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なぜか? 出雲では、あまり見当たりません。 『古事記』では阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子…
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倭文神社(湯梨浜町)
倭文氏の祖神 建葉槌命(たけはづちのみこと)を祀っている。
建葉槌命は、天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)とも云い、機織りの祖神とされており、倭文(しどり)氏の祖神である。
建葉槌命は、日本書紀では、葦原中津国平定に従わない星神・香香背男(かかせお)を服させる神として登場してくる神
だ。
その神とともに、大国主命の息女、下照姫が祀られている。
出雲より着船し(羽合町宇野と柏村宇谷の中間の仮屋崎に着き化粧直しに使った水が伝えられているようだ。)倭文神社の社地に住居を定め、亡くなるまで安産の指導や農業開発、医薬の普及にも尽くされたという。
なぜここが下照姫の終焉の地なのだろう。
斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)によれば、下照姫は大国主命と多紀理毘売命の娘ではなくて、因幡の
白兎の八上姫との娘である。妻問婚の時代(→ウィキペディア 妻問婚)一般的にこどもは母方の一族で育てられるゆえ母方の一族が住む因幡の国のすぐ隣のここが、富家伝承の方が理にはかなっておるように思う。
しかし、「木俣神」として、斐川町の御井神社に取り残され、大国主命の一族に育てられたのかもわからないが・・・。
ちなみに富家伝承では、阿陀加夜奴志多岐喜比賣命は下照姫ではなく、多岐津姫であり、出雲風土記における阿陀加夜奴志多吉比賣命は所造天下大神(大国主命)の「御子」とは間違いで「御妃」であるようだ。
「出雲国風土記~意宇郡」・・・阿遅須$枳高日子命、葛城の賀茂の社に坐す。此の神の神戸である。故に鴨という。神亀3(726)年、字を賀茂と改める。即ち正倉が有る。
本殿の主祭神は阿治須岐高日子根命(あじすきたかひこねのみこと=アヂスキタカヒコネ)。
事代主命(ことしろぬしのみこと=コトシロヌシ)、阿治須岐速雄命(あじすきはやおのみこと、主祭神の御子神か。大阪に阿遅速雄神社がある)、下照姫命(したてるひめのみこと=シタテル)、天稚彦命(あめわかひこのみこと=アメノワカヒコ)を配祀する。
阿治須岐高日子根命はまたの名を迦毛之大御神(かものおおみかみ)。正式に「大御神」と呼ばれるのは、日本の八百万の神々でもアヂスキタカヒコネを入れて、他に二柱しかなく、天照大御神(アマテラス)と伊邪那岐大御神(イザナギ)。
この特別な神名を持つ迦毛之大御神が、京都の賀茂神社に流れていったと理解すれば、賀茂神社に対する古代から今現在に至るまでの時の朝廷・政府の崇敬の高さが理解できるかもしれない。
もともとはアヂスキタカヒコネとシタテルの二柱を祀っていたという。その後、神話の影響を受けつつ、祭神が増えていったと言われている。ただし、アヂスキタカヒコネに関しては、間違いなく当社が本源であり、元宮だと思われる。
高知の土佐神社との関わりは指摘されることが少ない。
また、同じ市内の葛城一言主神社とも何らかの関連があるか。
