古代の製鉄遺跡、鉄の氏族

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コメント

  • 百瀬高子氏は 著書 「御柱祭・火と鉄と神と」 の中で、信濃では 縄文中期から 製鉄があったという。
    その製鉄材料は、葦や芳の根に 鈴状に付着した カッ鉄鉱(高師小僧)で、その融解温度は 400度から始まるが、諏訪地方は 縄文土器の産地であり、その焼成温度は 800度を 4時間以上必要としたから、製鉄に必要な 諸条件は 十分満たしているというのだ。
    そしてまた 縄文中期の 円筒埴輪や 朝顔型埴輪が、明治初期の キューポラ(鋳物炉)に 酷似している事実を 指摘して、製鉄が行われていた証明に ほかならない と しいる。
    そして、諏訪大社に伝わる、薙鎌は(火を起こす)風の神であり、鉄鐸は、褐鉄鉱団塊 (高師小僧)の象徴であると。。。  この説は かなり 説得力がある。
    http://homepage3.nifty.com/utukusinomori/newpage11.html
  • 興味深い報告がある。

    出典は
    http://ameblo.jp/dr-hirokon/entry-10598825906.html

    「高師小僧」とは、豊橋市の高師原から天伯原にかけて分布する粘土層から多く産出した褐色をした鉄のかたまりで、雨で高師原の土が流された後に立っている様子や、形が幼児や動物に似ていることから、この名前がつけられた。高師・天伯原の土壌は,鉄分の多い土壌ですが,地下水にとけていた鉄分が,地中の植物の根や茎のまわりに水酸化鉄として沈殿したものである。形は管の形、木の枝の形丸い形などさまざまで、大きさは直径2~5cm,長さ1~10cmぐらいがふつうだが、大きいものは,直径が30cm以上のものもある。

    平成18年豊橋市制100周年記念事業「とよはし高師小僧フェスタ」で、豊橋工業高校の協力の下、高師小僧から鉄を作るという企画で17.5kgの高師小僧から1.55kgの鉧(けら)を作り出すことに成功している。この鉧から、大和勢力の及ぶ前から、諏訪大社の神器である薙鎌や鉄鐸が造られたのであろう。

    製鉄の民は大己貴神(大穴牟遅神)を崇拝しており、大己貴神の原初的性格は、鉄穴から発想された産鉄のかみである。

    たとえば、三河国一の宮の砥鹿神社(愛知県豊川市)は大己貴神を祀るが、天保二年に出土した六区袈裟襷(けさたすき)文の有名な砥鹿神社鐸を蔵する。さらにその南の御津町広石、御油町水戸山、八幡村平尾源祖(すべて現、豊川市)、同十両[千両、ちぎり]、小坂井町伊奈、豊橋市瓜郷から、それぞれ銅鐸が出土していて、この付近は全国でも屈指の銅鐸密集地であるが、この地は『和名抄』三河国宝飯郡賀茂郷で、そこに賀茂社の存在していることが指摘されるされている。

    ところが、この地こそ、豊川河口の扇状地をひかえ、かつては沼沢のあったことは明らかで、しかもその南の高師原から発見された褐鉄鉱の団塊が「高師小僧(たかしこぞう)」である。もしかしたら弥生時代の製鉄地とかんがえられるのではないだろうか。現に豊橋市の野依には片目の神様の伝説があり製鉄の民がいたことを物語っている。
  • 『古語拾遺』 「天目一箇神をして、種々の刀・斧はた鉄鐸を作らしめ」 鉄鐸は「さなぎ」と読む。⇒ 佐那川(豊川市御津)・佐那神社(多気郡仁田)の語源

    備前国赤坂郡の式内社4社は、鴨神社の次ぎに宗形神社が続く。宗像氏も大国主の子孫。大国主の叔父アタカタスの別名は赤坂比古。
    阿太賀田須命は、赤坂比古命とも言われ、天理市和爾町にある和爾坐赤阪比古神社(わににますあかさかひこじんじゃ)の主祭神です。
    『新選姓氏抄録』摂津国皇別に和爾部を大春日朝臣同祖、天足彦国忍人命之後也、また、同書に山城国皇別にも和爾部を小野朝臣同祖、大天足彦国押人命六世孫米餅搗大使主命之後、と記されています
  • 諏訪の守矢氏の鉄


