青銅器、銅剣、銅鐸

December 2018 編集されました カテゴリ: 出土品/交易
image青銅器、銅剣、銅鐸

中国文明が青銅器時代に入ったのはエジプトや西アジアに比べてかなり遅く、紀元前2000年紀前半の二里頭文化期から…

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コメント

  • 殷王朝末裔の準王一族

    準王については、三国志魏略(280年)に「その子や親が国(辰国)に居留し、韓氏の姓を僭称する。準王は海中にあり、朝鮮とは互いに往来しなかった。その後、絶滅した。」とあり、後漢書弁辰伝(432年)に「初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を攻めて、これを撃ち破り、韓王として自立した。後に箕準の家系は滅絶。馬韓人が再び辰王になる。」とある。
     準王が馬韓を攻めたのは紀元前195年のことであった。
    魏略には「準王は海中にあり」と記述されている
    準王一族は数千人(後漢書)である。

  • 淡路島で20年ぶりの大発見 松帆銅鐸

    弥生時代に造られ、弥生時代の終わりに忽然と姿を消してしまった銅鐸。その謎に満ちた銅鐸は、現在までに500点余りが出土している。その中で、数十年に一度と言われる大発見があった。淡路島の南あわじ市で、7点の銅鐸がまとまって見つかったのだ。
    松帆銅鐸と名付けられたその銅鐸は、銅鐸の中に一回り小さな銅鐸が収納された「入れ子」という貴重な状態で発見された。
  • August 2019 編集されました
    昭和17・18年、善通寺市与北町陣山の畑地から、3口の弥生時代の銅剣が出土しました。これが、陣山銅剣です。その後、愛媛大学の吉田先生の研究により、丘陵の傾斜方向に主軸を向け、水平の状態で埋納されていたことがわかりました。平形銅剣は香川、愛媛の両県を中心に分布し、県内では15か所をこえる遺跡から約50口ほどが発見されています。平形銅剣の分布は、この地域の弥生文化の特色として知られています。市指定文化財であり、市郷土館が所蔵しています

    中細形銅剣について考えてみよう。先述したように出雲を中心とする「中細形銅剣集団」は中細形銅剣を武器としており、祭器とする集団ではなかった。それに、大量の中細形銅剣を埋納した荒神谷では、その近くで銅鐸と中平形銅矛が一緒に出土しており、出雲には銅鐸祭祀集団と中平形銅矛祭祀集団もともに混在していたことになり、不合理である。荒神谷銅鐸のところでは述べなかったが、出雲に来た鋳造師は鳥栖安永田遺跡=「支惟国」の鋳造師と断定したのは、彼らが中平形銅矛も作っていたからである。安永田遺跡にその鋳型が出土している。荒神谷6口の外縁付鈕式袈裟襷文銅鐸も16口の中平形銅矛もともにこの鋳造師集団の作品といえる。また、すこし南の佐賀県三養基郡検見谷遺跡に一括埋納された銅矛は、12口中10口が研ぎ分けによる綾杉状の装飾を持っている。荒神谷遺跡から出土した16口の銅矛のうちの4口にも同じ処理が認められる


    祭器としての平形銅剣はおもに瀬戸内海周囲の地域に分布域をもつ。平形銅剣は主に同地で生産されたらしい。
    岡山県倉敷児島由加瑜山出土の平形銅剣にも「長宜子孫銘雲雷文内行花文鏡」と同じ雲雷文をもつものが見つかっている。また、香川県や高知県から出土した銅剣には、銅鐸同様に鹿などの動物、重弧文、鋸歯文、櫛歯文があらわされている(『銅鐸の美』)。これらの銅剣も銅鐸と同一の工房で作られたか、あるいは緊密な繋がりを持つ氏族の工房で作られたと考えられる。瀬戸内海周囲の地域(播磨や伊予など)は、大國主(=大穴牟遅)とも関係が深く、出雲国後裔が移住しており、武器ではない平形銅剣を飾って同郷の証とした

  • 平形銅剣は,弥生時代後期(2世紀~3世紀),まつりに使用したと考えられている青銅製の剣で,讃岐、伊予を中心とする瀬戸内海中部地域一帯に分布している。
  • 日本での青銅器と鉄器の用途の違い

