画紋帯神獣鏡

December 2018 編集されました カテゴリ: 出土品/交易
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画文帯神獣鏡 日本、中国でも多数出土する。中国で3世紀に製作されたと思われる 日本からは約60面出土している。…

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コメント

  •  中国大陸の魏から邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)に贈られた鏡が「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」であるとする説が、近年揺らいでいる。出土した古墳がいずれも卑弥呼の生きた3世紀ではなく、4世紀以降のもののためだ。これに代わって一躍脚光を浴びているのが、奈良県内で近年相次いで出土した3世紀の鏡「画文帯(がもんたい)神獣鏡」で、こちらを魏志倭人伝(ぎしわじんでん)にある「卑弥呼の鏡」とする見方もある。画文帯神獣鏡は中国北部の魏と異なり、南部の江南がルーツともいわれ、
    専門家は「卑弥呼の時代の大陸交流は魏に限らない。通説より拡大して捉えるべきだ」と提唱。研究成果次第では、邪馬台国・卑弥呼の“定説”を塗り替える可能性もある。(野崎貴宮)

    卑弥呼の時代に合致

     画文帯神獣鏡は、奈良県内では上牧町の久渡(くど)3号墳(3世紀後半)で平成23年に出土した。12年にも、最古級の古墳とされる桜井市のホケノ山古墳(3世紀中ごろ)で出土しており、12年ぶりの発見だった。いずれも中国製で、精緻(せいち)な文様がある。

    古墳から見つかる鏡では、一般に「卑弥呼の鏡」として知られる三角縁神獣鏡が有名だ。しかし、三角縁神獣鏡が出土するのは4世紀以降の古墳ばかり。


    奈良県立橿原考古学研究所の調査研究部長として、三角縁神獣鏡が33面出土した黒塚(くろづか)古墳(天理市)やホケノ山古墳などの調査を指揮した同県の広陵町文化財保存センター長、河上邦彦さんは「三角縁神獣鏡は国産鏡で、魏志倭人伝に登場する銅鏡100枚ではない」と断言。逆に、「画文帯神獣鏡は『銅鏡100枚』の候補の鏡のひとつと考えられる」と主張する。

     その理由として河上さんは、三角縁神獣鏡が中国国内で1枚も出土していないことや、日本でも3世紀代の古い古墳からは見つかっていないと指摘。さらに、三角縁神獣鏡にはひび割れ痕跡がたくさんあるなど、低い製造技術も理由に挙げる。

    京都府京丹後市の太田南2号墳(3世紀中ごろ)でも、中国製の画文帯神獣鏡が出土

    さらに中国北部の魏以外にも、倭と密接な関係があった朝鮮半島を経由し、中国南部の呉などと交流した可能性も「否定できない」とみる。

    交流史の見直しも

     今年9月に橿原考古学研究所付属博物館学芸課長の今尾文昭さんは、神戸市の夢野丸山(ゆめのまるやま)古墳で見つかった「重列式(じゅうれつしき)神獣鏡」に注目。倭と呉のつながりを指摘する。この鏡は、画文帯神獣鏡と同じように神仙と霊獣を表現。江南の浙江(せっこう)省で、227年か228年ごろに作られ、230年代に倭に持ち込まれた可能性があるという。
  • 建許呂命は倭建命の陸奥遠征に従軍し、甲斐で「東国造」に任じられたと伝える者で、『常陸国風土記』にも見えます。同書には、筑波使主命がその後継とあり、「国造本紀」には茨城国造条に「筑紫刀祢」として応神朝に同国造に定められたと見えます。

