和邇氏、東大寺山古墳

December 2018 編集されました カテゴリ: 出土品/交易
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東大寺山古墳と中平銘文大刀 中平銘文の金象眼は純金 2010・16の産経ニュースによると、東大寺山古墳出土の中…

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  • 和邇の皇妃


    后妃の名前 親の名前 夫の名前 子供の名前 応神との関わり等 推定の年代
    姥 津 媛 和爾日子押人命 開化帝 彦坐王(神功皇后の高祖) 六代前の大王 四世紀の後半頃
    宮道宅媛 和爾日蝕使主命 応神帝 菟道稚郎子皇子、矢田皇女(仁徳后)  本  人 五世紀初め頃
    小 甄 媛 同  上 同 上 菟道稚郎女皇女(仁徳妃)  同 上  同 上
    津 野 媛 和爾八腹小事 反正帝 甲斐郎女、円皇女  応神の孫 五世紀の中頃
    弟 比 売 同  上 同 上 財皇女、高部皇子(記では男女が逆)  同 上  同 上
    小 島 子 春日臣 市河 允恭帝 な し(市河は物部首の祖とされる)  同 上  同 上
    童 女 君 和爾臣 深目 雄略帝 春日大娘皇女(仁賢后、手白香の母親) 応神の曾孫 五世紀の後半頃
    糠 若 子 和爾臣 日爪 仁賢帝 春日山田皇女(安閑后) 第二十四代 五世紀の末頃
    荑   媛 和爾臣 河内 継体帝 円娘皇女、厚皇子(阿豆王) 応神の五世の孫 531年に没か
    老 女 子 春日臣 仲君 敏達帝 難波皇子、春日皇子、大派皇子 継体の孫 538~585年
  • May 2016 編集されました
    天理市櫟本町周辺には、山陰発祥という説がある古代豪族・ワニ氏が築いた200基余りの東大寺山古墳群がある。
     記紀によると、ワニ氏は神話時代、彦国葺命(ひこくにふくのみこと)や和珥武振熊(わにのたけふるくま)ら軍事関係で活躍した人物を輩出。同古墳群には東大寺山古墳(全長約130メートル、4世紀末ごろ)など大和王権に関わりの深い前方後円墳が目立つ。そのためワニ氏は「武力に優れた王権内の有力豪族」とされる。なお、同古墳の北隣には、「ワニ氏の祭祀(さいし)場」とされる櫟本高塚遺跡もある。

    山尾幸久・立命館大名誉教授(古代史)は著書「日本古代王権形成史論」で山陰発祥説を提唱する。東大寺山古墳から山陰経由で伝わったとみられる中国製鉄刀が出土したことから「2世紀ごろ、大和に進出した鍛冶(かじ)集団」とする。山陰方言でサメを示す「ワニ」を名乗った理由は鋭い歯が刃物を示す鍛冶物につながったためという解釈だ。

    鳥取の弥生時代の銅剣にサメの絵が見つかり、因幡の白兎(しろうさぎ)神話に登場する「海の和邇(わに)(サメ)」が注目されている

    銅剣のサメの絵
     鳥取県立博物館所蔵の銅剣に見つかった長さ2・3センチの線刻絵画で、調査した奈良文化財研究所と同県が2月10日発表した。サメの絵は鳥取市の青谷上寺地遺跡の遺物に多数あり、銅剣も同遺跡の出土品とみられている

    鳥取の銅剣のサメの絵は弥生中期後半(紀元前1〜紀元1世紀)に彫られた。調査担当の鳥取県立公文書館県史編さん室専門員の湯村功さん(50)は「弥生人が海にまつわる祭祀に使った」と解釈するという。
    出典は
    http://mainichi.jp/articles/20160302/ddl/k29/040/599000c
  • May 2016 編集されました
    青谷上寺地遺跡(あおやかみじちいせき)は、鳥取県鳥取市青谷町青谷にある、弥生時代の集落遺跡。

    遺跡は弥生時代前期後半に集落としての姿を現し、中期後半に著しい拡大を遂げ後期に続くが、古墳時代前期初頭に突如として姿を消す。

    遺構で目を引くのは、杉の板材を用いた護岸施設である。遺跡の南東部で検出された弥生時代中期後半の護岸施設には長さ260cm・幅70cmの巨大な板を数枚立て並べたうえ杭で固定していた。後期になると地形の高い範囲を取り囲むように溝がめぐらされているが、ここには矢板列を幾重にも打ち込んでいた。

