三世紀の古墳

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コメント

  • 韓国の縦穴式住居
    大邱博物館の案内書に次のような記述があった。
    「・・・青銅器時代の人々は河岸段丘や内陸の丘陵地に竪穴住居を構え、集落をなして生活した。・・・西南部地方(全羅道)では円形のものが流行することもあった。」
  • 香川県高松市の稲荷山北端1号墳は真ん中の円丘に南側と北側それぞれに四角い墳丘が接続する「双方中円墳」で、「異形」ともいうべき極めて珍しい墳形が昨年秋に確認された。しかも3世紀後半という古い時期に土ではなく石を積んで築いた「積石塚」。高松市は詳細な調査を7月から再開し、国の史跡指定を目指す。

     これまでの調査で、円丘部の直径は約28メートル、丘陵の高い位置にある南側の方丘部の長さは約20メートルと確定。北側の方丘部の端がどこまで続くかはまだわかっておらず、今年度の調査で北側方丘部の大きさを確認する意向だ。

     稲荷山北端1号墳は双方中円墳という極めて特異な形状をしていることが確認されたが、それがどれほど珍しいか。数字を見れば明らかだ。

     文化庁が2012年度にとりまとめた調査では、横穴を含めた全国の古墳の総数は15万8905基。壊れてしまったものなどを含めるとざっと20万基以上とみられている。このうち約9割が終末期の群集墳で小さな円墳とされる。

     古墳には四角い方墳や八角形をした八角墳もあるが、大きな古墳は前方後方墳、双円墳、双方墳など2つの小山で構成されているものが多い。地域の有力者や「大王」らを葬ったとされる代表的な古墳の前方後円墳は約5000基という。

     双方中円墳は全国でわずか4基。うち3基が石清尾山古墳群にある。猫塚(墳長96メートル)、鏡塚(同70メートル)と今回の稲荷山北端1号墳だ。
  •  讃岐の古墳に詳しい徳島文理大の大久保徹也教授(考古学)によると、古墳が造営された最初期の讃岐地域の古墳の形はすべて墳長が50メートルに満たない小型の前方後円墳だった。その数は約70基にものぼり、多数の首長が横並びで水平的連合体を形成していた様子がうかがえるという。この第1世代に続いて造られたのが双方中円墳だ。「それまでの横一線から関係が組み替わる中で生まれた墳形ではないか」と推測する。

     双方中円墳で残る1基は奈良県天理市の櫛山(くしやま)古墳でほぼ同じ時期に造営された。ただ、櫛山古墳は猫塚や鏡塚と形状が大きく異なる。猫塚と鏡塚は円丘に対しほぼ同じ大きさの形をした方丘が2方向に翼を広げたように接続するが、櫛山古墳は前方後円部にもう一つの短い突出部を付けただけのような形をしている。
  • December 2016 編集されました
    双方中円墳の一覧 [ 計:5 表示:1-5 ]

    稲荷山北端1号墳 香川 双方中円墳だったという記事を読んで、行ってみた。標高165メ ...
    鏡塚古墳 香川 全長約70m・高さ約3.6mの双方中円墳で、墳丘は石積みで2 ...
    櫛山古墳 奈良 柳本古墳群の1基で、全長約155mの双方中円墳。円丘部直径約 ...
    楯築弥生墳丘墓 岡山 倉敷市矢部の丘陵上に径約50mの円丘部、南北に二つの突出部を ...
    猫塚古墳 香川 全長約95mの双方中円墳。 墳丘は積み石によって構築されて ...


    櫛山古墳
    柳本古墳群の1基で、全長約155mの双方中円墳。円丘部直径約90m・高さ約17.5m、3段築成で葺石・埴輪を備える。周囲には濠がめぐらされている。西側の方丘部を前方部として造り出し付きの前方後円墳とする見方もあるようだ。1948(昭和23)年の発掘調査で、円丘部墳頂から竪穴式石室と石棺の一部が見つかり、腕輪形石製品や滑石製品、鉄製品などが出土した。また、東側方丘部に設けられた祭祀遺構からも鍬形石や車輪石、石釧などの腕輪形石製品や土師器などが出土している。4世紀後半の築造。国指定史跡、1957(昭和32)年指定。

    猫塚古墳
    全長約95mの双方中円墳。
    墳丘は積み石によって構築されているが、明治末期に計画的な大盗掘に遭い、現在ではかなり変形している。
    中央部には複数の竪穴式石室があったとみられ、銅鏡5面や石釧、武器、筒形銅器、土師器など数多くの副葬品が出土している。4世紀前半の築造。
    国指定史跡(石清尾山古墳群)、1985(昭和60)年指定。出土品の多くが東京国立博物館に収蔵・展示されている。
    ・石清尾山古墳群 http://kofun.info/kofun/744

    楯築弥生墳丘墓
    案内役の正岡睦夫教授は、この遺跡について興味深いことを指摘された。楯築墳墓は後の時代の古墳につながる要素が多いが、古墳と全く異なる要素もあり、考古学上非常に重要な遺跡であるとという。