本殿の他、東宮(東神社)と西宮(二市神社)という摂社格があり、東宮には天照大御神(アマテラス)、天兒屋根命(アメノコヤネ、春日神)、住吉大神(住吉三神)が、西宮には主祭神の母である多紀理毘売命(タキリビメ)、塩冶彦命(えんやひこのみこと)、瀧津彦命(たきつひこのみこと)。塩冶彦命、瀧津彦命は『出雲国風土記』に見える主祭神の御子神
『延喜式』神名帳の伊予国越智郡に、名神大社「多伎神社」があります。
祭神は、多伎都比売命、多伎都比古命、須佐之男命です。
「瀧神社」「滝の宮」とも呼ばれます。
『三代実録』には、伊予国の滝神に四度神階が授けられたことが見えます。貞観二年閏十月十七日に従五位上から従四位下、同八年に従四位上、同九年に正四位下、同十二年には正四位上に昇叙しました。
伊予国では、大三島神や伊曽乃神に次ぐ高い地位にあったことがわかります。
参道の案内板によると、当社の創祀は、往古奥の院の磐座の信仰に始まり、崇神朝に饒速日命六代の孫・伊香武雄命が瀧の宮の社号を奉り、初代の斎宮となったとしています。
(奈良県御所市鴨神) 阿遅鋤$高日子根
多紀理姫 母
阿治須岐速雄 子
事代主 弟
下光姫 妹 ( 高姫)
天稚彦 = その夫
神社側では、宗像大社の神紋は楢、諏訪大社の神紋は梶としている。その神紋を観察すると、
宗像大社の神紋は楢の木が、あたかも二本の根を伸ばしてそびえ立っているようだ。
諏訪大社の神紋は梶の木が、あたかも二本の根を伸ばしてそびえ立っているようだ。。
筑紫の宗像神社と信濃の諏訪神社の神紋はよく似ている。また、出雲の多久神社(島根県平田市大船山山麓)の神紋は「梶の葉」である。祭神は、多伎都比古と天御梶姫。
「出雲国風土記~楯縫郡」、神名樋山。郡家の東北六里一百六十歩。・・・嵬の西に石神が在る。高さ一丈、周り一丈。往の側に小石神が百余許在る。古老が伝えて云うには、阿遅須$枳高日子命の后、天御梶日女命、多宮村に来坐して、多伎都比古命を産み給う。
阿遅須$枳高日子は大己貴と多紀理姫の子。
愛知県一宮市あずら1-7-19
祭神:天甕津媛命(あめのみかつひめのみこと)
阿豆良神社の社伝に、垂仁天皇の皇子品津別は七歳になっても言葉が話せなかった。皇后の夢の中に天甕津媛命が現れ、「今まで私を誰も祀ってくれない。祠を立て神に祭るなら、皇子は言葉を話せるようになり、天寿を全うするだろう。」と伝えた。垂仁天皇は、建岡君に天甕津媛命を探し出すように命じた。建岡君は美濃国の花鹿山(花長上神社の御神体)に登り、榊の枝で髪飾りの縵(あずら)を作って神に祈り、「此の縵の落ちた所が神を祭る所であろう」と言うと、縵を遠く投げたという。この縵が落ちた地に阿豆良神社が建てられた、とある。
それとは別に、「阿遅須枳高日子根の后、天御梶日女(あめのみかつひめ)命が、多具の村においでになって、多伎都比古の命をお産みになった」とある。
天甕津日女命と天御梶日女命は同じであるため、赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命とは阿遅須枳高日子命のことであるとされている。
伊予国 周布郡 高鴨神社「味高比古根命,愛媛県周桑郡小松町南川
当御鎮座の地は、大神が、当国御経営の際、久しく駐り給うた御遺跡でありまして住民等は大神を敬慕するの余り、 大宮の跡に斎場を設けて、只管、大神をお祀り申し上げて居たのであります。即ち、当神社は、遠く神代の昔から、現 在地に鎮座されて居る当国有数の古社であります。そこで雄略天皇の御代、大和国高鴨神社の氏人鴨氏の一族が此の 地に移住し、更にその氏神の御分霊を奉斎し、高鴨神社と称し奉りました。
