い木槨」という埋葬構造である。同じ構造を持つ墳丘墓に,奈良県桜井市の纒向古墳群の中にあるホケノ山古墳がある。大和地方では唯一の「石囲い木槨」構造を持ち,3世紀中頃の築造とされている。構造からして,萩原2号墳の方がその前身とされ,出土物からも,萩原2号墳は,3世紀前半の築造と考えられている。
天河別神社古墳群
天河別神社古墳群では10基の古墳が確認されており、そのうちの5期が前期古墳である。築造された時期が古い順に、4・5号墳→1・2号→3号墳と考えられている。
1号墳は、直径25m高さ2.7mの2段築成の円墳。2段ともに直径約30cmの砂岩礫を基底石とし葺石を施す。東阿波型土器を供献土器として墳丘に配置。埋葬施設は「墓壙+外周帯+竪穴式石室+木棺」構造。竪穴式石室は、南北主軸の長さ5.08mの竪穴式石室。木棺の側壁に沿って、吉野川南岸産の結晶片岩を長手積みして形成。木で蓋をしたと考えられる。副葬品は、鉄剣2、鉄斧1、鉄製柄1、鏡1、朱を施した土器片。直径約7cmの仿製珠文鏡の破片。中国産辰砂の朱。築造年代は、古墳時代前期前半(3世紀後半~4世紀前半)
箸墓 ところが、池上曽根遺跡で年輪年代法の結果が出て以来、これまでの近畿の弥生中期、後期を年代的に見直す動きが進み、今では、古墳時代の開始を3世紀中ごろとするのがむしろ大勢となっています。卑弥呼の死亡時期とピタリと重なってきます。邪馬台国の時代と、古墳時代が時間的につながってきたのです。
卑弥呼が死んで葬られた墓は、じつは日本で最初に造られた巨大な前方後円墳ではないか、という見方が現実となってきます。
もっと具体的にいえば、考古学者の間では、奈良県纏向(まきむく)遺跡にある全長約280メートルの日本で最初の巨大な前方後円墳、箸墓(箸中山古墳)をもって、卑弥呼の墓とする見方が、にわかに注目され始めました。
邪馬台国論争はここにきて、九州か畿内かという次元を越え、思わぬ展開を見せ始めたのです。
纏向遺跡の古墳群
日本で最初に巨大な前方後円墳群が出現するのは、大和盆地東南部の三輪山山麓です。それらは日本で最初の統一政権、大和朝廷の有力者の墓として築かれたものですが、山の辺の道に沿って行燈山古墳(崇神天皇陵)、渋谷向山古墳(景行天皇陵)、箸墓などが1~2キロの間隔で並んでいます。
これらの古墳群のなかでも最古の前方後円墳とされる箸墓のある纏向遺跡には、さらに古い古墳群があります。石塚や矢塚など弥生の墳丘墓と呼ばれるものですが、これらの墳墓群もすでに前方後円形をしています。「ホタテ貝型」と呼ばれる墳墓です。
また、箸墓のすぐそばには、箸墓と同時期に作られたとされるホケノ山古墳もあります。これはすでに前方後円墳の形をしています。つまり、纏向遺跡では、いくつかの大きな弥生の墳丘墓が築造されたあと、箸墓という最初の巨大な墓が出現します。
この纏向遺跡の数キロ西には、弥生時代の「近畿の首都」ともいうべき唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡があります。おもしろいことに、纏向遺跡は、ちょうど唐古・鍵遺跡と入れ代わるように出現します。紀元180年ごろに突如として姿を現し、大いに栄えたあと、紀元340年ごろ、急速に衰退するとされています。
『日本書紀』には、百襲姫が葬られた場所を「大市」とする記述があり、これとも符合し、まさにこの土地の名を記しているようです。古代には、このあたりは「纏向」と呼ばれ、磯城郡大市郷でした。「大市」にしろ、「纏向」にしろ、相当古い地名に違いありません。
この「大市」という名については、「大きな市」という意味がすぐに浮かびます。交易の盛んな町というイメージで、纏向遺跡の都市的な性格を反映しているとされています。
倭人伝には、「国々市あり、有無を交易し」とあり、邪馬台国ではいろいろな物品の交易が盛んに行われていたことを記しています。
———
崇神天皇は、当時流行していた疫病を納める為、大おばである、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトビモモソヒメノミコト)の占いに頼った。
百襲姫の占いによって、それまで王家で一緒にまつっていた、王家の神「天照大神」と
地の神「大国魂神」を王家の館の外にそれぞけ別に分けてまつるようになった。
その時、王家の神には、王女「豊鍬入姫命 トヨスキイリヒメノミコト」をつけ、
