星神、香香背男、星の宮、天背男

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  • 静神社(延喜式内社)/茨城県那珂市
    茨城県那珂市静2
    式内社(名神大社)、常陸国二宮で、旧社格は県社。
    創建は不詳。『新編常陸国誌』では大同元年(806年)に創建されたという社伝を載せる。
    前述のように当地は倭文部、すなわち文様付の布を織る技術者集団の居住地と見られ、当社はその関係社と見られている。また当社東方には5世紀を中心とした古墳群(新宿古墳群)が残っており、当社との関係性が指摘される。

    由緒:
    国史では『日本三代実録』仁和元年(885年)5月22日条で、従五位上の神階が叙せられたと見える。『延喜式神名帳』には「常陸国久慈郡 静神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。
    また鹿島神宮(一宮)、吉田神社(三宮)とともに当社は常陸国の二宮として崇敬されたという。このように崇敬された理由として、遅くとも奈良時代から麻布の使用が庶民に広がったが、常陸国はその特産地であり当社がその生産に関与したためとする考えがある。
    中世には佐竹氏が当地を領有し、佐竹貞義によって当社境内に弘願寺・西方寺・静安寺が設けられた。
    江戸時代には、慶長7年(1602年)に徳川秀忠から神領150石が寄進された。その後は水戸徳川家の祈願所とされ、維持管理は藩費によってなされたという。寛文7年(1667年)に徳川光圀(水戸第2代)が社殿を修造し弘願寺含め3寺は廃されたが、この際銅印(重要文化財)が発見されている。これにより神仏習合から唯一宗源神道に改められた。以後も徳川氏から崇敬され、徳川綱條(水戸第3代)からは三十六歌仙が奉納され、徳川斉昭(水戸第9代)が天保12年(1841年)の火災で焼失していた社殿を再建した。なお、その火災で燃えた神木の切り株は現在も境内にある。
    明治に入り、近代社格制度では県社に列した。

    飛鳥時代、蘇我氏との権力抗争に敗れた物部氏の一族のある集団が、ここ常陸の国に落ち延びて来たといわれている。その集団の中に、養蚕と機織の技術と技法を持った秦(波多)氏の親族が居り、この地に養蚕と機織の技術を伝授したそうである。現在でも、織物の祖神として信仰されている。

    万葉歌碑がある。
    万葉集 巻20-4372
    防人、倭文部可良麿(しとりべのからまろ)の長歌が刻まれています。

    足柄(あしがら)の み坂たまはり 顧(かへり)みず 我(あれ)は越(く)え行く 荒(あら)し男(を)も 立(た)しや憚(はばか)る 不破(ふは)の関(せき) 越(く)えて我(わ)は行く 馬(むま)の蹄(つめ) 筑紫(つくし)の崎に 留(ちまり)居て 我(あれ)は斎(いは)はむ 諸(もろもろ)は 幸(さけ)くと申す 帰り来(く)まてに

    (大意) 足柄峠を越える許可を賜り、私は、振り返ることなく峠を越えていく。勇猛な男でも立ち止まって躊躇うであろう不破の関も私は越えて行く。馬の蹄を筑紫の崎にまで進めてそこで留まり、私は潔斎しよう。人々が無事でいてくれと祈るのだ。帰って来るまで。

    倭文部可良麿についての確たる伝承はないようですが、彼が常陸国久慈郡(くじのこほり)の出身との説もあり、ここ静神社に歌碑があるようです
  • 全国を通じて「真鍋」の地名が顕著なのは、常陸だけである。常陸の真鍋は、霞ヶ浦の北西方の土浦市にあって、近くには笠師、木田や矢作、白鳥、手野、神立、粟野(以上は土浦市)、及びかすみがうら市加茂、つくば市小田など、少彦名神関係や吉備・讃岐関係の地名が多く見え、真鍋の近くに青麻神社(仙台市宮城野区にある同名社が総本社とされ、旧称を青麻岩戸三光宮、嵯峨神社などといい、その祭神は本来、天日鷲命すなわち少彦名神とみられる)もある。少彦名神関係の氏族には、鳥トーテミズムや粟・麻・弓矢、繊維衣服関係が目立つという特色が強く見られることに留意したい。常陸北部へは、三野前国造の一族が美濃西部の引常丘から遷住して当地の長幡部・倭文連となった事情がある

