三世紀の古墳

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  • 熊本県下の古墳は総数約3800基に上り、多くは菊池川流域と宇土半島の基部から八代平野の北側にわたる2つの地域に集中しています。大きな特色は、装飾古墳の多いことで、全国の約3割、196基が熊本に集中しています。また、県南や天草地方では地下式板石積石室墓と呼ばれる別系統の墓も存在しており、古代の熊本の文化の独自性や大陸との結びつきを物語る遺産となっています。
  • 四隅突出型墳丘墓は、出雲地方を中心として山陰で多く造られた弥生時代の墳丘墓とされている。
    しかし、その経時的変化を眺めると、概ね以下の様になる。

      三次(弥生Ⅳ期)→伯耆・因幡(Ⅴ期1,2)→出雲(Ⅴ期2,3)→北陸(Ⅵ期)→東北(古墳前期)

    すなわち、出雲地方より伯耆地方の発達時期の方が早い。
    また、丹波・但馬・若桜地方に四隅突出型墳丘墓は存在しない
  • 伯耆国の前期古墳
    日原6号墳(日原)  普段寺1号墳(会見町寺内)  研石山1号墳  青木F2号墳  青木F1号墳
    浅井11号墳(会見町浅井)
    石州府119号墳(石州府)  石州府29号墳(石州府)  日下25号墳(日下)  日下39号墳(日下)
  • 古墳時代前期(3世紀半ば~4世紀)になると、畿内を中心に全国各地に前方後円墳が造られて行きます。ところが、同じ頃の出雲地方では大小の方墳が造られ、前方後円が墳造られないという特異な現象がおきています。
    その後、古墳時代前期後半(4世紀後半)から中期はじめ(5世紀はじめ頃)にかけて、突如として前方後円墳や円墳が登場してきます
  • 出雲東部の安来平野では、北に中海を望む荒島丘陵(標高40m)に「荒島古墳群」(安来市荒島町など)がある。ここに四隅突出墓の要素を残しながら畿内様式を取り入れた方墳4基が、3世紀末から4世紀中葉にかけて造られた。一帯には前後する時期の古墳も集積して「古代出雲王陵の丘」として整備されている。JR荒島駅に近い。
    「大成(おおなり)古墳」は辺[60m×47m]の長方形墳で、斜面に割り石を貼り巡らす。長さ7.2mの竪穴式石槨1基から、唐草文帯三角縁二神二獣鏡1、素環頭太刀1、剣身3を出土した。
    「造山1号墳」は辺[60m×50m]の長方形墳で、片側2段築成。墳丘の斜面に人頭大の塊石が葺石状に並んだ。扁平な割り石を小口積みした竪穴式石槨2基から、 (仿製)三角縁神獣鏡1、(仿製)方格規矩四神鏡1、鉄刀1、ガラス製管玉2を出土した。大成古墳と同形・同規模で並存し、この時期における列島最大の方墳である。
    「造山3号墳」は辺[38m×30m]の長方形墳で、列石を石垣状に巡らせる。割り石を小口積みした竪穴式石槨から、(舶載)斜縁二神二獣鏡1、碧玉製管玉30、ガラス製小玉33を出土した。(「造山2号墳」は後期古墳)
    「塩津山1号墳」は辺[25m×20m]の、ややいびつな長方形墳。外表部に貼り石があり、方墳の隅が突出ぎみであるなど四隅突出墓の要素を残す。6基の埋葬施設から地域特有の特殊円筒土器(羽状文・竹管文などの紋様がある)を出土したが、周りの古墳との正確な前後関係は未詳。
  •       稲荷森古墳: 山形県最大、東北で第6位の規模の前方後円墳 4C末
          雷神山古墳 (宮城県名取市): 墳長約168m  4C末~5C前半
              東北では最大規模の前方後円墳。第2位以下が120m前後以下
             であるのに比して突出している。また古墳時代前期では、東日本で
             見ても最大級。
       ※第2位:亀ヶ森古墳 会津坂下(あいづばんげ)町墳長 127.3m 4C後半
              雷神山古墳以前に名取平野を抑えた古墳時代前期の首長墓群
             として、前方後方墳からなる飯野坂古墳群の築造が知られる。
             それらに次ぐ世代の首長が墳形を前方後方形から前方後円形に
             変え、さらに飯野坂古墳群とは異なる位置に築造したのが、この
             雷神山古墳。
             遠見塚古墳(仙台市 4C末~5C初):墳長約110mの前方後円墳
  • May 2016 編集されました
    3世紀中~4世紀中 大和の大王墳
    纏向の地に都が築かれ、事実上の最初の天皇と云われる崇神天皇が現れ、全長200mを超える巨大な前方後円墳が造られるようになりました。
      古墳名称    時期    全長  被葬者(推定)   宮内庁治定
      箸墓古墳    3世紀中過 280m ○倭迹迹日百襲媛命 同左
      黒塚古墳    3世紀後半 130m  大彦命
      中山大塚古墳  3世紀後半 130m  伊香色謎命
      西殿塚古墳   3世紀末  234m ○崇神天皇     手白香皇女
      桜井茶臼山古墳 4世紀初頭 208m  彦坐王
      東殿塚古墳   4世紀初頃 139m  御間城姫
      行燈山古墳   4世紀前半 242m ○垂仁天皇     崇神天皇
      メスリ山古墳  4世紀前半 250m  日本武尊
      渋谷向山古墳  4世紀中過 310m ○景行天皇     景行天皇
      ○印は有力な説です。