    古墳につながる要素としては、かなりの数の特殊器台やその上に載せる壺が多く見つかっている。これらの遺物は、後の近畿の古墳を飾る特殊器台型埴輪につながるもので、埴輪の先祖と見ることができる。また、この墳墓には弥生時代には例を見ない排水溝が作ってある。こうした付帯設備も後の古墳に引き継がれている。

    逆に、古墳時代につながらない要素として、埋葬設備として、ここでは、竪穴式石室の代わりに木槨が採用されていた。また、墳頂部は葺石だあったが、墳丘の裾の部分は石で囲んでいない。さらに、鏡が出土していない。こうしたことは、古墳時代の墓には見られない現象である。

    いずれにせよ、楯築墳丘墓は突出部を含めると長さが約80mに達し、弥生時代後期の傑出した規模をほこる墓である。強大な権力の出現を後世に示したモニュメントであると言えるであろう。
  • 楯築遺跡の謎

    1.極めて数少ない前方中円墳の形状、讃岐との関わり
    2.大和の纒向古墳群の三世紀古墳と共通点を多く持っていることである。
    ・・・木郭と云う非常に特殊なものをもっていること
    ・・・・特殊器台と云う、これまた独特な物があるなどの共通点
    3.墳丘上に立てられている巨石群
    それは縄文時代後期晩期に北日本で見られるストーンサークル(環状列石)に通じている。そして、亀石に彫られた特殊な弧帯文なる文様。
    信仰上か、矢立か、集会用か???
  • March 2017 編集されました
    日本列島で前方後円墳を造り始める古墳時代の始期が、戦後の歴史学界で実在性が総じて認められる応神天皇よりはるか前の時期である

    この時期について記す記紀の記事を頭から否定するような見方をしがちな津田博士流の史学では、総合的な考察を要する陵墓や古墳被葬者についての的確な比定はできるはずがない(津田学説の影響が強い古代史学界においては、継体天皇より前の天皇については、個別に実在性を否定する見方もある)

    古墳時代に関係する崇神まで遡っても、実在性を否定すべき天皇はいないと判断している。むしろ、実質的に天皇ないし大王と考えたほうがよい者に神功皇后〔成務皇后の日葉酢媛〕、飯豊青尊がいる)。

    応神陵に現在治定される誉田山(誉田御廟山)古墳は、津堂城山や仲津山の後の築造とされるから、現応神陵が「妥当なようであるが、考古学的な決め手を欠く」と評価する森氏の立場でも、応神天皇より一世代前くらいに古墳時代中期が始まることになる。この段階で、応神天皇(あるいは応神の実在性を否定したときは、仁徳天皇)を創始者とする「中王朝」の始期と古墳時代中期の始期が明らかにズレている。
  • 箸墓古墳が近隣の巨大古墳たる西殿塚・茶臼山・メスリ山に比べるとき、後三墳が自然地形を可能な限り活用しているのに対し、墳丘の大部分を盛土によって形成していたことで、「前代未聞の大土木工事であった」とし、周濠の有無や築成段数にも差異があって、「出現期古墳の中でも他の古墳と隔絶した墳丘規模」だと白石氏は指摘する
  • 最後の前方後円墳

    現敏達陵として治定の太子西山古墳を最後にして、前方後円墳から方墳へと変わったと一般にみられている。
    ところが、太子西山が六世紀初頭頃の築造だとしたら、残るは見瀬丸山古墳か現欽明陵の平田梅山かということになるが、欽明陵の真陵は森氏もいうように見瀬丸山古墳でよいと考えられるから(見瀬丸山及び平田梅山からは、今城塚より新しい時期の須恵器〔TK43〕が出た事情もある)、平田梅山の被葬者は別に考えねばならない。

    森氏は平田梅山を推古廿年条に見える欽明陵への合葬前の元の堅塩媛の墓と考えるが(p232)、堅塩媛が檜隈陵への改葬前にどこに祀られていたかは、不明というしかない
  • June 2017 編集されました
    陶棺が出土した古墳

    近畿地方
    信太千塚古墳群(群集墳、大阪府和泉市)
    玉手山古墳群(大阪府柏原市)
    堂山古墳群(大阪府大東市)
    五月丘古墳(円墳、大阪府池田市)


     陶棺は関東から九州まで約700出土していますが、そのうちの75%が岡山県から出土しています。さらに美作地方からは県下の70%が出土しています。その陶棺ですが、6世紀中頃に横穴式石室に納める棺として作られ始めました。岩井山古墳群のような小さな古墳がたくさん作られるようになった6世紀後半には、盛んに使われたようです。やがて、古墳が造られなくなったり、火葬が広まってきたこともあって、8世紀初め頃には作られなくなりました。

    中国地方
    こうもり塚古墳(前方後円墳、岡山県総社市)


    陶棺の古墳 [ 計:20 表示:1 - 20 ]
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    今岡古墳(香川)
    カキ谷B古墳群(岡山)
    唐臼墳墓群(岡山)
    小丸山古墳(岡山)
    迫田火の釜古墳(岡山)
    寒風古墳(岡山)
    さんご古墳群(岡山)
    下仲尾古墳群(岡山)
    下村1号墳(岡山)
    銭亀古墳(岡山)
    大明神古墳(岡山)
    西の岡古墳群(岡山)
    久本古墳(香川)
    火の釜古墳(美咲町)(岡山)
    法明寺(火の釜)古墳(岡山)
    丸尾古墳(兵庫)
    万燈山古墳(岡山)
    水原古墳(岡山)
    三宅開坂古墳(岡山)
    向古墳群(岡山)
  • 淡路島