  • 『旧事』伊佐布魂命(いさふたまのみこと)。別名:天活玉(アマノイクタマ)命。倭文連(やまとのふみのむらじ)等の先祖。 

    神皇産霊尊-角凝魂命 ─伊佐布魂命─天底立命-天背男命-天日鷲翔矢命 という系図がある。
  • 天香香背男神
    美作地方にある神社

    岡山県久米郡福渡村下神目       志呂神社     「事代主神、天香香背男命」
    岡山県久米郡打穴村打穴        榊葉神社      「天香香背男ほか」
    岡山県久米郡久米町油木北1608  少彦名神社 「少彦名命 配 天香香背男命、瀬織津姫」
    岡山県久米郡久米町里公文1514  高津神社 「大日・貴尊 配 天香香背男命ほか」
    岡山県久米郡旭町里1827  八幡神社(湯田神社) 「譽田別命 配 天香香背男命ほか」
    岡山県久米郡久米南町山之城557  天津神社 「天香香背男命」
    この他に、天羽槌雄神を祀った倭文神社(久米郡倭文中村油木)や瀬織津姫命を祀った錦織神社(久米郡三保村錦織)もあり、美作は、絹の生産地であったか
  • 天照大神は、葦原中津国を平定するに先立ち、三回部下を派遣しています。そのときの様子を日本書紀は次のように記しています。「二神は邪神や草木・石に至るまで皆平げられた。従わないのは、星の神の香香背男だけとなった。そこで倭文神の建葉槌命を遣わして服させた」。日本書紀は、作者が正しいと思う話を書き、他にもこんな説がありますよという形で、第二の一書には、「天に悪神がおります。名は天津甕星、別名を天香香背男神(アメノカカセオ)と申します」と書かれており、天香香背男神を説得するために、倭文神の建葉槌命を派遣したことになっています。織物の関係には、織物の大臣を派遣したようです。絹織物の揉め事は一見落着。どのように解決されたかは後に書くこととして、重大なことを先に述べます。
     この天香香背男神のことは、不思議なことに古事記には書かれていません。
  • “尾張国 風土記逸文  (『釈日本紀』卷十)

    吾縵(あづら)郷

    尾張風土記の中巻にいう。丹羽郡。吾縵郷。巻向の珠城の宮で天下を治める天皇(垂仁天皇)の世、品津別(ほむつわけ)皇子は、七歳になっても言葉を発することが出来なかった。その理由を広く臣下に尋ねたが、はっきりとわかるものがいなかった。その後、皇后の夢に神が現れた。お告げに言う。「我は、多具(たく)国の神で、名前を阿麻乃弥加都比女(あまのみかつひめ)という。我には祭祀してくれる者が未だにいない。もし我のために祭祀者を当てて祭るならば、皇子は話すことができるようになるだろう」。

    天皇は、霊能者の日置部等が先祖に当たる建岡の君を祭祀者に指名して、(彼が神の求める祭祀者であるか否かを)占うと吉と出た。そこで、神の居場所探しに派遣した。ある時、建岡の君は、美濃国の花鹿山に行き着き、榊の枝を折り取って、縵(かづら)に作って、占いをして言う。「私が作った縵が落ちた所に、必ず探す神がいらっしゃるだろう」。すると縵がひとりでに飛んで行き、この吾縵郷に落ちた。この一件でこの地に阿麻乃弥加都比女の神がいらっしゃることがわかった。そこで社を建ててt神を祀った。(「吾が作った縵」という建岡の君の発言によって)社を吾縵(あがかずら)社と名付け、また里の名に付けた。後世の人は訛って、阿豆良(あづら)の里といっている。”

     『風土記 上』 中村啓信 監修・訳注  (角川ソフィア文庫)
  • January 2017 編集されました
    岩戸を開かれた天手力雄命(アメノタヂカラオノミコト)の子が、天日鷲命(アメノヒワシノミコト)。

    典拠として:
    天手力男命の子 『大日本神名辞書』『古史伝』
    八倉比売命の子 『安房斎部系図』

    天手力男命は、またの名を天背男命(アマノセオノミコト)、天石門別命(アマノイワトワケノミコト)であるともいわれます。

    忌部氏と麻の生産は密接な関係がある。一方岡山県備前市伊部(いんべ)の備前焼(伊部焼)も阿波忌部氏が関与しているとされる。出雲の蹈鞴製鉄の技術も阿波忌部の影響があるとか。
    「織田信長」は、忌部氏の末裔である説が濃厚である。一般的には、織田氏は平重盛流の平家の出とされているが、系図的には、忌部系織田氏に重盛流の人物が養子に入ったとする。