    遺物は膨大な数の土器以外に、鉄器・青銅器・木器・石器・骨角器など多彩で、後述の遺物も合わせ弥生時代の情報量の多さは特筆される。

    遺跡の東側の溝では弥生時代後期の100人分を超える約5,300点の人骨が見つかったが、うち110点に殺傷痕が見られた。また2点に脊椎カリエスによる病変が確認された。これは日本における最古の結核症例である。

    鳥取市の青谷上寺地遺跡
    同遺跡は1998年から調査されており、これまでに殺傷痕のある人骨10人分以上を含む92人の弥生人骨のほか、約250点の鉄器、大量の卜骨(ぼつこつ)、青銅製品、絹織物、中国・新の銅貨「貨泉(かせん)」、連子窓などの建材、精巧な木製品、護岸のような施設の跡などが発見されており、日本海の交易拠点とも考えられる大規模遺跡。

    中期後葉になると集落は大きく変貌する。標高のやや高いところに引き続き遺構が見られるが、ここの東側から南側縁辺はスギを加工した板材などで大規模に護岸された溝で、周囲の低地と区切られている。護岸に用いられた板材は2mを越える大型のもので、建築材の転用ではないかと思われる。

    この時期、土器などの遺物も急増し、精巧な木製品も目に付くようになる。骨角製漁労具が増え、海との関わりがより深くなったものと思われる。

    古代中国の鉄器が認められるのもこの段階からである。卜骨を用いた占いが始ったり、サメをモチーフにした絵画資料と木製の琴が特徴的に見られ、この時期の祭祀のあり方を示している。
  • 弥生時代中期の終わり頃 出雲荒神谷遺跡で 358 本もの 大量の銅剣をはじめ、銅鐸・銅矛が埋められているのがみつかり、さらに荒神谷遺跡から距離にして 3 キロほどの賀茂岩倉遺跡で 39 個の銅鐸が発見された。いずれも山中に隠すかのように山の斜面に埋められていた。

    「大量の鉄」を持ち、国のさきがけともみえる大集落 東出雲・伯耆の妻木晩田遺跡や青谷上寺地遺跡が出 現する。

    この弥生後期の日本各地の鉄器出土量を見ると大陸・朝鮮半島に近い鉄の先進地北九州が圧倒的に多く、次 に妻木晩田遺跡・青谷上寺地遺跡のある鳥取・岡山が多く、畿内は少ない。 畿内はまだ鉄の後進地である。

    山陰の妻木晩田遺跡は麓に入り江を有する丘陵地の上に存在する高地性の大集落で、青谷上寺地遺跡も山麓ではないが、三方を小高い丘陵で隔てられ、海岸も小さな山と砂州で隔てられた入り江の奥の丘陵地で、高地性集落とおなじような要害の地。入り江は日本海諸国や朝鮮半島との交流が行われた港湾都市の機能を有していたと考えられる。


    「青谷上寺地遺跡」
    まだ ほんのごく一部しか発掘されていないのに「妻 木晩田遺跡」をしのぐ鉄が出土し、しかもその鉄の道 具を使った数々の加工の文化「弥生の博物館」と言われる。
    また 「無造作に溝に投げ込まれた多数の殺傷 痕のある人骨と弥生人の脳が出た」という。

    「銅の突き刺さった人骨と殺傷痕」これこそ「倭国の大乱」の証拠という研究者もいる
  • 弥生時代後期の畿内に おける鉄器の少なさや大型墳丘墓の欠落,前方後円墳に継承される墳墓の諸要素が瀬戸内東部の弥 生墓に求められることから,3 世紀初頭に誕生する倭王権は、弥生後期の畿内社会の延長になく, 瀬戸内東部勢力により大和に樹立されたとの見方もある[寺澤 2000・北條 2000b]。纏向遺跡や纒向 型前方後円墳の造営は確かに突然であるように見え,倭王権成立の経緯や主体、つまり倭国形成の 理解には大きな差が横たわっている。古墳時代の始まりを考える上で、考古学的事象と,〈魏志倭 人伝〉からうかがえる 2 世紀後葉の倭国乱や 3 世紀初頭の倭国王共立をあわせて考えることが必要 であるが,そのためには,考古学的事象の年代が正確でなければならない。
    しかし,箸墓古墳の築造年代が 3 世紀中頃に特定できても,時代の転換点である 2 世紀末から 3 世紀初頭が,土器様式のどこにあたるかといえば,木製品の年輪年代値が参考になってきたが,土 器そのものの年代はわからず推定にとどまらざるをえなかった。こうした課題に対し,14C 年代は, 土器に残る炭化物をもとに,土器そのものの年代を科学的に求めることを可能とし,測定データを 蓄積することにより,土器編年各段階の時期を絞り込むことが可能になりつつある。


