長髄彦

April 2016 編集されました カテゴリ: 一般/歴史書

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長髄彦とは、

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  • Wikipediaには

    『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。安日彦(あびひこ)という兄弟がいるとされる。

    饒速日命の手によって殺された、或いは失脚後に故地に留まり死去したともされているが、東征前に政情不安から太陽に対して弓を引く神事を行ったという東征にも関与していた可能性をも匂わせる故地の候補地の伝承、自らを後裔と主張する矢追氏による自死したという説もある。

    旧添下郡鳥見郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近、あるいは桜井市付近に勢力を持った豪族という説もある。なお、長髄とは記紀では邑の名であるとされている。
  • Wikipediaに

    登美夜毘売(トミヤヒメ)、あるいは三炊屋媛(ミカシキヤヒメ)ともいう自らの妹を、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨した饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の妻とし、仕えるようになる。 中世の武将の伊達家が長髄彦の子孫であると言われている。 神武天皇が浪速国青雲の白肩津に到着したのち、孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち、このときの戦いで天皇の兄の五瀬命は矢に当たって負傷し、後に死亡している。

    その後、八十梟帥や兄磯城を討った皇軍と再び戦うことになる。このとき、金色の鳶が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼が眩み、戦うことができなくなった。


    日本書紀・神武紀には、

    長髄の名前が地名に由来すると記されているが、その一方で鳥見という地名が神武天皇の鳶に由来すると記されている。さてその後、長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命という。私の妹の三炊屋媛を娶わせて、可美真手という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べた。天皇は天つ神の子である証拠として、天の羽羽矢と歩靱を見せ、長髄彦は恐れ畏まったが、改心することはなかった。そのため、間を取り持つことが無理だと知った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)に殺された。  
  • 神武天皇と戦う

    古事記の記述によれば、神武天皇の系譜は、天孫系であり

    天照の直系の後継ぎは「正勝吾勝勝速日天の忍穂耳の命(まさかあかつかちはやびあめのおしほみみのみこと)である。古事記には「太子(ひつぎのみこ)」と書かれている。この忍穂耳の命の子は二人おり、「天の火明の命(あめのほあかりのみこと)」と「天つ日高日子番の邇邇芸命(あまつひだかひこおのににぎのみこと)」である。この邇邇芸命が大軍を率いて「筑紫の日向(ひむか)の高千穂のくじふるだけ」に宮を築き、筑紫の支配を始めたのである。
    邇邇芸命の名前は「天津比田勝彦」

    邇邇芸命には二人の子があった。一人は「火照りの命(ほでりのみこと)」。もう一人は「火須勢理の命(ほすせりのみこと)」。
    3番目が「火遠理の命(ほおりのみこと)」である。この3番目の子が神武の祖の「天つ日高日子穂穂出見の命(あまつひだかひこほほでみのみこと)」

    神武の父は、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒダカウガヤフキアエズノミコト)

    神武は、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒダカウガヤフキアエズノミコト)の4男。そもそもの名前は若御毛沼の命(わかみけぬのみこと)。
  • April 2016 編集されました
    古事記に

    1.神武兄弟の軍は、河内の日下で登美の長髄彦の抵抗にあう。
    2.この戦いで、兄の五瀬命が負傷し、紀国の男之水門で死ぬ。

     古事記では、高千穂の宮にて「東に行く」ことをを兄の五瀬命(イツセノミコト)と弟の神武の2人で決める。軍を率いているのは五瀬命。

    河内の日下で登美のナガスネ彦の軍に行く手を阻まれ、東に向かうことを諦め南に軍をうつすことに五瀬命が決める。

    そしてこの時の戦で傷を負った五瀬命が、紀国の男之水門で死んだので、ここで全軍の指揮が神武の手に移ったのである。
  • 古事記に
    豊国(大分県)の宇佐に立ち寄った後、
    筑紫(福岡県)の岡田の宮・・・・・・・・・・・・・・1年
    安芸の国(広島県)のタケリの宮・・・・・・・・・ 7年
    吉備(岡山県)の高島の宮・・・・・・・・・・・・・・8年
    いた。
    日本書紀には、半分以下で行ったとこになっている。

