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tokyoblog
April 2016
銅鐸は副葬されていない
穴があいているところから、本当に冬至や夏至の日の出を観測したのか。
なぜ大型化したのか。
副葬はされていない、単独または銅剣・銅矛と埋納されている。
聞く銅鐸から→眺め見る銅鐸→仰ぎ見る銅鐸へ変遷したのか。
なぜ副葬されず、埋納されたのか。
tokyoblog
April 2016
崇神天皇陵よりも古いとされる奈良盆地の茶臼山古墳の副葬品は、北九州の弥生式文化の中 期・後期の族長が持っていたものと、基本的に同じであるといわれる
最古の直弧文(直線と弧線を組みあわせた文様)の出現の時期が、西から東へと移動している。
『魏志倭人伝』には、倭人は、鉄を用いたとある。弥生時代後期において、鉄製品は、北 九州から多く発見され、近畿からは、ごくわずかしか発見されない。そして、次の古墳時代 にはいると、畿内を中心とする多くの古墳から、莫大な量の鉄器が出土している
『魏志倭人伝』には、倭人が、養蚕を行なっていたことを記している。また、邪馬台国女 王から魏帝へ献上した絹製品の名が、『魏志倭人伝』にいくつか記されている。弥生絹は、いずれも、北九州のみから出土している。
古墳時代以後には、畿内から、絹が出土す る。絹の出土において、弥生時代の北九州と、古墳時代の畿内とが連続している。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/konnkyo.htm
tokyoblog
April 2016
金比羅山古墳 遠賀川の最古級で最大級の前方後円墳
桂川町教委は2014.9.18日、九州大大学院の考古学研究室と発掘調査を進めていた金比羅山古墳(桂川町寿命)について、遠賀川流域で最古級、最大級の前方後円墳であることを確認したと発表した。金比羅山古墳は町内にある王塚古墳の北東約1キロの丘陵の上にあり、1935年に京都大の調査で存在が確認された。
全体の長さは王塚古墳の86メートルに匹敵する約80メートル。後円部分は直径47メートル、高さ約7メートルの3段構造で、前方部分は幅約20メートル、高さ3メートル程の2段構造であることが分かった。丘陵の地形を利用して、ほとんどの部分が地山を削り出す工法で築造されたという。
後円部と前方部の高さの差が大きく、後円の頂部の平らな面が広いといった構造的な特徴、埴輪はにわや斜面の葺ふき石が見つからない状況などから、6世紀中頃の王塚古墳より数百年遡る3~4世紀頃の古墳時代前期に築造されたと考えられるという。
遠賀川流域で最大級で最古級との調査結果が得られたことについて、九州大大学院の辻田淳一郎准教授(比較社会文化)は「これだけ大きな古墳が古墳時代前期にあったということは、築造できる基盤がこの地区にあり、地区の有力者が(土木技術や知識を持つ)近畿地方などとの政治的ネットワークに参加していた可能性がある」と評価している。
tokyoblog
April 2016
遠賀川流域
宮尾遺跡では12000年前のナイフ形石器から6世紀の水晶製装身具、立屋敷遺跡では紀元前3世紀の遠賀川式土器、2~3世紀の弥生土器が出土、苗代谷遺跡から土師器、打製石鏃、土製紡錘車が 弥生時代中期から5世紀にかけて見つかっています。
上二貝塚から石包丁、内行花文鏡( 国内製)。このようなことから判断しますと、中国人の居た形跡はありません。
遠賀町では、丸山古墳(前方後円墳)は、全長が57mです。丸山2号墳は一辺の長さが18mの方墳で、造られた時期は四世紀前半~中頃。この他にも円墳が3基あり、直径が10~17mの低墳丘の古墳です。豊前坊古墳群 2号墳は方墳。
豊前坊古墳群 2号墳は方墳。3号墳は全長30mほどの小型前方後円墳です。4世紀中か。
遠賀町のホームページでは、上記のように、4~5世紀の墳墓しか記載されていません。
tokyoblog
April 2016
2001年5月31日付の朝刊各紙は、奈良県桜井市の 勝山古墳の周濠から見つかった木製品が、年輪年代法の測定により、三世紀初めに伐採 されたヒノキだったことを報じている。
勝山古墳の築造年代が、三世 紀前半までさかのぼることになりそうだ。
「邪馬台国=畿内説」が裏づけられた。
というが
布留0式土器の年代は、多くの研究者が3世紀後半以降の土器としている。
古墳の築造年代を判定するときには、199年ごろに伐採されたという木片と、3世紀後半以降の土器の両方を考慮しなければならない。
とすれば、3世紀後半でしょう。
tokyoblog
April 2016
「(倭人は)兵(器)には、矛・楯・木 弓を用いる。」と記されている。
北九州からは、銅の矛も、鉄の矛もいくつも出ているの に、纏向遺跡からは、ホケノ山古墳からも、勝山古墳から も、銅の矛も、鉄の矛も、まったく出土しないのは、どうし たわけか。
『魏志倭人伝』はまた、「異文雑錦二 十匹を貢いだ」など、倭人は、絹製品をつ くっていたことを記す。
絹製品も、北九州からいくつも出土しているのに、「纏向 遺跡」など、奈良県から、当時のものは、出土していないの はなぜだろう。
倭人は、鉄利器を用いていた。
ホケノ山古墳からは、たし かに、鉄の鉄、素環頭大刀、直刀、剣が出土しているが、福 岡県からは、奈良県をはるかに上まわる当時の鉄利器が出土 していることは、「邪馬台国畿内説」の寺沢薫氏でさえ指摘 しておられるところである。
『魏志倭人伝』には、倭人の葬制は、「棺あって槨なし」と 明記している。
これも、北九州の墓制と合致している。
ホケノ山古墳では、「木槨」があった。『魏志倭人伝』の記述に合っ ていない。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/katuyama.htm
tokyoblog
April 2016
April 2016 編集されました
奈良と九州の比較
石塚古墳
(桜井市太田) 帆立貝形前方後円墳? 全長92~96m
年輪年代法で3世紀初め
古墳及び古墳周辺から出土するのは古い土器のみ
一部の土器から3世紀中葉以降という見方もある 庄内式より古い土器(石野博信)
庄内3式(3世紀中葉以降-寺澤薫)
勝山古墳
(桜井市東田) 柄鏡式前方後円墳? 全長110m
庄内式の古い時期の土器(3世紀前半)
年輪年代法で3世紀初め
ホケノ山古墳
(桜井市箸中) 帆立貝形前方後円墳 全長90m
石囲い木槨 舟形木棺 (木槨内)
画文帯同向式神獣鏡1(足元)、素環頭太刀など刀剣類5
(木槨外?)
鏡片23(半肉彫り神獣鏡、内行花文鏡など)
※土器(庄内式、布留式同時使用の可能性)
(前方部木棺)
3世紀中頃の瀬戸内西部の特徴を持つ壺
3世紀後半~4世紀初頭? 中山大塚古墳
(天理市中山町大塚) 前方後円墳 全長120m
後円部中央 竪穴式石室
前方部はバチ形 (石室)
二仙四獣鏡片2
(墳丘頂部)
土器、特殊器台形土器ほか
3世紀後半~4世紀初頭? 箸墓古墳
(桜井市箸中) 前方後円墳 全長280m
2009年5月、歴博からC14年代測定で240~260年と発表がある
土器、試料、崇神紀の記録及び崇神天皇の時代など、総合的な判断が必要
布留0式土器(280年頃とされる)
4世紀前半 黒塚古墳
(天理市柳本町) 前方後円墳 全長130m
後円部中央 竪穴式石室 (棺内)
画文帯神獣鏡1(頭部付近)、鉄製刀剣2
(棺外)
三角縁神獣鏡33、刀剣類
4世紀前半~中葉?
天神山古墳(天理市柳本町天神) 前方後円墳 全長113m
後円部中央 竪穴式石室
崇神陵の陪塚? (石室)
内行花文鏡4、方格規矩四神鏡鏡6、画文帯神獣鏡4、三角縁変形神獣鏡2、獣形鏡3、画像鏡2、獣帯鏡1、人物鳥獣鏡1、鉄刀3、鉄剣4ほか
九州
3世紀前半 平原遺跡
(前原市有田平原 三雲遺跡群の西) 方形周溝墓(18m×14m)
墓壙(4.5m×3.6m)に割竹形木棺(長さ3m)の痕跡 (棺内)
蛋白石耳璫、ガラス勾玉、管玉、連玉、小玉、瑪瑙管玉、蛋白石丸玉
(棺外)
方格規矩鏡32、内行花文鏡6(長宜子孫銘入1、仿製5)、虺龍文鏡1 すべて破砕された状態で発見
素環頭太刀
3世紀中葉~3世紀後半
光正寺古墳
(糟屋郡宇美町宇美) 前方後円墳 全長54m
後円部に埋葬施設5カ所
箱式石棺3、割竹形木棺1、土器棺1 (第1主体部 箱式石棺)
土師器(3世紀中頃~3世紀後半)
3世紀後半 祇園山古墳
(久留米市御井町) 方墳?1辺23~24m
箱形石棺
墳裾外周に甕棺3、石蓋土壙32、箱形石棺7、竪穴式石室13、不明7 (1号甕棺)
画文帯神獣鏡片、硬玉製勾玉、碧玉製管玉
(墳裾)
土師器
3世紀後半 津古生掛古墳
(小郡市津古字生掛) 帆立貝形前方後円墳 全長33m (木棺)
方格規矩鳥文鏡1、ガラス玉、鉄剣ほか
(古墳周溝、付随周溝墓の溝内)
土師器(庄内式の新しいものと並行する時期)
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April 2016
April 2016 編集されました
九州の2世紀までの遺跡
三雲遺跡群
(前原市三雲南小路) 東西両側に溝、東西31m、南北24mの特別区画
墓壙4.2m×3.6m
合せ口甕
(1号甕棺 内外)
前漢鏡35面(現存:内行花文清白鏡1面)
有柄中細銅剣1(現存)、銅矛2、銅戈1、金銅四葉座飾金具8、ガラス製璧8、ガラス勾玉3、ガラス管玉100以上、朱入小壺1 弥生中期
BC1世紀後半
1号甕棺の西北に並列
東西両側に溝、東西31m、南北24mの特別区画東西を溝で区画
合せ口甕棺 (2号甕棺 内外)
前漢鏡22面以上
ヒスイ勾玉1、ガラス勾玉12、ガラス製ペンダント1、多量の朱
東小田峰遺跡
(朝倉郡夜須町) 甕棺墓、竪穴式住居 (甕棺墓)
連弧文昭明鏡1(前漢代)
(10号甕棺)
前漢鏡2、鉄剣1ほか 弥生中期
立岩遺跡群
(飯塚市立岩、川島) 土壙:方形、方形隅丸
甕棺 (堀田遺跡 副葬品)
10号甕棺:前漢鏡6、銅矛1、銅剣1
28号甕棺:前漢鏡1、素環頭刀子、玉類555、ガラス器5
34号甕棺:前漢鏡1、鉄戈1、貝輪14
35号甕棺:前漢鏡1、鉄戈1、鉄剣1、玉類30~40(棺外)
39号甕棺:前漢鏡1、鉄剣1 弥生中期
須玖岡本遺跡
(春日市岡本) 甕棺墓、土壙墓 (合せ口甕棺)
前漢鏡30面以上、細形銅剣・銅戈・銅矛8本以上、ガラス璧、ガラス勾玉、管玉 弥生中期
BC1世紀中葉?~後半
井原鑓溝遺跡
(前原市井原字鑓溝 三雲王墓の南100m) 甕棺 後漢鏡(方格規矩鏡21面以上)
