初めてですか? 参加するには、どちらかのボタンをクリックしてください!
<日本書紀 垂仁天皇二五年三月条> (垂仁天皇二五年)三月丁亥朔丙申。離天照大神於豊耜入姫命。託于倭姫命。 爰…
Read the full story here
コメント
麻績王には、聖武天皇の別名であるとか、上記の歌から柿本人麻呂であるとか、橘諸兄の父の美努王であるとか、時代は50年程幅があるが、諸説ある。 聖武天皇は、紀州の海女だという伝承を持つ、藤原宮子の子。海人系か。
万葉集巻一、麻績王、伊勢の国の伊良虞の島に流さゆる時に、人の哀傷しびて作る歌、
打麻を 麻績王 白水郎(海人)なれや 伊良虞の島の 珠藻刈ります... 読み人知らず
答歌
うつせみの 命を惜しみ浪にぬれ 伊良虞の島の玉藻刈り食む....... 麻績王
天武四年四十八日、三位麻続王に罪があって因幡に流された。一子を伊豆島に、一子を血鹿(値嘉)島(長崎の五島列島)に流した。...日本書紀
「万葉集」では、流罪地は伊良湖岬。「風土記」は潮来(霞ヶ浦)。
善光寺別当初代の若麻績部君東人(いわゆる誉田善光)は水内郡誉田里の住人と伝えるが、東人からの略系は伝わっている(『善光寺史研究』に所載の「善光寺本願系図」)。この別当家は九世紀頃に毛野同族の丈部氏に男系が変わり、十二世紀中葉には清和源氏の崇徳院判官代村上為国の子息を婿に迎えて栗田氏を称し、善光寺と戸隠の両別当を世襲した。
若麻績部君氏の先祖がどのように上毛野氏族の系譜の中で位置づけるのかは不明。諏訪氏や科野国造一族との関係も不明である。
ただ、上毛野君氏の実系は、崇神天皇の後裔という皇別ではなく、海神族系の三輪氏族からの分岐であるから、諏訪氏族に通じるものがあり、『善光寺縁起』によると、大和三輪出身の三輪時丸が善光寺に参詣して、そのままこの地に止まったということで、当地を三輪と称したとも伝える事情にもある。
朝な夕なに
潜(かづ)くといふ
鮑(あはび)の貝の
片思(かたもひ)にして
(万葉集 作者不詳)
伊勢の海人は、安曇系ないしはその傍系とされる住吉系の漁撈民である。住吉系とは、海の神である住吉大神を奉じた瀬戸内を中心とする海人たちである。安曇系とともに住吉や吉野と九州や四国との連絡網をもった。
崇神帝に出仕。物部ノ大水口、倭迹迹日百襲媛と同じ夢を見、大物主神・倭大国魂神の祭主を大田田根子、市磯長尾市に任ずるように奏上した。
天武期に麻績王という人物が因幡国に流罪にされたという。子孫か、所縁あって名乗るか。
そして、博多湾岸の海人、安曇氏族の祖神、磯武良(いそたけら)が、五十猛神(いそたける)と音を同じくして同神とする説がある。
安曇海人は「越」の中枢、能登を中心に氏族名や、本拠の志賀島由来の地名を残して、その移動の記憶をみせる。能登の羽咋郡、志賀の安津見(あづみ)や赤住をはじめ、鹿島、志加浦、鹿磯、鹿波。そして佐渡の鹿伏や、越より内陸に遡った信濃の安曇野や麻績。
また、越後国一宮の「弥彦神(やひこ)」は天香具山命ともされるが、前述の佐渡の「度津神社」が弥彦神社の元社ともされ、弥彦神(やひこ)は「度津神(五十猛神)」と同神ともされる。弥彦神(やひこ)の音は、五十猛神の別名「大屋毘古神(おおやひこ)」と重なる。大幡主神は安曇海人が足跡を残した「越」において、博多湾岸の海神、綿津見神や筑紫神、五十猛神と重なっている。
