三世紀の古墳

December 2018 編集されました カテゴリ: 出土品/交易
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京都の埴輪京都盆地にある古墳約900基のうち埴輪を備えていたのは74基で、このうち63基が乙訓に偏在している。…

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  • 元稲荷古墳

    桂川の西岸にある向日(むこう)丘陵にある(現、京都府向日市北山)。
    向日市・埋蔵文化財センター
     前方後方墳で、全長92m、後方部(51m×49m)、前方部長41mを測る。規模は卑弥呼の墓に擬せられる箸墓古墳(奈良県桜井市)の1/3に企画され、前方部は台与の墓に擬せられる西殿塚古墳(奈良県天理市)と〔元稲荷:西殿塚=1:2.5〕の相似形であるという。
    後方部3段築成/前方部2段築成で、鉄製武器・工具・土師器などが出土した。最古相の古墳の要素をもち、3世紀後半の築造とされる。
    拳(こぶし)ほどの大きさの「礫」を多量に用いるという特徴がある。墳丘の斜面では礫を小口積み(切り口が見えるように積むこと)にし、平坦面では礫を敷いて、古墳全体が「石の山」に見えるように礫で覆い尽している。
    特殊器台型埴輪のほか、讃岐系の二重口縁壺の細片が出土した。讃岐系二重口縁壺が畿内の大型前期古墳で祭祀用に使われた例は、ほかにないそうだ。

    古墳時代(前期)前方後方墳、二段築成
    築造は3世紀末から4世紀初頭で、乙訓地域では最も古い古墳と考えられています。
  • 西殿塚古墳(にしとのつかこふん/にしとのづかこふん)は、奈良県天理市中山町にある前方後円墳。

    宮内庁により「衾田陵(ふすまだのみささぎ)」として第26代継体天皇皇后の手白香皇女の陵に治定されている。
    天理市南部に広がる大和古墳群の中でも最大の大きさであり、延喜式で山辺郡にあったとされる手白香皇女衾田陵の位置にあたるため、宮内庁により手白香皇女衾田陵に治定されている。しかし箸墓古墳と同様の吉備様式の特殊器台が後円部に並び、埴輪や墳丘の形態等からも箸墓古墳に続く時期の大王墓という見方がある。
    こうして築造時期は3世紀後半から4世紀初めごろと想定されている。これらの見方では築造時期が手白香皇女の生没年と全く合わない。その場合に、衾田陵は延喜式でいう山辺郡でも推定築造時期が6世紀と考えられている周辺唯一の古墳である西山塚古墳とする説がある。

    衾田陵と捉えずに別の被葬者を推定する試みとして、崇神陵の陵守が衾田陵を合わせて守っていたという記録から、この西殿塚古墳こそが崇神天皇陵であったという解釈がある。あるいは、箸墓古墳の被葬者を卑弥呼と考え、それに続く大王とみて、台与らその次世代の王と陵墓とする考えるものもある。

    宮内庁が管理しており、研究者や国民の立ち入りは禁じられているが、2012年(平成24年)に盗掘された。

    は全長が234メートル、後円部の直径135メートル、前方部の幅118メートル。三段築成で葺石が葺かれている。後円部は正円形、前方部の側面は緩やかに弧状をなし端部で開き、正面ではわずかに撥形をしている。段築が認められるが、前方部の段築がくびれ部で解消してしまい後円部につながっていない。周濠は、地山を少し掘り下げて造っている。葺石と円筒埴輪が確認されている。

    この古墳の形態的特徴として、後円部の墳頂に方形壇(一辺35メートル、高さ2.6メートルの正方形)が造られ、前方部にも同じ形(一辺22メートル、高さ2.2メートル)でやや小さい壇が総石積みで築造されているという点がある。このため、後円部と前方部の方形壇の下にそれぞれ別人の埋葬施設が存在したという見方がある。方形壇は死者を埋葬してからその上に祭祀用に広大な壇を造ったものとみられており、箸墓古墳の段階ではまだつくられておらず、壇の設営としては初期の頃のものと考えられる。

    東殿塚古墳
    萱生町・中山町に所在する全長139メートルの前方後円墳です。基底部の長方形区画は全長175メートルの規模があります。1997年におこなわれた発掘調査では、周濠と周堤帯がみつかりました。この調査では埴輪祭祀の遺構が見つかり、埴輪が多量に出土しました。3世紀後半に築造された古墳時代前期前半の古墳と考えられます。
  • 西殿塚古墳
    宮内庁の報告で特殊器台・特殊壺の存在が明らかになった。1993年(平成5年)、口縁部直径は50センチメートルから70センチメントールある大型品で有黒斑・有段口縁を持つ器台型埴輪、最古の都月型円筒埴輪が大量に出土した。口縁部外面に鋸歯文の線刻を施しており、外面は横ハケ、縦ハケ、内面はナデ調整している。壺形埴輪もあった。墳頂部で使用されていた可能性が強い。

