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屯倉は「御宅(みやけ)」「宮家(みやけ)」の意で、もともとは倭王権の建造物をさし、また耕作地を含めて広く称する…
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景行期に
若帶日子命と倭建命、亦五百木之入日子命と此の三王みはしらは、太子ひつぎのみこの名を負ひたまひ、其れより餘ほかの七十七王ななそぢまりななはしらは、悉ふつくに國國の國造くにのみやつこ、亦和氣わけ、及稲置いなぎ、縣主あがたぬしに別け賜ひき。
大化後,稲置本来の役割を失って,684年(天武13)の八色の姓(やくさのかばね)では最下位の姓に転じ,さらに因支首(おびと)・稲置代(しろ)首のように氏(うじ)名化するにいたった。
冬十月戊子朔丙申 遣蘇我馬子大臣於吉備国増益白猪屯倉与田部即以田部名籍授于白猪史胆津。戊戌 詔船史王辰爾弟牛賜姓為津史。
遣蘇我馬子大臣 於吉備国 増益白猪屯倉与田部 即 以田部名籍 授于白猪史胆津。
蘇我馬子大臣を 吉備国に遣して 白猪屯倉と田部を 増益す。即ち 田部の名籍を以て 白猪史胆津に授く。
記事の内容は蘇我馬子と白猪史胆津を吉備の国の白猪屯倉に派遣したが、それはそこにある田部を「名籍」を使って増益するのが狙いだったというのだ。
取り仕切った責任者は蘇我氏の馬子、執行責任者は帰化人の白猪史の胆津。増益の手段は「名籍」。これは田籍を意味するのだろう。
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同じ頃に
詔船史王辰爾弟牛賜姓為津史。
詔ありて船の史(ふひと)王辰爾の弟、牛に姓(かばね)を津史(つのふひと)と賜ふ。
「王」氏が「船首の王」氏となり「津史」氏という職務に合致した称号を得た
出土した墓誌銘に「船首王後」とあり、船首(ふねのおびと)の「王後」と読んだのだろう。
白猪史は王辰爾の兄である王味沙が初めとされ、胆津はその子である。
王辰爾は船史、兄の王味沙の子、胆津は白猪史、弟の王牛(?)は津史。一族が経済の根幹の事務についている。
この前後する二つの記事を繋ぐのは帰化人氏族王氏である。どちらも同じ家伝から採られているとみてよい。
倭国(日本)古来の土地管理制度は、トモ(伴)制度であったが、百済の部司制の影響をうけて、トモ制を部民制というようになった。
大伴や物部というような氏名はこの時代の命名である。
部民制とは、近畿や地方の諸豪族が王権の承認のもとに或る地域の人民を所有支配して、代償に王権への各種の奉仕義務を負う体制であった。
これに対して王権が直接土地を支配する「屯倉」制がはじまり、6世紀後半には全国的な展開をしはじめた。
これに積極的に貢献したのが蘇我氏であったようだ。
その背景には、大和政権の混乱がつづき、継体天皇の大和盆地入りが20年もかかった時代に、積極的に継体派を支援して、政権の勢力を強化するために屯倉を増やし、その管理業務に能力をはっきしたのが蘇我氏だった。
磐井の乱でも、武力では物部が活躍したが、糟屋の屯倉など多数の屯倉を九州につくり、その実質的な管理には蘇我氏が貢献したといわれる。
古賀の「みあけ遺跡」では、物部氏の働きは話題になるが、蘇我氏の働きがあったかも知れない
「仁徳紀」十三年条に〈初メテ、茨田屯倉ヲ置ク〉とありますが、これは枚方市から寝屋川市に至る淀川の治水のために設けられた茨田堤造営に伴うものです。また〈秦人ヲ役シテ茨田堤及ビ茨田三宅ヲ作ル〉とあるように、水田開発事業には多くの渡来人(先端の技術)が絡んでいます。
