大国主・少彦名の国づくりと海部、吉備海部直

April 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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神武天皇の東征経路が海部氏、海部を含む海人族の故地と重なることが指摘されている。 ここでは、後の世の海部値の斎…

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コメント

  • 出雲国造は『神賀詞』の中で、自分たちの遠祖である天穂日命は、国譲りに際して、

    おのれ命の兒、天の夷鳥の命に布都怒志命をそえて、天降し遣わして、荒ぶる神どもを撥い平げ、国作らしし大神(大穴持命)をも媚び鎮めた



    医薬の神として知られる少彦名と兄弟であり、一時期共同で国造りを行ったこと(書紀一書によれば少彦名は淡島に行き、その後、常世郷に至った)

    スクナヒコナが意外と難物なのです。記紀神話に親しんだ方なら知らない人はいない位の「有名」人?のはずが、新撰姓氏録にもその後裔が一切収録されていません。
    この神様に関する情報は驚くほど少なく、子孫や系譜などについても公開された資料も極限られています。その数少ない間接的資料の一つが大同二年(807)斎部(忌部)宿禰広成が記した『古語拾遺』で、そこには、

     天太玉命が忌部首の祖神である
     
    同神には  
    1 天日鷲命=阿波国忌部氏の祖  
    2 手置帆負命=讃岐国忌部氏の祖  
    3 彦狭知命=紀伊国忌部氏の祖
    4 櫛明玉命=出雲国玉造氏の祖   
    5 天目一箇神=筑紫国、伊勢国忌部氏の祖

    の五柱の神々が従ったとありますが、日本書紀神代上第七段一書第三には、天石窟に「日神」が籠った時、すなわちアマテラスの磐戸隠れの時に、

    下枝には、粟国の忌部の遠祖、天日鷲が作ける木綿を懸でて、乃ち忌部首の遠祖、太玉命をして執り取らしめて、広く厚く称辞をえて祈み敬さしむ。

    とありますので、恐らく「天太玉命(あまのふとだま)」と「五柱」の神々は親子ないしは異名の同神、そして「五柱」の神々はそれぞれ兄弟か異名の同神である可能性が高いと考えられます(関東の皆さんには浅草・鷲神社の祭神としてお馴染みだと思います)。

    斎部(忌部、いんべ)氏hz九州から四国、山陰、近畿一円に勢力圏をもっていました。そして、天日鷲命の後裔氏族として天語連、多米連、田辺宿禰および同神と見られる天日鷲翔矢命の後裔に物部弓削宿禰、委文宿禰、美努宿禰更には鳥取部連などが確認できます。

    少彦名神が「常世」の国に弾かれて飛んでゆく前に居た処が「淡島・粟島」で、加太淡島神社を始め各地のアワシマ神社がスクナヒコナを祭神としていることも合わせて勘案すると、天太玉命と同じ神様ではないかと推理される天日鷲命こそが、今まで探し求めていた少彦名神そのもか???
  • 日本書紀が神代下第九段(天孫降臨)一書第二の中で、

    即ち紀国の忌部の遠祖、手置帆負神をもって、定めて作笠者とす。彦狭知神を作盾者とす。天目一箇神を作金者とす。天日鷲神を作木綿者とす。

    と列記していますが天日鷲神は本当に「木綿(布)」作りだけに励んでいたのでしょうか?

    島県吉野川市にある種穂忌部神社には興味深い伝承が残されています。

    『天日鷲命の本名は天日鷲翔矢命といい弓矢の名手で、占いの矢を高天原から放ったら種穂山に突き刺さった』のだそうです。

    古事記も日本書紀本文も、この神様については珍しく口裏を合わせたように一言も伝えていません。天若日子暗殺の下手人を暗示していると感じるのは深読みすぎでしょうか--。「天之加久矢」が「天香久山」に通じるものであれば、一つの答が導きだされます
  • 少彦名神は鳥・弓矢の神で、子孫に鳥取部連・羽鳥連(服部連)があります。当然、少彦名神の別名・天日鷲翔矢命に限らず、天白羽鳥命(神麻績連祖)、天夷鳥命・櫛甕鳥海命・鵜濡渟命(ともに出雲国造祖)、鳥鳴海命・速都鳥命・鳥耳命・意富鷲意弥命・鷹取(ともに三上祝・穴門国造一族)など、鳥の名前をもつ人名も多く出てくる
  • 少彦名神の後裔と称する氏族は鳥取部造・三島県主くらいであるが、様々な検討を加えてみたところ、古代の織物関係氏族たる服部連・倭文部・長幡部などや、三島大杜に奉仕した伊豆国造や伊予の越智国造なども含まれることがわかってきた

    スクナヒコナと髙木神

    高木は能登国能登郡の式内社鳥屋比古神社の社家高木氏に通じ、大和や伯耆の「鳥屋」は少彦名神との関係がうかがわれる。同社の鎮座地羽坂村(いま鹿島郡鳥屋町春木)には手之間神社(棚森大明神)もあって、少彦名神を祀ったのではないか、と森田柿園の『能登志徴』はみている。少彦名神の素性について高木神に問うたところ、自分の子で、小さくて指の間から漏れ落ちたのがそれであるとの答えがあったという伝承も記紀には見える。
  • December 2016 編集されました
    カミムスビとタカミムスビの関係が変わってきます。カミムスビは出雲系でタカミムスビは高天原系とされてきましたが、このニ柱はどちらも出雲出身という可能性もあります。


    奈良時代に筑後の国から鷹と鷹匠などが税として納められていたという。

    以下出典は
    ひもろぎ逍遥 http://lunabura.exblog.jp/19817459/

    「鷹」と「高良別宮」ですが、「筑後国天平十年(738)正税帳」に
    「貢上鷹養人参拾人」(略)「貢上犬壹拾伍頭」、同じく「周防国天平十年正税帳」に「従大宰府進上御鷹部領使(ことりづかひ=先導役)筑後国介従六位上日下部宿禰古麻呂、将従三人、持鷹廿人、(中略)御犬壱拾頭」とあります。

    当時筑紫から「御鷹」が筑後の日下部氏に先導され、併せて「30人の鷹養人・犬25頭・20人の鷹持ち(当然鷹も20羽以上)」が税として貢がれたという。

    このような莫大な鷹の献上は筑紫からしかありません。

    そして、「筑後の日下部氏」とは、高良大社官長職の日下部氏で、高良大社御神期大祭の御神幸には羽の付いた冠を被った「鷹鳶」の行列が見られ、筑後久留米市草野町には「隼鷹(はいたか)天神」もあります。

    「御鷹・御犬・鷹持」等の尊称から、鷹狩は高良玉垂命=九州王朝の尊い行事だったと思われます
    (もちろん神功皇后とも関係)。

    「正税」とあるから天平10年に大和朝廷に召し上げられたことになる


    高良大社の勅使祭
    2012年10月14日に催行された高良大社神幸祭の行列に
    本来50年に一度あるのが、臨時的に20年目に催行されました。
    鷹鳶神人の冠を見ると、羽根が挿してあるという。

    鷹の飼育人30人、鷹匠20人、犬(狩用だと思う)15匹が納められる

    大規模な鷹狩りの為の繁殖や訓練組織があったはずです。
    現在の鷹匠は大変少なくなっていて、佐賀県の女子高生が鷹匠になったという報道を見ました。カラス対策にすごい効果があるそうです。
    鷹の群れ飛ぶ高良山、鷹群山か…。
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