    都月型円筒埴輪
    3世紀中葉〜後葉になると、前方後円墳(岡山市都月坂1号墳、桜井市箸墓古墳、兵庫県たつの市御津町権現山51号憤)から最古の円筒埴輪である都月型円筒埴輪が出土している。この埴輪の分布は備中から近江までに及んでいる。 最古の埴輪である都月形円筒埴輪と最古の前方後円墳の副葬品とされる大陸製の三角縁神獣鏡とが、同じ墓からは出土せず、一方が出るともう一方は出ないことが知られていた。しかし、ただ一例、兵庫県たつの市御津町の前方後円墳権現山51号墳では後方部石槨から三角縁神獣鏡が5面、石槨そばで都月型円筒埴輪が発見されている。

    なお、前方後円墳の出現は、ヤマト王権の成立を表すと考えられており、前方後円墳に宮山型の特殊器台・特殊壺が採用されていることは、吉備地方の首長がヤマト王権の成立に深く参画したことの現れだとされている。吉備勢力の東遷説もある。
  • 双方中円墳

    楯築遺跡(たてつきいせき)は、岡山県倉敷市矢部の丘陵上にある弥生時代の墳丘墓。「楯築墳丘墓」とも。国の史跡に指定されている。

    王墓山丘陵の北側に弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に造営された首長の墳丘墓である。墳丘の各所から出土した土器片の多くが壺形土器、特殊器台・特殊壺の破片である。直径約43メートル、高さ4、5メートルの不整円形の主丘に北東・南西側にそれぞれ方形の突出部を持ち、現在確認されている突出部両端の全長は72メートルで同時期の弥生墳丘墓としては日本最大級である。


    香川県高松市の猫塚古墳や奈良県天理市の櫛山古墳などと同じ双方中円墳であるであるが、先行的な形態をしている。 2世紀末に起こった倭国大乱が終わった後、瀬戸内海沿岸地方では、古墳造営の新しい兆しが見え、この地域で墳丘の造営の動きが見られるようになった。 このような大きな墳丘墓が、古墳時代より先に築造されていたのは、この地に葬送儀礼に特殊器台・特殊壺を用いる大きな政治勢力があったことを窺わせる。その勢力の代表的な首長の墓であると推測されている。後の古墳時代中期には造山(350メートル)、作山古墳(270メートル)の大前方後円墳が造られる。

  • 出雲 西谷墳墓群 出雲市大津町西谷

    出雲市街南東部の標高40メートル程度の丘陵に存在する。弥生時代後期から古墳時代前期にかけての2世紀末から3世紀に築造されたと考えられている。1953年(昭和28年)に確認され、現在は27号までと番外5号までの32基の墳墓、古墳と横穴墓が確認されている。このうち、1~4・6・9号の6基が四隅突出型墳丘墓である。四隅突出型墳丘墓は出雲地方を中心とした特徴的な形をした弥生時代の墳丘墓で、この西谷墳墓群や安来市の荒島墳墓群に巨大なものが見られる。
    1~4・6・9号の6基については、四隅突出型墳丘墓である。これらは斜面に葺き石が施されていた。その他、5・7・8号など18基の方形墳丘墓、11・25号など4基の円形墳丘墓が確認されており、2号墓東側斜面には横穴墓群がある。以下、各四隅突出型墳丘墓を中心に記述する。


    1983年より詳細な調査が行われ、上部に首長が埋葬された第1主体があり、脇にその家族が被葬された第4主体がある。第1主体には深さ1メートルで二重の構造の土壙が掘られ、木棺の外側に木槨をもつものである。木棺内は水銀朱が敷きつめられており、大型22個、小型25個程の碧玉製管玉の他に、ガラス小玉100個以上とコバルトブルーのガラス製勾玉2個、玉、鉄剣が発掘された。埋土上から二百数十個の土器が検出されている。この土器のなかには吉備の特殊器台・特殊壺や北陸地方の土器に似ているものが多い。
    墓穴の周囲に4箇所の柱穴が検出された。この柱穴は首長の葬送の際に建てられた葬祭用四阿(あずまや)で、次期首長候補を中心に葬儀が執り行われたと推定されている。 現在、斜面に葺き石が施されるなど築造当時の姿に復元作業が行われている。

    4号墳
    方形部は東西32メートル×南北26メートル。この墳墓群の中で最初に確認された墳墓で、1953年の造成工事の際に墳墓であることが確認された。この墳墓にも斜面に葺き石が施されている。地元産の壺などの大量の土器、吉備産の特殊土器が発掘された。2世紀末に築造されたと推定される
  • 銅鐸の鐸は飛鳥時代に寺院などにぶら下げられていた木鐸や金鐸などの風鐸(風鈴)から付けられた名です。
    飛鳥時代にはすでに本来の使いかたがわからなくなっていたらしく、風鐸に似ていることにより鐸の名になってしまったという由来があります。

