三世紀の古墳

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  • 円満寺山古墳は伊勢湾岸沿いの道を見下ろす地に築かれている。
    南濃(海津市)の円満寺山古墳と赤坂グループの花岡山古墳は、4世紀中頃に築かれた前方後円墳である。赤坂グループでは、5世紀はじめに巨大前方後円墳・昼飯大塚山古墳が築かれる。矢道長塚古墳は、昼飯大塚山古墳の一代前の首長墓、遊塚古墳、粉糠山古墳、八幡山古墳は5世紀の前半に、昼飯大塚山古墳につづいて築造される。

    象鼻山古墳群の象鼻山1号墳は、3世紀後半から4世紀はじめに築かれた美濃最古の古墳の一つで、前方後方墳である。
  • June 2016 編集されました
    吉島古墳 日本最古級
    兵庫県たつの市新宮町宮内
    新宮町吉島の丘陵尾根に所在する前方後円墳で、墳丘の全長は約30mである。
    明治時代に竪穴(たてあな)式石室が発見され、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)など6面の鏡、ガラス玉、鉄刀片、土器などが知られている。鏡はすべて中国製と考えられ、時期は3世紀半ば、日本最古級の古墳として著名である。
  • 神郷亀塚古墳 東近江の日本最古級の前方後方墳

    神郷亀塚古墳(じんごうかめづかこふん)は、滋賀県東近江市にある古墳。滋賀県指定史跡。日本最古級の前方後方墳で、全長36.5m(前方14.5m、後方22m)、高さは約5.3mであったと推定される(現在は3.8m)。

    かつては前方後円墳と考えられていたが、2000年12月に行われた第2次調査によって前方後方墳であることが判明し、その後、それまで35.5mとされていた全長も更に1m長いことが分かっている。
  • June 2016 編集されました
    滋賀県三上山、野洲の古墳
    300年間、同一地域に営々と築かれ続けた首長墓17基
    大山古墳群の分布図
    この付近に存在した弥生時代の村落を統合して一大地方豪族に成長した一族があった。その一族の首長たちは、三上山の山並みの北方に続く大岩山の山麓から野洲町の五之里(このり)・富波(とば)周辺の平地にかけて、連続して大規模な古墳を作り続けた。それが大岩山古墳群である。

    現在までに確認されている古墳の数は17基に達する。そのうち、円山古墳、甲山古墳、古冨波山(ことばやま)古墳など8つの古墳が、国の史跡に指定されている。8基以外の古墳は大半が消滅し、詳しい内容はわからない。

    一番古いとされる富波古墳は築造時期が3世紀までさかのぼる可能性があるという。一番新しい宮山2号墳は6世紀後半の築造とされている。と言うことは、古墳前期から後期まで300年にわたって、同一地域に途切れることなく首長墓の系譜を引く古墳が築かれたことになる。こうした古墳群は滋賀県でも他に例がない。

    大岩山古墳群がある滋賀県野洲町小篠原の大岩山の中腹から、明治14年(1881)に14個の銅鐸が発見された。昭和37年(1962)には、東海道新幹線建設のための土取り工事がその出土地付近で行われ、工事現場から新たに10個の銅鐸が出土した。3個ずつ3組入れ子になっていたものが一括して出土し、さらに後日、少し離れた場所からもう一個出土した。こうして大岩山中腹は、細かく見れば3地点に合計24個の銅鐸が埋納されていたことが明らかになり、全国有数の銅鐸出土地となった。
    三上神社
    滋賀県野洲市三
    主祭神 天之御影命
    神体 三上山(神体山)
    社格等 式内社(名神大)
    旧官幣中社
    別表神社
    創建 (伝)第7代孝霊天皇年間
  • June 2016 編集されました
    神武天皇の孫世代にあたる三上祝家の①川枯彦・川枯姫、次の世代の②坂戸彦・坂戸由良都姫、その次の世代の③国忍富・新河小楯姫という三代が引き続いて、物部氏の「①大祢-②出石心-③内色許男」の三代に各々世代対応し、いずれも三上祝家の姫が物部(穂積)氏の男に嫁いで、物部氏の次世代の長を生んでいます。具体的には、川枯姫が大祢命に嫁して出石心・大矢口根を生み、新河小楯姫が出石心に嫁して内色許男・内色許売を生み、坂戸由良都姫が内色許男に嫁して大水口宿祢を生んだと記されます。

    額田部連の系譜は、『姓氏録』等の記事からは具体的に明確ではありませんが、鈴木真年関係の系図史料から、「坂戸毘古命-国忍富命-筑箪命-忍凝見命-建許呂命-筑波使主命-久等宿祢-美呂浪宿祢」という系譜であったことが知られます(詳細は『古代氏族系譜集成』参照のこと)。
     このうち、建許呂命は倭建命の陸奥遠征に従軍し、甲斐で「東国造」に任じられたと伝える者で、『常陸国風土記』にも見えます。同書には、筑波使主命がその後継とあり、「国造本紀」には茨城国造条に「筑紫刀祢」として応神朝に同国造に定められたと見えます。
     久等宿祢は『播磨国風土記』揖保郡広山里条に品太天皇(応神)に額田部連久等を派遣したと記されており、美呂浪宿祢が『姓氏録』左京神別の額田部湯坐連条の記事に允恭天皇御世に薩摩に隼人平定のため派遣され御馬一匹を献上したと見える者(欠名)に当たることは、「東国諸国造系図」(中田憲信編『諸系譜』第1冊所収)に見えます。同系図には、筑波使主命の兄弟で須恵国造の祖・大布日意弥命の子孫にも、額田部が出たとされます。

     要は、坂戸毘古は額田部連・額田部の祖先であり、「額田部」とは製鉄・鍛冶職掌部族であって、天孫族が管掌したものであって、坂戸毘古が額田毘道男という別称をもっていたことも肯けます。上記の名前に見える「凝、許呂」は、鉄塊の意味です。
  • <越後のⅠ・Ⅱ期古墳>
    越後における、古墳編年Ⅰ・Ⅱ期古墳は、次の3つのみ。
    (「前方後円墳集成」東北関東編 1994年山川出版社)

    区分   信濃川左岸    信濃川右岸
    Ⅰ期   稲場塚古墳      -
          (弥彦村山岸)
    Ⅱ期   山谷古墳      三王山4号墳
          (西蒲区福井)  (三条市上保内)
    (参考)
    Ⅲ期   菖蒲塚古墳
         (西蒲区竹野町) 
  • 式内社 能登國羽咋郡 瀬戸比古神社

    御祭神 素都乃奈美留命
    能登半島の志賀町にある。
    境内入口に神門があり、その後ろに鳥居。そこから階段を上ると境内がある。境内の正面中央に社殿。後方に本殿。
    拝殿の額には『鬼門太社 瀬戸比古神社』と記されている。