    ・飯長媛
    ①父:天富命 母:不明
    ②夫:由布津主命、子供:訶多々主命(阿波・安房忌部祖)
    ③斎主
     
    ・由布津主命
    ①父:大麻比古命 母:礒根御気比売(出自不明)
    ②妻:飯長媛    別名:阿八和気比古
    ③神武朝の人物。
                                              ・訶多々(かたた)主命
    ①父:由布津主命 母:飯長媛
    ②子供:伊那左可雄 別名:堅田主命
     
    ・大麻比古命
    ①父:天日鷲 母:言笞比売(出自不明)
    ②妻:礒根御気比売 子供:由布津主・千鹿江比売    別名:津咋見命
    ③鳴門市「大麻比古神社」祭神。
     
    ・天日鷲(あめのひわし)命
    ①父:天背男命 母:不明
    ②妻:言笞比売 子供:大麻比古・天白羽鳥・天羽雷雄 別名:天日別命、日鷲命
    ③天太玉に従った五神の一人。阿波・安房忌部氏の祖。
    ④古語拾遺に「天日鷲をして津咋見神を以て殻木(かぢのき)を植えしめ、以て白和幣(にぎて)を作らしむ」とある。麻植(おえ)神の所以。
    ⑤天富命は、この神裔を率いて安房の国に至り、殻麻の種を植え云々とある。
  • 国府宮由緒

    御祭神は尾張大国霊神であって、尾張大国霊神社という御社名が、神社の本質を素直に現しています。大昔、此の地方が伊勢湾の水底から干上って、只今も群名として遺っている様に、中の島の如く陸地が出来ました時、此処へ我々の祖先が移住して来て居を構え、生活を始めましたが、その日その日を生きて行く糧を生み出す根源である国土の偉大なる霊力を神と敬い、尾張大国霊神と崇め名附けて、日常生活の守護と感謝の心の拠り所として祀ったのであります。即ち、数千年前に尾張地方人と共に創った、尾張地方人の生活に直結している神社であって、まことに尾張人の心の故郷であり、尾張国の総鎮守に外なりませぬ。ところが大国主命の別名を大国玉神とも申しますので、後世になって大国主命を祀る神社であると広く信仰されましたが、昭和十五年国幣小社に列格の時、本来の真面目に還して、尾張大国霊神を祀ると改められました。今日、農商業守護の神、厄除けの神と広く信仰されていますのも、そうした有難い由緒からであります。 別宮として大歳神の御子を祀る大御霊神社と、田心姫の命を祀る宗像神社(昔は角玉大明神ともいい、又、文徳実録にはオガミの神とある)とが御鎮座になっていますが、御本社と併せて昔から国府宮三社と申して居ります。即ち、国土の神、五穀の神、水の神という三社による構想であって、これをひそかに拝察する時、尾張総鎮守として創祀した遠い遠い我々の祖先の、遥かなる代の日常生活が偲ばれるではありますまいか。その他、末社として稲荷神社をはじめ司宮神社、神明社、居森社、白山社、三女神社が鎮座になって居ります。 磐境(いわくら、又、いわさか)といい、七個の大きい石が立並んで、神聖視されて居る一廓が御本殿に接して厳存しています。これは今日の様に社殿を建てて祭をする以前の、最も古い、原始的な祭場で、所謂、尾張大国霊神を祀っていた遺跡であり、当神社が数千年以前の太古、既に創祀されていたことを物語っています。 崇敬は又格別であって、古く崇神天皇七年(約1870年前)に神地を定めて封戸を賜り、天背男命(尾張族の祖先)の子孫である中島直(後に久田氏、野々部氏を称して明治維新まで奉仕しました)をして奉仕せしめられたという。 神職には古くから尾張族の遠祖、天背男命の子孫が代々奉仕して来ました。後に久田氏を名乗りましたが、暦応二年(約620年前)に久田弥四郎崇政が夜討ちに遭い、伝来の古記録宝器等皆な散逸したといいます。その子元政が神主となって世襲しますが、永正年間(約450年前)に久田氏を改めて野々部氏と称し、累代正神主として社家を統率しましたこの附近は田畑等何処を歩いても、千数百年前からの土器の破片が散乱していますが、これは国衙所在のもとに大繁栄を極めた当時の名残であって、地下一帯には、その大聚落の趾がさびしくも眠っていることでありましょう。
    以上
  • 栃木県の星宮神社が日本一多い。
    宗教法人登録社157社・日光修験と虚空蔵菩薩との関連が深く、妙見菩薩とは関係ないところが多い。どの神社が元妙見菩薩か不明。明治に星宮神社と改名させられている。