江南の海人にとって三台星は大切な星。夜、渡海する船は北極星を目印にして、三台星がそれを示します。ゆえに、北を示す三台星は航海神となりました。
そして、天台山の三台星信仰を持った江南の海人は、北方の漢人に追われて南西諸島や列島に渡っています。
綿津見三神は住吉神と共に生まれた神。北部九州の海人、安曇氏の祖神とされます。摂津国一宮、住吉大社の奉祭氏族、津守氏の氏神が大海(おおわたつみ)神社。綿津見神と住吉神との関係を暗示します。
綿津見の「ワタ」は、古代朝鮮語の海「パタ」であるといわれます。綿津見三神は半島との拘わりの中で、住吉海人の信仰から生まれています。
『旧事』天八坂彦命、伊勢麻績連等の先祖。
信濃史料巻十一に、
天文二年(1533) 諏訪社上社大祝諏訪頼忠、信濃国一宮諏訪本社上宮御鎮座秘伝記を書す、とあるが、その『上宮御鎮座秘伝記』でも建御名方命については「追到科野国之州羽海」の一節を中心に古事記をそのまま引用するのみであった。
後段で「古記に信濃国は建御名方神の住之地云々」とあり、その「信濃」は科の木を産する地ゆえの「科野」である、と続く。
上宮御鎮座秘伝記では、八坂刀賣命について「天孫降臨供奉三十二神之中、八坂彦命之後流也」と記している。
この「天孫降臨供奉三十二神」とは『先代旧事本紀』に登場する「邇芸速日命と三十二人の防衛(ふさぎもり)」のことである。
これは、なかなか興味深い話だ。
『先代旧辞本紀』ではこの八坂彦命を「伊勢神麻績連(いせのかむおみのむらじ)らの祖」としているが、その名前から連想される通り、神麻績連は忌部氏・天日鷲命の後裔なのである。
天日鷲命の後裔氏族に粟・安房の忌部、神麻績連、倭文連、長幡部、神宮部造などがあげられます。とくに安房の忌部の子孫となる洲宮神社祠官小野家所蔵の「斎部宿祢本系帳」(筑波大図書館所蔵、鈴木真年写本)には、天日鷲翔矢命の子の天羽雷雄命(一云武羽槌命)の子孫として委文宿祢・美努宿祢・大椋置始連・鳥取部連の祖と記載されます。ここであげられる四氏のうち、美努宿祢・鳥取部連 は『姓氏録』には美努連・鳥取連としてあげられ、ともに「角凝魂命の三(一説に四)世孫の天湯川田奈命(天湯河桁命)の後」として記されます。また、同書には、右京神別に神麻績連、鳥取連、三島宿祢、天語連が一連の記載をされており、記載内容は現存版が抄本のためあまり共通なものとはなっていませんが、これら諸氏が同族の系譜を伝えていたことが推されます。
本宮倭文神社 ほんぐうしずりじんじゃ
山梨県韮崎市穂坂町柳平3195
五七桐 武田菱
式内社 甲斐國巨麻郡 倭文神社
御祭神 天棚機姫命 天羽槌雄命
合祀 天照大神 豊受大神 伊弉册命 菅原道眞
山梨県韮崎市にある。JR韮崎駅から27号線を北東へ7Kmほど
27号線から東へ入ると川の向こうに鳥居が見える。
『山梨県神社誌』にも本宮倭文神社と記されているが、
『平成祭データ』には貴船神社の名で載っている。
この地が元は貴船神社の社地であったことの名残りだろうか。ただし『山梨県神社誌』にも本宮倭文神社の読みは記されていないので、
仮に「ほんぐうしずりじんじゃ」としておく。ひょっとすると「もとみやしずりじんじゃ」なのかもしれない。
当社は、南西2Kmほどの宮久保鎮座の倭文神社の山宮である
七夕社(天棚機姫命、天羽槌雄命)と、
上村組にあった神明社(天照大神、豊受大神)、窪村組の貴船社(伊弉册命)、
武田時代の烽火台といわれる城山の天神社(菅原道眞)を、貴船社の社地に合併して、