    鈴木真年関係の系図史料から、

    「坂戸毘古命-国忍富命-筑箪命-忍凝見命-建許呂命-筑波使主命-久等宿祢-美呂浪宿祢」

    という系譜であったことが知られます(詳細は『古代氏族系譜集成』参照のこと)。
  • December 2016 編集されました
    建許呂命は倭建命の陸奥遠征に従軍し、甲斐で「東国造」に任じられたと伝える者で、『常陸国風土記』にも見えます。同書には、筑波使主命がその後継とあり、「国造本紀」には茨城国造条に「筑紫刀祢」として応神朝に同国造に定められたと見えます。
     久等宿祢は『播磨国風土記』揖保郡広山里条に品太天皇(応神)に額田部連久等を派遣したと記されており、美呂浪宿祢が『姓氏録』左京神別の額田部湯坐連条の記事に允恭天皇御世に薩摩に隼人平定のため派遣され御馬一匹を献上したと見える者(欠名)に当たることは、「東国諸国造系図」(中田憲信編『諸系譜』第1冊所収)に見えます。同系図には、筑波使主命の兄弟で須恵国造の祖・大布日意弥命の子孫にも、額田部が出たとされます。

    ◯ 茨木国造 茨木は、うばらき、と訓みます。書紀一書に、

    天津彦根命。此茨城国造・額田部連等の遠祖なり。(神代紀・第七段・一書第三)

    また国造本紀には、

    茨城国造。軽島豊明朝御世(応神朝)、天津彦根命の孫、筑紫刀禰を国造に定め賜ふ。

    とあります。ところで、古事記のこの部分は、底本はじめ諸本には「木国造」とあり、「茨」がありませんが、宣長の説に従い、補うことにしました。

    通常「木国」と言えば「紀国」を指しますが、紀伊国造については、姓氏録に「紀直。神魂命五世孫天道根命之後也」(河内)、「紀直。神魂命子御食持命之後也」(和泉)とあり、その祖神は神魂命(カミムスヒ)とされています。

    茨木国造については、さらに、国造本紀に、

    師長国造。志賀高穴穂朝(成務朝)御世、茨城国造祖建許呂(たけころの)命の児、意富鷺意彌命を国造に定め賜ふ。

    須恵国造。志賀高穴穂朝、茨城国造祖建許侶命の児、大布日意彌命を国造に定め賜ふ。

    馬来田国造。志賀高穴穂朝御世、茨城国造祖建許呂命の児、深河意彌命を国造に定め賜ふ。

    とあり、この茨木国造の祖とされるタケコロノ命は常陸国風土記の茨城郡条に、

    茨城国造が初祖、多祁許呂命は息長帯比売(おきながたらしひめ、神功皇后のこと)天皇の朝(みかど)に仕へて、品太(ほむだ、応神天皇のこと)天皇の誕(あ)れましし時までに至れり。多祁許呂命に子八人あり。中の男、筑波使主(つくはおみ)は、茨城郡の湯坐連らの初祖なり。

    と伝わっています。また新撰氏姓録に、

    高市県主。天津彦根命十四世孫建許呂命之後也。(和泉)

    奄智造。同神(筆者注:天津彦根命)十四世孫建凝命之後也。(大和国神別)

    とあり、この段に一緒に出てくる馬来田国造、高市県主、倭淹知造(後述)もタケコロノ命を共通の祖としていることが分かり、ここが木(紀)国造ではなく、茨木国造であることは確実だと考えられます。
  • 天孫族系統には太陽神祭祀、天からの降臨伝承、鍛冶屋及び鳥トーテムが顕著であり、なかでも少彦名神は鳥・弓矢の神で、子孫に鳥取部連・羽鳥連(服部連)があります。

    当然、少彦名神の別名・天日鷲翔矢命に限らず、天白羽鳥命(神麻績連祖)、天夷鳥命・櫛甕鳥海命・鵜濡渟命(ともに出雲国造祖)、鳥鳴海命・速都鳥命・鳥耳命・意富鷲意弥命・鷹取(ともに三上祝・穴門国造一族)など、鳥の名前をもつ人名も多く出てくる。
  • 阿波の弥生墳丘墓
      鳴門市 萩原墳墓群   積石墓
      三好町 足代東原遺跡  円形積石墓から前方後円形の積石墓へ発展

     阿波の弥生墳丘墓(萩原墳墓群)の中には、円丘部から突出部が出ているものがあり、前方後円墳へ変わる途中とも見ることができます。画紋帯神獣鏡が出土、同范鏡が北朝鮮大同江でも出土。
      
