磯城県主、物部氏、母系でみる天皇

December 2018 編集されました カテゴリ: 大和王朝
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神武天皇 神武帝は母親も祖母も和爾の血筋を引く海人でした、彼の母「玉依姫」の名前は天孫族の娘たちにも受け継がれ…

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コメント

  • 天津系の神々が出雲族の妻と婚姻関係を結んでいる

    神武天皇から3代に渡って事代主命の末裔―葛城登美家から后を迎えています。
    また、
    物部族の祖―饒速日(=ホアカリノミコト)は、東出雲王家から高照姫(天道日女命)を后に迎え、天香具山命を生んでいます。(斎木雲州著『出雲と大和のあけぼの』)
    父系をたどれば、天津神ですが、母族が出雲系である。
  • ・磯城津彦
    ①父:安寧天皇 母:
    ②兄弟:4懿徳天皇 子供:多祁太努美・和智津彦
    ③中原氏元祖
     
    ・和智津彦
    ①父:磯城津彦 母:不明
    ②子供:蝿伊呂居・倭国香媛・蝿伊呂妹
    別名:和知都美
    ③淡路島の御井宮に祀られてある。(古事記)
     
    ・倭国香媛
    ①父:和智津彦 母:不明
    ②夫:7孝霊天皇 子供:倭迹迹日百襲媛・吉備津彦・倭迹迹稚屋媛
    別名:蝿伊呂姉(はえいろど)、蝿伊呂泥、意富夜麻登久邇礼比売
     
    ・蝿伊呂妹(はえいろね)
    ①父:和智津彦 母:不明
    ②夫:7孝霊天皇 子供:彦狭嶋・稚武彦  別名:蝿伊呂杼
     
    ・蝿伊呂居
    ①父: 和智津彦 母:不明
    ②これ以降の系譜不詳
    ③十市氏・中原氏の祖である。
     
    十市磐古
    ①父:物部系大部丹夫古 母:不明
    ②物部系大部氏より蝿伊呂居の流れを引く十市氏に養子に入ったものと推定されている。この大部氏は磯城県主の名跡も嗣いでおり、これで物部氏が磯城県主・十市氏ともに嗣いだ形になった。?
    子供:多米
  • May 2016 編集されました
    新撰姓氏録の大和神別に、志貴連は「同じき神(饒速日命)の孫、日子湯支命」の後裔、和泉神別に、志貴県主は「饒速日命の七世孫、大売布」の後裔とされます。

    また、『旧事本紀』天孫本紀には、宇摩志麻治命の七世孫・建新川命を「倭志紀県主」、同八世孫の物部印岐美連を「志紀県主」の祖であるといいます。

    そのため、物部氏の祖神の天津饒速日命を祭神にあてる説が有力です。
    ほかには大己貴命をあてる説などがあります。

    磯城県主について、神武紀は、弟磯城(名を黒速)をその始祖とします。
    『日本書紀』ではそれ以上の説明は無く、系譜的な位置づけは不明なままです。
    平安初期に至り、より合理的な解釈が求められるようになって、『姓氏録』にあるような付会が行われ、この氏も物部氏の同族とされるようになったのでしょう。

    『日本書紀』本文は孝霊天皇の皇后を磯城県主の娘の細媛とするほか、一書に綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇、孝昭天皇、孝安天皇の皇后も磯城県主の一族に出自を持つとしています。
    『古事記』も同様で、綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇について、師木県主の一族から后妃を立てていたといいます。
  • 後世の磯城県主家は葉江宗家とは何のかかわりもなかった。
     後世に足跡を記録された十市氏は、書紀・古事記の書かれた時代を超え、悠久の時代を経世して近世までを生き抜いた。すなわち十市県主から十市首・十市宿禰・中原宿禰と名を替え、その後は十市中原とも称しながら戦国時代に至る。