巴型銅器3、鉄製武器? 1世紀中葉以後
馬場山遺跡 弥生中期~後期
(北九州市八幡西区) 土壙墓(木棺墓)、甕棺墓、 小型仿製内行花文鏡2(祭祀土壙、柱穴状ピット)
方格規矩鏡1(石棺墓)
内行花文双頭龍文鏡1(土壙墓)
宮原遺跡 弥生中期~後期
(田川郡香春町) 箱式石棺4
(大型石棺)
舶載大型鏡1、仿製小型内行花文鏡1、鉄剣(刀)
(大型石棺)
内行花文鏡2(大小各1)後漢鏡後半
原田遺跡 弥生中期~後期
(嘉穂郡嘉穂町馬見 遠賀川上流) 墓地群
土壙墓、木棺墓、箱式石棺墓、甕棺墓、石蓋土壙墓、甕蓋状土壙墓、横穴式石室 (石蓋土壙墓)
内行花文鏡1(君宜高官銘)後漢鏡後半
(箱式石棺)
単虁文鏡(長生宜子銘)後漢鏡後半
(方形状墓壙 木棺)
小銅鐸、銅舌、管玉20
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April 2016
安芸・備後(広島県)の古墳
広島県域の古墳時代は、県北の三次盆地で幕を開ける。律令制下では備後に属したところで、日本海に向けて流れる江ノ川に支流の西城川と馬洗川が合流するところ。かつて吉備と出雲を結んだ要路のひとつで、いまも3000基余りの古墳があるという。
現在の三次市街地の東に広がる丘陵地に「矢谷古墳」(三次市東酒屋町)がある。墳長18.5m/後方部辺12.5m×11.7-12.0mを測り、前方後方形であるが方形の四隅に突出部が付いて弥生時代の中期後葉に中国山地で生まれたとされる「四隅突出型墳丘墓」の形状を引き継ぐ形状である。吉備で生まれた特殊器台・特殊壺を随伴し、3世紀後半の築造と見られる。
その後の前期古墳も備後が中心で、備後北部の高梁川上流域に「辰の口古墳(77m)」(神石郡神石高原町)と「大迫山(おおさこやま)1号墳(45.5m)」(庄原市東城町)という、かなり大型のバチ型前方後円墳2基がある。4世紀中葉の築造で、吉備と出雲という2大勢力の間にくさびを打ち込む畿内政権の意図によるとの見方がある。
備後南部にあたる芦田川中流域の神辺平野は福山市に属し、律令制下で備後国府が置かれるところ。平野の北縁に「石鎚山1号墳(径20m)」・「石鎚山2号墳(径16m)」(加茂町)の円墳2基があり、平野の西方の前方後円墳2基からは「潮崎山古墳(30m)」(新市町)が三角縁神獣鏡を出土し、「石鎚権現5号墳(37.5m)」(駅家町)が飛禽鏡を出土した。
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April 2016
岡山県倉敷市楯築古墳の器台を標識とする(近藤1992)。楯築古墳は2世紀末(従来の弥生後期末)の全長(推定)80メートルの中円双方墳である。円丘部中央の木 槨・木棺を主たる埋葬施設とし、埋葬施設上に円礫堆がある。
「特殊器台は、円礫堆、北東突出部東側下方、円丘斜面第1列石下方などで約30個体分 ほど出土しているが、全形がほぼ復元されたのは1個体である。――高さは112cm、口縁径・ 底径とも約46.5cm、エンタシスのようにふくらむ筒部中ほどの径33.5cmを測る。――(筒 部には長方形スカシのある4段の文様帯があり)細い沈線による三連綾杉文、複合斜線文 などである-全体を総合すると、4ないし5型式に分類できるが、上記した復元品の型式 がもっとも大形で手の込んだ品であることは間違いない」(116頁)。
近藤・春成1967年論文では、キビには弥生後期末から古墳前期にかけて、立坂型・向木 見型・宮山型・都月型という4段階の「特殊器台」の展開が想定されており、楯築は立坂 型に相当する。土器との共伴関係では、立坂・楯築型は鬼川市3式=近畿弥生5式末で、 都月型は近畿の布留1式に相当する。おそらく、2世紀末から3世紀末・4世紀初頭の約 100年間にキビの「特殊器台」が推移したことになる。
この間、近畿の中山大塚古墳や箸中山古墳に宮山型と都月型が登場し、初期ヤマト政権 とキビとの関係が注目されるようになった(後述)。
ここでいうヤマト・中山型葬儀用器台とは、同一古墳での一連の葬送儀礼の中で ほぼ同時に使用されている器台群をさす。つまり、従来の宮山型と都月型は、当初には年 代差ではなく地域差であり、それが中山大塚古墳で共存していることを示す。さらに豊岡 氏は、宮山型文様は大和の弥生中期土器文様(唐古鍵遺跡など)からたどれることを説明し ており、その分布が近畿中心であることからも宮山型の出自は近畿中部だと主張している
(豊岡1985)。 従って、中山大塚古墳において宮山型は石室天井石直上で、都月型は墳丘上で、それぞ
れ使用されていることは、宮山型はヤマト一族、都月型はキビ一族によって、それぞれ供 献された可能性が考えられる。ただし、中山大塚古墳石室上の宮山型は、キビの砂礫を含 みキビ産とされている点は検討を要する。ヤマト・香久山の土を「大和の物実」として摂 取しヤマトを征服したという神武伝承に類する背景が、かつて列島各地に存在していたの かもしれない
tokyoblog
April 2016
3世紀中葉〜後葉になると、前方後円墳(岡山市都月坂1号墳、桜井市箸墓古墳、兵庫県たつの市御津町権現山51号憤)から最古の円筒埴輪である都月型円筒埴輪が出土している[3]。この埴輪の分布は備中から近江までに及んでいる。 最古の埴輪である都月形円筒埴輪と最古の前方後円墳の副葬品とされる大陸製の三角縁神獣鏡とが、同じ墓からは出土せず、一方が出るともう一方は出ないことが知られていた。しかし、ただ一例、兵庫県たつの市御津町の前方後円墳権現山51号墳では後方部石槨から三角縁神獣鏡が5面、石槨そばで都月型円筒埴輪が発見されている。
tokyoblog
April 2016
April 2016 編集されました
九州肥の国宇土産の凝灰岩が遠く近畿まで運ばれている。
氷川下流域から切り出されたと思われる同種の南肥後型石棺は京都府の八幡茶臼山古墳(三世紀末~四世紀初め頃、全長約50メートル、前方後方墳、下の画像参照)からも出土している。
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April 2016
権現山古墳 51号墳
兵庫県揖保郡御津町中島の北西部、権現山(140m)の山頂にあります。
全長43mの前方後方墳
高さ約3mの盛り土を築き、後方の中央部に竪穴式の石室。
権現山古墳は日本最古の古墳のひとつといわれている。(三世紀半ば~後半頃)
吉備で発生した埴輪の祖型、特殊器台と五面の三角縁神獣鏡が出土
大和の箸墓古墳、石塚古墳と出土品が類似。鏡は京都椿井大塚山古墳と同范鏡。
平成元年「特殊器台型埴輪、特殊壺型埴輪と五面の三角縁神獣鏡」などが発見されたことによって、
五面出土した神獣鏡の内の三面が、大和に近い京都椿井大塚山古墳(三世紀後半頃、全長約175メートル、方円墳)から出た鏡と「同笵」だとされている。
特殊器台型埴輪(円筒埴輪の原型になった土器で、吉備地方が起源とみられている)に見られる「蕨手紋」で、専門家の調査により「Ⅱ-a、Ⅱ-b」型に分類されている文様は、最古の方円墳と表現されることが多い箸墓古墳から出土した土器の文様に大変良く似ているので
特に注目されるのが特殊器台型埴輪(円筒埴輪の原型になった土器で、吉備地方が起源とみられている)に見られる「蕨手紋」で、専門家の調査により「Ⅱ-a、Ⅱ-b」型に分類されている文様は、最古の方円墳と表現されることが多い箸墓古墳から出土した土器の文様に大変良く似ている。また、この独特の文様を持った遺物は、箸墓の近くに在る巻向石塚古墳の周濠からも見つかっています。
石塚古墳は箸墓よりも更に古い時期(三世紀初め~中頃)に築造された全長およそ96メートルの方円墳ですが「弧紋円板」と呼ばれる木製品には、埴輪の紋様と同種のものが彫られていました(復元すると完全な円形になると考えられています。
この独特の文様を持った遺物は、箸墓の近くに在る巻向石塚古墳の周濠からも見つかっています。石塚古墳は箸墓よりも更に古い時期(三世紀初め~中頃)に築造された全長およそ96メートルの方円墳ですが「弧紋円板」と呼ばれる木製品には、埴輪の紋様と同種のものが彫られています。
権現山の南側、朝臣(あさとみ)と呼ばれている所から阿蘇凝灰岩製の船形石棺(南肥後型)が出土している。
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April 2016
April 2016 編集されました
阿蘇凝灰岩の石棺を持つ古墳
五世紀半ばの古墳が多い
吉備では最大規模を誇る造山古墳(方円墳、全長360m、五世紀中頃)からも阿蘇溶結凝灰岩製の長持形石棺(身)が出土。
岡山市の東に隣接する赤穂市
旧備前国の国分寺も建てられていた古代山陽道の要衝
長持山出土の一号棺(右側)「小口側」(棺の短い方の辺)に見られる縄掛け突起の形状は、小山古墳の物に良く似ています。そして何より、これらの石棺は何れもが九州の阿蘇溶結凝灰岩製であって、長持山2号棺は畿内で初めて使われた阿蘇ピンク石として文献に紹介されている。
小山古墳(方円墳、全長54m、五世紀末頃)
小山古墳には九州の阿蘇溶結凝灰岩製の家形石棺が埋納されていた
阿蘇溶結凝灰岩の中でも阿蘇ピンク石と呼ばれる石材で造られた石棺から神人歌舞画像鏡が出土した珍しい例が大阪藤井寺に在った長持山古墳(円墳、墳径40m、五世紀後半頃)
この古墳の墳丘は失われていますが、二つの石棺が保存されており、見学も自由に行えます。専門家によれば同墳は近接して造営された允恭陵[市野山]古墳の倍塚ではないかと見られています)。
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April 2016
吉備の古墳
岡山県下に茶臼山の名をもつ前方後円墳は七基が知られるが、ここでは古墳時代前期の吉備の実力と政治情勢を物語る三基の茶臼山古墳をとりあげてみよう。
最古段階の古墳(三世紀後半)で、特殊器台が変化した文様のある埴輪・特殊器台形埴輪が使用されている。
第一は、岡山市東部、吉井川と砂川の間の丘陵に築かれた浦間茶臼山古墳
墳丘全長138mの大形前方後円墳で、前期古墳のなかで最大の規模をもつ奈良県箸墓古墳と同じ設計で、二分の一の大きさに築かれたとみられる。
古墳時代前期初めに築かれた吉備の古墳のなかで最も大きいだけでなく、その時期の古墳としては全国第四位、大和・山城(近畿)以外では最大の古墳である。
二つめは岡山市街地の東、操山の西端に所在する網浜茶臼山古墳である。