    新納泉は地形の傾斜にもとづき農業生産力を算出している[新納 2001]。これに 10 世紀初頭の『和 名類聚抄』による田面積による補正を加えているが,大和・河内・摂津・伊勢・尾張については, 地形的な特性以上に田積が大きく,開発の進んだ結果であるとみている。
    『和名類聚抄』における旧国別の田面積は,山城国 8961 町,大和国 1 万 7905 町,河内国 1 万 1338 町, 和泉国 4569 町,摂津国 1 万 2578 町,計 5 万 5351 町である。筑前国は 1 万 8500 町であり,古代に おける第一次生産高としては,畿内は筑前の 3 倍である。ちなみに東海地域は,伊勢 1 万 8130 町, 尾張 6820 町,三河 6820 町,美濃 1 万 4823 町,計 4 万 6593 町,吉備は,備前 1 万 3185 町,備中 1 万 0227 町,備後 9301 町,計 3 万 2713 町である。
  • May 2016 編集されました
    歴博調査報告
    倭における国家形成と 古墳時代開始のプロセス
    Processes of Starting the Kofun Period and Building a Nation in the Wa State
    岸本直文

    2 世紀第 2 四半期頃に建設の始まる纒向遺跡の中心部に,墳丘長約 100 mのいわゆる「纒向型前方後円墳」が築造される。橋本輝彦の整理によれば,纒向石塚古墳が庄内 1 式,勝山古墳が庄内 2 式,矢塚古墳が庄内 3 式,ホケノ山古墳と東田大塚古墳が布留 0 式という[橋本 2006]。それぞれ 14C 年代に照らせば,纒向石塚古墳が 2 世紀第 3 四半期,勝山古墳が 2 世紀第 4 四半期,矢塚古墳 が 3 世紀前葉,ホケノ山古墳と東田大塚古墳が 3 世紀中葉となる。纒向石塚古墳については,とく に庄内 1 式初頭としており,そうなると 2 世紀中頃となる。
    纒向遺跡が,ヤマト国の本拠を建設したものとすれば,その中心部に築造されるこれらの古墳は,
    ヤマト国王墓と考えることができる。いまわかっている 5 基について,2 世紀中頃から 3 世紀中頃 までの約 100 年間に 5 基であり,歴代の王墓と考えておかしくない。ただし,纒向地域のなかに, 箸墓古墳よりさかのぼる前方後円墳が,これら 5 基以外にあるのかどうか,時期不詳のものも多い ため判断は難しいが,さらに増加することも予測しておかなければならない。
    これらは,庄内式を 3 世紀前半を中心とする時期と考えてきた段階では,3 世紀初頭の倭王権形 成後のものとみられてきたが,矢塚古墳以降についてはそうなるが,纒向石塚古墳と勝山古墳は, 倭王権成立以前のヤマト国王墓に相当することになる。
    (2)3 世紀前半における前方後円墳の共有
    纒向型前方後円墳を提唱した寺澤薫は,これら纒向地域の大型前方後円墳と類似したものが,瀬 戸内で結ばれる地域を中心に点々と存在し,箸墓型前方後円墳以前の段階で墳丘の共有が始まって いることを明らかにしている[寺澤 1988]。
    従来は,こうして瀬戸内で結ばれる地域に現れる纒向型前方後円墳について,確実に箸墓古墳以 前にさかのぼるものがあるのかどうかが議論となっていたが,現時点においては,萩原 1 号墳や黒 田古墳など確実なものはまだ少ないが,おそらく確かであろう。各地の纒向型前方後円墳について, 引き続き時期を可能な限り詰める必要があり,墳形の検討も不可欠である。いずれにしても,箸墓 古墳以前の 3 世紀前半に,纒向に築造された前方後円墳をモデルにした纒向型前方後円墳が存在し, 前方後円墳の共有が始まっていることは寺澤の卓見の通りであろう。纒向型前方後円墳が東部瀬戸 内で多元的に出現するとの見方もあるが[北條 2000b],纒向諸墳とそれに類似する纒向型前方後円
    墳は,規模の差に加え、最古の石塚古墳および勝山古墳が 2 世紀後半にさかのぼる以上,基本的にヤマト国の前方後円墳という墓制の影響下に出現すると考えられる(図 6)。前方部の形態や墳丘の仕上げに差はあっても,ヤマト国王墓である前方後円墳との墳形の共有を意味する。