    書紀・古事記の文脈のなかでは、十市氏は大王氏がもっとも尊重した姻族であったらしい。磯城葉江宗家に対しても勝って劣ることがなかった。十市氏の女から生まれた考霊と考元も大王氏の系譜のなかでは特別な大王であったらしい。こうした尊貴の視線は単純にその事績だけによるのだとは思えない。
     神武の侵入時には大王氏がその王権の思想をして姻族とした氏族はまぎれもなく磯城氏であった。その本居を摂津三島にもつ弟磯城黒速の家であった

    十市の版図が磯城の範囲と峻別される、いわば真新しい開拓地域とみられ、なお丁度磯城の範囲を西から取り巻くように囲っている。
  •  確実を期すために対比上、磯城氏の後裔は三輪氏という。三輪氏が三輪の地に入った次第は次のようであった。
     崇神五年から国には疫病が流行った。崇神七年に憂えていた崇神にこういう夢懸かりがあった。
     自ら大物主と称りて曰はく、「国の治まらざるは、是吾が意ぞ。若し吾が子大田田根子を以て、吾を令祭りたまはば、立に平ぐなむ」とのたまふ。
     天皇歓びたまふ。布く天下の告ひて、大田田根子を求ぐに、即ち茅淳県の陶邑に大田田根子を得て貢る。
     大田田根子に問ひて曰はく、「汝は其れ誰の子ぞ」とのたまふ。対へて曰さく、「父をば大物主神と曰す。母をば活玉依媛と曰す。陶津耳の女なり」とまうす。
     即ち、大田田根子を以て、大物主神を祭る主とす
  • 大物主神は大田田根子の三輪氏がこれを奉祭したが、先のようにその後の磯城の地には磯城県主家というものがあった。後世のものであきらかに葉江宗家のそれではない。磯城金屋の地にある磯城御県坐神社を祀って後世まで足跡を残すが、勢力は三輪氏に劣っていたらしい。
     これも磯城氏の流れにみえて実はそうではなく、後に磯城の出自の女を娶ってその家名と祭祀を受け継いだ、物部氏の系であったらしい。とはいえ女系では繋がっている。
     旧事本紀天孫本紀には、物部祖伊香色雄が磯城の女真鳥媛を娶って一子を生んだとある。それがその後を伝世した磯城県主家である。後世の磯城県主家も饒速日の後裔を標榜している

    河内にも志紀県主があった。志紀郡にて志貴御県坐神社を祀る。これもしかしその祖を磯城県主とするのではない。大田田根子とするのでもない。祖を多氏とおなじく神八井とする。
     多の地は十市郡の内で十市御県坐神社のある十市町に隣接する。河内の志紀郡がかなり後に出現しているものなら、多氏とのかかわりもまた問われなければならない。多氏の派生である河内の志紀氏が志紀という磯城氏の名をもつのは意味深長である。
  • 春日県主

    春日・十市県主の系図を見ると、大日諸 - 大間宿祢 - 春日日子 - 豊秋狭太彦 - 五十坂彦
    アウヱモロの子孫は、代々春日県主を務めている。
    サタヒコの子のヰサカヒコから十市県主に国替えになった様だ。 (アマタラシが春日親君になった為。)
  • 崇神紀五年から七年にかけてに記録される疫病は、崇神の磯城に対する反攻と討伐ならびにその後の磯城氏滅亡をいうのである。すなわち磯城県主家は崇神七年のときに滅び、その直後からその遺民が跳梁した。
     その後を継いだのが三輪氏というのは、事実上崇神が磯城氏の後裔三輪氏を据えてもって遺民を慰撫したことをいうであろう。すると三輪氏の出自はこれに条件があった。摂津三島出の葉江宗家に比肩しかつ近しくなければならなかった。それが和泉茅淳である。
     大田田根子は、和泉茅淳の陶津耳の女活玉依媛と三輪大物主神その実磯城津彦の後裔であった。先述のように神武紀にある七媛女の内訳は、摂津三島・河内川俣であった。これらの伝承はひょっとするともとがひとつで、磯城宗家が要するに摂津ならびに河内(あるいは河内から分かれた和泉)の双方にかかわっていたことを示唆するかも知れない。
  • 和泉大鳥郡の陶荒田神社
    付-式内・火雷神社
    大阪府堺市中区上之
    祭神--高魂命・劔根命・八重事代主命・菅原道真
                                                          2011.04.01参詣
    延喜式神名帳に、『和泉国大鳥郡 陶荒田神社二座 靫』とある式内社で、同じ大鳥郡の式内社・『火雷神社』を合祀している。陶荒田はスエノアラタ(又はスエアラタ)、火雷はホノイカヅチと読む。
    泉北高速鉄道・星ヶ丘駅の北東約1.8kmの、低い丘陵地に鎮座する