    瀬戸内の北岸を東に行った。北岸には、素戔嗚や大国主の氏族がいたはずであり、この支援を受けたはずである。地縁、血縁があったはずである。

    なぜこんなにも年月がかかり、また、南岸でなかったか。
  • 神武天皇巡幸地は遠賀川流域から博多周辺の狭い流域に限られており、糸島地方、筑後川流域、佐賀、長崎、壱岐、対馬、伽耶(朝鮮半島)なども重要地のはずであるが、神武天皇巡回伝承がない。

    「新撰姓氏録』が新羅の祖は稲飯命(神武天皇の兄)だとしているが、稲飯命は、『古事記』においては母の国の海原へ行ったとされ、また『日本書紀』においては神武東征の際に嵐を鎮めるため海に入水したとされる。
    高千穂に御毛沼命の伝承が見られること、高千穂を流れる川が五ヶ瀬川である。巡行地か

  • 英彦山
     この山は天忍穂耳命が降臨された霊山で北九州地方全域を一望することができる。神武天皇が日向に都している頃、天村雲命に勅してこの山に遣わされ天忍穂耳命を祭らせ給ふ。

     天皇は山頂で筑紫の地勢をみそなはし、それから川に沿ふて田川郡に下られた。

     昔、大国主命が、宗像三神をつれて出雲の国から英彦山北岳にやって来た。頂上から四方を見渡すと、土地は大変こえて農業をするのに適している。 早速、作業にかかり馬把を作って原野をひらき田畑にし、山の南から流れ出る水が落ち合っている所の水を引いて田にそそいだ。二つの川が合流する所を二又といい、 その周辺を落合といった。大国主命は更に田を広げたので、その下流を増田(桝田)といい、更に下流を副田(添田)といい、この川の流域は更に開けていき、 田川と呼ぶようになったという。
     ところがその後、天忍骨尊(吾勝命)が英彦山に天降って来たので、大国主命は北岳を天忍骨尊に譲った。天忍骨尊は、 八角の三尺六寸の水晶石の上に天降って鎮座し、尊が天照大神の御子であるので、この山を「日子の山」から後に、「彦山」と呼ぶようになった。
  • 田川が拠点

    神日本磐余彦命(神武天皇)が日本巡狩の時、此川(川崎の地)に住まい、猪を狩猟した。これにちなんで猪膝、猪尻(井尻)、猪鼻などの地名になった。神日本磐余彦命は父母や祖父母神兄弟神を迎えて川崎に居を営み、この川を「高日﨑早日川」といい、後世の川崎の地名になった。 

    田川郡に入り、田川の地をしろし召した天皇は、駒主命を道案内として、帝王越を経て嘉穂郡の地に入らせられ、夢に手力雄命の神霊を受け給ひ、猪位金村の一端、兄弟山に登って天祖の御霊を祭られたが、その神跡を帝王山といひ伝へている。天皇はここで、嘉麻(鎌)の天地をみそなはし、進んで小野谷の里(宮野村)に成らせられ、ここの岩山に高木の神を祭られた。

     赤村は吾勝野とも呼ばれその昔、天忍穂耳命がタカミムスビの娘と結婚し、この地で、田川郡一帯を統治していた。その跡地を狭野命は訪問しているのである。比較的簡単に豪族たちの協力が得られたものと判断する
  • 撃皷神社
    祭神 天太玉尊、天児屋根命、細女命(うずめのみこと) 
    三柱の祭神は天の岩戸の前で占ったり、祝詞をあげたり、踊ったりした神々です
    そのお蔭で天照大御神が再び岩戸から現れました。
    その後、この三柱はニニギノ命の降臨に随伴しています。


    創立年代は太古で分からない。
    神武天皇が東征する時、また神功皇后が三韓征討に行く時、祈願した事が旧記に載っている。
    王谷郷(幸袋町の旧名)の産土神である。

    「天皇、中州に遷らんと欲し日向より発向し給ふ。(中略)陸路将に筑紫に赴がんとし玉ふ時、馬見物部の裔駒主命眷族を率ゐ、田川吾勝野に向へて足白の駿馬を献じ、奏して曰く、是より西の国応じ導き奉るべし、宜しく先ず着向すべし」
  • 古い伝えによると、上宮は白旗山中腹にあり下宮が山裾にあって、古くは上宮を鼓打権現、下宮を笛吹権現とよんでいた。この両権現は神功皇后が三韓出兵の際の神楽奉納で、囃子の太鼓、笛を指導した神だといわれている。撃鼓神社の佐伯家文書には、「神楽」という文字が見られる。
    ここを「王谷郷」というのだから、王国があった。