全長92mを測り、箸墓古墳の三分の一規模で築造されたと考えられる。また、この古墳で注目されるのは立地でありむしろ南側の瀬戸内海(現在の児島湾)に視界が開けており、内海航路からの遠望を意識して築かれた古墳とみられる。
最後の中山茶臼山古墳は、吉備津神社の後ろ側、吉備中山の山頂に築かれた全長120mの前方後円墳である。現在、陵墓参考地として宮内庁の管理下にあり立ち入ることはできないが、測量図から尾根を大きく切断して築造されていることや、墳頂部が広いことを知ることができるこの古墳は前方部がやや短くて箸墓古墳と同じ設計とは考えにくく、浦間茶臼山古墳や網浜茶臼山古墳とは別系統の設計図で築造されたと考えられる。特殊器台形埴輪の文様も異なっており備中の独自性を示すようである。
旭川下流の網浜茶臼山古墳
浦間茶臼山古墳
岡山県岡山市東区浦間 前方後円墳
規模 墳長138m 前方長61m 後円部径81m 後円部高13.8m
築造年代 3世紀末
箸墓古墳の約二分の一の規模で形が酷似しているとの指摘あり。
1988年に近藤義郎を団長に発掘調査が行われた。後円部の乱掘坑を掘り下げると、深さ2.5mの位置に板状の安山岩を積み重ねた内法の長さ7m・幅1.2mの竪穴式石室が検出された。石室の上部は破損していた。赤色顔料が含まれた粘土が敷かれた床部から、割竹形木棺が納められていたと推測されている。明治時代に盗掘され副葬品は概ね持ち去られていた。しかし、細線式獣帯鏡片、銅鏃・鉄鏃・鉄刀・鉄剣など武器類、鎌・鋤先など農具類、鉄のみ・鉄斧など工具類、ヤスなど漁具類が出土した。
石材は香川県北部または備讃瀬戸の島から採取されたと推測されている。
牛窓天神山古墳
全長85mの前方後円墳。前方部が低く、埴輪の特徴から古墳時代前期、4世紀頃と推定されるそうです。牛窓の大きな古墳のなかでは1番古いとか。
黒島古墳、後に行った鹿歩山古墳(84m)、「波歌山古墳跡」(60m)、湾の西端に見えている二塚山古墳。これらの前方後円墳は4世紀から6世紀にかけての、牛窓首長の墓として順番に築かれたもののようです。
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April 2016
讃岐
うのべ山古墳
鶴羽にある、積石塚の前方後円墳です。
積石塚とは土の代わりに石を積み上げて造られた古墳で、古墳時代前期(3世紀後半~4世紀)は、香川県と徳島県の一部にしか造られない大変珍しい古墳です。
うのべ山古墳は、これまでも古い段階の古墳であると考えられていましたが、平成16・17年度の調査により古墳の形と出土した土器から、全長37mの大きさをもつ、3世紀後半に造られた四国最古級・津田湾の古墳群中最古の古墳であることが分かりました。
これまでに知られていたこと
撥形(ばちがた)の前方後円墳で前方部の幅が狭くて低い。初期古墳の可能性がある。
在地的な積石塚ではあるが、低い場所に造られ、他の積石塚とは異なる特異性がある。
古墳の周りに段を築いている(外周段築)。
丸井古墳
昭和56年に発見された香川県で最古の前方後円墳。自然地形を削って構築しており、新しい土を盛った形跡はみられない。後円部が尾根の先端部になり、形は正円でなくいびつな楕円形であり、 この地方の特徴がある。 後円部には第1石室、第2石室があり、川原石を多く使用して、内部は粘土張りで、その上に木棺を置いたと考えられる。
前方部の尾根との堀切りから供献土器の出土があり、弥生土器によく似ていて底には平面を持っている。 第2石室の露頭に近いところで「画文帯環状乳神獣鏡」が出土した。調査の結果中国「呉」で製作された可能性が強いことが判明。この古墳もそうとうひどく盗掘で荒らされており、 そのほかには柳葉式の鉄鏃など数点が出土したと調査報告されている。
画文帯環状乳神獣鏡 中国の三国時代に作られた舶載鏡で、第2石室南西角の露頭に近いところから出土。径14.2cm 。
供献土器壷=埋葬の祭器。森広遺蹟から出土した弥生後期の土器とよく似ている。
鉄鏃てつぞく3点=柳葉式のもので、矢柄が残っているものもあった。
鉄斧、ガラス製小玉、滑石製管玉3個
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April 2016
西求女塚古墳(にしもとめづかこふん)は、兵庫県神戸市灘区にある全長98メートルを超える大型の前方後方墳である。年代は、古墳時代前期に属する。
古墳時代前期では最大級の前方後方墳
墳丘に葺石をともなっている
後方部の頂上に設けられた埋葬施設は、1596年(慶長元年)の慶長伏見地震の際の断層が直下を走ったため崩壊していたが、うちのりで長さ約5メートル、幅約85センチメートルの竪穴式石室(副室付竪穴式石槨)であることが判明し、割竹形木棺を納めていることが明らかとなった。
出土品等から築造年代は3世紀後半と推定されている。
石室の石材は、地元のものだけでなく、阿波(徳島県)や紀伊(和歌山県)などからも運ばれており、地元の土器は出土しておらず、祭祀に用いられた土師器には山陰系の特徴をもつものが出土していることから、山陰や四国・南近畿などの諸地域と深い交流をもっていたことが推察され、瀬戸内海や大阪湾など水上交通に影響をもつ首長の墳墓であったとも考えられる[1]。
三角縁神獣鏡7面など計11面の銅鏡(第1次調査の1面とあわせて合計12面)が出土したことで注目を浴びた。主室からは、これら銅鏡と碧玉製紡錘車状石製品を、副室からは、剣、刀、鏃、斧、漁具などの鉄製品が納められていた。
三角縁神獣鏡のうち2面は布にくるまれた状態で出土した。また、京都府の椿井大塚山古墳、福岡県の石塚山古墳、奈良県の佐味田宝塚古墳、広島県の中小田1号墳などの出土鏡とは同笵の関係にある。
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April 2016
April 2016 編集されました
早期古墳と葬儀用器台 石野氏
http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu6/08ishino.pdf
キビ・楯築型
岡山県倉敷市楯築古墳の器台を標識とする(近藤1992)。楯築古墳は2世紀末(従来の弥生後期末)の全長(推定)80メートルの中円双方墳である。円丘部中央の木 槨・木棺を主たる埋葬施設とし、埋葬施設上に円礫堆がある。
「特殊器台は、円礫堆、北東突出部東側下方、円丘斜面第1列石下方などで約30個体分 ほど出土しているが、全形がほぼ復元されたのは1個体である。――高さは112cm、口縁径・ 底径とも約46.5cm、エンタシスのようにふくらむ筒部中ほどの径33.5cmを測る。――(筒 部には長方形スカシのある4段の文様帯があり)細い沈線による三連綾杉文、複合斜線文 などである-全体を総合すると、4ないし5型式に分類できるが、上記した復元品の型式 がもっとも大形で手の込んだ品であることは間違いない」
近藤・春成1967年論文では、キビには弥生後期末から古墳前期にかけて、立坂型・向木 見型・宮山型・都月型という4段階の「特殊器台」の展開が想定されており、楯築は立坂 型に相当する。土器との共伴関係では、立坂・楯築型は鬼川市3式=近畿弥生5式末で、 都月型は近畿の布留1式に相当する。おそらく、2世紀末から3世紀末・4世紀初頭の約 100年間にキビの「特殊器台」が推移したことになる。
この間、近畿の中山大塚古墳や箸中山古墳に宮山型と都月型が登場し、初期ヤマト政権 とキビとの関係が注目されるようになっ
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April 2016
箸墓古墳(はしはか)古墳からは、吉備地方だけで作られていた特殊器台形埴輪(都月型:とつきがた:埴輪)が出土しているんだ。」
吉備の初期古墳は、弥生墳丘墓が盛んに造られた備中南部ではなく、旭川下流域の両岸である備前南部に造られる。備中より畿内に近いことが、畿内色を強く映す前方後円(方)墳の造営につながったのであろうか。3世紀後半の築造で、いまの岡山市域の丘陵上にある。
前方部の形が畿内の箸墓古墳と同じバチ形に開くこと、埋葬頭位が(判明する限り)北枕であること、特殊器台形埴輪・特殊壷形埴輪が採集されること、竪穴式石槨が長大で深くなったこと、石槨が瀬戸内海の豊島(てしま)産の古銅輝石安山岩によって造られたことなどの点で、おおむね共通する。
“特殊器台型埴輪・特殊壺型埴輪”とは、特殊器台・特殊壺と紋様や形が似ているが、形が簡素化し、2つが(積み重ねではなく)独立して供献されるケースがあるもの。吉備の初期古墳において10数例が見出され、のちの円筒埴輪や朝顔形埴輪に進化したとされる。埴輪が畿内型前方後円墳の普遍的要素であることから、前方後円墳体制(初期ヤマト政権)の成立に吉備勢力が深く関わった根拠とされる
http://yottyan.blog.so-net.ne.jp/2015-08-11
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April 2016
April 2016 編集されました
大倭の初期古墳
三輪山の山麓に位置し、卑弥呼の王宮があったとされる纒向遺跡は、JR巻向駅を中心に東西約2km、南北約1.5kmの広大な面積を占めるが、2世紀末または3世紀初めまでこの地が無人の原野だったことがわかっている。弥生人が長らく住んで集落を形成していた場所ではない。ところが、ある時どこからか大勢の人がやってきて、この地に都市集落を形成した。それが纒向遺跡である。
紋様や形の単純化・簡素化に着目した場合、特殊器台型埴輪は立坂たてさか型→向木見むこうきみ型→宮山みややま型の順に変化し、その後に渡月とげつ型が続くとされている。都月型円筒埴輪は箸墓古墳からも出土していて、そのため宮山型から都月型への変化は、吉備ではなく大和で生じたと考えられている。3世紀後半から4世紀初頭の古墳から、さまざまな形の円筒埴輪が見つかっているのは興味深い
オオヤマト古墳群と称されているが、そこには3世紀中葉から4世紀中葉までのほぼ1世紀間に営まれた6基の巨大前方後円墳が見られる。北から順に、天理市の大和やまと古墳群の西殿塚にしとのづか古墳(現手白香たしらか皇女衾田ふすまだ陵、墳丘長240m)、同市柳本古墳群の行燈山あんどんやま古墳(現崇神天皇陵、240m)と渋谷向山しぶたにむかいやま古墳(現景行天皇陵、310m)、桜井市箸中の箸墓古墳(280m)、同市鳥見山古墳群の桜井茶臼山さくらいちゃうすやま古墳(200m)とメスリ山古墳(約230m)である。
