忍坂大中姫、木梨軽皇子

April 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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允恭天皇の第一皇子、皇太子であった。母は皇后の忍坂大中津比売命(おしさかのおおなかつのひめのみこと)。同母弟に…

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コメント

  • 忍坂大中姫という女性は、応神帝の子・稚渟毛二俣王の娘であり息長家の血筋を代表する人物であり、かつ星川皇子の反乱を「予言」した雄略帝の母親でもあります。また、安閑帝は文字通り応神王朝を「復古」させた継体帝の長子なのですから、この人物も息長一族の象徴と云えるでしょう。允恭朝と葛城氏との「対立」の構図は書紀が允恭五年秋七月条で『葛城襲津彦の孫、玉田宿禰の不敬と謀反』の主題で書き残していますが、これも古事記は伝えていませんから、恐らくその事実は存在せず、帝室と葛城氏との間が草創期の結びつきからは格段に疎遠になり、遂には帝側から疎外されるようになった経緯が、玉田宿禰という「孫」の反乱という表現を生んだものと思われます。垂仁帝の治世を四世紀半ば頃、そして允恭帝の時代を五世紀半ば頃だと推定すると、この一世紀の間に大和の政権の枠組みを大きく変化させたものが在ったと考えるべきでしょう。
  • 忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)は第19代允恭天皇の皇后であり、木梨軽皇子(允恭天皇の皇太子)・第20代安康天皇・第21代雄略天皇の母。父は稚野毛二派皇子(応神天皇の皇子)。母は弟日売真若比売命(日本武尊の曾孫)。意富富杼王(継体天皇の曾祖父)の同母妹。

    日本書紀允恭紀に、允恭天皇2年春2月14日(413年3月31日)立后され、名代部として刑部(おっさかべ)が設定されたとある。このとき設定された名代部の一つが火葦北国(ひのあしきたのくに。熊本県八代・葦北地方)であるとする説がある。当地から阿蘇ピンク石という石材が産出しており、河内平野の古墳の石棺にこの石材が用いられていることから、何らかの関係があるとする見方もある。


    雄略天皇
    生没=419年-479年
    允恭天皇の第5皇子。安康天皇の同母弟。


    父=
    母=忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)。

    皇后=草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)-仁徳天皇の皇女

    妃1=葛城韓媛(かつらぎのからひめ。葛城円大臣の女)
      皇子①=白髪皇子(しらかのみこ=清寧天皇)
      皇女①=栲幡姫皇女(たくはたひめのひめみこ、稚足姫皇女とも)-斎宮

    妃2=吉備稚媛(きびのわかひめ)・・・・吉備上道臣の女
      皇子①=磐城皇子(いわきのみこ) ・・・・難波小野王(顕宗天皇の皇后)の祖父
      皇子②=星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)

    妃3=和珥童女君(わにのわらわきみ。春日和珥臣深目の女)
      皇女①=春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ、高橋皇女)
  • 雄略天皇

    葛城氏を衰退・滅亡に追い込んだ。
    星川皇子(母が吉備稚媛)の乱を大伴室屋らが鎮圧。
    吉備氏を衰退・滅亡に追い込んだ。


    安康3年(456年)
      8月 天皇は中蒂姫の連れ子眉輪王(まよわのおおきみ)により暗殺された。
          これを知った大泊瀬皇子は兄たちを疑い、まず八釣白彦皇子を斬り殺す。
          次いで坂合黒彦皇子 ・眉輪王をも殺そうとした。
          この2人は相談して葛城氏の円大臣(つぶらのおおおみ)宅に逃げ込んだ。
          しかし、大臣の助命嘆願も空しく、大泊瀬皇子は3人共に焼き殺してしまう。
          さらに、市辺押磐皇子とその弟の御馬皇子(みまのみこ)をも謀殺。
         
    雄略元年(456年)
     11月 政敵を一掃してに大王の座に就いた。
         平群真鳥を大臣に、大伴室屋・物部目(もののべのめ)を大連に任じた。

    雄略7年(463年)
         地域政権吉備に対して反乱鎮圧の名目で屈服を迫った(吉備氏の乱)。
         吉備下道臣前津屋(きびのしもつみちのおみさきつや)を討伐。
         吉備上道臣田狭(きびのかみつみちのおみたさ)を討伐して吉備政権の弱体化を進めた。