    青銅器 = 祭祀用
    種類
    ① 銅矛 → 九州北部
    ② 銅戈 → 九州北部
    ③ 銅剣 → 瀬戸内海中部(平形銅剣)
    ④ 銅鐸 → 近畿地方中心
  • かつては畿内を中心とした銅鐸文化圏と、北九州を中心とした銅剣・銅鉾文化圏が相対立して存在していたごとくいわれていた。最近ではこれら青銅器の研究が進み、北九州を中心とする銅剣・銅鉾のうち、墳墓に副葬された銅剣・銅鉾を青銅武器とし、埋納されたものを青銅武器形祭器と区別し、後者を銅鐸と対比する説が多くなった。ところで県内から発見されている弥生時代の青銅器は銅剣・銅鉾・銅鏡のみであり、銅鐸・銅戈の出土は確認されていない。このうち銅戈は東予市旦之上の大黒山から出土した記録が残っているが、銅戈そのものは現存しておらず、銅戈と断定するには躊躇せざるを得ない。
     従来、愛媛県の東部は銅鐸文化圏内に属するごとく図示されているが、現在までに銅鐸が発見されていない以上、銅鐸文化圏の範囲に入れるべきではなかろう。四国では愛媛県を除く他の香川・徳島・高知の各県からは出土している。その出土分布の状態をみると、畿内に近い地域から多く出土しており、畿内から離れるに従ってその数が少なくなっている。このようにみると、愛媛県は畿内を中心とした銅鐸を使用した勢力とは異なった勢力集団に属していたといえるのではなかろうか。香川県と愛媛県の境が奈良時代にすでに決まっていたことは、この銅鐸の有無と一致しており、単に地理的理由によって古代の国の境が決まったとはいえないのではなかろうか。甚だ興味ある点である。
     県内からの出土例がない銅鐸ではあるが、この銅鐸は、前述したごとく畿内を中心に同心円状に分布している。それらはほとんど集落内で発見されず、山麓とか山腹斜面中から銅鐸のみが数の多少はあるものの他の遺物を全く伴わずに発見されている。恐らく集落から離れた特定の場所に意図的に埋納したものであろう。銅鐸は埋納の特殊性から普段は地下に埋納保管し、使用する時にのみ掘り出して祭器とし、農耕儀礼がすむと再び地下に埋納したものであろうともいわれている。しかし発見された銅鐸が磨耗していることは、使用に際して研磨をしていることをあらわしており、そのように大切に扱うものを地下で保管するとは考えられない。銅鐸の地下埋納の背景には統一国家の成立という大きい問題を含んでいる可能性が強い。

     銅鉾・銅剣の分布

     これに対する銅鉾は、対馬から福岡・大分県と四国の南西部に集中しており、銅鐸とその分布が明らかに対立する状況を示している。銅剣はかつては銅鉾文化圏と同じように扱っていたが、最近では中細形・広形・平形銅剣は銅鐸とともに畿内で製作され、これが伝播したといわれている。このうち平形銅剣は瀬戸内海沿岸、特に愛媛と香川の両県に集中しており、北九州の銅鉾文化圏と近畿を中心とする銅鐸文化圏の中間地帯にあって、他の地域と若干青銅器の在り方が相違している。それゆえ、これら広島・愛媛・香川・徳島・岡山南部は平形銅剣文化圏という一つの文化圏を形成しているともいえる。この平形銅剣を出土する地域は弥生中期末の凹線文土器の出土範囲と同じである点、単に青銅器のみの特色でないところに大きな意味を持っている。
     以上が愛媛県を中心とした周辺地域の青銅器の在り方についてのプロローグである。さて県内出土の青銅器の在り方はどうであろうか。
  • 銅剣
    全国で約700本出土
    その内中国から約400本(約6割)、
    九州から約140本、
    四国から約120本出土しています

    何と言っても中国の約400本が目を引くのですが、荒神谷から中細銅剣(c類と呼ばれる最終変化形)がまとめて358本出土したことが大きく影響しています。四国では約120本のうち平形銅剣と呼ばれる独特の銅剣が約90本出土しております。平形銅剣は瀬戸内を中心に分布
    しており広島や岡山からの出土をあわせると100本以上が瀬戸内からの出土です。

     元々の武器である細形銅剣についてみてみますと、全国で100本以上の出土のうち九州から大半の100本近く(86%)が出ています。
    その半数の50本は福岡県からの出土です。長崎県からは20本以上(大部分は壱岐・対馬から)が出土しています。佐賀県出土の約20本を合わせると殆どが北部九州(含、壱岐・対馬)からの出土と見てよいでしょう。

     銅剣は、細形銅剣、中細形銅剣、平形銅剣の3つに大別出来ます。実用性が高く支配者の持ち物と見られる細形銅剣は北部九州に集中的に分布し、支配者が亡くなると副葬品として甕棺に納められたと考えられます。中細形銅剣は他の地域では殆ど見られず(少数のa類、b類を除く)島根県の荒神谷の山腹に大量に埋められておりました。平形銅剣は瀬戸内海を挟んだ中国と四国を中心に分布し地中にまとめて埋められていた、という分布や出土状況の特徴があります。

     青銅武器は一般的には形が変化するに従い、大きくなる傾向があります。
    銅剣についてみれば、細形は30cm程度、中細形は40cm程度、平形は50cm弱の長さのものも見られます。銅剣の変化の筋道については必ずしも十分に解明されていないのですが、細形→中細形→平形と変化したと言われる方もおられます。が、これはいかにも腑に落ちないのです。今一度銅剣の形をご覧頂きたいと思います。
    細形と中細形は大きさがかなり違っておりますが、細かな点はともかくとして全体の形はよく似ております。平形銅剣は剣の刃と根本の間に大きく飛び出した部分があり特徴的な形をしております。中細形銅剣と平形銅剣には大きさの差だけではなく、形の違いも大きいのです。

