北部九州における古墳の推移

April 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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宗像地域における古墳時代の首長によれば、 宗像地域では前述したように1-5期の首長 墓級の大型古墳は少なく、継…

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  • 【古事記】
    ・ 大国主命が胸形の奥津宮の多紀理毘売命を娶して生める子、阿遅鉏高日子根神(迦毛大御神)と妹高比賣命(下光比賣命)
    ・ 大国主命、神屋楯比賣命を娶して生める子、事代主神
    【旧事本記】
    ・ 大己貴(おおむなち)命が胸形の奥津宮の多紀理毘売命を娶して生める子、阿遅鉏高日子根神(迦毛大御神)と妹高比賣命(下光比賣命)、大己貴(おおむなち)命が胸形の辺津宮の高(津)降姫神を娶して生める子、都味歯八重事代主神と妹高照光姫大神命。 孫都味歯八重事代主神、八尋熊鰐になりて、三島溝杭女活玉依姫のもとに通って・・云々。
    ・ 三世孫天日方奇日方命、四世孫健飯勝命、五代孫健甕尻命、六世孫豊御毛主命、七世孫大御気主命、八世孫阿田賀田須命 和邇君等祖 云々。十一世孫大鴨積命、磯城瑞籬宮(祟神朝)御世賜加茂君姓。次、大友主命同朝御世賜大神姓。
    【姓氏録】
    ・ 右京神別宗形朝臣大神朝臣同祖吾田片隅命後也
    ・ 河内国神別宗形君大国主命六世孫吾田片隅命後也
    ●  六ケ岳 剣岳
    ・ 六ケ岳には宗像の三女神が降臨したという伝承がのこっている。『筑前国風土記逸文』には次の記事がある。「西海道の風土記に曰はく、宗像の大神、天より降りまして、埼門山に居ましし時、青(に)の玉を以ちて奥津宮の表に置き、八尺(に)の紫玉を以ちて中津宮の表に置き、八咫の鏡を以ちて辺津宮の表に置き、此の三つの表を以ちて神のみ体の形と成して、三つの宮に納め置きたまひて、即て隠りましき。因りて身形の郡と曰ひき。後の人、改めて宗像と日ふ。其の大海命の子孫は、今の宗像朝臣等、是なり。云々」
  • April 2016 編集されました
    宗像、遠賀川下流は古墳は早良ー福岡ー糟屋平野よりも遅く作られている。

    遠賀川下流部は、交易の拠点か?
  • 福岡平野中央の那珂八幡古墳、帆立貝形古墳
    福岡平野の中央に位置し、東の御笠川、西の那珂川に挟まれた平野上の丘陵にある。また、両河川は当時大きな入り江となっていたと推定されることから、当時は、入り江に半島状にせり出した丘陵の上に古墳が位置していたと考えられる。
    墳丘は、長さ約75メートル、後円部の直径約48メートルを測る。
    主体部は後円部墳頂から2基が検出された。この内、墳頂中心部にあり、古墳造営当初の埋葬主体と考えられる1号主体部は大部分が社殿の真下にあるため、規模・副葬品は未だ不詳である。1号主体部の北側に位置した2号主体部も、一部が社殿の真下にあったが、長さ2.3メートルというさほど長大ではない割竹形木棺を石槨を造らず墳丘に直接埋葬した直葬形式をとっていることが確認されている。木棺内の土倉からは朱などが検出され、棺内から三角縁神獣鏡と勾玉・管玉・ガラス製小玉が出土し、棺掘り方からは赤色顔料が塗布された土師器の高坏が出土した。

    出土した三角縁神獣鏡は直径約21.8センチメートルの三角縁五神四獣鏡で、同笵鏡が京都府椿井大塚山古墳、岡山県岡山市湯迫車塚古墳から出土しており、また伝奈良県奈良市富尾丸山古墳出土品やアメリカフーリア美術館所蔵品が知られている。鏡面とチュウの部分に繊維が残っており、鏡面の繊維は平絹、チュウの繊維は荢麻であることが判明し、絹布に包まれた状態で副葬されたと考えられている。
  • 備前車塚古墳
    古墳時代前期の4世紀初頭に築造されたと考えられている。龍ノ口山から南東に延びた標高180mの尾根上にある。全長は48.3m、前方部の長さ21.8m・高さ3.0m、後方部の一辺は23m~24.5m・高さ3.8m。前方部は三味線の撥型に前面に向かって大きく開いている最古の形式の前方後方墳である。法面には葺石が見られるが埴輪は発見されていない。

