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April 2016
宇佐の赤塚古墳
3C中頃から末(前期最古期) 規模 墳長 57.5m 後円部径36m 高さ4.8m 前方部幅21m 2.5m 出土品 後円部の箱式石棺から三角縁神獣鏡4面・三角縁龍虎鏡1面・碧玉管玉、鉄刀片、鉄斧など史跡指定 国史跡特記事項 九州最古の前方後円墳とされ三角縁神獣鏡はいずれ紹介する奈良の椿井大塚古墳の神獣鏡と同笵鏡(同じ鋳型から作製)のものもふくまれているといわれている。
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April 2016
大分県の前期古墳
宇佐の高倉古墳
大分県宇佐市長洲
形 式 前方後円墳
規 模 全 長 140 m
後円部 直 径 90 m
宇佐市 車塚古墳
県宇佐市高森車坂
形 式 前方後円墳
規 模 全 長 58 m
後円部 直 径 36 m
高 さ 4.5 m
前方部 先端幅 21 m
高 さ 3.5 m
築 造 4世紀後半
墳丘の周囲には幅22mの前方後円形をした周濠があります。
これらの外周施設をふくめた兆域の全長が80mになることが知られています。
埴輪の出土がなく埴輪の配列はなかったものとされています。
葺石が墳丘に施されていたとみられています。
古墳は宇佐風土記の丘公園内にあって保存されており大分県歴史博物館もあり出土品などを展示しています。
宇佐市免が原古墳
宇佐市川部免ケ平
形 式 前方後円墳
規 模 全 長 52.5 m
後円部 直 径 30.5 m
高 さ 4 m
前方部 先端幅 16 m
高 さ 3 m
築 造 前期
主体部は2つ確認されております。
後円部頂中央にある埋葬施設は第1主体とよばれ竪穴式石室で割竹形木棺が収められていました。
竪穴式石室は安山岩でつくられ全長5m幅1m高さ1mと測られています。
出土したものとして中国製斜縁二神二獣鏡、倭製三角縁三神三獣鏡、硬玉製勾玉、碧玉製管玉、ガラス製小玉、ガラス製玉、碧玉製石釧、鉄剣、鉄刀、鉄槍、鎌、鋤先、ヤリガンナ、斧、刀子、不明鉄器などが知られています。
後円部南寄りにある埋葬施設は第2主体とよばれ箱形石棺で埋葬されていました。
出土したものとして中国製斜縁二神二獣鏡、硬玉製勾玉、碧玉製管玉、碧玉製石釧、刀子などが知られています。
川部・高森古墳群を構成しています。
大分県竹田市 仏原1号墳
形 式 前方後方墳
規 模 全 長 25 m
後方部 一辺長 20 m
墳丘の規模については資料が不足しているため複数のデータが明確ではありませんが、後方部の辺20mで、墳丘全長は25mとなっています。
墳丘の周囲には馬蹄形をした周濠があります。
葺石は施されていなかったものみられています。
1996年に調査行われています。
仏原千人塚古墳群を構成しています。
この古墳の築造は古墳時代の前期にあたる4世紀初頭ごろと推定されています。
七ツ森古墳
大分県竹田市菅生の公園内
A号墳
所在地 大分県竹田市菅生
形 式 前方後円墳
規 模 全 長 51 m
後円部 直 径 29 m
高 さ 6 m
前方部 先端幅 8 m
高 さ 3 m
築 造 前期
発掘調査が1988年に行われています。
後円部頂中央にある埋葬施設は箱形石棺で埋葬されていました。
出土したものとして垂孔のある特殊な玉、管玉、玻璃質小玉、分銅扁平石、碧玉製石釧、鹿角製刀子などが知られています
豊後大野 立野古墳
所在地 大分県豊後大野市三重町上田原立野
形 式 柄鏡式の前方後円墳
規 模 全 長 65 m
後円部 直 径 38.5 m
高 さ 6.5 m
前方部 先端幅 12 m
高 さ 4 m
円筒埴輪、朝顔形埴輪、壺形埴輪などが採取されており墳丘には埴輪の配列がなされていました。
円礫による葺石が墳丘に施されていたとみられています。
発掘調査が1998年に、範囲調査が1996年に行われています。
立野古墳群を構成しています。
この古墳の築造は古墳時代の前期にあたる4世紀末ごろと推定されています。
豊後大野市 坊ノ原古墳
大野町北園
形 式 前方後方墳
規 模 全 長 45 m
後方部 一辺長 26 m
高 さ 4 m
前方部 先端幅 10 m
います。
発掘調査が1988年に行われています。
埋葬施設は箱形石棺で埋葬されていました。
この古墳の築造は古墳時代の前期と推定されています。
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May 2016
川部-高森古墳群 かわべたかもりこふんぐん
大分県宇佐市川部・高森にある古墳群。駅館(やっかん)川の右岸、宇佐原といわれる標高30mの段丘の一角に所在する。6基の前方後円墳を中心として、周辺に約120基の円墳や周溝墓が集まった古墳群である。九州最古の一つとされる前方後円墳として著名な赤塚(あかつか)古墳は、古墳時代前期(3世紀後半~4世紀初頭)に築造されたもので、免ケ平(めんがひら)古墳がこれに続き、角房(かくぼう)古墳、車坂(くるまざか)古墳、福勝寺(ふくしょうじ)古墳が古墳時代中期(5世紀)ごろ、鶴見古墳が古墳時代後期(6世紀)ごろの前方後円墳。これら6基の前方後円墳は、古墳時代に宇佐地方を支配していた首長、おそらくは宇佐国造(くにのみやつこ)一族の墳墓と推定され、1980年(昭和55)に国の史跡に指定された。周囲の古墳や周溝墓はその一族や臣下の墓と推測され、3~6世紀の間に同じ地域に継続して古墳が築造されていることから、長期にわたって安定した支配が行われていたと考えられている
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May 2016
伊予の古墳
現初期の古墳
相の谷古墳 越智郡
櫛玉比売命神社古墳 風早郡 北条平野
小森古墳
大日裏山古墳
小竹古墳
桜山古墳
櫛玉比売命神社古墳よみがな くしたまひめのみことじんじゃこふん
前方後円墳
都道府県 愛媛松山市高田
JR予讃線「伊予北条駅」よりバス又はタクシー利用
松山市, 高田古墳群, 前方後円墳, 神社
紹介文
全長約75mの前方後円墳。
後円部径約42m、高さ約7m、前方部幅約39m、高さ約6mを測り、葺石を備える。社殿建立で後円部を削った際に竪穴式石室が見つかり、勾玉などが出土したというが詳細は不明。採取された埴輪から4世紀後半の築造と推定されている。隣接する国津比古命神社も古墳(全長約45mの前方後円墳か)の上に建立されている。
櫛玉比女命神社 くしたまひめのみこと
鎮座地 奈良県北葛城郡広陵町弁財天
ご祭神 櫛玉比女命
「神名帳考証」では、物部氏の祖天饒速日命の妻で長髓彦の子御炊屋比売命とされる。
「大和志」では「延喜式」神名帳広瀬郡の櫛玉比売神社に比定とあり、寛政三年(1791)刊の「大和名所図絵」にも櫛玉比売神社は弁財天村にあると記されているが、外にも広瀬神社の相殿に祀る同名神社をあてる説もある。
子のウマシマジ命が活躍していることを伝えるのみ
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May 2016
松山市八反地に鎮座する、国津比古命神社です。
『延喜式』神名帳の伊予国風早郡に、「国津比古命神社」があります。
祭神は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。
宇麻志麻治命、物部阿佐利命、誉田別命が配祀されています。
火事祭りとも呼ばれる秋祭りは、石段の上から神輿を落とす「あばれ神輿」で有名です。
国造本紀に、風速国造は応神朝に伊香色男命の四世孫の阿佐利を任じたといい、『続日本後紀』承和六年十一月癸未条には、善友朝臣の姓を賜った伊予国人の風早直豊宗らは天神饒速日命の後裔であるとされています。
当地の国造が、物部氏族を称していたことがわかります。
国津比古命神社は、この国造一族によって奉斎されたものでしょう。
末社の金比羅宮の前に、真名井の井戸があります。
阿佐利命が国造に任ぜられて、祖神の饒速日尊と宇麻志麻治命を祀ったことに始まり、古くは櫛玉饒速日命神社と称したと伝えます。
中古、阿佐利命を合祀して国津比古命神社に改称。のち、応神天皇を合祀して頭日八幡宮とも称しました。
祭神は、天道姫命。御炊屋姫命を配祀します。
『旧事本紀』によれば、どちらも“櫛玉”饒速日尊=天火明尊の妃神です。
『文徳実録』斉衡元年三月壬辰条に、伊予国の櫛玉姫神が従五位下の神階に叙せられたことがみえます。
社殿は古墳を一部削平して建っています。
墳丘全長75メートル、後円部径42メートル、前方部幅39メートルの前方後円墳です。
拝殿の西側(右側)にある、素鵞社。
素盞嗚命を祀ります。
参道の途中左側(古墳の後円部の北側)にある、和霊神社です。
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May 2016
國津比古命神社
応神天皇の時代に物部阿佐利が國造に任命され、彼の祖神である櫛玉饒速日尊と宇摩志麻治命(櫛玉饒速日尊の子)をお祭りしたことに始まります。
社号碑
社号は、初め『櫛玉饒速日命神社』でしたが、物部阿佐利命を合祀して國津比古命神社と名を改めました。後に誉田別尊を合祀し『頭日八幡宮』と再び改めましたが、享保年間(約 270年前) に國津比古命神社と旧号にもどりました。
天正年間(1573年-1591年) 、戦火のため社殿・宝物を焼失しましたが、河野家が社殿を建築し、現在にいたっております。
明治 4年に社格が『郷社』になり、同29年『県社』に昇格しました。昭和26年 『八脚門』県指定有形文化財 。 昭和43年 中殿・拝殿改築。 昭和60年 社殿屋根葺替・境内地拡張補強。
由緒原文略記
当社は延喜式神名帳記載の古社なり。社記に云う文徳天皇仁壽元年正月正六位上を授くと。しこうしてその創始は応神天皇の御宇、物部阿佐利風速國造に任ぜらるるやその祖、饒速日尊、宇摩志摩遅命の廟殿を設け祭祀したまひしに起こると称す。後、物部氏、風速氏はその氏神として深く尊崇あり。あるいは神殿を建て、あるいは神領を奉る。殊に物部氏は波田村(現在の正岡郷高田区)神田村(現在の正岡郷神田区)の地を捧ひで神戸を定め、社名を櫛玉饒速日尊神社と称せしを中古、阿佐利命を合祀して國津比古命神社と改む。しこうして物部氏の苗裔代々その神職となりて奉仕し来たれり。これを先生家(せんじょうけ)・國造家(こくぞうけ)と云う。後、応神天皇を合祀し、ついにはこれを主神の如くに思うに到り、その社名をも頭日八幡宮と称せしを、中御門天皇享保年中、旧号に復して、國津比古命神社と称せり。その後、天正年間兵火に罹り社殿宝物等灰燼に化したりしを河野家再び社殿を建築せり。寛保元年松平隠岐守厚く崇敬あり。毎年代官をして参拝せしむべき制を定めらる。また毎年正月、5月、9月には神符を奉らしめ藩主入部在城の年には正月3日、社職登城して謁見を得る制をも掟せらる。殊に旱魃の年には松山領内10郡の代官所より祈雨祭を請托し、その祭費は大割郡費をもって之を支弁せしめられたり。
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May 2016
櫛玉比賣命神社
櫛玉比賣命神社拝殿
國津比古命神社の主祭神である櫛玉饒速日尊の妃神をお祭りしているのが、向かい側の櫛玉比賣命神社です。社号は『祓座大明神はらいにますだいみょうじん』ともいわれました。寛永年間(約360年前) 官命により、南方の小山の頂より現在の地に移されました。古来、地方豪族の氏神として崇敬され、明治29年に社格が『郷社』になりました。
由緒原文略記
当社は延喜式神名帳記載の古社なり。文徳天皇斎衡元年3月壬辰従五位下を授けらる。軽島豊明朝、物部阿佐利を風速國造に定めて下らしめたもうや、阿佐利はその祖、饒速日尊社及び当社を創始し、朝夕深く敬虔を捧げられたり。社名は饒速日尊の妃を祭祀せるによりて、櫛玉比賣命神社と称す。その鎮座の地は現今の所よりやや南方なる小山の頂に在りしを、御水尾天皇の寛永年中、官命を受けて現在の地に奉遷したりしなり。中古、祓入座大明神とも称せし事あれども、中御門天皇の享保年中、旧号に復せり。右古来、物部氏、風速氏、越智氏等代々その氏神として崇敬あり。
櫛玉比売命神社古墳 国津の丘に櫛玉比売命神社古墳がある。
昭和42年(1967)11月愛媛大学の研究班玉岡・橋本氏らが、この表面実測をしているが、前方後円墳で規模もかなり大きいとしている。古墳の入り口方向は、南から西へ約48度の方向に傾き、後円部の直径約35メートル、前方部の長さは約40メートルで総長75メートルの古墳である。後円部の覆土の高さ約8メートルである。
前方部先端の盛り土の高さは約5メートルで円丘の端からその前方部の中央部の大部分は土を切り取り、社殿並びに前庭広場としており、ただ社殿裏、前方先端部に葺き石が残っていているほかは、ほとんど大部分が、変形している。しかし後円部は完全に残されている。
この櫛玉比売命神社は郷社で天道日女命、御炊屋姫命を祀る。古蹟史に饒速日尊は天照大神の孫ニニギの兄である。饒速日尊は天道日女命を娶り、天香語山、宇摩志麻治の2子を生むとあり、阿佐利は国津比古命神社とともに、饒速日尊の妃を祀り、櫛玉比売命神社を建てた。その頃の神社はやや南方の小山、今の宗昌そうしょう寺の丘にあった。後水尾ごみずのお天皇の寛永年間に命を受けて現在地に奉遷されたもので、中古は祓入坐大明神はらいいりますだいみょうじんと呼ばれた。これは勅使道(現在の北条北中学校南側の市道)が昔宗昌そうしょう寺門前まで通じており、まず風早土手浜から上陸した勅使が、最初に妃神たる櫛玉比売命神社に参詣したことを示す位置関係であり、なぜならここでまずお祓いを行ったのである。それからメインの饒速日尊の宮殿を参詣したのである。よって祓入坐大明神はらいいりますだいみょうじんの異名があるのであると、生前、井上先代宮司に教わったことがある。神道の古体を残す伊勢神宮の外宮と内宮の関係に非常によく似ている。
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May 2016