    諏訪大社の縁起書に『諏訪大明神絵詞(えことば)』という絵巻があり、その詞書(ことばがき)に「洩矢(もりや)の悪賊神居をさまたげんとせし時、洩矢は鉄輪を持してあらそひ、明神は藤の枝を取りて是を伏し給ふ」とある。
    洩矢とは神長守矢氏の祖神、洩矢神のことで、明神とは建御名方(たけみなかた)神のことである。洩矢神は敗れたが建御名方神は勝ち、その後裔と称する神(じん)氏が諏訪社最高の神主大祝(おおほうり)を継ぎ、守矢氏は大祝に仕える五官の筆頭神長を継承した。
    建御名方神は諏訪に逃げて来たのではなく、「諏訪」が「鉄の場」であること。また、古くからの製鉄を行っている洩矢神がいることも知っていて、やって来たのであろう。「諏訪」は建御名方神が来る前から「諏訪」だったのである。
    李寧熙先生は「諏訪」は「鉄の場」を表す言葉だといっている。そのうち「鉄の場」だと証明されてくるのである。
    さあ、洩矢神は鉄輪を持ってあらそったとあるが「鉄輪」とはなんだろうか。『古代の鉄と神々』の著者、真弓常忠さんは「鉄輪」は「鉄鐸(さなき)」であろうことは容易に察せられる、といっている。
    鉄鐸は神長守矢氏固有の祭具で、守矢氏を中心とする湛(たたえ)神事に用いる。
    鉄鐸は薄い鉄板をラッパ状に巻く形状である。
    その鉄鐸を振り鳴らし鉄材(褐鉄鉱)の生成を湿原や傾斜地で祈り請うた、と推測されている。
    塩尻市の信濃二の宮の小野神社で12ヶの鉄鐸を拝したことがあった。
  • 梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』

    南宮の本山は 信濃の国とぞ承(うけたば)る さぞ申す美濃の国には中の宮 伊賀の国にはおさなき児(ちご)の宮

    稚き児の宮は三重県伊賀市、伊賀一の宮の敢国(あえくに)神社のことである。相殿に諏訪神社があり、甲賀三郎をお祭りしている
    祭神は三柱あって、主神が大彦(おおびこ)命、配祀に少彦名(すくなひこな)命、金山比咩(かなやまひめ)命
    祭神は大彦命、児を表すのは手の俣から漏れ落ちた少彦名(すくなひこな)神のことをいい、それは鉄砂(砂鉄)を表しているそうである。相殿に諏訪神社があり、甲賀三郎をお祭りしている。
    関西本線の佐那具(さなぐ)駅を降りる。伊賀上野から一駅東、佐那具というどこか古代的な響きを持つ駅名である。

    甲賀三郎は地下で蛇体になって帰ったという。

    谷川健一氏の説によれば、古代において蛇神(ときに雷神と同一視されるとも)は金属精錬と関係が深いそうである。諏訪も美濃も伊賀、甲賀も、そして三神社ともに製鉄、金属精錬をよくした氏族に関連があるとみておられるようだ。
  • 山城国 諸蕃 任那 多々良公 公
    出自御間名国主尓利久牟王也 天国排開広庭天皇[謚欽明。]御世。投化。献金多々利金乎居等。天皇誉之。賜多々良
  • 日本書紀垂仁紀では、「新羅の王子である天日槍は神宝を携えて日本にやって来た。朝廷は播磨国はりまのくにの宍粟しさわ(兵庫県宍粟市・しそう)の地と淡路島の井浅いでさの地を与えようとしたが、天日槍はこれを断り、自分の住む所は自分で探すと言い、宇治川(淀川)を遡り、近江(滋賀県)から若狭(福井県)へ移り、但馬(兵庫県北部)の出石いずしに住み着いた。」とあります。

    播磨国風土記・揖保郡いぼのこおりの条では、「韓国からくに(朝鮮半島)からやって来た天日槍が揖保川に至ったとき、葦原志拳乎あしはらしこお(大国主神おおくにぬしのかみ)に土地を譲ってほしいと願い出た。葦原志拳乎は取りあえず海にとどまるように言うと、天日槍は海面を勢いよくかき混ぜたので、葦原志拳乎は恐れた」と記述されています。
    また同じく播磨国風土記・宍禾郡しそうのこおりの条では、「葦原志拳乎と天日槍が一つの谷の領有権を争った」とあります。
    同じく播磨国風土記・神前郡かんざきのこおりの条でも「出雲神いずものかみ(=大国主神)と天日槍が争った」と記されています。

    筑前国風土記では「高麗国こまのくにの山に天から降ってきたヒボコが同じ国の怡土郡いとのこおり(福岡県糸島郡)の県主あがたぬしの先祖である」ということが書かれてあります。
  • 小丸遺跡(広島県・三原市) - 通説を翻し、3世紀から製鉄(タタラ)が始まっていた、かも
    ・時 期:2世紀~3世紀
    ・時 代:弥生時代後期
    ・形 状:製鉄炉
    ・特 徴:-
    ・指 定:-

    【概要】
    弥生時代後期の遺跡。1995年に3世紀のものと推定される製鉄炉が見つかった。それまで、日本のタタラ、製鉄は5-6世紀から始まるとされていたものを、一気に数百年早める大発見となった。