    雄略8年(464年)
      2月 日本府軍が高句麗を破る。

    雄略9年(465年)
      5月 新羅に攻め込んだ。
          しかし将軍の紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)が戦死し、敗走した。
          (『三国史記』新羅本紀によれば倭人が462年5月に新羅の活開城を攻め落とした。
           463年2月にも侵入したが、最終的に新羅が打ち破ったと記載されている)。

    雄略13年(469年)
         播磨の文石小麻呂(あやしのおまろ)を討伐。

    雄略18年(474年)
         伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)を討伐した

    雄略20年(476年)
         高句麗が百済を攻め滅ぼした。

    雄略21年(477年)
         大王は百済に任那を与えて復興した。
         (『三国史記』高句麗本紀・百済本紀によれば、475年9月に高句麗に都を攻め落とされ王は殺され、
           同年熊津に遷都)。

    雄略22年(478年)
         伊勢神宮外宮を建立。
         豊受大神は葛城氏が代表して奉祀しており、葛城氏没落後、あまり省みられなかった。
         崇敬の声が大きくなり、丹波国にも祀られていたものを外宮を設立することで収拾を図ったとする
         説がある。

    雄略23年(479年)
      4月 百済の三斤王が亡くなると、入質していた昆支王の次子未多王に筑紫の兵500をつけて帰国させた。
         そして東城王として即位させた。
         兵を率いた安致臣・馬飼臣らは水軍を率いて高句麗を討った。
      
      8月 大王は病気のため崩御した。
  • 孝徳天皇は596~654年、文武天皇は683~707年で時代が違いますから、名前は同じ軽皇子でも、別の人物です。
    軽という名の付く皇族は他にもおり、「古事記」に伝えられる、兄妹どうし愛し合ったため伊予に流されたという皇子は軽皇子、妹のほうは軽皇女、別名を衣通姫として知られています。このように同名の皇子女が多いのは、古代の皇子女は養育されていた氏族や土地の名で呼ばれることが多く、同じ氏族のもと、同じ土地で育てば同じ名前となるためです。
    軽(かる)というのは大和の古地名で、現在の橿原市石川町に当たり、いまでも軽池などの地名が残っていますが、古代には、この地は交通の要衝で「軽の衢」と呼ばれており、「軽の市」という市も開かれていました。
    このような土地ですから、天皇家とのゆかりも深く、この地で育つ皇子女も多かったため、何人もの軽皇子・軽皇女が現れるわけです
  • 允恭紀
    23年(434)3月7日に、木梨軽皇子を皇太子にお立てになった。
    容姿が佳麗で、見る者は、自然に心をひかれた。同母妹の軽大娘皇女もまた美しかった。太子は、いつも大娘皇女と結婚したいと思っておられた。罪になることをおそれて、黙っておられた。
    しかし愛情が、もはやどうしようもなくつのって、ほとんど死ぬばかりになった。そこで、いたずらに空しく死ぬよりは、罪になっても、どうして忍ぶことができるかと思われて、ついに密通してしまった。
    24年(435)の夏6月に、御膳の羹汁(しる)が、氷りついてしまった。
    天皇は、あやしまれて、その原因を卜(逆Y字型)わしめた。卜った者が、
    「御家庭の内に乱れたことがあります。きっと近親が相姦したのです」
    と申し上げた。時にある人が、
    「木梨軽皇子が、同母妹の軽大娘皇女をお犯しになりました」
    と申し上げた。
    そこで推問なさった。明らかに事実であった。太子は、皇太子であったから、罪に処することができなかった。ただちに大娘皇女を伊予に移した。
    42年(453)正月14日に、天皇が、お崩れになった。時に御年若干。
    「御年若干」とある場合は、年齢を書くのが都合が悪いということで、えてして、暗号のヒントが示され
    ているものですが、この場合も、允恭紀の記述に反して、安康即位前紀には、次のようにあります。

    安康即位前紀
    42年(453)正月に、天皇がお崩れになった。
    10月に、葬礼が終了した。このとき、木梨軽皇子は、暴虐なふるまいがあって、
    婦女に淫(たわ)けられた。
    国人が謗り申し上げた。群臣はお仕え申し上げず、みな穴穂皇子におつきになった。
    太子は大前宿禰の家で自殺なさった
    [一説には、伊予国にお流し申し上げたといわれている]。
  • August 2017 編集されました
    隠口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の川の 上(かみ)つ瀬に 斎杭(いくひ)を打ち 下つ瀬に 
    真杭(まくひ)を打ち 斎杭には 鏡を懸(か)け 真杭には 真玉を懸(か)け 真玉なす
    わが思ふ妹(いも)も 鏡なす わが思ふ妹も ありと言はばこそ 国にも 家にも行かめ 
    誰(た)がゆゑか行かむ <古事記歌謡90番と小異の歌>
    古事記をしらべると、いうことには、この歌は木梨軽太子が自ら命を絶った時に作った歌だといっている。(巻13-3263)
    安康即位前紀では、允恭天皇が没した453年に、木梨軽皇子は自殺に追い込まれています。
    しかし、「一説には、伊予国にお流し申し上げたといわれている」と注が付けてあります。