さらに新しく開拓された河内平野には、依網(よさみ)屯倉(「履中紀」)を初め数多くの屯倉が設けられていきました。これによって大和朝廷の農業生産力(=基盤)は飛躍的に高まっています。
白猪屯倉推定地(しらいのみやけすいていち)
世界大百科事典内の白猪屯倉推定地の言及
・・・【美作国】より
古代の寺院址はほぼ国の中央部を東西に貫通する出雲道に沿って設置され,東から江見廃寺,大海廃寺,楢原廃寺,久米廃寺,大庭廃寺などの遺構が確認されている。久米廃寺は久米郡衙に隣接して構築され,大庭廃寺は《日本書紀》の欽明16年7月条にある蘇我稲目らによって設置された白猪屯倉(しらいのみやけ)推定地(現,真庭郡久世町五反)にあり,高句麗系様式の瓦を出土する。古代の特産物として鉄,銅があり,728年(神亀5)大庭・真島2郡の庸米を鉄に換えて貢輸し,877年(元慶1)2郡から銅が貢進されている。…
・・・以上 蘇我氏が 美作に設置した 屯倉(みやけ)
555年は継体天皇から30年ほど 後の時代か
安閑2年 535年 穂波(ほなみ)屯倉 (筑紫の国)
安閑2年 535年 鎌(かま)屯倉 (筑紫の国)
安閑2年 535年 湊碕(みさき)屯倉 (豊の国)
安閑2年 535年 桑原(くわばら)屯倉 (豊の国)
安閑2年 535年 肝等(かと)屯倉 (豊の国)
安閑2年 535年 大抜(おおぬき)屯倉 (豊の国)
安閑2年 535年 我鹿(あか)屯倉 (豊の国)
安閑2年 535年 春日部(かすがべ)屯倉 (火の国)
安閑天皇二年九月三日条には、桜井田部連・県犬養連・難波吉士に「屯倉の税を主掌らし」める詔の記事が記載されています。おそらくは、こうして設置していった全国各地の屯倉に向けて、徴税を行うべく記載の人物を大和政権内部から派遣したものと思われます。
神魂命の後裔と称する神別氏族で、姓は連であったが、672年(白鳳元年)の壬申の乱に一族の大半が大海人皇子の舎人として功を立てため、684年(白鳳13年)「八色の姓」の制定にともなって宿禰姓を改賜された。
一族の三千代は天武、持統、文武、元明、元正の五朝に出仕し、元明天皇から橘氏を賜った。彼女は夫である藤原不比等を助けるかたわら同族の繁栄をはかり、県犬養広刀自を聖武天皇の夫人とした。その子橘諸兄の時代には石次がこの氏ではただひとりの参議に就任したが、諸兄が権力を失うと県犬養氏もやがて衰退していった。
橘氏発生の原点である「県犬養三千代」の出身母体である「県犬養氏」。「県犬養氏」は、古い「神別氏族」である。しかし、豪族というには一寸気が引けるマイナーな古族である。しかし奈良時代後期には女性がらみで政治史に関与したのである。それ以後は歴史上全く登場しなくなるのである。一方県犬養三千代は、夫が太宰府に転勤している間に藤原不比等の後室に入り後の45聖武天皇后となる安宿媛(光明子)を産むのである。これが葛城王即ち「橘諸兄」の政治的立場に密接に関係してくるのである。「光明子」とは同腹義兄妹である。
①父;30敏達天皇 母;老女子夫人(春日仲君女)
②子供;栗隈王、石川王、大宅王など
③蘇我ー物部守屋戦争(587年)で泊瀬部皇子(32崇峻天皇)竹田皇子、厩戸皇子(聖徳太子)蘇我馬子、紀男麻呂、巨勢比良夫、膳賀施夫、葛城烏那羅らと共に蘇我方として、参軍した。
・栗隈王(?-677)
①父;難波皇子 母;不明
②子供;美努王、武家王
③壬申の乱時筑紫率(太宰帥)、兵政長官、従二位。
2-1)美努王(?-708)
①父;栗隈王 母;不明 父を大俣王とする異説あり。
②妻;県犬養三千代(県犬養氏人物列伝参照)子供;葛城王(橘諸兄)佐為王、牟漏女王
③672年「壬申の乱」の際、父栗隈王、兄武家王と共に大宰府にいた。近江朝廷の使者 は、軍兵を徴発するため大宰府に至るが、栗隈王は、これを拒絶。