     これが上記のような変化をしたと考えますと次のようなことになります。最初は北部九州を中心に細形銅剣(及び中細形a類)が支配者の持ち物として実用され、支配者がなくなると墓に副葬されていた。次の時代になると(銅剣を持つ集団は)出雲に移り、祭器として中細形銅剣(c類)を大量に作り山中に埋めた。これは一時期で、すぐ次の時代になると(集団は)瀬戸内沿岸に移り、中央下部が大きく飛び出した特異な形の平形銅剣を作って地中に埋めるようになった。全てではありませんが、大きく捉
    えればこのようになると思います。皆さんはこのような状況を想像できますでしょうか。

     鉄器が入って来るようになり実用的な武器は鉄器になり、青銅製銅剣は祭器となったということなら理解できないことではありません。それならば引き続き北部九州が中心地帯と見られるのに(鉄製武器出土の中心)、祭器形銅剣を持つ集団は出雲に移動して中細形銅剣(c類)を作り、(或は祭器形銅剣だけが出雲に伝わり)、更に瀬戸内沿岸に移動して大きく形が異なる平形銅剣を作った(伝わった)のでしょうか。理屈ではありえても実際の状況は想像し難いのではないでしょうか。

     青銅器の形式変化を考える場合、日本の中だけではなく主として半島での変化の影響(或は直接の伝来)の可能性を考える必要があるのは銅戈のところで少し触れました、平形銅剣については半島には同じような形のものは出土していません。これから見ると半島からの影響とは考えにくいようです。強いて探せば遼寧式銅剣と呼ばれる大陸系の銅剣に中央部が飛び出す形のものが見られます。しかしながら共通点
    と言えるのはそこだけで、時間的にも隔たりが大きい上、全体の形もかなり異なっておりますので、直接的な影響関係は考えにくいと思います。どうして、このような突然変異的な形が現れたのでしょうか。

     銅剣を現物(と言ってもガラスケース越しですが)や写真などで比較しながら見てい
    るうちに、あることに気がつきました。銅剣の刃より根本に近い部分には刳方(くりか
    た)と呼ばれる少し抉れた部分があります。どうしてこのような形になっているのかについてはまだ定説はないのですが、相手を刺した剣を抜きやすくするためではないか、という考えは納得できるものだと思います。それはともかく、初期の細形銅剣の中には、数は多くないのですが、刳方の上の(刃に近い)部分に、小さな突起があるように見えるものがありました。この突起は鋳込んだときから付けられていたもので
    はなく、研ぎによって付けられたものと見られるようですが、この突起が少しずつ大きくなり、最終的に平形銅剣に見られるような大きな突起に発展したという可能性があるのではないかと考えました。

     もしそうだとすれば、銅剣については、初期の細形から中細形へと変化する流れと、平形へと変化する二つの流れがあったことになります。私はこのように考えた方が、細形→中細形→平形という、大きさの変化は説明できても形の変化は説明し難い、やや不自然と見られる変化よりも理解しやすいように思うのです。銅戈と同じように、実用武器として変化する流れと祭器へと変化する流れが考えられるのではない
    かと思います。最近では、考古学の専門家の間でも、時間的に中細形銅剣と平形銅剣は、ほぼ同じ時期に出現していたのではないかと言う意見も、まだ少数ですが聞
    かれるようです。上記の私の考えが正しければ、二つの形式がほぼ同時期に存在し
    たことの裏づけとなるのかもしれません。

     以上青銅武器について概観して参りました。従来は(そして今でも大方は)青銅武
    器は多少のラップ期間はあるものの、概ね細形→中細形→(中)広形へという過程を
    たどり、武器から祭器に変化した、と言うことがいわれてきました。しかしながら上記のような分布状況から見ると、そのような直線的な変化では説明できないことも多いことが明らかになってきたのではないかと思います。