    淡路島最大の横穴式石室墳である西山北古墳(南淡町賀集八幡北)の写真や南淡路の土器編年の基準資料となる三原町榎列上・下幡多にある幡多遺跡から出土した弥生時代中期から古墳時代初め頃の遺物や三原高校に保管されている淡路島で唯一の陶棺(三原町八木徳野)などを展示していました
  • 横穴式石室に陶棺が納められた 古墳は、奈良市内では初めてで、奈良県内でも4 例 目です。奈良市内で出土 した陶棺は、製作技術が埴輪 と似ています。また、秋篠 ・菅原 といった 埴輪製作に携 わった土師氏 との関わ りが深い地域 で出土 していることか ら、陶棺の被葬者が土師氏と関連 す る可能性 があ ります。
    赤 田横 穴墓群のす ぐ近 くで見つかった赤 田1号
    墳は、単純に考 えれば横穴墓 と地縁的関係があ り、 単独 に築かれた古墳であることか ら、横穴墓の被
    葬者 より格上であることが推測できます。しかし、 副葬品の内容や陶棺の大 きさは横穴墓 と変わ りあ りません。赤 ・緑色に塗り分けられた陶棺も赤田 横穴墓群の3号 墓か ら出土 してお り、地位の高低
    を示す もので はな さそ うです。
    興味深 いのは、奈良市のす ぐ北 に位置す る南山
    城地域では、陶棺 が横穴式石室に納め られ る例が 多 く、横穴墓はほぼ皆無であるとい う傾 向を示 し ます。 この よ うに、地域 に よって埋葬 施設 と陶棺 の採用 に差異が認 め られ ることは、赤 田1号 墳の 性格を理解する上で重要だ と考えます。つま り、 横穴墓 と古墳 とい う違いが単純な地位の違いには
    な り得ない可能性 を示 しているのです。
  • 九州から東の地域では、5世紀代の古墳の埋葬施設は縦穴系が一般的であるが、画一的なものでなく様々な埋葬法が各地で行われていた。このような中でも極限られて地域では横穴式石室が採用され始めていた。例えば、岡山市千足古墳、大阪府堺市塔塚古墳(方墳)、藤井寺市藤の森古墳、奈良県葛城市平岡西方古墳群所在古墳、和歌山県橋本市陵山古墳、同県和歌山市岩橋千塚古墳群の大谷22号墳、同花山6号墳、奈良県椿井富山古墳(円墳か)、福井県三方上中郡若狭町向山1号墳、三重県志摩市おじょか古墳、愛知県西尾市穴観音古墳などに極限られている。
    6世紀になってからは横穴式石室が全国各地にひろがった。朝鮮半島で一般化されつつあった横穴石室が日本の各地にひろがるには約1世紀近くの時間がかかった。
    646年(大化2)薄葬令が公布された。
  • 美作国は和銅六年(713)、備前守だった百済王南典と同じく備前介・上毛野朝臣堅身(かみつけぬ・あそん・かたみ)の上申によって新設された国。現在の岡山県津山市あたりである。
    初代国守には上毛野堅身が就任した。

    東国、群馬周辺をを出自とした毛野(けぬ)氏出身の堅身が陸奥守からこの地に新しい国を造営する主たる人物だったと見られている。(熊倉浩靖2008)

    美作国の前身は『日本書紀』欽明16年(555)に置かれた白猪屯倉だろうとされる。この屯倉は鉄生産に大きくかかわる特殊な屯倉であったと考えられている。備前北部から美作の周辺では「鉄屎(かなくそ=鉄滓)」がいくつも発見されている。おそらく5~6世紀にここで確実に製鉄があった例証である。ゆえに白猪屯倉もこのあたりにあった可能性が高い。

    6世紀から7世紀になると美作地方にはにわかに半島や九州に多く、やがて大和、全国へと広がった横穴式石室を持つ古墳が増え始める。そしてその石室からはよそにはない不思議な棺が出てくる。陶器でできた棺桶・・・。土師質の陶器でできたこれらの陶棺は美作にのみ集中し、その出現は爆発的数である。
  • 赤塚古墳赤塚古墳(宇佐市) 全長57.5メートルの前方後円墳で、3世紀末に築造された九州最古の前方後円墳であるとされます。大正10年(1921年)の 発掘で、副葬品として三角縁神獣鏡4面・三角縁龍虎鏡1面・碧玉管玉、鉄刀片、鉄斧などが出土している。銅鏡は、椿井 大塚山古墳(京都府)、石塚山古墳(福岡県)、原口古墳(同)出土のものと同笵鏡であるとされており、初期のヤマト 王権が各地の首長に与えたものであると考えられてます。
  • 萩原墳墓群