     「陶荒田神社は、崇神天皇の7年(西紀前90年)の創建にかかり、延喜式にも載っている古社であります。
     素盞鳴命十世の孫大田田祢古命が勅命を奉じて大和国大三輪大神を奉斎する大神主となられたとき、祖先の神霊を祀るため、この陶村すなわち陶器郷の大田森に社を建立されたのが当社の起源であります」
    という。

     この由緒は、日本書紀・崇神7年条にある、
     「疫病流行・災害発生など国内が乱れたとき、その因をなした三輪の神・大物主神の夢告を受けた天皇が、茅渟県陶邑から大田田根子(オオタタネコ)を見出して、これを祭主としてオオモノヌシを祀ったら、疫病が収まり国内が鎮まった」(大意)
    との伝承をうけたもので、この時、オオタタネコがその居住地である当地に祖神を祀ったのが当社となる。
  • 綿積豊玉彦─振魂─武位起─椎根津彦─志麻津見─武速持─邇支倍─飯手─御物─市磯長尾市
    ウツヒコと同一人物なのかもしれない。『記・紀』などでホノススミのことを「隼人等が始祖なり」、「吾田君小椅等の本祖なり」、「隼人阿多君の祖」、「大角(大隅)隼人、出自火闌降命後也」などと記されていることや、海幸彦と言う別名から、九州南部の海洋民族と親密な関係であったことが伺われる。ホノススミの子のウツヒコが九州南部に住みつき、海神等と同化していても不思議はない。
  • 磯城県主葉江

    磯城県主葉江が三人の娘を皇后にしています。
      安寧皇后 渟名底仲媛命(渟名襲媛) (一書云)磯城県主葉江女川津媛
      孝昭皇后 世襲足媛 (一云)磯城県主葉江女渟名城津媛
      孝安皇后 (姪)押媛 (一云)磯城県主葉江女長媛