    社伝によると、崇神天皇の御宇の創立。高志国造であった素都乃奈美留命を祀る神社。

    また、養老2年、能登国を設置するにあたり、山上に巣くう魑魅退治を祈ったとも。

    白山宮・白山権現とも称されていた神社。明治の神社明細帳に、『鬼門除神社』とも記されている。

    素都乃奈美留命。一説には、主祭神は速秋津比古命で、素都乃奈美留命を配祀。式内・瀬戸比古神社の論社であるから、祭神は素直に瀬戸比古神だと思うが。
    「素都(すつ)」と「瀬戸(せと)」は同じ言葉なのだろうか。
  • 瀬戸比古神社社誌碑

    祭神 素都乃奈美留の命
    由緒 当社は崇神天皇の御代の創建とされ、 延喜式内社と傳える。往昔は観音堂、 白山権現とも稱され、直海保二十箇村 の惣鎮守であった。
    歴代武将の崇敬も篤く、天文四年(一五三五年) に当地の領主国沢六郎兵衛徳長が社殿 の造立を行なった。寛永六年(一六二九年) には藩老村井飛騨守長家が社殿の修理 と社地境内に保護を加えている。
    盛時は社家、社僧、巫女百五十余名に 及んだと言うがその多くは退轉した。 社職は祭神の後裔素都氏が累代奉仕し て今日に至っている。
    明治六年(一八七三年)直海白山神社と改 稱したが明治三十五年(一九〇二年)瀬戸 比古神社の旧社号に復した。御神徳は 古今に輝き、今に近在の氏子崇敬者か ら深い信仰が寄せられている。
  • 越前 若狭
    最古の前方後円墳は、撥形前方部をもつ安保山二号墳(福井市、墳丘長約三四メートル、写真29)、今北山古墳(鯖江市、約七六メートル)、長泉寺山古墳(鯖江市、約五二メートル)などがある。発掘調査されているのは安保山二号墳のみであり、盗掘されていたものの後円部の墓壙に箱形木棺が埋置され、棺内より鉄剣二が検出されている。なお、地元では銅鏡の出土を伝えるが明らかではない。墳丘のまわりには、六基の方形周溝墓が所在し、地域首長とその関係する有力家長との親しい間柄が推測できる。築造時期は、溝内より検出された土器より四世紀初頭ごろと考えられる。一方、最古の前方後方墳は発掘調査例がなく明らかではないが、撥形前方部をもつ明神山一号墳(敦賀市、約四八メートル)があげられる。角礫の葺石をもち、後方部は二段築成である。後方部に竪穴式石室を有する。尾根先端部に立地し、古墳からは敦賀湾が一望に見渡せ、被葬者は海と関係が深い地域首長と考えられる。
     若狭での最古の前方後円墳は明らかでないが、前方後方墳では松尾谷古墳(三方町、約四〇メートル)がある。現時点で若狭における最初の地域首長墳である。墳丘の後方部は二段築成である。尾根上に立地し、後方部・前方部にあわせて三つの埋葬施設があり、副葬品は碧玉製管玉三、武器(鉄剣三)、工具(鉄刀子一・鉄二・鉄斧一)である。出土した土師器より四世紀初頭に築造されたと考えられている。
  • 越前 若狭

     後期前半のものとしては、福井市南部に不整形な前方後方墳型墳丘墓である安保山四号墓(全長二四メートル、高さ一・三メートル)がある。後方部中央の墓壙内には箱形木棺が埋置されていたが、副葬品はなかった。墳裾や墓壙内より多数の供献土器が出土し、それらの土器のなかには近江系の土器も混在し、近江地方との交流がうかがえる。ただ、不整形である点が、近江地方の整った形のものと異なっている。
     清水町南部では、出雲を中心に日本海沿岸にみられる四隅突出型墳丘墓である小羽山三〇号墓(突出部三三×二七・五×高さ二・七メートル)がある(図15)。墳丘中央の墓壙内に日本最大の組合式箱形木棺が埋置され、棺内には碧玉製管玉一〇三、ガラス製管玉一〇、同勾玉一、鉄剣一が少量の朱とともに副葬されていた。このほか、四隅突出型墳丘墓は加賀で一基、越中で二基発見されているが、いずれも墳裾周囲に葺石を施さない点で出雲のそれとは異なっている。いずれも被葬者は地域の首長であろう。
     鯖江市中央部では、王山三号墓(方形周溝墓、約一〇×一〇×高さ一・五メートル)があり、墳丘中央に土壙があったが副葬品はなかった。周溝内からは尾張系のパレススタイル(宮廷)土器も出土している。これより若干さかのぼる同一号墓の周溝内からは近江系土器も出土している。
     大野市北部では山ケ鼻五号墓(方形台状墓、約一五×一三×高さ二・八メートル)があり、墳丘中央に土壙があったが副葬品はなかった。供献土器のなかに尾張系の土器が出土している。
     この時期は、首長級の墓に玉類がみられるくらいで、ほかのものには副葬品がまったくみられない。県内各地域が、出雲・近江・尾張などの地方と交流があり、方形墳丘墓を中心としながらも各種の墳丘墓が築かれたことがうかがえる。そして、それらには越前の特色もみられるのである。
     後期後半になると、福井市北東部から松岡町では、原目山一号墓(福井市、方形周溝墓、約二〇×二〇×高さ四メートル)からは、墓壙内に舟形木棺とその棺内から素環頭太刀一、鉄刀一、鉄片一、細身管玉三二三、ガラス小玉七二八が出土している。また乃木山墓(松岡町、方形台状墓、約三四×二四×高さ四メートル)は、中央墓壙(一号埋葬施設)内に木槨をもち、その中に箱形木棺を埋置し、棺内からは日本最古の木製枕のほか、鉄刀一、素環頭鉄剣一が出土している。二号埋葬施設は舟形木棺で、その棺内から鉄刀三(そのうち一つは素環頭鉄刀)、棺外から鉄刀一、鉄一が出土している。三号埋葬施設は舟形木棺と推定されているが、盗掘されており副葬品はなかった。いずれも地域の首長墓であろう。また、いずれにも土器が供献されているが、越前・加賀に中心をおく月影式土器である。
     若狭では向山遺跡(上中町)の不整形な楕円状の形をした向山墓(台状墓、約二〇×一〇×高さ二メートル)が確認されているのみである。墳丘中央に四基、縁辺に四基の土壙墓が検出され、墓上の供献土器として多量の後期後半の弥生土器(一部土師器を含む)と三個体以上の鉄剣が出土している。台状墓の中央部の被葬者と縁辺部の被葬者との差異は明確でないが、集落のある平地を離れた山上に墓域が移動していることに注意すべきで、地域の首長級の墳墓と考えられる。
     この時期の首長墓には、玉類のほかに、あらたに武器(鉄刀・鉄剣)が副葬されることが注目され、被葬者が武人的性格をもちはじめていることがうかがえる。墳丘形態は方形墳丘墓が中心である。
  • 南美濃
    象鼻山1号墳 
       3世紀後半ー4世紀初に築造された前方後方墳。全長40.1m、前方部幅14.4m(高さ2.96m)、後方部長さ22.95m・幅25.86m(高さ4.23m)、くびれ部幅(8.7m)で、二段構成、前方部を北西に向ける。部分的に葺石を備える。主体部は構築墓壙で箱型木棺である。一度山頂を平らにしてから墳丘の殆どを盛土によて造成し、完成までに8段階の築造工程を経ている。出土品としては、破砕された36片よりなる双鳳紋鏡(後漢・晋鏡)、琴柱形石製品(材質は北陸の碧玉質石と推定)、鉄製品(鏃53、刀t、剣6)、土器片366(墓壙から朱入りの壺)である。土器については、二重口縁壺形土器・S字状口縁台付甕形土器・高杯形土器・小型器台形土器の4種類が確認され、東海系と近畿系土器が含まれることが注目される。(養老町教育委員会説明板など)
  • June 2016 編集されました
    前方後方墳は、約二百数十基である
    現在知られている前方後方墳の規模分布を調べてみると墳丘の長さが70メートル以上は34基あり、60~70メートルは33基、50~60メートルは48基、以下規模が縮小するとともに数が増加していく。70メートルを超える前方後方墳の旧国別の築造数は、出雲・美作・播磨・摂津・伊勢・尾張・三河・能登・常陸が各1基、美濃・駿河・越中・上野・出羽が各2基、山城・陸奥が各3基、下野が4基、大和が5基であり、大規模前方後方墳も大和に集中しているといえる。さらに、100メートルを超える前方後方墳5基が大和に集中している。また、日本最長の前方後方墳は、天理市の西山古墳(180メートル、古墳時代前期)である[3]。同市には羽多子塚古墳(144メートル、同前期)、新山古墳(137メートル)、下池山古墳(120メートル、同初期)、フサギ塚古墳(110メートル、)マバカ古墳(74メートル、同最初期か)、ノムギ古墳(63メートル、同最初期か)、星塚古墳(56メートル)などが存在する。なお、墳丘最長の西山古墳は、前方後方形の基壇の上に前方後円形が乗るという非常に特異な形をしている。