May 2016 編集されました
生駒市史を見て
①ニギハヤヒ命の墓のある山の名は 桧窪山(旧本には日の窪山ともある)で、塚名は山伏塚
②金鵄発祥顕彰碑は昭和16年に建てられた
③富雄地区では王龍寺境内のトビ神社を白庭皇居、高樋の夫婦塚を長髄彦本拠と考えた。
(参考)王龍寺境内のトビ神社を白庭皇居
(参考)生駒市「上町高樋」
④夫婦塚は饒速日命の妻・御炊屋姫の塚ともいう。
⑤「饒速日命の陵」(弓などを埋めたという)には、桧窪山(旧本には日の窪山ともある)〔山伏塚〕・長弓寺内の眞弓塚(弓塚)・夫婦塚(御炊屋姫の塚)などが考証されている。
- - - - - 略 - - - - -
以上が斜め読みして得た情報です。
この本は富雄川沿いにある生駒市の北コミュニテイー内の図書室で書庫から出してもらえば見られます。全5巻で通史と資料Ⅰに記載されています。
場所は先日車で通ったところです。碑のあった郵便局より南に500m位、富雄川の西岸にある大きく綺麗な建物です。」
http://inoues.net/club2/new_nigihayahi.html
主人神社(ぬしと)は矢田坐久志玉比古神社の御旅所です。
祭神:櫛玉饒速日命、御炊屋姫命
主人神社は久志玉媛神社とも呼ばれるため本来の祭神は饒速日命の妻の御炊屋姫だったのでしょう。
tokyoblog
May 2016
May 2016 編集されました
旧事紀と記紀による饒速日命の系譜の違い
旧事紀によれば、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、またの名を天火明尊、また天照国照彦天火明尊、また饒速日尊と云う。妻を御炊屋姫と云い、宇摩志麻治命、またの名を味間見命、また可美眞手命と云う。
古事記では正哉吾勝々速日天押穂耳尊の子を天明命、神武天皇東征中に邇藝速日命として登場する。妻は登美夜毘賣であり、その子を宇摩志麻遅命と記す。日本書紀では天照国照彦天火明命、後には櫛玉饒速日命、また?芸波椰卑と云う。妻は三炊屋姫、またの名を鳥見屋姫、また長髄姫、子を可美真手命、またの名を于魔詩莽耐と記す。
旧事紀第三巻「天神本紀」(あまつかみのふみ)によれば、「三十二人を防衛(ふせぎまもり)と為し、天降共奉る」・「五部人を副従為て天降共奉る」・「五部造伴領と為し、天物部を率いて天降共奉る」・「天物部等二十五部人、同じく兵杖を帯びて天降共奉る」・「船長同じく共に、舵取り等率領て、天降共奉る」とある。これを簡単に言えば32人の親衛隊と25の部隊を率いる将と船頭他を従えてとなる。またその25の部隊の中に興味深い記述がある。鳥見(トミ)物部〔北九州遠賀町鳥見山〕・赤間物部〔宗像市赤間〕である。〔 〕内は出自地と思われる所である。饒速日命率いる部隊の中に鳥見を名乗る部隊と宗像出身の部隊とは。本件に何か関係があるのではと疑わずにはいられない。
それら部隊を従えた饒速日命は河内国河上哮峯(かわかみのいかるがのみね)に天下り、そして大倭国鳥見の白(庭)山に遷座すると伝えている。また、同第五巻「天孫本紀」には饒速日命が亡くなって後、天羽々弓・天羽々矢・神衣帯手貫の三物を登美白庭邑を以て墓所としたとある。
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May 2016
天孫本紀
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊[亦の名は天火明命。亦の名は天照国照彦天火明尊。亦の名は饒速日尊。亦の名は膽杵磯丹杵穂命。]
天照霊貴の太子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊は高皇産霊尊の娘の萬幡豊秋津師姫栲幡千千姫命を妃とし、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊が生まれた。天照大神と高皇産霊尊は共に生きておいでなので、天孫亦は皇孫と云う。天祖は天璽の十種の御宝を饒速日尊に授けられた。この尊は天神の御祖の詔を受け天磐船に乗って、河内の国の河上の哮の峯に天下られた。そして、大倭の国の鳥見の白庭山に移られた。天下りの様子は天神本紀に書かれている。天磐船に乗って大空を駆け行き郷を巡り見て天下られた。空から見た日本の国とはこの事を云う。饒速日尊は長髄彦の娘の御炊屋姫を娶って妃とし、宇摩志麻治命を生む。出産前に饒速日尊は婦人に
「お腹の子が、もし男子なら味間見命と名付けよ。もし女子なら色麻彌命と名付けよ。」
と言われた。生まれた子は男子だったので、味間見命と名付けた。饒速日尊は亡くなられた。まだ天に登り還らなかったとき、高皇産霊尊は速飄神に
「我が神の御子の饒速日尊を葦原中国に使わした。疑わしい事がある。汝は降って調べて報告しなさい。」
と命じられた。速飄命は命令を受け天降り、亡くなられた事を見て天に帰り復命して
「神の御子は既に亡くなられました。」
と報告した。高皇産霊尊は哀れと思い、速飄命を使わして、饒速日尊の遺体を天上に上げ、その遺体の側で七日七夜、騒ぎ悲しまれた。天上に葬られた。
饒速日尊は夢によって妻の御炊屋姫に
「我が子を私の形見としなさい。」
と言い、天璽の御宝を授けた。また、天羽羽弓と天羽羽矢、また神衣帯手貫の三物を登美白庭邑に埋葬した。これを持って墓と為した。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は天道日女命を妃とし、天上に天香語山命を生む。御炊屋姫を妃として天降り宇摩志麻治命を生む
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May 2016
浮嶋神社 温泉郡重信町牛渕583・584 宇麻志阿斯訶備比古遅神,伊弉諾大神,伊弉冉大神,大山積命
饒速日尊の長子宇摩志摩治の誕生地伝承あり<愛媛伝より>
新撰姓氏禄によると越智氏は第7代孝霊天皇を元祖とする「皇別氏族」に分類されているが、旧事本紀では饒速日尊を元祖としている四国の伊予国越智郡に勢力の中心をもっていた氏族である。奈良時代以降越智郡の郡司としてこの地方に勢力をはって、大三島大山祇神社を奉祭してきた氏族である。
この神社の由緒によると、神武天皇の東征以前に大山積神(饒速日尊)の子孫である「乎千命」が四国に渡り、瀬戸内の治安を司って芸予海峡の要衝である御島(大三島)を神地と定め鎮祭したことにはじまると伝えられている。
生駒山の西麓に饒速日尊、可美真手命を祀った石切劔箭神社が存在している。 「神武天皇が即位した翌年、出雲地方の平定に向かう可美真手命は、生まれ育った宮山に饒速日尊をお祀りしました。」 これが石切劔箭神社の発祥と伝えられている
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May 2016
境内に掲げる「日本総鎮守 大山祇神社由緒
大山積大神一座で天照大神の兄神に当らせられる。
天孫瓊瓊杵尊御降臨の際、大山積大神、またの名・吾田国主事勝国勝長狭命《大山積神の儗神体》は、女・木花開耶姫尊を瓊瓊杵尊の后妃とし、国を奉られたわが国建国の大神であらせられるが、同時に和多志大神(ワタシ)と称せられ、地神・海神兼備の霊神であるので、日本民族の総氏神として古来日本総鎮守と御社号を申しあげた。
大三島に御鎮座されたのは、神武天皇御東征のみぎり、祭神の子孫、小千命(オチ)が先駆者として伊予二名島(四国)に渡り、瀬戸内海の治安を司っていたとき、芸予海峡の要衝である御島《大三島》に鎮祭したことに始まる。
創建に関わる推古朝以前の伝承として、
・神武東征のみぎり、祭神の子孫・小千命が先駆者として伊予二名島(四国)に渡り、瀬戸内海の治安を司っていたとき、芸予海峡の要衝である大三島に鎮座したことに始まる(上記由緒だが、神武朝創建というのは無理)
・仁徳天皇の御代、小千命が迫戸浦遠土宮(オモノミヤ)に大山祇神を移祭した(大三島記文)
・景行天皇・仲哀天皇・舒明天皇・孝徳天皇・中大兄皇子等が道後温泉への途上当社に参詣された(大三島神社大祝家伝)
・崇峻天皇4年(589)、神託により小千益躬(オチノマスミ)が三島迫戸浜・鼻刳瀬戸のご神木に鏡をかけて大山積神を祀った(?)
などがあり、推古朝以前から当社があったことを示唆しているが、いずれも伝承の域を超えない。
当社の創建・祭祀に深く関わっている越智氏(小千氏)について、日本の神々2によれば、
・薩摩の坊津を根拠として活躍したオオヤマツミを祖神とする小千命系の越智氏
・ニギハヤヒを祖とする物部氏系の越智氏
の二説があり、そのいずれかが、古大和朝廷に従って南九州から瀬戸内海に入り東進後、内海に引き返して、島の東南端にある鼻刳迫戸に定着したのではないかというが、その真偽は不明。
当社創建・祭祀に関わる越智氏について、新撰姓氏録には
「左京神別(天神) 越智直 石上同祖 神饒速日命(ニギハヤヒ)之後也」
とあり、また先代旧事本紀(国造本紀)には、
「小市(オチ)国造 応神朝の御代 物部直と同祖の大新川命(オオニヒカワ・旧事本紀には「饒速日命6世の孫・伊香色雄命の子で、垂仁の御代に大臣となり、はじめて物部連公の姓を賜った」とある)の孫・子致命(小致命・オチ)を国造に定む」
とあり、越智氏はニギハヤヒを祖とする物部氏系の氏族という(古く、今治市を含む高輪半島東部-島嶼を含む一帯を小市国・オチノクニと称し、小市国造によって支配されたという)。
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May 2016
西暦400年頃の伽耶は方形墳で太陽信 仰。その後 北方遊牧民族が同化して円墳竪穴石槨などの墓制になっている。又伽耶諸国の 首長・王族・貴族の墓は山稜上に築造されている。
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May 2016
海老名市の前期古墳
秋葉山古墳群がある相模川中流の東岸では、これまでのところ古墳群築造の母体となったと考えられる大きな集落が検出されていない。この点については相模川中流西岸も含んだ地域で秋葉山古墳群を築造したとの説もあるが、相模川中流域の西岸にも出現期の古墳が見られる点から、相模川東岸に未発見の秋葉山古墳群を造営した人々が暮らしていた集落があるとの説もある。いずれにしても秋葉山古墳群は3世紀~4世紀にかけての相模湾周辺で最も規模が大きな古墳群であり、地域を代表する人物を葬ったものであると見られる[1]。
発掘調査の中で秋葉山古墳群は、3世紀から4世紀にかけての古墳出現期から前期にかけての古墳群であることが明らかになった。特に第三号墳は纏向型の前方後円墳とも呼ばれる、ややいびつな後円部に小さな前方部がついた形をした古墳であり、東日本の中でも最古の前方後円形をした古墳の一つで、3世紀に造営されたと考えられている。当時、古墳群の周辺である相模湾周辺の地域では弥生式の方形周溝墓が造られていたが、第三号墳の規模は方形周溝墓の規模を遥かに凌駕する大きなもので、また発掘された土器などから考えて、第三号墳は相模川流域の在地の勢力から、いち早くヤマト王権との連携を進め、周辺地域を統合することとなった首長の墓であると見られている。
そして第二号墳、第一号墳と時代が下るに従って、定型的な前方後円墳の形に近づいている。また前方後方墳である第四号墳、方墳である第五号墳と、秋葉山古墳内の中でも墳形に変化が見られる。現存6つの古墳で構成される秋葉山古墳群であるが、古墳出現期の古墳の変遷と多彩な墳形を見ることができる。
秋葉山古墳群は、千葉県市原市にあった神門古墳群などと並び、東日本における最古級の古墳群のひとつであり、南関東における出現期古墳、そして当時の社会を知る上での重要な遺跡と評価され、2005年7月14日に国の史跡に指定された。
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May 2016
May 2016 編集されました
兵庫県
国内最古級の古墳か 御津町・綾部山39号古墳
兵庫県揖保郡御津町教育委員会は19日までに、同町黒崎の「綾部山39号墳」の埋葬部分について、日本最古とされる奈良県桜井市のホケノ山古墳(3世紀半ば)とほぼ同じ「石囲い3重構造」であると発表した。兵庫県で確認されたのは初めて、全国でも4例目。国内最古級の古墳である可能性が高まり、当時の西播磨が、勢力を伸ばしつつあった大和政権の影響下にあったことを示す遺跡として注目される。
「石囲い3重構造」を持つ古墳は4年前まで、阿波(徳島県鳴門市)と讃岐(香川県綾歌郡)でしか確認されておらず、他の共通点も含めて「阿讃連合」という呼び方がされていた。今回、綾部山39号墳で讃岐産の土器が発見され、御津町教委は「阿讃播連合」という言葉を初めて使った。
発掘場所は、新舞子海岸の真上にある断がいの斜面上部で、高さ27メートルの地点。町道拡張工事で発見された。
埋葬部分は東西4.6メートル、南北3.5メートル。中央に「木棺」を置き、板石を6層に並べた「竪穴式石槨(せきかく)」に囲まれていた。さらに、丸い川原石の「石囲み」が取り囲んでいた。
ホケノ山古墳は、39号墳の石槨に当たる部分が木槨だが、それ以外の構造は共通している。現時点では、円墳とみられるが、ホケノ山古墳と同じ前方後円形である可能性もあるという。
盛り土の少なさや石槨の積み方など、弥生末期の要素も備えており、墳丘墓から古墳へと移行する境目の特徴も示している。副葬品は少なく、「画文神獣鏡(がもんしんじゆうきよう)」と見られる鏡の一部や土器片など。土器の一片は讃岐(香川)製と確認されており、讃岐・阿波との強いつながりが推測されるという。
綾部山の北約3㌔の権現山51号墳(3世紀後半)
三角縁神獣鏡が5枚発見されている。同鏡はそれまで、4世紀以降の古墳からしか出土していなかったため、権現山51号墳は、同鏡が発見された最古の古墳として重要な位置を占めている。
権現山古墳は日本最古の古墳のひとつといわれています。前方後方墳で、全長43mあります。大和を象徴する三角縁神獣鏡と、吉備で発生した特殊器台型埴輪の双方が出土したことで両文化圏の融合が注目されました。 この古墳は、権現山の山頂に築かれた全長43mの前方後方墳で、高さ約3mの盛り土を築き、後方の中央部に竪穴式の石室(高さ4.8m、幅は北1.15m、南1m)が設けられています。日本最古の古墳の一つで、当時のこの地方の有力者の墓です。