     今一度総括的に見てみましょう。原型と見られる細形青銅武器は、類似形を含めて、その9割が北部九州から出土しておりす。その内かなりのものは墓の副葬品として甕棺の中などから見つかっております。九州以外で副葬品として埋められた例は今まで見つかっておりません。時代が下がるに従い大型化や多数埋納などの変化が見られると共に九州から外に広がる傾向が見られます。が、全出土品の半数以上が九州であり、青銅武器の中心が北部九州であることは動きません。邪馬台国の有力候補地とされている近畿からの青銅武器の出土は全国の3%に留まっています。
  • 四国三郎と呼ばれる吉野川の第一支流である鮎喰川は,四国の霊峰剣山に源を発して吉野川とやや平行に北東に向って流れ下り,徳島市の北西で本流の吉野川に流れ込み,紀伊水道にそそいでいる。
     吉野川と鮎喰川の三角州の沖積層には阿波国の上代文化の中心地であり,阿波国の国府司庁,阿波国分寺,国分尼寺などの国家施設が設置され,これらの場所はいずれも鮎喰川流域沿いに建設されている。神山町はこの鮎喰川流域に点在する集落によって形成されている聚落集団であり,鮎喰川流域のほぼ中央にあたる神領上角には,阿波国の祖神である大宜都比売神を祭神とする上一宮大粟神社が鎮座する。
     土地の名称については,徳島市入田町以西名西山分の土地は古くは名方郡に属し,埴土郷(波爾)であり,名東郡は殖粟郷(恵久利)であり,内谷,矢野,一宮,佐那河内がこれにあたるので,後世には以西郡として一郡を作っている。
     この大粟の郷は「阿波国徴古雑抄」所載の長講堂文書によると,元享3年(1323)3月23日長講堂領阿波国一宮大粟~とあり,埴土郷は荘園として一宮大粟と称され,長講堂となって持明院統が伝領せられたのである。その後一宮成宗が一宮大粟の地領となり,徳島市一宮に城を築いてより,名西山分を単に大粟山と称したのであろう。
     阿川宮分の勧善寺所蔵の大般苦経172巻の奥書に,於阿波国名西郡大粟山尾呂野観学坊書写了,至徳4年11月4日とある。元享3年は鎌倉時代末期の年号であり,至徳4年は西紀(1387)で元享3年より64年後の南北朝時代の北朝の年号である。
     大粟郷に鎮座する阿波最古の袖,大宜都比売神は,古伝読では阿波国を開き,粟を植えて農耕の法を教えられた。その地域は名西山分であると言われている。この神を祖神と崇める一団の人々が鮎喰川を遡って定住し,大粟文化圏を作ったと考えられるのである。その部族の祖神である大宜都比売神の宮司になることは,すなわちこの地域を統治する資格者である。それ故に阿波国の武士団の頭梁や豪族の長などはこの神社の宮司になることを競いあった。これらはこの神の鎮座する神領盆地(鬼籠野,下分上山をふくむ)という稲作地帯,すなわち有力な経済基盤があったからでもあろう。
     阿波国の豪族田口氏は平安時代より南北朝時代にかけてこの神社の宮司をつとめていた。田口氏は平城天皇の大同3年(808)5月9日,庄少弁従五位下,田ノ口息継が阿波国の国司に任ぜられ,阿波国府に来り阿波国の国政を行った。国司の任期は4年間であり,任期が終り都に帰ったが都では藤原氏の全盛時代であり,田ノ口氏は紀系であるので,重任に就けず自分の先の任地である阿波国に来り,石井町高川原大字桜間に館を築いて,この所を本処に吉野川下流と鮎喰川の三角州の土地をしだいに荘園化し私有地とし土着して阿波国の豪族となった。その子孫である桜間文治は,天慶3年(940)4月藤原純友が瀬戸内海で反乱を起こし天皇に叛いた。田ノ口氏である桜間文治は瀬戸内海水軍を引いて純友を討って,南海を平定し得るほどの一門の武士団の頭梁に成上っていた。阿波国で歴史上の人物として登場するのは桜間文治が最初の人物である。この田ノ口氏が名西山分の大粟山にも勢力を伸し,大宜都比売神社の宮司を兼ねていた。田ノ口氏が神宮として奉仕したことから,この神社の御名を神宮の田ノ口氏の名を取って田口神社と称していた時期もあった。
     田ノ口氏は平清盛に仕え平家水軍の総指揮者として忠誠を尽し,兵庫の経ケ島を築いた。平家没落にあたっては讃岐国八島に御在所を構築し御座船を仕立て,安徳天皇をお迎えした。日本海軍の司令長官であった田ノ口成良は大宣都比売神社の宮主となり,国造家と称してこの宮の宮司職をつとめた。
     平家物語巻11先帝御入水の条にこの成良のことがくわしく書かれている。その中で「息子田内左衛門教能を生捕せられ今は叶わじと思いけん」とあり,八島の合戦で一人息子の教能を源氏の伊勢三郎に捕えられた。平家最後地壇の浦で戦死した田ノ口氏は,一族郎統を引きつれて伊矛国川之江に上陸して,自分の領地桜間に帰り,やはり大粟神社の神職をつとめていたようである。
     平家を滅した源頼朝は,近江源氏である佐々木経高を文治2年(1186)に阿波国,土佐国,淡路島の三ケ国で守護職に任命した。佐々木氏は阿波国で鳥坂に城を築いて此の所を本拠として三国の守護に当った。鳥坂城は,現在の名西郡石井町字鳥坂にあり,佐々木氏が何故この位置を選んで館を築いたかについては5萬分の1地図の川島を見れば解るように,この鳥坂城は剣山山脈の東端にある山塊,海抜212mの気延山の山に延びる丘陵線の北の突端75.9mの山頂にある
    ここからは阿波国府司庁が東1km足らずの所にあり,北方には前記の阿波の豪族桜間館がやはり1kmほどの位置にある。察するところ両地の旧支配者に対してにらみをきかすためにこの地を選んだものと考えられる。
     承久3年(1221)5月14日,後鳥羽上皇は執権北条義時の横暴を怒り,経高に討幕のはかりごとを打ち明けて,天皇方に加わるようにすすめた。この承久の変で宮方に付いた佐々木氏を討っために北条氏は甲斐源氏の小笠原長清を阿波国に入国させた。佐々木氏の阿波経営はわずか35年間で終り,かわって佐々木氏を滅した小笠原氏が阿波国の守護職となり,鎌倉時代,南北朝時代にかけて阿波国の実権を握っていた。
    こうした政変の移り変わりにも田ノ口氏はやはり大粟神社の神宮職を続けていた。
     小笠原氏が阿波国を経営し実権を握る上で池田町に大西城を築き,名東郡一宮には一宮城を築いて小笠原成宗を配した。一宮城主になった成宗は一宮城の後方神山町神領に阿波国の名族田ノ口氏が大宜都比売神社の宮司であり,神領盆地の支配者であれば,何時叛乱をおこし,寝首を切られるかが心配であり,枕を高くしてねむることは出来なかった。それ故に一宮氏は田ノ口氏を討ち,自ら阿波国造と称して大粟神社の神官となった。
     田ノ口氏の一族はこの神山の地をはなれ,参州牛久保の城主牧野康成~忠成がある「阿波国徴古雑抄巻7」728項に載っている。
     つぎに出土資料から見た古代神山町は,明治10年頃下分の白土利太郎氏が2本の銅剣を掘り出した。この場所は鮎喰川右岸にあたる左右山で左右山橋から東南におよそ100mほど登った左右山川右岸の畠のきしで地ならしをしていた時,石垣の下から出土したという。それは平形銅剣で出土した時には麻布でつつんであったようであったという。
     現地は海抜300mほどの所で全国に於ける銅剣出土地としては最高の位置といわれている。それを持って帰って木箱に入れて神棚に祀っていたのを,昭和初年に森敬介氏がゆずり受け徳島市に持ち帰っていたが,村中で問題となり,徳島県の社青課が中にはいり,村にかえされ下分小学校で保管されていた。昭和15年9月27日付で文部省から重要美術品として指定された。その後下分支所に保管されている。
    細形銅剣と称されるものに近い形で穂先が少しかげているが,長さ44.8cm,幅5.0cm,マチ幅4.2cm,最広部5.15cm刺状突起の部分5.8cm,厚さ1mm,刃は極めて鈍くこれは利器から脱して際器,あるいは儀式用としての形式化する平形銅剣への移行を示すものである。