阿遅速雄神社 大阪市鶴見区放出東3丁目
鴨の阿遅鋤高日子根神は当地に降臨されて土地を拓き、民に農耕の業を授けたという。 民人は、その御神徳を尊び摂津河内の国造神として、この地の守護神として斎きまつると云い伝へられる
賀茂氏を系図上で遡って行くとその共通の始祖は賀茂建角身命である。この人物が味耜高彦根命であるとすれば、味耜高彦根命が加毛大御神との尊称を持つことが理解できる。
大阪市鶴見区放出3丁目
祭神--阿遅鉏高日子根神(迦毛大神)・草薙御剣御神霊(八剣大神)
アヂスキタカヒコネの鎮座由緒
神社由緒によれば、
「アヂスキタカヒコネは、当地へ降臨して土地を拓き耕耘の業を授け、父・オオクニヌシの神業を助けられた。郷民は、その神徳を慕って、摂津・河内の国造神(クニツクリのカミ)として、神が坐した此の地の守護神として齋き祀ったと伝える。・・・
この宮を阿遅速雄神社と称すめが、古くは阿遅経宮(アジフのミヤ)または浦明神と称され、のち八剣大明神(ヤツルギ ダイミョウジン)と尊称した」(大意)
とある。土地を拓き云々とは、父神・オオクニヌシの国土造営神という神格をひきついだものであろう。
別伝によれば、当社付近は、高鴨神社から発した葛城川が大和川と合流して旧河内潟湖に注ぐ合流点で、そこに港を開いたアヂハヤオ一族が、川辺の高台に祖神(父)を祀ったのが当社のはじまりともいう。
記紀の中に、アヂハヤオの父神とされるアヂスキタカヒコネを直に祖神とする後裔氏族の名はみあたらない。ただ新撰姓氏禄には、アヂスキタカヒコネの父・オオクニヌシの後裔氏族として
『賀茂朝臣(カモアソン)--大和国神別(地祇) 大神朝臣同祖 大国主神之後也
大田田祢古孫大賀茂都美命(一名大賀茂足尼)奉斎賀茂神社也』
があり、古事記では
「オオタタネコ(オオモノヌシ=オオクニヌシの曾孫-日本書紀では子)は、神君(ミワノキミ=大神氏)・鴨君(カモノキミ)の祖先」
とする。
この系統は大和の葛城を根拠地とすることから“葛城賀茂”と呼ばれる。
一方、同じカモを名乗る氏族に
『賀茂県主(カモアガタヌシ)--山城国神別(地祇) 神魂命孫武津之身命之後也』
がある。
出雲国造神賀詞には、大穴持命(オオナムチ)が
「(皇孫の近き守神として))吾が御子アヂスキタカヒコネの御魂を、葛城の鴨の神奈備に坐せ(祀れ)と告げた」
とあり、大和・葛城(葛下郡=現奈良県御所市付近)の『高鴨神社』(式内社)に主祭神として祀られている。
今、御所市には、アヂスキタカヒコネの兄弟神であるコトシロヌシを祀る神社(鴨都波神社)もあり、いずれも神詞にからんで出雲から葛城へやってきた神だが、元々から葛城地方で崇敬されていた神々ともいう。
阿陀加夜努志多伎吉比賣命=多岐津姫(宗像)だった
ものが、因幡から伯耆以東に基盤を持っていた下照姫に祭神がすり替わって、
阿陀加夜努志多伎吉比賣命=大国主命の御子(下照姫)になってしまったのではないか。
新撰姓氏録(815)によると
「大和国神別(天神) 委文宿祢 出自神魂命之後大味宿祢也」
「摂津国神別 (天神) 委文連 角凝魂命男伊佐布魂命之後也」
という記述も見られる。委文も倭文も同じ意味らしい。
倭文氏は、カミムスビ系の氏族のようである。同じカミムスビ系の氏族として、県犬養連・瓜工連・多米連・間人連・紀直・額田部連等が見られる。タカムスビ系とどう違うのか?