    大和IV 3 式期には,奈良盆地の拠点集落は,多量の土器が廃棄され環濠が埋められる[橿考研 2005]。古墳時代にも居住は続いており、遺跡としては存続しているわけだが,環濠の埋め立ては 重要であり,弥生時代集落としては廃絶したと考えるべきであろう。そして庄内 0 式(纒向 1 式≒ 大和VI 4 式)には,幅 5 m前後の矢板で護岸した纒向大溝が計画的に掘削され,纒向遺跡の形成が 始まる。14C 年代から 2 世紀第 2 四半期頃と考えられる。同時に河内においても,加美・久宝寺遺 跡群や中田遺跡群が形成される[山田 1994]。ヤマト国の主導勢力である大和川で結ばれる中河内・ 大和南部において,弥生時代集落が廃絶し,新たな拠点的遺跡の形成が始まる大きな転換点となる が、それはおよそ 2 世紀前半のなかで生じたと考えられるのである。
    纒向遺跡の形成開始が 2 世紀第 2 四半期にさかのぼるとすれば,それは倭国王共立よりも 50 年 以上前のことであり,倭国成立と結びつけて考えることは誤りとなる。纒向遺跡の形成は,畿内圏 を形成した「ヤマト国の自律的な本拠形成」とみなしうる。
    寺澤薫は,大和の弥生時代の拠点集落が環濠を埋め廃絶し,纒向遺跡が現れてくることを非連続 として理解し,これを倭王権の成立にともなう王都とみなした上で,外部勢力の征服を想定し[寺 澤 1979],のち、征服ではないが吉備と北部九州を中心とする諸勢力の合意にもとづく建設と考え を改めた[寺澤 1984]。近年では,倭国は、筑紫を中心とする北部九州勢力と吉備・播磨・讃岐の 東部瀬戸内勢力によって樹立されたもので,イニシアティブは吉備が握っていたと,さらに明確に 見解をのべる[寺澤 2000]。しかし,これは纒向遺跡から導かれたものではなく,纒向遺跡周辺に 造営されていく墳墓から導いた,王権形成主体に関する見方によるものである
  • 寺澤薫は,大和の弥生時代の拠点集落が環濠を埋め廃絶し,纒向遺跡が現れてくることを非連続 として理解し,これを倭王権の成立にともなう王都とみなした上で,外部勢力の征服を想定し[寺 澤 1979],のち、征服ではないが吉備と北部九州を中心とする諸勢力の合意にもとづく建設と考え を改めた[寺澤 1984]。近年では,倭国は、筑紫を中心とする北部九州勢力と吉備・播磨・讃岐の 東部瀬戸内勢力によって樹立されたもので,イニシアティブは吉備が握っていたと,さらに明確に 見解をのべる[寺澤 2000]。しかし,これは纒向遺跡から導かれたものではなく,纒向遺跡周辺に 造営されていく墳墓から導いた,王権形成主体に関する見方によるものである。
    寺澤は倭王権の成立を卑弥呼共立に求め,それを庄内式の成立=纒向遺跡の形成にあて,2 世紀 末ないし 3 世紀初頭とし,箸墓古墳の築造された布留 0 式を 3 世紀後半に置き,庄内式を 3 世紀前
    半から中葉とする年代観に立つ。しかし,纒向遺跡の成立はより古い。
    纒向遺跡の形成は,1 世紀に畿内圏を統合し権力の集中を実現させたヤマト国によるものと考え
    られる。纒向遺跡の形成される 2 世紀前半は,およそ弥生時代後期後葉に相当すると考えているが, この時期は,西日本で形成された地域圏が土器の地域色を強める時代である。倭国乱後のような連 合関係に至る以前の段階であり、纒向遺跡の形成主体は畿内ヤマト国であって、西日本諸地域が地 域圏を強化していくこの時期に、本拠を新たに造営したものと考えられる。
  • 3 世紀後半における,古墳の副葬品に見られる鉄製武器の集積は著しい。倭国執政王墓で あるメスリ山古墳では副室武器庫が見つかっているが,これと同様と思われる副室は桜井茶臼山古 墳にさかのぼるようである。メスリ山古墳のヤリや銅鏃が 100 本単位の数量であるように,倭国中 枢部における鉄製武器の大量集積は確実である。軍事力の組織化は不明だが,軍事力そのものの整 備は,大量の武器生産とその集積保有にうかがうことができる。
    倭国内部の反乱は『日本書紀』から類推する他ないが,多くは王権をめぐる争乱であり,5 世紀 になると葛城氏や吉備氏の弾圧に示されるような地域権力を押さえ込む戦争に進む。3 世紀中頃の 狗奴国との戦争のあと,地域権力が倭王権に与するに際しての抗争や,与したのちの反乱はあまり なかったのではないか。前方後円墳の急速な波及に示される倭国の拡大は著しく,抵抗はあまりな かったように思われる。倭王権を頂点とする倭国の秩序は,第 3 代倭国王である崇神の頃には確立 するのではないだろうか。倭国という枠組みは後戻りしないものとなり,畿内の王権から主導権を 奪うといった国家的秩序を破壊するような反乱は生じなかったのであろう。
  • May 2016 編集されました
    奈良の古墳というと「大きな前方後円墳」のイメージが強いですが、この『新沢千塚古墳群』では、もっと小さなサイズのものが、橿原市の南側、高取町との境界となる「貝吹山(かいぶきやま)」の低い丘陵を埋め尽くすように、ぎっしり600基以上も並んでいます。