    重要なこととして、銅鐸が製作された年代の初期と終末期とでは相当な年数の隔たりがあることです。
    銅鐸の編年表を見ますと、紀元前三百年の弥生一期と呼ばれる時代からその存在が確認されています。そして紀元後二百年の弥生五期と呼ばれる時代あたりから使われなくなっていったようです。
    その間、およそ五百年もの隔たりがあるのです。銅鐸の歴史はその五百年のなかに凝縮されています。
  • 延喜式神名帳 式内社 出雲国神門郡 阿湏利神社 アスリ

    所在地 島根県出雲市大津町龍王山3668
    旧地名 出雲国神門郡
    御祭神
    豊玉比古神(とよたまひこのかみ) 豊玉比女神(とよたまひめのかみ) 玉依比女神(たまいひめのかみ) 大己貴神(おおなむちのかみ)
    合祀
    誉田別命 氣長足姫命 足仲彦命
    加久突知神 和多津見神 事代主命 大年神
    例祭日 10月10日

    創建   天平5年(733)『出雲国風土記』に「阿受伎社」と記載されているのでそれ以前
    本殿様式 大社造 檜皮葺

    境内摂末社(祭神)
    稲生神社(倉稲魂神)、延魂神社(磐長姫命)
    金比羅神社(大国主命)、恵美須神社(八重事代主命)3社
    下照姫神社(下照姫神、木花開耶姫命)
    三輪神社(大物主神)、若崎神社(素盞嗚命)
    社日神(天照皇大御神、少名彦神、埴安姫命、大己貴神、倉稲魂神)
    総荒神、武内神社(武内宿禰命)、道祖神(猿田比古命)
  • 奈良時代天平5年(733年)今から260年前「出雲風土記」に「阿須理社」という社名で上来原の池の内杓子山にあると記されており、次いで平安時代延長5年に作られた延喜式神名帳に阿須利神社の社名が登録されています。
    昔海浜でありました大津湊の旧蹟でありました朝倉の浜に鎮座であり、御祭神が龍王社といい昔から神門郡中の祈願所とし旧藩の崇敬厚く、貞享4年11月御先尾剱先に移転、明治4年3月合祭誉田別命、足仲彦命、気長足姫命は旧大津村の八幡宮の社殿に合祀し、阿須利神社と改称、郷社に列せられる。明治23年社を今の地龍王山に移転、11月2日に遷座式を行った。
  • 向日市
    五塚原古墳の墳丘の特徴は、「斜路状平坦面」に象徴される前方部と後円部が分離した段築構造に集約さ れます。後円部の平坦面はほぼ水平にめぐりますが、前方部とはつながっていません。このような墳丘の不 整合は、奈良県桜井市箸墓古墳の特徴的な構造とみられ、全国で総数約 5200 基の前方後円(方)墳のなかで 2 例しか確認されていません。なお、前方部の平面形態は、纏向古墳群中の東田大塚古墳で復原されている 輪郭線と近似していることが、昨年の調査の後に検討をすすめ明らかになりました。箸墓古墳以外の古墳と も比較検討が可能になってきました。
    今回、後円部はほぼ円形を描く段築構造であることがわかりましたが、箸墓古墳と同時期の古墳で後円部 が精美な円形に三段まで築かれた例は現状では他に確認されていません。後円部三段、前方部二段の墳丘構 造としては最も古い古墳のひとつとみられます
  • 前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)は、古墳の墳形の一種であり、特に東日本の前期古墳に多く存在する。また、中国・四国地方にも多く存在し、中でも出雲地方の前方後方墳は古墳時代を通じて築かれていた。その起源は、方形の墳丘墓への通路が変化し、突出部へと代わっていき成立したと推測されている。東日本の出現期古墳の多くは、前方後方墳であることが分かってきた。
  • April 2016 編集されました