    中国地方の前方後方墳は島根県松江市周辺に集中して32基みられる。出雲の斐伊川中流域の三刀屋町にある松本1・2号墳が最古のものとみられている。最大は、岡山県勝田郡勝央町植月寺山古墳の91.5メートルである。分布では、山口県にほとんど認められなく、鳥取県・兵庫県北部地方では21基、広島・岡山両県および兵庫南部地方では48基みられる。 出雲の前方後方墳は、古墳時代を通じて築かれている点が特徴である。

    東海地方の旧国名でいえば美濃・尾張・伊勢・三河などの濃尾平野を中心とする地域では、前方後方墳は36基、前方後円墳は49基確認されている。規模の上では、墳丘の長さ80メートルを超す前方後方墳は少なく、最大で粉糠山古墳(美濃)の100メートル、83メートルの北山古墳(美濃)、約80メートルの東之宮古墳(尾張)、81メートルの桜井二子古墳(三河)、71メートルの向山古墳(伊勢)などが大きな方である。ちなみにこれらの古墳の周辺には90メートル~150メートルの前方後円墳が築造されている。これらのことから古墳時代前期には、地域まで墳形と規模による身分秩序が行き渡ってはいなかったと考えられている。外表施設では、前方後円墳・前方後方墳ともに葺石が葺かれているが、埴輪は前方後方墳にはほとんどない。
  • June 2016 編集されました
    柳井茶臼山古墳(やないちゃうすやまこふん)
    山口県柳井市大字柳井に所在する前方後円墳。大型の銅鏡などが出土し、国の史跡に指定されている。4世紀の古墳

    概要 編集

    瀬戸内海を望む標高75メートルの向山に位置する。全長80メートル、後円部径約50メートル、前方部幅40メートルを測る。

    1892年(明治25年)地元住民により発掘され、割石積の竪穴式石室から銅鏡、鉄剣、鉄鉾などが掘り出された。銅鏡は5面出土しており、最大のものは鼉龍鏡(だりゅうきょう、単頭双胴怪獣鏡とも)で、直径44.8センチあり、古墳出土のものとしては最大級の銅鏡である。これと四神四獣鏡は東京国立博物館に収蔵されている。銅鏡は他に画文帯神獣鏡(山口県立山口博物館保管)と内行八花文鏡(茶臼山古墳資料館保管)が現存し、残り1面は所在不明である。他の遺物は山口県立山口博物館や個人の所蔵となっている。古墳は1948年に国の史跡に指定されている。

    1991年(平成3年)より史跡整備のために発掘調査が行なわれ、墳丘は3段に築かれ、埴輪が並べられていたことが明らかになった。円筒埴輪以外に家型埴輪も出土している。竪穴式石室も再調査され、掘り残されていた大型の鉄刀、鉄刀子が出土している
  • June 2016 編集されました
    宮城の千塚山古墳 せんづかやまこふん
    形 前方後円墳
    宮城 柴田郡村田町沼辺字千塚
    紹介文
    主軸長85mの前方後円墳。(村田盆地最古)土器埴輪は確認されていないが墳形から前期古墳(4世紀前半)と考えられる。(前方部がバチ形)円墳上に浅間神社がある。北200mに千塚山A古墳、そこから東50mに千塚山B古墳がある。千塚山古墳より東300mに嶋舘古墳がある。

    雷神山古墳
    その規模において、東北最大の前方後円墳である。この古墳の墳頂に雷神を祭った祠がまつられていたために雷神山古墳と呼ばれるようになった。
    この古墳は全長168m(主軸)、後円部直径96m、高さ12m、前方部長さ72m高さ7.2m、前方部前端幅96mの三段築成、葺石をともなうが本格的な周皇はめぐらされていない。

    またこの古墳の北側には、直径54m、高さ8mの三段築成で周皇を有する小塚古墳(円墳)が所在する。

    これら丘陵上に造営された壮大な大型古墳の年代は、古墳の立地や築造方法、さらに出土遺物から、前期古墳の特徴を持っており、4世紀末から5世紀始めと考えられる。
    なおこれらの古墳は、東北の原始古代社会における文化の黎明を担い、仙台平野一帯を統治した地方豪族の首長墓である。
  • 名取市の高館山古墳
    古代遺跡が多い名取市。その北西部の高舘山には、3 〜4世紀と思われる東北最古の古墳がある。その高舘山 にある、熊野那智神社。明治31年(1899)、那智神社再 建 の折に社殿の床下から多数の懸仏・銅鏡が見つか る。懸仏とは、もともと神社に祭られていた鏡に仏を表す 梵字や立体的な仏像を表現した祈りのかたち。