    メスリ山古墳  奈良県桜井市高田
    桜井茶臼山古墳と同時期または一代後の築造とされる柄鏡形の前方後円墳。桜井茶臼山古墳から南西に約1.6kmにあり、茶臼山に次ぐ築造とされる。全長224m、後円部径128m・高19m、前方部幅80m・高8mで、陵墓指定がない。この古墳に先立つ桜井茶臼山古墳の「丸太垣・二重口縁壺」に代るように、巨大埴輪列(最も多く並べられた円筒埴輪が経56cm、高さ119cmで、最大の特殊円筒埴輪は、高さ2.42m、口経1.31m、胴部経90cmのものがある)が二重に方形壇の上に並べ立てられこと、未盗掘の副室が発見されたことがこの古墳の特色である。
    被葬者については次のような推察がある。桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳の位置・古墳形状、時期、およびヤマトへの東側(宇陀)からの侵攻を監視した磐余(いわれ)の地にあること、後にオオビコ系統を名乗る安倍氏の本拠である点などに鑑みて、桜井茶臼山古墳の被葬者は、崇神天皇の叔父にあたり四道将軍の大彦命(オオビコノミコト)で、メスリ山古墳の被葬者は、その子で同じく四道将軍の建沼河別命(タケヌナカハワケノミコト)である可能性が指摘されている。(塚口義信:三輪山の古代史、学生社、2003.3)
  • 3世紀前半 纏向(箸中古墳群)
    最初の巨大な前方後円墳が築かれたのは3世紀前半の奈良の纏向遺跡の近くです。当時の纏向には王宮が築かれ、倭国の中心として栄えていたようです。
    箸墓以前に6基の大きな古墳が3世紀前半に造られています。
    ホケノ山古墳だけが、他の古墳から離れて箸墓古墳の近くに築かれています。
      古墳名称   時期    全長  被葬者(推定)
      纏向石塚古墳 3世紀前半  96m  孝霊天皇
      纏向矢塚古墳 3世紀前半  96m  細媛命
      纏向勝山古墳 3世紀前半 115m  孝元天皇
      東田大塚古墳 3世紀前半 120m  欝色謎命
      ホケノ山古墳 3世紀中頃  80m  開化天皇
  • こんな説もある
    http://kusegakunoto.progoo.com/bbs/kusegakunoto_tree_r_20884.html
    「発生期の大型前方後円墳で、天皇家の中に該当者が見当たらない古墳が存在する。
    しかもその古墳の規模は大王墓に匹敵する。
    桜井茶臼山古墳とメスリヤマ古墳、それに西殿塚古墳である。
    古墳築造の順序は異論もあるが、おおよそ次のようなものである。
    箸墓古墳―行燈山古墳―渋谷向山古墳(天皇家)
         桜井茶臼山古墳―メスリヤマ古墳(物部氏)
         西殿塚古墳(倭氏)
    崇神朝から景行朝時代で大王墓クラスの古墳を築くことのできる豪族は、物部氏と倭氏くらいである。
    私も桜井茶臼山古墳は物部氏の古墳と推測する。被葬者を推定すれば伊香色雄あたりである。
    また西殿塚古墳は倭氏の市磯長尾市あたりであろう。
    物部氏の本拠地は大阪平野の東、生駒山麓あたりとされるが、物部氏も大和朝廷の政治の中心近くに住んだことが推測される。
    纏向あたりに居を構えていたとしても不思議はない。
    纏向の近くに、渋谷向山古墳の陪塚とされる全長150mほどの前方後円墳がある。上ノ山古墳である。築造の時期は古墳前期とされる。
    この古墳の裾に水口神社という神社がある。祭神は物部氏の大水口宿禰である。『日本書紀』の崇神朝に登場する人物で、この古墳も物部氏の古墳である。」
  • May 2016 編集されました
    兵庫県たつの市御津町の前方後円墳権現山51号墳に注目される。権現山の山頂に築かれた全長43mの小規模古墳に過ぎないが、1989年3月に岡山大名誉教授の近藤嘉郎氏の調査チームが竪穴式石室を調査して驚くべき発見があった。石室は盗掘の被害にあっていたが、「三角縁神獣鏡」5面と、弥生墓にある「特殊器台」の発展形で埴輪の原型とされる「特殊器台形埴輪」が、一緒に見つかったのだ。この特殊器台形埴輪は箸墓古墳で見つかっている都月型特殊器台形埴輪と同じであり、そのため権現山51号墳は弥生と古墳両時代の接点となる最古型式の「前方後円墳」として注目されている。

    粒坐天照神社
    人皇第32代崇峻天皇・第33代推古天皇の御代、播磨国現在のたつの市に伊福部連駁田彦という長者があり、人格者で近くの住民に篤く信頼されていた。この彦の邸の裏によく茂った社があって、推古天皇2年正月1日にこの社の上に異様に輝くものが現われた。彦がこれを見つめていると忽然として容貌端麗な童子の姿となって曰く、 「我は天照国照彦火明命の使である。天火明命の幸御魂はこの地に鎮まり、この土地と人々を守り給うて既に千年を超ゆ。今汝の正直、誠実なるに感じ給い天降りまして神勅を授けようとされている。神勅を奉戴し新しい神社を造営して奉祀せよ。 すなわち、今ここに種稲を授け給う。これを耕作すれば汝の田のみならずこの里全体に豊かに稔り、この土地は永く栄えてゆくであろう。」 と。 ここで使者の童児はまた忽にして昇天して去り、あとに種稲が残されていた。駁田彦がこの神勅を尊み奉戴することを誓うと彦の田のみならず近くに一夜にして千頂もの水田ができた。駁田彦が中心となって神社を建立奉斉し、またこの水田に授かった種稲を耕作すれば大豊作となり一粒万倍したという。以後この土地は米粒を意味するイイボ(粒)の郡と呼ばれ播磨の穀倉地帯となった。駁田彦を始め入々は嬉び感謝し、この神社を粒坐天照神社と称して氏神と崇め今日に到っている。

    賀茂神社(兵庫県たつの市)播磨国室社
    播磨灘に面して鎮座。平安時代に京都の上賀茂神社の直系御厨(みくりや)になりました。
    兵庫県たつの市御津町室津75
     祭神 賀茂別雷命、建速須佐之男命、菅原道真命
     摂社 片岡社(賀茂建角身命)、太田社(意富多多泥子命)、
         椙尾社(天照大神・豊受大神)、貴布祢社(高龗神)、
         若宮社(玉依日子命)、摂社は本殿左右に鎮座。

    神戸神社
    所在地 兵庫県たつの市揖保川町神戸北山
    主祭神 大己貴命、少彦名命
    別名 なくわずの宮

    見宿禰神社 (兵庫県たつの市)
    出雲墓屋伝承地に建てられ、神社敷地内に野見宿禰の塚がある。龍野公園内にある境内には明治大正時代の力士84名および行司が寄進した玉垣が残る。この地で病没した野見宿禰の墓を建てるために人々が野に立ち(立つ野)手送りで石を運んだ光景が、「龍野」「たつの」の地名の由来とされている。
  • May 2016 編集されました
    「播磨国風土記」で、揖保の郡の条に、勝部、太田など渡来系の技術者がこの地に住み、農地を広げていった様子が分かる。それを朝廷が認め、この地方の豪族に取り立てたことを、この地方最大の「瓢塚古墳」(ひさごつか)が物語っており、100基を超す丁古墳群も丁山山中に集中している。