    愛知県一宮市の西上免遺跡で発見された前方後方形墳丘墓は墳丘長約40メートルもある。

    前方後方形墳丘墓から前方後方墳への成立に濃尾平野が重要な役割を果たしたと考えられている。3世紀前半の弥生時代終末期頃、東海地方では方形墓の周壕が一周するものや方形の一辺に突出状の祭壇を設ける墓が流行した。そしてやがてその際壇部や陸橋部が発展し前方後方形が出現する。 その例としては愛知県の廻間SZ01墳丘墓があげられ、祖形と考えられる。この墳形は西は京都府から東は千葉県までひろがった。 つまり前方後方墳は伊勢湾沿岸で誕生し各地にもたらされたと考えられる
  • April 2016 編集されました
    70メートルを超える前方後方墳の旧国別の築造数は、出雲・美作・播磨・摂津・伊勢・尾張・三河・能登・常陸が各1基、美濃・駿河・越中・上野・出羽が各2基、山城・陸奥が各3基、下野が4基、大和が5基であり、大規模前方後方墳も大和に集中しているといえる。さらに、100メートルを超える前方後方墳5基が大和に集中している。また、日本最長の前方後方墳は、天理市の西山古墳(180メートル、古墳時代前期)である。
    同市には羽多子塚古墳(144メートル、同前期)、新山古墳(137メートル)、下池山古墳(120メートル、同初期)、フサギ塚古墳(110メートル、)マバカ古墳(74メートル、同最初期か)、ノムギ古墳(63メートル、同最初期か)、星塚古墳(56メートル)などが存在する。なお、墳丘最長の西山古墳は、前方後方形の基壇の上に前方後円形が乗るという非常に特異な形をしている。
  • 四国地方
    中国・四国地方では、前方後円(方)墳は800基のうち前方後方墳は82基で、1割を占める。分布では、南西半分にほとんど見られず、山口県や愛媛県に認められず、九州地方にはほとんど築かれていないという傾向の延長線上にあると考えられる。北東の地域では鳥取県では希薄であり、播磨西部から岡山県北部を経て出雲地域に広がっている。出雲東部にかたよるが、山陰では因幡、伯耆に4基、石見に1基、奥に8基が存在する。

    中国地方の前方後方墳は島根県松江市周辺に集中して32基みられる。出雲の斐伊川中流域の三刀屋町にある松本1・2号墳が最古のものとみられている。最大は、岡山県勝田郡勝央町植月寺山古墳の91.5メートルである。分布では、山口県にほとんど認められなく、鳥取県・兵庫県北部地方では21基、広島・岡山両県および兵庫南部地方では48基みられる。 出雲の前方後方墳は、古墳時代を通じて築かれている点が特徴である。

    四国地方では、徳島県に2基、愛媛県・香川県に1基ずつ、九州地方では、散発的に分布し、対馬をふくむ長崎県に4基、福岡県に5基みられる。
  • 各地の前方後方墳

    近畿地方
    筒之古墳(三重県)
    向山古墳(三重県)
    神郷亀塚古墳(滋賀県東近江市)
    芝ケ原古墳(京都府城陽市) - 21×19メートルの方形墳丘に突出部がつく。突出部は削平されているので、長さは不明。
    長法寺南原古墳(京都府長岡京市)
    元稲荷古墳(京都府向日市)
    庭鳥塚古墳(大阪府羽曳野市)全長60メートル
    処女塚古墳(兵庫県神戸市東灘区) - 国の史跡
    西求女塚古墳(兵庫県神戸市灘区) - 国の史跡
    西山古墳(奈良県天理市) - 国の史跡 全長183m、日本最大の前方後方墳。
    新山古墳(奈良県北葛城郡広陵町)
    中国・四国地方 編集
    山代二子塚(島根県松江市、墳長94メートル、6世紀中葉、出雲最大)
    金崎古墳群(きんざき、島根県松江市西川津町字金崎、古墳11基のうち1号・5号墳が前方後方墳、2~4号と6~11号は方墳、1957年(昭和32年)国の史跡に指定される。)
    岡田山古墳(島根県松江市、6世紀後葉)
    御崎山古墳(島根県松江市、6世紀後葉)
    備前車塚古墳(岡山県岡山市中区)
    三成古墳(岡山県津山市)
    楢原寺山古墳(岡山県美作市)
    伏原大塚古墳(高知県香美市、香長平野に所在、全長75メートル、埴輪出土、6世紀前半)

    九州地方
    焼ノ峠古墳(福岡県朝倉郡筑前町、全長39.8m)
  • 丹田古墳(三好郡東みよし町、前方後円墳または前方後方墳、積石塚、国の史跡)

    摂津・三島古墳群の「闘鶏山古墳」の石室は・・・なんと「阿波産」の「結晶片岩」で造られている。

    その形状は「丹田古墳」に似ている
  • 双方中円墳(そうほうちゅうえんふん)

    円丘に2つの方丘(長方形又は台形)をつなぎ合わせた形状をしています。方丘部分は円丘と外部をつなぐ通路が発達したものであると考えられています。
    双方中円墳の一覧 [ 計:4 ]

    1.鏡塚古墳 香川 全長約70mの双方中円墳。 墳丘は積み石によって2段に築か ...

    2.櫛山古墳 奈良 柳本古墳群の1基で、全長約155mの双方中円墳。 墳丘は2 ...