    ここに伝わる神武天皇の伝承

    「天皇、中州に遷らんと欲し日向より発向し給ふ。(中略)陸路将に筑紫に赴がんとし玉ふ時、馬見物部の裔駒主命眷族を率ゐ、田川吾勝野に向へて足白の駿馬を献じ、奏して曰く、是より西の国応じ導き奉るべし、宜しく先ず着向すべし」

    「皇軍玆に至る時突如として馬進まず、天皇八田彦に異心あるに非ずやと詰問し彼の奏言により、当(白旗山)山頂の天照大神を祀る、大神託宣して曰く、筑紫国を綏撫静謐せしめて然る後発途せよ然らずんば後に内訌の虞あらんと教へらる」
  • 天降八所神社
    飯塚市庄内元吉の天降神社から西南西に約800mの所に鎮座

    御祭神
     ・宇比地邇神(うひぢにのかみ) [神世七代の第3代の男神]
     ・須比智邇神(すひちにのかみ) [神世七代の第3代の女神]
     ・意富斗能地神(おほとのぢのかみ) [神世七代の第5代の男神]
     ・大斗能辨神(おほとのべのかみ) [神世七代の第5代の女神]
     ・於母陀流神(おもだるのかみ) [神世七代の第6代の男神]
     ・阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ) [神世七代の第6代の女神]
     ・伊耶那岐神(いざなぎのかみ) [神世七代の第7代の男神]
     ・伊耶那美神(いざなみのかみ) [神世七代の第7代の女神]
     ・神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと) 【神武天皇】
     ・天種子命(あめのたねこのみこと)
     ・椎根津彦命(しひねつひこのみこと)



     「馬見山の北麓、山澤四周して未だ開けず、道路泥濘にして歩行困難、人馬漸く疲れて進むこと能わず、天皇之を憂ひ給、教導駒主命に勅して曰く、前途悠遠、然るに人馬卒の疲労今既に此の如く甚だし、今転ずる道ある可きや
     駒主命は道を変へ、宗像三女神の霊蹟を目指し、目尾峠へと迂回して、目尾の神峰にある強石明神を祭らせられた。此の時、駒主命が、一頭の駿馬を献じようとし、牧司に命じて之を御前に捧げやうとした際、馬は驚いて高く嘶き、一散にして駆け出して深山に飛び込んだので、牧司は後を追ふて曳き帰ったといふが、その駆け出したところを駆の馬といひ、馬の駆け込んだ山を馬見山といひ、献上した駿馬が鹿毛であったところからこの駈の馬は鹿毛馬ともいひ伝えて居ります。此の付近一帯は宗像三女神の霊蹟である。
     天皇が目尾山にまします時、雲の間から一羽の霊鳥が飛んできて大きい松の梢にとまり、伊邪佐々々と三声啼き、静々と西南に飛び去らうとしたので、天皇が仰せられるにはこれは神の使いだ、よろしく尾行すべしと命ぜられたので、皇軍は活気付いて進行しましたが、その霊鳥のとどまったところを、後に鳥居又は鳥尾といひ、その霊鳥を祀って鳥尾大明神と崇め祀り、之を鳥野神と申し上げる。」

    「天皇がここから西南に進まれるうち、俄かに御気分がお悪くなられたので、侍臣の種子命は、丘の上の杉の古木の下に天皇を休み奉り、椎根津彦と共に、杉の神木に天祖の御神霊を請ひ、熱心にお祈り奉ったところ、直ちに御気分が健やかに爽やかにならせられたので、その杉を魂杉といひ、ここに、天皇と二人の侍臣とを併せ祀って魂杉大明神と申し上げたといふことです。この御休養、御祈願の丘が天降八所神社の神地で、今の佐与という神社の所在地名は、天皇が、御会話中に「左様か・・・」と仰せられたことに起因するといひ伝えてゐます。」 
  • 熊野神社
    福岡県飯塚市立岩1380
    祭神、伊弉諾神 伊弉册神
     「立岩の前面を眺めしに、土地淤泥にして、而も大河横に流れ、舟なくしては容易に渡るを得ず、唯呆然として猶豫す。折柄八田彦と称する一魁首、衆卒を率ゐて車駕を迎へ、自ら進みて河の瀬踏みを為し、且つ、携へたる鉾を河中に突立て浅瀬の標とし、以て皇車の渡るを促す、?に於て一同始めて感喜安堵の念を為し、徐ろに其の河を渡り、上下恙なく彼岸に著することを得たり」 
    天皇は八田彦の案内で遠賀川を渡り、片島の里に上陸した。この付近に王渡、徒歩渡、鉾の本、勝負坂等の地名が残されている。
  • April 2016 編集されました
    佐野命が率いた物部氏 饒速日命の仲間