    もともと日本の鉄の生産は、西日本全域で大陸系磨製石器が減り、鉄器が急に増えた弥生時代後期ととらえる説もあったが、この遺跡がこの説を裏付けた形。

    広島県埋蔵文化財調査センターによると、 製鉄炉は、弥生時代後期の集落跡近くに約50メートル離れて二基並んでいた。うち一基は、直径50センチ、深さ約25センチのすり鉢状の穴で、左右に鉱滓(こうさい=スラグ)が 詰まった土壙(どこう)があった。放射性炭年代測定の結果、土壙は三世紀のものとわかった。

    同センターは、
    1.三つの穴は一緒につくられたと考えられる
    2.近くから弥生時代後期前半の土器片が見つかっている
    3.形が他に比べて原始的・・・
    などから三世紀のものと結論づけたという。
  • 鉄鐸(さなぎ)
    信濃国一の宮として全国に1万余の御分社をもつ諏訪大社は、諏訪湖を隔てて南北に上社、下社があります。 上社は本宮と前宮に、下社は春宮と秋宮に別れており、これら4社を合わせて諏訪大社と言います。 上社の祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)、下社はその妻の八坂刀売命(やさかとめのみこと)で、 武神・農耕神・狩猟神・風神として武田信玄など武将の信仰も集めました。社殿は四方を御柱(おんばしら)に囲まれ、 その内部に東西宝殿、幣殿、拝殿などが配置された諏訪造。上社にはその背後に神体山(しんたいざん)が、 下社には神木が立つ。建御名方命は出雲神話の国
    譲り伝説に登場し、破れて信濃に逃げてきた神です。

    ここには『湛(たたえ)神事』と言われる、古くから行われている行事があります。

    その儀式に使われる高鉾に付けられた鉄鐸(さなぎ)は銅鐸の原型と目され、弥生時代から使われていたのかも知れません。

    鉄鐸は鍛鉄で作られ高さ約18cm厚さ1.7㎜程度です。鐸の中にぶらさげられた舌(ぜつ)は8角形の断面を持っています。 鈴のような綺麗な音ではなく、ガシャンガシャンという鉄管の触れ合う音で決して荘厳な音ではなかった、と著者は記しています。

     かんぬきに留められた吊り環は舌をぶらさげ、上はひもで鉾につながれた3ケつなぎのリンクです。 番号3は溶接なしのリンクですが4は上下のリンクが鍛接リンクのようです。又、6は3リンクとも鍛接されています。 この鉄鐸とリンクが同じ時期のものとすれば日本最古、弥生時代の鎖です。 もちろん、傷みによって何度か修理もされているようですが。

    参考図書  銅鐸  藤森栄一  学生社  1964年
  • 丹後の鉄が全国的に注目されるのは、遠處よりもむしろもっと古い弥生中期後半ごろから、終末期くらいの時代である。この時期の丹後は全国No.1の鉄器の出土量で知られる、北九州も大和も寄せ付けない。奈具岡や日吉ヶ丘や大風呂南の時代で、絶対年代で言えばだいたい紀元0年くらいから卑弥呼時代の頃までの丹後である。
    『丹後の弥生王墓と巨大古墳』(弥生王墓と巨大古墳の特質  広瀬和雄)は、
    …鉄剣や鉄戈などの武器副葬の風習は、弥生時代中期後半ごろから北部九州の首長墓にみられるが、そこでは鉄鏃はほとんどなく、前漢鏡・後漢鏡の副葬が注意をひく。むしろ丹後によく似た情況は、南部朝鮮の弁韓地域にみとめられる。ここでも一世紀ごろになると、墓域が丘陵に移行し、鉄製品や玉類などを副葬するが、丹後にはない土器の副葬もおこなう。そうした彼我における現象が「他人の空似」なのか、なにがしかの交渉を想定できるのかは、これからの研究をまつほかない。
     あいつぐ丹後の弥生墳墓の発掘調査で、もっともクローズアップされたのは、やはり鉄器、ことに武器の副葬であった。野島永氏の集成によれば、合計四二振りの鉄製刀剣が一四カ所の弥生墳墓から出土しているが、これは列島各地における弥生墳墓の副葬数では一頭地を抜く。ことに大風呂南一号墓第一主体部の一一振りの鉄剣は、埋葬された首長の基盤が奈辺にあるのかを、じゅうぶんに想像させるものだった。これらはおそらく首長の威信財としての役割をにない、その死とともに副葬されたのだろうが、鉄製武器を威信財にしていた社会とは、いかなる構造をもっていたのか。すくなくとも、そうした情況が継続されている事実からすれば、鉄製武器の恒常的な獲得が可能であったことになろう。…