地の神にも、王女「ぬ名城入命 姫ヌナキイリヒメノミコト」をつけた。
が、それでも国内の荒廃は収まらず、ヌナキイリ姫命が病気になり、世に不吉さが増した。
そんな折、崇神天皇の枕元に、三輪山に住む大物主神(おおものぬしのかみ)が
立ち、次のようなお告げを述べた。
1、大田田根子命(オオタタネコノミコト)を、大物主神の神主とすること。
2、市磯長尾市(イチシノナガオチ)を、大国魂神(おおくにたまのかみ)の神主とする。
さすれば、国は安定するだろう。
宮中では、国の神である「天照大神」と、大和の神である「倭大国魂神=大物主神」
を当初同時に祭っていた。が、それぞれの祟りを恐れ、「天照大神」を娘の豊鍬入姫命に託して宮外に祀らせ、「大物主神」をそのお告げに従って、子孫の太田田根子に祀らせている。
内政では、農業発展の為に、池を掘るなどに尽力し、叔母「百襲姫」の予言の力を借りて大和を統治し、さらに大和を中心に地方制定するため、地方要所に『四道将軍』を配置し、積極的な、全国統一を行っている。
萩原墳墓群
積石の弥生時代から古墳時代にかけての墳墓群(ふんぼぐん)です。弥生時代のお墓があることから、古墳ではな く、墳墓という言葉が使用されています。 萩原1号墓は昭和55・56年に県道工事にともなって調査されました。前方後円墳の原型ともいえる突出部をも ったお墓です。
萩原1号墓の墳丘基底部
列石の構築状況
残存部の長さ26.5m
萩原1号墓の石室上面の供献土器
埋葬施設は結晶片岩を使用し竪穴式石室です。上面に白色の小さな石がばらまかれており、それに混ざって讃岐 の小型の土器が発見されています。さぬき市津田町のけぼ山古墳や赤山古墳でも後円墳の頂上に白色の小さな石 が見られることから、同じような風習があった可能性があります。 2号墓は近年(平成18年度など)発掘調査されています。板を使った墓室と木槨を積石で囲んだ3重構造の埋葬施 設が発見されました。同じような構造の埋葬施設は奈良県ホケノ山古墳にあります。ホケノ山古墳は箸墓古墳の 近くにある古墳で、箸墓古墳よりも古いといわれています。萩原2号墓はそのホケノ山と同じ時期かやや古い時 期といわれており、萩原2号墓がホケノ山古墳に影響を与えたと評価しています。前方後円墳の成立に阿波地域 が大きく関わっていることが明らかとなりました。 萩原1・2号墓は2世紀末~3世紀前半に築造されたと考えられています。積石であることから、讃岐、阿波に 見られる積石塚の原型の可能性があり、また、埋葬施設の特徴からは大和の古墳に影響与えた原型であった可能 性も指摘されています。徳島という地域史のみならず、古墳の成立を考える上でも重要な墳墓群といえます。
徳山県鳴門市の萩原墳墓群2号墓がその原型とされる。
同様のものが岡山県倉敷市の盾築(たてつき)墳丘墓にもある。
棺を納めた小部屋「木槨(もっかく)」を石積みで囲む竪穴式の構造が似ている。
三角縁神獣鏡の副葬が始まる前の時代の古墳、または、弥生墳丘墓。
全長80m、後円部直径60mの前方後円墳である。埋葬施設は、木槨と石槨からなる内外二重構造の槨に木棺
を納めたものであった。
槨:棺を収納し、保護保護するための埋葬用施設のことをいう。
ホケノ山古墳を築く労働力は延べ4万5千人と言われているが、箸墓古墳は135万人とケタの違う労働力を要した。
ホケノ山古墳の周囲には纏向遺跡がひろがっています。
纏向遺跡は東西約2km南北1.5kmの古墳時代前期の大きな集落遺跡であり、
初期ヤマト政権発祥の地として、あるいは北部九州の緒遺跡群に対する邪馬台国、東の候補地として著名な遺跡です。
この遺跡は3世紀初めに出現し、およそ150年後の4世紀中頃には消滅してしまいます。
遺跡の中には箸墓古墳を代表として、纏向型前方後円墳と呼ばれる石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳・
ホケノ山古墳の6基の古式の前方後円墳があります。これらの古墳は、
その築造時期が何れも3世紀に遡るものと考えられており、
前方後円墳で構成された日本最古の古墳群と言われています
埋葬施設
復元整備された前方部木棺直葬墓
墳頂部(後円部)の中央から「石囲い木槨」出土[1][3]。大きな土壙内に内側の長さ約7メートル、幅約2.7メートル、高さ推定1.5メートル(現在約1.1メートル)の石室状の「石囲い」施設[3]。その内部にコウヤマキ製の5メートルの刳抜式木棺を納めた大規模な木槨[3]。広義の割竹形木槨。天井は木材を渡し、その上に地元の川原石を積んでいる。棺内は水銀朱で覆われていたと思われる。