    現在、仙台近郊の新興住宅地になっている名取市の「那智が丘」の山続きに高館山があるが、ここには藤原秀衡が築いたとされる高館城があった。秀衡は、幼い頃はこの地で育ったとも伝えられ、名取は平泉藤原氏とのつながり が特に深かったようだ。秀衡の死後、鎌倉の源頼朝は、平泉征討軍を発したが、この城には、本吉冠者隆衡(秀衡の四男)、日詰五郎頼衡(秀衡の五男)、名取別当の金剛坊秀綱と2万の兵がつめ、鎌倉軍を迎え撃った。結局平泉側は負けて、本吉冠者隆衡は京都に逃げて鎌倉打倒の兵を起こそうとしたが失敗、自害した。また金剛坊秀綱は降伏し、後に許されて 名取に戻り高舘山に秀衡を祀ったという。
    この地には、源義経が鎌倉から追われ、高舘の山に隠れ住んだとも伝えられ、その地を「九郎ヶ崎」と云い、また「秀衡ヶ崎」という地もあったが、いまは住宅地となり地形は変わり、定かではない。
    その後、南北朝時代には、南朝方の名取小平太の居城であったらしい。小平太は、北畠顕家に従い大阪で戦死したと される。また、南朝方の多賀城を攻める際には北朝方の前線基地となったとも伝えられる。詳細は定かではないが、名取地方は、南朝、北朝方の間で激しく揺れ動いた様子が見られる。
    戦国期には、この地は国分氏(仙台)、亘理氏(亘理郡)、相馬氏(福島)、伊達氏(米沢)といった武将の勢力が入り乱れていたが、政宗の曽祖父伊達稙宗のころには、名取郡をほぼ制圧し国分氏と対立していた。
    その境の地にあった高舘城には、福田五郎が勢力をはっており、国分氏から名取郡の半分を任され、また伊達系の武士をもまとめていた。しかし、伊達氏の勢力拡大とともに、国分氏の勢力は伊達氏に組み込まれ、この城もいつしか伊達氏の前線の城となっていったようだ。
  • 静岡県、県内最古と考えられる古墳は、磐田市新豊院山(しんぽういんやま)2号墳や
    袋井市座王権現神社古墳などである。
     前者は墳長34.3mの前方後円墳で、竪穴式石室を内部主体とし、副葬品として鉄刀などの
    武具や三角縁四神四獣鏡などを副葬している。
     その造営の時期については、出土土器から3世紀末から4世紀前半が考えられる。
  • June 2016 編集されました
    九州最古級の古墳

    赤塚古墳 前方後円墳 宇佐市高森

    宇佐市, 前方後円墳, 箱式石棺, 三角縁神獣鏡, 国指定史跡,
    宇佐風土記の丘
    紹介文
    全長約57.5mの前方後円墳。
    後円部径約36m、前方部幅約21m、葺石・埴輪は確認されていない。周濠部から土師器壺が見つかっている。1921(大正10)年、後円部中央付近で箱式石棺が見つかり、銅鏡5面(三角縁神獣鏡など)や玉類、鉄製品などが出土した。3世紀末頃の築造と推定されており、県内でも最古級の前方後円墳とされている。国指定史跡(川部・高森古墳群)、1980(昭和55)年指定。
    椿井大塚山出土の鏡と同じ鋳型という

    祇園山古墳(墳丘墓)
    卑弥呼説
    http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/kodaisi/himikotyou/himiko3horon.htm
    久留米市の高良大社の麓の西へ延びる丘陵部最先端にある「方墳」とされる墓である。基部の一辺が約二三~二四M(一に二四~二五M)という不整形であり、もとの高さが推計約五~六Mで、九州ではきわめて稀な葺石を二段にもつ。その墳頂部にあるひときわ巨大な箱式石棺(内法長約二M、幅約七五CM)が内部主体となっていて、明確に槨がない。かって盗掘があって、その遺物は全く散逸しているが、棺内及び蓋裏全体には朱(赤色顔料)の塗布が見られる。墳裾の外周地域で調査された範囲からは、合計六二基(甕棺3、石蓋土壙32、箱式石棺7、竪穴式石室13、構造不明7)にも及ぶ小型埋葬施設が検出されて、残存した第一号甕棺からは成人女性の人骨や鏡片・勾玉・管玉・刀子も出土しており、墳裾の各所から古式土師器・須恵器等が出土した。副葬された鏡については、墳裾の第一号甕棺内に後漢鏡とされる画文帯神獣鏡片が残るだけであったが、当墳から出土したと伝える三角縁神獣鏡・変型方格規矩鏡が近くの高良大社に所蔵される。
    主体部に一つだけ巨大石棺があり、その墳裾外周という位置には多数の小型墓があるという状況からみて、共同体墓所という見方は疑問である。むしろ、大半は同時の埋葬(すなわち、殉葬)の説もある。

      ほかにも墳裾等に埴輪円筒などの棺を埋葬する例がいくつかある。例えば、奈良市の佐紀古墳群にマエ塚古墳という円墳(径四八Mほどで、現在は削平される)があり、墳裾には円筒埴輪列があった。その墳丘東斜面の中段で一基、外堤では三基、計四基の埴輪円筒棺があって、なかから実際に人骨も出ている。同墳からは内行花文鏡など九面の倣製鏡や多量の鉄製刀剣等が出土して、四世紀中頃ないし後半の築造とみられている(近くに位置する佐紀陵山古墳から考えると、時期は四世紀中頃でよいか)。長野県更埴市(現・千曲市)の森将軍塚古墳(墳丘長約九〇M)でも、前方部墳裾の箱形石棺六基を含めて六〇基ほどの多様な埋葬施設が墳裾に存在する。同墳は、三角縁神獣鏡片や鉄製刀剣・勾玉・土師器などが出土し、四世紀後半頃の築造とみられている。これら墳裾等の棺(前者の四基、後者の六基)は、殉葬の可能性が強いのではなかろうか。三世紀後半から四世紀に栄えた金官伽耶の超大型木槨墓では、数人(申敬氏に拠れば三、四人ないし六人)の殉葬が確認されており*5、人数的にもこれに相応するものとみられる。