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May 2016
May 2016 編集されました
加古川市中部、加古川に面した日岡山山頂に位置する古墳。
日岡山には、日岡陵古墳・西大塚古墳・南大塚古墳・北大塚古墳・勅使塚古墳など前方後円墳5基・円墳3基があり、これらで日岡山古墳群(日岡古墳群)を形成する。この日岡山古墳群は、北東にある西条古墳群とともに兵庫県南部において最大の古墳群になる。本古墳に関しては、1928年(昭和3年)の旧宮内省による実測図が残るほ、2011年(平成23年)には宮内庁書陵部により墳丘測量調査が実施されている。
墳形は前方部を南西方に向けた前方後円形で、ほぼ完全に遺存する。ただし、元々は円墳であって明治の修陵により前方後円形に改められたとする説、およびその一方で改変は受けていないとする説が挙げられていたが、2011年(平成23年)の測量調査によれば当初より前方後円墳としての築造と見られる。段築の有無は不明(無段または幅の狭いテラス面か。墳丘上からは葺石・埴輪片・土師器片が採集されている。
この日岡陵古墳の築造年代は古墳時代前期の4世紀代と推定され、日岡山古墳群のうちでは最古とされる。被葬者は考古学的には明らかでないが、『播磨国風土記』では景行天皇妃の印南別嬢(いなみのわきいらつめ)の「褶墓(ひれはか)」に関する伝承が見えることから、現在では宮内庁により同天皇皇后の播磨稲日大郎姫命の陵に治定されている。日岡山古墳群の前方後円墳はいずれも加古川左岸の平野の方向に前方部を向けることから、その平野を支配した首長の墓と推定されている。また古墳群からは他地域と同笵の三角縁神獣鏡の出土も知られ、畿内のヤマト王権勢力との密接な関係が指摘される。
被葬者は、宮内庁により第12代景行天皇皇后の播磨稲日大郎姫命(はりまのいなびのおおいらつめのみこと)に治定されている。播磨稲日大郎姫命は、『日本書紀』では「播磨稲日大郎姫」や「播磨太郎姫」、『古事記』では「針間之伊那毘能大郎女」と見えるほか、『播磨国風土記』に見える「印南別嬢(いなみのわきいらつめ)」も同一人物とする説がある。いずれにも見える「いなび(いなみ)」は播磨の地名(播磨国印南郡)に由来する。
日岡神社
なお、日岡山南麓には式内社の日岡神社が鎮座し、その社伝では播磨稲日大郎姫命の日本武尊らの出産の際に天伊佐佐比古命(日岡神社祭神)が安産祈願をしたとする。岡神社由緒書きによると、祭神天伊佐佐比古命(あめのひささひこのみこと)は吉備津彦命。
以下は由緒書きより
「第十代崇神天皇の御代、天皇は勢力を広げるために皇族の御方を派遣しました。
北陸、東海、西道、丹波がそれで、世に「四道将軍」と呼ばれています。西道である山陽地方には第七代孝霊天皇の皇子、彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)(吉備津彦命)と弟の若武吉備津彦命(わかたけきびつひこのみこと)を派遣しました。彼らは無事退任を果たし、その後この地にとどまりました。この吉備津彦命が、天伊佐佐彦尊であるといわれています。またこの吉備津彦命の活躍は「桃太郎伝説」のモデルとも言われています。」とあります。
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May 2016
快天山古墳(かいてんやまこふん)は、香川県丸亀市綾歌町栗熊東・富熊にある前方後円墳。国の史跡に指定されている。
香川県ではさぬき市の富田茶臼山古墳に次ぐ第2位の規模である。また四国地方では、富田茶臼山古墳、徳島県の渋野丸山古墳に次いで第3位の規模である。古墳時代前期の築造と推定され、前期に限れば四国地方では最大、瀬戸内地方で6番目の規模になる。
埋葬施設は、後円部に3か所確認されており、それぞれ刳抜式の割竹形石棺を有する。石棺の石材は香川県鷲の山産の変朽安山岩が使用され、割竹形石棺を採用した古墳の中では国内最古である。墳丘は、大半が地山の削り出しによって形成されているが、後円部の上半部は盛土で構築されている。3段以上の築成により、各段のテラス部には円筒埴輪や壺形埴輪が配置、斜面部には葺石が配されている。墳丘の主軸や埋葬施設の主軸から検討すると、讃岐型前方後円墳の築造様式と畿内前方後円墳の築造様式の双方の特徴が見られることから、非常に貴重な考古資料といえる
第1号石槨からは、長宜子孫・十二支・獣文縁・方格規矩四神鏡1、硬玉製の勾玉1、管玉3、鉄刀残片4、剣5、刀子4、やりがんな1、鑿2、石釧2、斧3、鉄鏃20などが出土している。
第2号石棺からは、仿製内行花文鏡片1が出土し、棺外からは、斧1、碧玉製の管玉2、刀子2、剣1を検出した。また、棺内で若年女性とみられる遺骸が確認されている。
第3号石棺からは、遺骸(青年男性)と仿製内行花文鏡1、剣1を確認している。棺外からは、仿製内行花文鏡1、鉄鏃1、土師器壺1が出土している。
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May 2016
讃岐の古墳
後漢鏡は鶴尾神社4号墳(墓)、古枝古墳、猫塚古墳などで出土していますが、「伝世鏡」論によりますと、 このことは弥生時代後期までにこの地域に後漢鏡がも たらされ、権威の象徴たる後漢鏡を保持して祭祀を執り 行い、政を司った首長がいたことを物語ります。そして 古墳時代になり、その地域の首長が古墳に埋葬されたと きに副葬されたと考えられます。つまり古墳時代前夜に すでに古墳を造営することの出来る力を持つ首長がい たのです。
三角縁神獣鏡が製作される前段階に、2世紀後半~3 世紀初頭の後漢末期頃に製作された画文帯神獣鏡とい う鏡があります。この鏡は東部瀬戸内から畿内に集中し て出土することから、三角縁神獣鏡に先駆けて畿内に直 接もたらされ、畿内の盟主的首長から畿内や東部瀬戸内地方の各首長に配布されたと考えられています。 古墳時代に先駆けて同様な体制が出来上がっていたことが注目されます。この画文帯神獣鏡は讃岐地方 の奥 14 号墳、丸井古墳、高松茶臼山古墳から出土しており、畿内勢力にとって讃岐地方が重要な地域 であったことが分かります。
讃岐地方では三角縁神獣鏡は奥 3 号墳、川津茶臼山古墳、西山古墳から出土しており、このうち奥3 号墳のものは椿井大塚山古墳のものと、西山古墳のものは椿井大塚山古墳と黒塚古墳のものと同笵関係 にある三角縁神獣鏡です。この3古墳は讃岐地方の東部・中央部・西部の海岸に近い場所にあり、この 地域の首長と同盟関係を結ぶことは、中国大陸との主要ルートである瀬戸内海航路を掌握するというヤ マト王権にとって重要な意味があったと考えられます。倣製三角縁神獣鏡が出土した猫塚古墳も同様に 海岸に近い場所です。中国大陸で魏の後の西晋が滅亡した混乱状態と政情不安により三角縁神獣鏡を入 手しにくくなったため、中国製の代替として倭国で製作したものが倣製三角縁神獣鏡です。
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May 2016
May 2016 編集されました
会津大塚山古墳(あいづおおつかやまこふん)
この古墳は、東北地方最古の一つとされていて、4世紀に造営された全長114mの前方後円墳で、東北地方で4番目の規模があります。
ここから出土した品は、この時代の近畿地方の古墳で見られるような品々が多く、当時は東北で初めて出土したものが多く、現在でも東北では会津大塚山古墳でしか出土していないものもあります。
会津大塚山古墳の三角縁神獣鏡は岡山県備前市の鶴山丸山古墳のものと同じ鋳型である。鏡はほかに南棺から変形四獣鏡、北棺から捩文鏡が検出されている。また、環頭大刀は、福岡市若八幡神社古墳出土の大刀に類似している
この出土品は、一括して国の重要文化財に指定されるほど歴史的価値があり、なかでも三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)は、岡山県鶴山丸山古墳のものと同一の鋳型(いがた)で作られた鏡で、鏡を持っていた者が会津と岡山の双方の古墳に葬られた人に分与したことがわかり、このため当時大和朝廷の影響が会津まで及んでいたことがうかがえる、貴重な資料です。
この周辺には、会津大塚山古墳より古いと考えられている、堂ケ作古墳・飯盛山古墳、その他多数の円墳群と横穴墓群が確認されていて総じて一箕古墳群と呼ばれています。
会津盆地東部に立つ大塚山の山頂に位置する墳丘全長114メートルの前方後円墳である。
発掘調査当初は、全長90メートル、後円部の径45メートル・高さ6メートル、前方部の幅23メートル・高さ3.5メートルで前方部が狭く細長い柄鏡形の古墳と考えられていた。しかし、昭和63年(1988年)の再測量の結果、全長114メートル、後円部径70メートル・高さ約10メートル、前方部前幅54メートル、墳丘途中に段をもつ前方部二段、後円部三段築成の古墳であることが判明した。
築造年代は4世紀末と推測され、東北地方では古い時期の古墳の1つになる。一箕古墳群では本古墳を含み3基の大型前方後円墳が確認されているが、他の2基の飯盛山古墳(飯盛山山頂)、堂ヶ作山古墳(堂ヶ作山山頂)は本古墳よりも先の築造とする説が有力視されている。
「崇神天皇は諸国平定のため4人の皇族将軍をそれぞれ北陸・東海・西道(山陽)・丹波(山陰)の4方面へ派遣した。このうち、北陸道へは大彦命、東海道へは武渟川別命(大彦命の子)が派遣され、それぞれ日本海と太平洋沿いを北進しながら諸国の豪族を征服していった。やがて2人はそれぞれ東と西に折れ、再び出会うことができた。この出会った地を「相津」(あいづ)と名付けた」
この話はあくまでも伝説であるが、大和朝廷が会津を征服したことが読み取れる。また、崇神天皇が3世紀-4世紀頃に存在した実在の天皇と見られていることや会津大塚山古墳が4世紀末の造営と考えられることから、大和朝廷の会津支配の始まりや会津大塚山古墳の被葬者を知る上でも注目される伝説である。
1964年の調査
会津大塚山古墳は大正9年(1920年)に考古学者の鳥居龍蔵によって古墳として認められ、その後、昭和39年(1964年)に『会津若松市史』出版事業の一環として東北大学文学部考古学研究室(伊東信雄教授)による後円部の発掘調査が行われた。
この調査では、後円部の中心から南北2基の割竹形木棺の痕跡が検出され、さらに南棺からは日本製の三角縁神獣鏡をはじめ多くの遺物が検出された。また環頭大刀、靭(ゆき)、鉄製農耕具なども出土している。南棺は北棺よりも古い埋葬で、遺った歯から老齢の男性であると推定され、大塚山古墳の主と考えられている。北棺からも量は少ないが南棺と同様の副葬品が出土した。
この調査によって古墳の全容がおおよそ判明し、会津の地が大和政権の支配下に組み込まれたのは7世紀の阿倍比羅夫の東北遠征以降であるという従来の説は覆され、古墳の造営された4世紀末にはすでにヤマト王権を構成する首長が存在していたことが証明された。
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May 2016
交野車塚古墳群の第1号古墳・第2号古墳・第3号古墳が古墳時代前期末から中期初頭の古墳で、第5号古墳・第6号古墳が古墳時代中期、第4号古墳が中期末から後期初頭の古墳と判明し、交野車塚古墳群は、古墳時代中期の古墳群であることがわかりました。もちろん、これらの古墳に葬られた人々は、当時のこの地域の首長及びトップクラスの人々であったことは言うまでもありません。
交野車塚古墳群の中でも一番古い第1号古墳は、北河内で発見された最大の前方後方墳で、埋葬施設も完存しており、大阪府でも貴重な文化財であることから、平成3(1991)年に大阪府文化財保護条例により史跡(第45号)に指定され、第1号古墳出土品(一括)も、平成6(1994)年に府有形文化財に指定されています。
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May 2016
May 2016 編集されました
出雲の大原郡
吉備地方と類似性のある特異な古墳時代前期(4世紀前代)の古墳が2基あ る。出雲最古の前方後方墳である三刀屋の松本一号墳、景初三年(239)の銘入り三角縁神 獣鏡を出した加茂の神原神社古墳である。
三刀屋の松本一号墳
「松本一号墳は、出雲地方でもっとも古い前方後方墳です。全長は50mを測り、雲南地方で最大の古墳です。また前方後方墳としては出雲地方で三番目の大きさです。前方部の先端がやや開くことから我が国でもっとも古い前方後方墳の一つ備前岡山車塚古墳(岡山市)との類似性が指摘されるなど、古代出雲を考える上で重要な古墳です」
加茂の神原神社古墳
景初三年銘がある三角縁神獣鏡は、現在までのところ2面しか出土していない。一面は大阪の和泉黄金塚古墳からであり、そしてもう一面は神原神社古墳からである。
神原神社は、今でこそ赤川左岸の畑の中に鎮座しているが、『出雲風土記』や『延喜式』の神名帳にも記載されている古社である。祭神として、オオクニヌシノミコト(大国主命)と、イワツツオノミコト(磐筒男命)、イワツツメノミコト(磐筒女命)を祀っている。古伝では、アマテラスオオミカミ(天照大神)がオオクニヌシノミコトの神宝や真種の甘美鏡(水底に眠る神威溢れる見事な宝)を天の八十河にいるイワツツオノミコトとイワツツメノミコトを派遣して管理させたとされている。社殿はもともと赤川左岸の微高地の突端に建てられていた。その微高地が実は古墳の墳丘だったのである。度重なる社殿の改築などで古墳の存在は古くからわかっていたが、調査の手は加えられなかった。
三角縁神獣鏡以外に、素環頭大刀・木装大刀・剣・槍・鉄鏃などの鉄製品や、鋤・鍬・鎌などの農耕具農耕具、土器 、玉類(ヒスイの勾玉・碧玉の管玉・滑石製臼玉など)なども、この古墳から出土している。石室の構造に、これらの副葬品の組み合わせや出土土器の形式を勘案して、この方墳の築造時期は4世紀中頃と推定されている。