昭和三十四年、許可を得て本宮倭文神社と改称した神社。
社名や祭神を見ると、倭文神社の山宮・七夕社が中心となっている神社だとわかるが、
この倭文神社に関して『大日本史』には、
「今在二宮久保村一稱二降宮明神一、舊址在二柳平村一、曰二山宮又織女祠一。按降・織訓同」とあり、この山宮・七夕社が倭文神社の元社であり、
柳平から宮久保へ遷座したため、降宮と呼ばれるようになったとある。
倭文神社
祭神・天羽槌雄命・天棚機姫命
鎮座地・穂坂町大字宮久保字降宮六〇五一
由緒・ 甲斐国所在の延喜式内二〇社の一 甲斐国志には倭文神社降宮明神とある。 穂坂総社といい、郷中で最も格式高い神社 であった、倭文はしずおりで、麻などの繊維を 赤・青などに染めて横糸として織った古代織 物である。穂坂御牧が栄えたころ、御牧の役 人の妻や娘などが中心となって織った精巧 な織物でこれらの女性たちが技芸の上達 を祈るために天羽槌雄命・天棚機姫命を 祀ったのが、この神社の起りである。降宮は おりみやで、織宮を意味する、江戸時代に 幕府は一二石五斗の社領を寄進した。
-参考として倭文神社境内案内板より-
和妙(にぎたえ、絹布)と荒妙(あらたえ、麻布)の御衣(おんぞ)を調進する
神麻續機殿神社
櫛田川東側堤の上を北に進み、堤から東 へ道を下がると松阪市井口中町に出る。北方にこんもりと した森と、入口の鳥居が見える。(近鉄線「漕代」駅下車、 徒歩で北方へ二・五キロメートル)
この森中に、皇大神宮所管社神麻續機殿神社と同神社末社八所がご鎮座になっている。 同域内に萱葺で、千木、鰹木のある八尋殿があり、この殿内で荒妙(あらたえ、麻布)が奉織される。 五月と十月の十四日、皇大神宮及び荒祭宮で行われる神御衣祭(かんみそさい)に、こ の八尋殿で奉織された荒妙と、神服織機殿神社の八尋殿で奉織された和妙(にぎたえ、絹布)がたて まつられる。神宮神職が五月と十月の一日から十三日 まで両神社に各一人参向し、地元の青年が古い伝統の ままに奉織を奉仕している。神麻續機殿神社は、御機 殿(八尋殿)の鎮守の神をおまつりしているが、古く 麻続(おみ)氏がおまつりしていた社である。
神服織機殿神社
神麻續機殿神社の森から、さらに北 方へ二キロメートル進むと、松阪市大垣内町の田の中 に、同じような森が見える。森の中に皇大神宮所管社 神服織機殿神社及び同神社末社八所がご鎮座になって いる。御機殿の鎮守の神をおまつりしているが、古く は服部氏がおまつりしていたものである。ここの八尋 殿で、和妙(絹布)が同様に奉織される。
-『お伊勢まいり』-
“八坂刀売神”の夫は、“建御名方神
国史にも見えるタケミナカタの霊廟としては、諏訪大社(長野県諏訪市ほか、信濃国一宮)が知られる。同社は国史や『延喜式』神名帳等において「建御名方富命神」・「南方刀美神」等で表記され、神階は順次昇叙されて貞観9年(867年)には従一位勲八等に達している
国史では同様に「建御名方富命前八坂刀売命神」として妃神の記載も見え、現在ではタケミナカタは諏訪大社上社の主祭神に、八坂刀売命は諏訪大社下社の主祭神に祀られている
『日本書紀』には、675年5月17日(天武天皇4年夏4月18日)の条に天武天皇によって「三位麻続王に罪あり、因幡に流した」とあり、この他に『日本書紀』には、麻績王の子の1人を伊豆諸島の伊豆大島に流罪にし、もう1人を血鹿嶋(長崎県五島列島)に流罪にしたとある。