    祇園山古墳については、方形という墳丘形状及び推計五、六Mという高さがやや気になるが、年代・規模等の残りの条件は卑弥呼墓に適合する。卑弥呼の墓が仮に同墳であったとしたら、帯方郡太守張撫夷の墓と同じく方墳であり、その規模を各辺五Mほど小さくしたくらいで、高さもほぼ同じ、ということにもなる
    ここまでの検討の結論的なものとしては、現存するわが国墳墓のなかで考えると、祇園山古墳は『魏志倭人伝』に記す卑弥呼墓の条件に最も近いのではないか、と考えられる。
  • June 2016 編集されました
    滋賀県で相次ぐ前方後方墳の発見
     滋賀県では、ここ2・3年の間に、古い前方後方墳がいくつか発見、調査されている。
    2001年2月2日付の読売新聞朝刊には、「最古級の前方後方墳」「邪馬台国に対抗 狗奴国の関連墓か」という見出しのもと、能登川町神郷亀塚古墳の調査成果が発表されている。周濠を巡らせた全長35.5mの前方後方墳で、高さ4.8mの盛土を持ち、「古墳時代最古の土器」が出土していることから、「西暦230年前後、3世紀前半の築造」という。そして前方後円墳を築いた邪馬台国に対し、狗奴国は前方後方墳を築いたとし、この古墳の被葬者は「狗奴国グループの首長墓」とされている。
     そのちょうど1ヶ月後、今度は琵琶湖の対岸の丘陵上、新旭町熊野本6号墳・12号墳の調査結果が発表された。3月1日付の京都新聞朝刊によると、「最古級3世紀前半の前方後方墳」(6号墳)と「3世紀中ごろの前方後円墳」(12号墳)が見つかったという。古墳時代前期に、墳形が前方後方墳から前方後円墳に変化していくことを裏付ける例で、「日本海沿岸との交易ルート拠点」である「邪馬台国時代のクニの一つ」が湖西にあったという。
    これまでも滋賀県内では、平地で20基近くの前方後方形周溝墓が発見されていたが、最近見つかったものはすべて墳丘を持つことから前方後方墳として扱われ、「最古」あるいは「最大」等の言葉が踊ることになった。

    小松古墳墳丘、三世紀中頃
    (滋賀県文化財保護協会 紀要15号 小松古墳から見えてくるものから引用)

    全長60mの前方後方墳、後方部34×29m・前方部長さ23m・くびれ部幅14m・先端部幅22m。前方部は低く短くあまり開かない。後方部は長方形を呈し、2段築成の可能性がある。
    主軸方向はN-2°-W。標高194mで主尾根の高所に立地する。古墳群中最大の前方後方墳。発掘調査が行われている。
    盗掘坑から、2面の漢式鏡と銅鏃、鉄器類(鉄鏃・刀子・ヤス)、赤色顔料が出土した。墳頂部では大量の土器類を用いた埋葬儀礼が行われていたと考えられている。
    古保利古墳群では最も早い3世紀中頃の築造と推定されている。

    大規模な前期古墳群である古保利古墳群(長浜市・写真はその頂から琵琶湖を望む)はよく知られている。
    総数132基が3kmの長さで一列にならんでおり、大半が3世紀中頃~4世紀初頭の、卑弥呼および台与の時代の築造であるとされている。その中で最も注目されるのが小松古墳(全長60m)でる。最古の最大級の前方後方墳で、その出土物が注目された。特に、内行花文鏡・方格規矩鏡や在地の特徴を持つ近江系土器(写真)、庄内式土器などが検出され注目あびた。
  • June 2016 編集されました
    雪野山古墳(東近江市)は湖東南部のどの位置からもでも見える、標高309mの雪野山の上に築かれた特徴ある古墳である。バチ形に開く、3世紀末から4世紀初頭の竪穴式石室を持つ全長約70mの前方後円墳である。石室内部からは三角縁神獣鏡3面と内行花文鏡含む銅鏡5面や小札革綴冑、琴柱型石製品、刀剣、鏃等の武具・武器など貴重な遺物が数多く出土している。しかも埋葬施設(上記写真)は竪穴式石室という大和政権が作り出した一場格式の高い埋葬施設の構造を滋賀県で一番先に採用し、その豊富な副葬品も手に入れていた破格の盟主である。

    雪野山古墳の次の世代、4世紀後半頃の琵琶湖地域では、安土瓢箪山古墳、荒神山古、御所茶臼山古墳と、琵琶湖地域では群を抜いている古墳が築造されている。今までの雪野山古墳が70mしかなかったのに、安土瓢箪山古墳では136m、倍近くまで拡大する。この3基の古墳は琵琶湖との密接な関係を強調しており、琵琶湖の湖上交通がクローズアップされてきた証なのだ。
    もう一つ重要な拠点がある。それは曼陀羅山の山頂191mに和爾大塚山古墳(大津市)、全長72mの前方後円墳)があり、二段築成のバチ形に開き、葺石を持つが埴輪はなし、4世紀後半から5世紀初頭の築造。中国製で銘文が刻まれている青蓋盤龍鏡や勾玉・刀剣・甲冑・土器などの大量の副葬品が発見されている。本古墳の所在する地域は、小野妹子で有名な小野氏とも縁のある、和邇氏の大和の豪族和邇氏と同族であり、和邇大塚山古墳の被葬者を和邇氏とする考えが有力である。
  • 前方後円墳の出現

    諸要素の後期後葉~終末期における分布から、墳形のうち後円部は吉備・東瀬戸内・近江、前方部は吉備・東瀬戸 内・近江・東海、葺石・大型墓坑・竪穴式石槨は吉備・東瀬戸内、円筒埴輪は吉備というように大和在来の要素はほとんど ない。判断が分かれるのは、どこの影響をより強く見るかである。
    墳形では、各地の前方後円形墳丘墓・前方後方形墳丘墓の土器編年上での位置と、各地域の土器編年と大和にお ける庄内式土器細分小期との時間的関係に対する考え方次第となる。たとえば、宮山型特殊器台を出土する総社市 宮山・岡山市矢藤治山と、同じく宮山型を出土する箸墓古墳との前後関係が、箸墓→宮山・矢藤治山なら後者は古墳と なろうし、宮山・矢藤治山→箸墓なら、前者は纒向型に対する寺沢薫氏の評価(寺沢1988)と同じく前方後円墳の先祖の 候補となろう。正反対の評価となるが決定は決して容易ではない。宮山型を共有していてこうであるから、遠隔地で土器 編年の微妙な並行関係だけが決め手の場合、各研究者の「期待する結論」や全体構想に左右される。大和における 纒向型(石塚・勝山・矢塚・ホケノ山等)の年代すら箸墓との関係では先行説(石野2002・寺沢2002)・並行説(近藤2001)があっ て譲らない。鶴尾神社4号墳と箸墓との埋葬様式の影響関係の方向も、鶴→箸説(北條1999)、箸→鶴説(大久保2000)が 対立する。
    しかし、前方後円形に拘らず、前方後方形墳丘墓をも前方後円墳の後方部の起源に加えれば、近江・美濃・尾張では 箸墓に先行する例は確かにあるから、箸墓に先行する突出部付き円形ないし前方後円形墳丘墓(纒向型と呼ぶかどうかは ともかく)があって不都合はない。纒向型自体の起源では、土器から見て終末期における大和と近江・東海との交流は密 であるから(石野2004)、前方後方形墳丘墓が、葺き石を欠く石塚・勝山・矢塚への影響元である可能性は大きい。他方で
    葺石・石垣・木槨をもつホケノ山への影響元については、吉備・阿波・讃岐などの突出部付き円形墳丘墓を外せない。 後期後葉から終末期における鏡・鉄製武器・玉類などの入手元とその副葬習俗の発信地を北部九州と見る説(寺沢 2000)が根強いが、この時期の副葬実態から見れば、近畿北部・北陸を主と考えた方が良い。ほかにも、古墳時代における碧玉製腕飾類、遡っては芝ケ原12号墳の銅釧の祖形たる南海産巻貝製腕輪類(ゴホウラ・イモガイ・オオツタノハ)の系譜 は、中期の北部九州製品でなく、この時期の南部九州→東部九州経由の製品に求めるべきであり、日向における終末期 の円形墳丘墓の盛行は、東瀬戸内集団と日向灘沿岸部集団との密接な関係の物証である。
    北部九州における前期末~中期末と同様に、2世紀末における舶載品の多量流入の再開は、その掌握・管理・分配を 通じた諸集団の組織化が短期間に進行する契機となった。しかも今回は舶載品を主とする「威信財」の主要流入経路 が後期中葉以前と切り替わったため、後期中葉以前の体制の再編成を促し、結果として、中・東部瀬戸内、近畿中部、近 畿北部・北陸、近江・東海どうしの複雑・密接な結び付きをもたらすこととなった。これが卑弥呼共立の地盤であって、邪馬 台国が伊都国に一大率を派遣し対外交通を厳しく監督する必要があったのは、北部九州が当初コントロール下に十分 入っていなかったからである。
  • 岐阜県の養老の象鼻山に古墳群があります。