白石氏は、これらの古墳の造営時期を①箸墓古墳→②西殿塚古墳→③桜井茶臼山古墳→④メスリ山古墳→⑤行燈山古墳→⑥渋谷向山古墳の順に考えておられる。もちろん異説もあり、南の鳥見山古墳群にある桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳を初期ヤマト王権の王墓に含めない研究者もいる。それを承知で、桜井茶臼山古墳が80面以上の銅鏡を副葬し、メスリ山古墳も墳丘長が200m越えていることから、これらを王墓から外して考えることは難しいとして指摘される。
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April 2016
神獣鏡と初期古墳
最も重要な価値を与えられていたと思われるのは中国鏡、なかんずく神獣鏡の 類である。神獣鏡は前期古墳からの出土例が多いが、桜井市ホケノ山墳墓での集積状況が示すように、 弥生終末期段階では画文帯神獣鏡が最も重視されていた神獣鏡である可能性が高い。そして、画文帯 神獣鏡の分布が畿内地域、とりわけ大和盆地東南部に厚いことから、弥生終末期にこの地域に画文帯 神獣鏡を多数集積し、それを利用して各地の有力者と政治関係を取り結ぶような中央性のある政治権 力が発生したことを読みとることができよう。 日本列島に流入した画文帯神獣鏡は、型式的特徴から見て3世紀前葉のものが主体を占めると考え られる(福永2001)。この役割を受け継いだのが三角縁神獣鏡である。三角縁神獣鏡には最古段階の ものとして島根県神原神社古墳出土の景初三年(239)鏡があり、この最古段階の三角縁神獣鏡の内 区図文のモデルとなったのが画文帯同向式神獣鏡であることから見て、画文帯神獣鏡との基本的な先 後関係はほぼ明らかといえる。三角縁神獣鏡は、239年の卑弥呼朝貢を契機として華北王朝からこれ を独占的に入手するようになった畿内政権が各地の系列豪族に分配した政治的な威信財であり、前方 後円墳が成立する古墳時代初頭から副葬品に加わるものである。 以上の理解に立てば、畿内各地の画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡の分布を比較することによって、前 方後円墳成立をはさむ時期の畿内地域内部の地域関係がどのように展開したかを解明するアプローチ が開けるのである
ーー中略ーーー
有力古墳のあり方を中心に畿内地域内部で認められる地域間の勢力関係を素描してみた。そ の変化期を今一度まとめると、次のようになろう。
<第1変化期> 前期初頭 3世紀中葉 河内平野勢力が畿内政権から「離脱」し、大和盆地東南部勢力を核とする政権構造が顕在化。ただ、 その契機は古墳出現にやや先んじて、三角縁神獣鏡配布が始まった段階に求められる可能性が高い。 <第2変化期> 中期初頭 4世紀末 古市・百舌鳥古墳群の成立により、河内平野勢力が主導権を掌握。大和盆地東南部から河内平野への 勢力移動の兆しは、すでに前期後半には現れている。
<第3変化期> 中期後半 5世紀後半 政権勢力が交替するわけではなく、河内平野勢力の力が急速に伸張することによって、古市・百舌鳥 古墳群の大王墓だけが著しく突出し、地域首長の前方後円墳築造はむしろ低調になる。
古墳時代政権交替論の考古学的再検討
2.古墳時代政権交替と畿内の地域関係 福 永 伸 哉
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/13079/1/Fukunaga_kaken2011_text.pdf
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April 2016
神門(ごうど)5号墳
市原市の国分寺台で、養老川が海に流れ込む河口の丘陵地
上総の国の中心・市原市には、村田川、養老川、椎津川が流れており、各流域の高台では縄文時代には多くの集落が形成され、人口も多かった。
地域間の交流も盛んだったようで、この地の国分寺台・西広貝塚(縄文後期の初期~前期)からは、九州の阿高式土器とみられる器が見つかっている。
神門 5号墳のすぐそばに戸隠神社があり、祭神は思兼命、 天手力雄命、 表春命で天の岩戸に関係する神々です。
古事記の中巻、景行天皇の段には房総に関わる記載がある。
天皇の御世に東国の「淡水門」(あわのみなと)を定め、膳大伴部(かしわでのおおともべ)を定めた。また東国征討のために倭建命(やまとたける)を遣わしたが、「走水の海」(はしりみづのうみ)を渡るときに荒波を鎮めるため、后の弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)が海中に身を投げた‐というくだりだ。
この倭建命の東国征討の話は日本書紀にも書かれている。日本書紀では天皇が上総・淡を訪れたとの記述もあり、そこに磐鹿六雁(注・・高家神社にまつられる料理の祖神)のエピソードが出てくる。ちなみに「走水の海」は浦賀水道、「淡水門」は館山湾とも考えられている。
また東国征討が実在したと仮定すると、その年代は4世紀ごろと考えられる。
さて、その時代の古墳に目を移すと、東国の3世紀の古墳は前方後円墳が大半を占めていたのに対し、4世紀には大型の前方後円墳が出現する。房総では小櫃川、養老川、村田川隆起に集中する。
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April 2016
東京湾をはさんだ木更津市の矢那川沿いに手古塚古墳がある。墳丘長60メートルの前方後円墳。今は海岸が埋め立てられているが、眼下に東京湾、三浦半島が望め、海岸から最も近い場所につくられている。
三角縁神獣鏡や、畿内のものとみられる朱の入った布留式の士師器甕などが出土。籠手や銅・鉄製の鏃なども出た。遺物からみて、この古墳は4世紀前半のものとみられている。埋葬者は畿内と強い関係を持った武人と考えてさしつかえないだろう。
姉崎古墳群(市原市)の釈迦山古墳。これは手古塚と同時期か一段古い前方後円墳だが、畿内のものによく似た高杯や、東海地方の「S字甕」が出土している。このように考古学からみると、古事記、日本書紀に書かれている「東国征討」とオーバーラップするような古墳の分布がみられる。
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April 2016
古墳時代中期になると安房地域にも本格的な古墳文化が展開されます。 まず、前方後円墳でしかも埴輪を持った古墳が2か所で確認されています。 富山の恩田原古墳と丸山の永野台古墳です。これらはそれぞれ平群郡、朝夷郡の領域となった地域に所在しています。
安房郡の領域では、この時期特徴的な埋葬方法が確認されています。 館山市大寺山洞穴では、丸木舟を棺に使った舟葬がみられ、副葬品には短甲、直刀、盾、玉類、土器といった古墳の副葬品と遜色のないものが出土していることから古墳の被葬者に匹敵する人物の墓だと云うことが推定できます。
また、館山市峯古墳からは、非常に珍しいトンボ玉といった特殊なガラス玉が出土していることが注目されます。グレーの地に赤と青で放射状の模様が象眼され、朝鮮半島経由で西域からもたらされたものと考えられます。
古墳時代後期になると長挟郡の領域である鴨川市広場古墳群中の円墳から砂岩製の刳抜式舟形石棺が発見されています。刳抜式舟形石棺は、千葉県では唯一、鴨川から発見されています。 長挟国造の系譜の首長墓である可能性が高いと思われます。
館山市の翁作古墳からは環頭飾大刀が出土しています。 平砂浦海岸を望む場所に造営された海との関連の深い首長墓であると思われます。
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April 2016
真金吹く吉備の中山といわれるように古代より吉備の中心地である。真金吹くとは製鉄が盛んなという意味だが、この中山にはたたら跡のような遺跡は見当たらない。もちろん真金吹くは吉備の枕詞なのだ。でもこの吉備の中山は謎だらけの山である。まずこの竜王山の南の頂には吉備津彦命の陵とされる御陵(中山茶臼山古墳)がある、これは陵墓として管理され墓域には立入禁止となっている。つまり宮内庁が認める天皇家の墓ということである。
吉備津彦神社元宮磐座
つぎに二つの一宮である。この中山には「吉備津神社」と「吉備津彦神社」の二つの一宮(備前、備中)が一つの山の麓に存在する。何故?という感じだ。同じような名前の神社がすぐそばにありそれが国境にあるのはいかにも不自然だと思う。
さらにこの中山の南麓には最古?の前方後円墳「矢藤治山古墳」があるのだ!墳長約35mの前方後円墳で方格規炬鏡(TLV鏡)1、大型硬玉勾玉1、ガラス小玉50、終末期の特殊器台と特殊壷が多数発見され最古式のものとかんがえられるというのだからミッシングリングともいうべき非常に重要な遺跡である。奈良大和に特殊器台が移動する直前のものとすれば史上最古の前方後円墳である可能性もある。
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April 2016
April 2016 編集されました
竜王山・龍王山は、岡山県(21山)だけではなく、広島県、香川県、徳島県、瀬戸内地方を中心に全国に拡がっているようだ。
西は福岡県、東は大阪府、奈良県天理市に。滋賀県に4つ。長野県にも。
兵庫県には、宝塚市に1つだけのようだ。
三輪山の北に「竜王山」と呼ばれる山がある。吉備の中山にも「竜王山」がある。
「天理の古墳100」より引用。
「龍王山古墳群は龍王山西麓の谷(西門川)沿いに展開する古墳群である。横穴式石室を埋葬主体とする円墳と墳丘を持たない横穴墓(おうけつぼ)が合計600基以上分布しており(1,000基以上という説もある)、古墳時代後期から終末期にかけて造営された県内最大規模の後期群集填である。昭和59~60(1984~85)年度に西門川の砂防事業に伴って奈良県立橿原考古学研究所が調査をおこない、60基程度の古墳について埋葬施設の記録が作成された。…略…
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April 2016
滋賀の竜王
雨宮古墳は、竜王町の平野部の最奥部の祖父川が形成した谷の入り口付近に位置し、南から北へ伸びる丘陵から派生した舌状の支脈上に築かれた帆立貝形古墳です。