    昭和31年(1956年)地元・湯迫在住の男性3人による探索で三角縁神獣鏡11面・内行花文鏡1面・画文帯神獣鏡1面の計13面の後漢時代の中国鏡が出土した。同時に鉄刀・鉄剣・鉄鉾・鉄鏃・鉄斧なども出土した。出土した三角縁神獣鏡11面のうち9面は同じ鋳型で作られた同笵鏡で、京都府木津川市にある椿井大塚山古墳などから出土したものと同笵関係にある。このことから被葬者は畿内との関わりの強い人物であり、古事記に記された「吉備上道臣之祖」大吉備津日子命であるとされている。
  • April 2016 編集されました
    宗像地域では前述したように1-5期の首長 墓級の大型古墳は少なく、継続的な築造も現状では認 め難い。この時期には第2・3図に示したように、糸 島半島から今宿平野において継続的に大 型古墳が築造され、宗像地域とは対照をなす。糸島半 島から今宿平野の地域では5期以前には全長80"を超 える前方後円墳を、輪番的に系列を変えながら築造し ていくとも言える。

    しかし、6期以降になると、全長60"を超える前方後円墳は福岡市西区今宿大塚古墳の みである。この点でも宗像地域の大型古墳と対照的で ある。
  • 豊前坊

    豊前坊 高住神社(ぶぜんぼう たかすみじんじゃ)
    福岡県田川郡添田町英彦山
    高住神社の主祭神は豊日別命といい、豊前と豊後の国を人格化させた神であるとされる。五穀豊穣、牛馬安全などの国造りの基盤となる農耕の神の一面を持つ。また一説では豊日別命は猿田彦神と同一神であるともされている。しかしこの主祭神以上に有名なのは、日本八大天狗の一人であり、九州の天狗の頭目とされる豊前坊天狗であり、この神社に祭神の一柱として祀られている。神社のある英彦山は九州随一の修験道の修行場であり、その関連から天狗の住まう聖地とされたと考えられる。
    豊前坊は配下の天狗を使って、欲深い者に対しては子供を攫ったり家に火を付けたりして罰を与え、心正しき者には願い事を聞き届けたり身辺を守護したりするとされている。

    「遠賀郡誌」によると豊前岳神社(高住神社)は

    『高住神社と称し、豊前坊山(郡の中央と云)に麻生左ヱ門太夫鎮里創立せしが、麻生氏亡びて社殿頽破に及びけるを宝永六年(1709)八月本郡中より神殿を再興して鎮守神とし奉祀せり』

    高住神社はカグツチ命と疫神、カグツチ命は愛宕系山岳信仰において重視される火伏せの神として、また疫神はそれを丁重に祀ることで疾疫から逃れようとする信仰から直日の神が祭られたのかも知れません。

  • 神崎神社・物部の里

    本殿 仲哀天皇 応神天皇 神功皇后 仁徳天皇 玉依姫
    本殿から左上に土地があって、祠が並んでいました。
    向って右より
    末社 貴乃殿神社 大山咋大神(子供の神)
       豊日別大神(豊前坊様)
       貴船大神(水の神)
       今宮大神 (荒吾郎神社と同じ農業の神)
       恵比須大神(食糧の神)
       大山祗大神(山の神)

    豊日別がここにある。備前坊という。
    ここを神功皇后が通過したというのは鞍手町誌にある。

    古物神社
    年代順に置き換えると、もともと剣神社、八幡宮だったのが、江戸時代に台風で剣山の上の神社が倒壊したために、ここに合祀し、
    大正時代に布留神社からも合祀したとなります。そして、明治時代に古物神社と改めました。
    だから、御祭神が多い。
    福岡県神社誌によると祭神は、
    天照大御神、日本武尊、仲哀天皇、スサノオの命、
    神功皇后、ミヤズ姫神、応神天皇、布留御魂神

    日本武尊、スサノオの命、ミヤズ姫の神八剣神社の三柱と同じ組み合わせです。。草薙の剣の継承

    この宮は宗像三女神の父親とその十握剣が祀られている。

    八幡宮の縁起に曰く、
    古門村は神代の昔、スサノオの命が高天原より出雲国に行く時の旧跡である。
    十握(とつか)の剣とスサオノの命を昔から祀る神社で、剣神社と号す。



    備前坊古墳
  • 豊前坊古墳群・経塚 (ぶぜんぼうこふんぐん・きょうづか)