    丁(よろ)瓢塚古墳
     国指定史跡。姫路市勝原区丁の県道421号線沿いにある全長104mの前方後円墳です。市内では壇場山古墳に次ぐ大きさで、平地に築かれていることから、私が中学生の頃には、中期の前方後円墳と考えられていました。しかし、現在は前方部がバチ形に開いた形態や、古式の壷形特殊土器が出土したことから、最古級の古墳と考えられています。葺石、埴輪が確認でき、かつて後円部の南縁に板石を積んだ竪穴式石室の一部が露出していましたが、現在は一部の石材が見えているだけです。

    若宮松尾神社
    所在地  姫路市勝原区熊見482
    主祭神  大山咋神  オオヤマクイノカミ
    摂末社  木花開耶姫命 若雷神                    
        コノハナサクヤヒメノミコト ワケイカヅチノカミ
    由 緒
     神話によると、大山咋神は、須佐之男命の子「大年神」の子である。「大山咋」とは、古代農耕儀礼のことで、夏至の日の出に猪や鹿を捕獲し、穀物の守護神・大年神に供え、今年の豊作を祈った後、全員で大会食を開くことをいった。
  • 播磨の前期古墳―揖保川流域
     三角縁神獣鏡は魏から卑弥呼に与えられた鏡であろうから、これを副葬した古墳は箸墓古墳
     三角縁神獣鏡が古墳から出土した数は、兵庫県が45面で全国第3位、全国計が約400面であるところ1割超を占める(第1位は奈良県74面、第2位は京都府55面。平成13年3月末時点の文化庁統計によるとされるが未確認)。

     播磨4河川のうち、揖保川と加古川の流域で多くの前期古墳が築かれた。本項では揖保川流域に点在するものを取り上げる。
    揖保川下流域の右岸にある養久古墳群に「養久山1号墳」(たつの市揖保川町養久)がある。養久山の最頂部(標高99.5m)から南に下った尾根筋(標高94.5m/比高83m)にあり、揖保川の沖積平野を一望する。墳長31.65m/後円部径18mを測る前方後円墳で、2段築成、葺石あり。墳形は箸墓とほぼ同形とされ、3世紀中ごろの築造であろう。小形四獣鏡を出土した。
    同じ下流域で、揖保川を挟んだ左岸には「丁瓢塚(よろひさごづか)古墳」(姫路市勝原区丁)が対峙する。海から3.5kmほど内陸へ入った平野部に立地するが、埋め立てのない築造時はもっと海に近かった。墳長104m/後円部径54.5mを測る大型の前方後円墳で、後円部3段・前方部2段の築成と推定され、葺石・埴輪を備える。古式の土師器や壺型土器が採取され、墳形が箸墓の3分の1の相似形という。埋葬部が未調査なので、箸墓とどちらが先に築造されたかは不明。
    なお丁瓢塚の東方に聳える、丁(よろ)山、京見山、山戸裏山が連なる山塊に90基余りの古墳があった。5世紀半ばから7世紀半ばにかけて造られたもので「丁古墳群」と総称されるが、多くが失われ、丁瓢塚に近い「丁古墳公園」に5基が保存されている。

     揖保川を河口から20kmほどさかのぼると、中流域の右岸に「吉島(よしま)古墳」(たつの市新宮町吉島)がある。南北に細長い新宮盆地の北端にあって、川に張り出す急峻な松山の山頂近く(標高250m)にある。墳長30m/後円部径16mを測る前方後円墳で、葺石・埴輪なし。(舶載)三角縁神獣鏡3面と内行花文鏡・龍虎獣帯鏡・波紋帯龍虎鏡の各1面を合わせ、銅鏡6面を出土した。三角縁神獣鏡が多量に副葬されていた「黒塚古墳」(奈良盆地・32面を出土)や「椿井大塚古墳」(京都府木津川市・33面を出土)などと同氾のものがあるので、畿内王権と密接な関わりを有した首長の墳墓であろう。3世紀末の築造と推定される。

     新宮盆地から揖保川に沿って15kmほど下ると、右岸に御津(みつ)山系の東端にあたる権現山(標高138m/比高133m)がある。
    山頂にある「権現山51号墳」(たつの市御津町中島)は眼下に揖保川を望み、樹木に遮られなければ瀬戸内海を観望する。
    墳長42.7m/後方部辺28mを測る前方後方墳で、後方部には貼り石状に葺石があった。主丘の墳形が異なるものの、箸墓の5分の1規模といい、(舶載)三角縁神獣鏡5面、鉄剣、鉄鏃などを出土した。吉備で生まれた特殊器台・特殊壺が埴輪に発達する途中段階の特殊器台型埴輪・特殊壺型埴輪が検出され、吉備系の土師質土器も出たことから、畿内と吉備の双方に密接な関係をもった被葬者の墳墓であろう。4世紀前半の築造と推定される。

     さらに5kmほど揖保川を南に下って新舞子海水浴場にいたると、傍らの独立丘陵(標高50m)に「輿塚(こしづか)古墳」(たつの市御津町黒崎)がある。後円部3段・前方部2段の築成で、葺石あり。円筒・朝顔形・盾形埴輪を備えた。墳形規模に両説があり、墳長110m or 90m、後円部径60m or 52mという。大きい方の値であれば丁瓢塚と並び揖保川流域で最大の前方後円墳となるが、前方部は失われている。盗掘し尽されたようで副葬品は不明だが、三角縁神獣鏡があったとも伝わる。瀬戸内海との関わりのあった首長の墓と見られ、4世紀中ごろの築造であろうか。