全長82m、後円部径67m、後円部高9m、前方部長22m、前方部幅35m、前方部高1.9mを測り、外堤をもつ一重の周壕をめぐらせています。滋賀県下第三位 の規模で、発掘調査等はまだ行なわれていませんが、後円部の墳頂から出土した滑石製勾玉 や家形埴輪片、円筒埴輪片から、5世紀中ごろに造営されたとみられます。
規模、墳形、築造技術の点で特徴があり、かつ遺存状況も良好であるため、滋賀県の古墳時代の歴史を考える上で欠く事のできないものであるといえます。
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April 2016
April 2016 編集されました
天日槍が最初に日本へ上陸したと思われる北部九州の地、佐賀県に鏡山という山があり、その山上には鏡山神社があります。
ところが、それと同じ名前の山が遠く離れた滋賀県の竜王町にもある。そして、その山の麓には鏡神社が鎮座しています。興味深いことは、滋賀県の鏡山の鏡神社の祭神は天日槍なのです。
滋賀県にある琵琶湖の南東部、野洲町から竜王町にかけて点在する古墳では銅鐸が多く出土しています。この地域は天日槍が難波津(大阪湾)から宇治川(淀川)を遡った終点に当たります
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April 2016
高句麗の墓と日本の墓では構造がまったく違いますね。
3・4世紀の日本は盛土・葺石 高句麗の墓は積石。
3・4世紀の出雲の四隅突出墳丘墓は四隅の低いところだけ積石と
盛土に石を貼り付けて壁を作る形です。
紀元前1・2世紀の三次や丹波(日吉が丘遺跡)は周りの淵に石を敷き詰めた形です。
北日本や長野阿久などの縄文中期・後期の縄文環状列石の影響ではないでしょうか。
また四隅突出墳丘墓は長方形で
3世紀前半の丹波の赤坂今井古墳も長方形でこの時期の最大です。
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April 2016
広島県域の古墳
県北の三次盆地で幕を開ける。律令制下では備後に属したところで、日本海に向けて流れる江ノ川に支流の西城川と馬洗川が合流するところ。かつて吉備と出雲を結んだ要路のひとつで、いまも3000基余りの古墳があるという。
現在の三次市街地の東に広がる丘陵地に「矢谷古墳」(三次市東酒屋町)がある。墳長18.5m/後方部辺12.5m×11.7-12.0mを測り、前方後方形であるが方形の四隅に突出部が付いて弥生時代の中期後葉に中国山地で生まれたとされる「四隅突出型墳丘墓」の形状を引き継ぐ形状である。吉備で生まれた特殊器台・特殊壺を随伴し、3世紀後半の築造と見られる。
その後の前期古墳も備後が中心で、備後北部の高梁川上流域に「辰の口古墳(77m)」(神石郡神石高原町)と「大迫山(おおさこやま)1号墳(45.5m)」(庄原市東城町)という、かなり大型のバチ型前方後円墳2基がある。4世紀中葉の築造で、吉備と出雲という2大勢力の間にくさびを打ち込む畿内政権の意図によるとの見方がある。
備後南部にあたる芦田川中流域の神辺平野は福山市に属し、律令制下で備後国府が置かれるところ。平野の北縁に「石鎚山1号墳(径20m)」・「石鎚山2号墳(径16m)」(加茂町)の円墳2基があり、平野の西方の前方後円墳2基からは「潮崎山古墳(30m)」(新市町)が三角縁神獣鏡を出土し、「石鎚権現5号墳(37.5m)」(駅家町)が飛禽鏡を出土した。
県西部の安芸に目を転ずると、太田川下流域に4世紀後半から5世紀にかけて「中小田(なかおだ)古墳群」(広島市安佐北区)が築かれた。盟主墓は円墳の「中小田1号墳(径30m)」で、三角縁神獣鏡、獣帯鏡を出土した。いま県庁所在地の広島市がある太田川河口域は近世以降の埋立てにより三角州が広がったところで、大型の古墳はない。
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コメント
穴があいているところから、本当に冬至や夏至の日の出を観測したのか。
なぜ大型化したのか。
副葬はされていない、単独または銅剣・銅矛と埋納されている。
聞く銅鐸から→眺め見る銅鐸→仰ぎ見る銅鐸へ変遷したのか。
なぜ副葬されず、埋納されたのか。
最古の直弧文(直線と弧線を組みあわせた文様)の出現の時期が、西から東へと移動している。
『魏志倭人伝』には、倭人は、鉄を用いたとある。弥生時代後期において、鉄製品は、北 九州から多く発見され、近畿からは、ごくわずかしか発見されない。そして、次の古墳時代 にはいると、畿内を中心とする多くの古墳から、莫大な量の鉄器が出土している
『魏志倭人伝』には、倭人が、養蚕を行なっていたことを記している。また、邪馬台国女 王から魏帝へ献上した絹製品の名が、『魏志倭人伝』にいくつか記されている。弥生絹は、いずれも、北九州のみから出土している。
古墳時代以後には、畿内から、絹が出土す る。絹の出土において、弥生時代の北九州と、古墳時代の畿内とが連続している。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/konnkyo.htm
桂川町教委は2014.9.18日、九州大大学院の考古学研究室と発掘調査を進めていた金比羅山古墳(桂川町寿命)について、遠賀川流域で最古級、最大級の前方後円墳であることを確認したと発表した。金比羅山古墳は町内にある王塚古墳の北東約1キロの丘陵の上にあり、1935年に京都大の調査で存在が確認された。
全体の長さは王塚古墳の86メートルに匹敵する約80メートル。後円部分は直径47メートル、高さ約7メートルの3段構造で、前方部分は幅約20メートル、高さ3メートル程の2段構造であることが分かった。丘陵の地形を利用して、ほとんどの部分が地山を削り出す工法で築造されたという。
後円部と前方部の高さの差が大きく、後円の頂部の平らな面が広いといった構造的な特徴、埴輪はにわや斜面の葺ふき石が見つからない状況などから、6世紀中頃の王塚古墳より数百年遡る3~4世紀頃の古墳時代前期に築造されたと考えられるという。
遠賀川流域で最大級で最古級との調査結果が得られたことについて、九州大大学院の辻田淳一郎准教授(比較社会文化)は「これだけ大きな古墳が古墳時代前期にあったということは、築造できる基盤がこの地区にあり、地区の有力者が(土木技術や知識を持つ)近畿地方などとの政治的ネットワークに参加していた可能性がある」と評価している。
宮尾遺跡では12000年前のナイフ形石器から6世紀の水晶製装身具、立屋敷遺跡では紀元前3世紀の遠賀川式土器、2~3世紀の弥生土器が出土、苗代谷遺跡から土師器、打製石鏃、土製紡錘車が 弥生時代中期から5世紀にかけて見つかっています。
上二貝塚から石包丁、内行花文鏡( 国内製)。このようなことから判断しますと、中国人の居た形跡はありません。
遠賀町では、丸山古墳(前方後円墳)は、全長が57mです。丸山2号墳は一辺の長さが18mの方墳で、造られた時期は四世紀前半~中頃。この他にも円墳が3基あり、直径が10~17mの低墳丘の古墳です。豊前坊古墳群 2号墳は方墳。
豊前坊古墳群 2号墳は方墳。3号墳は全長30mほどの小型前方後円墳です。4世紀中か。
遠賀町のホームページでは、上記のように、4~5世紀の墳墓しか記載されていません。
2001年5月31日付の朝刊各紙は、奈良県桜井市の 勝山古墳の周濠から見つかった木製品が、年輪年代法の測定により、三世紀初めに伐採 されたヒノキだったことを報じている。
勝山古墳の築造年代が、三世 紀前半までさかのぼることになりそうだ。
「邪馬台国=畿内説」が裏づけられた。
というが
布留0式土器の年代は、多くの研究者が3世紀後半以降の土器としている。
古墳の築造年代を判定するときには、199年ごろに伐採されたという木片と、3世紀後半以降の土器の両方を考慮しなければならない。
とすれば、3世紀後半でしょう。
北九州からは、銅の矛も、鉄の矛もいくつも出ているの に、纏向遺跡からは、ホケノ山古墳からも、勝山古墳から も、銅の矛も、鉄の矛も、まったく出土しないのは、どうし たわけか。
『魏志倭人伝』はまた、「異文雑錦二 十匹を貢いだ」など、倭人は、絹製品をつ くっていたことを記す。
絹製品も、北九州からいくつも出土しているのに、「纏向 遺跡」など、奈良県から、当時のものは、出土していないの はなぜだろう。
倭人は、鉄利器を用いていた。
ホケノ山古墳からは、たし かに、鉄の鉄、素環頭大刀、直刀、剣が出土しているが、福 岡県からは、奈良県をはるかに上まわる当時の鉄利器が出土 していることは、「邪馬台国畿内説」の寺沢薫氏でさえ指摘 しておられるところである。
『魏志倭人伝』には、倭人の葬制は、「棺あって槨なし」と 明記している。
これも、北九州の墓制と合致している。
ホケノ山古墳では、「木槨」があった。『魏志倭人伝』の記述に合っ ていない。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/katuyama.htm
石塚古墳
(桜井市太田) 帆立貝形前方後円墳? 全長92~96m
年輪年代法で3世紀初め
古墳及び古墳周辺から出土するのは古い土器のみ
一部の土器から3世紀中葉以降という見方もある 庄内式より古い土器(石野博信)
庄内3式(3世紀中葉以降-寺澤薫)
勝山古墳
(桜井市東田) 柄鏡式前方後円墳? 全長110m
庄内式の古い時期の土器(3世紀前半)
年輪年代法で3世紀初め
ホケノ山古墳
(桜井市箸中) 帆立貝形前方後円墳 全長90m
石囲い木槨 舟形木棺 (木槨内)
画文帯同向式神獣鏡1(足元)、素環頭太刀など刀剣類5
(木槨外?)
鏡片23(半肉彫り神獣鏡、内行花文鏡など)
※土器(庄内式、布留式同時使用の可能性)
(前方部木棺)
3世紀中頃の瀬戸内西部の特徴を持つ壺
3世紀後半~4世紀初頭? 中山大塚古墳
(天理市中山町大塚) 前方後円墳 全長120m
後円部中央 竪穴式石室
前方部はバチ形 (石室)
二仙四獣鏡片2
(墳丘頂部)
土器、特殊器台形土器ほか
3世紀後半~4世紀初頭? 箸墓古墳
(桜井市箸中) 前方後円墳 全長280m
2009年5月、歴博からC14年代測定で240~260年と発表がある
土器、試料、崇神紀の記録及び崇神天皇の時代など、総合的な判断が必要
布留0式土器(280年頃とされる)
4世紀前半 黒塚古墳
(天理市柳本町) 前方後円墳 全長130m
後円部中央 竪穴式石室 (棺内)
画文帯神獣鏡1(頭部付近)、鉄製刀剣2
(棺外)
三角縁神獣鏡33、刀剣類
4世紀前半~中葉?