    鳴門市の大麻山南麓に位置し、1〜4号の4基からなる墳丘墓群で、かつては最初期の古墳の可能性から「-号墳」の呼称が用いられたこともあったが、その後の調査によって弥生時代終末期の3世紀前葉に築造されたと推定されているため、「-号墓」の呼称に修正されている。周辺には天河別神社古墳群や宝幢寺古墳群などの古墳が点在している。

    主体部(埋葬施設)の構造などから現在では日本最古の前方後円墳とされるホケノ山古墳の原型との説がある。

    1号墓

    弥生時代終末期頃のものとされており、墳丘の径は約18メートル、北側の突出部を含めての全長は約27メートルの積石墓で、主体部は発掘当初竪穴式石室とされていたが、現在では石囲木槨であったと考えられている。1979年(昭和54年)から翌1980年にかけて徳島県道12号鳴門池田線の建設に伴い発掘調査されたが、その後滅失した。突出部を持つその形状から日本最古の前方後円墳、あるいはそのルーツという説があった。
    本体周辺から小型の竪穴式石室や箱式石棺墓とされる遺構が複数見つかっており、一部は近隣の宝幢寺境内に移設された。

    画文帯神獣鏡、弥生土器が出土
    1号墓の出土品は徳島県立埋蔵文化財総合センターで常設展示されている。

    2号墓

    1号墓の北側で同じ尾根に位置する積石墓。2004年(平成16年)および2005年に測量やトレンチ調査が行なわれた際に基底石や外側の列石が確認され、おおよその規模や形状が確認されている。墳丘は径約20メートルのほぼ円形で南側に約5メートルの突出部が延びる形状を持ち、積石の高さは最大で1メートル。1号墓より築造時期が古い国内最古の積石墓とされている。

    円筒埴輪片、弥生式土器片が出土
  • July 2017 編集されました
    画紋帯神獣鏡

    椿井ヤマシロ王、黒塚ヤマト王、石塚山伊都国王、西求塚播磨王、備前車塚吉備王
    山背、大和、播磨、吉備、伊都国を結ぶ氏族は???

    安曇、吉備氏?? 交易の民

    古墳成立の前史をたどると、すでに弥生時代から畿内と阿波の間には、密接な関係がうかがえる。弥生後期(1~2世紀)に畿内地域で製作された巨大な銅鐸は、1992年に矢野遺跡(徳島市国府町)で発見された著名な「矢野銅鐸」をはじめ、阿波での出土例がことのほか多い。
    弥生終末期(3世紀前葉)になると、銅鐸にかわって画文帯神獣鏡や浮彫式獣帯鏡と呼ばれる中国製の神獣鏡が、日本列島の有力者の間で重視され始めた。出土分布から判断すれば、それらの大陸からの入手や列島内での流通に影響力を持ったのは畿内勢力、とりわけ大和盆地の豪族であったとみるのが妥当だ。
     阿波では萩原一号墓(鳴門市大麻町)の画文帯神獣鏡、西山谷二号墳(同)の浮彫式獣帯鏡など、この種の神獣鏡が計六面も出土しており、銅鐸に引き続いて畿内地域との強い結びつきをうかがわせる。三世紀前葉はいわゆる邪馬台国の時代。

    古墳の石材に話を戻すと、畿内地域では調査が進むにつれて、阿波の結晶片岩を石室や葺石に用いた前期古墳の事例が増加してきた。大阪府の闘鶏山古墳、将軍山古墳、鍋塚古墳、牧野車塚古墳、神戸市の西求女塚古墳などが典型例だ。そして、そうした結晶片岩を使う事例が、畿内北部の淀川流域から瀬戸内北岸にかけての一帯に多い傾向もより明瞭になってきた。
  • July 2017 編集されました
    楽浪鏡 に も紋 様,銘 文が同一 の鏡 がある。
    伝楽浪 出土 と伝 え る画紋帯 同向式神獣鏡 と徳 島県萩原墳丘墓 出土鏡は紋様,銘 文 の ほか に自然 にできた笵傷 の位置 まで同 じ だった。大阪府弁天山B-1号 墳出土鏡も楽浪郡出土方 格規矩鏡と一致する。

    わが国で発見された紋様,銘 文を同一にする鏡は古墳出土鏡 に限 らな い。福岡県糸 島郡 には王墓 が集 中 してい る。弥生時 代終末期 の王墓,平 原墳丘墓発 見の方格規矩
    鏡は4種12面 に紋様,銘 文が一致する。弥生時代後期の 王墓 は井原 鑓溝遺跡 にあった。発見 された甕棺 に は多数 の方格規矩 鏡が副葬 され ていた。現物 は失 われ,鏡 の拓
    本 のみ残 されて いる。外区紋様 を細 か く観 察す ると,紋 様 と構成 が一致す る破片 を含 む。弥生 時代 中期後半 の王 墓は三雲南小路遺跡甕棺墓が知られる。1号 甕棺墓から 発見 された異体字銘帯鏡 は福 岡県立岩遺跡35号 甕棺 墓発 見鏡片と一致,そ の上,1号 甕棺墓から発見された他の 異体字銘帯鏡にも紋様,銘 文が同一の鏡が伝わる。