    古事記は、木梨軽太子が伊予の湯に流されて、後を追ってきた衣通姫と自ら命を絶ったとする


    古事記にいうことには
    「軽太子が軽太郎女を犯した。そこでその太子を道後温泉に流した。
    この時衣通王が恋しさに堪えず後を追っていった時の歌にいうことには、
    90 
    君が行き 日長くなりぬ 山たづ【の】 迎へを行かむ 待つに【は】待たじ [ここに山たづというのは、今の造木のことである]
    という。
    この1首の歌は古事記と類聚歌林とで説く所が違う。歌の作者もまた別である。

    君(天皇)が逝き日長くなりぬ????

    そこで日本書紀をしらべてみると、
    いうことには
    「仁徳天皇の22年(334)正月、天皇が皇后に『八田皇女を召して妃としたい』
    といった。が皇后は承知しなかった。……

    またいうことには
    「允恭天皇の23年(434)3月7日に木梨の軽皇子を皇太子となさった。
    太子は容姿が美しく見る者は思わず感動するほどであった。
    同母の妹の軽太娘皇女もまた美女であった。そこで……
    遂に人目をしのんで太子は妹と情を交わし、憂情を少しは晴らすことができた。
    24年(435)6月、天皇の食膳の汁が夏だのに氷ったことがあった。天皇はふしぎに
    お思いなって理由を卜わせると、卜師は、『内乱のある兆しです。恐らくは肉親同士が犯し合ったのでしょうか……』
    といった。そこで太娘皇女を伊予に流した」
    という。

    こうして考えてみても、両天皇の両度の事件においても、この歌は見えない。
    (中西進「万葉集 全訳注原文付」講談社による)
  • 万葉集では、巻2-90の衣通姫の歌を「も・の・は」がない歌に作り替えて仁徳天皇の皇后磐姫の歌とし、その注に古事記・日本書紀を持ち出しています。

    さらに、万葉集の注に、磐姫の歌が山上憶良の類聚歌林に載っているとあるのですから、
    允恭紀の木梨軽皇子の記事が仁徳紀と関わりある暗号であることは疑いようがありません。

    仁徳天皇
    応神天皇の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の薨去(『日本書紀』は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと伝える)により即位したという。この間の3年は空位である。
  • August 2017 編集されました
    允恭紀の木梨軽皇子と仁徳天皇と皇位を争ったウジワキノイラツコと両方を調べる必要がある。

    陵墓不明

    古事記によれば
    応神天皇が菟道稚郎子の母である宮主矢河枝比売と出会ったのは木幡の地であった。宮主矢河枝比売は和珥(わに)氏の娘であり、和珥氏が木幡にも居住していたことが分かる。

    『日本書紀』の菟道稚郎子の伝承
    菟道稚郎子伝承が史実であったとは考えがたいし、五世紀代に宇治に宮があったことを裏付ける考古学的なデータは、今のところ見出すことはできない。
    伝承の中で、墓の位置を示すものは菟道の山上と書かれているのみである。

    『延喜式』の記載はさらに曖昧で、山城国宇治郡に在り、兆域は東西十二町、南北十二町で守戸が三烟あることしか分からない。

    現在の宇治墓の治定は、明治二十二年六月一日のことである。行政区分では宇治市菟道丸山にあたるこの地点は、「菟道の山上」ではなく、宇治川右岸に接するところである。

    明治の治定以前、この地には古墳状の円丘があり、菟道稚郎子を攻めて、逆に伏兵にあって宇治川で命を落とした大山守命の墓であるとか、菟道稚郎子の母である宮主矢河枝比売(みやぬしやかはえひめ)の墓といった伝承があったようである。

    宮内省がどのような経過でこの円丘を菟道稚郎子墓としたのかは不明であるが、治定後円丘周辺を広範囲に買収し、前方後円墳に整形し、現在の形にしたのである。
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