天神山古墳(天理市柳本町天神) 前方後円墳 全長113m
後円部中央 竪穴式石室
崇神陵の陪塚? (石室)
内行花文鏡4、方格規矩四神鏡鏡6、画文帯神獣鏡4、三角縁変形神獣鏡2、獣形鏡3、画像鏡2、獣帯鏡1、人物鳥獣鏡1、鉄刀3、鉄剣4ほか
九州
3世紀前半 平原遺跡
(前原市有田平原 三雲遺跡群の西) 方形周溝墓(18m×14m)
墓壙(4.5m×3.6m)に割竹形木棺(長さ3m)の痕跡 (棺内)
蛋白石耳璫、ガラス勾玉、管玉、連玉、小玉、瑪瑙管玉、蛋白石丸玉
(棺外)
方格規矩鏡32、内行花文鏡6(長宜子孫銘入1、仿製5)、虺龍文鏡1 すべて破砕された状態で発見
素環頭太刀
3世紀中葉~3世紀後半
光正寺古墳
(糟屋郡宇美町宇美) 前方後円墳 全長54m
後円部に埋葬施設5カ所
箱式石棺3、割竹形木棺1、土器棺1 (第1主体部 箱式石棺)
土師器(3世紀中頃~3世紀後半)
3世紀後半 祇園山古墳
(久留米市御井町) 方墳?1辺23~24m
箱形石棺
墳裾外周に甕棺3、石蓋土壙32、箱形石棺7、竪穴式石室13、不明7 (1号甕棺)
画文帯神獣鏡片、硬玉製勾玉、碧玉製管玉
(墳裾)
土師器
3世紀後半 津古生掛古墳
(小郡市津古字生掛) 帆立貝形前方後円墳 全長33m (木棺)
方格規矩鳥文鏡1、ガラス玉、鉄剣ほか
(古墳周溝、付随周溝墓の溝内)
土師器(庄内式の新しいものと並行する時期)
三雲遺跡群
(前原市三雲南小路) 東西両側に溝、東西31m、南北24mの特別区画
墓壙4.2m×3.6m
合せ口甕
(1号甕棺 内外)
前漢鏡35面(現存:内行花文清白鏡1面)
有柄中細銅剣1(現存)、銅矛2、銅戈1、金銅四葉座飾金具8、ガラス製璧8、ガラス勾玉3、ガラス管玉100以上、朱入小壺1 弥生中期
BC1世紀後半
1号甕棺の西北に並列
東西両側に溝、東西31m、南北24mの特別区画東西を溝で区画
合せ口甕棺 (2号甕棺 内外)
前漢鏡22面以上
ヒスイ勾玉1、ガラス勾玉12、ガラス製ペンダント1、多量の朱
東小田峰遺跡
(朝倉郡夜須町) 甕棺墓、竪穴式住居 (甕棺墓)
連弧文昭明鏡1(前漢代)
(10号甕棺)
前漢鏡2、鉄剣1ほか 弥生中期
立岩遺跡群
(飯塚市立岩、川島) 土壙:方形、方形隅丸
甕棺 (堀田遺跡 副葬品)
10号甕棺:前漢鏡6、銅矛1、銅剣1
28号甕棺:前漢鏡1、素環頭刀子、玉類555、ガラス器5
34号甕棺:前漢鏡1、鉄戈1、貝輪14
35号甕棺:前漢鏡1、鉄戈1、鉄剣1、玉類30~40(棺外)
39号甕棺:前漢鏡1、鉄剣1 弥生中期
須玖岡本遺跡
(春日市岡本) 甕棺墓、土壙墓 (合せ口甕棺)
前漢鏡30面以上、細形銅剣・銅戈・銅矛8本以上、ガラス璧、ガラス勾玉、管玉 弥生中期
BC1世紀中葉?~後半
井原鑓溝遺跡
(前原市井原字鑓溝 三雲王墓の南100m) 甕棺 後漢鏡(方格規矩鏡21面以上)
巴型銅器3、鉄製武器? 1世紀中葉以後
馬場山遺跡 弥生中期~後期
(北九州市八幡西区) 土壙墓(木棺墓)、甕棺墓、 小型仿製内行花文鏡2(祭祀土壙、柱穴状ピット)
方格規矩鏡1(石棺墓)
内行花文双頭龍文鏡1(土壙墓)
宮原遺跡 弥生中期~後期
(田川郡香春町) 箱式石棺4
(大型石棺)
舶載大型鏡1、仿製小型内行花文鏡1、鉄剣(刀)
(大型石棺)
内行花文鏡2(大小各1)後漢鏡後半
原田遺跡 弥生中期~後期
(嘉穂郡嘉穂町馬見 遠賀川上流) 墓地群
土壙墓、木棺墓、箱式石棺墓、甕棺墓、石蓋土壙墓、甕蓋状土壙墓、横穴式石室 (石蓋土壙墓)
内行花文鏡1(君宜高官銘)後漢鏡後半
(箱式石棺)
単虁文鏡(長生宜子銘)後漢鏡後半
(方形状墓壙 木棺)
小銅鐸、銅舌、管玉20
広島県域の古墳時代は、県北の三次盆地で幕を開ける。律令制下では備後に属したところで、日本海に向けて流れる江ノ川に支流の西城川と馬洗川が合流するところ。かつて吉備と出雲を結んだ要路のひとつで、いまも3000基余りの古墳があるという。
現在の三次市街地の東に広がる丘陵地に「矢谷古墳」(三次市東酒屋町)がある。墳長18.5m/後方部辺12.5m×11.7-12.0mを測り、前方後方形であるが方形の四隅に突出部が付いて弥生時代の中期後葉に中国山地で生まれたとされる「四隅突出型墳丘墓」の形状を引き継ぐ形状である。吉備で生まれた特殊器台・特殊壺を随伴し、3世紀後半の築造と見られる。
その後の前期古墳も備後が中心で、備後北部の高梁川上流域に「辰の口古墳(77m)」(神石郡神石高原町)と「大迫山(おおさこやま)1号墳(45.5m)」(庄原市東城町)という、かなり大型のバチ型前方後円墳2基がある。4世紀中葉の築造で、吉備と出雲という2大勢力の間にくさびを打ち込む畿内政権の意図によるとの見方がある。
備後南部にあたる芦田川中流域の神辺平野は福山市に属し、律令制下で備後国府が置かれるところ。平野の北縁に「石鎚山1号墳(径20m)」・「石鎚山2号墳(径16m)」(加茂町)の円墳2基があり、平野の西方の前方後円墳2基からは「潮崎山古墳(30m)」(新市町)が三角縁神獣鏡を出土し、「石鎚権現5号墳(37.5m)」(駅家町)が飛禽鏡を出土した。
「特殊器台は、円礫堆、北東突出部東側下方、円丘斜面第1列石下方などで約30個体分 ほど出土しているが、全形がほぼ復元されたのは1個体である。――高さは112cm、口縁径・ 底径とも約46.5cm、エンタシスのようにふくらむ筒部中ほどの径33.5cmを測る。――(筒 部には長方形スカシのある4段の文様帯があり)細い沈線による三連綾杉文、複合斜線文 などである-全体を総合すると、4ないし5型式に分類できるが、上記した復元品の型式 がもっとも大形で手の込んだ品であることは間違いない」(116頁)。
近藤・春成1967年論文では、キビには弥生後期末から古墳前期にかけて、立坂型・向木 見型・宮山型・都月型という4段階の「特殊器台」の展開が想定されており、楯築は立坂 型に相当する。土器との共伴関係では、立坂・楯築型は鬼川市3式=近畿弥生5式末で、 都月型は近畿の布留1式に相当する。おそらく、2世紀末から3世紀末・4世紀初頭の約 100年間にキビの「特殊器台」が推移したことになる。
この間、近畿の中山大塚古墳や箸中山古墳に宮山型と都月型が登場し、初期ヤマト政権 とキビとの関係が注目されるようになった(後述)。
ここでいうヤマト・中山型葬儀用器台とは、同一古墳での一連の葬送儀礼の中で ほぼ同時に使用されている器台群をさす。つまり、従来の宮山型と都月型は、当初には年 代差ではなく地域差であり、それが中山大塚古墳で共存していることを示す。さらに豊岡 氏は、宮山型文様は大和の弥生中期土器文様(唐古鍵遺跡など)からたどれることを説明し ており、その分布が近畿中心であることからも宮山型の出自は近畿中部だと主張している
(豊岡1985)。 従って、中山大塚古墳において宮山型は石室天井石直上で、都月型は墳丘上で、それぞ
れ使用されていることは、宮山型はヤマト一族、都月型はキビ一族によって、それぞれ供 献された可能性が考えられる。ただし、中山大塚古墳石室上の宮山型は、キビの砂礫を含 みキビ産とされている点は検討を要する。ヤマト・香久山の土を「大和の物実」として摂 取しヤマトを征服したという神武伝承に類する背景が、かつて列島各地に存在していたの かもしれない
3世紀中葉〜後葉になると、前方後円墳(岡山市都月坂1号墳、桜井市箸墓古墳、兵庫県たつの市御津町権現山51号憤)から最古の円筒埴輪である都月型円筒埴輪が出土している[3]。この埴輪の分布は備中から近江までに及んでいる。 最古の埴輪である都月形円筒埴輪と最古の前方後円墳の副葬品とされる大陸製の三角縁神獣鏡とが、同じ墓からは出土せず、一方が出るともう一方は出ないことが知られていた。しかし、ただ一例、兵庫県たつの市御津町の前方後円墳権現山51号墳では後方部石槨から三角縁神獣鏡が5面、石槨そばで都月型円筒埴輪が発見されている。
氷川下流域から切り出されたと思われる同種の南肥後型石棺は京都府の八幡茶臼山古墳(三世紀末~四世紀初め頃、全長約50メートル、前方後方墳、下の画像参照)からも出土している。
兵庫県揖保郡御津町中島の北西部、権現山(140m)の山頂にあります。
全長43mの前方後方墳
高さ約3mの盛り土を築き、後方の中央部に竪穴式の石室。
権現山古墳は日本最古の古墳のひとつといわれている。(三世紀半ば~後半頃)
吉備で発生した埴輪の祖型、特殊器台と五面の三角縁神獣鏡が出土
大和の箸墓古墳、石塚古墳と出土品が類似。鏡は京都椿井大塚山古墳と同范鏡。
平成元年「特殊器台型埴輪、特殊壺型埴輪と五面の三角縁神獣鏡」などが発見されたことによって、
五面出土した神獣鏡の内の三面が、大和に近い京都椿井大塚山古墳(三世紀後半頃、全長約175メートル、方円墳)から出た鏡と「同笵」だとされている。
特殊器台型埴輪(円筒埴輪の原型になった土器で、吉備地方が起源とみられている)に見られる「蕨手紋」で、専門家の調査により「Ⅱ-a、Ⅱ-b」型に分類されている文様は、最古の方円墳と表現されることが多い箸墓古墳から出土した土器の文様に大変良く似ているので
特に注目されるのが特殊器台型埴輪(円筒埴輪の原型になった土器で、吉備地方が起源とみられている)に見られる「蕨手紋」で、専門家の調査により「Ⅱ-a、Ⅱ-b」型に分類されている文様は、最古の方円墳と表現されることが多い箸墓古墳から出土した土器の文様に大変良く似ている。また、この独特の文様を持った遺物は、箸墓の近くに在る巻向石塚古墳の周濠からも見つかっています。
石塚古墳は箸墓よりも更に古い時期(三世紀初め~中頃)に築造された全長およそ96メートルの方円墳ですが「弧紋円板」と呼ばれる木製品には、埴輪の紋様と同種のものが彫られていました(復元すると完全な円形になると考えられています。
この独特の文様を持った遺物は、箸墓の近くに在る巻向石塚古墳の周濠からも見つかっています。石塚古墳は箸墓よりも更に古い時期(三世紀初め~中頃)に築造された全長およそ96メートルの方円墳ですが「弧紋円板」と呼ばれる木製品には、埴輪の紋様と同種のものが彫られています。
権現山の南側、朝臣(あさとみ)と呼ばれている所から阿蘇凝灰岩製の船形石棺(南肥後型)が出土している。
五世紀半ばの古墳が多い
吉備では最大規模を誇る造山古墳(方円墳、全長360m、五世紀中頃)からも阿蘇溶結凝灰岩製の長持形石棺(身)が出土。
岡山市の東に隣接する赤穂市
旧備前国の国分寺も建てられていた古代山陽道の要衝
長持山出土の一号棺(右側)「小口側」(棺の短い方の辺)に見られる縄掛け突起の形状は、小山古墳の物に良く似ています。そして何より、これらの石棺は何れもが九州の阿蘇溶結凝灰岩製であって、長持山2号棺は畿内で初めて使われた阿蘇ピンク石として文献に紹介されている。
小山古墳(方円墳、全長54m、五世紀末頃)
小山古墳には九州の阿蘇溶結凝灰岩製の家形石棺が埋納されていた