前方部裾葺石を一部除去して木棺を埋葬している[1][3]。くびれ部に簡単な埋葬施設1基あり。
上記2つとは別に、主体部西側に横穴式石室がある。すでにあった墳丘を利用して6世紀末頃に営まれたものと考えられる[3]。石室全長14メートル以上[3]。玄室に組合式家形石棺[3]。
副葬品・出土遺物
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大型壺(瀬戸内系、高さ77センチメートル・最大径65センチメートル)
中型壺(東海系、高さ26センチメートル・最大径24センチメートル)
銅鏃 約60本
鉄鏃 約60本
素環頭大刀 1口
鉄製刀剣類 10口
加飾壺
画紋帯同向式神獣鏡(がもんたいどうこうしきしんじゅうきょう)1面
画紋帯神獣鏡かと考えられる銅鏡片2個体分、内行花文鏡片
鉄製農工具
二重口縁壺20体(庄内式)
布留0式土器3点
墳形は前方後円形で、前方部を南方に向ける。墳丘は3段築成[3]。墳丘長は約180メートルを測るが、これは久津川古墳群中では最大規模で、南山城地方でも最大規模になる。くびれ部西側には造出が付される(くびれ部東側でも存在が推定)[4]。墳丘表面では葺石や、各段に埴輪列が検出されているほか、墳丘周囲には2重の周濠が巡らされる。主体部の埋葬施設は、後円部中央で長持形石棺直葬1基、西側造出で組合式木棺直葬1基が確認されており、それぞれ副葬品も検出されている。
この久津川車塚古墳は、古墳時代中期前半の5世紀前半の築造と推定される、久津川古墳群中では丸塚古墳と同時期の築造で、次いで梶塚古墳が築造される。その規模・内容から、南山城地方を治めた大首長の墓と推測される[3]。
古墳域は1979年(昭和54年)に国の史跡に指定されている[1]。また出土鏡(泉屋博古館保管)・出土石棺(京都大学総合博物館保管)は、それぞれ1953年(昭和28年)・1991年(平成3年)に国の重要文化財に指定されている
京都府城陽市大字平川久津川車塚古墳出土 重要文化財
神獣鏡は、当時信仰されていた神仙像や神獣を表現した鏡で、2世紀から3世紀にかけて流行した。文様は中心の鈕をめぐるように環状に配置するものが多いが、本品は同じ方向を向いて上下3段に図像を配している。中央上段には伯牙弾琴の三像、鈕の左右に東王父と西王母、鈕下方には黄帝像がある。その外側には半円と方格とが交互に並び、半円内には動物や花文、方格内には富貴、子孫繁栄、官位栄達などの願いを込めた銘を入れる。
「久津川車塚古墳・丸塚古墳・芭蕉塚古墳・久世小学校古墳(芝ヶ原9号墳)」は、京都府内最大の古墳群である「久津川古墳群」を代表する古墳4基です。
南山城地域を支配た有力者の墓と考えられ「丸塚古墳」は、5世紀前半に築造された前方部が短い帆立貝形の後円墳で、二段に築かれた墳丘には葺石と埴輪列が施され、周囲には周濠がめぐります。 周濠を含めた全長は104 mで、墳丘長は80 mあります。前方部から大型の家形埴輪が出土しています。「久津川車塚古墳」の被葬者地域支配をえた有力墓と考えられます。 家形埴輪は城陽市歴史民俗資料館で展示されています。
なんと、古墳の前には被葬者と思われるキャラクターの人物の絵があり驚きましたが、とてもユニークで面白いと思いました!
「久世小学校にある古墳「久世小学校古墳」(芝ヶ原 9号墳)は、5世紀中頃に築造された直径 27.5 mの円墳で 、二段に築かれた墳丘には葺石と埴輪 列が施されます。埋葬施設は粘土槨を簡略化したもので、上面から朝鮮半島の土器である陶質土器 が出土しています。芭蕉塚古墳の被葬者地域支配をえた有力者の墓と考られます。
琵琶湖の北端、塩津湾に面する細長い丘陵上に分布する。
古墳時代初頭(3世紀代)から終末期(7世紀代・飛鳥時代)の
築造と推定されている古墳が、現在132基確認されている。
丘陵陵線上に約3kmにわたって築造されている。
首長墓と考えられる前方後円墳8基・前方後方墳8基と、
円墳79基・方墳37基が確認されている。
小松古墳は3世紀代・全長60mの前方後方墳で、
中国製の銅鏡や銅鏃・鉄鏃・水銀朱などが発見されている。
群中最大規模の西野山古墳は全長90m前後の前方後円墳で、
築造時期は明らかではないが、立地・墳形から前期末葉の築造と考えられている。
(説明板から)