式内社 出雲國仁多郡 三澤神社
御祭神 阿遲須枳高日子根命
合祀
大己貴命 素盞嗚命 志那都比古命 志那都比賣命
氣長足比賣命 別雷命 少彦名命 五十猛命
島根県奥出雲町(旧仁多町)にある。出雲三成駅の西4Kmほど。三沢郵便局の隣りに社号標が立ち、入口がある。
入口の左手には、小さな事代主社。
出雲風土記に「三澤社」とある神社。
「三澤」は「御澤」の意味。祭神・阿遲須枳高日子根命が、この地の澤の水によって、心身の障害を取り除き、立派に成人したという伝承が残る。この「澤」は当社の西方・三澤城址要害山の山頂にある「刀研池」。
風土記には、「以上諸郷所レ出鐡、堅尤堪レ造二雑具一。」とあり、堅くて質の良い鉄が産する地として、古代は、農具などの製造が盛んな地であったという。
祭神・阿遲須枳高日子根命の字義は、切れの良い鋤の意味。農耕神であると同時に鉄の神でもあるのだろう。
祭神は、もともと一柱であったが、
明治七年、意宇郡林村の風宮を合祀し、大己貴命、素盞嗚命、志那都比古命、志那都比賣命を相殿に祀る。
さらに明治十三年、末社祭神氣長足比賣命を本殿へ合祀。
明治四十年、村社加茂神社、高守神社を合祀して現在にいたる。
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May 2016
出雲 斐伊川中流の古墳
雲南最大の古墳群─松本古墳群
三刀屋町古城にある三屋(さんや)神社の横の道を登っていくと、丘のようにも見える開けた尾根に出ます。ここが雲南地方最大規模の松本古墳群です。6基の古墳のうち、松本1号墳と松本3号墳は、古墳群の中核であり、墳形が特筆される古墳として注目を集めています。
松本1号墳
松本1号墳は、1961年、畑から土器片が出土したことから、古墳であることがわかりました。現地調査の結果、全長が50mという大きな古墳で、しかも古墳の形は古墳時代前期にみられる前方後方墳であることがわかりました。前方部では、埋葬にかかわる儀式が行われ、被葬者は後方部に埋葬されています。全長が50mもある古墳は、雲南地方ではほかにはありません。
この古墳には、主体部とよばれる埋葬施設が3か所ありました。盟主が埋葬されたとみられる第1主体部は、床面に粘土が敷かれ、長さ約5.2mの箱型木棺が置かれていたと考えられています。木棺には、斜縁獣帯鏡とよばれる鏡や、ガラスの小玉、刀子、針などが副葬されていました。
古墳が築造された時期は、出土した土器から、神原神社古墳よりやや後の古墳時代前期後半ごろとみられ、数少ない前期古墳として島根県の史跡に指定されています(指定名称:「松本第1号古墳」)。
松本3号墳
松本3号墳は、発掘調査は行われていませんが、地形測量の結果、古墳の全長が1号古墳を上回る52mもあることがわかりました。この古墳も前方後方墳なのですが、古墳の形が特異で、前方部が三味線の撥(ばち)のように開いているのです。興味深いことに、奈良県にある、最古級の古墳ともいわれる箸墓古墳(全長286m)は同じ撥形の前方後円墳なのです。後方墳と後円墳の違いや大きさの違いはありますが、古墳の設計や規格が同じで、松本3号墳は、近畿地方の前方後円墳をモデルにして築かれたと考えられています。
箸墓古墳といえば、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓という説もあります。邪馬台国畿内説を採るとすれば、松本3号墳の被葬者は、近畿地方あるいは、近畿地方と深いつながりのあった吉備地方と関係があったのかもしれません。前方部が撥形になった古墳は、最も早い段階の古墳といわれており、松本3号墳は1号墳よりも古い前期古墳と考えられています。
これらの古墳や、神原神社古墳などの前期古墳は、いずれも斐伊川中流域に築かれています。この流域に築かれた前期古墳はこればかりではありません。平成3年に木次町里方で発見された斐伊中山古墳群2号墳も前期古墳であることがわかったのです。
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May 2016
May 2016 編集されました
備前の鶴山丸山古墳
出典 倉敷考古館 よもやま話
http://ww51.tiki.ne.jp/~kura-kouko/yomoyama113.html
吉井川の東岸、備前市では西端でもあるが、独立丘状の頂部にある。円墳だが少々楕円形のようで、現状は、径が45~55m前後。
地元民によって、1936年に掘られたもので、竪穴石室の中には室内いっぱいに、屋根に見事な家と円盤を彫刻した大形石棺が収められていた。岡山県下では今に至るまで、全く類をもないもの。棺の周辺は30面に及ぶ鏡が取り囲み、碧玉製の三足付の盤や、彫刻を持つ刳抜の蓋物・盒(ごうす)などが、ところ狭しとあったようだ
大量の遺物発見後、届けられ公にされた遺物が、東京国立博物館に収蔵されているものである。ー鏡は30余面出土といったが、東博に収蔵されているものは17面に過ぎない。この古墳では報告書(梅原末治「備前和気郡鶴山丸山古墳」日本古文化研究所 1938年)に載るものだけが博物館にあるのである。)
梅原氏など京都大学の研究者の手で、緊急の調査が2日間行われた。しかし石棺内部は一切調査の無いまま、石室はコンクリートで閉鎖されたのである。
実は今ひとつ、この石棺に穴が開けられたときに、壊された棺蓋の石材破片を、保管していた人がいたのだ。それを知った知人の研究者が、われわれが石棺石材を研究していることを知って、入手し提供してくれたのである。
貴重な資料であった。鏡や玉なら誰しも気付くものだが、棺の石片の価値などには、思いも寄らない人が多いだろう。この小さい石片は、この古墳の性格を大きく示していたのである。
このあたりでは他に例の無いこの立派な石棺は、香川県東部の白色に近い凝灰岩の石材で製作されていたのである。香川県の東部には、この石材で作られた古墳時代の石棺は、以前から知られ、舟形の刳抜石棺だったが、丸山古墳のような形でもなく立派な彫刻もない。形や彫刻のある石棺と言うことでは九州の石棺に似ているが、それぞれに新古の問題があって、系譜をたどるのはむつかしい。
鶴山丸山古墳の立派な石棺蓋には、家と円形のレリーフが複数ある。九州の装飾古墳には、鏡か太陽を思わす壁画も多い。この時期には、鏡が太陽の分身であったのだろう
備前のサヌカイトの出土
旧石器時代人や縄文人達の、行動範囲、交易の有無などを目的にしての研究である。黒曜石の産地が無い岡山県南部の鷲羽山遺跡では、数多く出土しているほとんどの石器が、香川県産のサヌカイト製である。その中で唯一、採集されていた黒曜石製の小さい石器は、島根県隠岐島産の黒曜石と考えられている
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May 2016
古いタイプの前方後円墳
長い間、奈良県の桜井茶臼山古墳や大阪府の紫金山古墳ように前方部の平面形が長方形で低いものが古く、前方部が高く、端部に向かって開くものが新しいとされていました。ところが、前方部が途中で開くものが古いという見解を近藤義郎が「前方後円墳の成立と変遷」で示し、バチ形の前方部という言葉も使われるようになりました。
以後、前方後円墳の墳丘の平面形についてさまざまな研究が行われてきましたが、その成立と絡めて言及した中で特に注目される提言は、纒向型前方後円墳と讃岐型前方後円墳です。
纒向型前方後円墳は、寺沢薫によって纒向石塚をはじめとする奈良県の纒向古墳群の検討から提唱された考えです。前方部の長さが後円部の直径のほぼ半分で、前方部が小さくその先端がはっきりしないものが多いとされています。
一方、讃岐型前方後円墳は北条芳隆によって香川県、徳島県の積石塚が多く分布する地域の古墳の検討から提唱されました。後円部と前方部の比率はほぼ1:1となり、前方部端を溝で区画するか、高く盛り上げて目立たせています。
東四国における前方後円墳のあらまし
東四国では、積石塚の前方後円墳が多く、後円部だけが積石塚となるものもあり、阿讃積石塚分布圏として古くから注目されていました。
香川県には、長さ40 m未満の小さな前方後円墳が数多くあります。大きさによりその存在感を示す前方後円墳であるのに、小さな前方後円墳が数多くあるという事実には興味がもたれます。古墳時代の前期前半にこの小さなものが圧倒的に多く、墳長40 mに満たないものが40基近くあります。新しくなるに従いその数は少なくなると同時に、古墳の大きさは次第に大きくなっていきます。徳島県でも同様に前期の内には小さな前方後円墳が多く見られます。
徳島の前方後円墳の特徴
徳島の前方後円墳は埋葬施設が東西を向くものが多く、香川県の古墳との共通点が多いと考えられてきました。香川の前方後円墳は、次の約束事をきっちりと守っています。すなわち、前方部と後円部の比率が1:1となること、古墳の縁の葺き石を石垣状に積み上げること、前方部が尾根の上側に位置すること、埋葬施設が古墳の主軸に斜行して東西を向くことなどです。
宮谷古墳では、纒向型前方後円墳に近い平面形です。その竪穴式石槨は東西を向いていますが、畿内の古墳と同様に主軸に平行につくられています
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May 2016
May 2016 編集されました
九州の3世紀中葉大型墓
川床遺跡
東平下1号円形周溝墓
生目古墳群
塚崎古墳群
永山古墳群
平原一号墓
津古生掛古墳
那珂八幡古墳
原口古墳
三雲南小路遺跡
宮の前C地点墓
名子道2号墓
夫婦塚
山崎八ヶ尻墳墓群
徳永川ノ上
郷屋古墳
平塚古墳
妙法寺古墳群
祇園山古墳
部木古墳群
小城町寄居遺跡
唐津市中原遺跡
吉野ヶ里遺跡
双水柴山古墳群
久里双水古墳
赤坂古墳
3世紀中葉大型墓(瀬戸内沿岸)
伊与部山方形墓
黒宮大塚
楯築遺跡
西願寺山墳墓群
同弘住3号古墳
立坂弥生墳丘墓
宮山古墳
佐古川・窪田遺跡
極楽寺古墳群
高松市空港跡地遺跡
尾崎西遺跡(A地区)
陵遺跡
円養寺遺跡
奥三号墳、奥古墳群(雨滝山奥古墳群)
野田院古墳
鶴尾神社四号墳
丸井古墳
爺ヶ松古墳
ハカリゴーロ古墳
古枝古墳
足代東原遺跡
萩原一号墳、二号墳
唐古古墳群(唐子台十五号墳、雉之尾古墳)
朝日谷二号墳
吉福墳墓群
井の端墓
周遍寺山一号墳
原田中墓
養久山五号墳
岩見北山古墳群
西条五十二号墓
山戸四号墳
横山古墳群、横山七号墳
養久山一号墳
権現山古墳
瓢塚古墳
畿内
加美遺跡(Y-1、2号墳丘墓)、加美一四号墳
天王山四号方墳
中宮ドンバ方形墓
久宝寺南一号墓
久宝寺四四号墳
深江北町遺跡
服部遺跡(4次調査)
森一号墳
鍋塚古墳
纒向石塚古墳
ホケノ山古墳
纏向勝山古墳
中山大塚古墳
tokyoblog
May 2016
May 2016 編集されました
最古の大型前方後円墳
向日神社をいただく丘陵先端から北へ約2kmの範囲には古墳 時代前期のおよそ百年のあいだに 4 ~ 5 基の大型の前方後円ています。寺戸大塚古墳と妙見山古墳が丘陵より西側を意識した立地であることと対照的な違いをみせており、つくられた時代によって古墳の見せ方が異なることを示すものと考えられます。
(向日丘陵古墳群と呼ばれています。 なかでも、元稲荷古墳は最も南に立地し、0.5km北側にある五塚原古墳とともに平野部への眺望がよくきく場所につくられ ています
特殊器台形埴輪は、弥生時代後期の儀礼用土器に起源を 持つ最古型式の円筒埴輪です。前方部・後方部の墳頂 にたてられていました。元稲荷古墳のものは大小のつくり分 けがあり、小型品に壺をのせた高さが大型品の器高(103cm) にほぼ一致します。小型のものには、墓上祭祀の性格と深く関わりを持つ組帯を表現した特殊文様があります。大型のも すかしあなのは、文様が消え透孔のみが残ります。後方部では特殊器台
形埴輪とともに、讃岐地域に由来する大型の二重口縁壺が並べられていました。初期の古墳で、埴輪を使った祭祀の様子がわかる貴重な事例です。
合掌形の天井に仕上がるように、長側壁の石積 みを内湾させながら強く持ち送る構造が、長 大にして天井の高いこの石槨の特徴を際立たせてい ます。前方部頂と同じ高さに築かれた基底部は、棺 をのせる粘土床が長方形に削りだした壇上に築か れ、周囲に多量の礫を詰めて排水機能を高めたつく りとなっています。石槨の内法は長さ 5.6 m、幅 1.0 ~ 1.3 m、高さ 1.9 mの規模を有しています
桂川西岸地域を治めた有力者は、向日丘陵の頂に3世紀中葉から大型の前方後円(方)墳をつくりはじめます。五塚原古墳と元稲荷古墳は3世紀末までに相前後して築造されました。その平面形態や外部構造は、桜井市箸墓古墳や天理市西殿塚古墳と共通性が認められ、二代にわたり「倭国王」墓の築造企画や施工技術をもとにつくられた可能性が考えられます。
また、元稲荷古墳については神戸市西求女塚古墳と墳丘裾の外郭線がほとんど一致する状況を確認でき、両者は同一のモデルプランからつくられたとみられます。 このような特徴をもつ古墳が出現する背景としては、その造営者勢力が「倭国王」 を擁立する政治権力、すなわち、「倭王権」の一翼を担っていたことが想定されます。
一方で、元稲荷古墳の被葬者は、畿内から各地へつながる交通の要衝をおさえた「オ トクニ」の盟主として、「倭王権」に参画しながらも政治経済的に自立した有力者であっ たと想定できます。それがために、王権から牽制される政治関係を生みだすこともあっ たと考えられ、前方後方墳の採択にいたったと推測されるのです。
tokyoblog
May 2016
市磯長尾市(いちしのながおち、生没年不詳)は、『日本書紀』に伝わる古代日本の人物。
倭直(倭氏)の遠祖である。倭大国魂神(奈良県天理市の大和神社祭神)の起源譚で知られる。『古事記』に記載はない。
垂仁天皇7年7月7日条によると、当麻蹶速の相撲相手として出雲の野見宿禰を連れてくるよう命じられている。第13代の出雲国造、襲髄命はこの野見宿禰のことである。播磨国の立野(たつの・現在の兵庫県たつの市)で病により死亡し、その地で埋葬された。