阿蘇溶結凝灰岩の中でも阿蘇ピンク石と呼ばれる石材で造られた石棺から神人歌舞画像鏡が出土した珍しい例が大阪藤井寺に在った長持山古墳(円墳、墳径40m、五世紀後半頃)
この古墳の墳丘は失われていますが、二つの石棺が保存されており、見学も自由に行えます。専門家によれば同墳は近接して造営された允恭陵[市野山]古墳の倍塚ではないかと見られています)。
岡山県下に茶臼山の名をもつ前方後円墳は七基が知られるが、ここでは古墳時代前期の吉備の実力と政治情勢を物語る三基の茶臼山古墳をとりあげてみよう。
最古段階の古墳(三世紀後半)で、特殊器台が変化した文様のある埴輪・特殊器台形埴輪が使用されている。
第一は、岡山市東部、吉井川と砂川の間の丘陵に築かれた浦間茶臼山古墳
墳丘全長138mの大形前方後円墳で、前期古墳のなかで最大の規模をもつ奈良県箸墓古墳と同じ設計で、二分の一の大きさに築かれたとみられる。
古墳時代前期初めに築かれた吉備の古墳のなかで最も大きいだけでなく、その時期の古墳としては全国第四位、大和・山城(近畿)以外では最大の古墳である。
二つめは岡山市街地の東、操山の西端に所在する網浜茶臼山古墳である。
全長92mを測り、箸墓古墳の三分の一規模で築造されたと考えられる。また、この古墳で注目されるのは立地でありむしろ南側の瀬戸内海(現在の児島湾)に視界が開けており、内海航路からの遠望を意識して築かれた古墳とみられる。
最後の中山茶臼山古墳は、吉備津神社の後ろ側、吉備中山の山頂に築かれた全長120mの前方後円墳である。現在、陵墓参考地として宮内庁の管理下にあり立ち入ることはできないが、測量図から尾根を大きく切断して築造されていることや、墳頂部が広いことを知ることができるこの古墳は前方部がやや短くて箸墓古墳と同じ設計とは考えにくく、浦間茶臼山古墳や網浜茶臼山古墳とは別系統の設計図で築造されたと考えられる。特殊器台形埴輪の文様も異なっており備中の独自性を示すようである。
旭川下流の網浜茶臼山古墳
浦間茶臼山古墳
岡山県岡山市東区浦間 前方後円墳
規模 墳長138m 前方長61m 後円部径81m 後円部高13.8m
築造年代 3世紀末
箸墓古墳の約二分の一の規模で形が酷似しているとの指摘あり。
1988年に近藤義郎を団長に発掘調査が行われた。後円部の乱掘坑を掘り下げると、深さ2.5mの位置に板状の安山岩を積み重ねた内法の長さ7m・幅1.2mの竪穴式石室が検出された。石室の上部は破損していた。赤色顔料が含まれた粘土が敷かれた床部から、割竹形木棺が納められていたと推測されている。明治時代に盗掘され副葬品は概ね持ち去られていた。しかし、細線式獣帯鏡片、銅鏃・鉄鏃・鉄刀・鉄剣など武器類、鎌・鋤先など農具類、鉄のみ・鉄斧など工具類、ヤスなど漁具類が出土した。
石材は香川県北部または備讃瀬戸の島から採取されたと推測されている。
牛窓天神山古墳
全長85mの前方後円墳。前方部が低く、埴輪の特徴から古墳時代前期、4世紀頃と推定されるそうです。牛窓の大きな古墳のなかでは1番古いとか。
黒島古墳、後に行った鹿歩山古墳(84m)、「波歌山古墳跡」(60m)、湾の西端に見えている二塚山古墳。これらの前方後円墳は4世紀から6世紀にかけての、牛窓首長の墓として順番に築かれたもののようです。
うのべ山古墳
鶴羽にある、積石塚の前方後円墳です。
積石塚とは土の代わりに石を積み上げて造られた古墳で、古墳時代前期(3世紀後半~4世紀)は、香川県と徳島県の一部にしか造られない大変珍しい古墳です。
うのべ山古墳は、これまでも古い段階の古墳であると考えられていましたが、平成16・17年度の調査により古墳の形と出土した土器から、全長37mの大きさをもつ、3世紀後半に造られた四国最古級・津田湾の古墳群中最古の古墳であることが分かりました。
これまでに知られていたこと
撥形(ばちがた)の前方後円墳で前方部の幅が狭くて低い。初期古墳の可能性がある。
在地的な積石塚ではあるが、低い場所に造られ、他の積石塚とは異なる特異性がある。
古墳の周りに段を築いている(外周段築)。
丸井古墳
昭和56年に発見された香川県で最古の前方後円墳。自然地形を削って構築しており、新しい土を盛った形跡はみられない。後円部が尾根の先端部になり、形は正円でなくいびつな楕円形であり、 この地方の特徴がある。 後円部には第1石室、第2石室があり、川原石を多く使用して、内部は粘土張りで、その上に木棺を置いたと考えられる。
前方部の尾根との堀切りから供献土器の出土があり、弥生土器によく似ていて底には平面を持っている。 第2石室の露頭に近いところで「画文帯環状乳神獣鏡」が出土した。調査の結果中国「呉」で製作された可能性が強いことが判明。この古墳もそうとうひどく盗掘で荒らされており、 そのほかには柳葉式の鉄鏃など数点が出土したと調査報告されている。
画文帯環状乳神獣鏡 中国の三国時代に作られた舶載鏡で、第2石室南西角の露頭に近いところから出土。径14.2cm 。
供献土器壷=埋葬の祭器。森広遺蹟から出土した弥生後期の土器とよく似ている。
鉄鏃てつぞく3点=柳葉式のもので、矢柄が残っているものもあった。
鉄斧、ガラス製小玉、滑石製管玉3個
古墳時代前期では最大級の前方後方墳
墳丘に葺石をともなっている
後方部の頂上に設けられた埋葬施設は、1596年(慶長元年)の慶長伏見地震の際の断層が直下を走ったため崩壊していたが、うちのりで長さ約5メートル、幅約85センチメートルの竪穴式石室(副室付竪穴式石槨)であることが判明し、割竹形木棺を納めていることが明らかとなった。
出土品等から築造年代は3世紀後半と推定されている。
石室の石材は、地元のものだけでなく、阿波(徳島県)や紀伊(和歌山県)などからも運ばれており、地元の土器は出土しておらず、祭祀に用いられた土師器には山陰系の特徴をもつものが出土していることから、山陰や四国・南近畿などの諸地域と深い交流をもっていたことが推察され、瀬戸内海や大阪湾など水上交通に影響をもつ首長の墳墓であったとも考えられる[1]。
三角縁神獣鏡7面など計11面の銅鏡(第1次調査の1面とあわせて合計12面)が出土したことで注目を浴びた。主室からは、これら銅鏡と碧玉製紡錘車状石製品を、副室からは、剣、刀、鏃、斧、漁具などの鉄製品が納められていた。
三角縁神獣鏡のうち2面は布にくるまれた状態で出土した。また、京都府の椿井大塚山古墳、福岡県の石塚山古墳、奈良県の佐味田宝塚古墳、広島県の中小田1号墳などの出土鏡とは同笵の関係にある。
http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/ronsyuu6/08ishino.pdf
キビ・楯築型
岡山県倉敷市楯築古墳の器台を標識とする(近藤1992)。楯築古墳は2世紀末(従来の弥生後期末)の全長(推定)80メートルの中円双方墳である。円丘部中央の木 槨・木棺を主たる埋葬施設とし、埋葬施設上に円礫堆がある。
「特殊器台は、円礫堆、北東突出部東側下方、円丘斜面第1列石下方などで約30個体分 ほど出土しているが、全形がほぼ復元されたのは1個体である。――高さは112cm、口縁径・ 底径とも約46.5cm、エンタシスのようにふくらむ筒部中ほどの径33.5cmを測る。――(筒 部には長方形スカシのある4段の文様帯があり)細い沈線による三連綾杉文、複合斜線文 などである-全体を総合すると、4ないし5型式に分類できるが、上記した復元品の型式 がもっとも大形で手の込んだ品であることは間違いない」
近藤・春成1967年論文では、キビには弥生後期末から古墳前期にかけて、立坂型・向木 見型・宮山型・都月型という4段階の「特殊器台」の展開が想定されており、楯築は立坂 型に相当する。土器との共伴関係では、立坂・楯築型は鬼川市3式=近畿弥生5式末で、 都月型は近畿の布留1式に相当する。おそらく、2世紀末から3世紀末・4世紀初頭の約 100年間にキビの「特殊器台」が推移したことになる。
この間、近畿の中山大塚古墳や箸中山古墳に宮山型と都月型が登場し、初期ヤマト政権 とキビとの関係が注目されるようになっ
吉備の初期古墳は、弥生墳丘墓が盛んに造られた備中南部ではなく、旭川下流域の両岸である備前南部に造られる。備中より畿内に近いことが、畿内色を強く映す前方後円(方)墳の造営につながったのであろうか。3世紀後半の築造で、いまの岡山市域の丘陵上にある。
前方部の形が畿内の箸墓古墳と同じバチ形に開くこと、埋葬頭位が(判明する限り)北枕であること、特殊器台形埴輪・特殊壷形埴輪が採集されること、竪穴式石槨が長大で深くなったこと、石槨が瀬戸内海の豊島(てしま)産の古銅輝石安山岩によって造られたことなどの点で、おおむね共通する。
“特殊器台型埴輪・特殊壺型埴輪”とは、特殊器台・特殊壺と紋様や形が似ているが、形が簡素化し、2つが(積み重ねではなく)独立して供献されるケースがあるもの。吉備の初期古墳において10数例が見出され、のちの円筒埴輪や朝顔形埴輪に進化したとされる。埴輪が畿内型前方後円墳の普遍的要素であることから、前方後円墳体制(初期ヤマト政権)の成立に吉備勢力が深く関わった根拠とされる
http://yottyan.blog.so-net.ne.jp/2015-08-11
三輪山の山麓に位置し、卑弥呼の王宮があったとされる纒向遺跡は、JR巻向駅を中心に東西約2km、南北約1.5kmの広大な面積を占めるが、2世紀末または3世紀初めまでこの地が無人の原野だったことがわかっている。弥生人が長らく住んで集落を形成していた場所ではない。ところが、ある時どこからか大勢の人がやってきて、この地に都市集落を形成した。それが纒向遺跡である。
紋様や形の単純化・簡素化に着目した場合、特殊器台型埴輪は立坂たてさか型→向木見むこうきみ型→宮山みややま型の順に変化し、その後に渡月とげつ型が続くとされている。都月型円筒埴輪は箸墓古墳からも出土していて、そのため宮山型から都月型への変化は、吉備ではなく大和で生じたと考えられている。3世紀後半から4世紀初頭の古墳から、さまざまな形の円筒埴輪が見つかっているのは興味深い
オオヤマト古墳群と称されているが、そこには3世紀中葉から4世紀中葉までのほぼ1世紀間に営まれた6基の巨大前方後円墳が見られる。北から順に、天理市の大和やまと古墳群の西殿塚にしとのづか古墳(現手白香たしらか皇女衾田ふすまだ陵、墳丘長240m)、同市柳本古墳群の行燈山あんどんやま古墳(現崇神天皇陵、240m)と渋谷向山しぶたにむかいやま古墳(現景行天皇陵、310m)、桜井市箸中の箸墓古墳(280m)、同市鳥見山古墳群の桜井茶臼山さくらいちゃうすやま古墳(200m)とメスリ山古墳(約230m)である。
白石氏は、これらの古墳の造営時期を①箸墓古墳→②西殿塚古墳→③桜井茶臼山古墳→④メスリ山古墳→⑤行燈山古墳→⑥渋谷向山古墳の順に考えておられる。もちろん異説もあり、南の鳥見山古墳群にある桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳を初期ヤマト王権の王墓に含めない研究者もいる。それを承知で、桜井茶臼山古墳が80面以上の銅鏡を副葬し、メスリ山古墳も墳丘長が200m越えていることから、これらを王墓から外して考えることは難しいとして指摘される。