    また葉江の弟の猪手は懿徳に嫁がせています。
      懿徳皇后 天豊津媛命 (一云)磯城県主葉江男弟 猪手女泉媛

    さらに孝安皇后の押媛に関しては
      孝霊母 押媛 蓋天足彦国押人命之女乎
    となっています
  •                                 欝色謎
                                     ├――大彦
                                     ├――倭迹迹姫
    吾平津媛(日向)                         |  姥津媛
      ├―手研耳命×                        |   ├――――彦坐王
    1神武天皇                            |   | 竹野媛
      ├――神八井耳                        |   | ├―彦湯産隅
      ├―2綏靖天皇                        ├―9開化天皇
    五十鈴媛  ├―3安寧天皇                    |   ├―10崇神天皇
       五十鈴依媛 ├―息石耳―天豐津媛              |  伊香色謎
             |      ├―5孝昭天皇      細媛  |  ├――彦太忍信
             ├―――4懿徳天皇 ├―天足彦國―押媛  ├―8孝元天皇
             ├――――磯城津彦 |  押人   ├―7孝霊天皇 ├―武埴安彦
       鴨王――渟名底仲媛       |       |  | | 埴安媛
                       ├――――6孝安天皇 | ├――倭迹迹日百襲姫
                     世襲足媛         | ├――吉備津彦
                                  | ├――倭迹迹稚屋姫
                                  | 倭國香媛(又名、絚某姉)
                                  ├――――彦狹嶋
                                  ├――――稚武彦
                                 絚某弟
    日本書紀が示した第1代神武天皇~第10代崇神天皇までの系譜
  • 春日縣主
     大日諸――糸織媛
           |  大間―糸井媛                 
    神武天皇――綏靖天皇    |       十市縣主――五十坂媛       
           ├――――安寧天皇   倭國――大井媛   |         
           |      ├――磯城津彦   |    | 十市縣主の娘
    磯城縣主――川派媛     ├――懿徳天皇   |    |    眞舌媛
      磯城縣主┬―葉江―┬―川津媛 | ├――孝昭天皇   |     | 春日
          └弟猪手―|―――――|―泉媛   |    |     | 千乳早山香媛
      磯城縣主太眞稚彦―|――――飯日媛     ├――孝安天皇    | |
               ├――――――――――渟名城津媛  ├――――孝霊天皇
               └――――――――――――――――長媛     ├――孝元天皇
                               磯城縣主大目―細媛
    皇后を強調した日本書記の系譜
  • 第9代開化天皇の腹違いの兄である大彦命の長男が阿倍氏の祖となる
    第8代孝元天皇の長子大彦命(第9代開化の腹違いの兄)とその子武渟川別

    三男の布都押優信(佐賀県武雄市の武雄神社主祭神)と山下影姫(佐賀県武雄市朝日町河上の黒尾神社主祭神)の間に生まれたのが武内宿禰(後の葛城一族)
  • 徳島県吉野川市(旧麻植郡)鴨島町麻植塚字堂の本鎮座の五所神社の祭神は、物部の五世孫の欝色謎命と同世代の物部の大麻綜杵命(おおへつきのみこと)。大麻綜杵命を祀る神社は全国でここ一社。麻の字のない大綜杵命は尾張国葉栗郡の高田波蘇伎神社にも祀られている。名前から麻を除き、忌部との関連を消したとの説もある。その妃が高屋阿波良姫。「高屋」からは讃岐(香川県坂出市高屋町)が思い浮かぶ。高家神社が鎮座。観音寺市高屋町には式内高屋神社が鎮座、強く四国が意識される。「阿波良」姫の名からはまさに阿波が想像される。

    大麻綜杵命と高屋阿波良姫の間の子が伊香色謎命・伊香色雄命で、伊香色謎命は崇神天皇の生みの親となる。
    不思議なことに高屋阿波良姫と伊香色謎命を祀る神社が丹波国船井郡の住頭神社(すみどじんじゃ)である
  • November 2018 編集されました
    物部氏が最も権力を握った時期は、開化、崇神、垂仁天皇の頃か。

    三島氏、尾張氏、物主家、天足彦の家系にほぼ占められていた后妃に割り込んだのは、孝元天皇后となったウツシコメ。

    ウツシコメは、大彦と開化天皇を生んだ。

    さらに重要な動きがあった。
    ウマシマジの子孫は、同族の生駒氏や近江の三上祝につながる女性との結婚が続いていたが、ウツシコメの兄弟である物部
    ヘソキネ(後に大臣)が、高屋阿波良姫を娶ったことである。

    イカガシコオ、イカガシコメの母となった高屋阿波良姫。

    これに対抗した勢力は、天足彦を祖とするワニ氏と天日方奇日方命を祖とする物主家。
    この連合は、千千速姫(孝霊皇女)と物主家のアタカタス命(赤阪彦・吾田片隅命)の結婚で対抗したと見る。アタカタスは孝霊天皇時代、宗像神社の最初の神官に任じられた人物。