     白旗山、笠木山山麓は饒速日尊がマレビトとして大和に率いた人々の旧跡地であり、大歳命に対する信仰の篤い地域である。磯光、剣、王 子、熱田、初子、太祖、羽高の地は、天神本紀にみえる二田、十市、弦田、贄田の物部の出身地である。佐野命は目尾を拠点としてこれらの地を回り、神武天皇 は天祖を祭った。これによりこの周辺の人々の協力を得ることができたのであろう。また、笠木山は瓊瓊杵尊の滞在伝承のあるところで、ここにも 立ち寄って饒速日尊を祀っている。佐野命は八田彦の案内で伊岐須、潤野、高田と進み各地で天祖を祀っている。

     伊岐須近辺が落ち着いたので、八田彦の案内により、潤野の地に進み、ここでも天祖の御霊を祭った。その霊跡には現在宝満神社があり、周辺を姿見或 いは日の原ともいう。この周辺も安定化できたので、佐野命は高田に進んだ。ここで、八田彦の伴った田中熊別に迎えられた。この周辺で祭祀をしていた時、反 対の意思をあくまで貫く一団があった。根智山に本拠を置く打猿一族であった。話し合いも限界に達し、打猿を誅することになった。高田の丘で熊別と椎根津彦 に討伐の命令を下した。この霊跡に神武天皇と玉依姫を併せ祀ったのが高祖神社である。

    椎根津彦が総大将となり、内野の川上で賊軍を打ち破り、皇軍は是を追撃した。その勝報が高田丘に伝わったので、佐野命は大分八幡宮に進み、そこに 滞在中打猿は、米の山まで退却したので佐野命は山口に移った。打猿は米の山も打ち破られ大宰府まで退却し、さらに退却し捕らえられて遂に斬首された。この 誅戮の地を打首といい、今訛って牛頸という、と伝えられている。
  • 岡田宮(おかだぐう)は福岡県北九州市八幡西区黒崎地区にある神社で、正式には岡田神社。 古事記に神武天皇が東征の折に逗留したと記載されている古社

    岡田宮:神日本磐余彦命(神武天皇)
    熊手宮:大国主命、少名彦神、県主熊鰐命
    八所宮:高皇産霊神、神皇産霊神、玉留産霊神、生産霊神、足産霊神、大宮売神、事代主神、御膳神
  • 岡田宮
    かつて崗地方(旧遠賀郡)を治めた熊族が洞海菊竹ノ浜(貞元)に祖先神を祀ったのが始まりとされ、そのためにこの地域一帯を『熊手』と号したといわれる。

    後、神武天皇が東征(神武東征)の途上に、この地に1年間逗留し八所神を祀ったとされ、神武東征にある岡田宮の候補地の一つである。

    仲哀天皇の時代には恭順した崗県主熊鰐の案内によって、神功皇后が岡田宮の八所神を奉祭したとの記事が日本書紀に載る。
  • 仲哀天皇と神功皇后の宮は「豊浦宮」であり、それは穴門にあった。

    穴門とは、関門海峡から洞海湾にかけての、狭い航路のことであり、本居宣長「古事記伝」には、「上代には此処長門と豊前とつづきたる山にて、その下に洞ありて、東西通り潮の通う道ありて、船も往来しらむ故、穴戸とは云うなるべし」と書かれている。

    古事記に「タラシナカツヒコ天皇(仲哀天皇)は、穴門の豊浦宮、また筑紫の訶志比宮において天下を治めた。」とあり、他の宮の記述はされていない。

    日本書紀
    仲哀天皇が神功皇后と一緒に、岡田宮から香椎宮へ向かう途中で、五十迹手に会ったときに、次のように言った。治世八年1月、天皇は筑紫に行き
    「よくぞ申した。そちは伊蘇志じゃ。時の人は五十迹手の本国を名付けて伊蘇国といった。いま伊都というのはなまったからである。」
  • 熊鰐の子孫は、豊山八幡神社(北九州市八幡東区春の町)と春日神社(北九州市八幡西区藤田)の宮司にもなっておられる。現在は「波多野」姓になっているが、両家に中世から伝わる古文書10通は波多野文書として市指定有形文化財になっている。