    一転して揖保川を40kmほど上流へさかのぼると、播磨から因幡へ向かう因幡街道に沿って通称・寺山(標高244m/比高80m)がある。山頂の「伊和中山1号墳」(宍粟市一宮町伊和)は、後円部が楕円形をした前方後円墳で、墳長62m/前方部径35.6-26.3mを測り、葺石あり、埴輪なし。 (仿製)方格T字文鏡、素環頭大刀、鉄剣、鉄鏃など、豊富な副葬品を出土した。〔素環頭大刀(そかんとうたち)とは、柄頭に円形や楕円形の環を付けた刀装のもの〕
     4世紀末の築造とされ、金属の採取・製錬に関わった伊和一族の首長の墓であろうという。『播磨風土記』によると、伊和氏は出雲からこの地に進出してきた一族で、宍粟(しそう)市内にある「伊和神社」は、伊和大神(大国主命)を祀り播磨国一の宮である。
  • May 2016 編集されました
    浦間茶臼山古墳(うらまちゃうすやまこふん)は、岡山県岡山市東区浦間にある古墳。形状は前方後円墳である。国の史跡に指定されている
    古墳時代前期の3世紀末に築造されたと考えられている。古代吉備最古の大型前方後円墳の一つである。全長は約138mで、前方部は長さ約61m、後円部は径約81m・高さ約13.8m。前方部は畑として開墾され、現在は桜が植えられて公園となっている。後円部は竹藪と北側に墓地がある。古墳の東側と南側には住宅団地が迫っている。古墳は本来の姿から変形しており規模は推測の域を出ない。前方部が北東を向き頂部は後円部頂部より約4m低くなっている。前方後円墳としては最古の形式であり、奈良県桜井市にある箸墓古墳の約二分の一の規模で形が酷似しているとの指摘もある。

    ^ 最古様式の円筒形埴輪で直線と曲線の特徴的な模様が描かれている
    ^ 石材は香川県北部または備讃瀬戸の島から採取されたと推測されている

    報告書『岡山市浦間茶臼山古墳』(浦間茶臼山発掘調査団、真陽社、1991年刊)に篦被のある銅鏃について、つぎのようなことが、記されている。 「有茎篦被柳葉式銅鏃を出土した古墳は20数例が知られている。このうち岡山県磐梨(いわなす)郡可真(かま)村[現・赤磐(あかいわ)郡熊山町〔現・赤磐市〕]出土例、兵庫県豊岡市森尾古墳出土例、京都府八幡市美濃山古墳出土例は浦間茶臼山古墳と同形同大品である。従来、箆被柳葉式銅鏃は月の輪古墳や新沢千塚500号墳など比較的新しい時期の古墳で出土することが多く、確実な最古型式の古墳からの出土例は確認されていなかった。」

    ここの引用文のなかにみえる兵庫県の森尾古墳は、正始元年銘の三角縁神獣鏡の出土したことで知られる古墳である。
    大塚初重・小林三郎編の『日本古墳大辞典』(東京堂出版、1989年刊)は、森尾古墳の築造年代について、「四世紀末から五世紀初頭の年代を与えておきたい」と記す。正始元年鏡は、奈良県の桜井茶臼山古墳からも出土している。
  • 高松市・船岡山古墳 四国最古級の円筒埴輪が出土

     高松市教委は、徳島文理大学と共同で発掘調査を続けている同市香川町の「船岡山古墳」(全長45mの前方後円墳)で、四国最古級のものとみられる円筒埴輪が大量に見つかり、前方後円墳の形状などから、古墳時代前期の3世紀後半のものあると発表した。
    ■ 前方後円墳は全長44mで、前方部が3世紀後半の特徴である三味線のばち状に開いた形をしている。
    ■ 東側に比べ、西側が石を列状に並べて裾を区画する精巧な造りで、集落があった西側からの眺望を意識していたとみられる。 構造は平らに削った土地に盛り土をした後、石を積み上げ、その上にさらに盛り土をしており、讃岐地方で主流の「積石塚」と、畿内などで一般的な盛土だけの古墳とを併せた様式の可能性がある。
    ■ 円筒埴輪は高さ60cm以上、直径30cmほどと推定され、透かし穴の形は三角形や巴形で、突起で区切った段ごとに4つ以上並ぶ。 透かし穴が円形で1段に二つ並ぶ4世紀のタイプと異なる。
    ■ 同時期の石清尾山古墳群(同市峰山町など)とは古墳の特徴が異なることから、高松平野には有力者の勢力が二つ以上あったと考えられる。

    [参考:2012.3.15 NHKニュース、2012.3.17毎日新聞]

  • 玉手山諸墳の墳丘と年代
    玉手山古墳群の前方後円墳について、主として墳丘形態から、これに副葬品や埴輪、埋葬施設の構造に関する研究を参考に、個々に位置づけを試みよう。
     9号墳 玉手山古墳群で最古の前方後円墳である。墳形は東側面が失われているが、前方部は細く長い。柄鏡形の前方部をもち桜井茶臼山古墳に類似するが、9号墳は茶臼山よりも前方部相対長は長く、相似形とはいえない。ただし、9号墳の前方部前面は、崖が迫っているため十分に明らかになっておらず、なお検討の余地はある。茶臼山型の相似墳については、いまだ確実例は少ないが、椿井大塚山古墳や下池山古墳が該当すると考えている。9号墳の埴輪は特殊壺形・器台形埴輪であるものの、都月型線刻は形骸化し線刻のないものが多いが、壺形埴輪は胴部に突帯のつく形態をとどめている。これらがテラス面に樹立されていることは注意される。竪穴式石室の下部構造は古い特徴を示している〔安村2003〕。副葬品は鉄剣と琴柱形石製品2が知られる。琴柱形石製品のうち1点は濃緑色の碧玉製品であり、雪野山古墳から類品が出土しており、もう1点は緑色凝灰岩であるが、同質の石製品が桜井茶臼山古墳から出土している(腕輪形石製品・特殊弓形模造品)。
     以上のことから、9号墳については倭製鏡や腕輪形石製品が出現する、最古段階の次段階、大賀のいう前Ⅲ期にあてうるが、埴輪を既にテラスに樹立していることからすると、やや年代を下降させて考えるべきかもしれない。
     3号墳 発掘調査で確認できた前方部、測量図から推測できる後円部の墳端からすると、西殿塚古墳に類似する。とくに、ほぼ直線化しながらわずかに反りを見せる前方部の形状および3段の前方部の割り付けは、西殿塚古墳の墳丘が著しく左右非対称であるため比較がやや難しいが、おおむね共通している。墳丘規模は西殿塚221m160歩に対して、3号墳は97m70歩と推測する。後円部の墳端および各段の規模を発掘調査で確認できていないが、西殿塚型の相似墳である蓋然性が高い。3号墳の埴輪は、壺形埴輪と円筒埴輪、そして朝顔形埴輪がある。いずれも全容は不明であるが、底部穿孔がなされた壺形埴輪があり、一方で器台形埴輪の口縁部を表現した朝顔形埴輪があり、東殿塚古墳のものに共通する事例である〔加藤2001〕〔鐘方2001〕。巴形の透孔をもつ壺の胴部片もある。また1点のみであるが都月形線刻のあるものが存在する。また出土状況から、埴輪が据え置かれたのは墳頂部のみで、テラス部にはいまだ樹立されていないことが確認できた。
     埋葬施設は、竪穴式石室とみられるが盗掘大破しているらしい。なお、安福寺にある割竹形石棺は、この3号墳にあったものと伝えられている〔梅原1914〕。直弧文をもつ香川県鷲の山石の石棺である。しかし、これが3号墳の石室に内蔵されていたものかどうかは、検討の余地があると思われる。かつてのレーダー探査では、石棺に見合う幅のある石室とされたが、天理大学の実施した最新のレーダー探査では、石室は大きく破壊されて壁体がよく残存している様子はないとのことである。前期古墳に通有の狭長な竪穴式石槨とみるべきかもしれない。この石棺が3号墳の墳丘北側にあったのだとすると、すぐ北の2号墳では石棺があったことは確かなようであり〔岸本2002a〕、2号墳の石棺であった蓋然性も考えられる。
     3号墳は、西殿塚型の墳形、都月型線刻がほぼ消失し朝顔形埴輪が出現している埴輪の様相から、9号墳に後続するものと考えられるが、あまり時間差はないように思われる。西殿塚古墳が3世紀後半とすれば、3号墳は3世紀末頃から4世紀初頭に位置付けうる。
  • May 2016 編集されました
    メスリ山古墳(めすりやまこふん)
    規模 墳丘長224m
    高さ23m(後円部)
    築造年代 4世紀初頭(古墳時代前期)
    埋葬施設 竪穴式石室(内部に木棺)
    出土品 三角縁神獣鏡・鉄弓等鉄製品・銅鏃・碧玉管玉・埴輪など多数