    このエリアに古墳が造られ始めたのは4世紀の終わり頃。500号墳・213号墳などが初期のもの。築造のピークは、5世紀後半~6世紀前半にかけて。6世紀の終わり頃までの約200年にわたって古墳が造られ続けました。

    どの氏族の埋葬地だったかは不明で、大伴氏・漢氏・蘇我氏など諸説あるそうです。まさに「死者の丘」と呼ぶような場所で、一族の者が眠る墓地のような感覚だったのかもしれません。

    発掘調査は1947年(昭和22年)に始まり、1962年(昭和37年)には本格的調査が実施された。このとき粘土槨を内部主体とする500号(前方後円墳)を含む23基の古墳が発掘された。500号墳では古墳時代前期に類する副葬品が検出され、その中には懸垂鏡といわれる珍しい銅鏡が含まれていた。その後史跡にも指定されている。

    1960年代に同志社大学などにより調査が行われ、約130基が調査さた。武具・馬具をはじめとして副葬品は豊富に出土したが、5世紀後半の126号墳からは金・銀・ガラス・ヒスイを用いた大量の装飾品が遺骨に装着したままの状態で出土し、また火熨斗(ひのし、炭を入れてアイロンとして使用した金属器)が日本で初めて出土したり、西域からもたらされたと見られるローマンガラス製品が出土したりするなど、全国的に大きな話題となった。
    P2014年には出土品のガラス皿について、化学組成がローマ帝国領内で出土したローマ・ガラスとほぼ一致することが東京理科大学の阿部善也らの蛍光X線分析で判明した。これは日本国内の古墳出土品のガラス器がローマ帝国伝来と裏付けられた初めての例である
  • 姥 津 媛 和爾日子押人命 開化帝 彦坐王(神功皇后の高祖) 六代前の大王 四世紀の後半頃
    宮道宅媛 和爾日蝕使主命 応神帝 菟道稚郎子皇子、矢田皇女(仁徳后)  本  人 五世紀初め頃
    小 甄 媛 同  上 同 上 菟道稚郎女皇女(仁徳妃)  同 上  同 上
    津 野 媛 和爾八腹小事 反正帝 甲斐郎女、円皇女  応神の孫 五世紀の中頃
    弟 比 売 同  上 同 上 財皇女、高部皇子(記では男女が逆)  同 上  同 上
    小 島 子 春日臣 市河 允恭帝 な し(市河は物部首の祖とされる)  同 上  同 上
    童 女 君 和爾臣 深目 雄略帝 春日大娘皇女(仁賢后、手白香の母親) 応神の曾孫 五世紀の後半頃
    糠 若 子 和爾臣 日爪 仁賢帝 春日山田皇女(安閑后) 第二十四代 五世紀の末頃
    荑   媛 和爾臣 河内 継体帝 円娘皇女、厚皇子(阿豆王) 応神の五世の孫 531年に没か
    老 女 子 春日臣 仲君 敏達帝 難波皇子、春日皇子、大派皇子 継体の孫 538~585年
  • May 2016 編集されました
    事代主命の化身神話と、応神の血脈を内側から醸成した一連の和邇氏(出身の娘)の存在