片埜神社(大阪府枚方市)社伝によれば、当麻蹴速に勝った野見宿禰が垂仁天皇から河内国を賜り、この神社を創祀したという。
石津神社(大阪府堺市堺区)神社創建時の初代の神主。
神魂神社(島根県松江市)伝承では、この神社の裏山にある岩を用いて修行したともいわれている。
菅原天満宮(島根県松江市)この神社の近くに野見宿禰の墳墓がある。
tokyoblog
May 2016
4世紀から。
京都府八幡市にある八幡茶臼山古墳に使われた氷川産阿蘇灰色石から始まる。
阿蘇と畿内との石でつながる相関関係は、倭の五王の時代にすでに開始されていた。
それが文献に反映されたと思われるのが、日本書紀神功皇后紀の記事である。
神功皇后は倭五王に比定される応神王朝の産みの親とされ、応神を生む前に吉備に立ち寄る。
そこにいた吉備の大王的人物の親族であった鴨分という人物に火の国造となって有明海沿岸を管理するように指示したと書かれている。
八幡市の八幡茶臼山から世紀をわずかにこえた5世紀初頭、次に兵庫県に灰色石が現れる。
竜山石の産地である兵庫県たつの市御津にある朝臣一号墳の石棺に氷川産灰色石が使われた。
つづいて五世紀後半の讃岐。
香川県高松市長崎鼻石棺と観音寺丸山古墳石棺。
ほとんど同じ頃、同じ讃岐青塚石棺、伊予蓮華寺石棺。そして五世紀末には灰色石石棺は吉備に近い備前岡山赤磐郡の小山古墳に出現する。これらのすべてが今度は熊本県菊池川産灰色石で作られていた。
しかも形式は熊本県江田舩山古墳と同じ舟形石棺である。
江田船山は倭王武(雄略大王に比定)=ワカタケル銘の刻まれた鉄剣を持っていた。
ピンク石が発見されるまで、阿蘇の灰色石は雄略をはじめとする倭王の一族を代表する石だったと考えられるのである。
この流れが、やがて倭王の血脈と名乗る継体大王の氏族へと引き継がれ、ピンク石石棺へと至るのである。
tokyoblog
May 2016
『日本書紀』神功皇后摂政前紀では鴨別は吉備臣祖と見え、熊襲国討伐に遣わされたと記されている
同書応神天皇22年9月条によると、天皇が吉備に行幸した際に吉備国を分割して吉備臣祖の御友別子孫に封じたといい、この時に鴨別は「波区芸県」(はくぎのあがた:比定地未詳)に封じられたという
また『新撰姓氏録』右京皇別 笠朝臣条では、応神天皇の吉備行幸の際の伝承として、天皇が加佐米山に登った時に風が吹いて笠が吹き飛ばされたが、これを鴨別命が大猟の前兆であると進言し、果たしてそのようになったので「賀佐」の名を鴨別に下賜したという。
tokyoblog
May 2016
葦分国造(あしきたのくにのみやつこ)
纏向の日代の帝[景行天皇]の御世に吉備津彦命(きびつひこのみこと)のこの三井根子命(みいねこのみこと)を国造に定められた。
盧原国造(いおはらのくにのみやつこ)
成務朝の御代に、池田坂井君(いけだのさかいのきみ)の祖・吉備武彦命(きびのたけひこのみこと)の子の思加部彦命(おかべひこのみこと)を国造に定められた。
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3C中頃から末(前期最古期) 規模 墳長 57.5m 後円部径36m 高さ4.8m 前方部幅21m 2.5m 出土品 後円部の箱式石棺から三角縁神獣鏡4面・三角縁龍虎鏡1面・碧玉管玉、鉄刀片、鉄斧など史跡指定 国史跡特記事項 九州最古の前方後円墳とされ三角縁神獣鏡はいずれ紹介する奈良の椿井大塚古墳の神獣鏡と同笵鏡(同じ鋳型から作製)のものもふくまれているといわれている。
宇佐の高倉古墳
大分県宇佐市長洲
形 式 前方後円墳
規 模 全 長 140 m
後円部 直 径 90 m
宇佐市 車塚古墳
県宇佐市高森車坂
形 式 前方後円墳
規 模 全 長 58 m
後円部 直 径 36 m
高 さ 4.5 m
前方部 先端幅 21 m
高 さ 3.5 m
築 造 4世紀後半
墳丘の周囲には幅22mの前方後円形をした周濠があります。
これらの外周施設をふくめた兆域の全長が80mになることが知られています。
埴輪の出土がなく埴輪の配列はなかったものとされています。
葺石が墳丘に施されていたとみられています。
古墳は宇佐風土記の丘公園内にあって保存されており大分県歴史博物館もあり出土品などを展示しています。
宇佐市免が原古墳
宇佐市川部免ケ平
形 式 前方後円墳
規 模 全 長 52.5 m
後円部 直 径 30.5 m
高 さ 4 m
前方部 先端幅 16 m
高 さ 3 m
築 造 前期
主体部は2つ確認されております。
後円部頂中央にある埋葬施設は第1主体とよばれ竪穴式石室で割竹形木棺が収められていました。
竪穴式石室は安山岩でつくられ全長5m幅1m高さ1mと測られています。
出土したものとして中国製斜縁二神二獣鏡、倭製三角縁三神三獣鏡、硬玉製勾玉、碧玉製管玉、ガラス製小玉、ガラス製玉、碧玉製石釧、鉄剣、鉄刀、鉄槍、鎌、鋤先、ヤリガンナ、斧、刀子、不明鉄器などが知られています。
後円部南寄りにある埋葬施設は第2主体とよばれ箱形石棺で埋葬されていました。
出土したものとして中国製斜縁二神二獣鏡、硬玉製勾玉、碧玉製管玉、碧玉製石釧、刀子などが知られています。
川部・高森古墳群を構成しています。
大分県竹田市 仏原1号墳
形 式 前方後方墳
規 模 全 長 25 m
後方部 一辺長 20 m
墳丘の規模については資料が不足しているため複数のデータが明確ではありませんが、後方部の辺20mで、墳丘全長は25mとなっています。
墳丘の周囲には馬蹄形をした周濠があります。
葺石は施されていなかったものみられています。
1996年に調査行われています。
仏原千人塚古墳群を構成しています。
この古墳の築造は古墳時代の前期にあたる4世紀初頭ごろと推定されています。
七ツ森古墳
大分県竹田市菅生の公園内
A号墳
所在地 大分県竹田市菅生
形 式 前方後円墳
規 模 全 長 51 m
後円部 直 径 29 m
高 さ 6 m
前方部 先端幅 8 m
高 さ 3 m
築 造 前期
発掘調査が1988年に行われています。
後円部頂中央にある埋葬施設は箱形石棺で埋葬されていました。
出土したものとして垂孔のある特殊な玉、管玉、玻璃質小玉、分銅扁平石、碧玉製石釧、鹿角製刀子などが知られています
豊後大野 立野古墳
所在地 大分県豊後大野市三重町上田原立野
形 式 柄鏡式の前方後円墳
規 模 全 長 65 m
後円部 直 径 38.5 m
高 さ 6.5 m
前方部 先端幅 12 m
高 さ 4 m
円筒埴輪、朝顔形埴輪、壺形埴輪などが採取されており墳丘には埴輪の配列がなされていました。
円礫による葺石が墳丘に施されていたとみられています。
発掘調査が1998年に、範囲調査が1996年に行われています。
立野古墳群を構成しています。
この古墳の築造は古墳時代の前期にあたる4世紀末ごろと推定されています。
豊後大野市 坊ノ原古墳
大野町北園
形 式 前方後方墳
規 模 全 長 45 m
後方部 一辺長 26 m
高 さ 4 m
前方部 先端幅 10 m
います。
発掘調査が1988年に行われています。
埋葬施設は箱形石棺で埋葬されていました。
この古墳の築造は古墳時代の前期と推定されています。
大分県宇佐市川部・高森にある古墳群。駅館(やっかん)川の右岸、宇佐原といわれる標高30mの段丘の一角に所在する。6基の前方後円墳を中心として、周辺に約120基の円墳や周溝墓が集まった古墳群である。九州最古の一つとされる前方後円墳として著名な赤塚(あかつか)古墳は、古墳時代前期(3世紀後半~4世紀初頭)に築造されたもので、免ケ平(めんがひら)古墳がこれに続き、角房(かくぼう)古墳、車坂(くるまざか)古墳、福勝寺(ふくしょうじ)古墳が古墳時代中期(5世紀)ごろ、鶴見古墳が古墳時代後期(6世紀)ごろの前方後円墳。これら6基の前方後円墳は、古墳時代に宇佐地方を支配していた首長、おそらくは宇佐国造(くにのみやつこ)一族の墳墓と推定され、1980年(昭和55)に国の史跡に指定された。周囲の古墳や周溝墓はその一族や臣下の墓と推測され、3~6世紀の間に同じ地域に継続して古墳が築造されていることから、長期にわたって安定した支配が行われていたと考えられている
現初期の古墳
相の谷古墳 越智郡
櫛玉比売命神社古墳 風早郡 北条平野
小森古墳
大日裏山古墳
小竹古墳
桜山古墳
櫛玉比売命神社古墳よみがな くしたまひめのみことじんじゃこふん
前方後円墳
都道府県 愛媛松山市高田
JR予讃線「伊予北条駅」よりバス又はタクシー利用
松山市, 高田古墳群, 前方後円墳, 神社
紹介文
全長約75mの前方後円墳。
後円部径約42m、高さ約7m、前方部幅約39m、高さ約6mを測り、葺石を備える。社殿建立で後円部を削った際に竪穴式石室が見つかり、勾玉などが出土したというが詳細は不明。採取された埴輪から4世紀後半の築造と推定されている。隣接する国津比古命神社も古墳(全長約45mの前方後円墳か)の上に建立されている。
櫛玉比女命神社 くしたまひめのみこと
鎮座地 奈良県北葛城郡広陵町弁財天
ご祭神 櫛玉比女命
「神名帳考証」では、物部氏の祖天饒速日命の妻で長髓彦の子御炊屋比売命とされる。
「大和志」では「延喜式」神名帳広瀬郡の櫛玉比売神社に比定とあり、寛政三年(1791)刊の「大和名所図絵」にも櫛玉比売神社は弁財天村にあると記されているが、外にも広瀬神社の相殿に祀る同名神社をあてる説もある。
子のウマシマジ命が活躍していることを伝えるのみ
『延喜式』神名帳の伊予国風早郡に、「国津比古命神社」があります。
祭神は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊。
宇麻志麻治命、物部阿佐利命、誉田別命が配祀されています。
火事祭りとも呼ばれる秋祭りは、石段の上から神輿を落とす「あばれ神輿」で有名です。
国造本紀に、風速国造は応神朝に伊香色男命の四世孫の阿佐利を任じたといい、『続日本後紀』承和六年十一月癸未条には、善友朝臣の姓を賜った伊予国人の風早直豊宗らは天神饒速日命の後裔であるとされています。
当地の国造が、物部氏族を称していたことがわかります。
国津比古命神社は、この国造一族によって奉斎されたものでしょう。
末社の金比羅宮の前に、真名井の井戸があります。
阿佐利命が国造に任ぜられて、祖神の饒速日尊と宇麻志麻治命を祀ったことに始まり、古くは櫛玉饒速日命神社と称したと伝えます。
中古、阿佐利命を合祀して国津比古命神社に改称。のち、応神天皇を合祀して頭日八幡宮とも称しました。
祭神は、天道姫命。御炊屋姫命を配祀します。
『旧事本紀』によれば、どちらも“櫛玉”饒速日尊=天火明尊の妃神です。
『文徳実録』斉衡元年三月壬辰条に、伊予国の櫛玉姫神が従五位下の神階に叙せられたことがみえます。
社殿は古墳を一部削平して建っています。
墳丘全長75メートル、後円部径42メートル、前方部幅39メートルの前方後円墳です。
拝殿の西側(右側)にある、素鵞社。
素盞嗚命を祀ります。
参道の途中左側(古墳の後円部の北側)にある、和霊神社です。
応神天皇の時代に物部阿佐利が國造に任命され、彼の祖神である櫛玉饒速日尊と宇摩志麻治命(櫛玉饒速日尊の子)をお祭りしたことに始まります。
社号碑
社号は、初め『櫛玉饒速日命神社』でしたが、物部阿佐利命を合祀して國津比古命神社と名を改めました。後に誉田別尊を合祀し『頭日八幡宮』と再び改めましたが、享保年間(約 270年前) に國津比古命神社と旧号にもどりました。
天正年間(1573年-1591年) 、戦火のため社殿・宝物を焼失しましたが、河野家が社殿を建築し、現在にいたっております。
明治 4年に社格が『郷社』になり、同29年『県社』に昇格しました。昭和26年 『八脚門』県指定有形文化財 。 昭和43年 中殿・拝殿改築。 昭和60年 社殿屋根葺替・境内地拡張補強。
由緒原文略記
当社は延喜式神名帳記載の古社なり。社記に云う文徳天皇仁壽元年正月正六位上を授くと。しこうしてその創始は応神天皇の御宇、物部阿佐利風速國造に任ぜらるるやその祖、饒速日尊、宇摩志摩遅命の廟殿を設け祭祀したまひしに起こると称す。後、物部氏、風速氏はその氏神として深く尊崇あり。あるいは神殿を建て、あるいは神領を奉る。殊に物部氏は波田村(現在の正岡郷高田区)神田村(現在の正岡郷神田区)の地を捧ひで神戸を定め、社名を櫛玉饒速日尊神社と称せしを中古、阿佐利命を合祀して國津比古命神社と改む。しこうして物部氏の苗裔代々その神職となりて奉仕し来たれり。これを先生家(せんじょうけ)・國造家(こくぞうけ)と云う。後、応神天皇を合祀し、ついにはこれを主神の如くに思うに到り、その社名をも頭日八幡宮と称せしを、中御門天皇享保年中、旧号に復して、國津比古命神社と称せり。その後、天正年間兵火に罹り社殿宝物等灰燼に化したりしを河野家再び社殿を建築せり。寛保元年松平隠岐守厚く崇敬あり。毎年代官をして参拝せしむべき制を定めらる。また毎年正月、5月、9月には神符を奉らしめ藩主入部在城の年には正月3日、社職登城して謁見を得る制をも掟せらる。殊に旱魃の年には松山領内10郡の代官所より祈雨祭を請托し、その祭費は大割郡費をもって之を支弁せしめられたり。
櫛玉比賣命神社拝殿
國津比古命神社の主祭神である櫛玉饒速日尊の妃神をお祭りしているのが、向かい側の櫛玉比賣命神社です。社号は『祓座大明神はらいにますだいみょうじん』ともいわれました。寛永年間(約360年前) 官命により、南方の小山の頂より現在の地に移されました。古来、地方豪族の氏神として崇敬され、明治29年に社格が『郷社』になりました。
由緒原文略記
当社は延喜式神名帳記載の古社なり。文徳天皇斎衡元年3月壬辰従五位下を授けらる。軽島豊明朝、物部阿佐利を風速國造に定めて下らしめたもうや、阿佐利はその祖、饒速日尊社及び当社を創始し、朝夕深く敬虔を捧げられたり。社名は饒速日尊の妃を祭祀せるによりて、櫛玉比賣命神社と称す。その鎮座の地は現今の所よりやや南方なる小山の頂に在りしを、御水尾天皇の寛永年中、官命を受けて現在の地に奉遷したりしなり。中古、祓入座大明神とも称せし事あれども、中御門天皇の享保年中、旧号に復せり。右古来、物部氏、風速氏、越智氏等代々その氏神として崇敬あり。
櫛玉比売命神社古墳 国津の丘に櫛玉比売命神社古墳がある。