    安曇と熊鰐の先祖は綿津見豊玉彦で海神だった。

     熊鰐の勢力地である遠賀川の上流には、鮭神社が鎮座。鎮座地は福岡県嘉穂郡嘉穂町大隈(おおくま)で、祭神は豊玉毘売命である。豊玉姫は綿津見豊玉彦の娘で出産の時に八尋熊鰐になっている。豊玉姫の孫が神武天皇となる
  • 稲葉の素ウサギの話

    これも宗像の熊鰐族の話であろうか
  • 古田武彦氏によると
    「熊鰐」とはなにかを調べた結果、事代主であることが解った。事代主とは宗像の地の神(地主)であり、蘇我氏の祖であり、宗我氏、宗像氏であり、天孫・ニニギ尊(五十猛)を受け入れた氏族である。
    本当でしょうか?
  • 豊前山門の大己貴神社

    筑前国続風土記に依れば、大神大明神は弥永村にあり、<延喜式神名帳>に「夜須郡於保奈牟智神社小一座とあるはこれなり。祭るところの神は大己貴命なり。今は大神大明神と称す。御社は南に向かえり。東の間に天照大神、西の間に春日大明神を合わせて祭る。宮所神さびて境地ことに勝れたり」<日本書紀>に「仲哀天皇9年庚午己卯、神功皇后諸国に令して船舶を集めて、兵甲を練らんとせし時、軍卒集い難し。皇后曰く必ず神の心ならんとて、大三輪社を立て、刀矛を奉りたまいしかば、軍衆自ら聚る」とあり、9月23日(旧暦ゆえ現在の10月)祭礼ありてこの日神輿御幸あり。御旅所は村の西10町ばかりの処にさやのもとというところあり、これなり。その他、年中の祭礼たびたび有りしとか。いまはかかる儀式も絶えはてぬ。然れども夜須郡の惣社なれば、その敷地広く、産子(氏子のこと)殊に多くして、人の尊敬浅からず」との記す
  • 大己貴神社
    朝倉郡筑前町(旧三輪町)にあり大神神宮とも云われる。 鳥居の扁額には「大神大明神」とあり、「三輪大明神」とも呼ばれる。

    ここで言う大己貴とは 出雲の大国主や丹波の大穴牟遅とは別人の宗像三女神の湍津姫神の夫であり事代主(恵比須 ウガヤアエズ 住吉大神 伊弉諾)の父と伝承のある大己貴のことを言っています。この湍津姫神の正体は いままで調べた限りでは山幸に嫁いだ豊玉姫と同一人物と思われ 結果この大己貴は熊鰐であるとともに山幸と同族もしくは同一神ということになるのかもしれません。
    また大己貴の息子八重事代主とは 恵比須と同体と思われ 山幸の息子ウガヤフキアエズが田川の香春神社の伝承にあるように住吉大神のことを言っているのであれば 事代主と住吉大神は姿(烏帽子 釣竿 髭)や属性(海の神)が同じであることから同族もしくは同体ということになります。
  • 大神大明神(弥永村にあり)
    延喜式神名帳に、夜須郡於保奈牟智神社が一座あるというのはここの事です。祭る神は大己貴命です。今は大神(おおが)大明神と言います。社は南向きです。東の間に天照大神、西の間に春日大明神を合祀しています。宮どころは神さびて境地は特に勝れています。

    日本書紀に、仲哀天皇9年秋9月に神功皇后が諸国に命令して船舶を集め、兵卒たちを訓練しようとした時、軍卒が集まりませんでした。皇后は「きっと神の御心なのだろう。」と言って、大三輪社を建て、刀矛を奉納すると軍衆が自然と集まったと書いてあります。

    9月23日は旧暦のため、現在の(  )に祭礼があります。この日、神輿の御幸があります。御旅所は村の西十町ばかりの所にさやのもとという所です。その他、年中の祭礼がたびたびあったと言いますが、今はそんな儀式も絶え果てました。しかし夜須郡の惣社なので、その敷地は広く氏子も特に多いです。人々は大変崇敬していると書いてあります。     略    三輪町教育委員会