     広い方は全長46.1cm,マチ幅5.5cm,広い部分で5.4cm,最も狭い部分で4.94cmほどのものである。次にこの対岸である鮎喰川北岸の東寺,農業山根実太郎氏が銅剣を掘り出して祀っていたことが解り,これは山根氏の自宅の畠の中に榊神社という屋敷神があり,四方を囲んであったが,それを大正9年に神社に合祀した。それからしばらくして整地をした時に出てきたが,たしか春であったと思うが,礫石を積んであった下にあった。それを船戸様の石垣の間に置いて,礫石や瓦は川へ捨てたからその中に破片がまじっていたかも知れない。それは昭和5年から10年の間で山根実太郎さんは当時(昭和30年)78歳であったので,記憶が不確実であった。その実太郎氏の孫が中学校に持参して下分中学教諭の稲飯幸生先生に見せ,先生は昭和30年10月15日に飯田義資氏に書簡で報告した。同12月14日当時東京国立博物館考古学課長三木文雄先生に見せていよいよ銅剣であることが確認された。これは銅剣3本でその中の1本は穂先の部分が少し欠損しているだけで,全長31.6cmで,刺状突起のやや下で2つに折れている。他の2本の寸法は略す。
     この出土地点は前に出た南岸に対して対抗する北岸から出たもので非常に資料的価置の高いものであるといえよう。これらの5本の銅剣の出土は鮎喰流域の古代文化の形態を示す資料であると共に鮎喰川下流と上流地域の文化形態の相違が知られる資料として重視している。
     それは,鮎喰川の下流と上流とを区別する咽喉首に当る現在の徳島市国府町矢野字源田には昭和23年3月中旬に銅鐸3個と銅剣1本が搬出するという貴重な遺跡があり,源田遺跡の南を流れる鮎喰の南岸には昭和34年8月に銅鐸3個を発掘された安都真遺跡がある。この2つの遺跡は鮎喰川をはさんで南北両岸のほぼ1直線上にある遺跡である。
     源田遺跡は,この山の持主である出口繁蔵さんが開墾中に掘出したもので,実に見事な袈裟襷文の銅鐸2個とその他に破片の銅鐸1個とその中央に細形銅剣1本が搬出したもので,全国的にもめずらしい遺跡であり,その埋入状態は図に示す通り3個の銅鐸は1辺の長さ1.10cmほどの正三角形に埋められていて,銅剣はその中央,より西西北に向かって斜面に向って北にずれて倒れていた。この銅剣は日本で1番長い54.3cmで細形,平形を通して最大のものである。
      日本で銅鐸と銅剣の搬出した遺跡は
       1期 広島県安佐郡福木村字福田
       2期 香川県小豆郡安田村字安田
       2期 徳島県名西郡入田村矢野字源田
       3期 香川県三豊郡一宮村大字羽方
     昭和48年11月に島根県八束郡鹿島町佐陀本郷より第2期の中広形銅剣6本と袈裟襷文銅鐸1個が出土した報告がある。
     安都真遺跡は正しくは徳島市入田町字安都真268番地の山林で高橋寛一氏所有の遺跡である。昭和34年8月26日に此所を開墾中3個の銅鐸が1ケ所に竝んで発見されている。
     徳島県で現在までに発見されている銅剣数は細形,平形を合わせて前記の源田の細形銅剣1本,神山町左右山の平形銅剣2本,同じく東寺で平形銅剣3本と美馬郡西祖谷山五社大明神の平形銅剣1本で合計7本となっている。
     その中にはこの祖谷山のものは出土地も不明であるばかりか,現在は所作が不明になっていて現物をみることが出来ない。現在出土地も解り,現物も残存する銅剣では,この鮎喰川流域出土のものだけである。