    三雲例 の よ うに北部九州 で王墓 が萌芽す る弥生時代中期後半,は じめて舶載鏡 が副葬 され る時期 か らわが国 に は紋様,銘 文が一致する鏡が存在している
  • 2、3世紀の銅鏡と墓からみた四国北部と近畿内陸部の共通性


    3世紀中葉から後半の土器に共伴する日本列島内の銅鏡は、大きく2種類に分かれる。
    一つは後漢式鏡(内行花文鏡、方格規矩鏡など)であり、他は神獣鏡である。

    後漢式鏡は弥生後期以来、北部九州で多用されている鏡であり、神獣鏡は3世紀に多用される新式鏡で、ヒミコの新興宗教である「鬼道」を象徴する銅鏡にふさわしい。

    3世紀後半までに使用され、副葬された神獣鏡は20例未満で、その分布は四国北部(伊予・阿波・讃岐)と近畿内陸部(大和・山城・近江)に集中し、一部が九州北部(筑紫・豊前)と関東南部(上総)に限られる(表)。

    3世紀中葉の後漢式鏡と神獣鏡の対比 邪馬台国が北部九州にあったとすれば、そこで使用されていた銅鏡は、前原市平原方形墓の40面に象徴される後漢式鏡である。それに対し、四国北部と近畿内陸部では神獣鏡が中心となっており、邪馬台国にふさわしい。

    その上、2世紀末の突出部をもつ円丘墓は、阿波萩原1号墓や播磨・西条52号墓にあり、3世紀初頭の大和・纒向石塚古墳につながる。さらに、前二者は「石囲い木榔」という新しい埋葬施設を採用しており、3世紀中葉の大和・ホケノ山古墳の葬法に影響を与えている。

  • 雪野山古墳(東近江市)は湖東南部のどの位置からもでも見える、標高309mの雪野山の上に築かれた特徴ある古墳である。バチ形に開く、3世紀末から4世紀初頭の竪穴式石室を持つ全長約70mの前方後円墳である。石室内部からは三角縁神獣鏡3面と内行花文鏡含む銅鏡5面や小札革綴冑、琴柱型石製品、刀剣、鏃等の武具・武器など貴重な遺物が数多く出土している。しかも埋葬施設(上記写真)は竪穴式石室という大和政権が作り出した一場格式の高い埋葬施設の構造を滋賀県で一番先に採用し、その豊富な副葬品も手に入れていた破格の盟主である。

    ここで登場する三角縁神獣鏡について、この地域で面白い面がある。かつて狗奴国・前方後方墳の影響の強い地域避けて、それを取り囲む勢力にヤマト政権から13面の三角縁神獣鏡が配布されている点である。その代表がこの琵琶湖の地に最初に登場した大型前方後円墳の雪野山古墳であり、そしてその盟主は三角縁神獣鏡を威容高々とかざす新興勢力の武人の姿でもあるのだ。
  • 古墳
     宝賀寿男の「甲斐国造の系譜と一族」(以下「宝賀論文」という)によれば、甲斐銚子塚古墳が含まれる中道古墳群については、以下のとおりである。
    「甲斐国は「和名抄」に四つの郡(山梨、八代、巨摩、都留)があげられ、中央部の甲府盆地を占めるのが北部の山梨郡、南部の八代郡であ」るが、「最初に栄えたのが八代郡」である。
    「甲府市南部の旧・中道町には、古墳時代前期の当時、東日本最大級とされる甲斐銚子塚古墳(中道銚子塚)が築造された」が、「その時期は四世紀後半頃とみられて」いる。
    「中道町あたりにはほかにも前期古墳が多く見られ」、「この地域を上古の甲斐の中心域とみる」
     
     甲斐銚子塚古墳の「の南西方の米倉山中腹には、県内唯一の前方後方墳の小平沢古墳(全長四五M)があって、斜縁神獣鏡やS字状口縁付台(S字甕)を出し」、「近くには鏡三面ほどや鉄鏃・鉄斧・竪矧板革綴短甲等を出土した大丸山古墳(全長が九九M、ないし一二〇M)もあって、出土の三角縁神獣鏡は岐阜市坂尻一号墳や静岡県磐田市の寺谷銚子塚古墳と同范鏡関係にあ」り、「坂本美夫氏は、小平沢・大丸山が甲斐初現の古墳で、四世紀後半とみた」
    「橋本博文氏は小平沢古墳を大丸山に先行するものと位置づけ、上の平遺跡(曽根丘陵公園の南側一帯に広がる遺跡で方形周溝墓群もある)の勢力基盤の上に立つ東海地方西部からの入植者集団の首長墓と位置づけた」
     
     これらの「前期大古墳の築造順については、大丸山→銚子塚→天神山という見方が多」い。、
     宝賀論文の指摘から、甲斐銚子塚古墳を含む中道古墳群は、S字状口縁付台(S字甕)の出土から、東海地方西部からの入植者集団によって築造されたものであると考えられる。
     
     
  • 桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳

    双方とも、写真の通り、柄鏡形の墳形を持ち、大王墓とは異なるとも云われているが。
    柄鏡式前方後円墳は、前方後円墳の形が定まる以前の古墳時代前期に造られたもの