昭和42年(1967)11月愛媛大学の研究班玉岡・橋本氏らが、この表面実測をしているが、前方後円墳で規模もかなり大きいとしている。古墳の入り口方向は、南から西へ約48度の方向に傾き、後円部の直径約35メートル、前方部の長さは約40メートルで総長75メートルの古墳である。後円部の覆土の高さ約8メートルである。
前方部先端の盛り土の高さは約5メートルで円丘の端からその前方部の中央部の大部分は土を切り取り、社殿並びに前庭広場としており、ただ社殿裏、前方先端部に葺き石が残っていているほかは、ほとんど大部分が、変形している。しかし後円部は完全に残されている。
この櫛玉比売命神社は郷社で天道日女命、御炊屋姫命を祀る。古蹟史に饒速日尊は天照大神の孫ニニギの兄である。饒速日尊は天道日女命を娶り、天香語山、宇摩志麻治の2子を生むとあり、阿佐利は国津比古命神社とともに、饒速日尊の妃を祀り、櫛玉比売命神社を建てた。その頃の神社はやや南方の小山、今の宗昌そうしょう寺の丘にあった。後水尾ごみずのお天皇の寛永年間に命を受けて現在地に奉遷されたもので、中古は祓入坐大明神はらいいりますだいみょうじんと呼ばれた。これは勅使道(現在の北条北中学校南側の市道)が昔宗昌そうしょう寺門前まで通じており、まず風早土手浜から上陸した勅使が、最初に妃神たる櫛玉比売命神社に参詣したことを示す位置関係であり、なぜならここでまずお祓いを行ったのである。それからメインの饒速日尊の宮殿を参詣したのである。よって祓入坐大明神はらいいりますだいみょうじんの異名があるのであると、生前、井上先代宮司に教わったことがある。神道の古体を残す伊勢神宮の外宮と内宮の関係に非常によく似ている。
①ニギハヤヒ命の墓のある山の名は 桧窪山(旧本には日の窪山ともある)で、塚名は山伏塚
②金鵄発祥顕彰碑は昭和16年に建てられた
③富雄地区では王龍寺境内のトビ神社を白庭皇居、高樋の夫婦塚を長髄彦本拠と考えた。
(参考)王龍寺境内のトビ神社を白庭皇居
(参考)生駒市「上町高樋」
④夫婦塚は饒速日命の妻・御炊屋姫の塚ともいう。
⑤「饒速日命の陵」(弓などを埋めたという)には、桧窪山(旧本には日の窪山ともある)〔山伏塚〕・長弓寺内の眞弓塚(弓塚)・夫婦塚(御炊屋姫の塚)などが考証されている。
- - - - - 略 - - - - -
以上が斜め読みして得た情報です。
この本は富雄川沿いにある生駒市の北コミュニテイー内の図書室で書庫から出してもらえば見られます。全5巻で通史と資料Ⅰに記載されています。
場所は先日車で通ったところです。碑のあった郵便局より南に500m位、富雄川の西岸にある大きく綺麗な建物です。」
http://inoues.net/club2/new_nigihayahi.html
主人神社(ぬしと)は矢田坐久志玉比古神社の御旅所です。
祭神:櫛玉饒速日命、御炊屋姫命
主人神社は久志玉媛神社とも呼ばれるため本来の祭神は饒速日命の妻の御炊屋姫だったのでしょう。
旧事紀によれば、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊、またの名を天火明尊、また天照国照彦天火明尊、また饒速日尊と云う。妻を御炊屋姫と云い、宇摩志麻治命、またの名を味間見命、また可美眞手命と云う。
古事記では正哉吾勝々速日天押穂耳尊の子を天明命、神武天皇東征中に邇藝速日命として登場する。妻は登美夜毘賣であり、その子を宇摩志麻遅命と記す。日本書紀では天照国照彦天火明命、後には櫛玉饒速日命、また?芸波椰卑と云う。妻は三炊屋姫、またの名を鳥見屋姫、また長髄姫、子を可美真手命、またの名を于魔詩莽耐と記す。
旧事紀第三巻「天神本紀」(あまつかみのふみ)によれば、「三十二人を防衛(ふせぎまもり)と為し、天降共奉る」・「五部人を副従為て天降共奉る」・「五部造伴領と為し、天物部を率いて天降共奉る」・「天物部等二十五部人、同じく兵杖を帯びて天降共奉る」・「船長同じく共に、舵取り等率領て、天降共奉る」とある。これを簡単に言えば32人の親衛隊と25の部隊を率いる将と船頭他を従えてとなる。またその25の部隊の中に興味深い記述がある。鳥見(トミ)物部〔北九州遠賀町鳥見山〕・赤間物部〔宗像市赤間〕である。〔 〕内は出自地と思われる所である。饒速日命率いる部隊の中に鳥見を名乗る部隊と宗像出身の部隊とは。本件に何か関係があるのではと疑わずにはいられない。
それら部隊を従えた饒速日命は河内国河上哮峯(かわかみのいかるがのみね)に天下り、そして大倭国鳥見の白(庭)山に遷座すると伝えている。また、同第五巻「天孫本紀」には饒速日命が亡くなって後、天羽々弓・天羽々矢・神衣帯手貫の三物を登美白庭邑を以て墓所としたとある。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊[亦の名は天火明命。亦の名は天照国照彦天火明尊。亦の名は饒速日尊。亦の名は膽杵磯丹杵穂命。]
天照霊貴の太子の正哉吾勝勝速日天押穂耳尊は高皇産霊尊の娘の萬幡豊秋津師姫栲幡千千姫命を妃とし、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊が生まれた。天照大神と高皇産霊尊は共に生きておいでなので、天孫亦は皇孫と云う。天祖は天璽の十種の御宝を饒速日尊に授けられた。この尊は天神の御祖の詔を受け天磐船に乗って、河内の国の河上の哮の峯に天下られた。そして、大倭の国の鳥見の白庭山に移られた。天下りの様子は天神本紀に書かれている。天磐船に乗って大空を駆け行き郷を巡り見て天下られた。空から見た日本の国とはこの事を云う。饒速日尊は長髄彦の娘の御炊屋姫を娶って妃とし、宇摩志麻治命を生む。出産前に饒速日尊は婦人に
「お腹の子が、もし男子なら味間見命と名付けよ。もし女子なら色麻彌命と名付けよ。」
と言われた。生まれた子は男子だったので、味間見命と名付けた。饒速日尊は亡くなられた。まだ天に登り還らなかったとき、高皇産霊尊は速飄神に
「我が神の御子の饒速日尊を葦原中国に使わした。疑わしい事がある。汝は降って調べて報告しなさい。」
と命じられた。速飄命は命令を受け天降り、亡くなられた事を見て天に帰り復命して
「神の御子は既に亡くなられました。」
と報告した。高皇産霊尊は哀れと思い、速飄命を使わして、饒速日尊の遺体を天上に上げ、その遺体の側で七日七夜、騒ぎ悲しまれた。天上に葬られた。
饒速日尊は夢によって妻の御炊屋姫に
「我が子を私の形見としなさい。」
と言い、天璽の御宝を授けた。また、天羽羽弓と天羽羽矢、また神衣帯手貫の三物を登美白庭邑に埋葬した。これを持って墓と為した。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊は天道日女命を妃とし、天上に天香語山命を生む。御炊屋姫を妃として天降り宇摩志麻治命を生む
饒速日尊の長子宇摩志摩治の誕生地伝承あり<愛媛伝より>
新撰姓氏禄によると越智氏は第7代孝霊天皇を元祖とする「皇別氏族」に分類されているが、旧事本紀では饒速日尊を元祖としている四国の伊予国越智郡に勢力の中心をもっていた氏族である。奈良時代以降越智郡の郡司としてこの地方に勢力をはって、大三島大山祇神社を奉祭してきた氏族である。
この神社の由緒によると、神武天皇の東征以前に大山積神(饒速日尊)の子孫である「乎千命」が四国に渡り、瀬戸内の治安を司って芸予海峡の要衝である御島(大三島)を神地と定め鎮祭したことにはじまると伝えられている。
生駒山の西麓に饒速日尊、可美真手命を祀った石切劔箭神社が存在している。 「神武天皇が即位した翌年、出雲地方の平定に向かう可美真手命は、生まれ育った宮山に饒速日尊をお祀りしました。」 これが石切劔箭神社の発祥と伝えられている
大山積大神一座で天照大神の兄神に当らせられる。
天孫瓊瓊杵尊御降臨の際、大山積大神、またの名・吾田国主事勝国勝長狭命《大山積神の儗神体》は、女・木花開耶姫尊を瓊瓊杵尊の后妃とし、国を奉られたわが国建国の大神であらせられるが、同時に和多志大神(ワタシ)と称せられ、地神・海神兼備の霊神であるので、日本民族の総氏神として古来日本総鎮守と御社号を申しあげた。
大三島に御鎮座されたのは、神武天皇御東征のみぎり、祭神の子孫、小千命(オチ)が先駆者として伊予二名島(四国)に渡り、瀬戸内海の治安を司っていたとき、芸予海峡の要衝である御島《大三島》に鎮祭したことに始まる。
創建に関わる推古朝以前の伝承として、
・神武東征のみぎり、祭神の子孫・小千命が先駆者として伊予二名島(四国)に渡り、瀬戸内海の治安を司っていたとき、芸予海峡の要衝である大三島に鎮座したことに始まる(上記由緒だが、神武朝創建というのは無理)
・仁徳天皇の御代、小千命が迫戸浦遠土宮(オモノミヤ)に大山祇神を移祭した(大三島記文)
・景行天皇・仲哀天皇・舒明天皇・孝徳天皇・中大兄皇子等が道後温泉への途上当社に参詣された(大三島神社大祝家伝)
・崇峻天皇4年(589)、神託により小千益躬(オチノマスミ)が三島迫戸浜・鼻刳瀬戸のご神木に鏡をかけて大山積神を祀った(?)
などがあり、推古朝以前から当社があったことを示唆しているが、いずれも伝承の域を超えない。
当社の創建・祭祀に深く関わっている越智氏(小千氏)について、日本の神々2によれば、
・薩摩の坊津を根拠として活躍したオオヤマツミを祖神とする小千命系の越智氏
・ニギハヤヒを祖とする物部氏系の越智氏
の二説があり、そのいずれかが、古大和朝廷に従って南九州から瀬戸内海に入り東進後、内海に引き返して、島の東南端にある鼻刳迫戸に定着したのではないかというが、その真偽は不明。
当社創建・祭祀に関わる越智氏について、新撰姓氏録には
「左京神別(天神) 越智直 石上同祖 神饒速日命(ニギハヤヒ)之後也」
とあり、また先代旧事本紀(国造本紀)には、
「小市(オチ)国造 応神朝の御代 物部直と同祖の大新川命(オオニヒカワ・旧事本紀には「饒速日命6世の孫・伊香色雄命の子で、垂仁の御代に大臣となり、はじめて物部連公の姓を賜った」とある)の孫・子致命(小致命・オチ)を国造に定む」
とあり、越智氏はニギハヤヒを祖とする物部氏系の氏族という(古く、今治市を含む高輪半島東部-島嶼を含む一帯を小市国・オチノクニと称し、小市国造によって支配されたという)。
秋葉山古墳群がある相模川中流の東岸では、これまでのところ古墳群築造の母体となったと考えられる大きな集落が検出されていない。この点については相模川中流西岸も含んだ地域で秋葉山古墳群を築造したとの説もあるが、相模川中流域の西岸にも出現期の古墳が見られる点から、相模川東岸に未発見の秋葉山古墳群を造営した人々が暮らしていた集落があるとの説もある。いずれにしても秋葉山古墳群は3世紀~4世紀にかけての相模湾周辺で最も規模が大きな古墳群であり、地域を代表する人物を葬ったものであると見られる[1]。
発掘調査の中で秋葉山古墳群は、3世紀から4世紀にかけての古墳出現期から前期にかけての古墳群であることが明らかになった。特に第三号墳は纏向型の前方後円墳とも呼ばれる、ややいびつな後円部に小さな前方部がついた形をした古墳であり、東日本の中でも最古の前方後円形をした古墳の一つで、3世紀に造営されたと考えられている。当時、古墳群の周辺である相模湾周辺の地域では弥生式の方形周溝墓が造られていたが、第三号墳の規模は方形周溝墓の規模を遥かに凌駕する大きなもので、また発掘された土器などから考えて、第三号墳は相模川流域の在地の勢力から、いち早くヤマト王権との連携を進め、周辺地域を統合することとなった首長の墓であると見られている。
そして第二号墳、第一号墳と時代が下るに従って、定型的な前方後円墳の形に近づいている。また前方後方墳である第四号墳、方墳である第五号墳と、秋葉山古墳内の中でも墳形に変化が見られる。現存6つの古墳で構成される秋葉山古墳群であるが、古墳出現期の古墳の変遷と多彩な墳形を見ることができる。
秋葉山古墳群は、千葉県市原市にあった神門古墳群などと並び、東日本における最古級の古墳群のひとつであり、南関東における出現期古墳、そして当時の社会を知る上での重要な遺跡と評価され、2005年7月14日に国の史跡に指定された。
国内最古級の古墳か 御津町・綾部山39号古墳
兵庫県揖保郡御津町教育委員会は19日までに、同町黒崎の「綾部山39号墳」の埋葬部分について、日本最古とされる奈良県桜井市のホケノ山古墳(3世紀半ば)とほぼ同じ「石囲い3重構造」であると発表した。兵庫県で確認されたのは初めて、全国でも4例目。国内最古級の古墳である可能性が高まり、当時の西播磨が、勢力を伸ばしつつあった大和政権の影響下にあったことを示す遺跡として注目される。
「石囲い3重構造」を持つ古墳は4年前まで、阿波(徳島県鳴門市)と讃岐(香川県綾歌郡)でしか確認されておらず、他の共通点も含めて「阿讃連合」という呼び方がされていた。今回、綾部山39号墳で讃岐産の土器が発見され、御津町教委は「阿讃播連合」という言葉を初めて使った。
発掘場所は、新舞子海岸の真上にある断がいの斜面上部で、高さ27メートルの地点。町道拡張工事で発見された。
埋葬部分は東西4.6メートル、南北3.5メートル。中央に「木棺」を置き、板石を6層に並べた「竪穴式石槨(せきかく)」に囲まれていた。さらに、丸い川原石の「石囲み」が取り囲んでいた。
ホケノ山古墳は、39号墳の石槨に当たる部分が木槨だが、それ以外の構造は共通している。現時点では、円墳とみられるが、ホケノ山古墳と同じ前方後円形である可能性もあるという。
盛り土の少なさや石槨の積み方など、弥生末期の要素も備えており、墳丘墓から古墳へと移行する境目の特徴も示している。副葬品は少なく、「画文神獣鏡(がもんしんじゆうきよう)」と見られる鏡の一部や土器片など。土器の一片は讃岐(香川)製と確認されており、讃岐・阿波との強いつながりが推測されるという。
綾部山の北約3㌔の権現山51号墳(3世紀後半)
三角縁神獣鏡が5枚発見されている。同鏡はそれまで、4世紀以降の古墳からしか出土していなかったため、権現山51号墳は、同鏡が発見された最古の古墳として重要な位置を占めている。