     四国の中では
    愛媛県が銅剣43本,銅鉾20本で銅鐸は発見されていない。
    香川県は銅剣52本,銅鉾8本。高知県は銅剣2本,銅鉾11本、これは昭和35年の調査であるから其後多少の増はあると考えられるが,今日に於ても愛媛県では,銅鐸の出土はないようである。

    従来の学説では,銅剣文化は北九州文化圏といい,銅鐸文化は近畿文化圏であると考えていた。しからばこの神山町すなわち大粟文化圏は,古代北九州文化が強く支配していたのではないかと考えさせられるのである。

    日本に於ける銅剣の分布状態は
    1北九州 2九州,四国西半径 3中国,四国近畿西南であり
    銅鐸の分布状態は
    1四国,中国,近畿東部 2近畿 3伊勢湾周辺である。
  • 銅鐸とるつぼ
    奈良県磯城(しき)郡田原本(たわらもと)町唐古と鍵にある弥生(やよい)時代集落遺跡。1936、37年(昭和11、12)に京都帝国大学と奈良県により調査が行われ、弥生土器とともに多量の木製農耕具類が出土したことによって、弥生土器が水稲農耕文化に属することが初めて実証され、近畿弥生土器の編年体系が確立された。遺跡は推定400メートル×500メートルの規模をもち、周囲に幅4~10メートル余の環濠(かんごう)を巡らしている。遺跡南部には銅鐸(どうたく)鋳造工房があったらしく、1977年(昭和52)の調査によって後期初頭の土器とともに銅鐸鋳型(いがた)(石型1点、土型多数)、鞴羽口(ふいごはぐち)、坩堝(るつぼ)などが検出された。銅鐸の製作時期を限定しうる重要な資料であるとともに、南西600メートルに所在する鏡作(かがみつくり)神社の性格がにわかに注目されてきた。これら鋳型から復原できる銅鐸は、従来弥生時代中期に使用年代が求められていた外縁付鈕(ちゅう)式か扁平(へんぺい)鈕式のものであり、それが後期初頭の土器と共伴していたことと、銅鐸祭祀(さいし)(地的宗儀)と鏡祭祀(天的宗儀)がどのように転換したのかを生産地の状況を通じて検討しうるのではないか、という新たな課題が提起された
  • August 2019 編集されました
    桜間と大粟神社

    或記に云、武内宿禰之後胤阿波真人広記(天智天皇御宇の人)十二代之後孫阿波助国風(朱雀天皇御宇之人)其の子桜間文治行直其後十代桜間外記太夫良連子無為以甥良遠子桜間助是也而良遠之兄成良阿波民部号勝浦郡之城主也 成良之子伝内左衛門成直(一名教良)号 源平八島合戦之時成良真随従義経云々。(勝浦郡城者今田林寺境内也云)
    最近追っております田口民部成良こと粟田口成良の祖先を遡れば武内宿禰にあたるとされた古文書が存在するみたいです。或記とは何なんでしょうか
    大粟山
    (粟国造本館跡:推定) 田口一族は宮主と称し国造家と称して南北朝の初頃まで大粟山庄で大粟神の奉仕を行っていた。 平城天皇の大同三年五月九日に左少弁従五位下 田ノ口息継が阿波国司に任ぜられ、子孫が公領の荘園化とともに阿波に土着し豪族となった