    古墳時代前期に築造され、前方部が細長く、高さが低くかつ幅が狭い特徴を持つ、九州日向独特の築造形式の前方後円墳で、日向地方以外では、茶臼山やメスリ山古墳など景行天皇の巡幸経路に存在するのみで、全国的には極めて少ない。

    茶臼山・メスリ山古墳双方とも大王墓から除外する研究者がいる,
    その理由として、両古墳の前方部が撥形でなく柄鏡形であること、周濠を巡らさないこと、古墳群を構成しないで独立していること、などを上げている。
  • October 2018 編集されました
    香川県高松市の稲荷山北端1号墳は真ん中の円丘に南側と北側それぞれに四角い墳丘が接続する「双方中円墳」で、「異形」ともいうべき極めて珍しい墳形が昨年秋に確認された。しかも3世紀後半という古い時期に土ではなく石を積んで築いた「積石塚」。高松市は詳細な調査を7月から再開し、国の史跡指定を目指す。

    双方中円墳は全国でわずか4基。うち3基が石清尾山古墳群にある。猫塚(墳長96メートル)、鏡塚(同70メートル)と今回の稲荷山北端1号墳だ.
    双方中円墳で残る1基は奈良県天理市の櫛山(くしやま)古墳でほぼ同じ時期に造営された。ただ、櫛山古墳は猫塚や鏡塚と形状が大きく異なる。猫塚と鏡塚は円丘に対しほぼ同じ大きさの形をした方丘が2方向に翼を広げたように接続するが、櫛山古墳は前方後円部にもう一つの短い突出部を付けただけのような形をしている。

    弥生時代の墳丘墓である岡山県倉敷市の楯築遺跡も双方中円墳の形状をしている。距離的な近さもあって、何らかの影響があったのではないか、との見方がある。

     これについても「約1世紀隔てているとはいえ、関係があるなら吉備地方特有の特種器台や搬入土器など遺物や状況に関連する何かが残っているはずだが、連続性をうかがわせるものはほとんどない」と大久保教授は否定的だ。
  • October 2018 編集されました
    櫛山古墳は、猫塚のように、二つの方形突出部がほぼ均等な大きさでなく、むしろ普通の前方後円部にもう一つの短い突出部を付けたような形状に変形している。周濠を持っていない。しかし、周囲に周濠の区画が残り水田となっており、当初の姿を残しているといえる。周濠の範囲は東西190メートル、南北165メートルあって、前方部側面での周濠幅は約56メートルあまりである。

    墳丘長152メートル、中円部直径約90メートル、前方部の長さおよび幅とも60メートル、後方部の長さ25メートル。中円部の西側に前方部、東側に後方部を備えた双方中円墳である。 前方部と中円部の頂上は平坦で、3~4センチの白い小石が埋葬施設周辺に敷き詰められていたとおもわれる。 段築は中円部・後方部3段と前方部2段に築かれている。30センチぐらいの大きさの板状の葺き石が墳丘全体に葺かれていたと見られている。

    中円部はほぼ正円形、前方部は正方形で前面の広がりや正面の弧状がない。 後方部は短く、わずかに開いている。排水施設を備えていて、長さ5メートル、幅3.4メートルの土壙も検出されている。

    櫛山古墳は、柳本古墳群の一つで、行燈山古墳の後円部に石畳の残る山辺の道を隔て接していて、より山側の高い位置にある。双方中円墳という特異な墳形をしている。この特異な墳形をもつ古墳としては、他に岡山県の楯築遺跡や香川県高松市の石清尾山(いわせおやま)古墳群の猫塚古墳がある。櫛山古墳や猫塚は、古墳前期でもその後半に属する古墳で、楯築弥生墳丘墓よりも100年ほど後に築造された
  • October 2018 編集されました
    双方中円墳の古墳

    櫛山古墳(奈良県天理市、位置)
    石清尾山古墳群(香川県高松市)の3基
    猫塚古墳(位置) - 積石塚。
    鏡塚古墳(位置) - 積石塚。
    稲荷山北端1号墳(位置) - 積石塚。かつては前方後円墳と推測されたが、2015年の発掘調査で双方中円墳に訂正された
    楯築墳丘墓(岡山県倉敷市、位置) - 弥生時代の双方中円形墳丘墓。

    弧帯文石(弧帯石)

    墳丘上には大正時代の初め頃まであった楯築神社に、代々伝世し、ご神体として神石(亀石)と呼ばれる全表面に毛糸の束をねじったような弧帯文様が刻まれた石が安置されていたが、現在はこの遺跡のそばの収蔵庫に祀られている。こちらは「伝世弧帯文石」と呼ばれる。 この弧帯文は、纏向遺跡の弧文円板と葬送儀礼で共通するといわれている。ここにも吉備津神社や鬼ノ城などのように温羅伝説が残っており、吉備津彦命が温羅との戦いに備えて石楯を築き、防戦準備をしたと伝わっている。
  • 石清尾山 猫塚古墳 出土品、銅鏡など