    3.楯築弥生墳丘墓 岡山 倉敷市矢部の丘陵上に径約50mの円丘部、南北に二つの突出部を ...

    4.猫塚古墳 香川 全長約95mの双方中円墳。 墳丘は積み石によって構築されて ...
  • 伊射奈岐神社 というのが有りました。

    古い神社で、現在は天神山古墳の近くにありますが、

    「古くは、現在地の東約500m、伝崇神陵後円部に接する櫛山古墳の北側にある地尊池の西側(大字山田小字ノゾキ)にあったという。(略)柳本古墳群のまっただ中にあったことになる。
    現在地への遷座時期について、由緒は江戸前期
    櫛山古墳はその出土物から佐紀陵山古墳(ヒバスヒメ)に繋がる古墳。
    この古墳、室大墓(宮山古墳)と同じような石・石棺を持つらしい。

    室大墓は武内宿禰の墓って言われていたりします

    伊射奈岐神社
    古い神社で、現在は天神山古墳の近くにありますが、

    「古くは、現在地の東約500m、伝崇神陵後円部に接する櫛山古墳の北側にある地尊池の西側(大字山田小字ノゾキ)にあったという。(略)柳本古墳群のまっただ中にあったことになる。
    現在地への遷座時期について、由緒は江戸前期というというが、室町中期頃には現在地に移されていたともいわれ、はっきりしない。
    当社は、今、伊射奈岐神社と称しているが、大乗院寺社雑事記(室町後期の興福寺・春日大社関係の雑記録)・後奈良天皇綸旨(1555)などの古文書、あるいは境内の石燈籠などには、“天神”・“楊本ノ天満”・“楊本天満宮”・“天満大自在天神”・“天満宮”などとあって、伊射奈岐神社の社名はない。
    現在地への遷座以前はいざ知らず、中・近世の頃には天満宮と称していたが、維新後の明治6年(1873)、村社に格付けされたとき伊射奈岐神社と称するようになったのではないか、という。」


    櫛山古墳
    柳本町に所在する全長約155メートルの前方後円墳で、行燈山古墳のすぐ東側に隣接します。前方部を両側に築いた独特な墳形であるため、双方中円墳とも呼ばれています。1948年~1949年の発掘調査では、長さ 7.1メートルの竪穴式石室と長持形石棺の一部がみつかり、腕輪形石製品類や鉄製品などが出土しました。4世紀前半に築造された古墳時代前期後半の古墳です。国指定史跡。


  • 猫塚古墳測量図
    猫塚古墳ねこづかこふん

    時期 古墳時代前期(4世紀前半)
    案内 峰山公園芝生広場から第4駐車場に向かう広い道を大きく左に曲がって300mほどのところで畑の脇に右へ入る小道があります。その小道を300mほど歩くと眼の前に高い積石塚がそびえています。これが、石清尾山古墳群の中で最大規模を誇る猫塚古墳です。
    説明 【外形】 猫塚古墳は、全国でも非常に珍しい双方中円墳の積石塚です。全長は約96m、高さは約5mの規模をもちます。
    【内部】 中円部にいくつかの竪穴式石室があったと思われますが、大盗掘のために正確な数・位置は不明です。ただし、盗掘によるくぼみの一角に竪穴式石室がわずかに残っており、今は保存のために埋め戻しています。昭和6年(1931年)に行われた京都帝国大学の調査の報告書には、盗掘の関係者の話などを参考にして、中円部中央に大きな竪穴式石室1基とそれを取りかこむ8基の小さな石室があったと記述されています。
    【出土品】 盗掘の際に中央の石室から鏡5面(中国製のもの4面、日本製のもの1面)、小銅剣20前後、石釧1、筒形銅器3、銅鏃9、鉄斧1、鉄剣4、鉄刀1、鉄のみ1、鉄やりがんな1、鉄鏃4、土師器2等が見つかりました。これらの出土品は現在では東京国立博物館に所蔵されています。
    【特徴】 後で述べる鏡塚古墳と同じ双方中円墳で、全国的にもほとんど例がない形をしています。石室の数や出土品は弥生時代の伝統を受継いでおり、石清尾山古墳群の中でも最も古いもののひとつです。
  • 鏡塚古墳