    弁韓というのは、朝鮮半島南東部の洛東江の流域、加悦町の伽耶(かや)諸国のことで、過去の日本史で、日本の植民地だったという任那(みまな)のことである。この当時の鉄の大産地としてよく知られる。辰韓というのは後の新羅で、ここより少し北にいた種族だが、互いに似ていたそうで、まとめて「弁辰」と呼ばれることがある。
    『魏志』のその「弁辰伝」に、
    国々は鉄を産出し、韓、濊、倭など皆、これを採る。諸貨の売買には皆、鉄を用いる。中国で金銭を用いるがごとくである。また二郡(楽浪・帯方)に供給している。
  • 遠所遺跡群調査の概要
     農林水産省近畿農政局が計画推進する「丹後国営農地開発事業・弥栄町字木橋鴨谷団地造成工事」に先立ち、京都府埋蔵文化財調査研究センターが発掘調査を実施した。
     遺跡は弥栄町の西端、ニゴレ古墳(五世紀中頃築造)の南側の谷奥、南北八百米・東西四百米の範囲に広がっている。
     調査は一九八七(昭六三)~一九九○(平成二年十一月)現在も続いている。平成二年八月十日現在説明会資料によると、製鉄炉八。鍛冶炉一三。炭窯焼土坑二一一。須恵器登窯六。住居建物跡四七。流路溝等九。古墳二二。計三一六という規模の大遺跡群である。
     遠所遺跡群調査の成果について、埋文調査センター増田孝彦主任調査員の現地説明の要点は、次の六点であった。
     ①遠所遺跡群からは五世紀~十三世紀にかけての各種の遺物が出土している。製鉄炉はじめ、炭窯・住居跡など鉄生産に関する一連の遺構があり炭窯については四型式がある。
     ②製鉄炉は古墳時代後期六世紀後半のものと奈良時代後期(八世紀後半)が確認できる。鉄生産に必要な炭窯から見ると五世紀-六世紀初頭まで遡る製鉄遺跡の存在も考えられる。
     ③製鉄原料の砂鉄貯蔵穴、奈良時代後期の製鉄炉と鉄滓の検出等から、原料(砂鉄)-精錬-鍛錬-製品の一貫工程を遠所遺跡群で行っていたことが判明した。
     ④製鉄研究は、東日本七世紀後半以降、西日本六世紀後半以降の資料をもとに進められているが、今回の調査は製鉄開始の時期、炉や炭窯の構造と年代、砂鉄を原料にしていることから製鉄史上貴重な資料提供になる。
     ⑤製鉄と地名の点から弥栄町に「芋野」・「井辺」という大字名があり、字吉沢にある早尾神社の摂社に金山彦神が祀られていることから、鋳物師との関係が指摘される。又宮津市智恩寺と成相寺に現存する国指定重要文化財の正応三(一二九○)年銘、鉄湯船(経一七二・五㎝、高さ六三・五㎝)はその銘文から、もとは弥栄町内の興法寺、および、等楽寺にあったことが知られており、鎌倉時代の製鉄が確実視されている。遠所の製鉄遺跡とあわせると、弥栄町の長い製鉄史をうかがうことができる。
     ⑥丹後半島で古代製鉄を考えると、峰山町扇谷遺跡(弥生時代前期末-中期初頭)の鉄斧、鍛冶滓が出土しており、深い環濠を掘るために鉄製の道具を使用したのではないか。遠所遺跡の調査とあわせ考えると、丹後という地域は、日本での鉄器使用と鉄生産を始める時期、場所を考える上で重要な地域である
  • 弥栄町誌
    興法寺 字吉沢小字小原 真言宗 同寺の記録によれば、
    「小原山興法寺は人皇四十三代元明天皇の御宇和銅元年(千二百六十年前)、遍然上人の開基なり。本尊は聖観音にして梵天帝釈の御作なり。正応三年願主物部家重、山河貞清に命じ、水槽を鋳造し寄進す。天の橋立智恩寺に現存するもの是也。天文九年、火災に罹り、以来荒廃歳久し。元禄年間縁城寺応爵法印堂を再建し、梵鐘を鋳造して面目を維に新にす。宝永三年大覚慧門跡真未の班に列し、宝歴年間慧龍法印亦諸堂を復興し以て再中興の祖となす。天保元年亦本堂焼失、同年峰山町寺田惣右衛門氏発願、巨費を投ぜられ、吉岡嘉兵衛又私財を投じこれを再建す。現在の本堂是也」。
    とある。丹哥府誌によれば、
    「小原山興法寺は和銅元年(千二百六十年前)遍然上人の開基なり。本尊聖観音菩薩は梵天帝釈の作なりと伝う。文禄二年堂宇伽藍焼失して皆烏有となる。今は本堂山門食堂僅に残して諸堂の名空しく山間に残る。往年の仏像五輸等其の跡より掘り出せることあり。今零落したりと雖ももとより霊地なれば、六月十七日の縁日には凡そ五、六里四方より参るものあり。踏歌など踊りて頗る賑し。境内に後藤新兵衛基清の墓あり」
    とある。基清の墓は現在字吉沢上野(内記に至る道路の傍の岡畑)にある。通称後藤墓として知られる。当時はこの地域も小原山境内といったものか詳かでないが、丹哥府誌にはそのように出ている。以上のように小原山興法寺は、古文書その他の文献の示すとおり丹後の古刹で、峰山町橋木縁城寺、府中成相寺と並び称せられる由緒もっとも深い寺で、七堂伽藍整い、隆盛を極めたが、数度の火災にあい、堂宇並びに記録ことごとく烏有に帰し、今はただ本堂食堂僅かに残すのみとなった。堂宇伽藍は壮麗とはいえないが、眼病患者り信仰篤く、古くより明治、大正のころまでは参拝者絶えず、中には数日定龍りと称して参籠するものもあった。
  • 丹後地方では、すでに弥生時代前期末から中期初頭の峰山町扇谷(おうぎだに)遺跡から 鉄器生産に伴う鍛冶滓(かじさい)が出土しており、鉄器の生産が行われていたことが知 られている。このため丹後が古代の鉄生産の一つの拠点となっていたのではないかと考え られている
    ガラスの釧(くしろ:腕輪)で一躍有名になった大風呂南遺跡だが、実は、「鉄」の遺跡 としても非常に貴重な存在なのだ。全国最多の11本の鉄剣が出土しているが、その内9 本は柄が着いておらず、「はじめから鉄製品を作るための素材だった可能性もある。」と 言われている。
    弥生時代鉄製品の出土例は、平成14年現在、丹後からは330点を数えるが、同時期の 大和では13点にしかならない