    三角縁三神三獣鏡 1面 香川県高松市 石清尾山猫塚古墳出土 古墳時代・4世紀 香川県寄贈 J-6181
    内行花文鏡 1面 香川県高松市 石清尾山猫塚古墳出土 古墳時代・3~4世紀(中国製・前1~1世紀) 香川県寄贈 J-6184
    内行花文鏡 1面 香川県高松市 石清尾山猫塚古墳出土 古墳時代・3~4世紀(中国製・前1~1世紀) 香川県寄贈 J-6187
    一仙一禽四獣鏡 1面 香川県高松市 石清尾山猫塚古墳出土 古墳時代・3~4世紀 香川県寄贈 J-6183
    斜縁四獣鏡 1面 香川県高松市 石清尾山猫塚古墳出土 古墳時代・3~4世紀 香川県寄贈 J-6182
    筒形銅器 3個 香川県高松市 石清尾山猫塚古墳出土 古墳時代・3~4世紀 香川県寄贈 J-6186
    銅槍先 5本 香川県高松市 石清尾山猫塚古墳出土 古墳時代・3~4世紀 香川県寄贈 J-6188
    銅鏃 8本 香川県高松市 石清尾山猫塚古墳出土 古墳時代・3~4世紀 香川県寄贈 J-6191
    鉄鏃 1本 香川県高松市 石清尾山猫塚古墳出土 古墳時代・3~4世紀 香川県寄贈 J-6192
    石釧 1個 香川県高松市 石清尾山猫塚古墳出土 古墳時代・3~4世紀 香川県寄贈 J-6185
  • October 2018 編集されました
     「猫塚古墳」(高松市鶴市町ほか)

    尾根筋の南西部の頂点(標高200m/比高180m)にあり、墳長96m/中円径44m/双方長24.5m&27.5mを測る双方中円墳。主軸は北東―南西方位にあり、石清尾山古墳群において最長。南東と北西の両側から眼下に高松平野を望む(写真)。
     外表部から、円筒埴輪、土師器片、事前穿孔された広口壺片を採集した。広瀬 覚氏(奈良文化財研究所)によると「箸墓古墳では後円部頂では器台形の、前方部頂では壺形の祖形埴輪が見つかる」「壺と器台は畿内において同時に埴輪化した」という(2015.10.17の高松市における講演)。つまり箸墓と近い時期に築造された古墳との想定が可能になる。
    埋葬部は、中円径の墳頂に大型の竪穴式石槨が東西方位にあり、両側に小型の石槨が並行した。これらを含め5~9基の石槨があったとされるが、大盗掘に遭って積石が著しく攪乱されて確認できない。
     出土品は、碧玉製石釧1、鉄剣4、鉄刀1、柳葉鉄鏃4、柳葉銅鏃8、銅剣17、筒形銅器3、斧1、鑿2のほか、舶載鏡4・仿製鏡1が刑罰を恐れた盗掘者によって、中央の大型石槨からの出土品として提出された。この5面の作製時期が大きくかけ離れることが、議論の的になる。
     森下章司氏(大手前大学)による高松市の講演(2015.8.22)によると、5面の鏡の概要は次のとおり。
    ・ 内行花文精白鏡(径16.7cm)―紀元前1世紀(前漢)の鏡で、漆黒の錆がついており、積石塚のため土に接していなかったことを示す。北九州・飯塚市の立岩・堀田甕棺遺跡(弥生中期後半)出土のものと同型で鋳上がりも良好。
    ・ 蝙蝠座紐内行花文鏡(径14.0cm)―紀元後2世紀(後漢)の鏡で、土に接した1/4を除いて漆黒の錆がある。
    ・ 一仙獣帯鏡(径12.8cm)―2世紀後半(後漢)の鏡で、土に接した1/2を除いて漆黒の錆がある。朝鮮半島の楽浪郡および瀬戸内沿岸から集中して出る徐州系の鏡である。
    ・ 四獣鏡(径14.0cm)―2世紀後半(後漢)の鏡で漆黒の錆がある。楽浪郡と瀬戸内沿岸から集中して出る鏡で、津田古墳群の岩崎山4号墳からも出た。
    ・ 三神三獣獣帯鏡(径22.3cm)―4世紀代における倭製と見られ、鋳上がりが悪い。土に接していたようで、粉の錆がある。出土した筒形銅器と同じ年代のもの。

     森下章司氏は「これらは古墳時代Ⅰ~Ⅱ期の石槨とⅣ期の石槨から出たものとに仕分けできる」とし、異なる石槨からの出土品が混じったと想定する。「いずれも各時代の優品である。墳形の古さからも猫塚の3世紀末~4世紀初とされる築造時期を、さらに遡らせる可能性もありうる」という。
     広瀬 覚氏は「徐州系の内行花文鏡、および上方乍系獣帯鏡と斜縁四獣鏡(漢鏡6・7期)は、帯方郡経由で得た可能性が高い」「当時の石清尾山の勢力が魏への通航などに従事した可能性がある」と述べる。