この新撰姓氏録と符合しているように洲宮神社祠官小野家所蔵の「斎部宿祢本系帳」には、
神魂命─角凝魂命─伊佐布魂命─天底立命─天背男命─天日鷲命という
ような系譜となっている。
下照姫とされる(神社や風土記にその記載はないが)阿陀加夜努志多伎吉比賣命を祀っている
多伎神社のある神門郡多伎郷であるが、40名記載のうち倭文部臣族二戸、倭文部一戸の名が
見える。
倭文部の名が見えるのは、神門郡滑狭郷の二戸と、多伎郷にしか見えない。
それと、多伎郷には、伊福部十戸もある。伊福部も神門郡滑狭郷二戸、出雲郡漆沼郷一戸以外
には他の郷には見られない。伊福部は、鳥取県東部―因幡の国に勢力を持っていた豪族である。
高野山は、本宮山と改称し、現在にいたる。通称、高野宮も、高野山に鎮座していたことによる。また、祭神・下照姫命の別名、高姫命の宮という意味でもある。高宮、足高大明神、足鷹大明神とも。
式内・内神社とされている理由は、当地が、内野、あるいは、阿内谷という地名であったから。祭神・和加布都努志命は、大己貴命の御子で、出雲各地を巡行し、当地では猪狩りをしたという。
古来、別格扱いのお宮で、杵築や佐陀の支配を受けず、江戸時代には、国内の四祈願所(杵築、日御碕、佐陀、当社)の一つであった
宍道湖北岸にある古墳公園。46mの前方後方墳、古曽志大谷1号墳の実大模型をメインに、県内最大級の円墳を含む大塚古墳群、宍道湖周辺の歴史がわかる野外博物館などがある。また地球46億年の歴史を1本の橋にあらわした施設や、野外ステ-ジがあり、いろいろな催しが行われる。ちょっとした遊びのスペ-スもあり、家族づれで楽しめる。駐車場完備。9時から5時。入場無料。<交通>一畑電鉄朝日が丘駅下車、徒歩10分
5世紀末に築造されたときの姿で復元された古墳は、前も後ろも四角い形の「前方後方墳」。この形は出雲地方に多いものだとか。広大な丘陵地にそびえ立っている古墳の頂上部に上ってみると、北には、『出雲国風土記』に「神名火山(かんなびやま)」と記され、神が宿る山としてあがめられてきた「朝日山」、南には満々と水をたたえる「宍道湖」という、360度の大パノラマが広がっています。古代人たちも、この素晴らしい眺望や威厳に満ちた姿の古墳を見ていたに違いないと思うと、壮大な古代ロマンを感じずにはいられません。
古墳内部からは、刀やヤジリ、オノなどの鉄器や須恵器等が発見されました。その一部はレプリカにされ、公園内に展示されています。頂上の前方部には石で造った棺が復元されており、後方部に葬られた王とつながりの深い人物がこの棺に眠っていたのではないかと考えられています。
公園内の古墳はこれだけではありません。1号、2号、3号と方墳が連続して3つ並んでいる「姥ヶ谷古墳群」は、5世紀頃に築造されたもの。この地域の首長に次ぐ力を持っていた人たちの墓と推測されています。現在は、盛り土の崩れを防ぐため表面を芝で覆っていますが、当時は土がむき出しだったようです。そのほか、7世紀半に築造された長さ8.8m、幅7mの「古曽志大谷4号墳」や平安時代に土器を焼くために作られた登り窯「古曽志平廻田3号窯」の復元、「古曽志寺廻田西古墳群」「古曽志大塚古墳群」「丹花庵古墳」などがあり、大小の古墳がひしめく場所となっています。
名残りだと思われます。(参考 斎木雲州『出雲と大和のあけぼの』大元出版 34頁)