  •  兵庫県南あわじ市で2015年にみつかった弥生時代の青銅器「松帆銅鐸(まつほどうたく)」の科学分析を実施した結果、朝鮮半島産の鉛を含むなど弥生時代中期前半(紀元前4~前3世紀)の最古級の銅鐸と同じ特徴を持つことが分かった。市教委が27日発表した。多数の銅鐸が土中に埋められたのが、紀元前にさかのぼって最古の事例となる可能性が強まった。

     市教委は奈良文化財研究所(奈良市)に依頼し、銅鐸7個と、一緒にみつかった音を鳴らすための「舌(ぜつ)(振り子)」7個に対し、元素の種類や含有量を測る発光分光分析(ICP分析)と、鉛の同位体比から産地を推定する分析を行った。錫(すず)と鉛の成分比率が古い型式の銅鐸と似ていたほか、紀元前3世紀以前の銅鐸に使われていたのと同じ朝鮮半島産の鉛が含まれていたことも分かった。

     銅鐸は、豊作や集落の安全を祈るコメ作りを中心とした農業のまつりに使われたとされる。当初は木の枝などにつるして音を鳴らす小型の「聞く銅鐸」だったが、次第に大型化し、表面に文様や絵画が表現され、床などに置いて見せる「見る銅鐸」へと変化した。

     銅鐸の特徴の一つが、何らかの理由で意図的に土中に埋納(まいのう)されたことだ。その時期をめぐっては、聞く銅鐸が弥生時代中期末~後期初め(1世紀初めごろ)、見る銅鐸は弥生後期末(2世紀後半~3世紀前半ごろ)に一斉に埋められたとする「二段階埋納説」が有力だった。

     だが、松帆銅鐸の埋納年代は、市教委が昨年、銅鐸に付着した植物片に放射性炭素(C14)年代測定を実施。紀元前4~前2世紀ごろの可能性の高いことが判明した。今回の分析結果はそれを補強し、想定より150年以上古い紀元前にまでさかのぼる可能性が高まり、従来の説に一石を投じる形となった。

  •  兵庫県南あわじ市で2015年に発見された青銅器「松帆銅鐸」(7個、弥生時代前期末~中期前半)の銅鐸と、音を鳴らす「舌(振り子)」の原料に、いずれも朝鮮半島産の鉛が用いられていたことが27日、同市教育委員会による成分分析で判明した。松帆銅鐸調査研究委員会委員長の和田晴吾・兵庫県立考古博物館長は「松帆銅鐸の舌と銅鐸は、同じような時期にセットで作られ、移動した可能性がある」と話す。

     分析は同市教委が専門業者に依頼。銅鐸7個、舌7本それぞれの一部を削り、サンプルを採取して計測した。「鉛同位体比分析」では、鉛の産地はいずれも朝鮮半島を示す結果に。古い形式の銅鐸では朝鮮産の鉛が使用され、弥生時代中期前半に、中国北西部産へ切り替わったことが従来の研究で明らかになっている。このため、松帆銅鐸が古い時期の銅鐸であることが、形状・形式だけでなく、素材面からも科学的に裏付けられた。