④681年川島皇子らと共に「帝記及び上古の諸事」の記録、校定に従う。
685年京畿内の兵器校閲使者。
⑤694年大宰帥に任じられ筑紫に下向。妻三千代は、同行しなかった。この間に三千代 を不比等に奪われる。
⑥701年造大弊司長官 正五位下、翌年左京大夫
⑦705年摂津大夫、従四位下。
⑧708年治部卿となり死去。贈正二位。
大阪平野は、大和王権の直接の支配がおよぶ地域でしたから、比較的多くの屯倉が分布していました。『紀』によると、仁徳のころに茨田(まつた)屯倉(寝屋川市付近)や依網(よさみ)屯倉(松原市北部から大阪市住吉区)が見られます。また、6世紀前半の安閑(あんかん)大王の時代には摂津三嶋の竹村(たかふ)屯倉(茨木市)・河内桜井の桜井屯倉(東大阪市か富田林市)・難波(なにわ)屯倉(大阪市)・和泉の芽渟山(ちぬやま)屯倉(和泉市付近)が記されています。
このうち、依網屯倉は地名から見て、河内国丹比郡依羅郷であった天美地区の城連寺・池内・油上(ゆかみ)・芝・我堂・堀や、同郡三宅郷の松原市北部に置かれていました。さらに、摂津国住吉郡大羅郷に含まれる大阪市住吉区我孫子(あびこ)・山之内・杉本・浅香・苅田・庭井町にも広がっていたと思われます。庭井には大依羅神社があります。
いまも、松原に三宅の地名が残っているのは、そこに屯倉を管理する役所や収穫物を納める倉庫が建てられていたからでしょう。同地に屯倉神社が鎮座しています。同社は平安時代の天慶5年(942)に、土師氏の祖である天穂日命や菅原道真を祭神として創建されました。社名の由来は、この地が屯倉管理の中心地でしたから、その址地にちなんで屯倉神社としたと考えられます。
『紀』の仁徳43年条に「依網屯倉の阿弭古(あびこ)が異しき鳥を捕って大王の仁徳に献上した」話を載せています。
日向国造の始祖、豊国別王
三宅神社
三宅神社は、旧称を覆野(オオノウ)大神宮、福(覆)野八幡宮、覆神社と称し、建久8年(1197)の「建久図田帳」には「福野宮神田二五町」と記され、それ以前平安時代後半でも末期にかけての創建とみられる古社と考えられます。
古くから三宅神社のことを上宮(ウエノミヤ)と呼称してきたのに対し、式内社である都萬(ツマ)神社(祭神木花開那姫命)は下宮と称されていたとのことであり、この両神社の大祭には、相互の御幸が執り行われるならわしであったと伝えられています。
古来より三宅郷並びに、右松村の産土神で三宅・清水・黒生野・現王・岡富・右松・調殿・童子丸・南方・穂北の宋廟でした。
歴代領主の崇敬を受け、土持・伊東両氏より55町8反の社領を寄進され、弘治年間(1555~58)には神田18町3反余、畑6反、神戸18、神苑106ヶ所を付近一帯に有していました。
天正年間兵火にあいましたが、島津義久が再興し、その後文化7年(1810)12月16日火災にあい、旧記・宝物等殆ど焼失してしまいました。 又、社職も大宮司、権大宮司、主税儀大宮司、器大宮司などがあったといわれ、年間の祭典も97回に及びました。 応永元年(1394)から行われている天孫降臨祭(6月夏至)・国家安穏祭(8月5日)・山陵祭(10月1日と11月初卯の日)の当社三大祭りは、京都賀茂の祭式にも比すべき荘厳なものであったと言われており古社の趣が偲ばれます。
江戸時代後期には西都農神社と改称し、明治4年三宅の地名をとり現社名に改められました。
御祭神
天津彦火々瓊々杵尊(アマツヒコホホニニギノミコト)
木花開那姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)
天児屋根命(アメノコヤネノミコト)
天太玉命(アメノフトダマノミコト)
神日本磐余彦命(カムヤマトイワレヒコノミコト)
誉田別命(ホンダワケノミコト)
玉屋之命(タマヤノミコト)