    日光修験(しゅげん)が星宮と本地仏としての虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)を携(たずさ)えて、各地に広がったと考えられる。
    日光・藤原・今市・塩谷・矢板・大田原・小川・鹿沼・宇都宮・高根沢・南那須・烏山・市貝・真岡・益子・壬生・石橋・上三川・栃木・小山・国分寺・南河内・佐野・藤岡などに広まりたいへん信仰されている。「星宮」と称する神社は、県下に170社を数え、更にかつて星宮と称した神社を含めればその数261社にのぼると言われている。
    祭神は磐裂神(いわさくしん)・根裂神(ねさくしん)としている。これらの神社の特徴としては、一つ目は星を信仰とすると考えられるが、星に関係する伝承が少ないこと。二つ目は虚空蔵(こくうぞう)様と呼ばれ、鰻(うなぎ)の禁忌(きんき)を伴うことが多い。
  • 妙見菩薩と良文

    平将門が伯父の平国香と争うと、良文は将門に味方して染谷川で戦いを繰り広げた。この戦いで将門・良文の軍勢は苦戦し七騎のみとなり、良文は自害する場を求めてさまよっていた。そこに突然不思議な声が聞こえ、その声に誘われるままに後をついていくと寺院が現れた。その寺院の寺僧によるとここは妙見寺という北斗七星の化身・妙見菩薩を祀る寺院であり、良文が妙見菩薩に選ばれた者であるといい、七星剣を渡された。また寺僧の言葉の通り、その証拠として良文の体には月と星の印が浮き出ていた。この出来事以降、妙見菩薩の加護を受けた良文・将門軍は勝利を重ねて坂東八カ国を討ち据えたが、良文はこの乱中に、北を目指して陸奥守、鎮守府将軍として陸奥国胆沢に赴任していった。一方、将門は凶悪の心をかまえ神慮に憚らず帝威にも恐れなかったため、妙見菩薩は将門を離れ良文の元に渡ったとされる。

    また、後代千葉氏の一族によって編纂された『源平闘諍録』には、良文が甥である将門の養子となっていたので、将門の窮地を救った妙見菩薩が良文から忠頼を経て千葉氏に伝わり、結城浜の戦いでは千葉成胤を助け源頼朝を守ったとする記述がある。
  • 『星ふるまち』を 掲げる 山口県下松市
    琳聖王子の 『降星伝説』が残っている



    《 降 星 伝 説 》
     
     595年推古天皇3年(17年説もあり)、9月18日、
    周防国鷲頭庄青柳浦(わしづのしょう・あおやぎのうら)にある
    松の大木に突如星がおり、七日七晩輝きました。
    里人は不審に思い、巫女に星の精を呼び出させたところ、
    「我は北辰尊星妙見大菩薩(ほくしんそんじょうみょうけんだいぼさつ)である。
    これから3年後、百済の国の琳聖太子が、
    聖徳太子に合うために来日されるので、お守りするためにやってきたのだ」
    と語ったといいます。
     星の予言通り、推古5年、琳聖太子は来日し、聖徳太子に会われました。
    この不思議な星の話を聞いた琳聖太子は、青柳浦に立ち寄られ、
    北辰尊星妙見大菩薩を祀る社を、桂木山に建立し、
    日本で初めての星祭りをおこなったとされています。
    そして、星が松に下った霊地として、青柳浦は
    下松と呼ばれるようになったと伝えられています。

    (下松の地名の起こりについては、百済の国への風待ちの港だったことから、「百済待」あるいは「百済津」と呼ばれていたものが訛ってくだまつとなり、下松の字を充てたという説がある)
    「下松市史」より引用
  • 豊受の子、イヨは倭国の女王であり、孝元天皇の母ですから、天皇家も物部氏になってしまう
    ウマシマジからの系統を見た時は、その子、ハエイロネ、ハエイロチが共に孝霊天皇の妃になっており、その子は吉備津彦と吉備武彦ですから、桃太郎も物部氏だということになります。吉備の国は物部氏の国になります。

  • ホーランエンヤは松江市で12年後とに行われる船神事で、松江の城山稲荷神社の御神体を迎えて豊穣祈願をする祭です。
    側に意宇川の河口があり、そこは古代の港だったそうです。
    ホーランエンヤは、慶安元年(1648年)に大飢饉がおこったため、時の松江藩主・松平直政が城山稲荷神社の主祭神(宇迦之御霊神・ウカノミタマノカミ)を阿太加夜神社に勧進して豊穣を祈願したのに始まると云われています。