    よみがな かがみづかこふん
    時期 古墳時代前期(4世紀前半)
    案内 摺鉢谷をとりかこむ東側の尾根筋の最も高いところにあります。
    石船塚古墳から北へ約30mのゆるやかな坂をのぼっていくと古墳が見えてきます。
    説明 【外形】 双方中円墳。積石塚。全長は約70m、高さは約3.6mです。
    【内部】 かつて6基の石室があったという説もありますが、現在では不明です。
    【出土品】 見つかっていません。
    【特徴】 猫塚と同じ双方中円墳で、まわりの古墳より少し古く築かれたと考えられます。石積みは二段築成です。
    鏡塚古墳測量図
    鏡塚古墳の墳丘測量図です。円丘の両端に方形の墳丘がつく、双方中円墳と呼ばれる形の古墳です。
  • 3世紀(古墳時代早期から前期)築造の古墳がないとみられてきた静岡県東部で、出現期の大型前方後方墳の発見として注目を集めた静岡県沼津市の沼津市の高尾山古墳。
    研究者によって造営時期の見解に隔たりはあるものの、沼津市教育委員会は230年ごろ築造、
    250年ごろ埋葬との調査結果を昨年公表した。「古代スルガの王」を埋葬したとみられ、研究者は「古墳時代最初頭の重要遺跡」と指摘している。

    高尾山古墳は前方後方墳で、本体の大きさ(墳長)は62メートルと古墳出現期としては屈指の規模を持つ。前方部、後方部ともに31メートルで、他の前方後方墳と比べ前方部がよく発達しているのが特徴という

    棺の底と考えられる場所には首から胸の辺りにかけてと、足元辺りに大量の水銀朱がまかれていた。朱は当時極めて貴重で被葬者が社会的、経済的に圧倒的な地位にいたことを示している。

     敷いた朱の上に乗るようにして副葬品の青銅鏡1面、鉄槍(やり)2点、鉄鏃(ぞく)32点、やりがんな1点、石製勾(まが)玉1点、などが見つかった。

     鏡は大きさ13.5センチ、後漢時代の中国製で「上方作系浮彫式獣帯鏡(しょうほうさくけいうきぼりしきじゅうたいきょう)」と呼ばれ、破片がバラバラに散らばった状態で見つかった。意図的に壊された「破砕鏡」と考えられている。
  • April 2016 編集されました
    3世紀前半の前方後方墳
    高尾山古墳 62m 沼津市東熊堂 230年頃の築造 250年頃埋葬

    高尾山古墳の上には、高尾山穂見神社 と 熊野神社 がある。
    熊野神社は、おおもとは出雲でスサノオを祀る神社。 前方後方墳は、東国を開拓した出雲系の首長墓が多い。

    神明塚古墳は、伊勢神明宮の境内にある。 これは アマテラスを祀る神社だ。
  • 長野県の前方後方墳
    勘介山古墳
     この古墳は長さ約35~40mの前方後方墳と推定される。現在のところ、長野県内の古墳の総数が3500基を大きく上回る中で、前方後方墳は20基に満たないことからすると、きわめて特異な存在といえよう。
     しかし、時代を古墳時代前期(3世紀前半ないし中頃~4世紀)に限定してみると全国的には前方後方墳の数が多いし、全長20m以上の古墳にこの墳形が多く採用されていることは、身分の高い人達の墳墓といえよう。それ以下の身分の人達は、弥生古墳以来の低墳丘古墳(墳丘墓名称は相応しくない)や墳丘の無いお墓に葬られていた。勘介山古墳の南端に、この低墳丘古墳らしいものが見受けられる。
  • April 2016 編集されました
    関東地方で確認されている前方後円墳と前方後方墳の数は、相模で13基と3基、武蔵で119基と11基、上総で273基と24基、安房で5基と0基、下総で421基と6基、常陸で376基と17基、上野で363基と33基、下野で224基と22基である。じつに総計1910基という前方後円(方)墳の数。

    早期の前方後円墳の出現は、倭王権との早くからの接触を示すが、群馬・毛野国と房総・上海上国にその典型を見ることが出来る。毛野国の栄枯盛衰は、書紀伝承を加味して思いを馳せる事ができる。房総の神門古墳群、市原・姉ヶ崎の大古墳は、畿内の卑弥呼、崇神朝時代での関東の首長(豪族)の有り様を想像させる。古墳時代終末期の古墳として、群馬の高崎観音塚古墳、房総の金鈴塚古墳の副葬品は煌びやかで、畿内の藤ノ木古墳の豪華な副葬品、慶州・天馬塚の金銀細工の副葬品などとも比べうるものである。

    海上国では3世紀から4世紀に前方後円墳が出現し、馬来田国・須恵国で6世紀末まで大型前方後円墳の造営が続く。畿内政権の海路を利用しての東北進出と関連し、ヤマトタケル伝承にその一端が伺える。