    2世紀から5世紀にかけて約70基の古墳があり、新しい古墳は古い古墳を壊さずに造営されているそうです。聖地との見方があるようです。
    南宮山の140mぐらいのところに前方後方墳としてありますね。3世紀末のものでしょうか。墳形及び埋葬方法が東海様式を採用。埋葬物は畿内様式です。琴柱形石製品が入っています。近くの東近江の雪野山古墳も琴柱形石製品が入っています。
  • 箸墓古墳・ホケノ山古墳の成立年代及び吉備との関わり

    栃木県埋蔵文化財センター設立10周年記念講演会
    「古代王陵と下野の古墳」 
    明治大学名誉教授 大塚初重先生
    平成14年2月10日(日)
    於 栃木県立博物館講堂
     陵墓指定を受けている奈良県倭迹々日百襲姫墓(「箸墓古墳」)や衾田陵(「西殿塚古墳」)から、台風による倒木で器台や壺が出土した。これらの遺物は、岡山県楯築の弥生墳丘墓出土の器台・壺と共通性を持つことが明らかになった。
     箸墓古墳出土土器についての暦年代は、庄内式の最終時期若しくは布留0式か、研究者によって意見が分かれるところであるが、仮に布留0式(260~280年)とすると、卑弥呼没(248年頃)後の築造となる。
     研究者の中には、箸墓古墳の築造を3世紀半ばとの意見もあり、私もその考えに賛同する。
     いずれにしても、285mの箸墓古墳には、吉備の勢力が関わっている事実は間違いない。
    一方、島根県西谷〔にしたに〕3号弥生墳丘墓からは、出雲の土器とともに吉備型特殊器台や壺、更には北陸の土器も出土している。これは、出雲の埋葬儀礼に吉備と北陸の関係があったことを示している。  日本列島における巨大前方後円墳の出現には、大和勢力と吉備勢力が同盟関係を結び、強力な体制で権力機構をつくった背景がある。そして、その最初に築造したのが箸墓古墳である。初期大和政権は、吉備との関係を持ち、吉備は出雲との関係を持つ。このように、3世紀の邪馬台国時代は、畿内・瀬戸内東部・山陰・北陸・東海を含めた広汎な地域をグラウンドにし、権力団体の構造があったことになる。それらの状況から、古代国家が成立するのは3世紀であったと考えられる。
    河上邦彦氏
    奈良県立橿原考古学研究所
    調査研究部長
    「ホケノ山古墳は3世紀中ごろと発表したが、今回の測定結果から築造も3世紀前半と見ていいだろう」  (木棺材の炭素14年代測定値の発表を受けての発言)
    ホケノ山古墳
    纒向遺跡の東南部に位置し、東から西へ向かってのびる段丘の残丘上に立地する前方後円墳である。
    前方部を南東に向ける。現状での墳丘規模は全長約80m、後円部計約60m、後円部高約8.5m、前方部長約20m、前方部高約3.5mである。

    平成12年4月、大和(おおやまと)古墳群学術調査委員会は、ホケノ山古墳の築造年代が、それまで推定されていた3世紀半ばから3世紀第2四半期(225~250)ごろに遡ると発表した。第4次発掘調査で出土したコウヤマキ製のくりぬき式木棺(長さ5m、幅1m)の破片を、放射性炭素(C14)年代測定法で分析した結果である。

    「ホケノ山古墳」を一部復元し史跡整備
    145 ホケノ山古墳 県文化財 
    箸中字ホケノ山636他    平成元年3月10日指定
     箸墓古墳の東200mに位置し、纒向扇状地の南端にあたる小台地上に、前方部を南西面させる帆立貝式の前方後円墳である。全長90m、後円部径60m・高さ8.5m、前方部長30m・高さ3.5mを測る。
     墳丘上に円礫が散乱しているが、埴輪片はみられない。北及び北東側は、幅10mの水田が残っており、周濠の痕跡とみられる。大神神社にはホケノ山古墳出土と伝わる画文帯神獣鏡が保存されている。墳丘に埋置された土器は、新しくみても庄内式期であり、3世紀前半かそれ以前の最も古い古墳の1つである。
     大神神社は、この古墳を豊鋤入姫の墓に比定している。(桜井の文化財 桜井市教育委員会、石野)

    平成13年度 秋季特別展
     「纒向の古墳」
    ~纒向遺跡発掘調査30周年記念~
    桜井市埋蔵文化財センター 期間:平成13年10月3日~平成13年12月2日
    10.箸墓古墳
     前方後円墳、全長約280m・後円部径約160m・前方部前面幅約147m、後円部5段築成・前方部前面4段築成、周濠幅約10m、後円部に渡り堤を付設、葺石を施し、墳頂部に底部穿孔の二重口縁壷・後円部5段付近に特殊器台形埴輪・特殊壷・特殊円筒埴輪が出土、周濠部より木製の鋤・手斧の柄等出土。
    (古墳時代前期初頭)

    11.ホケノ山古墳
     前方後円墳、全長約80m・後円部径約55m、後円部3段築成、周濠幅約10.5~17.5m、葺石を施す。
     前方部裾葺石の一部を取り除き、瀬戸内系の壷・東海系の壷を副葬した木棺を埋葬、主体部石積木槨(長さ約7m、幅約2.7m)・刳抜式木棺(コウヤマキ製5m)、槨内より鋼鏃60本以上・鉄鏃60本以上・素環頭大刀1口・鉄製刀剣類10口前後・加飾壷・画紋帯同向式神獣鏡、破砕鏡、鉄製農工具出土。
    (古墳時代前期初頭)