    「ホーランエンヤ」の語源は「蓬莱・塩爺」とのことですが、塩爺と言えば鹽竈神社の祭神でタケミカヅチとフツヌシを東北に導いたという「塩土老翁」を連想させます。
    ホーランエンヤの船の前には、何やら祀られた木があります。藁で編まれた蛇が木に巻き付いています。
    出雲の神社でよく目にする、「荒神」と呼ばれるものです。

    古代出雲の民族は、インドのドラビダ族の移民であると富氏の伝承にあります。
    インドのガンジス川には昔、ワニがいて恐れられ、河の神として祀り上げられました。
    また森のコブラも怖がられ、森の神になります。
    この二神が合わさって「ナーガ」という龍神になり、ドラビダ族に崇拝されます。
    出雲に至って、ナーガは斉の神の眷属神となり、このように藁の蛇を御神木に巻きつけて祭祀しました。
    この木は本来、「斎の木」と呼ばれたそうです。
  • 「出雲国風土記」に言及される姫神。大国主神の御子神とされる。同訓で「阿陀加夜奴志多岐喜比売命」、「阿陀加夜怒志多岐吉比売命」などの表記も見られる。また「阿陀加夜努志多伎吉毘売命(あだかやぬしたききびめのみこと)」、「多伎吉比売命(たききひめのみこと)」の名でも呼ばれる。出雲国風土記において神門郡多伎郷(現在の出雲市多伎町や湖陵町差海辺り)の地名の説明において、この神が坐すが故に「多吉(たき)」という地名であり後に「多伎」と字を改めた、とある。
    神名の「タキキ」については諸説あるが(地名、氏族名あるいは"高津"の変化など)、「アダカヤ」は地名と思われ、風土記にも意宇郡の項に「阿太加夜社(あだかやのやしろ)」という社名が見える。また松江市東出雲町にある地名である「出雲郷」は現在も「あだかえ」と読み、元々の地名に「出雲郷」の字を宛てたものと考えられる。つまり阿陀加夜努志多伎吉比売命は元々は「阿太加夜」の場所の主(ぬし)で、他の場所でも祀られるようになったものと考えられる。
    前述の阿太加夜社にあたる島根県東松江市出雲町の「阿太加夜神社(あだかやじんじゃ)」、出雲市多伎町の「多伎神社(たきじんじゃ)」や「多伎藝神社(たきぎじんじゃ)」、出雲市稗原町の「市森神社(いちもりじんじゃ)」に祭られる。
  • 思兼命は和歌姫(丹生都姫)と結婚した。思兼命はマレビトなので、結婚後近江国野洲川河口付近の野洲宮(五社神社・滋賀県近江八幡市牧町)に滞在し、周辺の人々に最新技術を伝えた。二人の子が天御影命、天表春命である。天御影命はこの地に残り近江国の開拓に尽力した。思兼命は暫らく後、天表春命と共に美濃国美濃加茂市伊深町2635番地の2の星宮神社(祭神思兼神)の地に移動しそこを本拠として周辺を開拓した
  • ホムツワケ伝承の出雲大神に代わって、祟り神として尾張国にも登場するのである。尾張の国で祀りなさいということは、もともと、天甕津日女命の氏族は、この尾張が本拠地だったのかもしれない。
    尾張国大国霊神社神職家の系図によると始祖が天背男命で尾張氏の遠祖であるという。また、先代旧事本紀で饒速日が天下った時に随行した32人衆の中に天背男命(天神立命):山背久我直等祖、天背斗女命(天背男命):尾張中嶋海部直等祖の名が見られる。

    天背男命の末裔が社家を務めた神社

    愛知県稲沢市国府宮1-1-1 尾張大國霊神社「尾張大國靈神」崇神天皇七年(約1870年前)に神地を定めて封戸を賜り、天背男命(尾張族の祖先)の子孫である中島直(後に久田氏、野々部氏を称して明治維新まで奉仕しました)をして奉仕せしめられたという。

