怡土県主、五十迹手と山幸彦

December 2018 編集されました カテゴリ: 九州
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高祖神社 たかすじんじゃ 福岡県糸島市 祭神 天津日高彦火々出見命、玉依比売命、息長足姫 ホホデミ(山幸彦)は…

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コメント

  • 『元伊勢籠(この)神社御由緒略記』には、籠神社本宮の祭神は養老元年(717)以前はヒコホホデミが主神であったと記されている。現在ではその主神の座は(子の)彦火明(ひこほあかり)にとってかわられて相殿に回っているのはなんとも情けない話であるが、当社奥宮の真名井神社の方では幸い本来の豊受大神のままで祭られており、かつ豊受大神がヒコホホデミであったことが暗示されている
  • 日向においては景行の祭祀対象がスサノオからヒコホホデミにかわっている。たとえば、宮崎県宮崎市村角町(むらすみちょう)の高屋神社や同市瓜生野(うりゅうの)の福智神社、あるいは西都市荒武の荒武神社等にはいずれも景行天皇の創祀にかかる「ヒコホホデミの高屋(たかやの)山上陵(やまのうえのみささぎ)」の伝承地がある。
  • 但馬国一の宮粟鹿神社(延喜式の名神大社)はヒコホホデミを主神とするがその由緒には、「景行十二年、筑紫熊襲征討に天皇自ら是を征し給うとき、勅して社殿を創営あらせられ、云々」とある。興味深いのは、和銅元年に言上との奥書がある『粟鹿大神元記(もとつふみ)』には粟鹿大神を奉斎した経緯等が記されているが、そこにはヒコホホデミについての記載は一切なく、スサノオを祖とする系譜がずらずらと書かれている。そもそもそれを言上したのがスサノオを祖とするという神部直(みわべのあたい)ネマロであって、ここにも、スサノオ=ヒコホホデミが暗示されている
  • 小浜(おばま)市にヒコホホデミを祭る若狭彦神社があった
    若狭国の一の宮若狭彦神社(ウ)があって、ヒコホホデミが祭られており、「小浜市下根来(しもねごり)の白石の里に両神(ヒコホホデミと豊玉姫)が降臨されたので、仮の社殿を営み、のち霊亀元年(715)に今の地に遷し奉った」と伝えている

    東端の敦賀市には笥飯(けひ)の大神と名を変えて気比(けひ)神宮があった。


    越前市(旧武生市(たけふし))大虫町の大虫神社(図オ)の方にも、「南越地方を平定・開拓した天津日高(あまつひだか)彦火火出見(ひこほほでみ)の霊を鬼ヶ嶽の山頂に祭ったのに始まる」とあって、ヒコホホデミがこの地にも足を延ばしていたことが確認される。


    剣神社は越前国二の宮
    スサノオが祭られている。かの有名な織田信長の先祖が代々の神官として仕えた社として知られており、織田信長も当社を氏神の社として神領を寄進するなど格別の信仰を寄せている。剣神社の北北西5㌔の越知山(おちさん)にはスサノオのオロチ退治伝承が伝わっており、当山の西側で日本海に面した八ッ俣、血ヶ平、玉川、及び東側の入尾、笈松(おいまつ)という地名は大蛇退治に関係した名と伝わる。剣神社はその笈松(おいまつ)の南南東3㌔ほどのところに創建され織田家に守られてきた

    福井市砂子田町(すなごだちょう)には開化天皇の御代に創立されたと伝わるスサノオを祭る氷川神社がある。スサノオの足跡伝承は残っていないが、開化朝の創建とあるからにはこの地は、福井と邑知(おうち)地溝帯とを結ぶ海路交通の中継地であったかもしれない
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