最も重要な価値を与えられていたと思われるのは中国鏡、なかんずく神獣鏡の 類である。神獣鏡は前期古墳からの出土例が多いが、桜井市ホケノ山墳墓での集積状況が示すように、 弥生終末期段階では画文帯神獣鏡が最も重視されていた神獣鏡である可能性が高い。そして、画文帯 神獣鏡の分布が畿内地域、とりわけ大和盆地東南部に厚いことから、弥生終末期にこの地域に画文帯 神獣鏡を多数集積し、それを利用して各地の有力者と政治関係を取り結ぶような中央性のある政治権 力が発生したことを読みとることができよう。 日本列島に流入した画文帯神獣鏡は、型式的特徴から見て3世紀前葉のものが主体を占めると考え られる(福永2001)。この役割を受け継いだのが三角縁神獣鏡である。三角縁神獣鏡には最古段階の ものとして島根県神原神社古墳出土の景初三年(239)鏡があり、この最古段階の三角縁神獣鏡の内 区図文のモデルとなったのが画文帯同向式神獣鏡であることから見て、画文帯神獣鏡との基本的な先 後関係はほぼ明らかといえる。三角縁神獣鏡は、239年の卑弥呼朝貢を契機として華北王朝からこれ を独占的に入手するようになった畿内政権が各地の系列豪族に分配した政治的な威信財であり、前方 後円墳が成立する古墳時代初頭から副葬品に加わるものである。 以上の理解に立てば、畿内各地の画文帯神獣鏡と三角縁神獣鏡の分布を比較することによって、前 方後円墳成立をはさむ時期の畿内地域内部の地域関係がどのように展開したかを解明するアプローチ が開けるのである
ーー中略ーーー
有力古墳のあり方を中心に畿内地域内部で認められる地域間の勢力関係を素描してみた。そ の変化期を今一度まとめると、次のようになろう。
<第1変化期> 前期初頭 3世紀中葉 河内平野勢力が畿内政権から「離脱」し、大和盆地東南部勢力を核とする政権構造が顕在化。ただ、 その契機は古墳出現にやや先んじて、三角縁神獣鏡配布が始まった段階に求められる可能性が高い。 <第2変化期> 中期初頭 4世紀末 古市・百舌鳥古墳群の成立により、河内平野勢力が主導権を掌握。大和盆地東南部から河内平野への 勢力移動の兆しは、すでに前期後半には現れている。
<第3変化期> 中期後半 5世紀後半 政権勢力が交替するわけではなく、河内平野勢力の力が急速に伸張することによって、古市・百舌鳥 古墳群の大王墓だけが著しく突出し、地域首長の前方後円墳築造はむしろ低調になる。
古墳時代政権交替論の考古学的再検討
2.古墳時代政権交替と畿内の地域関係 福 永 伸 哉
http://ir.library.osaka-u.ac.jp/dspace/bitstream/11094/13079/1/Fukunaga_kaken2011_text.pdf
市原市の国分寺台で、養老川が海に流れ込む河口の丘陵地
上総の国の中心・市原市には、村田川、養老川、椎津川が流れており、各流域の高台では縄文時代には多くの集落が形成され、人口も多かった。
地域間の交流も盛んだったようで、この地の国分寺台・西広貝塚(縄文後期の初期~前期)からは、九州の阿高式土器とみられる器が見つかっている。
神門 5号墳のすぐそばに戸隠神社があり、祭神は思兼命、 天手力雄命、 表春命で天の岩戸に関係する神々です。
古事記の中巻、景行天皇の段には房総に関わる記載がある。
天皇の御世に東国の「淡水門」(あわのみなと)を定め、膳大伴部(かしわでのおおともべ)を定めた。また東国征討のために倭建命(やまとたける)を遣わしたが、「走水の海」(はしりみづのうみ)を渡るときに荒波を鎮めるため、后の弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)が海中に身を投げた‐というくだりだ。
この倭建命の東国征討の話は日本書紀にも書かれている。日本書紀では天皇が上総・淡を訪れたとの記述もあり、そこに磐鹿六雁(注・・高家神社にまつられる料理の祖神)のエピソードが出てくる。ちなみに「走水の海」は浦賀水道、「淡水門」は館山湾とも考えられている。
また東国征討が実在したと仮定すると、その年代は4世紀ごろと考えられる。
さて、その時代の古墳に目を移すと、東国の3世紀の古墳は前方後円墳が大半を占めていたのに対し、4世紀には大型の前方後円墳が出現する。房総では小櫃川、養老川、村田川隆起に集中する。
三角縁神獣鏡や、畿内のものとみられる朱の入った布留式の士師器甕などが出土。籠手や銅・鉄製の鏃なども出た。遺物からみて、この古墳は4世紀前半のものとみられている。埋葬者は畿内と強い関係を持った武人と考えてさしつかえないだろう。
姉崎古墳群(市原市)の釈迦山古墳。これは手古塚と同時期か一段古い前方後円墳だが、畿内のものによく似た高杯や、東海地方の「S字甕」が出土している。このように考古学からみると、古事記、日本書紀に書かれている「東国征討」とオーバーラップするような古墳の分布がみられる。
安房郡の領域では、この時期特徴的な埋葬方法が確認されています。 館山市大寺山洞穴では、丸木舟を棺に使った舟葬がみられ、副葬品には短甲、直刀、盾、玉類、土器といった古墳の副葬品と遜色のないものが出土していることから古墳の被葬者に匹敵する人物の墓だと云うことが推定できます。
また、館山市峯古墳からは、非常に珍しいトンボ玉といった特殊なガラス玉が出土していることが注目されます。グレーの地に赤と青で放射状の模様が象眼され、朝鮮半島経由で西域からもたらされたものと考えられます。
古墳時代後期になると長挟郡の領域である鴨川市広場古墳群中の円墳から砂岩製の刳抜式舟形石棺が発見されています。刳抜式舟形石棺は、千葉県では唯一、鴨川から発見されています。 長挟国造の系譜の首長墓である可能性が高いと思われます。
館山市の翁作古墳からは環頭飾大刀が出土しています。 平砂浦海岸を望む場所に造営された海との関連の深い首長墓であると思われます。
吉備津彦神社元宮磐座
つぎに二つの一宮である。この中山には「吉備津神社」と「吉備津彦神社」の二つの一宮(備前、備中)が一つの山の麓に存在する。何故?という感じだ。同じような名前の神社がすぐそばにありそれが国境にあるのはいかにも不自然だと思う。
さらにこの中山の南麓には最古?の前方後円墳「矢藤治山古墳」があるのだ!墳長約35mの前方後円墳で方格規炬鏡(TLV鏡)1、大型硬玉勾玉1、ガラス小玉50、終末期の特殊器台と特殊壷が多数発見され最古式のものとかんがえられるというのだからミッシングリングともいうべき非常に重要な遺跡である。奈良大和に特殊器台が移動する直前のものとすれば史上最古の前方後円墳である可能性もある。
西は福岡県、東は大阪府、奈良県天理市に。滋賀県に4つ。長野県にも。
兵庫県には、宝塚市に1つだけのようだ。
三輪山の北に「竜王山」と呼ばれる山がある。吉備の中山にも「竜王山」がある。
「天理の古墳100」より引用。
「龍王山古墳群は龍王山西麓の谷(西門川)沿いに展開する古墳群である。横穴式石室を埋葬主体とする円墳と墳丘を持たない横穴墓(おうけつぼ)が合計600基以上分布しており(1,000基以上という説もある)、古墳時代後期から終末期にかけて造営された県内最大規模の後期群集填である。昭和59~60(1984~85)年度に西門川の砂防事業に伴って奈良県立橿原考古学研究所が調査をおこない、60基程度の古墳について埋葬施設の記録が作成された。…略…
雨宮古墳は、竜王町の平野部の最奥部の祖父川が形成した谷の入り口付近に位置し、南から北へ伸びる丘陵から派生した舌状の支脈上に築かれた帆立貝形古墳です。
全長82m、後円部径67m、後円部高9m、前方部長22m、前方部幅35m、前方部高1.9mを測り、外堤をもつ一重の周壕をめぐらせています。滋賀県下第三位 の規模で、発掘調査等はまだ行なわれていませんが、後円部の墳頂から出土した滑石製勾玉 や家形埴輪片、円筒埴輪片から、5世紀中ごろに造営されたとみられます。
規模、墳形、築造技術の点で特徴があり、かつ遺存状況も良好であるため、滋賀県の古墳時代の歴史を考える上で欠く事のできないものであるといえます。
ところが、それと同じ名前の山が遠く離れた滋賀県の竜王町にもある。そして、その山の麓には鏡神社が鎮座しています。興味深いことは、滋賀県の鏡山の鏡神社の祭神は天日槍なのです。
滋賀県にある琵琶湖の南東部、野洲町から竜王町にかけて点在する古墳では銅鐸が多く出土しています。この地域は天日槍が難波津(大阪湾)から宇治川(淀川)を遡った終点に当たります
3・4世紀の日本は盛土・葺石 高句麗の墓は積石。
3・4世紀の出雲の四隅突出墳丘墓は四隅の低いところだけ積石と
盛土に石を貼り付けて壁を作る形です。
紀元前1・2世紀の三次や丹波(日吉が丘遺跡)は周りの淵に石を敷き詰めた形です。
北日本や長野阿久などの縄文中期・後期の縄文環状列石の影響ではないでしょうか。
また四隅突出墳丘墓は長方形で
3世紀前半の丹波の赤坂今井古墳も長方形でこの時期の最大です。
県北の三次盆地で幕を開ける。律令制下では備後に属したところで、日本海に向けて流れる江ノ川に支流の西城川と馬洗川が合流するところ。かつて吉備と出雲を結んだ要路のひとつで、いまも3000基余りの古墳があるという。
現在の三次市街地の東に広がる丘陵地に「矢谷古墳」(三次市東酒屋町)がある。墳長18.5m/後方部辺12.5m×11.7-12.0mを測り、前方後方形であるが方形の四隅に突出部が付いて弥生時代の中期後葉に中国山地で生まれたとされる「四隅突出型墳丘墓」の形状を引き継ぐ形状である。吉備で生まれた特殊器台・特殊壺を随伴し、3世紀後半の築造と見られる。
その後の前期古墳も備後が中心で、備後北部の高梁川上流域に「辰の口古墳(77m)」(神石郡神石高原町)と「大迫山(おおさこやま)1号墳(45.5m)」(庄原市東城町)という、かなり大型のバチ型前方後円墳2基がある。4世紀中葉の築造で、吉備と出雲という2大勢力の間にくさびを打ち込む畿内政権の意図によるとの見方がある。
備後南部にあたる芦田川中流域の神辺平野は福山市に属し、律令制下で備後国府が置かれるところ。平野の北縁に「石鎚山1号墳(径20m)」・「石鎚山2号墳(径16m)」(加茂町)の円墳2基があり、平野の西方の前方後円墳2基からは「潮崎山古墳(30m)」(新市町)が三角縁神獣鏡を出土し、「石鎚権現5号墳(37.5m)」(駅家町)が飛禽鏡を出土した。
県西部の安芸に目を転ずると、太田川下流域に4世紀後半から5世紀にかけて「中小田(なかおだ)古墳群」(広島市安佐北区)が築かれた。盟主墓は円墳の「中小田1号墳(径30m)」で、三角縁神獣鏡、獣帯鏡を出土した。いま県庁所在地の広島市がある太田川河口域は近世以降の埋立てにより三角州が広がったところで、大型の古墳はない。