    名古屋市南区本星崎町字宮町620 星宮社「天津甕星神」

    愛知県幡豆郡吉良町大字富田字殿海戸87 富田神社「建速須佐之男命 合 天香香背男命ほか」

    三重県阿山郡阿山町大字石川2291 穴石神社「木花佐久夜比賣命 合 天香香脊男命ほか」
    三重県阿山郡阿山町大字馬場951 陽夫多神社「健速須佐之男命 合 香香背男神ほか」
    三重県阿山郡大山田村大字平田699 植木神社「健速須佐之男命、櫛名田毘賣命 配 香香脊男命、五十猛神ほか」
    三重県鳥羽市答志町984 美多羅志神社「天忍穗耳命 合 北斗星神、三十三夜星神ほか」

    天背男 : 神魂系 天日鷲命の父

    倭文氏は、カミムスビ系の氏族のようである。同じカミムスビ系の氏族として、県犬養連・瓜工連・多米連・間人連・紀直・額田部連等がある。
    この新撰姓氏録と符合しているように洲宮神社祠官小野家所蔵の「斎部宿祢本系帳」には、
    神魂命─角凝魂命─伊佐布魂命─天底立命─天背男命─天日鷲命という
    ような系譜となっている。そして、その後が天羽雷雄命とつながるようである。
  • August 2019 編集されました
    葦原中国の平定は、神皇産霊尊系統を葬り去ろうとした事件だった

    天手力雄神(天手力男命) は、思兼尊(アチヒコ) とワカ姫の子で、斎名をシツヒコ(静彦) と云った。

    茨城県那珂市静に、静神社がある。
    主祭神は,建葉槌命(たけはづちのみこと)
    相殿神に、手力雄命、高皇産靈命、思兼命を祀る。

    『⽇本書紀』 巻第⼆ 神代下 葦原中国の平定にこうある。
    「⼆柱(経津主神・武甕槌神) は邪神や草⽊・⽯に⾄るまで皆平らげられた。
    従わないのは、星の神の⾹⾹背男だけとなった。そこで武葉槌命を遣わして服
    させた。」
    すなわち 建葉槌命=武葉槌命は、星神香香背男(ほしのかがせお) を征服した神が主祭神で、討たれた側が相殿に祀られる。。

    手力男(静彦) には、いろんな側面がある。
    ・天背男命=天津甕星=手力男命(戸隠神社鎮座考:宮㟢信友)と云う説や、
    ・神皇産霊尊-角凝魂命 ─手力男(伊佐布魂命) ─天底立命-天背男命-天日鷲翔矢命、という系図があるという。

    ここに大きな征服の歴史が隠されている。

    経津主神・武甕槌神と武葉槌命は、天背男命=天津甕星=手力男命を討った。
    討たれた手力男(静彦) を祀る神社の主祭神になりすました。
    また武甕槌は、甕星を追撃したとする名を堂々と名乗る。
  • 天羽槌雄神
    天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)は、日本神話の神である。

    概要

    『古語拾遺』に登場する。天羽雷命(あめのはづちのみこと)や、倭文神(しとりのかみ)、倭文神(しずのかみ)とも呼ばれる。

    天照大神を天の岩戸から誘い出すために、文布(あや)を織ったとされる。文布は倭文布とも倭文とも書き、「シドリ」また「シヅリ」という織物である。同じ織物の神では栲幡千々姫命、天棚機姫命が挙げられるが、天羽槌雄神は機織りの祖神とされている。また倭文(しどり)氏の遠祖でもある。

    信仰としてはどちらの名でも織物の神、機織の神として信仰され、全国の倭文神社、静神社、服部神社などで祀られている。

    系譜

    神産巣日神の5世孫の天日鷲命の子で、県犬養氏の祖神とされる。

    建葉槌命について

    別名と同一視されるのは建葉槌命(武葉槌命・たけはづちのみこと)で、こちらの方が有名かもしれない。建葉槌命は『日本書紀』に登場した倭文神で、経津主神・武甕槌命では服従しなかった星神香香背男(ほしのかがせお)を征服した神とされる。