    武内宿禰の末裔の阿波真人広純は斉明天皇の白雉四年(658)に阿波国司として着任した。真人の末裔の田口(たのくち)氏が阿波に住みつくようになったのはいつの頃かわからないが田口息継は大同3年(808)5月に阿波国司に任ぜられている。田口氏は桜間に居て田口または桜間(さくらま)を名乗り、息継の何代か後の阿波介国風は桜間にいて、阿波国統治につとめ、その子文治直行は桜間の防備を整え、承平天慶(931~947)の頃、西海を乱した藤原純友が讃岐・阿波に侵入したのを迎え撃ったといわれる。直行は桜間を名乗って阿波を統治し、その子孫も代々その職を継ぎ、それより十代の桜間外記大夫良連まで桜間を名乗ったが、良連の跡を継いだ良連の甥成良(しげよし)は田口を名乗り武威を誇った。成良は安徳天皇の寿永元年(1182)正月阿波守となり、ついで民部大輔に補せられて阿波大輔と称し、吉野川下流の肥沃な沖積平野を占有して、「財甲充ち、兵馬も頗る充実し、その勢力は板野郡から勝浦郡地方にも伸び」と徳島県史にもあり、その弟桜間ノ介良遠は勝浦本庄に城を築いて蟠居していたので、当時の阿波における最大の勢力として知られていた。(阿波学会研究紀要より)

    名方郡では国府町桜間池周辺から神山町神領の範囲になります。こちらは以前から説明しているように上一宮大粟神社を中心とした中社、下社による大宜都比売命の祭祀であり、田口氏の血も分けていると思われる粟飯原氏が継承していたのではないかというところです。(田口氏も含めて粟凡直一族という見解からのお話)

    「波多矢代宿禰」は孝元天皇の孫「建内宿禰」の長子であり「波多朝臣」の祖でありますが、この系はあくまで蘇我氏、葛城氏の系統であり、秦氏とは別物であると考えております。
    石井町に曽我氏神社があり蘇我氏を祀り、石川神社に石川麻呂を祀り、鳴門市に葛城神社、そして徳島市の眉山、以の山(眉山)の西の耳原、亀の甲羅の形をした小峰にあるのが「以の山 甲羅峯」であり、あるいは武内宿禰の墓陵との説もあります。
  • August 2019 編集されました
    小笠原長経の五男にあたる長宗が一宮宮内大輔成宗より祭官相伝え神禄相伝え一本に勅命を蒙り阿波国一宮宮司となる。
    其後、足利義満公の命を蒙り、延元三年(1338)に長宗は阿波一宮城を築き拠点とし、その後、嫡子である成宗
    にその職を譲り、以後代を重ねて戦国時代に至る。

    【一宮氏の戦国後期の当主は成祐】

    三好氏に属して各地を転戦。永祿5年(1562年)の久米田の戦いにも参陣。大将である三好実休が戦死する敗戦となったが無事に撤退に成功している。しかし、長慶の死後には三好氏の勢力が衰退し、三好長治が当主となった頃には長宗我部氏に鞍替えした。天正5年(1577年)から天正8年(1580年)にかけて勝端城を巡って長宗我部氏と同盟を結び十河存保と争奪戦を繰り広げている。以後も、長宗我部氏の四國統一戦に従ったが、1582年11月に三好康長に内応して織田方に寢返り、中富川の戦いの後で再び長宗我部側に降參したが、長宗我部元親に咎められて切腹を命じられることになる

    一宮成祐。
    天正十一年一月十七日に元親は一宮城主 長門守成祐に急ぎの内報ありと夷山に呼び寄せ、同行した弟、主計頭と家来の星合六之進と共に謀殺されてしまう。この一宮成祐の死によって一宮氏は十二代で滅んでしまった。儚くも謀殺された成祐は現地 夷山城の傍らに葬られ、現在もその墓は確認することができる

    田口氏は「紀氏」出身で大同三(八〇八)年阿波へ来たそうです。実はこの田口成能は「粟田姓」であったのではないかとの説があります。

    「粟田氏」は、孝安天皇(天足彦国押命 あめのおしたらしひこ)を祖とする和邇族と同族にあたります。

    始祖と云われる「考安天皇」の父「孝昭天皇」こと「観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと」が佐那河内村に鎮座する「観松彦神社」で長国の祖神として祀られること。

    田口 教能(たぐち の のりよし)