    奈良県桜井市高田にある前方後円墳。国の史跡に指定されている。この古墳は、磐余の地に接した初瀬川の左岸にあり、桜井茶臼山古墳(外山(とび)茶臼山古墳ともいう)らと共に鳥見山古墳群に属する。特徴的なのは、埋葬施設の副石室が遺品庫の様相を呈していることである。箸墓古墳の方が、年代的に先行する。別称は鉢巻山古墳、東出塚古墳などと呼称される。

    規模・埋葬品とも大王墓級だが、記紀や『延喜式』などに陵墓としての伝承がない。墳丘規模・埴輪の大きさ・埋葬施設・副葬品収納施設・遺物などを考え合わせると、本古墳は絶大な権勢を誇った首長の墳墓であると考えられる

    墳丘長224メートル(復元すると250メートルとする説もある)。後円部は3段築成で径128メートル・高さ19メートル、各段に円筒埴輪列が巡り、斜面には人頭大の葺石がある。円筒埴輪は、後円部の三段と方形壇の墳頂部に密集して二列、また、墳頂部では二列の埴輪の間隔をとっている。

    後円部の頂に竹垣を巡らしたように埴輪[2]の囲いがしてある箇所は、長辺約11.3メートル、短辺約4.8メートル、想定された高さ1メートルを下らない長方形の壇がある。直径1メートルもの円筒埴輪は方形埴輪列の最内側の角や辺を等分する位置に立っている。

    前方部は二段築成で幅80メートル・高さ8メートル。埴輪は、方形壇の外側に間隔を置いて点在する。陪墳群は見られない。前方部を西に向けて立地する。

    器台型埴輪は、高さ2.4メートル、径1.3メートルで日本最大である。朝顔形(円筒埴輪の上に高杯形埴輪を載せている)埴輪も出土している。

    後円部頂上の中央に木棺を納めた主石室(長さ約8.06メートル、幅約1.18メートル、高さ1.76メートル、8石の天井石で覆われている。)にあたる竪穴式石室がある。盗掘によりほとんど遺物を残していない。

    主石室の横にあった副石室は、長さ6メートル、幅70センチメートル、高さ60~70センチメートルで盗掘を免れている。また、古墳時代の一つの特徴である自然石を徐々に内側に持ち送り天井部で合掌式の竪穴式石室で、内部には遺骸がなく、武器ばかりが埋納されていて、格納庫、遺品庫であったと考えられる。
    副葬品は奈良県の前期古墳の埋納品の一端がしのばれる。主石室は、遺体を埋葬し、玉石製品では翡翠の勾玉、碧玉の管玉、貝輪を真似た石製の腕輪類、ミニチュア化した石製の椅子、櫛、合子などを納めた。盗掘のため著しい破壊を受け、盗掘の激しさを物語っている。出土した遺物は、内行花文鏡・三角縁神獣鏡の破片、石釧(いしくろ)・鍬形石・車輪石・椅子形石製品・櫛形石製品、石製合子(ごうす)などと玉類・刀剣などである。

    副石室は、副葬品を納め、212本の茎式鉄矛、これらの鉄矛は、約半数ずつ石室の両端に鋒(きつさき)を向け合った形になっていた。いずれも長柄をつけていたと想像される。集団戦に用いられる武器である。鉄剣形の槍先にした鉄矛は、朝鮮半島南部や北九州でも出土していて、当時の武器の中心になっていた。この武器は日本列島で大流行し、日本でも鍛造技術が駆使されたことは間違いない。236本の銅鏃、50本の石鏃、鉄弓1本(長さ182センチメートル、弦も鉄製)、鉄製矢5本(長さ80センチメートル)、漆塗り盾。鉄弓や鉄矢は、実用性ではなく、武器本来の機能である威嚇用である。木製の弓もあったであろうと思われる。鉄剣、鉄刀それぞれ1本。さらに、斧(鉄斧14)、手鎌(19)、鑿、やりがんな(51)、錐、刀子、鋸などの農耕具。玉状に似た石製品。
  • 桜井茶臼山古墳の上空写真、同古墳の全体像、メスリ山古墳空撮及び同古墳の平面図。