  • 今治市
    今治平野北部には相の谷古墳群があります。出現期は相の谷9号墓です。
    墳形はよくわかりませんが、方墳の可能性が強く、墳丘には複数の土壙墓があります。築造時期は弥生時代終末期頃になります。 次の相の谷1号墳は前方後円墳で愛媛県最大規模になります。全長80.78m、後円部径50.28m、前方部幅44mで、墳丘は2段築成で、地山整形によって構築しています。埴輪は1段目、2段目の平坦部に円筒埴輪、壺形埴輪を樹立していました。埋葬施設は後円部頂部に長さ7.1mの竪穴式石室が墳丘の主軸上で検出されています。石室内からは土師器片、銅鏡2、鉄剣、鉄刀、板状鉄斧1、袋状鉄斧2、ノミ、ヤリガンナが出土しています。 相の谷1号墳の後に相の谷2号墳が築造されました。古墳時代前期後半です。そして、古墳時代中期になると前方後円墳は築造されなくなります。


    頓田川沿いの丘陵上に見られる唐子台墳墓群は弥生時代終末期から古墳時代前期後半にかけて展開します。
    出現期は不定形な墳丘に木棺墓と土器棺墓が複数見られ特定家族墓が考えられます。
    古墳時代前期になると雉之尾1号墳、治平谷7号墳、唐子台第16丘が造営され、特定個人墓になります。
    続く国分古墳は墳形が前方後円墳になり、舶載鏡2面が副葬されます。
    その後は、円筒埴輪・朝顔形埴輪の見られる久保山古墳が造営され、これが唐子台古墳群最後の前方後円墳になります。
  • 相の谷1号墳(相の谷前方後円墳)は、丘陵頂上に位置する古墳群の主墳。形状は前方後円墳。

    墳丘は2段築成[1]。墳丘長は82メートルを測るが、これは愛媛県では最大規模になる[1]。墳丘表面では葺石のほか、円筒埴輪片・朝顔形埴輪片、山杯・鼎脚が検出されている[1]。主体部の埋葬施設は竪穴式石室で、内部に木棺が据えられたと見られる[1]。石室は墳丘主軸に平行し[2]、規模は長さ7.1メートル・幅1.08メートルで、輝石安山岩の板石の小口積みによる[1]。ただし、調査時点ではすでに天井石は失われ、側壁も崩れた状態であった[1]。この石室内部からは、銅鏡2(小形三角縁二禽二獣鏡1・変形神獣鏡1)・鉄剣4・鉄直刀3・刀子4・鉄斧2・鉇2等が出土している

    この1号墳は古墳時代中期の4世紀末頃の築造と推定される

    古墳の規模は次の通り
    墳丘長:82メートル
    後円部
    直径:50.28メートル
    高さ:10.53メートル
  • 阿波の弥生墳丘墓
      鳴門市 萩原墳墓群   積石墓
      三好町 足代東原遺跡  円形積石墓から前方後円形の積石墓へ発展

     阿波の弥生墳丘墓(萩原墳墓群)の中には、円丘部から突出部が出ているものがあり、前方後円墳へ変わる途中とも見ることができます。画紋帯神獣鏡が出土、同范鏡が北朝鮮大同江でも出土。
      
     国内で積石墓の多い地域

    長崎県対馬 山口県児島 愛媛県津島町高田 香川県石清尾山塊 徳島県吉野川流域 和歌山県 長野県 山梨県

     徳島県埋蔵文化財調査室  北條芳隆助教授の講義録から
     讃岐型前方後円墳
     前方後円墳の祖形・原形は鳴門市萩原にあった萩原噴丘墓である。
     中山大塚古墳(奈良県)の発掘により、前方後円墳の円噴の祖形が阿波の積石塚にあることを確信した。古墳の上に敷かれる葺き石は、積み石塚のなごりである。資料の実体を重視する見方の必要性を講義された。「徳島」に身を置かなければ気づかない事実。

     阿波の古墳を調べていますと、神社境内や神社が側に鎮座していることが目立つ気がします。神社発生の要素として、祖霊を祭ることがあり、それが古墳ということなのでしょう。

     阿波の古墳は積石塚・木槨が特徴、阿波と大和の古墳時期比較。
     西暦   阿波       大和
     200
         萩原2号墓    纏向石塚
     250 天河別1号墳
         西山谷2号墳   
         萩原1号墓    ホケノ山古墳(萩原2号墓と類似)阿波忌部氏が被葬者か?
                  箸墓
  • 牛窓天神山古墳

    墳形・出土埴輪より古墳時代の4世紀中葉-後半頃の築造と推定される。牛窓湾の前方後円墳5基のうちで最初の築造に位置づけられ、他の前方後円墳4基とともに当時の牛窓湾の港湾としての政治的重要性を示す古墳になる。特に本古墳眼下の前島との間の海は「唐琴の瀬戸」・「牛窓瀬戸」と称される航路であるため、牛窓最古の前方後円墳としての築造背景が示唆される

    墳丘長80メートル代という規模は、吉井川東岸南部地域では最高首長層に位置づけられる。

    また、竪穴式石室の石材と推定される後円部墳頂の板状割石は香川県の屋島産とされ、一宮天神山古墳と共通する[7]。ただし浦間茶臼山古墳・網浜茶臼山古墳など吉備の主な前期古墳は香川県の豊島産の石材を使用しており、それら産出地の相違が注意される
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