     国内で積石墓の多い地域
     長崎県対馬 山口県児島 愛媛県津島町高田 香川県石清尾山塊 徳島県吉野川流域 和歌山県 長野県 山梨県

    徳島県埋蔵文化財調査室  北條芳隆助教授の講義録から
     讃岐型前方後円墳
     前方後円墳の祖形・原形は鳴門市萩原にあった萩原噴丘墓である。
     中山大塚古墳(奈良県)の発掘により、前方後円墳の円噴の祖形が阿波の積石塚にあることを確信した。古墳の上に敷かれる葺き石は、積み石塚のなごりである。資料の実体を重視する見方の必要性を講義された。「徳島」に身を置かなければ気づかない事実。

     阿波の古墳を調べていますと、神社境内や神社が側に鎮座していることが目立つ気がします。神社発生の要素として、祖霊を祭ることがあり、それが古墳ということなのでしょう。

     阿波の古墳は積石塚・木槨が特徴、阿波と大和の古墳時期比較。
     西暦   阿波       大和
     200
         萩原2号墓    纏向石塚
     250 天河別1号墳
         西山谷2号墳   
         萩原1号墓    ホケノ山古墳(萩原2号墓と類似)阿波忌部氏が被葬者か?
                  箸墓

     弥生時代から古墳時代への移行の頃の以下の古墳は、立地、墳丘、列石、竪穴式石室、鏡の副葬、東西方向の長軸などの基本的要素が共通しています。これらの地域の王の連合を示しているようです。        
     岡山市総社市 宮山墳丘墓
     徳島県鳴門市 萩原一号墳
     兵庫県揖保郡 養久山一号墳
     奈良市桜井市 纏向石塚
                  
     萩原噴丘墓一号墓から画文帯神獣鏡はヤマトのホケノ古墳と同范鏡のようで、半島の楽浪・帯方郡域からも出ており、交流の深さは偲ばれます。3世紀初頭でのこの鏡の分布図を下記に示しました。萩原の東に3世紀中頃の西山谷2号墓(円墳)があり、積石の竪穴古墳でこの形状では日本最古とされており、この技術がヤマトに伝わったとみられています。
  • 『古代瀬戸内の地域社会 [古代史選書1] 』松原弘宣著

    この本にB類の画文帯同向式神獣鏡が二十一面出土していて、三重県、愛知県の伊勢湾沿岸に多いと樋口隆康さんが述べているそうです。
    ほかに静岡県掛川市、長野県飯田市などで出土しています。
    この分布は久米の分布と重なるそうです。