    織物の神が、何故星の神を誅する事が出来たのか、色々諸説ある内の説を挙げるとすると、

    1つ目は、建葉槌命が武神だったとする説。建葉槌命の「建」は「武」、「葉」は「刃」と読み替えると武刃槌となり、まさに武神らしい名と受けとれるからといわれる。
    この説の裏付けとして、武葉槌命を祀る大甕倭文神社(茨城県日立市)の『大甕倭文神宮縁起』からも武神であるむねを窺わせる内容が記されている。
    2つ目は、織物の中に星を織り込んでしまって、星の神を織物の中に封印したとする説。これは、太陽が沈んでも空に星が残っている事を、どうにか出来ないものかと考えた上での苦肉の策だとされる。
    日本書紀第九段一書(二)に「天に悪しき神有り。名を天津甕星(あまつみかほし)またの名を天香香背男(あまのかかせお)と曰う。請う、先ず此の神を誅し、然る後に下りて葦原中國をはらわん」。是の時に齋主(いわい)の神を齋之大人(いわいのうし)ともうす。とあり、日本書紀第九段本文と似た記述がある。これにより齋之大人=建葉槌命とみられ、齋主(祭祀)で征服したとあるので上記の行為を齋主で行うことにより星神香香背男=天津甕星を征服したという説である。
    他にも、香香背男側にいた建葉槌命を懐柔し味方に付け、内側から崩壊させた。などの説もある。

  • 大同2年(807年)成立の『古語拾遺』では、神武天皇の命を受けた天富命が肥沃な土地を求めて阿波国へ上陸して開拓した後、さらに肥沃な土地を求めて阿波忌部氏の一部を率い房総半島に上陸したとするが、社伝によれば神武天皇元年に天富命が魚尾山に神社を創建し、当時海辺にあったことから「洲神」や「洲宮」と呼ばれたとする。

    また、『斎部宿禰本系帳』では天富命15代目の子孫である佐賀斯の長男・子麿の第2子・夫岐麿が安房郡大領となって「洲の神」を祀り、その18代後の子孫である諸幾が文永10年(1273年)に洲宮神社として創建したとしている。同書には「文永十年、神宣ニ依テ社頭ヲ明鏡山豊栄地ニ遷シ建テ・・・」との記述があるが、この「明鏡山豊栄地」は現在も御浜降神事が行われる「明神山」に比定されている[2]。

    「天比理刀咩神」は度々六国史に登場し、神階の陞叙を受けている(「洲崎神社#神階」参照)。

    延長5年(927年)の『延喜式』神名帳では安房国安房郡に「后神天比理乃咩命神社 大 元名洲神」と記載され、天比理乃咩命神社は大社に列格された。洲宮神社はこの天比理乃咩命神社の論社の1つで、もう1つの論社である洲崎神社と、どちらが式内社であるか江戸時代から争うようになる。

    『洲崎神社伝記』では、洲宮神社は始め明神山の洲の辺に鎮座していたが、後に魚尾山へ遷座、文永10年(1273年)10月15日の夜に発生した火災により社殿を焼失して長らく仮宮に鎮座し、永享11年(1439年)10月に現在地へ遷座したと伝える。ただし、現在地からも祭祀に使われた鏡や土器が出土しており、この地でも古代に祭祀が行われていたことがわかる。

    前述の通り、后神天比理乃咩命神社を巡っては、洲宮神社と洲崎神社の間で長らく論争となっていた。明治5年(1872年)神祇を管轄する教部省は洲宮神社を式内社と定めたが、翌6年(1873年)にこの決定を覆して洲崎神社を式内社とした。ただし、この決定の論拠はあまり明白で無いとされ、また洲宮神社では文永10年の火災で古記録を失った事が式内社指定変更の原因の1つとなったと主張しているのだと言う[2]。近代社格制度では県社に列格されている
  • ある書によれば、天津神はフツヌシとタケミカヅチを派遣し、葦原中国を平定させようとした。
    その時、二神は「天に悪い神がいます。名をアマツミカボシ、またの名をアメノカガセオといいます。どうか、まずこの神を誅伐し、その後に降って葦原中国を治めさせていただきたい。」と言った。

    第二の一書では天津神となっている
    経津主神と武甕槌命が、まず高天原にいる天香香背男、別名を天津甕星という悪い神を誅してから葦原中国平定を行うと言っている。

    鹿島神宮や静神社の社伝によれば、武甕槌命は香島(723年に鹿島と改名)の見目浦(みるめのうら)に降り(現在の鹿島神宮の位置)
    磐座に坐した(鹿島神郡の要石とも)
    天香香背男は常陸の大甕(現在の日立市大甕、鹿島神宮より北方70km)を根拠地にしており、派遣された建葉槌命は静の地(大甕から西方約20km)に陣を構えて対峙した。建葉槌命の陣は、茨城県那珂郡瓜連(うりづら)町の静神社と伝えられる。

    「カガ(香々)」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したものであると考えられる。神威の大きな星を示すという[19]。平田篤胤は、神名の「ミカ」を「厳(いか)」の意であるとし、天津甕星は金星のことであるとしている。