    また、関東地方の大きな特色である前方後円墳の多さは、後期(8期~10期)に異常ともいえるほどに集中して多くの前方後円墳が造営されたことに由来している。しかも、後期には、100m台の墳長を誇る大形前方後円墳が多いのもさることながら、墳長60mに達しない小形前方後円墳が大半を占めるという特色がある。下総や常陸に前方後円(方)墳の数が多いのは、そうした小形前方後円墳が多いためである。したがって、小形前方後円墳を除いて、副葬品の量や質を考慮すれば、前方後円墳の数からは比較できない上野や上総などの優位性が浮かびあがる。(杉山晋作「前方後円墳集成 東北・関東編 山川出版社 1994 より
  • April 2016 編集されました
    千葉県市原市に神門古墳群という、3つの出現期古墳がありました。いずれも3世紀前半から中頃にかけての、日本最古級の前方後円墳でした。この近くには高部30号墳という3世紀中葉のものと見られる古墳もあります。全国の出現期古墳の多くが、近畿や九州などを中心とした西日本にある中で、千葉県に最も古い時代の古墳が集中しているのは、この地域に古来より有力な豪族が住み着いていたことを意味しています。馬来田(まくた)、菊間、上海上(かみつうなかみ)など、総国(ふさのくに)に居を構えた国造につながる、3世紀当時の有力豪族の御陵だったのかもしれません。

     
    前方後方墳
    ところが静岡県のほうで、辻畑古墳という前方後方墳が見つかりました。全長62メートル。出土した壺の年代を測定したところ、西暦230年頃のものであると判明、日本最古級の前方後方墳として注目されることになりました。

     この年代が本当ならば、前方後円墳と前方後方墳は、3世紀序盤の同じ時期にデザインが決定され、全国に広まったことになるってことですかね。

     3世紀前半の前方後方墳といえば、岡山県の都月坂古墳(都月坂1号墳)が3世紀前半のものではないかと言われており、また辻畑古墳同様、東海地方の愛知県に西上免古墳という同時期のものがあります。西上免古墳は高速道路の高架下に埋められており、現在はモニュメントが残されるだけで、地上に盛土を確認することができないようです。
  • 確認されている出現期古墳の中でも特に古いと見られる(3世紀前半)前方後円墳・前方後方墳

    名称     県  全長(凡そ) 形式
    ホケノ山古墳 奈良 80m  前方後円墳(貝型)
    纏向勝山古墳 奈良 110m 前方後円墳(貝型)
    辻畑古墳   静岡 62m  前方後方墳 ・・・
    神郷亀塚古墳 滋賀 36m  前方後円墳
    纒向矢塚古墳 奈良 94m  前方後円墳(貝型)
    纒向石塚古墳 奈良 96m  前方後円墳(貝型)
    神門5号墳  千葉 38m  前方後円墳 ・・・消失後に復原
    神門4号墳  千葉 49m  前方後円墳 ・・・消失
    山戸4号墳  兵庫 35m  前方後円墳
    ヒエ塚古墳 奈良 120m 前方後円墳
    都月坂古墳 岡山 33m  前方後方墳
    西上免古墳 愛知 40m  前方後方墳 ・・・高架下に埋没
  • 吉野ヶ里遺跡では古墳時代初頭頃(紀元後3世紀後半)の前方後方墳が南内郭付近の丘陵上で3基見つかっている。いずれも墳丘は削られ残っていないが、古墳の周囲を巡る溝跡が前方後方墳の形になっている。
  • April 2016 編集されました

    山城地域では、向日丘陵に3世紀後半から4世紀にかけて 100 m 級の前方後方墳(向日市元稲荷古墳)や前方後円墳(向日市五塚原古墳、同妙見山古墳、同寺戸大塚古墳)が次々と築かれます。同じ頃、南山城地域では、全長 180mを測る大型の前方後円墳 である木津川市椿井大塚山古墳が築かれます。この古墳 か ら は、 三 角 縁 神 獣 鏡
    33 面以上を含む計 37 面以 上の銅鏡が出土しました。
  • 相次ぐ前方後方墳の発見
     滋賀県では、ここ2・3年の間に、古い前方後方墳がいくつか発見、調査されている。
    2001年2月2日付の読売新聞朝刊には、「最古級の前方後方墳」「邪馬台国に対抗 狗奴国の関連墓か」という見出しのもと、能登川町神郷亀塚古墳の調査成果が発表されている。周濠を巡らせた全長35.5mの前方後方墳で、高さ4.8mの盛土を持ち、「古墳時代最古の土器」が出土していることから、「西暦230年前後、3世紀前半の築造」という。そして前方後円墳を築いた邪馬台国に対し、狗奴国は前方後方墳を築いたとし、この古墳の被葬者は「狗奴国グループの首長墓」とされている。
     そのちょうど1ヶ月後、今度は琵琶湖の対岸の丘陵上、新旭町熊野本6号墳・12号墳の調査結果が発表された。3月1日付の京都新聞朝刊によると、「最古級3世紀前半の前方後方墳」(6号墳)と「3世紀中ごろの前方後円墳」(12号墳)が見つかったという。
    古墳時代前期に、墳形が前方後方墳から前方後円墳に変化していくことを裏付ける例で、「日本海沿岸との交易ルート拠点」である「邪馬台国時代のクニの一つ」が湖西にあったという。
    これまでも滋賀県内では、平地で20基近くの前方後方形周溝墓が発見されていたが、最近見つかったものはすべて墳丘を持つことから前方後方墳として扱われ、「最古」あるいは「最大」等の言葉が踊ることになった。
  • April 2016 編集されました
    神郷亀塚古墳 (第3次調査現地説明会) 
                   