    伊勢平氏の有力家人である田口成良の嫡男として生まれる。四国の最大勢力であった田口一族は四国に落ち延びた平家を支え、一ノ谷の戦い、屋島の戦いでも平家方として源氏勢と戦った。教能は要請に応じない伊予国の河野通信を討伐するために3千余騎を率いて出陣し、通信を討ち漏らして家人150名の首を斬って屋島の内裏に戻ろうとしていた。その道中で屋島の戦いに敗れた平家を追う源義経の軍勢に遭遇する。
    『平家物語』によれば、志度合戦で平家を追撃する義経は、教能を調略すべく郎党の伊勢義盛を使わし、義盛は僅か16騎を白装束にして教能の陣に赴いた。義盛は教能の叔父・桜庭良遠や平家の武将がみな討ち死にし、父・成良が捕虜となって、教能の身を案じて嘆いていると虚言を廻らした。既に屋島での敗北を聞いていた教能は戦意を失って武具を外し、3千余騎の兵も教能に倣って帰伏し、義経の軍勢に加えられた。『吾妻鏡』(文治元年(1185年)2月21日条)にも、屋島の戦いの後に教能が義経に帰伏した事、河野通信が30艘の兵船をもって義経の軍に加わった事が記されている。
    嫡子・教能が源氏側に降りた事が、父・成良が壇ノ浦の戦いで平家を裏切り、その敗北を決定づける伏線となっている。
    その後捕虜として鎌倉へ護送された教能は、12年の禁固ののち、建久8年(1197年)10月、鎌倉幕府の命を受けた侍所別当の和田義盛によって三浦浜に引き出され、斬首されたという(『鎌倉大日記』)。その子らは連座せす、三河牧野氏は教良の末裔と伝えられる(『寛政重修諸家譜』)。これとは別に粟田氏の名前が鎌倉期に入っても見られ[1]、成良・教能父子の一族がその後も現地の在庁官人として存続したとする説もある。
  • August 2019 編集されました
    長国造の領域は阿波国那賀郡の那賀川流域が中心であったが、その周辺には、勝浦郡の式内社の事代主神社や、名方郡の式内社の多祁御奈刀弥神社(タケミナカタトミ。名西郡石井町浦庄字諏訪に鎮座し、諏訪神たる建御名方命・八坂刀売命夫妻を奉斎)など三輪・諏訪一族に関係が深い古社が存在しており、これらの社も長国造一族が祀ったとみられる。

    大国主神が多紀理姫命との間に儲けた阿遅鉏高彦根神の妻・天御梶日女神の別名

    その系譜「塩屋彦命--観松彦伊呂止命--大日原富命--建御名方富命--甕男立命」


    粟国造 都佐国造は同祖 粟凡直 長直も基本一系なりしを属地に依て粟凡直長直に分して異姓を称するなる可し。
    粟凡直と長直は同族であり、属地により姓を分けて称したとあります。
    その分れ目の地こそ佐那河内村長峯。その地に鎮座するのは御間都比古神社だからです。
    【長国造(阿波)】
    長国造は長国(現・徳島県の那賀川流域中心、徳島市・佐那河内村・小松島市・勝浦郡・那賀郡・阿南市・海部郡)を支配したとされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると成務天皇(13代)の時代、観松彦色止命(みまつひこいろとのみこと)の9世孫である韓背足尼(からせのすくね、韓背宿禰)を国造に定めたことに始まるとされる。韓背足尼の後裔は長姓を称して国造を世襲し、支流の大海路命の後裔は長宗宿禰の姓を名乗り、後の長宗我部氏と続く。長公系譜では建日別命(たけひわけのみこと)は長国造・長我孫・都佐国造の遠祖であり、長氏は三輪氏と同族で事代主命(ことしろぬしのみこと)の神裔に位置付けられている。諸説を統合すると観松彦命が神武天皇の東征に抵抗した長髄彦(ながすねひこ、那賀須泥毘古)であり、韓背足尼はその子孫との説もある。
    長国の本拠地は定かではないが、大化の改新後に粟国と合併して阿波国となり、国府は現・徳島市国府町になったという。また古墳等の史跡も見つかっていないが、名東郡佐那河内村にある御間都比古神社は初代国造・韓背足尼が祖神である御間都比古色止命(観松彦色止命)を祀ったと伝えられる。
  • 中原一帯から出土した殷周期の青銅器は基本的に銅とスズの合金であるスズ青銅で、東灰山遺跡のような銅とヒ素の合金は見られない。

    考古学専門家によると、世界の冶金史上、青銅時代の前にヒ素銅を精錬・使用していた時代があった。紀元前3000年ごろヒ素銅製品は西アジア、南欧、北アフリカなどで一般的に使用されていた。

    郎研究員は次のように語った。青銅器は中国で初めて使用が始まったのではなく、西アジアでは5~6000年前には存在していた。中央アジア、西アジアの青銅器はヒ素を含むが、中原の殷周期の青銅器はヒ素をほとんど含まない。四ハ文化でヒ素青銅が一般的だったという特徴は西アジア、南欧、北アフリカの早い時期の銅製品と共通しており、4000年前、四ハ文化では何らかのかたちで外界とのつながりがあった可能性がある。西方の精錬、製造、鋳造成型などの技術は河西地域の四ハ文化、斉家文化などを通じて陜西、河南などの中原地域に伝えられ、後に発展して世界を驚かす殷周期の発達した青銅文化となった。
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