そこらあたりの郷は、奈良時代 出雲郡伊努郷(いぬごう)と云い、神門臣家の「赤衾伊努意保須美比古佐倭氣命」(あかぶすまいぬおおすみひこさわけのみこと)を祀る伊努神社があります。国引き神話の八束水臣津野命の子神であります。
少し東に、神門臣家の大国主命の子神のアジスキタカヒコノミコトを祀った都我利神社があります。(アマノワカヒコに間違われ怒り、喪屋を剣で切りましたが、その剣を我利と云い、神社の名前となったそうです。)
都我利神社 出雲市東林木町672 mapfan
祭神 味耜高彦根命
配祀 伊耶那岐命 伊耶那美命 速玉男命 事解男命 倉稻魂命 迦遇突命 菅原道眞
摂社 稲荷神社「宇賀魂神」 武頭天神社「素戔嗚尊」
盾縫郡の延喜式神名帳に記載され、また出雲風土記にも載る古社。神祇官にある神社として、伊努の社 同じ社 とあり、これは都我利神社のこととされる
『雲陽記』に曰く。「八王子味耜高彦根神をまつる。西の方に的場あり。此所にて百手の的あり。ヒキメの神事を行うと言い伝えたれども、慶長の頃(1596~)よりその事はたえて今はなし。
当社の縁起なりと云い伝るを見るに、白雉三年(652)、此の社に勧請したり。八王子と称するは五男三女なり。或る書には都我利神社とあり。その神二坐味耜高彦根神と、彦根の神の持玉える剣を合祭ると云えり。 剣は天稚彦の喪屋を斬り飛ばした剣で、我里または神戸の剣と云えり。天書に都我利という故に社の号となすなり。此の神神威有故に、大己貴命霊剣を援たもうといえり。郡郷山河原野に至るまで悉く平治し、春の耕し、夏の耘り(くさぎり)を教えたまう、故に味耜高彦根の神とは申すなり。伝にこの神は大己貴命の第八の御子なるが故に、八王子大明神と申奉るなり。
しかし、祭神は都我利神社が阿遅須枳ですが、伊努神社は赤衾伊努意保須美比古佐倭気です。この神名の赤衾は枕詞(栲衾は新羅の枕詞)、意保須美比古(おおすみ彦)が名前で、佐倭気(さわけ)は不明です。
去来紗別(いざ・さわけ)は越前一ノ宮気比神宮の祭神です。
同じ出雲市西材木町の伊佐波(いさわ)神社(都我利神社に合祀)の祭神は阿遅須枳です。
伊勢神宮別宮の伊雑宮(志摩市磯部町)祭神は伊佐波登美です(イサワは阿遅須枳が居た三沢郷に由来か)
阿遅須枳は阿遅志貴とも言いますが、志貴=ヤマトの磯城郡(桜井市)に登美(外山(とび) 三輪山南麓)の地名があります。
枳佐加(きさか)姫は佐太大神の母親です。
赤衾伊努意保須美比古佐倭気の父は意美豆努(おミツぬ)命ですが(「ぬ」は~の)、阿遅須枳は仁多郡三津(三沢)郷で「御津(みつ)」と言っています(出雲風土記)
伊努((いぬ)神社の西5㎞の地に立つ阿須伎(あすき)神社も阿遅須枳(あぢすき)を祀りますが、この出雲大社周辺には阿須伎(あすき)阿受枳(あずき)阿受支(あずき)神社が39社、伊努(いぬ)伊農(いぬ)神社が11社もありました(出雲風土記)
1.国引神八束水臣津野命
2.赤衾伊努大住日子佐別命(妻:水戸神女天甕津日売命)
3.伊佐我命(又、櫛八玉命 出雲国出雲郡伊佐我神社是也、出雲健子と兄弟)
注、伊佐我命の櫛八玉と出雲建子命の櫛玉というほぼ同じ名称から、同一神である可能性も指摘される。出雲建子という名は前後の系譜から浮いた名称でありその可能性は高いと思われる。
4.都我利命(又、津狡命出雲国出雲郡都我利社是也)
同じ出雲市西材木町の伊佐波(いさわ)神社(都我利神社に合祀)の祭神は阿遅須枳です。