権現山古墳は日本最古の古墳のひとつといわれています。前方後方墳で、全長43mあります。大和を象徴する三角縁神獣鏡と、吉備で発生した特殊器台型埴輪の双方が出土したことで両文化圏の融合が注目されました。 この古墳は、権現山の山頂に築かれた全長43mの前方後方墳で、高さ約3mの盛り土を築き、後方の中央部に竪穴式の石室(高さ4.8m、幅は北1.15m、南1m)が設けられています。日本最古の古墳の一つで、当時のこの地方の有力者の墓です。
日岡山には、日岡陵古墳・西大塚古墳・南大塚古墳・北大塚古墳・勅使塚古墳など前方後円墳5基・円墳3基があり、これらで日岡山古墳群(日岡古墳群)を形成する。この日岡山古墳群は、北東にある西条古墳群とともに兵庫県南部において最大の古墳群になる。本古墳に関しては、1928年(昭和3年)の旧宮内省による実測図が残るほ、2011年(平成23年)には宮内庁書陵部により墳丘測量調査が実施されている。
墳形は前方部を南西方に向けた前方後円形で、ほぼ完全に遺存する。ただし、元々は円墳であって明治の修陵により前方後円形に改められたとする説、およびその一方で改変は受けていないとする説が挙げられていたが、2011年(平成23年)の測量調査によれば当初より前方後円墳としての築造と見られる。段築の有無は不明(無段または幅の狭いテラス面か。墳丘上からは葺石・埴輪片・土師器片が採集されている。
この日岡陵古墳の築造年代は古墳時代前期の4世紀代と推定され、日岡山古墳群のうちでは最古とされる。被葬者は考古学的には明らかでないが、『播磨国風土記』では景行天皇妃の印南別嬢(いなみのわきいらつめ)の「褶墓(ひれはか)」に関する伝承が見えることから、現在では宮内庁により同天皇皇后の播磨稲日大郎姫命の陵に治定されている。日岡山古墳群の前方後円墳はいずれも加古川左岸の平野の方向に前方部を向けることから、その平野を支配した首長の墓と推定されている。また古墳群からは他地域と同笵の三角縁神獣鏡の出土も知られ、畿内のヤマト王権勢力との密接な関係が指摘される。
被葬者は、宮内庁により第12代景行天皇皇后の播磨稲日大郎姫命(はりまのいなびのおおいらつめのみこと)に治定されている。播磨稲日大郎姫命は、『日本書紀』では「播磨稲日大郎姫」や「播磨太郎姫」、『古事記』では「針間之伊那毘能大郎女」と見えるほか、『播磨国風土記』に見える「印南別嬢(いなみのわきいらつめ)」も同一人物とする説がある。いずれにも見える「いなび(いなみ)」は播磨の地名(播磨国印南郡)に由来する。
日岡神社
なお、日岡山南麓には式内社の日岡神社が鎮座し、その社伝では播磨稲日大郎姫命の日本武尊らの出産の際に天伊佐佐比古命(日岡神社祭神)が安産祈願をしたとする。岡神社由緒書きによると、祭神天伊佐佐比古命(あめのひささひこのみこと)は吉備津彦命。
以下は由緒書きより
「第十代崇神天皇の御代、天皇は勢力を広げるために皇族の御方を派遣しました。
北陸、東海、西道、丹波がそれで、世に「四道将軍」と呼ばれています。西道である山陽地方には第七代孝霊天皇の皇子、彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)(吉備津彦命)と弟の若武吉備津彦命(わかたけきびつひこのみこと)を派遣しました。彼らは無事退任を果たし、その後この地にとどまりました。この吉備津彦命が、天伊佐佐彦尊であるといわれています。またこの吉備津彦命の活躍は「桃太郎伝説」のモデルとも言われています。」とあります。
香川県ではさぬき市の富田茶臼山古墳に次ぐ第2位の規模である。また四国地方では、富田茶臼山古墳、徳島県の渋野丸山古墳に次いで第3位の規模である。古墳時代前期の築造と推定され、前期に限れば四国地方では最大、瀬戸内地方で6番目の規模になる。
埋葬施設は、後円部に3か所確認されており、それぞれ刳抜式の割竹形石棺を有する。石棺の石材は香川県鷲の山産の変朽安山岩が使用され、割竹形石棺を採用した古墳の中では国内最古である。墳丘は、大半が地山の削り出しによって形成されているが、後円部の上半部は盛土で構築されている。3段以上の築成により、各段のテラス部には円筒埴輪や壺形埴輪が配置、斜面部には葺石が配されている。墳丘の主軸や埋葬施設の主軸から検討すると、讃岐型前方後円墳の築造様式と畿内前方後円墳の築造様式の双方の特徴が見られることから、非常に貴重な考古資料といえる
第1号石槨からは、長宜子孫・十二支・獣文縁・方格規矩四神鏡1、硬玉製の勾玉1、管玉3、鉄刀残片4、剣5、刀子4、やりがんな1、鑿2、石釧2、斧3、鉄鏃20などが出土している。
第2号石棺からは、仿製内行花文鏡片1が出土し、棺外からは、斧1、碧玉製の管玉2、刀子2、剣1を検出した。また、棺内で若年女性とみられる遺骸が確認されている。
第3号石棺からは、遺骸(青年男性)と仿製内行花文鏡1、剣1を確認している。棺外からは、仿製内行花文鏡1、鉄鏃1、土師器壺1が出土している。
後漢鏡は鶴尾神社4号墳(墓)、古枝古墳、猫塚古墳などで出土していますが、「伝世鏡」論によりますと、 このことは弥生時代後期までにこの地域に後漢鏡がも たらされ、権威の象徴たる後漢鏡を保持して祭祀を執り 行い、政を司った首長がいたことを物語ります。そして 古墳時代になり、その地域の首長が古墳に埋葬されたと きに副葬されたと考えられます。つまり古墳時代前夜に すでに古墳を造営することの出来る力を持つ首長がい たのです。
三角縁神獣鏡が製作される前段階に、2世紀後半~3 世紀初頭の後漢末期頃に製作された画文帯神獣鏡とい う鏡があります。この鏡は東部瀬戸内から畿内に集中し て出土することから、三角縁神獣鏡に先駆けて畿内に直 接もたらされ、畿内の盟主的首長から畿内や東部瀬戸内地方の各首長に配布されたと考えられています。 古墳時代に先駆けて同様な体制が出来上がっていたことが注目されます。この画文帯神獣鏡は讃岐地方 の奥 14 号墳、丸井古墳、高松茶臼山古墳から出土しており、畿内勢力にとって讃岐地方が重要な地域 であったことが分かります。
讃岐地方では三角縁神獣鏡は奥 3 号墳、川津茶臼山古墳、西山古墳から出土しており、このうち奥3 号墳のものは椿井大塚山古墳のものと、西山古墳のものは椿井大塚山古墳と黒塚古墳のものと同笵関係 にある三角縁神獣鏡です。この3古墳は讃岐地方の東部・中央部・西部の海岸に近い場所にあり、この 地域の首長と同盟関係を結ぶことは、中国大陸との主要ルートである瀬戸内海航路を掌握するというヤ マト王権にとって重要な意味があったと考えられます。倣製三角縁神獣鏡が出土した猫塚古墳も同様に 海岸に近い場所です。中国大陸で魏の後の西晋が滅亡した混乱状態と政情不安により三角縁神獣鏡を入 手しにくくなったため、中国製の代替として倭国で製作したものが倣製三角縁神獣鏡です。
この古墳は、東北地方最古の一つとされていて、4世紀に造営された全長114mの前方後円墳で、東北地方で4番目の規模があります。
ここから出土した品は、この時代の近畿地方の古墳で見られるような品々が多く、当時は東北で初めて出土したものが多く、現在でも東北では会津大塚山古墳でしか出土していないものもあります。
会津大塚山古墳の三角縁神獣鏡は岡山県備前市の鶴山丸山古墳のものと同じ鋳型である。鏡はほかに南棺から変形四獣鏡、北棺から捩文鏡が検出されている。また、環頭大刀は、福岡市若八幡神社古墳出土の大刀に類似している
この出土品は、一括して国の重要文化財に指定されるほど歴史的価値があり、なかでも三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)は、岡山県鶴山丸山古墳のものと同一の鋳型(いがた)で作られた鏡で、鏡を持っていた者が会津と岡山の双方の古墳に葬られた人に分与したことがわかり、このため当時大和朝廷の影響が会津まで及んでいたことがうかがえる、貴重な資料です。
この周辺には、会津大塚山古墳より古いと考えられている、堂ケ作古墳・飯盛山古墳、その他多数の円墳群と横穴墓群が確認されていて総じて一箕古墳群と呼ばれています。
会津盆地東部に立つ大塚山の山頂に位置する墳丘全長114メートルの前方後円墳である。
発掘調査当初は、全長90メートル、後円部の径45メートル・高さ6メートル、前方部の幅23メートル・高さ3.5メートルで前方部が狭く細長い柄鏡形の古墳と考えられていた。しかし、昭和63年(1988年)の再測量の結果、全長114メートル、後円部径70メートル・高さ約10メートル、前方部前幅54メートル、墳丘途中に段をもつ前方部二段、後円部三段築成の古墳であることが判明した。
築造年代は4世紀末と推測され、東北地方では古い時期の古墳の1つになる。一箕古墳群では本古墳を含み3基の大型前方後円墳が確認されているが、他の2基の飯盛山古墳(飯盛山山頂)、堂ヶ作山古墳(堂ヶ作山山頂)は本古墳よりも先の築造とする説が有力視されている。
「崇神天皇は諸国平定のため4人の皇族将軍をそれぞれ北陸・東海・西道(山陽)・丹波(山陰)の4方面へ派遣した。このうち、北陸道へは大彦命、東海道へは武渟川別命(大彦命の子)が派遣され、それぞれ日本海と太平洋沿いを北進しながら諸国の豪族を征服していった。やがて2人はそれぞれ東と西に折れ、再び出会うことができた。この出会った地を「相津」(あいづ)と名付けた」
この話はあくまでも伝説であるが、大和朝廷が会津を征服したことが読み取れる。また、崇神天皇が3世紀-4世紀頃に存在した実在の天皇と見られていることや会津大塚山古墳が4世紀末の造営と考えられることから、大和朝廷の会津支配の始まりや会津大塚山古墳の被葬者を知る上でも注目される伝説である。
1964年の調査
会津大塚山古墳は大正9年(1920年)に考古学者の鳥居龍蔵によって古墳として認められ、その後、昭和39年(1964年)に『会津若松市史』出版事業の一環として東北大学文学部考古学研究室(伊東信雄教授)による後円部の発掘調査が行われた。
この調査では、後円部の中心から南北2基の割竹形木棺の痕跡が検出され、さらに南棺からは日本製の三角縁神獣鏡をはじめ多くの遺物が検出された。また環頭大刀、靭(ゆき)、鉄製農耕具なども出土している。南棺は北棺よりも古い埋葬で、遺った歯から老齢の男性であると推定され、大塚山古墳の主と考えられている。北棺からも量は少ないが南棺と同様の副葬品が出土した。
この調査によって古墳の全容がおおよそ判明し、会津の地が大和政権の支配下に組み込まれたのは7世紀の阿倍比羅夫の東北遠征以降であるという従来の説は覆され、古墳の造営された4世紀末にはすでにヤマト王権を構成する首長が存在していたことが証明された。
交野車塚古墳群の中でも一番古い第1号古墳は、北河内で発見された最大の前方後方墳で、埋葬施設も完存しており、大阪府でも貴重な文化財であることから、平成3(1991)年に大阪府文化財保護条例により史跡(第45号)に指定され、第1号古墳出土品(一括)も、平成6(1994)年に府有形文化財に指定されています。
吉備地方と類似性のある特異な古墳時代前期(4世紀前代)の古墳が2基あ る。出雲最古の前方後方墳である三刀屋の松本一号墳、景初三年(239)の銘入り三角縁神 獣鏡を出した加茂の神原神社古墳である。
三刀屋の松本一号墳
「松本一号墳は、出雲地方でもっとも古い前方後方墳です。全長は50mを測り、雲南地方で最大の古墳です。また前方後方墳としては出雲地方で三番目の大きさです。前方部の先端がやや開くことから我が国でもっとも古い前方後方墳の一つ備前岡山車塚古墳(岡山市)との類似性が指摘されるなど、古代出雲を考える上で重要な古墳です」
加茂の神原神社古墳
景初三年銘がある三角縁神獣鏡は、現在までのところ2面しか出土していない。一面は大阪の和泉黄金塚古墳からであり、そしてもう一面は神原神社古墳からである。
神原神社は、今でこそ赤川左岸の畑の中に鎮座しているが、『出雲風土記』や『延喜式』の神名帳にも記載されている古社である。祭神として、オオクニヌシノミコト(大国主命)と、イワツツオノミコト(磐筒男命)、イワツツメノミコト(磐筒女命)を祀っている。古伝では、アマテラスオオミカミ(天照大神)がオオクニヌシノミコトの神宝や真種の甘美鏡(水底に眠る神威溢れる見事な宝)を天の八十河にいるイワツツオノミコトとイワツツメノミコトを派遣して管理させたとされている。社殿はもともと赤川左岸の微高地の突端に建てられていた。その微高地が実は古墳の墳丘だったのである。度重なる社殿の改築などで古墳の存在は古くからわかっていたが、調査の手は加えられなかった。
三角縁神獣鏡以外に、素環頭大刀・木装大刀・剣・槍・鉄鏃などの鉄製品や、鋤・鍬・鎌などの農耕具農耕具、土器 、玉類(ヒスイの勾玉・碧玉の管玉・滑石製臼玉など)なども、この古墳から出土している。石室の構造に、これらの副葬品の組み合わせや出土土器の形式を勘案して、この方墳の築造時期は4世紀中頃と推定されている。
式内社 出雲國仁多郡 三澤神社
御祭神 阿遲須枳高日子根命
合祀
大己貴命 素盞嗚命 志那都比古命 志那都比賣命
氣長足比賣命 別雷命 少彦名命 五十猛命
島根県奥出雲町(旧仁多町)にある。出雲三成駅の西4Kmほど。三沢郵便局の隣りに社号標が立ち、入口がある。
入口の左手には、小さな事代主社。
出雲風土記に「三澤社」とある神社。
「三澤」は「御澤」の意味。祭神・阿遲須枳高日子根命が、この地の澤の水によって、心身の障害を取り除き、立派に成人したという伝承が残る。この「澤」は当社の西方・三澤城址要害山の山頂にある「刀研池」。
風土記には、「以上諸郷所レ出鐡、堅尤堪レ造二雑具一。」とあり、堅くて質の良い鉄が産する地として、古代は、農具などの製造が盛んな地であったという。
祭神・阿遲須枳高日子根命の字義は、切れの良い鋤の意味。農耕神であると同時に鉄の神でもあるのだろう。
祭神は、もともと一柱であったが、
明治七年、意宇郡林村の風宮を合祀し、大己貴命、素盞嗚命、志那都比古命、志那都比賣命を相殿に祀る。
さらに明治十三年、末社祭神氣長足比賣命を本殿へ合祀。
明治四十年、村社加茂神社、高守神社を合祀して現在にいたる。
雲南最大の古墳群─松本古墳群
三刀屋町古城にある三屋(さんや)神社の横の道を登っていくと、丘のようにも見える開けた尾根に出ます。ここが雲南地方最大規模の松本古墳群です。6基の古墳のうち、松本1号墳と松本3号墳は、古墳群の中核であり、墳形が特筆される古墳として注目を集めています。
松本1号墳