    赤坂比古神社の祭神は、社伝によれば同社が祀る神様は阿田賀田須命(アタカタス)です。つまり三輪氏の系図に見える、

      大物主命--事代主命--天日方奇日方命--飯肩巣見命--建甕尻命--豊御気主命--大御気主命--飯賀田須命--大田田根子命

    大田田根子命の父親に位置付けられている人物の「兄弟」(飯賀田須命の兄)が和爾氏の始祖という事になります。つまり崇神帝が河内陶邑から探し出し大三輪の祭祀を任せたのがオオタタネコですから、和爾日子押人命を開化帝の時代に置いたのも、その世代を源流と主張する伝承があったからだと考えることが出来ます。勿論、帝紀等が整理され記紀が編纂される過程の中で、一定の地位を得ていたワニ族の誰かが古い系譜への架上を試みた結果だとする見方も全面的に否定することは難しいかも知れませんが、ワニ氏族の歴史的な位置づけに関しては一つの物証が残されています。それが、神社からさして遠くない所(ほぼ南に約700m)に築造された東大寺山古墳から出土した銘を持つ鉄剣なのです。稲荷山鉄剣とも良く比較される環頭太刀の刀身には、

    中平□□ 五月丙午 造作支刀 百練清剛 上応星宿 □□□□ ( 註=中平とは、霊帝の治世の184~189年期間の年号を指します)

    の銘が象嵌されていますが、「中平」という年号は二世紀末の後漢で短期間用いられました。

    八尋熊鰐に化身して三嶋溝杭耳命の娘の許に通った結果、神武の妻となる姫蹈鞴五十鈴姫命が産まれた。この三嶋溝杭という神様こそ神武をヤマトに導いた八咫烏(賀茂建角身命)であり、彼の別名が「天日鷲翔矢命、陶津耳命、少彦名命」でした(娘の名は玉依比売命)。
    「玉櫛姫」の別名を「活玉依姫」とも云う伝承があり、賀茂(カモ)の宗家と目されていた事代主命と天孫一族が意外に親密な間柄であったことも判明してきました。
    少彦名命の父親は天津彦根命(天若日子と同神)」ですから、彼も亦、母親の高姫(下照姫)」を通してワニ(海人)の血が流れていたことになります。物部氏の「先代旧事本紀」は『阿田賀田須命は和迩君たちの祖である』(地祇本紀)と伝え「新撰姓氏録」は、

    和仁古  大国主六世孫、阿太賀田須命の後なり(大和国神別)   宗形朝臣  大神朝臣と同祖、阿田片隅命の後なり(右京神別)

    の二つの氏族名を上げて、双方が大国主命の後裔であることを主張していた事が分かります。
    赤坂比古神社に市杵嶋姫命が祀られているのも、宗像三神が素戔嗚の子神という処から勧請合祀されたのだと思われますが、、、、
  • May 2016 編集されました
    飯肩巣見命の子・建甕槌命は、鹿島神宮祭神の建甕槌命とは別神(のはず)。
    子孫の大田田根子は、崇神天皇の御代に三輪山の神主となった。

    飯肩巣見命 を祀る神社

    大川上美良布神社 高知県香美市香北町韮生野大宮243
    神坐日向神社 奈良県桜井市大字三輪字御子宮


    式内社 大和國城上郡 神坐日向神社 大 月次新嘗
    大神神社摂社
    御祭神 櫛御方命 飯肩巣見命 建甕槌命
    王子宮とも称し、
    式内社・神坐日向神社の論社で、大神神社の境外摂社。
    ただし、本来は三輪山山頂の神峯鎮座の高宮社が神坐日向神社であり、当社は高宮社であると考えられており、
    明治維新後に、両社の名前が誤って入れ替わったとされている。

    祭神は、大物主神と、陶津耳命の娘・活玉依毘売の子である、櫛御方命。その子が、飯肩巣見命。その子が、建甕槌命。その子が大田田根子。
    ということで、大神神社初代神主の祖。

    大川上美良布神社 おおかわかみびらふじんじゃ
    高知県香美市香北町韮生野大宮243  
    正一位大川上美良布神社の略記
    香美郡 香北町韮生野大宮二四三番イ号 地に鎮座。主祭神は大田々称古命で、このほ か縁故深い大物主命、活玉依比売命、陶津耳命、櫛御方命、飯肩巣見命、美良比売命、 健甕槌命を合祀。
     今から約二千年前の崇神天皇の時代に疫病 が流行して万民が苦しんだ時、天皇は大物主 命のお告げによって大物主命の子孫の大田々 称古命に神々を祭らせ、それ以来疫病が治ま って人々は安んじて生活できるようになった といわれている。当神社の創建は今から約千 五百年前の雄略天皇の時代といわれているが 定かではない。しかし仁明天皇の承和八年以 前より祭られていたという古い記述がある。 当神社は延喜式の式内社で県内では二十一社の 一つの由緒深い神社で古くから韮生郷の総鎮 守として崇敬されて来た。嘉永五年十二月二 十四日勅宣により神階正一位を授けられてい る。
     当神社の現在の社殿は明治二年に落成、当 時の名工島村安孝、坂出定之助、原卯平、別 役杢三郎等によって建てられ拝殿、幣殿、本 殿には立派な多く彫刻が残されている。この 社殿は高知県保護文化財に指定されている。
    夏祭 七月二十七日、七月二十八日
    秋例大祭 十一月二日・十一月三日
    -境内案内板- 漢字は、案内板そのままを記載