伊佐我神社の伊佐我の我を「わ」と発音する可能性があるが、近隣の出雲国出雲郡
伊努郷に、伊佐波(いさわ)社がある。出雲弁では、伊佐我は「いざわ」と発音するそうである。
イサワという志摩の伊雑宮の神社名であったが、風土記には同社として、社名
を記載してもらえず、伊勢・志摩を支配していた伊勢津彦命の一族を、出雲の神社から隠すために伊佐波→伊佐我→伊佐賀と漢字の読みを変更させられたということが考えられるもいうが、、
花長下神社 岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲名礼字鷺坂848-1
仁多郡仁多町三沢四〇二
主祭神 阿遲須枳高日子根命
御父大穴持命(大国主命)御母多紀理毘売命の御長 子で、出雲風土記所載の三沢郷の伝承により 当地に祀られたものである。
合祀神 大己貴命・素盞嗚命
志那都比古命・志那都比賣命
氣長足比賣命・別雷命
少彦名命・五十猛命
社歴 当社の創立は往古に遡り、既に出雲風土記 (七三三)に三澤社として仁多郡の神祇官社二社中 首位に記録され、次いで延喜式神名帳(九二七)に は三澤神社とあるところから古く天平(七二九)以 前から広く崇敬されていたものある。
神社の敍位は仁寿元年(八五一)初めて従五位下を授 けられ貞観十三年(八七一)正五位下を授けられて いる。中世は歴代三沢氏の庇護を受け社領八 十石の寄進があり、徳川時代も歴代国主の崇敬 をうけ松平治郷公(不昧公)外三国主の参詣が記録 されている。明示四年社格郷社に列せられ 式内郷社三澤神社となり、同四十一年神饌幣 帛料を供進される神社に指定される。
昭和二十年宗教法人三澤神社となり同五十六 年特別社に指定を受ける。
賀茂建角身命が日向国の曾の峰(そのたけ)に降臨し、八咫烏に化身して神武天皇の東征を導いた後、奈良の葛木を経て、山城国久我から鴨川をさかのぼって、現在の上賀茂神社がある愛宕郡の賀茂に移住してきたといわれる。 妻 伊可古夜日売(イカコヤヒメ)との間には、玉依日子(タマヨリヒコ)と玉依日売(タマヨリヒメ)が授けられた。玉依日子は、後に、賀茂県主となる。
玉依日売は、瀬見の小川で遊んでいたところに丹塗りの矢が流れてきたを拾い、床の間に飾っていたところ、懐妊したといわれる
生まれた男の子が成人した日、賀茂建角身命が、盛大な宴会を開き、「父親と思う者に盃を飲ませよ」と言ったところ、盃を天に向けて、天上に昇っていったといわれる。賀茂建角身命は、その子を「賀茂別雷大神」と名付けた。 丹塗りの矢は、火雷神(ホノイカズチノカミ)だったといわれる
<山城国風土記逸文>
伝承による賀茂建角身命の行動は
日向国曽の峰に降臨→神武天皇先導→大和の葛木山→山代国岡田の賀茂→久我国の北山基→丹波国神野の伊賀古夜姫命を娶る→玉依日子・玉依日売誕生
である。
「玉依姫命が、黄船に乗って、淀川・賀茂川・貴船川をさかのぼり、当地に上陸し、水神を祭った。玉依姫命が乗ってきた船は、小石に覆われ奥宮境内に御船型石として残っている。」
玉依姫は三島溝杙姫であり、大阪府茨木市の溝咋神社の地で誕生していると思われるので、貴船神社の伝承はここから山城国に移動した時の伝承であろう。
島根県仁多郡奥出雲町三沢
出雲風土記に「三澤社」とある神社。
「三澤」は「御澤」の意味。
祭神・阿遲須枳高日子根命が、この地の澤の水によって、