大物主命(オオモノヌシノミコト)
石凝姥命(イシコリドメノミコト)
天細女命(アメノウズメノミコト)
御祭神について「宮崎県史蹟調査報告書」によると、瓊瓊杵命を正殿中央に、天児屋根命・天太玉命を左右に配祀し、相殿には大物主命、石凝姥命、木花開耶姫命、神日本磐余彦命を祀り、更に降臨に供奉した64神をこれに配した。 摂社には大山祇命、事勝国勝長狭神、火闌降命等の七神、末社には倉稲魂命、合社には保食神、門社には豊磐間戸命、櫛磐間戸命を祀る。 合計すると84神になります。 更に明治五年、三宅村字山路の川上神社、五穀社、天満社、字上ノ宮の五穀社、霧島社、字酒元の筑波山篠貫社、字石貫の今宮社、字山王の山野社等の39神を合祀したと記されています。
江戸時代の郷土の国学者児玉實満が文政8年(1825年)に著した『笠狭大略記』によると日向の高千穂の峯に降臨した天孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)一行がその本拠とすべき土地をもとめて、吾田(アタ)の長屋の笠狭碕(カササノミサキ)にたどり着き、「此処(ココ)ぞ甚(イト)吉(ヨ)き地(トコロ)」としてとどまった伝承地域として西都原古墳群台地の南東部、三宅神社付近を中心とした一帯を想定しています
夏四月一日、内膳卿膳臣大麻呂(かしわでのつかさのきみかしわでのおみおおまろ)が勅命をうけて使を遣わし、真珠を上総の夷隅(いすみ)にもとめさせた。夷隅の国造らは、京に出てくることが遅く、長らくたてまつることがなかった。膳臣大麻呂は大変怒って、国造らを捕え縛ってそのわけを質した。国造稚子直(わくごのあたい)らは恐れかしこまって、後宮の寝殿に逃げかくれた。春日皇后は、知らない者にだしぬけにはいって来られて驚き、息をはずませて倒れてしまわれた。そしてひどく恥ずかしく思われた。稚子直らはみだりに宮中にまぎれ入った罪で、罪科は重大であった。恐れつつしんで、もっぱら皇后のために、夷隅の屯倉(みやけ)を献上し、乱入の罪を償いたいとお願いした。それによって夷隅の屯倉が設けられた。いま、これを分けて郡とし、上総国に属している。
当時の夷隅国造―伊甚國造―の名が「稚子直」なる人物であったこと、真珠が夷隅の献上品であったこと、27代安閑天皇の御世に屯倉が設置されたこと、言い換えればこの時期に事実上ヤマトの直轄地になったことがわかります。
アメノホヒノ命の子のタケヒラトリノ命、―これは出雲国造・武蔵国造・上菟上(かみつうながみ)国造・下菟上(しもつうながみ)国造・伊自牟(いじむ)国造・対馬県直(つしまあがたのあたい)・遠江(とおつうみ)国造らの祖神である。~以下省略~
「伊甚國造」は、『先代旧事本紀』―以下:旧事紀―において「安房―阿波―國造」と同祖系譜とされておりました。その旧事紀において阿波國造は「天穂日命」系譜であります。
初代国造の大瀧が名乗っていたのは大伴氏(姓は直)である。この氏は出雲国造などと同系で、天皇の食膳調達(特にアワビの貢納)にあたる部民氏族の膳大伴部(かしわでのおおともべ、大伴部)を在地で統率する氏族であり、膳大伴氏(姓は直)ともいう。弘仁14年(823年)に大伴氏は伴氏(姓は直)と改めた。
『日本文徳天皇実録』の嘉祥3年(850年)6月己酉(3日)条(神道・神社史料集成参照)によれば伴直千福麻呂という人物が「安房国々造」であったという。また『先代旧事本紀』の「国造本紀」の伊甚国造条によれば、伊許保止命という人物が「安房国造」の祖であるという。ただしこの伊甚国造条の「安房国造」は前田侯爵家(前田氏加賀前田家の加賀藩本家は明治維新後侯爵となっている)所蔵安貞年間古写本などにおける表記であり、神宮文庫本では「安度国造」と表記されている