    双方とも、柄鏡形の墳形を持ち、大王墓とは異なるとも云われているが。
    柄鏡式前方後円墳は、前方後円墳の形が定まる以前の古墳時代前期に造られたものと想定されている。

    茶臼山・メスリ山古墳双方とも大王墓から除外する研究者がいるが、その理由として、両古墳の前方部が撥形でなく柄鏡形であること、周濠を巡らさないこと、古墳群を構成しないで独立していること、などを上げている。

    茶臼山・メスリ山古墳の被葬者として、安倍氏の祖先との伝承がある“オホヒコ”と“タケヌナカハワケ”が候補としてあげられている
  • 対馬島内で最大、最古の本格古墳です。

    出居塚古墳(鶴の山古墳)

    鶏知えびすが隈の頂上にある全長約40mの前方後方墳です。
    後方部中央で竪穴系の埋葬施設が確認されているが、盗掘されており、詳細は不明。長崎県内で唯一の前方後方墳で、対馬最古(古墳時代初期 4世紀後半)に造営されたものと考えられます。棺底から有茎柳葉式銅鏃や管玉、鉄剣、鉄刀等が出土しました。この銅鏃は、古式畿内型古墳の典型的出土品です。また墳墓の主(被葬者)が、畿内政権に服属した古代豪族であったことを示唆しています。2002(平成14)年に県指定史跡に指定されました。
  • 玉若酢命神社古墳群の詳細

    8基の古墳からなる。最も大きい古墳は全長33m,隠岐で最も古い前方後円墳

    ●名称
    玉若酢命神社古墳群 (タマワカスミコトジンジャコフングン)
    ●所在地
    〒685-0017 島根県隠岐郡隠岐の島町下西

    サヌカイトより強力な隠岐の黒曜石は広く山陰地方一帯の縄文遺跡に分布し、東は能登半島、西は朝鮮半島にまで及ぶ。弥生時代後期に水稲栽培が島に入り、島後南部の八尾川下流東岸に月無遺跡が出現する。隠岐には約200基の古墳が分布、八尾川下流に隠岐最大の前方後円墳である平神社古墳(へいじんじゃ、全長47メートル、長さ約8メートルの横穴式石室)がある。

    大化の改新以前には億伎国造が設置され、玉若酢命神社宮司家である億岐家が国造家であったと考えられている。646年(大化2年)隠岐駅鈴2個及び隠岐国倉印が西郷町の玉若酢命神社におかれた。隠岐国設置の年代は不明だが、大化改新後全国に国郡が置かれた時から存在したと考えられる。また、当時の木簡には「隠伎国」と記しているものもあり、設置当初にはこの名称が使われていた可能性もある。
  • 松浦市内 最古級
    長崎県松浦市福島 横島古墳
    福島町喜内瀬免字新田の喜内瀬園地内の藪の中にある。ここはかつて小島であったが埋め立てられた現在では陸続きになっている。 
     古墳時代後半の6世紀中頃の横穴式石室をもつ円墳で、石室が露出し、覆土は一部が残っている。副葬品としては、鉄製直剣2本、勾玉1個、須恵器の破片、石器片が出土したと言われている。往古、喜内瀬が福島での文化発祥地であることを物語っている。
     長崎県北一帯の後期古墳の立地を見た場合、福島・鷹島・的山大島・生月島・度島などの海岸部に多く点在していることから、被葬者は海洋的性格を有し、海洋集団内でも突出した人物が埋葬されているものと思われる。
     横島古墳は、松浦市内でも最古級の古墳であり、古代史を研究する上で欠かせない古墳であ
  • たにぐちこふん【谷口古墳】


    佐賀県唐津市浜江町にある古墳。唐津平野の東端にある標高535mの十坊山(とんぼやま)から南西に派生する標高20~40mの丘陵上にある前方後円墳。1941年(昭和16)に国の史跡に指定された。古墳の全長は77m。後円部に長持ち形石棺を安置した2つの石室をもち、前方部に舟形石棺を埋納。2つの石室は従来は竪穴(たてあな)式石室とされていたが、1989年(平成1)の調査で、前方に入り口をもつ竪穴系横口式石室であることが判明。また、その際出土した円筒埴輪(はにわ)片から4世紀末ごろ築造されたこともわかり、竪穴系横口式石室をもつ最古の古墳であることが明らかになった。出土品には銅鏡7面、石釧(いしくしろ)11個、鉄器類、玉類などがあり、長持ち形石棺とともに豪華で、畿内(きない)的な要素を色濃くもつ一方、横口式石室という朝鮮半島の古墳文化の流入と、その展開を知るうえで重要な古墳といわれている。JR筑肥線浜崎駅から徒歩約20分。
  • 銚子塚古墳(ちょうしづかこふん)
    昭和30年1月1日指定
    佐賀市金立町大字金立字八本杉2355
    古墳
    銚子塚古墳
     佐賀平野における最古期の大型前方後円墳である。脊振山系の南麓部に近い、標高約15mの微高地上に築かれ、首長墓としての風格に満ちた堂々たる姿を見せている。
     墳丘は前方部を西に向け、全長98mで佐賀平野2番目の規模を誇る。後円部に比べ前方部が低く幅の狭い典型的な古式古墳で、その名のとおり銚子型をしている。周囲には、幅約20mの周壕をもつ。
     墳丘は後円部3段、前方部2段築成と推定され、花崗岩円礫の葺石を持つ。また底部に穴を空け、丹を塗った土師器壺が6個以上出土している。これらは埴輪の原形にあたる用途が推定できる。
     4世紀後半に築造されたと推定され、佐賀平野における古墳文化の伝播と成立に重要な関わりを持つ古墳である。
  • 山口県竹島古墳出土品