    『神武は呉からやって来た。』竹田昌暉著

    こちらには、上記の鏡は宮崎二面、熊本・広島・岡山・兵庫・奈良・大阪各一面、三重六面と十四面は神武東征のルートに符合していると指摘しています。
  • 1月11日、京都大学人文科学研究所の岡村秀典助教授の鑑定で明らかになった。大和(おおやまと)古墳群では、同タイプの画文帯神獣鏡が大和天神山古墳(奈良県天理市)と桜井茶臼山古墳(奈良県桜井市)の2ヵ所で確認されている。
     黒塚古墳の画文帯神獣鏡は木棺を安置していた粘土床の中央付近で一面見つかった。棺外を守るように配列された三角縁神獣鏡とは区別して扱われており、埋納に特別な意味があったと推測されている。
     直径13.5センチと画文帯神獣鏡の中では小ぶりで薄く、中央にある鈕(ちゅう)の周囲に乳(にゅう)と呼ばれる小さな突起が4つ配置されていた。突起にはいずれも竜の文様がからみ、周囲を半円と方形の文様帯がめぐっている。
  • 桜井茶臼山古墳
    出土した銅鏡の破片の内訳も非常に特異なもので、「三角縁神獣鏡」が26面、「内行花文鏡」9面、「方格規矩四神鏡」2面などが検出されましたが、「画文帯神獣鏡」が、環状乳、同向式など合わせて16面も検出されていることです。「画文帯神獣鏡」が複数出土すること自体がごく稀なもので、広陵町新山古墳や兵庫西求女塚古墳などで2~3面程度見つかっているにすぎません。「画文帯神獣鏡」の重要性を考えると、これだけでも桜井茶臼山古墳の被葬者の地位の高さがうかがえます。「三角縁神獣鏡」はわかっているものだけで、正始元年銘の第1段階から第3段階のものまで含んでいて、傾向的には椿井大塚山古墳と似ています。築造年代は3世紀中ごろから4世紀初頭と見られていますが、「三角縁神獣鏡」がすべて桜井茶臼山古墳に副葬されたもので、破片の調査が正確なものとすると4世紀初頭と考えるのが妥当ではないでしょうか。
  • 椿井大塚山古墳も黒塚古墳と同様に大量の銅鏡が出土回収されたことで知られています。
    1953年に当時の国鉄の法面改良工事の際に、竪穴式の石室が見つかり、緊急の調査が行われることになりました。全長約180mの前方後円墳ということがわかり、「三角縁神獣鏡」が32面以上、「内行花文鏡」が2面、「方格規矩四神鏡」が1面、「画文帯神獣鏡」が1面、他にも多くの刀剣、銅鏃などが見つかっています。「三角縁神獣鏡」は黒塚古墳と同様に第1段階、第2段階のものが多いですが、黒塚古墳と異なるのは第3段階のものが一部含まれていることです。また、石室は直立式割石積竪穴式石室で、黒塚古墳のように合掌式のものではなく、壁は垂直で天井も板石を架け渡し、粘土で被覆しています。床面には割竹木棺が安置され、壁面などとともに水銀朱が塗られています。これらのことから、黒塚古墳よりやや遅れて築造されたのではないかと考えられます。他の副葬品などからも4世紀初期から、遅くとも4世紀中ごろまでに築造されたものだと思われます。ただ、前回に黒塚古墳の築造年代を遡らせたので、椿井大塚山古墳も何か遡らせる要素がないか探してみると、墳頂部で出土した二重口縁壺が布留式古相のものということがわかり、これと三角縁神獣鏡の編年を踏まえて4世紀初期。300年代くらいまでは遡ることはできるか。

    180m級というとこの時代のものとしては、箸墓、桜井茶臼山、メスリ山、西殿塚古墳に次ぐ規模になります。他の古墳時代前期前半のものは天理市の南部から桜井市にかけての、いわゆる大和・柳本・纏向古墳群に小規模古墳も含めて、この地域に集中していますが、南山城地域にはこの椿井大塚山古墳しか存在していない
  • 大和天神山古墳の築造年代も行燈山古墳と同時期の古墳時代前期後半、4世紀の後半と考えられています。しかし、前期後半とするなら、合掌式の古式の構造には疑問が残りますし、もう一つ重要なのが銅鏡23面の内訳で、その内訳は「方格規矩鏡」6面、「内行花文鏡」4面、「画文帯神獣鏡」4面、「画像鏡」2面、「獣帯鏡」1面、「獣形鏡」3面、「斜縁変形神獣鏡」2面、「人物鳥獣文鏡」1面で、この時期に最も流通していたはずの「三角縁神獣鏡」が1面も含まれていません。「方格規矩鏡」、「内行花文鏡」、「画文帯神獣鏡」、「画像鏡」、「獣帯鏡」の5種17面が後漢鏡で、「獣形鏡」、「斜縁変形神獣鏡」、「人物鳥獣文鏡」の3種6面がいわゆる仿製鏡とされています。これほど多種多数の舶載鏡が副葬されているにもかかわらず「三角縁神獣鏡」が全く含まれていないというのは非常に特殊な組み合わせと言えます。
  • 萩原噴丘墓一号墓から画文帯神獣鏡はヤマトのホケノ古墳と同范鏡のようで、半島の楽浪・帯方郡域からも出ており、交流の深さは偲ばれます。3世紀初頭でのこの鏡の分布図を下記に示しました。萩原の東に3世紀中頃の西山谷2号墓(円墳)があり、積石の竪穴古墳でこの形状では日本最古とされており、この技術がヤマトに伝わったとみられています
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