    『釋日本紀』に「筑前国風土記」からの引用文があって、
    神功皇后が新羅を討とうとして軍士を整理し、発行した時、道中、軍士共が逃げ出しました。その理由を占った時、祟る神がいるのが分かりました。名を大三輪の神と言いました。そこでこの神社を建てて、ついに新羅を平定しました。その神社がこれです。
  • 賜った特別な御名を「椎根津彦」(しひねつひこ)といい、海路を案内する神として仕え、しばしば勲功をたてたといいます。

    紀元前660年正月、神倭伊波禮毘古命は、大和國橿原宮に於いて、第一代天皇として即位され、皇紀元年となり、翌年の神倭伊波禮毘古命【神武天皇】2年(紀元前659年)春2月、天皇は論功行賞を行い、椎根津彦命は倭国造に任命されました。 これを伝え聞いた里人らがその後、小祠を建ててお祀りしたのが「椎根津彦神社」の創祀と伝えられています。

     また、明治時代までは珍彦命という椎根津彦命の本名に由来して「珍宮」と称されていたそうです。

    椎根津彦神社(大分県大分市)
    大分県大分市佐賀関に鎮座する田川

    ≪御祭神≫
     ・椎根津彦命(しひねつひこのみこと) 【槁根津日子命(さをねつひこのみこと)/珍彦命(うづひこのみこと)】
    ≪合祀≫
     ・武位起命(たけいこのみこと) [椎根津彦命の御父]
     ・稻飯命(いなひのみこと) [神倭伊波禮毘古命(神武天皇)の御兄]
     ・祥持姫命(さかもつひめのみこと) [椎根津彦命の御姉、稻飯命の御妃]
     ・稚草根命(わかくさねのみこと) [祥持姫命の御子]
  • 多紀理媛は、生存時には「タケリ」と呼ばれていた形跡がある。それが、神武記に載る多祁理宮との記載であろうか。
    神武が東征の折、“亦從其國上幸而、於阿岐國之多祁理宮七年坐。”と書く。その地を、紀は“至安藝國、居于埃宮”と書いている。
  • 多紀理媛
    名は古事記にのみ出現し、ウケヒの場面と先述の大国主系譜に載る。ウケヒの場面では、天照大神が建速須佐之男の剣を噛み砕き、“於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、多紀理毘賣命。亦御名謂奥津嶋比賣命。次市寸嶋比賣命。亦御名狹依毘賣。次多岐都比賣命”と書く。多紀理媛を天照大神が生んだように描いている。

    続けて須佐之男が五男神を吹き出した後、これら三女神について“多紀理毘賣命者、坐胸形之奥津宮。次市寸嶋比賣命者、坐胸形之中津宮。次田寸津比賣命者、坐胸形之邊津宮。此三柱神者、胸形君等之以伊都久三前大神者也。”と付記する。

    『古事記』の大国主命の系譜では、大国主命との間に阿遅鉏高日子根神(あぢすきたかひこね・味耜高彦根神)と下照姫(したてるひめ)を生んだと記されている。

    大国主と多紀理姫ー味耜高彦根(妻、下照姫)ー


    大国主と多紀理姫ー下照姫

    アヂスキタカヒコネ(アヂシキタカヒコネとも)
    『古事記』では阿遅鉏高日子根神、阿遅志貴高日子根神、阿治志貴高日子根神、『出雲国風土記』では阿遅須枳高日子と表記する。また、阿遅鋤高日子根神、味耜高彦根命とも表記される。別名 迦毛大御神。

    出雲大社の東4~5キロの阿式谷というところに、『阿須伎神社』という格式の高い神社があります。『出雲国風土記』に「阿受伎社」とある神社です。不思議なことに、この神社は主祭神を「アジスキタカヒコネ」としていますが、その他に、数多くの式内社があるのです。一説には、近在の同系神社をまとめたのではないかとの考えもあります。この神社は『国引き神話』では、「新羅の国の余り」を引いてきた山塊。

    大国主の子であるが国譲りの時に、一切彼が引き合いに 出ないのは不思議です。それは一体何故なのか、そして、出雲族でありながら、天孫 族の中でも、特に優秀だと折り紙を付けられた「天若日子」に、うり二つという。
    末子相続により、国譲りの折り、「事代主」が末子であった故に「大国主」は事代主 に全てを一任している、と語ったのでしょう。