    この神社は高知市方面から国道195号線を物部川の流れに沿って遡ると、右手に「道の駅・美良布」があり、そのすぐ先の大宮前信号を左折するとすぐ右側に鎮座しています。
    拝殿に掛かる社額「正一位美良布神社」
    境内社:若宮神社、琴平神社、御崎神社
    琴平神社は大物主命(合祀秋葉神社)、若宮神社はイザナギ大神(合祀豊受姫)、御崎神社は山咋命を祀る。
    当神社は延喜式の式内社で県内では二十一社の一つの由緒深い神社で古くから韮生郷の総鎮守として崇敬されて来た。嘉永5年(1852)勅宣により神階正一位を授けられている。

    大田々祢古命は、若宮神社のはずですね。主祭神は誰でしょうか。

    ここはアンパンマンの生みの親・やなせたかしさんの故郷です。
    街灯もアンパンマン。アンパンマン電車が走っている。
  • May 2016 編集されました
    「一に一宮の志那祢さま、二に韮生(にろう)の川上さま」と称される格式の高い神社だそうです。

    土佐神社(とさじんじゃ)は、高知県高知市一宮(いっく)しなねにある神社。
    式内社(大社)、土佐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
    土左大神 - 『日本書紀』『土佐国風土記』
    土左高賀茂大社 - 『土佐国風土記』
    都佐坐神社 - 『延喜式』神名帳
    都佐坐神 - 『日本三代実録』
    高賀茂神 - 『長寛勘文』
    中世・近世には一般に「高賀茂大明神」と称されており、一部には「一宮大明神」とする史料も見られる。
    この「一宮」は土佐神社が土佐国の一宮であったことに由来するもので、土佐神社周辺の地名に現在も使用されるが、土佐では「いっく」と読まれる。

    高知市一宮(いっく)の土佐神社
    土佐一宮駅の真北1.5kmほど、一宮しなねに鎮座。

    延喜式内大社 都佐坐神社に比定される神社
    8月24日、25日に「大祭(志那祢様・しなねさま)」が行われますが、江戸時代から明治12年まで土佐神社の御神幸が行われていた土佐神社離宮(通称、小一宮(こいっく)様」)でも、8月25日に御神幸が行われます。

    土佐神社離宮が建てられた経緯

    古代より志那祢様はお船遊びと言って、浦の内(現須崎市)の鳴無(おとなし)神社に御神幸に行っていました。江戸時代の或る年、帰りに風雨が強くなったため、磯伝いに帰っていると、途中、狼に襲われ、とっさに松明を振りかざし狼を追い払ったそうです。これに懲り、翌年から五台山麓の吸江の磯を御旅所と決めお舟遊びで御神幸をするようになり、いつの頃からこの地に祠が建てられ、そして神社となったそうです。
  • 古事記には阿遅鋤高日子根神、また阿遅志貴高日子根神、また阿治志貴高日子根神、と書かれています。日本書紀には、味耜高彦根神と書かれています。(左で「鋤」と書いた字は本当は「力」が無いのですが、その字が文字セットに無いので、同音同意の「鋤」の字で代用させていただきます。)
    この神は大国主神と宗像の三女神の中の多紀理姫との間の子で、下照姫の同母兄になります。

    はじめ葛城の高鴨阿知須岐託彦根命神社に御鎮座され、そこで賀茂大神と呼ばれました。この名称は古事記にあります。

    土佐神社では、この神は土佐大神と呼ばれていますが、この土佐大神は味鋤高彦根神であり、また一言主神であって、雄略天皇が葛城山で狩りをした時に、天皇の怒りにふれて、この土佐に流されたのだとされます(続日本紀の記述。日本書紀と古事記では天皇と一言主神は至って互いに尊敬し合ったことになっている)

    イッコ様は一言主のようです。

    朱鳥元年(686)に、秦石勝が天皇の病気平癒を祈願するため、土佐まで来て土佐大神に祈り、更には天平宝字8年(764)に高賀茂田守が、御祭神を元の通り、高鴨阿知須岐託彦根命神社に復した上で、改めてその和魂(にぎみたま)を土佐神社に御鎮座せしめたということです。