     「ICP分析法」と呼ばれる測定では、銅鐸と舌のいずれも、青銅の成分比率が、銅70~81%、スズ10~16%、鉛4~18%と判明。弥生時代中期前半以前の古い銅鐸と似た数値だった。

     銅鐸の主原料の銅については、ヒ素など微量元素の分析から、国産ではなく、朝鮮や中国からの輸入とみる説が近年は有力。難波洋三・奈良文化財研究所客員研究員は「今回の分析から銅も朝鮮産と考えられる。近畿には、原料金属の流通を含め、早くから広域的なネットワークができていたのでは」としている。

     7本の舌のうち、2本が同じ鋳型から作られた“兄弟”であることも新たに分かった。兄弟関係の舌の発見は全国初。松帆銅鐸は、これまでの調査で、2号鐸と4号鐸が兄弟であることが分かっていた。今回、4号舌と7号舌が兄弟だったことで、2、4、7号の銅鐸と舌が、同じ工人集団によって製作された可能性が高まった。(堀井正純、金井恒幸)

    【松帆銅鐸】2015年4月に兵庫県南あわじ市松帆地区から採取したとみられる砂を工場で処理中、7個が見つかった。内部につるして音を鳴らす棒の振り子「舌」がすべてに伴うのは異例。つり手にはひもの痕跡が残り、ぶら下げて鳴らしていたことを初めて裏付けた。国宝の加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)や荒神谷遺跡(同県出雲市)の銅鐸と同じ鋳型から作った「兄弟銅鐸」が含まれている。 【鉛同位体比分析とICP分析法】物質には原子番号は同じだが、原子核に含まれる陽子と中性子を足した「質量数」が異なる同位体が存在する。鉛の同位体比が鉱山ごとに異なっていることを活用し、原料産地を推定するのが鉛同位体比分析。青銅は銅・スズ・鉛などの合金で、その比率を調べる方法がICP分析法。高周波のプラズマを当て、放出される発光線の波長と強さで元素の種類や含有量を調べる。

  • {1}(天智天皇)七年(668)戊辰正月十七日。於近江国志賀郡。建崇福寺。
      始令平地。掘出奇異宝鐸一口。高五尺五寸。(『扶桑略記』)

    {2}(元正天皇和銅六年(713)七月)丁卯(6日)、大倭国宇太郡波坂郷人大初位上
      村君東人、得銅鐸於長岡野地而献之。高三尺、口径一尺。其制異常、音協
      律呂。勅所司蔵之。(『続日本紀』)

    {3}(聖武朝(724-749))地中得五尺宝鐸。(『元亨釈書』巻第二十八、寺像志、
      石山寺条)

    {4}(嵯峨天皇弘仁十二年(821))五月丙午(11日)。播磨国有人。掘地獲一銅鐸。
      高三尺八寸。口径一尺二寸。道人云。阿育王塔鐸。(『日本紀略』/
      『日本逸史』)

    {5}(仁明天皇承和九年(842)六月)辛未(8日)。若狭国進銅器。其体頗似鐘。
      是自地中所掘得也。(『続日本後紀』)

    {6}(清和天皇貞観二年(860)八月)十四日辛卯。参河国献銅鐸一。高三尺四寸。
      径一尺四寸。於渥美郡村松山中獲之。或曰。是阿育王之宝鐸也。
     (『日本三代実録』)

    ※『続日本紀』は延暦十六年(797)の、『続日本後紀』は貞観十一年(869)の、
     『日本三代実録』は延喜元年(901)の、『扶桑略記』は12世紀後半?の、
     『日本紀略』は平安末期の、『元亨釈書』は元亨二年(1322)の、『日本逸史』
     は元禄五年(1692)のそれぞれ成立
  • 鉄の発見

    砂鉄―地表に近い所に砂鉄があり、その地表で土器を焼いた時、砂鉄から還元された鉄
    が得られた可能性がある。
    砂鉄のたくさん含まれる浜辺で焼いて偶然鉄を発見したかもしれない。

    餅鉄(もちてつ・べいてつ)―東北には餅鉄という純度の高い(鉄分70%)磁鉄鉱があ
    る。
    大槌町(岩手・遠野、釜石に隣接)あたりに古代製鉄遺跡がみられる。
    明神平では3600年前のカキ殻の付着した鉄滓が出土している。
    明神平には小槌神社があり、現在の祭神はヤマトタケルだが、
    もとは、古代の製鉄を普及した先人が祀られていたという。
    この縄文人はお盆状の野焼き炉に餅鉄とカキ殻をいれて火をかけ、
    矢鏃、釣り針を作ったらしい。
    ちなみに舞草鍛冶は、岩手県一ノ瀬の舞川あたりでとれる餅鉄の製鉄が
    発祥といわれる。(HP劇場国家日本より)