    竹島御家老屋敷古墳は、4世紀前半につくられた県内最古の前方後円墳です。全長56m、後円部の直径35m、前方部の幅は23mあり、後円部のほぼ中央に竪穴式の石室がつくられています。
     出土品の35点は明治21年に発掘され、個人の所蔵となっています。このうち銅鏡3点は特に注目されるもので、魏で作られた「正始元年銘三角縁階段式神獣鏡」「天王日月四神四獣鏡」と呉で作られた「劉氏作神人車馬画像鏡」とがあり、同じ古墳から魏と呉の鏡が出土した例はなく、当時の倭国が魏だけでなく呉とも交渉を持っていたことを示す貴重な資料として高く評価されています。
     また、これらは大和朝廷の古代国家統一の歴史とも深く結びついていて、この古墳に葬られた被葬者は、当時の強力な豪族でありましたことをよく示しています。
     特に「正始元年銘三角縁階段式神獣鏡」は、蟹沢古墳(群馬県高崎市)や森尾古墳(兵庫県豊岡市)から出土した銅鏡と同笵鏡(同じ鋳型からできた鏡)であり、正始元年は邪馬台国の女王卑弥呼が魏に使いを出し、魏王から銅鏡100枚を贈られた翌年にあたり、出土した鏡はこうした「魏志倭人伝」に記されていることと深くかかわっていると考えられています。
  • 柴崎蟹沢古墳(群馬県・高崎市) - 正始元年の銅鏡が出土した4世紀の円墳、方墳との説も

    ・所在地:群馬県高崎市柴崎町蟹沢602番
    ・時 期:4世紀
    ・時 代:古墳時代前期
    ・形 状:円墳
    単に蟹沢古墳とも。古墳時代前期(4世紀)ころに築造された径12メートルの円墳(長22メートルの方墳との説も)。内部主体は粘土槨と推定されているが、詳細な出土状況は未詳。

    出土品は、銅鏡4面、短冊形鉄斧2個、鉄鑿1本、鉄製刀剣一括、土師器片9個。中でも三角縁四神四獣鏡は同向式と呼ばれるもので、内区の外側に時計回りで「□始元年陳是作鏡…」という銘文が巡る。

    銘文は下記の通り。
    「正始元年陳是作鏡自有経述本自▽師杜地命出寿如金石保子宜孫」(出典)

    同じ鋳型を用いて鋳造された鏡として、竹島古墳(山口県・周南市)、森尾古墳(兵庫県・豊岡市)のものがあり、これらの鏡の銘文解読から中国三国時代の魏の年号である正始元年(西暦240年)であることが判明した。

    ちなみに同年の240年を示すと思われる、実際には存在しない年号「景初四年」の銘を持つ銅鏡が、広峯15号墳(広島県・福知山市)と持田古墳群(宮崎県・児湯郡、伝承)から出土している。

    魏志倭人伝によると、正始元年に魏から倭国に金帛、錦罽、刀、鏡などを賜うとある。本三角縁四神四獣鏡はその年号を鋳だした鏡であり、邪馬台国の女王卑弥呼の時代を考える上で最重要資料である。

    桜井茶臼山古墳(奈良県・桜井市)で出土した銅鏡の破片にある「是」とみられる文字が、この古墳から出土した銅鏡とぴったりと一致したことが確認。桜井茶臼山古墳出土の銅鏡も「正始元年」銅鏡の可能性が出てきた。
    ・蟹沢古墳出土品 - e国宝
  • 平成17年5月19日の新聞に「宮崎県西都市の西都原古墳群にある前方後円墳が、宮崎大学の調査で、国内最古級と確認された。築造は三世紀中ごろから後半とみられ、畿内で同じ形式の古墳築造が始まったのとほぼ同時期。大和政権下に古墳がひろまったとする説に一石を投じ、古墳の成立を研究する上で貴重な発見となりそうだ。確認されたのは、『西都原81号墳』。後円部長さが約33メートル、前方部が約19メートル。前方部が短く撥の形に開いた『纒向型前方後円墳』で、本格的な前方後円墳の前に造られたとされる。南九州では最古という。後円部の墳丘付近から土器数点が出土。その特徴から築造時期が判明した。」という記事が出た。

    一方、昭和62年、京都府福知山市の広峰15墳から、景初4年銘の斜縁盤龍鏡が出土した。同年兵庫県西宮市の辰馬考古資料館は、広峰一五墳と同笵の景初4年銘の斜縁盤龍鏡を所蔵していることを公表した。この鏡は宮崎県の持田古墳群から出土したものであるそうだ。景初4年は240年で、この鏡は卑弥呼が魏から貰ったものだ。西都原古墳群の付近に、卑弥呼の活躍した三世紀の時代、邪馬台国があったという事を証明する、考古学的資料が発見され始めてきた。
  • 日本書紀の応神天皇22年に次の記事がある。「吉備国を割いて、その子どもたちに治めさせられた。川島県を分けて長子の稲速分に。これが下道臣の先祖である。次に上道県を中子の仲彦に。これが上道臣・香屋臣の先祖である。次に三野の県を弟彦に、これが三野臣の先祖である。また波区芸県を、御友別の弟鴨別に。これが笠臣の先祖である。苑県を兄の浦凝別に。これが苑臣の先祖である。」

    岡山平野に存在した国造は、備後国にある吉備品治・吉備穴、備中国にある吉備中県・笠臣・下道・加夜、備前国にある三野・上道・大伯の9ヵ国である。これらの国造のうち応神天皇22年の記事に出てくるのが、笠臣・下道・加夜(香屋)・三野・上道の6ヵ国である。大和朝廷設立当時、岡山平野にあった国造はもともと吉備国として一つの国造であったと思われる。

    延喜式で定められた備前国・備中国・備後国にあった国造を吉備国1ヵ国とする
  • 山陰最古の前方後円墳
    鳥取・浅井11号墳

    2015.9.26 22:50更新 山陰地方最古の前方後円墳の可能性があることが分かった浅井11号墳=26日午後、鳥取県南部町
     鳥取県南部町の浅井11号墳は、築造時期が3世紀末~4世紀初め(古墳時代前期)で、山陰地方で最古の可能性がある前方後円墳と分かり、島根大考古学研究室が26日の現地説明会で発表した。3世紀半ばに近畿地方で築造が始まったとされる前方後円墳が山陰地方に導入された時期を知る手掛かりになるという。

    明治時代に中国製とみられる画文帯神獣鏡が出土していたが、詳細は分かっていなかった。これまでは本高14号墳(鳥取市、4世紀初め)が山陰最古の前方後円墳とされていた。

     墳丘を測量したところ、後円部の直径約26メートルで、全長約45メートルの前方後円墳と判明。後円部には、長さ約5・5メートル、幅0・8メートルの竪穴式石室があることも分かった。

     板石を積んで石室の壁としており、石室の構造などから築造年代を推定した。

     また、近畿地方の前方後円墳に見られる埴輪や葺石は見つからなかったが、山陰の墳墓の特徴という。祭祀に使ったと考えられる土器のほか、副葬品とみられる鉄剣の破片も出土した。
  • 年輪年代による実年代から 年代観を再検討。