    「仁多郡、三津郷 郡家の西南二十五里。大神大穴持命の御子、阿遅須岐高日子命、
    御須髪(みひげ)八握に生ふるまで、昼夜哭き坐して、辞通はざりき。」

    また、出雲の「大国主」の子孫である「味耜高日子根神」が何故、大和の本拠地で
    ある葛城の鴨(賀茂)の神奈備で祭られる様になったのでしょうか。

    山城国風土記逸文・賀茂社条に
    日向の高千穂に天降った神・賀茂建角身命(カモタケツヌミ、=武津之身命)は、神武天皇を先導して大和に入り、葛城山の峰に宿っていたが、そこから山城国の岡田の賀茂に移り、また山代川を下って葛野(クズノ)の地に移った」(大意)

    摂津(東生郡)の式内社/阿遅速雄神社
    大阪市鶴見区放出3丁目
    祭神--阿遅鉏高日子根神(迦毛大神)・草薙御剣御神霊(八剣大神)
    延喜式神名帳・摂津国東生郡四座のうち『阿遅速雄神社』(アヂハヤオ・在放出村水剱)とある式内社。

    アジスキタカヒコネは賀茂建角身命と同じとも言われるが、、、


    神別の賀茂氏ですよ
    『新撰姓氏録』によれば、賀茂建角身命は神魂命(かみむすびのみこと)の孫である。
    神武東征の際、高木神・天照大神の命を受けて日向の曾の峰に天降り、大和の葛木山に至り、八咫烏に化身して神武天皇を先導した。 『山城国風土記』(逸文)によれば、大和の葛木山から山代の岡田の賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、葛野河(高野川)と賀茂河(鴨川)が合流する地点(下鴨神社がある)に鎮まった。

    賀茂建角身命には建玉依比古命(たけたまよりひこのみこと)と建玉依比売命(建玉依姫命、たけたまよりひめのみこと)の2柱の御子神がいる。建玉依比古命は後に賀茂県主となる。建玉依比売命は、丹塗矢に化身した火雷神(ほのいかづちのかみ)を床の近くに置いていたところ、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと、上賀茂神社の祭神)を懐妊し出産した。
  • April 2016 編集されました
    大和国には鳥見(登美)という地が二か所、城上郡(現桜井市)と添下郡(現奈良市)にある。長髄彦の本拠は城上郡のほうであった。この二つの鳥見にはそれぞれ式内社があり、城上郡の等弥神社、添下郡の登弥神社があげられる。

    式内社 大和國添下郡 登彌神社
    御祭神
    東本殿 高皇産霊神 誉田別命
    西本殿 神皇産霊神 登美饒速日命 天児屋命

    速日命六世孫伊香我色乎命 『神名帳考證』
    天兒屋根命 誉田別命 『郷村社取調帳』
    高皇産霊神 神皇産霊神 天兒屋根命 誉田別命 『神社明細帳』
    饒速日命 『神社覈録』
    奈良県奈良市にある。薬師寺の西の方、奈良市と大和郡山市の境に鎮座。
    鎮座地名を木島村と言ったようで、通称は木嶋大明神。式内社・登彌神社に比定される古社
    五社殿の摂社は、どれがどれか分からないが、以下の通り。
    豊穂神社(大日孁神 豊受比賣神 天宇受女神)、荒神神社(大山祇神 庭高津日神)、
    山室神社(大物主神 菅原道真公)、比良田神社(猿田彦神 大己貴神 八重事代主神)、
    祓殿社(瀬織津姫神 速秋津姫神 速佐須良姫神 気吹戸主神 表筒男神 中筒男神 底筒男神)
    由緒
     木島明神と呼ばれていた。富雄川の東の富雄谷に鎮座、式内社である。
    矢田坐久志玉比古神社から分霊との説がある。饒速日命の降臨神話の白庭山の近くにあり、相当な古社の趣である。