心身の障害を取り除き、立派に成人したという伝承が残る。この「澤」は当社の西方・三澤城址要害山の山頂にある「刀研池」。また、当地に大きな澤が三つあるという説もあるらしい。
さらに、風土記には、
「以上諸郷所レ出鐡、堅尤堪レ造二雑具一。」
とあり、堅くて質の良い鉄が産する地として、
古代は、農具などの製造が盛んな地であったという。
祭神・阿遲須枳高日子根命の字義は、切れの良い鋤の意味。
農耕神であると同時に鉄の神でもあるのだろう
元の穴師坐兵主神社は、垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいう。旧鎮座地は「弓月岳」であるが、比定地には竜王山・穴師山・巻向山の3つの説がある。祭神の「兵主神」は現在は中殿に祀られ、鏡を神体とする。神社側では兵主神は御食津神であるとしているが、他に天鈿女命、素盞嗚尊、天富貴命、建御名方命、大己貴神の分身の伊豆戈命、大倭大国魂神とする説がある。
巻向坐若御魂神社の祭神「若御魂神」は稲田姫命のことであるとされる。現在は右社に祀られ、勾玉と鈴を神体とする。元は巻向山中にあった。若御魂神については、和久産巣日神のことであるとする説もある。
上記の2社は、『正倉院文書』に天平2年(730年)に神祭を行った記録があり、貞観元年(859年)に従五位上の神階が授けられた。
穴師大兵主神社については鎮座年代は不詳である。祭神の「大兵主神」は現在は左社に祀られ、剣を神体とする。大兵主神の正体については、八千戈命(大国主)、素盞嗚命、天鈿女命、天日槍命という説がある。
中世ごろから、穴師坐兵主神社が穴師上社、穴師大兵主神社が穴師下社と呼ばれるようになった。応仁の乱のときに若御魂神社と穴師上社の社殿が焼失したことから、この2社を穴師下社(大兵主神社)に合祀した。明治6年(1873年)に郷社に列し、昭和3年(1928年)に県社に昇格した。
摂社として、野見宿禰を祀る相撲神社があり、相撲の祖神として信仰されている。
山代河のまにまに下りまして、葛野河と賀茂河との会う所に至りまし、賀茂川を見はるかして、言りたまいしく『狭小さくあれども、石川の清川なり』とのりたまいき。(中略)
その川より上りまして、久我の国(賀茂川上流の地域)の北の山基に定まりましき。その時より、名付けて賀茂という。
ように成ったと記しており、祖先の名が何故「カモ」だったのかに関しては口を噤んだままです。上の推論からみて本来有していた「鷲(ワシ)」という猛禽の名を敢えて捨ててまで水鳥の名称を選んだ背景には、一体どのような事情があったのか?鴨という言葉が「神(カミ)」に通じるものがあるとは言え…。
神皇産霊(かみむすび)神は大国主命の命を助けた出雲神です。
同じく度会氏が書いた『倭姫命世記』には、10代崇神天皇の皇女倭姫命が天照大神の祭祀を五十鈴川の上流に定めるまでの話が記されています。その中で大若子命の名前が何度も出てきます。
「桑名野代宮(桑名市)」
国造大若子命(一名大幡主命)が参上し倭姫命にお仕えした。
大若子命は弟の乙若子命を進上した。
「安佐賀(阿坂)山の神(松阪市)」
倭姫命は中臣大鹿島命・伊勢の大若子命・忌部玉櫛命を遣わし天皇に奏上させた。
天皇が言われるには「その国は、大若子命の祖の天日別命が平定したので、その神を大若子命に祀らせよ」
天皇は大若子命を返し遣わされた
飯野高宮・櫛田(松阪市)」