    つまり、土佐神社は味鋤高彦根神にとって、第二の拠点であり、かつ、この縁起によれば、謎の多い一言主神は実は味鋤高彦根神の別魂である可能性があることが分かります。
  • May 2016 編集されました
    都々古別神社(つつこわけじんじゃ、都都古別神社/都都古和気神社/都々古和気神社)
    福島県東白川郡棚倉町にある神社。主な同名神社として2社があり、いずれも陸奥国白河郡の式内社(名神大社)論社で、陸奥国一宮。
    八槻都々古別神社:奥州一ノ宮 (やつきつつこわけじんじゃ). 〒963-5672 福島県東白川郡棚倉町大字八槻字大宮

    成立の『延喜式』神名帳で陸奥国白河郡に「都都古和気神社 名神大」と記載された式内社(名神大社)で、福島県東白川郡棚倉町内の次の2社が論社とされている。

    都都古和氣神社(馬場都々古別神社)(棚倉町棚倉字馬場) - 旧国幣中社、別表神社。
    都々古別神社(八槻都々古別神社)(棚倉町八槻字大宮) - 旧国幣中社、別表神社。
    両社はともに味耜高彦根命・日本武尊を祭神とし、それぞれ古社として知られ中世以降は陸奥国の一宮とも称されている。いずれが『延喜式』に載る神社であるかや本社・分社の関係などについては古来論争があるが、現在までに明らかとはなっていない。

    創建について、馬場社・八槻社とも縁起において景行天皇(第12代)の時に皇子の日本武尊による起源伝承を伝える。
    その真偽は詳らかでないが、伝承(各社項目参照)に見える建鉾山(たてほこやま:都々古山/高野峯山/鉾立山/立鉾山、福島県白河市表郷三森、位置)は、5世紀代の東北地方有数の祭祀遺跡として知られる。建鉾山山頂には「立鉾石」と称する磐座があり、この磐座を対象として祭祀が行われたと見られ、山麓には現在も関係社の都々古和気神社が鎮座する。馬場社・八槻社には祭神(味耜高彦根命)や神事の面で農業神の性格が強く見られることと考え併せて、この建鉾山の祭祀集団が棚倉盆地の開発を進めた結果、農業神として馬場社や八槻社が創建されたと推測されている

    馬場社・八槻社と近津神社(茨城県久慈郡大子町)の3社は「近津三社」と総称される。
    棚倉町には「都都古別神社」と称する神社が2社、馬場と八槻大宮にある。どちらも同じような由緒を伝え、同じ祭神を祀り、名神大社・陸奥国一宮を称しているが、共通の祭事はなく、別の神社である。このように「都都古別神社」がなぜ同町内に2社あるのか、その理由は不明であるが、現地では両社を区別するため鎮座地名をとって馬場都都古別神社(ばば―)・八槻都都古別神社(やつき―)のように呼んでいる。同じ久慈川沿いにある馬場都都古別神社、八槻都都古別神社と近津神社と合わせて近津三社と言われ、馬場都都古別神社は上之宮、八槻都都古別神社は中之宮とも呼ばれる。(wikipediaより)
  •  伊波止和気神社と石都都古和気神社を、上宮と下宮として、三社を近津三社に比定する説もあるといふ。イハツツコワケの名は、イハトワケとツツコワケの二神を祀ったことに由来するのだともいふ。
     吉田東伍は、式内・伊波止和気神社とは白河関の鎮護の神で、今の白河市旗宿の白河関跡の白河神社(旧関山明神)のこととする。
     古事記では天石戸別神(あめのいはとわけ-のかみ)は、別名が櫛磐窓神(くしいはまど-のかみ)または豊磐窓神(とよいはまど-のかみ)で「御門神」であるといふ。古語拾遺には「豊磐間戸命・櫛磐間戸命の二柱の神をして、殿門を守衛らしむ。〔是並太玉命の子也〕」とある。かうしたことからも、前出の神々はいづれも奥州への交通の要地の神だらうといふことがわかる。
     現在の下宮・近津神社(大子町)の祭神は、面足命、惶根命、級長津彦命であるが、このことについては別の稿とする。
    (一説に、崇神天皇の御代に肥前国松浦の近津から移された神ともいふ。また、源義家が奥州征伐のときここで千度勝たんと祈ったことから千勝大明神と字を改めたともいふが、日本武命だともいふ。音の類似から諏訪の千鹿頭神の関連も古くから論じられてもゐた)。
    http://nire.main.jp/rouman/ubu/tikata3.htm
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