    遠賀町大字上別府 個人所有地

    島津・丸山古墳群から4.5km南の丘陵上に所在し、2基の前方後円墳(1・3号墳)と1基の円墳(2号墳)で古墳群を形成します。1号墳は全長 73.5m、3号墳は全長30mの小型の前方後円墳です。どちらも丸山古墳と同じく前期古墳の特徴を持ちますが、1号墳では壺形埴輪(つぼがたはにわ)が 出土し、墳丘の周囲に施した土留めや装飾のための葺石(ふきいし)は、前方部側では3号墳の後円部を避けるように弧状に巡っています。葺石の変則的な配置 の仕方から、1号墳築造の際には、3号墳の墳丘を考慮に入れて古墳を造ったと考えられます。豊前坊1・3号墳は丸山古墳に後続する前方後円墳で、時期は3 号墳が4世紀後半ごろ、1号墳は4世紀末〜5世紀初頭ごろになります。また、1号墳の墳丘上には12世紀前半ごろの経塚(仏経の経典を地中に埋納したも の)が5基造られています

    島津丸山古墳

    島津丸山古墳と呼ばれ福岡県遠賀郡遠賀町にある
    墳丘は鍵穴のような形をした日本独特な形式で前方後円墳と呼ばれるもので、先端に向かって曲線的に広がりを示す特徴的な前方部を持っており箸墓古墳に代表されるものです。
     墳丘の規模は、後円部の径30m、高さ7mで、前方部の最大幅は15m、高さ4mを測り、墳丘全長は57mとなっています。
     基本的には土が盛られて造られたものなので1500年あまりの年月の風雪に耐えながらも自然崩壊などもありますから、これらの規模の計測数値は必ずしも確定的なものではありません。
     明確な形での造り出し部は設置は行われていません。
     墳丘の周囲には東半分のみ周濠があります。
     埴輪の出土は確認されておらず埴輪の配列はなかったものとされています。
     葺石が墳丘に施されていたとみられています。
     古墳は島津丸山歴史自然公園内に保存されています。
     無料の駐車場が見学者用にあります。
     古墳の概要を説明したパネルがあります。
     測量調査が1993年に、発掘調査が1996年に行われています。
     この古墳の築造は古墳時代の前期にあたる4世紀前半~中葉ごろと推定されています。
  • 西都原古墳群(宮崎県西都市)  九州最大の古墳群  
     西都原81号墳    南九州最古の前方後円墳(築造:3C中頃)
        長さ52m、卵形の後円部と短いバチ状の前方部を持つ「纏向型前方後円墳」
       後円部から、弥生時代と古墳時代の過渡期に当たる土器が出土。
       纏向型は、全国で30例を超えるが、南九州での発掘は 初めて。
  •  赤塚古墳
       全長57.5m、後円部の径36m・高さ4.8m、前方部の幅21m・高さ2.5m
       の前方後円墳。 3C末に築造の 九州最古の前方後円墳か?
       周囲に 幅8.5~11mの空濠。 石室は 箱式石棺。
       副葬品:三角縁神獣鏡4面・三角縁龍虎鏡1面・碧玉管玉、鉄刀片、鉄斧などが出土。
                                   (大正10(1921)発掘) 
        銅鏡は、椿井大塚山古墳(京都府)、石塚山古墳(福岡県)、原口古墳(同)出土のもの
       と同笵鏡とされ、初期の大和王権が 各地の首長に与えたものか?
  • 石塚山古墳( 福岡県京都郡苅田町 )  九州で 最大・最古級の畿内型前方後円墳
      周防灘を望んで低台地にあり、当時の海岸線にきわめて近い。
      前方部は海に向かい、全長約110m。墳丘の後円部 径約60mで二段築造。墳頂は
      平坦で 径22m、その中央に 長大な縦穴式石室。 墳丘には 人頭大の葺石が敷き
      詰めている。 前方部はくびれ部から細長く伸び、先端で やや広がって撥形。
       後円部の竪穴式石室は 1796 (寛政8)年に開口、当時の庄屋銀助の記録には、
      銅鏡10数面・剣・矛・鏃が出土とある。
      現存出土品: 三角縁神獣鏡7面・素環頭太刀片・銅鏃。後漢鏡片・勾玉・管玉・刀片・
      鉄鏃・冑片・鉄斧など。
       京都椿井大塚山古墳 や 奈良黒塚古墳の出土品に類似。
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