    河上邦彦氏
    奈良県立橿原考古学研究所
    調査研究部長 木棺材の炭素14年代測定により「ホケノ山の築造が三世紀前半とさらに早まり、(卑弥呼の墓説もある)  箸墓古墳の築造もこれまでの三世紀末から中ごろになる可能性がある」

    箸墓古墳
    箸墓古墳は纒向遺跡の南端、桜井市大字箸中に所在する全長約280m、後円部径155m、前方部長125mの前方後円墳です。前方部の周辺では過去に5回の発掘調査が行われており、茸石や周濠状の落ち込み、盛り土による堤、古墳築造時の土取り跡などが確認され、出土土器の検討により前方都が布留0式期の築造である事が確認されています。
  • December 2016 編集されました
    善通寺・有岡古墳群
    香川県 3世紀後半~4世紀前
    珍しい円形二段式積石塚

    積石塚古墳
    古墳時代にこの墓形式が存在する地域は、香川県から徳島県の一部の地域と長野県や山梨県の一部の地域に顕著に見られる。また、長崎県の対馬、山口県の見島、そのほか、宮崎・愛知・静岡・群馬県などにもみられる。 なかでも長野市大室古墳群、香川県高松市石清尾山古墳群、山口県萩市見島ジーコンボ古墳群などが著名である。

    善通寺市の有岡古墳群から坂出市の積石塚古墳群、その東方の石清尾山古墳群と讃岐平野を東西に貫き、3世紀後半から7世紀前半にかけて築かれた古墳群の大規模な集積が認められる。
    善通寺市の王墓山古墳
    有岡古墳群の中央部に位置する王墓山古墳(全長46mの前方後円墳・6世紀半ば)
    そのことは、古墳時代の初期において大和王朝はまだ一地方を統べる時代であり、この一帯に勢力を張る確かな王朝が存在していたことを物語っている。

    この讃岐王朝の特色ともいえる大規模な積石塚古墳は讃岐の他には長野県の松代市大室古墳群(6-7世紀)に、小規模なものでは徳島県、兵庫県に例が見られる程度で、国内においてはかなり特殊な位置づけの墳墓形式となっている。
  • December 2016 編集されました
    相島と宮地嶽神社は安曇族

    相島は「あいのしま」と読みます。

    相島といえば「積石塚群」(つみいしづか)、島の浜に累々と気づきあげられた石の古墳群。
    調査されただけでも254基。平成5年正式な調査により、5世紀〜7世紀の積石塚と判明し平成11年國史跡に指定された。同時期に滅亡した伽耶・百済の亡命人達の墓か? 海部氏・安曇氏・宗像氏等の海洋を航海した一族か?未だ謎多く、今後の研究が待たれる。積石塚群は足元を大きめの平らな石を組み合わせて南北往復1000mの道が造られている

    宮地嶽神社の参道からまっすぐ海の中を突き進むと、ここに着く。

    相島は「あへ」の島とも書かれていますが、「阿部島」とも書かれていた
  • December 2016 編集されました
    信州の積石塚古墳群

    大室古墳群の築造時期は5世紀中頃、場合によっては5世紀初頭に遡るという。その後、186号の合掌型石室からは馬頭骨・馬具等も検出されたとのこと、彼らは5世紀代に馬の飼育に従事していた渡来人の人々の墓と考えられるという。大室古墳群以外にも大塚先生は松本市針塚積石塚群や山梨県甲府市横根・桜井積石塚群、静岡県浜松市二本ヶ谷積石塚群、群馬県の積石塚群の調査も関係してきたという。

    約500基を超える大室古墳群のほとんどは盗掘墳だったのだ。「塚掘の六兵衛」という人物がいて、生涯かけて大室を盗掘したという逸話が地元にあるという。
    大室古墳群の中に屋根型天井をもっていわゆる合掌型石室がある。従来はこの墓制は韓国公州付近(柿木洞古墳等)に類例があることから7~8世紀の渡来系技術者集団の墓と理解されていた。だが調査を進めていくと積石塚のなかで、合掌型石室が最初に出現することが判明してくる。しかも百済系統らしい特異な埋葬例が数十基もあった。例えば大室168号墳の積石のあいだから、5世紀代のTK208型式須恵器や土師器とともに盗掘を免れた完形に近い土馬(馬を形ちどった土製 品)も出土していて、これらから大室古墳群の築造時期は5世紀中頃、場合によっては5世紀初頭に遡るという。その後、186号の合掌型石室からは馬頭骨・馬具等も検出されたとのこと、彼らは5世紀代に馬の飼育に従事していた渡来人の人々の墓と考えられるという。


    長野県飯田市茶柄山古墳群の調査では、5世紀代の馬の殉葬が見られ、飯田市周辺では馬殉葬例が30体に達し、更に日本列島の古代の馬文化は4世紀末には伝わり普及か

    安曇野市神谷塚古墳(有明E11号墳)

    安曇野市, 長野県, 02高瀬川・穂高川水系 コメントを追加 市区町村史跡
    穂高(有明)古墳群は、中房川と烏川に挟まれた山麓一体に分布する80基ほどからなる後期群集墳です。うちE群は、牧地区を中心に分布しています。

    八丁鎧塚2基 積石塚古墳

    上高井誌編纂の資料とするため、発掘調査。出土した鏡から、積石塚は6世紀以降の古墳であるという定説を覆し、また、国内では稀少な帯金具の出土から朝鮮半島との関連や馬の飼育等重要な発見があった。
    名称及び員数 八丁鎧塚2基
    所在地
    須坂市大字八町285番地(1号墳)(上八町)
    須坂市大字八町287番地(2号墳)(上八町)
  • 豊川市の積石塚古墳、旗頭山尾根古墳群

    愛知県で東三河のみにみられる積石塚古墳

    新城市と豊川市江島町の境界にあるのが旗頭山(はたがしらやま)である。吉祥山から西にのびる支脈にある。標高は98.3メートルだけだが、旗頭山の山頂からは新城市、豊川市、豊橋市、渥美半島、三河湾を一望におさめ、本宮山を真正面に望む眺めは本当にすばらしい。その山頂に三八基の古墳群が散在している。古墳時代後期の有力豪族の家族墓と考えられている。まさにこの墳墓に眠る豪族一族がこの東三河一帯を治めていたと言っても言い過ぎではない。

    ・旗頭山、城山、向山、上寒之谷(豊橋市)は五世紀後葉(末)から始まる。岐阜御嵩町の積石塚が五世紀中~後半から始まり二本ヶ谷積石塚群に近い。
    ・旗頭山は竪穴式小石槨から無袖横穴式に近づくが、竪穴式小石槨が二本ヶ谷の石囲に近いか。
    ・城山6号墳は2つの小石槨がある。二本ヶ谷にもあったはず。
    ・旗頭山でも周辺にほぼ同時期に盛土(もりど)古墳が存在する。
     … ただし、旗頭山が尾根、盛土が谷で二本ヶ谷とは逆。
  • 信州の古墳