大若子命は倭姫命に「汝の国の名は何か」と問われたので「百張蘇我の国」と答えた。
「佐佐牟江(伊勢市)」
大若子命は白鳥の真野の国と申し上げた。
「伊蘇の宮(伊勢市)」
倭姫命は大若子命に国の名を問われた。
大宮所を求めて大若子命を遣わした。
「御船向田の国(伊勢市)」
大若子命は船を率いてお迎えに上がった。
大若子命は「五十鈴川の河上に良い宮処があります」と答えた。
「二見(伊勢市)」
大若子命は速雨二見の国と答えた。
「家田の田上宮(伊勢市)」
度会の大幡主命(大若子)は御田を定めた。
「天照大神の夢告」
倭姫命は夢の中で天照大神が宮処を指定されたことを大幡主命(大若子)に話した。
大幡主命(大若子)は「神風の伊勢の国」と言った。
「斎宮」
天皇は大幡主命(大若子)を神国の国造・大神主に任じた。
「伊雑宮」
大幡主命(大若子)を島国の伊雑に遣わした。
大幡主命(大若子)の娘が酒を造った。
「外宮」
21代雄略天皇は大幡主命(大若子)に「丹波に行き、豊受大神をお連れせよ」と言われた。
大幡主命(大若子)は豊受大神をお迎えした。
「大間国生神社(伊勢市常磐町1-5)」
大若子命の社を建てた。
前4社は式内社です。梅宮大社は名神大社ですが、大若子をニニギ命だとしています。
『播磨風土記』は、伊和大神(大国主)の后をコノハナサクヤ姫、子を火明だと記しています(火明は外宮の故郷丹後の一宮祭神)
磯部・度会氏(海部氏傍系)が祀っていました。が、中臣氏・荒木田氏が伊勢の祭祀を奪い取り、度会氏が外宮を祀ったといいます。
大土御祖神社(おおつちみおやじんじゃ)は、伊勢神宮皇大神宮(内宮)の摂社。
祭神は大国玉命(おおくにたまのみこと)・水佐々良比古命(みずささらひこのみこと)・水佐々良比賣命(みずささらひめのみこと)。3柱とも国生(くなり)の神の御子である[4]。このうち、大国玉命は豊受大神宮(外宮)摂社の度会大国玉比賣神社にも祀られ、同社には漢字表記こそ異なるが、弥豆佐佐良比賣命(みずささらひめのみこと)も祀られている
大国玉命は土地の守護神、水佐々良比古命・水佐々良比賣命は水の神である『大神宮儀式解』では水佐々良比古命・水佐々良比賣命を夫婦神とする
古書でも祭神名は一致するが、『伊勢二所太神宮神名秘書』のみ水佐々良比古命を水佐々良彦命と記す
風土記 伊勢國 伊勢國號
・伊勢の國の風土記に云はく、夫れ伊勢の國は、天御中主尊の十二世孫、天日別命の平治けし所なり。天日別命は、神倭磐余彦の天皇、彼の西の宮より此の東の州を征ちたまひし時、天皇に随ひて紀伊の國の熊野の村に到りき。時に、金の烏の導きの随に中州に入りて、菟田の下縣に到りき。天皇、大部(おほとも)の日臣命に勅りたまひしく、「逆ふる黨、膽駒の長髄を早く征ち罰めよ」とのりたまひ、且、天日別命に勅りたまひしく、「天津の方に國あり。其の國を平けよ」とのりたまひて、即ち【標(しるし)の剣】を賜ひき。天日別命、勅を奉りて東に入ること數百里なりき。(中略)
天日別命、此の國を懐け柔して、天皇に復命まをしき。天皇、大く歓びて、詔りたまひしく、「國は宜しく國神の名を取りて、伊勢と號けよ」とのりたまひて、即て、天日別命の封地の國と為し、宅地を大倭の耳梨の村に賜ひき。(或る本に曰はく、天日別命、詔を奉りて、熊野の村より直に伊勢の國に入り、荒ぶる神を殺戮し、まつろはぬものを罰し平げて、山川を堺ひ、地邑を定め、然して後、橿原の宮に復命まをしき。)(『萬葉集註釈』)