    纒向勝山古墳
    奈良文化財研究所と県立橿原考古学研究所が、奈良県桜井市東田の勝山古墳周濠(しゅうごう)の墳丘上にあった建物の一部として見つかった板状の木材の伐採時期が、年輪年代法による測定結果、残存する最も外側の年輪が199年、削られた年輪を考慮しても伐採年代は210年までとみられ、「紀元199年プラス12年以内」であることが分かったと発表した。これにより、3世紀後半とされてきた同古墳の築造年が3世紀前半に

    纒向石塚古墳(桜井市)
    用途不明の板の年輪年代が推定で一九五年ごろだった。 庄内式土器の通説である三世紀中ごろより、約五十年古い。
    纒向石塚古墳の周濠で平成元年に木製品が出土。ヒノキの伐採推定年代は200年前後だった。墳丘の盛り土に含まれる土器の様式から3世紀初めの築造とする見方もある。中国の史書「魏志倭人伝」によると、女王・卑弥呼の擁立は2世紀末。没年は248年ごろで、勝山古墳の築造が3世紀前半とすれば、卑弥呼の擁立から間もない時期に、2つの前方後円墳が相次いで誕生したことになる。ホケノ山古墳(桜井市箸中)の調査で3世紀中ごろにさかのぼった前方後円墳の年代は、今回の成果でさらに半世紀近く押し上げられる可能性が出てきた。


    弥生時代の墳丘墓では国内最大級とされる赤坂今井墳丘墓(京都府中郡峰山町赤坂)
    弥生時代後期末 (三世紀前半)に造られたことがわかった。弥生時代では国内最大級で、「丹後王国に つながる王の墓ではないか」として注目された。

    奈良県桜井市のホケノ山古墳(全長約八十㍍)が三世紀中ごろに造られたとみられ、埋葬施設が確認された最古の前方後円墳と分かった。

    国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)が、箸墓古墳が築造された時期は240~260年という研究をまとめた。放射性炭素年代測定によるもので、250年ごろ(248年)とされる卑弥呼の死亡時期と重なる。歴博は、全国の5千点を超す土器の付着物や年輪の年代を測定した結果、箸墓の堀や堤からも出土し、箸墓が築造された時期の土器と考えられている「布留(ふる)0式」が使われた期間を240~260年に絞り込んだ。

    古墳時代前期の二口かみあれた遺跡(石川県志雄町)は、建物跡の柱の年輪年代が 推定二五〇年ごろ。古墳時代前期の通説である四世紀初めより、やはり約五十年古い。
  • May 2016 編集されました
    宇土半島基部は熊本県内では最も早く前方後円墳が築かれた地域であり、4群(轟、緑川群・花園群・不知火東、松山群・不知火西部)に分けられていると、市史にあります。宇土市の市史編纂のスタンスは「古墳時代は箸中山古墳(箸墓)から始まる」ですから、最も早い築造とはいえ、畿内より早い設定はありません。それでも、轟、緑川郡の城ノ越古墳(前方後円・三角縁神獣鏡副葬)は3世紀末に属すると書いています。このあとの迫之上古墳(竪穴式石槨・鉄刀、鉄槍副葬)は4世紀中ごろ。不知火西部群の弁天山古墳が4世紀前半とされる他、他の地域はほとんど4世紀後半からの築造とされています。畿内の古墳の暦年代が次々に引き上げられる(その理由も驚きですが)中、九州は一向にその気配はありません。

    宇土市の前期の古墳はほとんどが舟形石棺です。
     そもそも石棺文化はいつ始まったものでしょう。弥生時代の木棺には地域の首長が埋葬されたそうです。古墳時代になると、木棺に粘土郭、木棺に竪穴式石槨、組み合せ式石棺・割竹型雛形石棺(刳抜式)に始まり、中期には横穴式石室に舟形石棺が継続し、組合せ式長持ち型・箱型・家形石棺が加わってくるそうです。後期には、横穴式石室が普及し舟形石棺から刳貫式の家形石棺が出現するというのです

    向野田古墳は4世紀後半の前方後円墳(89m)であり、竪穴式石槨に舟形石棺が置かれ、鏡3面・腕輪形石製品・玉類・棺外に鉄刀・鉄剣・などが副葬されていました。鏡は方格規矩鏡・内向花文鏡・鳥獣鏡で、弥生の後期に多く副葬されたのは方格規矩鏡(糸島の平原王墓の8割は方格規矩鏡)ですから、向野田古墳はその伝統を色濃く伝えているのです。前方古円墳に女性と確認された人の埋葬は珍しいそうです。それにしても、舶載三角縁神獣鏡を1面副葬された城ノ越古墳より、向野田古墳の築造が遅いとは、どういうことでしょうね。舶載(?)という眉唾な三角縁神獣鏡は4世紀の古墳から出ると聞きますよね。副葬品は古いタイプのセットだが舟形石棺を使用している点から、築造は古墳時代前期の半ばとされているそうです。
  • May 2016 編集されました
    夕田茶臼山古墳
    岐阜県|加茂郡富加町
    3世紀中頃、弥生時代と古墳時代のはざまの時代の前方後円墳 県最古級 町指定史跡
    夕田茶臼山古墳範囲確認調査報告書
    http://www.town.tomika.gifu.jp/tourism/syoseki/chausuyama-kohun.html
    平成21~24年度に調査を実施した「夕田茶臼山古墳」の調査報告書。調査の結果、夕田茶臼山古墳は3世紀前半に築造された前方後円墳と判明し、岐阜県最古の前方後円墳として注目されています。

    円満寺山古墳群
    所在地 海津市南濃町庭田字東山円満寺霊園山頂

    1号墳は前方後円墳で、岐阜県最古級です。
    新たに2基の円墳が見つかっています。
    1号墳は
    全長:約53m、後円部長径(南北系):約26.1m、後円部短径(東西系):約20.9m、前方部長:約26.9m、前方部幅:約16.5m
    4世紀後半のものであると考えられている。
    後円部のほぼ中央に竪穴式石室があり、三角縁神獣鏡を含む
    銅鏡3面と鉄剣・鉄刀・鉄鏃・鉄斧などの鉄製品が見つかっている。

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