    高師小僧(たかしこぞう)


    愛知県豊橋にある高師原で発見された褐鉄鉱の塊のことである。水辺の植物の根に鉄バ
    クテリアの作用で水酸化鉄の殻を作る。時を経て植物が枯れ中央に穴のあいた塊が残る
    。高師原に戦前陸軍の演習場があって雨が降ると頭を出し、幼児が並んでいるようにみ
    えたことから名付けられた。
    全国の製鉄遺跡がみつかった場所に多くみられる。
    代表的なところが諏訪地方、大阪府泉南市、滋賀県日野町別所などがある。
    諏訪の川には葦が茂り、諏訪湖のほとりも葦がたくさんある。ここにスズといわれる塊
    が製鉄原料として使われた

    スズ=褐鉄鉱の塊=高師小僧=みすず=鳴石
    「三薦(みすず)(水薦(みこも))刈る 信濃の真弓 わが引けば 貴人(うまひと)さび
    て いなと言わかも」
    みすずは信濃国の枕言葉で、「みこもかる」は「みすずかる」ではないのかと賀茂真淵
    が唱えたことからみすずは、スズ竹のことであるといわれた。スズ竹は、篠竹で諏訪に
    多く産する。
    うたの意味は「この弓を引いてあなたの気を引くのは貴人みたいで、あなたはいやがる
    かしら!?」という意味である。

    湛え神事

    諏訪大社の古い神事のことで、高鉾につけられた鉄鐸が使用される。
    鉄鐸は、てったく・さなぎと呼ばれ銅鐸の原形といわれる。湛え神事は作物の豊穣を願
    う神事といわれているが、スズの増殖、鈴なりに地中に生成されることを願ったのでは
    ないかと考えられてきている。



    諏訪大社

    祭神は建(たけ)御名方(みなかた)命(のかみ)(南方刀美命)で、出雲の国譲りで納得で
    きず諏訪に逃げてきた神である。
    土着の洩(もり)矢(や)神(しん)を制し祭神となった。洩矢神は鉄輪を使い、建御名方命
    は藤の枝を使って戦った。
    藤は砂鉄を取り出す鉄穴流しで使うザルで、この話は製鉄技術の対決だったという。
  • 熊本県荒尾市の樺地区一帯は古代製鉄で知られた小岱山の麓で、付近には金屋、金山という地区もあることから、古代の重要氏族がいたのではないかと考えています
  • ●殷・周時代(紀元前10世紀)
    河北省で最古の鉄器が発見される。

    ●春秋末から戦国初期(前4~6世紀)
    ~江蘇省程鎮1号墓から白銑鉄の鉄塊・2号墓から海面鉄鍛造の鉄棒出土
    銑鉄と錬鉄の両方が存在した。ただし、この時代の鉄器は大半が鋳鉄製。錬鉄の硬化技術がまだ、十分に開発されておらず、鍛造製のものはごくわずか。鋳造製の硬いが脆いという弱点は刃を脱炭することによって克服され、実用農工具に鉄器が使われていく
  • 丹後の鉄、弥生の鉄

    ガラスの釧(くしろ:腕輪)で一躍有名になった大風呂南遺跡だが、実は「鉄」の遺跡としても非常に貴重な存在なのだ。
    全国最多の11本の鉄剣が出土しているが、その内9本は柄が着いておらず、「はじめから鉄製品を作るための素材だった可能性もある。」と岩滝町教育委員会文化財調査員の白数(しらす)真也氏は語る。

    そして岩滝町とは峠道で結ばれている大宮町の三坂神社・左坂両墳墓群(弥生後期)にも鉄刀が副葬されていたし、さらにそこから北へ10kmほど行った弥栄町の奈具岡遺跡(弥生中期)や、北西側の峰山町扇谷(おうぎだに)遺跡(弥生前期末)・途中(とちゅう)が丘遺跡(弥生時代前期末~後期)等々の鉄材や鉄器加工の痕跡などを見ると、弥生時代を通じてこの丹後半島のほぼ中央地域一帯に、鉄器文化のネットワークができあがっていたと見ることができる。

    扇谷遺跡から北西2.6kmのところにある赤坂今井墳丘墓(弥生後期末)は、最大の方形墳丘を持つ遺跡だったが、ここからもヤリガンナなど多量の鉄製品の出土を見ている。日本海沿岸から丹後半島の中心部に至る交通路の要衝に位置し、鉄の交易を背景に君臨した強大な首長の存在を窺わせる、長さ14m、幅9mという巨大な墓壙も確認されている。


    ■王を飾った青いガラス製の腕輪
    (岩滝町 大風呂南1号墓、弥生時代後期後葉 外径9.7cm、岩滝町教育委員会蔵、重要文化財)



