安閑天皇、高屋神社、屯倉

December 2018 編集されました カテゴリ: 継体ー推古
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安閑の父・継体天皇と物部氏 継体天皇を擁立し、磐井の乱を平定した、物部麁鹿火(あらかひ)は、継体の子の安閑・宣…

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  • 九州、中国、四国の屯倉


    16代仁徳天皇
    河内 - 茨田屯倉[8]、依網屯倉[9]
    播磨 - 筑紫田部(損保郡)[5]、飾磨御宅(飾磨郡)[5]

    22代清寧天皇
    播磨 - 縮見屯倉[5]、針間山門領御宅(美嚢郡志深里)[5]
    26代継体天皇
    筑紫 - 糟屋屯倉[13]

    27代安閑天皇
    河内 - 桜井屯倉[14]、毎国田部[14]
    摂津 - 難波屯倉[14]、毎郡钁丁[14]
    摂津三嶋 - 竹村屯倉(上御野・下御野・上桑原・下桑原)[14]、毎郡钁丁
    播磨 - 越部屯倉[15]、牛鹿屯倉[15]、三宅(損保郡越部里)[5]
    備後(備中) - 後城屯倉[15]、多禰屯倉[15]、来履屯倉[15]、葉稚屯倉[15]、河音屯倉[15]
    婀娜 - 胆殖屯倉[15]、胆年部屯倉[15]
    安芸 - 過戸虜城部屯倉[14]
    紀 - 経湍屯倉[15]、河辺屯倉[15]
    阿波 - 春日部屯倉[15]
    筑紫 - 穂波屯倉、鎌屯倉[15]
    豊 - 勝碕屯倉[15]、桑原屯倉[15]、肝等屯倉[15]、大抜屯倉[15]、我鹿屯倉[15]
    火(肥) - 春日部屯倉[15]
    28代宣化天皇
    河内 - 茨田屯倉[16]
    筑紫 - 那津官家[16]
    筑紫・肥・豊 - 三国屯倉[16]
    29代欽明天皇
    吉備五郡 - 白猪屯倉[18]
    備前 - 児島屯倉[17]
    紀 - 海部屯倉[17]
    30代敏達天皇
    吉備 - 白猪屯倉[19]、田部[19]
    備前 - 児島屯倉[20]
    33代推古天皇
    河内 - 戸苅池[21]、依網池[21]
    35代皇極天皇
    河内 - 依網屯倉[23]
  • 山田神社 香川県観音寺市柞田町
    山田神社(やまだじんじゃ)は、香川県観音寺市柞田町にある神社。『延喜式神名帳』にある「山田神社(讃岐国・苅田郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。御朱印の有無は不明。

    創祀年代は不詳。御祭神は、山田大娘神・大己貴神・素盞嗚神・月読神。山田大娘神は、第27代安閑天皇の皇后である春日山田皇女。

    往古より柞田一郷の大社として崇敬され、古くは中河原の地、もう少し柞田に近い場所に鎮座したが、いつの時代か現在地に遷座。

    旧地には今なお神事に用いられる井戸がある。また、中河原の近くには松尾神社と呼ばれる石祠が祀られている。

    柞田村には、黒淵・山田尻・北岡・大畑の四村が属し、当社は黒淵村に鎮座し、『西讃府志』によれば、「山田は黒淵の旧名」という。

    黒淵村の後に連なる村を山田尻というのはこのため。山田とは、春日山田皇女の山田で、皇女の御名代地だったことにちなむ。

    『大日本神名辞書』によれば、皇女は子に恵まれず、その名が滅ぶのが悼まれ、匝布屯倉が置かれ、当社での祭祀となったとしている。

    鎮座地は、古くは苅田郡だが、その後豊田郡と呼ばれたため、当社も豊の社とも呼ばれていたという。

    江戸時代には山田大明神と称され、前期の貞享4年(1687年)、元禄8年(1695年)、中期の延享5年(1748年)、宝暦7年(1757年)、後期の文政3年(1820年)の造営の記録が残る。

    明治5年(1872年)に郷社に列し、明治40年(1907年)には神饌幣帛料供進神社に指定された。

    現在は小山明神(少名毘古那命)と称した神社を合祀している。

    なお、式内社「山田神社」は、近世には所在が不明となり、一時は境八幡神社と考えられていた時期もあったが、現在は当社が式内社という見解で一致している。

    境内にはいくつかの小祠があり、池の中には再建された弁天社(市杵嶋比女神)がある。他に、荒魂神社・金刀比羅社があるという。

    【ご利益】
    諸願成就、良縁・縁結び、子宝、病気平癒
    山田神社(観音寺市) - 安閑天皇の皇后・山田皇女の御名代地に皇后を祀る讃岐式内社 【関連記事】
  • 「(継体天皇)廿五年春二月辛丑朔丁未 男大迹天皇 立大兄爲天皇 即日 男大迹天皇崩」(日本書紀 卷第十八 廣國押武金日天皇/安閑天皇 前紀)の件である。大意は「継体天皇は大兄を立てて天皇となし、即日(その日のうちに)、(継体)天皇は崩御された。」と言うことであろう。これが我が国<譲位>の最初の例と言う。今までの慣例を破ってまでそんなことをする必要があるのか、と言われればそうとも思うが、継体天皇にはそうしなければならなかった理由があったのかもしれない。
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