    開化、崇神、垂仁天皇が強力な権力を握ったのは、物部尾張連合をバックに持ったことが大きい。
    イカガシコオの息子、物部トイチネは、崇神、大彦との従兄弟関係に加えて、さらに尾張氏建諸隅の娘、時姫を娶り、垂仁期大臣として権力を振るった。
    イカガシコメは、単なる物部の姫ではなく、物部尾張連合の
    象徴であった。孝元妃として、建内宿禰の祖父にあたる皇子を生んだイカガシコメを、次の開化天皇は正后とした。イカガシコメは、開化天皇との間に、崇神天皇を生んだ。
    開化天皇は、ワニ氏の祖天足彦(春日大君)に与えられていた春日の地に、率川宮を作って乗り込んだ。

    物主家のミケヌシ(アタカタスの弟)は、イカガシコメ立后は庶母を娶ることになると反対したが、河内に蟄居させられた。ワニ氏は、開化天皇妃としてヒコオケツ姫を送り込み、ヒコ
    イマス王が生まれた。次の皇位は、従来ならワニ氏を母とするヒコイマス王が即位するところが、物部氏を母とする崇神天皇が即位する。
  • 物部十千根

    十千根 (十市主)。  
    イカシコヲの子。 =モノベトチネ(物部十千根)
    垂仁25年、阿倍の祖タケヌナガワ・和邇の祖ヒコクニフク・中臣の祖オオカシマ・大伴の祖タケヒと共に、厚く神祇を祭祀せよとの詔を賜わる (五大夫)。 
    イセ宮完成の時、太上后 (ミマキ姫) の代理として詣でる。 
    ヲナカ姫から石上の尊宝庫 (アカハタカの千剣) に架ける懸梯を授かる。
      

    岐阜県岐阜市伊奈波通、物部 (モノノベ) 神社
    奈良県天理市布留町、石上 (イソノカミ) 神宮
      

    ★『旧事』物部連の姓を賜り、五大夫のひとりで、ついで大連となり、神宮を奉斎した。武諸隅の娘・時姫を娶り、胆咋、印岐美、金弓など五男を生む。
  • 篠川論文は、トチネについて以下のようにいう。

     「「日本書紀」に物部氏の祖と記される四人目(最後)の人物は」垂仁天皇の記事に「「物部連遠祖十千根」とあるトチネである」が、垂仁天皇の記事や崇神天皇の記事は、例えば、垂仁天皇の時代の「五大夫」とされている氏族の「氏族構成は、和銅元年(708)3月に任命された議政官の氏族構成とまさしく一致する」ように、「「日本書紀」編纂の最終段階で加えられた記事」である。

     なお、「古事記」には、「物部トチネなる人物も登場しない」
  • 磯城県主について、神武紀は、弟磯城(名を黒速)をその始祖とし、師木、ハエ、速の名の付く後裔が出ます。
    『日本書紀』本文は孝霊天皇の皇后を磯城県主の娘の細媛とするほか、一書に綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇、孝昭天皇、孝安天皇の皇后も磯城県主の一族に出自を持つとしています。
    『古事記』も同様で、綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇について、師木県主の一族から后妃を立てていたといいます。

    アヂスキタカヒコネ(アヂシキタカヒコネとも)は、日本神話に登場する神。 『古事記』では阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子根神、『出雲国風土記』 では阿遅須枳高日子と表記する。また、阿遅鋤高日子根神、味耜高彦根命とも表記される 。師木に住んでいた可能性が高い。

    宇賀神社
    宇陀の穿邑(うがちのむら) 

     宇陀の梟師兄宇迦斯を退治した場所である。兄宇迦斯は押機を造って神武天皇を陥れようとしていたが、大伴連の祖道臣命、久米直等の祖大久米命が兄宇迦斯を本人が造った大殿に追いやり、押しつぶしたのである。兄宇迦斯の血が流れたので血原と言う。これは宇陀が水銀朱の産地として名高く、神武天皇は何を置いてもここを占拠することが東征の大きい目的だった。
     地元では慕われていたのであろう兄宇迦斯の魂を祀ったのが宇賀神社である。
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