    神社の由緒書には、皇紀2年、神武天皇がこの地に於いて皇祖天神を祭祀されたのがそもそもの淵源であり、その後、登美連が祖先である天孫饒速日命の住居地白庭山の近くであったこの地に奉祀したものとしている。


    http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/nagasune/nagasune1.htm
    上記のWEBページに
    大和國添下郡 登彌神社は、富雄川東沿岸の奈良市石木町に鎮座するが、その祭神のなかの一人に登美建速日命という神があり、同社の他の祭神からみて、この神が本来の祭神で登美彦すなわち長髄彦にあたると考えられる。中田憲信編の『諸系譜』第六冊所収の「長公系譜」には、建日別命という者が見えるが、この者こそ登美建速日命ではないかと考えられる。
    同系図では、建日別命は長国造(阿波南部)・長我孫や都佐国造(土佐)の遠祖であり、事代主神の孫に位置づけられる。その父を天八現津彦命(一云、観松比古命)とするが、又名の観松比古命は、「国造本紀」の長国造及び意岐国造の条には観松彦色止命と見えており、阿波国名方郡の式内社、御間都比古神社(ミマツヒコ。名東郡佐那河内村下モノミ石に鎮座)の祭神でもある。観松彦命は事代主神の子とされること、その子に「登美」に関係ある者がいること、その後裔に長国造・長我孫を出したことなどを考え合わせると、神武に立ち向かった長髄彦その人であろう。そして、「登美建速日命」が登美彦・長髄彦であるならば、建日別命はその父の位置にある天八現津彦命とも同人だということになる。
    長国造の領域は阿波国那賀郡の那賀川流域が中心であったが、その周辺には、勝浦郡の式内社の事代主神社や、名方郡の式内社の多祁御奈刀弥神社(タケミナカタトミ。名西郡石井町浦庄字諏訪に鎮座し、諏訪神たる建御名方命・八坂刀売命夫妻を奉斎)など三輪・諏訪一族に関係が深い古社が存在しており、これらの社も長国造一族が祀ったとみられる。
  • 千葉県印西市には小林の他、大森、平岡、和泉、小倉、中根、浦部にも鳥見神社がある。
    饒速日命を祀るものがほとんど。

    鳥見神社は印旛沼北岸内に集中して分布し、その範囲は古代の言美郷にも比定される。
    一説に大和国城上郡鳥見白庭山の鳥見大明神を勧請したとも言われ祭神には物部氏の祖神を祀る。八世紀初めに成立した「常陸国風土記」に景行天皇が下総国印旛郡の鳥見の丘より霞の郷を望んだとの古伝がある。・・・和泉鳥見神社社務所の張り紙より。
  • 千葉県印西町鳥見神社記録に、「大和国鳥見白庭山に宮居した饒速日命は,土地の豪族長髄彦の妹御炊屋姫を妃とし,宇摩志麻治を産んだ。その後東征し,印旛沼,手賀沼,利根川に囲まれた土地に土着した部下が,祭神の三神を産土神として祭り,鳥見神社とした。」とあり、関東地方を開発したのは饒速日命である。
  • 神武天皇に抵抗した長髄彦に連なる一族が、千葉に移動、伊勢津彦の一族が相模に移動か?
    鳥見神社、寒川神社など
  • 鳥見神社の祭神である饒速日命、宇摩志麻治命、御炊屋姫命に付いて
     この3神は夫婦とその子供として文献上に登場する。
     古代の出来事を記した古事記・日本書紀(以下記紀)の扱いと先代旧事本紀(以下旧事紀)ではその扱いがかなり異なる。具体的にその系譜を述べている旧事紀に対して、記紀の記述は非常に簡素でありその系譜に具体性に欠けており、それが論議の的にもなっている。

    富雄地区では王龍寺境内のトビ神社を白庭皇居、高樋の夫婦塚を長髄彦本拠と考えた
    夫婦塚は饒速日命の妻・御炊屋姫の塚ともいう


    櫛玉比女命神社
    祭神:櫛玉比女命   
    説明:境内案内板によりますと、       
    「延喜式にいう『廣瀬郡五座』のひとつで、いわゆる式内社の格を誇る。その位置は前方後円墳の後円部にあたり、埴輪片が出土す る。古墳と神社が結びつく例として注目される。祭神・櫛玉比女命は櫛玉彦命に配されるが、『大日本史』では、饒速日命の妃である御炊屋姫を当社祭神としている。 現在の本殿は春日造檜皮葺を銅板葺に改め、その前方に入母屋造  桟瓦葺、正面千鳥破風付きの拝殿を設けた江戸期の建築である」とあります。   住  所:奈良県北葛城郡広陵町弁財天399
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