    長野県内最古の古墳は 3世紀後半に造られたとされる松本市弘法山古墳であるが、前期古墳の多くは善光寺平に位置する。飯山市勘介 山古墳、中野市蟹沢古墳、長野市川柳将軍塚古墳・姫塚古墳、千曲市森将軍塚古墳などがあり、森将軍塚古墳や 川柳将軍塚古墳の時代には前方後方墳から前方後円墳に変化し、墳丘の大型化の傾向が見られるようになる。中 期には引き続き善光寺平中央部を中心に前方後円墳が築造されるようになり、中野市七瀬双子塚古墳・高遠山古 墳、千曲市土口将軍塚古墳・倉科将軍塚古墳など大型の前方後円墳が主流になるが、この頃から各地で円墳が集 中的に造られはじめる。松本市の桜ヶ丘古墳・針塚古墳もその一例である。後期には分布の中心を伊那谷に移し、 飯田市塚原二子塚古墳・馬背塚古墳などの前方後円墳が築造され、墳丘の規模も副葬品も充実する。その後徐々 に大型の古墳は姿を消し、これまでよりも小規模の円墳が盛んに造られるようになり、長野市大室古墳群、松本 市中山古墳群、安曇野市穂高古墳群のような古墳群が形成されていった。
  • 長野県安曇野は千曲川によって日本海側から安曇氏が入った。
    千曲川は越の国・信濃川からここにつながっている。
    安曇は壱岐、対馬、九州宗像方面から、出雲に入り、信濃川から穂高へ入ったと思える。

    同じように後の時代(古墳時代前後)熊本から阿蘇氏も入っている。
    科野国造家は建五百龍命を祖とし、そのい出自は熊本の阿蘇の君、阿蘇氏・・・ようするに鉱物採集民多氏であるといわれている。

    おそらく阿蘇氏は八代周辺の肥君とともにここへ入っている。それは持統天皇の時代に朝廷から諏訪に入った大祝阿蘇氏よりも早かったと思う。

    中央構造線を遡り、天竜川をフォッサマグナ沿いに遡れば諏訪に行き着く。

    ところが千曲市には巨大な前方後円墳があり、その埋蔵品の中に「あとから」あらためてわざわざ埋蔵された河内堺の須恵器大瓶が出ている。この黒い瓶は全国の大古墳から同様に出てくるもので、おそらく知事クラスのブランド品なのであろう。この大古墳は森将軍塚古墳という。

    長野市の大室古墳群は非常に長いスパンでここに黄銅鉱を取りに来たさまざまな氏族が入っており、古墳形式の展覧会場的様相を示している。
    まず一番早いのが高句麗と同じ形式を持つ積石塚古墳群の被葬者である。
    半島からの潮流を読み違えると日本海を東に流されるから、これは安曇氏ではあるまい。

    出典 http://www.oct-net.ne.jp/~hatahata/azumino.html
  • 北信濃で特徴的な古墳と言ったら積石塚ですね。日本にあまりなくて、信濃はそのなかでは多い方ですが一番密集しているのは、善光寺平のなかでも千曲川東岸の高井郡です。高井郡は大室古墳群からはじまって、約50キロくらい下流の野沢温泉あたりまでで、そこに築かれている古墳の大部分が積石塚なんです。大室古墳群だけで約500基。大室は特別ですけれども、それ以外に約180基くらいが保科の谷、綿内の谷、その向こう須坂の鮎川の段丘上に、更には一番北端の木島平まであります。築造年代は大部分が7世紀ですけれども、なかには相当時期がさかのぼるものもある。須坂市鮎川段丘の上に約70基ほどの古墳群の地帯がありますが、そのなかに5世紀の前半にさかのぼる古墳が2基あるのです。1基は八丁の鎧塚1号墳で、そこから出て来たのが碧玉の釧と水字貝製の貝釧、鏡は模倣ですが方格規矩鏡の良いものが1枚。それからもう1基は2年前に調査された天神1号墳で、これは上円下方の積石塚です。ここからは家型埴輪が出ています。この結果、高井郡の積石塚は5世紀前半からはじまって7世紀末までということになります。

    木島平村
    木島平村役場西南方の水田中にある。馬曲川扇状地扇端に位置し、木島の低湿地と飯山市街地を望む眺望絶佳の地に位置する。川原石を用いて積み上げた積石塚古墳である。水田によって周辺は破壊されているので、原形の大きさは不明である。
    形状は円墳である。かつて調査されたが、記録が残されていないので石室の大きさや形 状、遺物の出土状態等については全く不明である。
    出土遺物は、直刀3、鍔1、鉄鏃2、玉類・土器類である。このうち土器類と玉類は所在不明である。直刀、鍔、鉄鏃は木島平村公民館に保管されている。
    出土遺物や古墳の状況から見て後期古墳であることは疑いのない事実である。現在、村史跡に指定されている。河東地区最北端の積石塚古墳として最も形の整っている古墳である。

    千曲川をはさんで、河東地区と河西地区を見た場合、河西地区の古墳はほとんどが土盛古墳であり、積石塚古墳としてよいのは、飯山市
    秋津五里久保に一基あるのみである。
    f積石塚古墳は、長野県では松代を中心としたところに集中的に認められている。そしてこの積石塚古墳は帰化人の手によって造成されたとされている。
    木島平の以上の三基は、一部不明とはいえ、積石塚古墳と考えて間違いないものであり、長野県積石塚分布の最北端にあたっている。したがって、積石塚古墳の歴史的意味を考える上に重要な意味をもっている
  • December 2016 編集されました
    高句麗の積石塚とも全く同じでない。
    讃岐や阿波には前方後円墳型積石塚があって、畿内の古墳よりは早く、阿波の前方後円墳型積石塚こそ畿内の前方後円墳のルーツだと言われるようになって来ている。


    有棺無槨
    ~鮮卑―無棺
    =―=夫餘―有槨無棺
    ――高句麗―有槨無棺
    ―――馬韓―有棺無槨
    ――――倭―有棺無槨
    ――弥生墓―有棺無槨
    ―前方後円墳―有槨有棺―

    魏志では扶余・高句麗の墓を有槨無棺と書いている。扶余の墓制が『有槨無棺』と書かれていて、高句麗については扶余とほぼ同じであったと思われる。
    違うのは扶余が地下式の墓であるのに高句麗は高塚式であることだ。

    高句麗の墓について『騎馬民族の道はるか』に雲坪里4地区8号墳の説明(四隅突出墓?)で
    【墳丘の西側に比較的大きな川石を積み重ね壁体を作った主槨があり内側には鶏卵大の小石を満たしている。規模は長さ2.05m、幅1mでその床面は古墳の底部から75cmの高さにあった。主槨から東に1m離れて副槨がある。副槨の四壁は平らな塊石を積み、いっそう強固に作っている。(少し省略して記述)】と書いてある。

    この記述を見ると高句麗の『有槨無棺』の『槨』は日本の古墳に見られる、いわゆる礫槨と言われているものにそっくり
    の物と言えるのではないか?
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