    星や月を神格化した神は世界各地に見られ、特に星神は主祭神とされていることもある。 しかし、日本神話においては星神は服従させるべき神、すなわち「まつろわぬ神」として描かれている。これについては、星神を信仰していた部族があり、それが大和王権になかなか服従しなかったことを表しているとする説がある。

    全国の星神社や星宮神社の多くは天津甕星を祭神としている。

    天津甕星を服従させた建葉槌命(タケハヅチノミコト)は、天羽槌雄神と同一視されることもある。

    茨城県日立市の大甕神社は、建葉槌命を主祀神とする[21](一説には素戔嗚尊とも)
    同神社伝では、甕星香々背男(天津甕星)は常陸国の大甕山に居を構えて東国を支配していたとしている。大甕神社の神域を成している宿魂石は、甕星香々背男が化したものと伝えられている。

    葦原中国平定に最後まで抵抗した神ということで建御名方神と同一神とされることもあり、また、神仏習合の発想では北極星を神格化した妙見菩薩の化身とされることもある。
  • 倭文神:しずりのかみ
    ……
    『古語拾遺』に、天照大御神が天岩屋に隠された際、 大神に献上する文布(しず)を織った神で、倭文氏の祖神。 ちなみに倭文宿禰の祖は神魂命、倭文連の祖は神魂命の子・角凝魂命。

    天棚機姫神と共に機織の神として祀られる。

    神綺日安命の別名とする説もある。また天日鷲命の弟神あるいは御子とする説がある。

    天羽槌雄神 を祀る神社
    (玄松子が参拝した神社のみ)

    倭文神社 鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内754
    倭文神社 鳥取県倉吉市志津209
    倭文神社 山梨県韮崎市穂坂町宮久保字降宮6051
    倭文神社 群馬県伊勢崎市東上之宮町字明神東380
    倭文神社 静岡県富士宮市星山1
    倭文神社 兵庫県朝来市生野町円山字下代201
    本宮倭文神社 山梨県韮崎市穂坂町柳平3195
    靜神社 茨城県那珂市静字帝青山2
    鍬戸神社 静岡県三島市長伏字石原1
    服部神社 石川県加賀市山代温泉18-7-丁
    鹿島神宮 境内 高房社 茨城県鹿嶋市宮中2306-1
    大洗磯前神社 境内 静神社 茨城県東茨城郡大洗町磯浜町字大洗下6890
    坐摩神社 境内 繊維神社 大阪府大阪市中央区久太郎町4-3
    笹御霊神社 小田巻神社 兵庫県朝来市納座字笹山409
    濱名惣社神明宮 境内 天羽槌雄神社 静岡県浜松市北区三ケ日町三ケ日大輪山122
  • August 2019 編集されました
    伯耆国一之宮 倭文(しとり)神社がある。詳しくは→ウィキペディア 倭文神社(湯梨浜町)
    倭文氏の祖神 建葉槌命(たけはづちのみこと)を祀っている。 
    建葉槌命は、天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ)とも云い、機織りの祖神とされており、倭文(しどり)氏の祖神で
    ある。

    倭文(しとり)神社 鳥居

    建葉槌命は、日本書紀では、葦原中津国平定に従わない星神・香香背男(かかせお)を服させる神として登場してくる神
    だ。

    その神とともに、大国主命の息女、下照姫が祀られている。
    出雲より着船し(羽合町宇野と柏村宇谷の中間の仮屋崎に着き化粧直しに使った水が伝えられているようだ。)倭文神社
    の社地に住居を定め、亡くなるまで安産の指導や農業開発、医薬の普及にも尽くされたという。
    なぜここが下照姫の終焉の地なのだろう。
    斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』(大元出版)によれば、下照姫は大国主命と多紀理毘売命の娘ではなくて、因幡の
    白兎の八上姫との娘である。妻問婚の時代(→ウィキペディア 妻問婚)一般的にこどもは母方の一族で育てられるゆえ
    母方の一族が住む因幡の国のすぐ隣のここが、富家伝承の方が理にはかなっておるように思う。
    しかし、「木俣神」として、斐川町の御井神社に取り残され、大国主命の一族に育てられたのかもわからないが・・・。

    ちなみに富家伝承では、阿陀加夜奴志多岐喜比賣命は下照姫ではなく、多岐津姫であり、出雲風土記における阿陀加夜奴
    志多吉比賣命は所造天下大神(大国主命)の「御子」とは間違いで「御妃」であるようだ。
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