    『亀塚古墳は、JR能登川駅の東役1,800mの大字長勝寺、神郷地先、式内乎加神社の背後にあります。
    北東には、縄文時代後期の集落跡として著名な正楽遺跡があり、西側に隣接して弥生時代後期から古墳時代、さらに鎌倉時代まで約千年以上にわたって栄える湖東地域の中心集落斗西(とのにし)集落、中沢遺跡があります。
    これに法堂寺(ほうどうじ)遺跡を加えた集落跡全体の面積は約30haを優に越え、これまでの発掘調査でたくさんの住居跡・祭祀場跡・土器・木器・青銅鏡や玉類などの祭祀具がみつかっています。
    出土物からも、このあたりに湖東地方を広く治めた小国の王が居住していたことが、推定されてます。

    今回の調査では埋葬施設および盛り土から弥生時代末の土器が複数見つかっており、古墳の築造開始が2世紀末に始まった可能性があります。周濠から見つかった土器は庄内式古段階と判断でき、古墳の完成した時期を新しく見て3世紀初頭におくこと

    土器破砕祭祀
    古墳の盛り土と二つの墓穴からは、きわめて小さく砕かれた土器の破片が数百点出土しています。
    被葬者や家族が生前使っていた土器を古墳に埋める祭りで使われたとみられる。こうした風習は、丹後(京都府北部)など北近畿地方に多い風習
    乎加神社(おかじんじゃ)
    乎加神社は延喜式(えんぎしき)にも記されている由緒のある滋賀県神崎郡でもっとも古い記録の残る神社です。本殿は明治22年の伊勢神宮遷宮時に譲り受けたもので、同25年に移築されたと伝えられる由緒あるものです。
    伊勢神宮の譲り受けはこの時が最後だそうです。棟には堅魚木(かつおぎ)7本がのせられ、建物側面には直接棟木(むなぎ)を支える独立棟持柱(むなもちばしら)をもつ伊勢神宮そのものです。
    乎加神社は、神郷・長勝寺・佐生・佐野鍛冶屋(かじや)村を氏子とし、古代「神主郷(かむぬすのごう)」と呼ばれた郷村の中心となる信仰地です。神崎郡の古代名は「神前郡(かんざきぐん)」で、郡名のルーツもこの神社にあったとみてよいでしょう。




  • 熊本県を中心に南九州に分布する独特な形態の免田式土器は、県内でも鳥栖市、吉野ヶ里町、佐賀 市、武雄市などで出土しているし、吉野ヶ里遺跡でも破片が出土した。吉野ヶ里町二塚山遺跡の甕棺 墓地に伴う祭祀土坑からは、弥生時代後期初頭の丹塗りの壺形土器や高坏形土器などの祭祀土器に交 じって完全な形の免田式長頸壺が出土したが、前漢代の連弧文絜精白鏡を副葬した中期後半の甕棺墓 や 3,573 個のガラス小玉が出土した後期の土坑墓を含む墓群への祭祀の際に供献されたものと考えら れ、両地方に良好な関係が保たれた時期があったことを示している。しかし、その後は破片が断片的 に出土するに過ぎない。
    倭人伝によると、王の存在を記す国は狗奴国と、「世々王有り」と記された当時の外交の窓口であっ た伊都国のみである。倭国の重要拠点であった伊都国についての詳細は不明であるが、狗奴国につい ては、倭女王卑弥呼と4人の長官・次官がいる邪馬台国の組織構造と類似し、熊本地方の、律令期の 1~2 郡の範囲と考えられる複数のクニの連合体であった可能性もある。
    弥生時代後期終末期以降の東海系土器や東海起源の前方後方墳の東西への拡散は、興味をそそられ るが、佐賀地方でも弥生時代終末期以降の東海系土器が出土し、吉野ヶ里遺跡では弥生時代の環壕集 落の終焉とともに前方後方墳4基が丘の頂に相次いで築造される。日常品や祭祀具である土器や、独 特な形の墳墓は地域性や社会性を帯びて存在しているが、地方間の交流・交易は、特に弥生時代終末 期以降に活発化した。それまでの他の文化要素の伝播や波及が示すように、モノの移動を単に政治的 側面からのみ語ることはできない。
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