『万葉集』には、伊勢国の伊良虜の島に流された麻績王の事を悲しんだ人が
打麻を 麻績王 白水郎(海人)なれや 伊良虞の島の 珠藻刈ります
と歌ったのに対し、麻績王が答歌として
うつせみの 命を惜しみ浪にぬれ 伊良虞の島の玉藻刈り食む
と詠んだというの和歌が伝えられている。
なお、鳥取県鳥取市国府町岡益にある梶山古墳は麻績王の古墳であるともいわれてる。
麻績王の皇女が、忌部子人の子弟に降嫁しており、忌部子人のとりなしによって、遠流にならずに伊勢神宮のある伊勢国流罪に決まったとする説もある。
太玉神に諸々の部神(トモノカミ)を率いて和幣(ニギテ)を作らせ、
石凝姥神(イシコリドメノカミ)
[天糠戸命(アメノヌカドノミコト)の子で鏡作の遠祖である。]
に天香山(アメノカグヤマ)の銅を取り日像(ヒカタ)の鏡を鋳造させ、
長白羽神(ナガシロハノカミ)[伊勢の国の麻績(オミ)の先祖で
今の世で衣服の事を白羽と言うのは この事が始まりである。]
に麻で青和幣(アオニギテ)[古くは爾伎弖]を作らせ、
天日鷲神に津咋見神(ツクイミノカミ)を使わせて穀木を植ささせて
白和幣(シロニギテ)を作らせ [是は木綿である。神の作物は一夜で茂る。]、
天羽槌雄神(アメノハツチヲノカミ)[倭文の遠祖である。]に文布を 織らせ、
天棚機姫神(アメノタナバタヒメノカミ)に神衣を織らせる。 所謂、和衣(ニギタエ)である。
邇芸速日命に従って天降った三十二人の防衛の一人。
伊勢神麻續連等の祖。
長白羽命の別名とする説もある。
忌部氏の祖神とされる、天日鷲命(あまのひわしのみこと)の孫、天八坂彦命の娘に「八坂刀売命」がみられます。
建御名方神のお妃として、天八坂彦命の娘の八坂刀売命がいる。
伊勢の神麻績(かむおみ)の連(むらじ)たちの先祖
荒妙(あたらえ、麻布)を織る人々の守護神が、神麻績機殿神社で、祖先神が天八坂彦命です。
上機殿(かみはたでん)、上館(かみだち)さんと呼ばれています。
絹織物より、麻織物を「上」として尊ぶ思考がうかがわれます。
和妙(にぎたえ、絹織物)を織る人々の守護神が、神服機織神社で、祖先神は天八千々媛命(あめのやちじひめ)です。
下機殿(しもはたでん)、下館(しもだち)さんと呼んでいます。
新潟県上越市の牧資料館では「苧績(おうみ)糸」が展示されていました。
八坂刀売命のもとに、建御名方神は通われます。
諏訪大社には、上社前宮・上社本宮・下社春宮・下社秋宮の4社の総称として知られますが、他にも摂社末社があり、分社は2万5千社あります。
中でも八剣神社は「御神渡(おみわた)り神事」で有名です。
八剣神社は八千矛命(やちほこのみこと、大国主命)・日本武尊(やまとたけるのみこと)・誉田別命(ほんだわけのみこと、応神天皇)をお祭りします。
氷の厚さが10センチほどになった日の明け方に、突然に大音響とともに、湖面の南北(年により違いあり)に亀裂が入り、裂け目が盛り上がって氷脈となります。
氷の高さは50センチから1メートルにおよび、湖岸の数キロに渡って、蛇のようにうねって氷の道が現れます。
この現象は、人々に「諏訪の神さまの神威」と受け取られてきました。
上社の建御名方神(たけみなかたのかみ)が、下社の八坂刀売命(やさかとめのみこと)のもとへ通われた道筋である。
御神渡り現象の氷脈の方向などによって、世相の吉凶、作物の豊凶などの占いをします。