    ■与謝郡岩滝町大風呂南墳墓の副葬鉄器と東方交流■

    ここで主流派となる竹野川・福田川流域の台状墓とは異なり、野田川下流域に立地した与謝郡岩滝町大風呂南墳墓群の鉄器に注目したい。出土した鉄鏃のなかには、鏃身中央の鎬(しのぎ)や柳葉式にみられる独特の関の曲線的造形はないものの、定角式あるいは柳葉式と呼ばれる前期古墳副葬鉄鏃に類似するものがある。類品は北部九州から瀬戸内海に多いものである。

    また、漁労具小型の組み合わせヤスは、前期古墳でもその出現期から採用される副葬品目に類似する。しかしその一方で、大風呂南1号墓第一主体部にみられた鉄剣には、前期古墳副葬鉄剣には継承されない形制のものがある。墓壙北西側(被葬者頭部側)、2組にまとまって出土した丸振りの鉄剣は、短い茎部に目釘孔一孔と角関をもち、刃関部分に双孔を穿つものである。
    丹後地域の特例としては、竹野郡弥栄町古天王5号墓出土鉄剣のみであり、後期後葉の時期、鉄剣副葬がよく見られる丹後地域でも少数派である。このような短茎刃関双孔の鉄剣は、近畿地方よりむしろ北部九州やその周辺、或いは東海・関東地方にみられるものである

    このほか丹後地域において、東方緒地域との交流を示唆する副葬鉄器として扁平な帯板を曲げて環状に造り出した鉄製小型円環がある。丹後・但馬地域では、京都府中郡峰山町金谷1号墓第3主体部・兵庫県豊岡市若宮4号墓第4主体部に見られる。この鉄製小型円環がどのような由来の物か考える上で参考となるのは、銅製の鉄製小型円環の研究である。

    白居直之氏は、詳細な資料操作によって銅製小型円環が帯状円環形銅釧の分割・再加工の結果であることを証
    明した。白居氏は、帯状円環形銅釧の一カ所を切断し、穿孔して垂飾品(2,3)として使用されるものの他に、円環を断ち切り、熨した(4)後に裁断し、再び曲げ輪造りによって小形円環(5)に再生されるものや、さらに帯板状の銅片を条刻の後に縦方向の裁断(6)して、幅の減じた円環(7)に造り出されるものあることを例証している。この銅製小形円環の製作過程を敷衍してみれば、その断面が扁平となる金谷1号墓や若宮4号墓の鉄製小形円環(10,11)についても帯状螺旋形鉄釧(8)の切断、再加工によるものとする余地も見られる。帯状螺旋形鉄釧は中部高地に集中して分布している。鉄製小形円環はその南方に分布していることから、中部高地において製作された鉄釧が何らかの要因で切断、再加工され、その南方に供給されていたとも想定できる。
    東海地方との交易によって近畿地方北部にもたらされたと推測することも可能ではなかろうか。

    【丹後地域における弥生時代の鉄をめぐって  財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター調査員 野島永 】
    【平成14年4月13日大阪府立弥生文化博物館発行 「青いガラスの燦き -丹後王国が見えてきた-」より】
  • 阿波国(徳島県)那賀郡の水井(すいい)水銀鉱山も重要な産地であった。当地の水銀朱は鉄素材と交換されたので、阿波国では鍛冶遺構が多く、鉄器の出土量も他地域より多い。筑紫国の豪族は朝鮮との交易によって入手した鉄素材を阿波国の水銀朱と交換していた。

     淡路国(淡路島)は明治時代から兵庫県に編入されているが、それ以前は阿波国(徳島県)と共に徳島藩に属していた。淡路は古代から阿波との繋がりが深い。
     兵庫県淡路市黒谷の五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)と阿波国の鍛冶工房群は、水銀朱を瀬戸内海航路の交易品として筑紫から鉄素材を購入していた。

     五斗長垣内遺跡が西暦200年頃で終わると、鉄器が少なかった大和では鉄器の使用が急に増えてくる。そして古墳時代に入り大規模な古墳が築造されるようになる。これは五斗長垣内遺跡の大規模鍛冶工房の職人たちが大和に移住したのが原因ではないかと云われている。
     私見ですが、西暦185年頃に饒速日が大部隊を率いて筑紫から大和に東遷する途中に、五斗長垣内遺跡の大規模鍛冶工房の職人たちも一緒に連れて行ったのではないでしょうか。

     徳島県鳴門市大麻町萩原で発見された萩原一号墓(220年頃)と二号墓(200年頃)の埋葬施設の造り方は「石囲い木槨の積み石墓」で、奈良県桜井市のホケノ山古墳(250年頃)とよく似ている。
     萩原一号墓と二号墓の築造時期は五斗長垣内遺跡の住民が消える時期で、阿波国那賀郡の水銀朱生産が終わる時期になる。
         
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