松本1号墳は、1961年、畑から土器片が出土したことから、古墳であることがわかりました。現地調査の結果、全長が50mという大きな古墳で、しかも古墳の形は古墳時代前期にみられる前方後方墳であることがわかりました。前方部では、埋葬にかかわる儀式が行われ、被葬者は後方部に埋葬されています。全長が50mもある古墳は、雲南地方ではほかにはありません。
この古墳には、主体部とよばれる埋葬施設が3か所ありました。盟主が埋葬されたとみられる第1主体部は、床面に粘土が敷かれ、長さ約5.2mの箱型木棺が置かれていたと考えられています。木棺には、斜縁獣帯鏡とよばれる鏡や、ガラスの小玉、刀子、針などが副葬されていました。
古墳が築造された時期は、出土した土器から、神原神社古墳よりやや後の古墳時代前期後半ごろとみられ、数少ない前期古墳として島根県の史跡に指定されています(指定名称:「松本第1号古墳」)。
松本3号墳
松本3号墳は、発掘調査は行われていませんが、地形測量の結果、古墳の全長が1号古墳を上回る52mもあることがわかりました。この古墳も前方後方墳なのですが、古墳の形が特異で、前方部が三味線の撥(ばち)のように開いているのです。興味深いことに、奈良県にある、最古級の古墳ともいわれる箸墓古墳(全長286m)は同じ撥形の前方後円墳なのです。後方墳と後円墳の違いや大きさの違いはありますが、古墳の設計や規格が同じで、松本3号墳は、近畿地方の前方後円墳をモデルにして築かれたと考えられています。
箸墓古墳といえば、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓という説もあります。邪馬台国畿内説を採るとすれば、松本3号墳の被葬者は、近畿地方あるいは、近畿地方と深いつながりのあった吉備地方と関係があったのかもしれません。前方部が撥形になった古墳は、最も早い段階の古墳といわれており、松本3号墳は1号墳よりも古い前期古墳と考えられています。
これらの古墳や、神原神社古墳などの前期古墳は、いずれも斐伊川中流域に築かれています。この流域に築かれた前期古墳はこればかりではありません。平成3年に木次町里方で発見された斐伊中山古墳群2号墳も前期古墳であることがわかったのです。
出典 倉敷考古館 よもやま話
http://ww51.tiki.ne.jp/~kura-kouko/yomoyama113.html
吉井川の東岸、備前市では西端でもあるが、独立丘状の頂部にある。円墳だが少々楕円形のようで、現状は、径が45~55m前後。
地元民によって、1936年に掘られたもので、竪穴石室の中には室内いっぱいに、屋根に見事な家と円盤を彫刻した大形石棺が収められていた。岡山県下では今に至るまで、全く類をもないもの。棺の周辺は30面に及ぶ鏡が取り囲み、碧玉製の三足付の盤や、彫刻を持つ刳抜の蓋物・盒(ごうす)などが、ところ狭しとあったようだ
大量の遺物発見後、届けられ公にされた遺物が、東京国立博物館に収蔵されているものである。ー鏡は30余面出土といったが、東博に収蔵されているものは17面に過ぎない。この古墳では報告書(梅原末治「備前和気郡鶴山丸山古墳」日本古文化研究所 1938年)に載るものだけが博物館にあるのである。)
梅原氏など京都大学の研究者の手で、緊急の調査が2日間行われた。しかし石棺内部は一切調査の無いまま、石室はコンクリートで閉鎖されたのである。
実は今ひとつ、この石棺に穴が開けられたときに、壊された棺蓋の石材破片を、保管していた人がいたのだ。それを知った知人の研究者が、われわれが石棺石材を研究していることを知って、入手し提供してくれたのである。
貴重な資料であった。鏡や玉なら誰しも気付くものだが、棺の石片の価値などには、思いも寄らない人が多いだろう。この小さい石片は、この古墳の性格を大きく示していたのである。
このあたりでは他に例の無いこの立派な石棺は、香川県東部の白色に近い凝灰岩の石材で製作されていたのである。香川県の東部には、この石材で作られた古墳時代の石棺は、以前から知られ、舟形の刳抜石棺だったが、丸山古墳のような形でもなく立派な彫刻もない。形や彫刻のある石棺と言うことでは九州の石棺に似ているが、それぞれに新古の問題があって、系譜をたどるのはむつかしい。
鶴山丸山古墳の立派な石棺蓋には、家と円形のレリーフが複数ある。九州の装飾古墳には、鏡か太陽を思わす壁画も多い。この時期には、鏡が太陽の分身であったのだろう
備前のサヌカイトの出土
旧石器時代人や縄文人達の、行動範囲、交易の有無などを目的にしての研究である。黒曜石の産地が無い岡山県南部の鷲羽山遺跡では、数多く出土しているほとんどの石器が、香川県産のサヌカイト製である。その中で唯一、採集されていた黒曜石製の小さい石器は、島根県隠岐島産の黒曜石と考えられている
長い間、奈良県の桜井茶臼山古墳や大阪府の紫金山古墳ように前方部の平面形が長方形で低いものが古く、前方部が高く、端部に向かって開くものが新しいとされていました。ところが、前方部が途中で開くものが古いという見解を近藤義郎が「前方後円墳の成立と変遷」で示し、バチ形の前方部という言葉も使われるようになりました。
以後、前方後円墳の墳丘の平面形についてさまざまな研究が行われてきましたが、その成立と絡めて言及した中で特に注目される提言は、纒向型前方後円墳と讃岐型前方後円墳です。
纒向型前方後円墳は、寺沢薫によって纒向石塚をはじめとする奈良県の纒向古墳群の検討から提唱された考えです。前方部の長さが後円部の直径のほぼ半分で、前方部が小さくその先端がはっきりしないものが多いとされています。
一方、讃岐型前方後円墳は北条芳隆によって香川県、徳島県の積石塚が多く分布する地域の古墳の検討から提唱されました。後円部と前方部の比率はほぼ1:1となり、前方部端を溝で区画するか、高く盛り上げて目立たせています。
東四国における前方後円墳のあらまし
東四国では、積石塚の前方後円墳が多く、後円部だけが積石塚となるものもあり、阿讃積石塚分布圏として古くから注目されていました。
香川県には、長さ40 m未満の小さな前方後円墳が数多くあります。大きさによりその存在感を示す前方後円墳であるのに、小さな前方後円墳が数多くあるという事実には興味がもたれます。古墳時代の前期前半にこの小さなものが圧倒的に多く、墳長40 mに満たないものが40基近くあります。新しくなるに従いその数は少なくなると同時に、古墳の大きさは次第に大きくなっていきます。徳島県でも同様に前期の内には小さな前方後円墳が多く見られます。
徳島の前方後円墳の特徴
徳島の前方後円墳は埋葬施設が東西を向くものが多く、香川県の古墳との共通点が多いと考えられてきました。香川の前方後円墳は、次の約束事をきっちりと守っています。すなわち、前方部と後円部の比率が1:1となること、古墳の縁の葺き石を石垣状に積み上げること、前方部が尾根の上側に位置すること、埋葬施設が古墳の主軸に斜行して東西を向くことなどです。
宮谷古墳では、纒向型前方後円墳に近い平面形です。その竪穴式石槨は東西を向いていますが、畿内の古墳と同様に主軸に平行につくられています
川床遺跡
東平下1号円形周溝墓
生目古墳群
塚崎古墳群
永山古墳群
平原一号墓
津古生掛古墳
那珂八幡古墳
原口古墳
三雲南小路遺跡
宮の前C地点墓
名子道2号墓
夫婦塚
山崎八ヶ尻墳墓群
徳永川ノ上
郷屋古墳
平塚古墳
妙法寺古墳群
祇園山古墳
部木古墳群
小城町寄居遺跡
唐津市中原遺跡
吉野ヶ里遺跡
双水柴山古墳群
久里双水古墳
赤坂古墳
3世紀中葉大型墓(瀬戸内沿岸)
伊与部山方形墓
黒宮大塚
楯築遺跡
西願寺山墳墓群
同弘住3号古墳
立坂弥生墳丘墓
宮山古墳
佐古川・窪田遺跡
極楽寺古墳群
高松市空港跡地遺跡
尾崎西遺跡(A地区)
陵遺跡
円養寺遺跡
奥三号墳、奥古墳群(雨滝山奥古墳群)
野田院古墳
鶴尾神社四号墳
丸井古墳
爺ヶ松古墳
ハカリゴーロ古墳
古枝古墳
足代東原遺跡
萩原一号墳、二号墳
唐古古墳群(唐子台十五号墳、雉之尾古墳)
朝日谷二号墳
吉福墳墓群
井の端墓
周遍寺山一号墳
原田中墓
養久山五号墳
岩見北山古墳群
西条五十二号墓
山戸四号墳
横山古墳群、横山七号墳
養久山一号墳
権現山古墳
瓢塚古墳
畿内
加美遺跡(Y-1、2号墳丘墓)、加美一四号墳
天王山四号方墳
中宮ドンバ方形墓
久宝寺南一号墓
久宝寺四四号墳
深江北町遺跡
服部遺跡(4次調査)
森一号墳
鍋塚古墳
纒向石塚古墳
ホケノ山古墳
纏向勝山古墳
中山大塚古墳
向日神社をいただく丘陵先端から北へ約2kmの範囲には古墳 時代前期のおよそ百年のあいだに 4 ~ 5 基の大型の前方後円ています。寺戸大塚古墳と妙見山古墳が丘陵より西側を意識した立地であることと対照的な違いをみせており、つくられた時代によって古墳の見せ方が異なることを示すものと考えられます。
(向日丘陵古墳群と呼ばれています。 なかでも、元稲荷古墳は最も南に立地し、0.5km北側にある五塚原古墳とともに平野部への眺望がよくきく場所につくられ ています
特殊器台形埴輪は、弥生時代後期の儀礼用土器に起源を 持つ最古型式の円筒埴輪です。前方部・後方部の墳頂 にたてられていました。元稲荷古墳のものは大小のつくり分 けがあり、小型品に壺をのせた高さが大型品の器高(103cm) にほぼ一致します。小型のものには、墓上祭祀の性格と深く関わりを持つ組帯を表現した特殊文様があります。大型のも すかしあなのは、文様が消え透孔のみが残ります。後方部では特殊器台
形埴輪とともに、讃岐地域に由来する大型の二重口縁壺が並べられていました。初期の古墳で、埴輪を使った祭祀の様子がわかる貴重な事例です。
合掌形の天井に仕上がるように、長側壁の石積 みを内湾させながら強く持ち送る構造が、長 大にして天井の高いこの石槨の特徴を際立たせてい ます。前方部頂と同じ高さに築かれた基底部は、棺 をのせる粘土床が長方形に削りだした壇上に築か れ、周囲に多量の礫を詰めて排水機能を高めたつく りとなっています。石槨の内法は長さ 5.6 m、幅 1.0 ~ 1.3 m、高さ 1.9 mの規模を有しています
桂川西岸地域を治めた有力者は、向日丘陵の頂に3世紀中葉から大型の前方後円(方)墳をつくりはじめます。五塚原古墳と元稲荷古墳は3世紀末までに相前後して築造されました。その平面形態や外部構造は、桜井市箸墓古墳や天理市西殿塚古墳と共通性が認められ、二代にわたり「倭国王」墓の築造企画や施工技術をもとにつくられた可能性が考えられます。
また、元稲荷古墳については神戸市西求女塚古墳と墳丘裾の外郭線がほとんど一致する状況を確認でき、両者は同一のモデルプランからつくられたとみられます。 このような特徴をもつ古墳が出現する背景としては、その造営者勢力が「倭国王」 を擁立する政治権力、すなわち、「倭王権」の一翼を担っていたことが想定されます。
一方で、元稲荷古墳の被葬者は、畿内から各地へつながる交通の要衝をおさえた「オ トクニ」の盟主として、「倭王権」に参画しながらも政治経済的に自立した有力者であっ たと想定できます。それがために、王権から牽制される政治関係を生みだすこともあっ たと考えられ、前方後方墳の採択にいたったと推測されるのです。
倭直(倭氏)の遠祖である。倭大国魂神(奈良県天理市の大和神社祭神)の起源譚で知られる。『古事記』に記載はない。
垂仁天皇7年7月7日条によると、当麻蹶速の相撲相手として出雲の野見宿禰を連れてくるよう命じられている。第13代の出雲国造、襲髄命はこの野見宿禰のことである。播磨国の立野(たつの・現在の兵庫県たつの市)で病により死亡し、その地で埋葬された。
片埜神社(大阪府枚方市)社伝によれば、当麻蹴速に勝った野見宿禰が垂仁天皇から河内国を賜り、この神社を創祀したという。
石津神社(大阪府堺市堺区)神社創建時の初代の神主。
神魂神社(島根県松江市)伝承では、この神社の裏山にある岩を用いて修行したともいわれている。
菅原天満宮(島根県松江市)この神社の近くに野見宿禰の墳墓がある。
京都府八幡市にある八幡茶臼山古墳に使われた氷川産阿蘇灰色石から始まる。
阿蘇と畿内との石でつながる相関関係は、倭の五王の時代にすでに開始されていた。
それが文献に反映されたと思われるのが、日本書紀神功皇后紀の記事である。
神功皇后は倭五王に比定される応神王朝の産みの親とされ、応神を生む前に吉備に立ち寄る。
そこにいた吉備の大王的人物の親族であった鴨分という人物に火の国造となって有明海沿岸を管理するように指示したと書かれている。
八幡市の八幡茶臼山から世紀をわずかにこえた5世紀初頭、次に兵庫県に灰色石が現れる。
竜山石の産地である兵庫県たつの市御津にある朝臣一号墳の石棺に氷川産灰色石が使われた。
つづいて五世紀後半の讃岐。
香川県高松市長崎鼻石棺と観音寺丸山古墳石棺。
ほとんど同じ頃、同じ讃岐青塚石棺、伊予蓮華寺石棺。そして五世紀末には灰色石石棺は吉備に近い備前岡山赤磐郡の小山古墳に出現する。これらのすべてが今度は熊本県菊池川産灰色石で作られていた。
しかも形式は熊本県江田舩山古墳と同じ舟形石棺である。
江田船山は倭王武(雄略大王に比定)=ワカタケル銘の刻まれた鉄剣を持っていた。
ピンク石が発見されるまで、阿蘇の灰色石は雄略をはじめとする倭王の一族を代表する石だったと考えられるのである。
この流れが、やがて倭王の血脈と名乗る継体大王の氏族へと引き継がれ、ピンク石石棺へと至るのである。
同書応神天皇22年9月条によると、天皇が吉備に行幸した際に吉備国を分割して吉備臣祖の御友別子孫に封じたといい、この時に鴨別は「波区芸県」(はくぎのあがた:比定地未詳)に封じられたという
また『新撰姓氏録』右京皇別 笠朝臣条では、応神天皇の吉備行幸の際の伝承として、天皇が加佐米山に登った時に風が吹いて笠が吹き飛ばされたが、これを鴨別命が大猟の前兆であると進言し、果たしてそのようになったので「賀佐」の名を鴨別に下賜したという。
纏向の日代の帝[景行天皇]の御世に吉備津彦命(きびつひこのみこと)のこの三井根子命(みいねこのみこと)を国造に定められた。
盧原国造(いおはらのくにのみやつこ)
成務朝の御代に、池田坂井君(いけだのさかいのきみ)の祖・吉備武彦命(きびのたけひこのみこと)の子の思加部彦命(おかべひこのみこと)を国造に定められた。